東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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洩矢の国にて、朱雨は小さな崇り神と出会う。

 

 

 

 

 人の味方で居続けよう。薄れて消えるその時まで。

 

 

 

 

 暑い日差しが体に刺さる。肌という大地から水分が抜けていき、砂漠のようになっていく感触。身体が干上がっていくのを自覚して目を覚ませば、左右を行く兵士の影が異様に濃い。空を見上げてみれば、雲一つない快晴に信じられないくらい眩しい太陽が輝いていた。

 

 湿気た空気は暑さと混ざり、熱気となってまとわりつく。この島国、ひいては大陸まで続く温暖多湿の気候は、じめじめとした空気を生み、肌着がべったりと体にはりつく原因をつくりだしていた。

 

 御者台から身を乗り出して左右を見れば、まだ実を結んでいない幼い稲が水田の端まで並んでいる。天に向かって力強く起立する青々とした稲が、熱気を吹き飛ばす清涼な風に揺れた。ああ、もう夏なのだな――朱雨は懐から水筒をとり、乾いた体を潤した。

 

 洩矢の王国に入国してからそろそろ二時間ほどが経つ。整備された道を進み、何本か橋を渡った。途中、いくつかの分社があり、そこで簡略な参拝を行ったりもした。本格的な神への感謝は本殿で行うようだ。

 

 彼らがミシャクジ様と崇める神はここにいる。なにせ、国境の門から見えた蛇と蛙の特徴を持つ幻影が、この分社の上にいるのだから。国に入って分かった事だが、このミシャクジ様と呼ばれる幻影は分社の数だけいるようだ。それならば、本殿に祀られているのは一体何なのだろう。

 

 朱雨は『ミシャクジ様』の在り方を黙考する。因幡てゐから聞きかじった話によれば、ミシャクジ様そのものは古くから崇り神として存在していた。この島国に潜む、数多くの神々の一柱としてである。

 

 古い時代。まだ身分や村といった概念がない頃、人々は十数人単位で細々と生計を立てていた。食物を育てるという発想はなく、動物を捕獲したり果物の実る木から採取する事によって、日々の糧を得る。

 

 そういった栽培ではなく採取に頼った生活には安定性がなかった。狩猟は個人の腕により、狩猟が得意ではない集団では慢性的に肉が不足していた。森の恵みともいうべき果実にも限りはあり、周囲の果実を採り尽くしてしまえば住む場所を移さなければならない。

 

 常に放浪を余儀なくされ、安全な場所を造る事もままならず、一度妖怪や凶暴な獣に襲われればすぐに全滅してしまう。やっとの思いで新天地に辿り着いたとしても必ず食料があるわけではなく、飢えたまま息絶えていくのも珍しくはなかった。

 

 辛い生活、ままならない採取、上手くいかない狩猟、時として降りかかる数々の災厄。それらを克服するには、当時の人間はあまりに脆弱だった。最大の武器である知恵も満足に生かせず、今からでは計り知れない過酷な環境で生きていた彼らは、いつしかそれらを崇め奉るようになっていた。

 

 自然崇拝(アニミズム)。その辺りの木々や川、森と共に生きる獣や水に住まう魚、果ての見えない空や木々や川を支える雄大な大地など、そういった森羅万象、この世のありとあらゆるモノに対する信仰の誕生である。

 

 自然崇拝は当初、非常に数が多かった。なぜなら十数人単位の集団の一つ一つで最も崇め奉るべき対象が異なり、同じだったとしてもその信仰の仕方は多岐に渡ったからだ。それに、十数人単位の集団は数百にも及んだ事も関係しているだろう。ミシャクジ様もそのうちの一柱でしかなかったのだ。

 

 当時のミシャクジ様がどのような姿をしていたかは定かではない。文明がないといってい時代だ。記録など当然残っていないし、口伝てに伝えられた歴史もほとんどが記憶から消えてしまっている。ただ、ミシャクジ様は人々を生かす為に尽力した事は確からしい。

 

 だが、十数人程度の信仰では振るえる力も微々たるものだ。せいぜい疫病を退けたり、自然災害を少しそらす程度しか出来ない。それでも当時の人々にとっては十分すぎる力だったのだろう。

 

 しかしそれだけの力では、人を守りきるのは難しかった。事実、こうして生まれた数多の信仰は、そのほとんどが集団の崩壊とともに廃れて消えていったのだ。ミシャクジ様も、本当ならそうなるはずだった。

 

 ミシャクジ様は何度も消滅の危機を迎えた。食糧不足による集団の餓死、強い妖怪による虐殺、人智を超えた大自然の災害による絶滅。

 

自ら体を張って遠い場所から食料を運んで来た。敵う訳がない妖怪に挑んで、眼を潰され、腕や足を引き千切られ、抵抗も出来ずに凌辱され、それでも何とか追い払った。身を削り、命を削り、魂さえも削りとって、天変地異を何事もなく過ごしきった。心も体もボロボロになりながら、ミシャクジ様は人間を守るために持てる力の全てを尽くした。

 

 ――それでも、守れなかった者達がいる。自分の手ではすくいきれず、取りこぼしてしまった命がある。その度に、ミシャクジ様は人間達から恨みを吐かれ、憎しみをぶつけられた。どうしようもない理不尽に対する怒りを、愛する者を失った悲しみを、信仰する己が神を(おとし)める、弱い己を恥じる慙愧の念を。その一身に背負わされた。

 

 ミシャクジ様はそれを受け入れていた。報われない事が分かっていて、そうであっても人間を助けようとした。

 

 心が痛まなかったわけじゃない。特別、ミシャクジ様が強かったわけじゃない。ひたすらに他人の幸せを求める、自己犠牲主義者だったわけじゃない。ミシャクジ様は少し力が強いだけの、どこにでもいる心を持つ存在だった。

 

 ではどうして、ミシャクジ様は人間を守るのだろうか。傷つき、倒れ、(けな)されても、どうして人間を守もうと思えるのか。

 

 かつてミシャクジ様と対峙した妖怪の一人が、そう問い質した事がある。その時、ミシャクジ様は当たり前のようにこう答えたそうだ。

 

「私はそんな風に望まれたからそうするし、そうしたいから――人間を守るのだ」

 

 そのあと、ミシャクジ様は死の一歩手前までいって、その妖怪を退けた。そして、ミシャクジ様が守った人間は、感謝をせずに犠牲者を出した事を罵った。

 

 守りきれなかったのだ、仕方のない事だとミシャクジ様は受け入れている。しかし、このままではいずれ自身が消滅する事もしっていた。そうなれば、ミシャクジ様を崇める集団も脆く崩れ去ってしまうだろう。

 

 そうならないために、ミシャクジ様は考えた。どうすればもっと力をつけられる。どうすれば自分が消えずに済む。どうすれば―――自分を信じるみんなを守りきれる。

 

 そうして、ミシャクジ様は思いついた。そうだ、力が欲しいのなら、もっと信仰を増やせばいい。そのために、他の神を殺してその信仰を乗っ取ってしまえばいいのだ、と。

 

 幸か不幸か、ミシャクジ様にはそれにぴったりの能力があった。醜く浅ましい負の汚泥(おでい)、人間のおぞましき悪意の集積――他者を呪い殺す、崇り神としての能力が。

 

 ミシャクジ様は手近な神を殺し、残った人間の前に現れて新たな神を名乗った。お前達の信仰していた神は死に、新たに私となって生まれ変わったのだと、自分が殺した事をおくびにも出さずに。

 

 そうやってミシャクジ様は多くの神々を殺し、あるいは廃れてしまった神と自分を同一視させ、徐々に力をつけていった。信仰の乗っ取り、信仰の融合――洩矢の王国の祭神として君臨する今でも、自らのうちに取り込んだ信仰のなごりで全く別の呼ばれ方をする事もある。

 

 ミシャグジ、シャグジ、シュグジ、ミサグチなど。ミシャクジ様を指し示す呼称は数百にも渡り、その分求められる役割も多くなっていた。農耕の神として、蛇の神として、崇り神として――――

 

 現在のミシャクジ様が何かと問われれば、多くの者が偉大なるも(おそ)ろしい崇り神だと答えるだろう。国という概念ができ、国同士で戦争が巻き起こる今、ミシャクジ様は敵の為政者を呪い殺す事で終戦に持ちこんでいる。その噂が巷に及び、崇り神として有名になっていったからだ。

 

古い時代、信徒を守るために他の神を殺し、力を奪ってきたミシャクジ様。現在、民を守るために力を振るい、戦争で常勝無敗を誇っているミシャクジ様。これだけを見れば、ミシャクジ様の本質が呪詛にあるのではないのかと思うかもしれない。

 

 しかし、朱雨は違うと考えている。いや、崇り神としての姿が本来のモノであると考える一方、別の可能性も推し量るべきだろうと考慮している。

 

 ミシャクジ様を含めた、(いにしえ)から伝わる先住の神々たち。彼らは元々山や海などの雄大なものや、雷や嵐などの自然現象にいる『何らかの超自然的存在』として崇められた。その元を辿れば、それらは皆大いなる自然への崇拝なのだ。

 

 自然の内には、疫病や飢饉という形で崇りもあるだろう。しかし、それらは自然の一部でしかなく、自然の本質は、命を育み、受け入れるところにあるのではないだろうか。

 

 ミシャクジ様。洩矢の王国の祭神にして、多くの土着神話を取り込んだ土着神の頂点。望まれたからといって人間を守る事を受け入れ、自身が傷つきながらも黙して人間を守り続けた崇りの神。時に手段をかえりみないミシャクジ様の本質は―――ただ悠然と命を支える大地のように、なにもかもを受け入れる、その在り方にあるのかもしれない。

 

 ――不意に、ひときわ大きく馬車が揺れた。考え事に没頭していた朱雨はそのはずみに顔を上げて、馬車が止まっている事に気づく。視線を下にすべらせれば、こちらを向いた兵士が汗だくの渋面で「降りろ」と言っていた。

 

 国境の門からここまで二時間弱。炎天下の中を鎧を着こんだまま歩き通しだったのだ、暑さにうんざりするのもうなずける。朱雨は丁寧な口調で兵士をいたわり、もう一人の御者に水と大陸伝来の(あめ)を渡すように指示した。商品の宣伝と、兵士の心証を良くするためにである。商売の基本は信頼から、相手に信用されなければ商いは成り立たないのだ。

 

 太陽のような笑顔で御者からそれらを手渡され、勧められるままに口にした兵士の反応をみるに、どうやら好評のようだ。きゃいのきゃいのと話が盛り上がっている兵士達と御者を余所に、朱雨は短い階段の先にある鳥居を見る。

 

 見た目は普通だ。だが、一体を覆う空気が本来なら不要の六感を刺激してくる。敵意はなく、遠目から見られているような気配だ。参拝客に探りを入れているのだろうか、その値踏みをしている気配は、ほどなくしてなくなった。

 

(監視……というわけでもない。あれは私が危険かどうかを観察する気配だった。……当然か、崇め奉られる神ならば信徒を守る義務がある。私のような余所者には厳しい対応が必要という訳だ)

 

 見られたのは私だけではないようだし、と朱雨はちらりと連れの御者を見る。飛んだり跳ねたりと遠目でも分かるはしゃぎっぷりだ、あの様子では見られた事に気づいてないだろう。こっそりと観察する事は私もよくやる事であるし、と朱雨は認めながらも、気を引き締める。

 

 それに、ここは洩矢の祭神の領域なのだ。神の支配する領域に入る事は、いうなれば腹の中にも等しい。下手な騒動は慎むべきだな。朱雨が腕を組んでひとつこくりと頷いたところで、ようやく歓談を終えた兵士が参拝の説明を始めた。

 

 神社で参拝する時の作法と言うのは、各々の神社によって多少違いはあるものの、おおかたどこも同じようなものである。共通しているのは、神社へと続く階段から、鳥居、中道、本殿と賽銭箱の前に至るまでの間、決して道の真ん中を通ってはならない、というものだ。道の中央は神様の通る神聖な道、その道を堂々と闊歩するなど恥知らずにも程がある、という事らしい。

 

 境内は神聖な場なので、厳粛な空気を壊さぬように配慮する。つまり、場を弁えずにしゃべるな、という事だ。これはおしゃべり好きな連れの御者に徹底させる必要がある。

 

 常に感謝の念を忘れない事。神様と言うのは人の心まで見透かすものだ、下手な気持ちで参拝をしても御利益など得られない。こちらに関しては……もともと御利益に授かろうなどと考えていない朱雨なので、「感謝している」と騙し通せるかが重要のようだ。

 

 手水舎で手と口を清める事。これは参拝をする前に罪や穢れを払うために行う。穢れなど、朱雨は派生能力として操る事が出来るのだが、罪に関してはお手上げ状態なので素直にやっておくべきだろう。

 

 賽銭は投げずに丁寧に入れ、一切の雑念なく真摯に感謝と祈りをする。まあ、難しい事ではない。感謝と祈り以外の思考を全て停止させれば済む話だ。連れの御者には……間違いなく不可能だろう。

 

 二拝二拍一拝をすべし。この辺は神社によってまちまちだが、洩矢神社ではこうするようだ。

 

 参拝の作法はこんなものだろう。後は失敗しないよう気をつければいい。それと、連れの御者は明らかに作法を守る気がないので、物理的に叩き込んでおく必要がある。

 

 朱雨は服装を整えて階段を上がり、間違いのないように参拝の手順を踏んだ。後ろの方では頭に大きなたんこぶをつけた連れの御者が色々と文句を言いそうだったので、時々振り返って目で釘を差す事もした。

 

 貢物は階段を上がる前に兵士達に引き渡した。本当なら貢物を奉納するにはもっと多くの手順を踏んで参拝をしなければならないそうだが、朱雨達は余所者という事で洩矢の巫女が代わりに行うそうだ。こちらとしては余計な手間がかからないので、ありがたい話ではある。

 

 その裏にはこちらの立場を明確にする意図もあったようだが。洩矢の祭神、ミシャクジ様に献上された貢物は、洩矢の住人が奉納すべきであり、ただの余所者でしかないお前達は分を弁えろ、という事だろう。まあ、貢物なんて手数料のようなものだ。洩矢の王国に入る事が目的だった朱雨にとって、その辺りの事情なぞどうでもよいことである。

 

 さて、そうこうしているうちに本殿での祈りも終わり、参拝は終了した。後は自由に国を回ってよいそうだから、とりあえず人々が生活する町の方に向かおう。ついでに、馬は四頭もいらないから貢物として彼らに押し付けてしまおう。それなりに良い馬なので、彼らも喜んでくれるはずだ。

 

 本殿から戻る時に連れの御者が気を抜いてしゃべりそうになったので、握り拳を頭にくれてやる。そして、朱雨は鳥居をくぐって階段を下り――その時、白と紫の格好をした、目が覚めるような太陽色の髪の幼子(おさなご)と擦れ違ったような気がした。

 

 

 

 

   आयुस्

 

 

 

 

 人の営みというモノは早々変わるものではない。何かしらの技術革新が起きればその限りではないが、大抵はゆっくりと、少しづつ変化していくものである。

 

 そこに地方毎の文明の差があれば、人々が暮らす風景に既視感を抱くのも仕方のない事であり、何が言いたいかと言うと、洩矢の王国の町はかつて若藻と旅した首都などとあまり変わりないものだった。

 

 もちろんの事、彼らの生活が大陸の国々の生活と同じという訳ではない。服の意匠は違うし、建物の建築方法だって異なっているし、生活の文化も同じじゃない。しかし、何というべきか、彼らの町の活気というか、空気のようなものが似通っているのだ。その空気は、朱雨に懐古の念を抱かせてくれる。

 

 今、若藻はどこで何をしているのだろうか――想像しても答えの出ない問い掛けだ。こんな問答を自分にするなんて、らしくないと朱雨は思う。まあ、今は会えない知人の事を考えるのは、そう不愉快な事ではなかった。

 

 そう昔を懐かしみながらも、それはそれとして、朱雨はせわしなく手を動かしていた。荷台から細いつっかえ棒を出したり、藁ぶき屋根を出したり。とりあえず店の体裁を整える為に必要な物を取り出している。

 

 その周りは喧騒で満ち溢れていた。道行く人々の話し声、パンパンと両手を叩きながら大声で宣伝をしている商人、展示している商品の一部を無料販売している客寄せなど、活気に満ちた喧騒だ。

 

 朱雨達が入国したこの日は、丁度月に一度の大規模な市場が開かれる日だった。明け方から準備を行い、完全に晴れてから日が沈むまでの間、普段は静かな通りが人込みでごった返す。朱雨達は昼前に到着したので途中参加という形だ。

 

 基本的に市場というのは、一種の戦場であると考えた方がいい。東西問わず、遠方からはるばるやってきた腕に覚えのある商人達が、商売という戦いの中で(しのぎ)を削る。客寄せのパフォーマンスや他に類を見ない珍しい商品。思わず買いたくなってしまう口八丁手八丁で丸め込み、何も言わず自身の商品に絶対の自信を以て泰然と構える。

 

 そんな商売で準備に乗り遅れるのは致命的と言っていい。何せ準備をしている間に客が買いたいものを大方買って、いざ開店したらもう客が一人もいないからだ。いくら良い商品を揃えたところで、買ってくれる客がいなければ意味がない。そういった見方でみれば、朱雨のやっている事は徒労以外の何物でもないのである。

 

 朱雨自身、それが徒労で終わってもいいと考えている。朱雨の目的はあくまでミシャクジ様の観察にある。商人として入国したのは、それ以外に方法がなかったからだ。だから持ってきた商品が一つも売れなくてもいいのだ。この商売が朱雨の生命に直結しているわけでもないのだし。

 

 しかし、一応商人として入国した手前、商人として活動しなければならない。形だけでも店を開いておかなければ怪しまれる要因にもなる。だから、今こうして大急ぎで開店の準備をしているのだが……

 

「いやー、助かりましたよ! あなたがいなければ私はどうなっていた事か! 本当にありがとうございます!」

 

「……ああ、それはもう分かったから、口ではなく手を動かしてくれ」

 

 こういった力仕事をさせるために雇った連れの御者が、全然働いてくれない。先程からなんやかんやと一方的にしゃべって、その度にお礼を言うのを延々と繰り返している。その間、手は一切動いていない。

 

「しかしすごい所ですねー! 私もいろんな国を見てきましたが、この国も負けず劣らず活気に満ちています! 見たところ美味しそうなものもいっぱいあるし、強そうな人たちもたくさんいる! 私にしてみれば夢のようなところですよー!」

 

「……もういい、口は開いたままでいいから、手も一緒に動かしてくれないか」

 

 連れの御者は周りの商売敵たちを見回してテンションが上がっているようだ。店頭に並ぶ食材に子供のように目を輝かせて、屈強な護衛を見る度にピョンピョンと飛び跳ねている。それに合わせて紅玉(ルビー)のように煌く長い紅髪が美しく揺れているのだが、今は見惚れている暇がない。

 

 彼女が手伝わないせいで一向に(はかど)らない開店準備に、朱雨は首を振って仕方なく譲歩の言葉をはいた。ただでさえ市場に乗り遅れているのだ、これ以上の遅延は避けたい。

 

「やや!? あれはまさか、まさかまさか八塩折(やしおり)()(さけ)!? この島国で有名な、八つの首がある巨大な蛇があまりの美味しさにがぶ飲みして、酔っぱらってしまうくらい美味なお酒ですよ! その味は一滴で口いっぱいに広がるくらい濃厚で、深みと重みがあるものの清く滑らかで、それでいてどんな果実でもこの酒の前には霞むと言われるくらいたっぷりと芳醇な甘さがあるそうですよ!! あ~、飲みたいな~!」

 

 ……そうだというのに、朱雨の言葉に耳を貸さず、彼女は酒なんぞに心を奪われている。たくさんの商品が並ぶ中で一際輝いているその酒に目を奪われるのも仕方ないし、上気した頬に手を当てて、うっとりと熱を持ったため息をはく彼女が眼福でないわけがないが、朱雨がそんなもので誤魔化されるわけがないのだ。

 

「…………ハア。どうして私は、こんな奴を雇ったのだろうか」

 

 朱雨は己の愚行を恥じた。いくら成り行きとは言え、こんな使えない奴を雇うんじゃなかったと。朱雨は無言で立ち上がり、ギリリと音がするくらい拳を固めた。『仏の顔も三度まで』だ。この界隈はそうである事を、身を以て知って貰わねばなるまい。

 

 一方、自身に迫る鉄拳制裁の危機に気づいていない彼女は、いい事を思いついたと手を叩いた。

 

(朱雨さんは優しい人だから、きちんと頼んだら買ってくれるかもしれない!)

 

 あとおつまみとかも! なんて妄想でえへへと笑う彼女は、不意に辺りが暗くなったのに気付いた。太陽は自分の後ろにあるので、たぶん朱雨さんが後ろに立っているんだろう。じゃあ頼んでみよう! と彼女は満面の笑顔で「朱雨さーん♪」と振り返って、そのままビシリと固まった。

 

 逆光で顔が見えない。普段から何を考えているか分からない人だが、その無表情も見えない今は変に恐い。というか、血管とか骨の鳴る音とかが朱雨の横からばりばり聞こえてくるせいで怖い。

 

 彼女は上を向いた唇の端をひくつかせて、すごい量の脂汗を流した。まずい、なんだかわからないけどすごく怒ってる! 焦った彼女があわあわと何かを言いかけ。

 

 昼下がりの喧騒に、鈍い音が少し混ざった。

 

「いっつ~~~~!!」

 

 頭がかち割れたと思うくらいの強い一撃に、彼女は殴られた頭を押さえて地面にうずくまる。痛みを堪えるようにプルプルと震える彼女は、涙目になりながら朱雨に抗議した。

 

「い、一体何するんですか!? いきなり殴るなんてひどいですよ!」

 

「ひどいかね? きちんと金を払った挙句に職務を投げ出された私の方が被害の度合いは大きいのだがな。それでも、ひどいと言うつもりか、紅美鈴(ホンメイリン)

 

「う~……で、でも!」

 

「でもじゃない。文句は働いた後で言え。それと、ちゃんと働けば褒美も出す。例えば、あそこで販売している他と価格が三桁も違う高い酒とかな」

 

「え、本当ですか!? だったらじゃんじゃんばりばり働きますよ!」

 

「…………ハア」

 

 ぱあっと目を輝かせた美鈴は腕まくりをして店舗の設置に没頭し始めた。自分がやっている時以上にテキパキと進んでいく作業を前に、朱雨は「一応、優秀なのだがな……」ともう一度ため息を吐いた。

 

 紅美鈴と会ったのは少し前だ。その時、貢物と商人に擬装する為の準備を行っていた朱雨は、商品を調達する道すがら、倒れていた美鈴と遭遇した。以下、その時の会話を抜粋する。

 

「……………………」

 

「……うぅ……み、水を……」

 

「……さて、仕立て屋があるのはこの先にある国だったか。急ぐとしよう」

 

「……ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ~……」

 

「何かな? 私は現在、目的を果たすに必要な物品を調達している最中だ。お前のような者に、構っている暇はない」

 

「ひ、ひどい……あの、それなんですが、無理を承知でお願いしたいんです……どうか、一杯だけでもいいですから、水を恵んでくれませんか……? 食べ物をつけていただければもっと嬉しいです……どうか、この通りですから……」

 

「この通りと言われてもな。うつぶせのまま手を合わせているだけじゃないか。他を当たってくれ」

 

「あの! 態度が気にさわったのなら謝ります! どうか、どうかこの通りですから、食べ物をください!」

 

「そうか。土下座する元気があるなら、自分でなんとか出来るだろう。この先に小さな集落がある、そこで食糧でも飲料でも好きなだけ買うがいい。では、私は急いでいるのでもう行かせてもらう」

 

「待ってください! 私にはお金がないんです! ここに来る途中でお金に困っている人たちがたくさんいて、その人たちに少しづつ配ってたらなくなっちゃって、その人たちのところで一晩すごさせてもらったら持ってた物も全部なくなってたんです! その人たちもいなくなってるし、お腹も空いて喉もカラカラになって、困っていたところに貴方が来たんです! 私にはもう貴方しか頼れる人がいないんですよ~!」

 

「……いや、どう考えても賊の類だろう、そいつらは。……しかし、どうしたものかな。貢物は大量に用意せねばならないし、商品も入れるとかなりの量になる。人手を欲していたのも事実。それにこいつは………………おい待て、一体何を食べているんだお前」

 

(ふぇ)? 何って(ふぁふぃっへ)ここにあったご飯ですけど(ほほふぃふぁっふぁほはんへふへほ)…………(ふぁ)ああ(ふぁあ)――――――!?」

 

「勝手に食べたのか…………呆れ果ててなにも言えん」

 

「す、すみませんすみません!! 我慢できなくてつい、本当に申し訳ないです!! あ、あとこの干し魚おいしいですね!」

 

「……まあいい。幸い大陸まで足を運んで手に入れた物には手を出していないようだし。食べられた物は後で調達できるものだ」

 

「じゃ、じゃあ許してくれるん」

 

「それとこれとは話が別だ。倒れるほど空腹だったとはいえ、私の荷物を勝手に消耗したのは許されない事だろう」

 

「じゃ、じゃあどうすれば許してくれるんですか!?」

 

「簡単だ、等価交換という形にすればいい。私の荷物の価格分、お前には肉体労働で返してもらう。具体的には、」

 

「わ、私の身体で返すんですか!? そ、それってもしかして……す、すけべ!」

 

「……頭が痛くなるから、私の話が終わるまで黙っていてくれ。具体的には、私の荷物を運ぶ手伝いをやってもらう。これから多くなる予定でな、人手が必要だったんだ。それと、道中の護衛も頼みたい。腕には自信があるのだろう?」

 

「は、はい、分かりました! 全力で引き受けさせていただきます! ……あれ? 私、武者修行の旅の途中だって言ったっけ?」

 

「ああ、名前も教えておくべきだな。私の名前は神亡朱雨だ。お前は? 見たところ大陸の出のようだが」

 

「あ、はい、私ですか? 私は紅美鈴といいます。今は武者修行の旅に出ていて、強い人たちと戦ったり戦わなかったりしてます」

 

「そうか。やはりそうなのか」

 

「え? えっと、何がそうなんですか?」

 

「いや、なんでもない。これからよろしく頼む、紅美鈴」

 

「美鈴でいいですよ~。私も朱雨さんって呼びますから! ところで――もう一つ、干し魚を頂いてもいいでしょうか?」

 

「…………。勝手にしろ」

 

 と、こんな感じで朱雨は紅美鈴と出逢い、なし崩し的に旅の友にする事にした。洩矢の王国に来る、大体一カ月前の話である。途中で美鈴が予想以上に有能だったので、こちらから給料を出すようになったり、仕事をしない時には鉄拳が一番だと理解したりと、色々とあったのだが割愛しよう。

 

 美鈴は五分ほどであっさりと店舗を作り上げてしまった。店舗と言ってもそう大仰なものではなく、御座を敷いてその上に商品を並べて、つっかえ棒で日よけの藁ぶき屋根を立てただけの簡素なものだ。

 

 では早速、商品を売り出すとしよう。そう思って朱雨は藁ぶき屋根の下に入ろうとしたのだが――ぐううううっと、腹の虫の大合唱が横から聞こえてくる。見れば美鈴が「たははは~」とお腹を押さえて恥ずかしそうに笑っていたので、朱雨はため息とともに小銭袋を差し出した。

 

「これで好きな物でも買って食べてこい。店番は私一人で充分だからな」

 

「本当ですか!? やった!」

 

 美鈴は万歳して喜んで、そのまま走り去っていった。たぶん、市場に入る時に目をつけていた物でも買いに行ったのだろう。たぶん、しばらくは戻ってこないな。美鈴の性格を分析して、朱雨は店番をしながら観察する事にした。

 

 ――緩やかに、人が流れていく。右から左に、左から右に。寄り添って歩く老夫婦や快活に笑う子供たち。ちょっと険悪そうな若い恋人や、店をひやかしながら大声で話す幾人かの若者たち。

 

 人の流れを見れば、この国がどんなものかが良く分かる。人がせわしなく歩いていれば仕事に追われている。無言のままで集団を作っていれば、排他的である事が分かる。人の流れがなければ、国そのものが弱っている。

 

 そういう視点で見れば、この国は中々に素晴らしい。活気があるし、来ている服の水準も高い。時々子供がおつかいをしている姿もあるから、優秀な人材も多そうだ。おしむらくは、こうも高い国力を持つのに、祭神のおかげで戦争がない事だろう。

 

 戦いは生命を進化させる。それが基本概念である朱雨には、平和はあまり歓迎できない。もちろん、平和な世の中では生命が発展しないから、という事ではない。人間ほど知能が高ければ、血を流さない争いなどいくらでも湧いて出る。ただ、命のかかった戦争ならば、進化の効率が一番いいのだ。如何(いか)なる生命であろうとも、命を賭ける事以上に能力を極限まで出せる状況下はないのだから。

 

「――ねえ、お兄さん。これ、いくら?」

 

「……ん? ええ、こちらはですね――」

 

 いつの間にか客が来ていたらしい。朱雨は思考を切り上げて、商人としての対応をとろうとする。だが、その言葉は途中で止まってしまった。

 

 目の前に、美しい少女が立っている。キメの細かい滑らかな肌、ほっそりとした綺麗な手足。好奇心が透けて見える琥珀(こはく)の瞳。そして、太陽色の綺麗な髪と、たけが短く振袖が長い白の着物と、その上に紫色の壺装束。

 

 なるほど、そういう事か。朱雨は営業用の笑顔を消して、普段の無表情に戻った。相手がそのように来たのなら、こちらもそうすべきだろう。厳粛である必要はないというわけだ。

 

「ふむ、何用かな」

 

「何用って、今はただの買い物よ。それよりも、これはいくらなの? さっき(つわもの)に配ってたやつ」

 

 朱雨の言葉を軽く流して、少女は店頭の一角に展示されている商品を指さした。そこにあるのはきらきらと光る丸い飴がいくつも入っている。

 

「そいつは飴という菓子だ。価格は三つで貝銭一つ分だよ」

 

「へえ、安いんだね。じゃあはい、お金。兵の話聞いてたら甘かったって言ってたから気になってたんだ」

 

 少女は貝銭を置いて飴を三つとり、一つを口に入れた。味を確かめるようにコロコロと口の中で転がしていると、甘さを感じたのか笑顔になる。

 

「あまーい! ねえねえ、これどうやって作ったの?」

 

「あいにくと、そいつは大陸の方で買い付けた品でな。製法は知らん」

 

「そうなんだ……でも、気に入ったよ。この飴ってやつ、全部買っていくね」

 

「好きにしろ」

 

 朱雨は後ろの方から革袋をとって、その中に展示している飴を全部入れてから少女に差し出してやる。数十枚の貝銭を渡して、少女は革袋を嬉しそうに抱きかかえた。

 

 少女は上機嫌に鼻歌を歌いながら、二つ目の飴を口に含む。「あ、これ味が違うんだ」と驚き半分、嬉しさ半分といった感じだ。そして、そのままそこにしゃがんだ。

 

 それを朱雨は咎めない。ただ、少女を観察している。身体の構造、言動、振る舞いなど。そのじーっと食い入っている視線に気づいて、少女は頬を赤らめて大きな袖で膝を隠した。

 

「お兄さん、私みたいな子供をジロジロ見つめるなんて、へんたいみたいだよ?」

 

「そう言われてもな。私の目的は観察にあるから、視ない事には話にならない」

 

「観察が目的……? 私みたいな子供の観察が? それじゃあやっぱりへんたいじゃない」

 

 一瞬、少女の目が険しくなる。やはりそういう意味か。朱雨はそのまま言葉を繋げた。

 

「言葉が足らなかったな。性的な観察ではない、この国の文化や生活、そして祀られる神がどのような存在か、興味があったから見に来たんだ。私自身の目的の為に。それと、お前のようなモノはまかり間違っても性欲を向ける対象にはならない」

 

「へ、へえ……まあいいや。ところで、その目的ってなんなの? お兄さん」

 

 情欲をそそられないと面と向かって言われたせいか、少女の笑顔に少しひびが入ったような気がした。それもすぐに消えて、探るように言葉を紡ぐ。

 

「純真たる生命への進化。それだけを私は望み、その為だけに生きてきた。それ以外に望みはない」

 

「でも、その望みを叶えるためなら、何でもする?」

 

「必要ならば。だが、今のところは観察以外の事を行う理由がないな。私は私と同じ種族以外には性欲を向けない。侵略にしても和平にしても、前者は今以上に利益を得られるわけではないし、後者は成功しないだろう。それに、私の手が入った生命の行く末など見ても仕方ないさ。私が見たいのは、あるがままの生命だけなのだから」

 

 朱雨はいつもの無表情のままで言い切った。少女は、しゃがんだまま口に手をあてて何事かを思案している。だが、それもすぐに終わるだろう。朱雨は嘘などついていないし、少女にもそれが分かるだろうから。

 

 予想は当たり、少女は一回頷いて、にっこりと笑って立ち上がった。その笑顔を見るに、朱雨の目的は正しく伝わったようだ。そしてそれは、朱雨が気兼ねなくこの国を観察できるという意味でもある。

 

「そっか……ありがとうね、お兄さん」

 

「礼を言われる事ではないさ。むしろ、感謝すべきはこちらの方だ。時に――ミシャクジ様よ、どうして私が人間ではないと理解出来た」

 

 朱雨は身振りも交えずそう言って、今度はこちらが質問する番だ、と目の前の少女に観察の目を向けた。たいして少女は、朱雨の言葉にきょとんとした顔をした後、何かおかしかったのか唐突に笑い出した。

 

「そっか、そうだよね。崇める神が本当は誰かなんて、普通分かんないもんか。特に国の外の人だとそうだよね。ごめんごめん、それ、私の名前じゃないんだ」

 

「……? では、本当の名前は?」

 

 朱雨は驚きもせずに、内心で事前情報と合致しない理由を模索する。ついでに疑問をそのまま口にした。

 

洩矢(もりや)諏訪子(すわこ)。それが私の名前よ。ミシャクジ様って呼ばれているのは私の分身で、それを統括しているのが私」

 

 少女は胸を張って答えた。洩矢諏訪子。聞いたことのない名前だ。少なくともこれまでの事前調査では出てこなかった。それに、ミシャクジ様と呼ばれる神は諏訪子の分身という。では、ミシャクジ様から洩矢諏訪子となったのか? それともミシャクジ様を洩矢諏訪子という第三者が吸収し、裏で操っていたのか?

 

 朱雨は洩矢の祭神に対しての認識に推測がからんでいるのを自覚する。ならば百聞は一見にしかずと目の前の少女、洩矢諏訪子に聞いてみる事にした。

 

「分身、統括……失礼、友人の話では、洩矢の祭神は誕生の黎明期からミシャクジ様として存在していたと聞いている。そのミシャクジ様とお前は同一存在なのか」

 

「うん、そうだよ。私も昔はミシャクジ様って呼ばれた、力の弱い崇り神でしかなかった。だから反則をして力をつけたら、神様として求められる力がたくさん増えちゃってさー。それで神様としての力を分けたら、そっちの方がミシャクジ様って呼ばれるようになっちゃった」

 

 信仰は私にくるからいいんだけどねー。と洩矢諏訪子は楽しそうにいう。道理で、諏訪子からあまり神力を感じない筈だ。今は分割されているから、本体が十分な力を持っていないのだろう。それでも、こうして国の中を誰にも(さと)られずに歩き回れるくらいは出来るようだ。

 

 ふむ、と朱雨はこくりと首を上下に振って納得した。朱雨が納得したのを見届けた洩矢諏訪子は「じゃあ、さっきの質問に答えるね」と前置きする。

 

「私がお兄さんの正体に気づいたのは、私に『坤を司る程度の能力』があったから。私はこの能力を使って、土壌を良くしたり地震を押さえたりしてきた。そうやって大地を操れる私には見えるんだ――お兄さんの中に在る、途方もない広さの大地が」

 

 途方もなく大きな大地。それはおそらく血界内で生成した、絶滅した動物のサンプルを保管する地球の事を示しているのだろう。

 

「成程、納得した。そればかりはどうしようもないか」

 

 八雲紫の諌言を守って人間と同等の生活を始めてから、人間でないとばれるのはこれが初めてだ。だからその理由を聞いてもっと高度な擬態を作ろうとしたのだが、流石にそこまでは騙しきれないので、擬態の進化は諦める事にする。

 

 残念だ、ととても残念そうには見えない無表情の朱雨が呟くと、洩矢諏訪子がジト目で睨んでいる事に気づいた。

 

「うん、どうしようもないよ。私だって気づいた時には吃驚したわ。だってこの世界よりも大きい大地が、私の国の前でうろうろしてるだもの。あんなものが攻めてくるかと思うと怖くて怖くて、夜も眠れなかったんだから」

 

 そう言って頬をふくらませる洩矢諏訪子の様子を見る限り、寝不足等で不調を起こしているようには見えない。たぶん、その恐怖する役割をミシャクジ様のどれかに押し付けたのだろう――それで冷静な判断が出来るなら賢明な事だと、朱雨も中々ひどい結論を出した。

 

「それは仕方のない事だと諦めてくれ。私も正体を覚られない努力はしているが、どうしようもない事もある」

 

「私も見破らなきゃ良かったよ~。この能力がなかったら、お兄さんはどうみても普通の人間だったもの。お兄さんは無害だって分かっても怖いものは怖いんだよ~」

 

 それもまた、仕方のない事だ。朱雨は子供のように振る舞う洩矢諏訪子にそう言って、ちらりと喧騒の奥を見た。あれからそれなりに時間がたっている。そろそろ戻ってくる頃だろう。

 

 それに洩矢諏訪子も気づいたのだろう。朱雨と同じ方向を見て、「んー」と唇に指を当てていた。そして、一切の邪気のない清らかな笑みを浮かべた。

 

「あ、そろそろ連れの人も戻ってくるみたい。じゃあ、私もこれでおいとまするね。じゃあね、お兄さん。最後に名前聞いてもいいかな?」

 

「神亡朱雨。ではな。洩矢諏訪子」

 

「あはは、諏訪子でいいよ。あとね、私を観察したいなら、もう少し後でこの国に来るといいわ。きっと、貴方の望むものが見れるから。そうなっても、私は――絶対に諦めないけどね」

 

 大きく手を振りながら、諏訪子は人混みの中へ走り去っていった。その数分後、やたらと服をつちぼこりで汚した美鈴が最高の笑顔で帰ってきた。嫌な予感が朱雨に駆け巡る。

 

「ただいまです、朱雨さん! お昼ご飯、とっても美味しかったです! それと悪さしている人たちがいたので、ちょっと懲らしめてきました!」

 

 びしいっ! と美鈴はなぜか敬礼して、大声で厄介な事を叫んでしまった。ああ、やはりそうなのか、と朱雨は頭痛をおさえるように手で顔を覆う。誰かを探すようにキョロキョロと辺りを見回す美鈴をよそに、朱雨は静かに立ち上がった。

 

「あれー? おかしいなー、さっきまでここに人が居たはずなんだけど……朱雨さん、話してましたよねって、ええ!? しゅ、朱雨さん!? どうして拳を振り上げているんですか!? 私、何か悪いことしましたか!? ちょ、ちょっとは何か喋ってくださいよ~! 黙って近づかれるとすごい怖い……いったあああああああ!!!」

 

「厄介事を起こすな、この愚か者が!」

 

 その後、美鈴の起こした騒ぎを聞きつけてやって来た兵士達に、朱雨は何度も謝り通す破目になってしまった。「諏訪子の気配に気付けるくらいには、優秀な奴なんだがな……」と朱雨は美鈴を評価しつつも、後先を考えない者と総合評価をマイナスにする。

 

 まあ、あまり構う必要もない。美鈴に求めているモノは、そもそも労働力ではないのだから。

 

 朱雨は隣で一緒に謝っている美鈴に、そっと観察の目を向ける。冷たく、静かに、僅かな間。やはり、気づく。美鈴もまた、こちらに鋭い視線を向けた。だが、それもすぐに元のへにゃりとした目に戻る。視線に気付けても、朱雨からのものとは気づかなかったようだ。

 

 それでも、朱雨の観察する目に気付けるだけでも大したものだ。紅美鈴は優秀な存在で、それだけに珍しい。

 

 これほどまでに強いのに、これほどまでに人間と近しい妖怪は、とてもとても珍しい。

 

 今までにない『例外』だ。朱雨は時折観察の目を向けては、美鈴の観察記録を更新していく。その視線はどこまでも冷厳で、人間味を感じさせないものだった。

 

 

 

 

 嵐は近い。その時を、朱雨は静かに待っている。

 

 

 

 

 


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