東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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聖地にて、朱雨はとても面倒になる。

 

 

 あらゆるものは別たれている。だからと言って、解り合えないわけではない。

 

 

 

 

 世界は可能性で出来ている。有り触れた事、在り得ぬ事、或る筈がない事。誰にも知り尽くす事の出来ないこの世界は、大抵この三つの要素で説明出来る。

 

 有り触れた事。それは雨であり、風であり、雲であり、波である。ごく当たり前に起こる現象、起こらなければならない事象。この星が生きていく上では欠かせない、呼吸のような繰り返しを、人は有り触れた当たり前だと評価した。

 

 在り得ぬ事。それは神であり、悪魔であり、仏であり、妖怪である。普通は誰にも認識されない、莫大な力を持った人外たち。彼らは自らの性質を喜び、慈愛と共に、殺意と共に、人に接していこうと決めた。

 

 或る筈がない事。それは異物であり、異界であり、異常であり、異人である。元来世界に存在する筈のない、正真正銘の異なった者達。彼らが何を目的に世界に入り浸るのかは、未だ判然としない謎の一つだ。

 

 大抵の場合、この三つの要素は下に行くほど遭遇する確率、存在する可能性が低くなる。一部地域や時代によっては逆転する事例もあるが、大多数からみればそれはごく少数だ。三つの要素の可能性は、その確率を揺るがさない。

 

 しかし。世界にとって実は、可能性や確率というのはあまり意味をなさないのだと、知る者はとても少ない。『世界』という大きな枠組みから見れば、存在する確率が99%だろうが刹那よりも少なかろうが、0でなければ等しく同じ「可能性」なのだ。

 

 そう、有り触れている世界、在り得ない世界、或る筈のない世界。そういった「もしも」という言葉で片付けられる多様な世界群は、限りなく近いにしろ限りなく遠いにしろ、0ではない「可能性」を有している。だから、『世界』はその全て受け入れているのだ。

 

 一つの話をしよう。かつて地上で暮らしていた元人類たちは、自らの起源に関して三つの主張をしていた。一つは無から生まれ、一つは神に創られ、一つは宇宙からやってきた、というだ。

 

 結局この話は最後まで解明されなかったものの、少なくとも人類の起源にはこの三つの可能性があるという結論に達している。さて、では一体何が正解なのだろうか? 人類の起源、人間という霊長の王は、一体どのようにして誕生したのか。

 

 その答えは全てが正解、というものだ。そしてより正確にいうのならば、もっと数多くの方法で人類は誕生している。『世界』に存在する人類はみな全く同じように見えて、その実全く違う仕方の誕生をした人間達の総称なのだ。

 

 『世界』は一つではない。『世界』とは数限りない可能性を収束し、飲み込みきれない可能性を異界として吐き出した結果だ。それは、無数の世界を重ね尽くした果てともいえる。

 

 世界は可能性で出来ている。故に起こり得ない事象はなく、存在しないモノはない。だがそれ故に、絶対が相対するという矛盾も起こりうる。

 

 今回は、そのうちの一つの話をしよう。間違いなく唯一神である、数多の神々の一柱。その御子である救世主を観察した、血の異形の断章を。

 

 

 

 

 ローマ帝国ユダヤ属州、ガリラヤ地方。ローマ帝国皇帝属州といえどユダヤの名を冠するだけはあって、属州に住む人間の内、多くはユダヤ人だ。かつてはユダヤ人の王国があったが今では解体され、現在はローマ皇帝が派遣した総督役が支配を任されている。

 

 ガリラヤ地方はそのユダヤ属州の北にあり、肥沃な大地と緑豊かな自然に囲まれた過ごしやすい土地だ。それだけにその好条件に魅せられるものも多く、移民が絶えない。現在ではユダヤ人は住む人間の三分の一に留まり、残りは異邦人という中々にカオスな状態である。

 

 それだけに住人達は異邦の民に慣れており、奇抜な外見をしていても気にとめる者はそう多くはなかった。そう、その中に黒く紅い長髪が混じっていても。

 

 掘立小屋の住宅地を練り歩きつつ、朱雨は腰の水筒に手をやった。温暖な気候のため中の水はぬるくなっていたが、その方が体に負担がかからないので気にせず口につける。まずい。

 

 やはり純水は美味くないかと、朱雨は自分の体内から抽出した水に評価をつける。二、三度喉を鳴らしてから、朱雨は水筒から口を離した。

 

 右へ左へふらりふらり、人混みを縫ってジグザグに歩く。黒白赤に金色に、清廉な法衣から奇抜な異装まで。視界を埋める色素バランスの違いによる様々な髪の色と、生まれ育った文化が垣間見える服装の数々は見ていて飽きないものだが、どれも朱雨の興味を引くに至らない。

 

 住宅通りを一通り見回った朱雨は、今度は市場へと向かう。その間の短い道でも擦れ違い様に盗み見ては、こいつも違うと次の人間に眼を向ける。どうやら朱雨は、誰かを探しているようだった。

 

 道行く人を脳内の情報と照らし合わせては一致していないと確認するうちに、朱雨は開けた場所に出た。視界いっぱいに飛び込んでくる青空はどこまでも広く澄んでいて、それを(かげ)らせる白雲は一つもない。左右にはガリラヤ地方の恵まれた自然が青々と茂り、生命の力強さを強く朱雨に叩き込んでくる。

 

 そして、その間にはガリラヤ地方の象徴とも言うべき深い湖が横たわっていた。ガリラヤ湖と呼ばれる地平の果てまで続く雄大な湖。美しい水の精霊に祝福を受けたような壮麗さは、まるで天然の瑠璃(ラスピラズリ)を溶かして流し込んだかと思えるくらいだ。周りの素晴らしい景色とも相まって、その光景は心打たれる感動を与えてくれる。

 

 さしもの朱雨も、初めてこの景色を望んだ時、思わず足を止めて見入ってしまった。大いなる連鎖によって結ばれた自然が織りなす唯一無二の光景。全身にひしひしと伝わってくる圧倒的な命の力。それこそ、朱雨が望み、求め、失った世界だったのだから。

 

 朱雨はその場に立ち尽くして、その光景に目を細めた。初めてガリラヤ湖を見た移民は大概そんな反応をするので、朱雨を(いぶか)しむ人は一人もいない。通行の邪魔だと眉間に(しわ)を寄せる短気な船乗りがせいぜいだ。一分ほど景色を眺めた朱雨は、そのまま市場へと向かった。

 

 市場はガリラヤ湖のすぐそばにある。というのも、ガリラヤ湖は交通の要になっているからだ。近くに他国を結ぶ街道の道筋に位置していたので、交通の手段としてガリラヤ湖を船で渡り、あるいは交易の為に品物を運ぶ。ガリラヤ湖を経由してそのまま遠方へ行くにせよ、商売の為に近くの都市へ足を運ぶにせよ、大体の商人が港でも販売できるような品物も一緒に運ぶ。それで港には自然と市場が立つようになった。

 

 市場はさっきの住宅通りよりも更に人が多い。ユダヤ人がまだちらほら見えた住宅通りとは違い、遠方からはるばるやって来た旅の商人や、肥えた豚のような腹を丸出しにして豪快に笑う、見るからに金を持った豪族など、もはやどこの国にいるのか忘れそうになるくらい豊富な人々が揃っている。

 

 ここならまあ、いるかも知れない。朱雨は一定の期待を抱いて、市場に足を踏み入れようとして、いきなり目を見開いた。

 

 チリチリと、普通は持ち得ない六番目の感覚が焼かれている。どこかで強大な力が使われ、漏れ出た余力が火の痛みとなって第六感を焦がしている。有無を言わさない審判のようなこの痛みは、間違いなく神の力だ。

 

 すぐさま朱雨は感じたくもない第六感に身を任せ、神力が行使されている場所を特定する。そう遠くはない。ガリラヤ湖近くの――墓地のようだ。

 

「いよいよ御対面、というわけだ」

 

 言いようのない第六感から通常の五感を取り戻した朱雨は、すぐさま墓地へ向かう、と思ったらなぜか反対方向へ歩き出した。そちらには墓地どころか民家もない、ただ森が広がっているだけだというのに。

 

 そして、朱雨は森の中に消えていく。直後、一瞬だけ(あか)い何かが閃き、朱雨が出てくることはなかった。

 

 

 

 

    आयुस्

 

 

 

 

 ナザレのイエス。宣教を始める前はナザレで暮らしていた事からそう呼ばれている。生まれはベツレヘムで、天使によって受胎告知されたらしい。宣教を始める前までの活動内容は不明。現在はガリラヤ湖周辺にて宣教をし、数々の奇跡を起こしている――

 

 というのが、朱雨が集めた情報だ。老若男女、身分差を問わず情報を収集したため玉石混交であり、精度はいま一つだが、少なくとも奇跡を起こした事は間違いないらしい。奇跡の詳細も、不明ではあるのだが。

 

 だから調べる。観察し、この眼で確かめる。分からない未知を、分かりやすい既知へと置き換える。そのために朱雨は、ガリラヤへやって来たのだ。そして今、神の子とされるナザレのイエスは、朱雨の目の前にいた。

 

「――あれが、神の御子か」

 

 ナザレのイエスは、痩躯の男性だった。肩甲骨あたりまで届くウェーブのかかった黒髪に、優しさを秘めた慈愛の目。手足には少なからず筋肉がついており、おそらく宣教を始める前は力仕事をやっていたのだろう。彼の微笑みは、きっと神々しいものに違いない。

 

 しかし今、イエスは嘆いていた。今は亡き、友の墓の前で。彼の弟子の言葉や友の親族の会話を聞くところによると、友の名はラザロというらしい。そのラザロが病気になったと聞いてイエスはラザロを治す為に来たらしいが、四日前にもう死んでしまったそうだ。だから、彼は友の死を嘆いている。

 

「外見、構造ともに人間と変わりなし。神の御子とはいえ、流石に人と違う造りにはなっていないか」

 

 だが、そんな些末な事は朱雨には関係ない。死は絶対だ。それは何物にも逃れえない。故に生命は進化し、自らを死から遠ざけようとする。その過程で何百も何億も死のうと、それは仕方のない事だ。そう思っているから、朱雨は死を嘆く事はなかった。

 

 永琳はかつて、それを寂しいと表現した。月夜見ならきっと、冷たいと言うだろう。そして、納得するしかない。朱雨は人に(あら)ず。人でなしは、人間と同じ思考を持たないのだから。

 

 と、そこでイエスに動きがあった。悲嘆に暮れていたイエスが立ち上がり、ラザロの親族に何事かを伝える。大丈夫、もう心配はいらない。普通ならこれは「友ラザロの死を乗り越えたのでもう心配はいらない」という意味にとってもいいが、イエスが本物であるのなら、それでは終わらないだろう。なら、これから起こる事は。

 

「奇跡、か。さて、お手並み拝見といこう」

 

 ここからが本番とばかりに、朱雨はイエスを注視する。イエスは神の御子だが、それだけならいくらでもいる。百鬼夜行に地獄王、神々の黄昏と最後の審判。神も妖怪も悪魔も等しく横柄に跋扈するこの世界だ。それらと人間が混血するのもおかしくはない。現に、世界人口の内だいたい四分の一ぐらいが、古くから続く血脈の中でなんらかの超常的存在と交わっている。今では薄まり過ぎて何の力も示さないのが多いが、それでも「神の子」と呼んで差し支えないだろう。

 

 だが、イエスは違う。彼が流した説法宣教を朱雨は一部しか聞きかじっていないが、もし彼の話が本当だとしたら。それは、イエスが―――

 

 瞬間、セカイの理をあざ笑うかのような力が天地に木霊した。

 

「!」

 

 実際に莫大な力が放出されたわけじゃない。朱雨の五感は何の力も感じ取っていない。この煉獄のような灼熱を感じ取るのに必要なのは、本来持ち得ない第六感のみ。

 

 響く。震える。木霊する。全身の血管に焼けた鉄杭が突き刺さる。皮膚がケロイド状に溶け、筋肉線維の一本一本がさながら魚を火で(あぶ)るように丁寧に焼かれていく。

 

 無論、現実ではその場所は煉獄になっていないし、朱雨本人も炎上していない。しかし、イエスの放つ神々しい神気は確実に朱雨の第六感を焼いている。他の人間は――イエスの弟子達などは――その神力に涙を流すくらい感動しているというのにだ。それはつまり、イエスが、その御父である唯一神が、朱雨を悪魔と同列にみなしている事に他ならなかった。

 

「面倒な、唯一神に敵対視されているなど冗談にもならん」

 

 しかし、その程度で朱雨は揺らがない。痛みは受け入れよう、それであの強大な存在の一端に触れられるなら安いものだ。それに死にさえしなければ、この程度の代償は大手を振って支払ってもいい。

 

 イエスはラザロの墓の前に立ち、ただ一言呟いた。

 

「ラザロよ、出てきなさい」

 

 するとどうだろうか、死んだはずのラザロが墓の中から出てきたのだ。それも先程まで死んでいたはずなのに、まるで快眠から覚めたような健康な姿で。

 

 ラザロが生き返った。それは紛れもない奇跡だ。夢ではないかと頬をつねる者さえいる。それが本当なのだと分かった時、皆は歓喜に打ち震えた。失ったものを取り戻した喜びに、そして、神の奇跡に立ち会えた運命に。

 

 その場でそう思わなかったのは一人だけだ。見えない肉壁に隠れ奇跡を伺う、喜びを感じられない哀れな血界の主。朱雨だけは奇跡の残り香である神力に精神を焼かれながら、冷たい刃の目で見通す。

 

「……凄まじいものだな。神力にまかせた強引な施術――いや、この場合は信仰に裏付けされたというべきか。神への信仰心なぞ理解出来んが、おおまかに言えば利害の一致と大差ない。神は自らの存在確立の為に。人は安寧の人生の為に。それ以上は……私の(あずか)り知らぬ事か」

 

 さて、と朱雨は首をならす。観察は終わった、後は撤収するだけだ。朱雨は自分の身の回りの肉壁を動かし、近場の森へ踏み入っていく。その間にちらりとイエスを見て、その視線に「期待していたほどではなかったな」と、僅かな失望感をのせた。

 

 朱雨は観察に重きを置く。見知らぬ新種の生物ならば一年や二年、食事も睡眠もとらずに見続けるくらいだ。しかし、朱雨が無益と判断した場合、観察をやめて早々に切り上げる時もある。今回もそのうちの一つだった。

 

 そもそも朱雨が神の御子を観察しに来たのは、肉体を主体とする神が珍しかったからだ。神とは往々にして強大であり、傲慢である。肉体ありきの神は多いが、大概が肉体が滅びても神霊という形で生き続ける。その上、神は人前に姿を晒す事がほとんどなく、偶像越しに、または誰かに降臨して人間と接するのだ。

 

 だから人間と直に会い、力を行使する神は珍しかった。実際には「神の御子」であって「神」ではないのだが、それはこの際置いておこう。神力を担う点において同族には変わりあるまい。

 

 しかし、実際見てみたら落胆の一言に尽きる。神力は凄まじい。が、その行使の仕方が恐ろしく雑だった。イエスの起こす奇跡は信仰に起因し、神に願うという形で初めて現実となる。だがその願いは過程のない結果のみで、神力でそれを強引に押し切っているだけだった。

 

 これでは観察の余地がない。一言で言えば、「技量も経験もなしに力任せでやったら成功した」なんて事でしかない。蓄積された歴史にも裏付けされない、積み重ねられた死体の果てにもないそれは、はっきり言って何の役にも立たなかった。

 

 まあ、利益になった事もある。神の御子であるイエスが、どのような存在であるか確認できたのだ。今回は、それで良しとしよう。

 

「曲がりなりにも神の御子という事か。接触は避けよう。あの男は、私を滅ぼしうる存在だ」

 

 肉の隠れ(みの)を脱ぎ去った朱雨は人目を避け、森の奥深くまで歩いていく。とりあえず、この後どうするかを考えながら。南極から南半球の大陸を回ってここまできたのだから、そのまま西に進みつつ北上しようか。

 

 それとももう一度九尾の狐と旅した国へ行こうか。あそこは常に乱世のようなものだから、文明の発達も早いし。さてはてどうしようか、朱雨は定まらないこれからの予定に思考を練りつつ、急に飛来してきた矢を簡単に避けた。

 

「見られているのは分かっていたが、矢文とはな。乱雑な方法をとる愚者ととるべきか、それとも――この文明の中で木製の紙を用意できるほど、技術と頭脳を持った存在ととらえるべきか。やれやれ、私自身の特性とは言え、敵の行動に対して受動的にしかなれんのは少々つたないかもしれんな」

 

 はあ、と気だるそうなため息をはいて、朱雨は矢に括り付けられた紙をとる。ざらざらとした感触ではなく、つるりと滑らかな手触り。紙の生成法が確立していない文明下では決してありえないその精練された紙には、ただ一言こう書かれていた。

 

『私メリー。今、貴方の後ろにいるの』

 

 静かに、空気が張りつめる。朱雨は眼を細め、ざわめく森を視殺する。

 

 生々しい風が吹いてくる。それに乗って、湿った空気が流れ込んできた。じめじめと、蝸牛(かたつむり)が這うように地面が水を吸っていく。ぬかるむ土、雨の匂いを含む風、そして晴れ晴れとした晴天の空。昼に近づくにつれ陽光が増していくのに、ここだけが急に濡れていく。まるで、日光が雨だとでもいうように。

 

 おかしいのはそれだけじゃない。朱雨の常に開いている五つの感覚が、森の急激な変化を伝えていた。

 

 目が叫ぶ。木々の色が変わり始め、夏であるのに紅葉していると。

 

 耳が感じる。きちんと響く音の波が、捩じれ曲がって狂いだしていると。

 

 肌がひりつく。時に弱く、または強く、重力さえも一定ではなくなっていると。

 

 舌が潰れる。空気中の成分が変わり、明らかな毒素が混じっていると。

 

 鼻が見る。虫のフェロモン、風の匂いが変わってきていると。

 

 まるで絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜ込んだような世界の変容。崩れ繋がれ、秩序が境い目を失っていく。なんだこれは。何もかもがおかしい。言うなればそう、ツギハギになった人形のような混然とした気味の悪さ。

 

 そして、それ以上に五感の全てが叫んでいた。空中に浮く謎の(あな)。得体の知れない体構造。そして、初めからそこにいたかのように孔に座る、傘を持った女の姿。

 

「――こんにちは、荒れ野に佇む血液使いさん」

 

 とても優雅な華やかさと共に。彼女は余裕の笑みを浮かべた。

 

「…………」

 

 朱雨は答えない。そもそも、後ろを振り向こうとしない。そうしなくても朱雨からすれば顔つきも体つきも、微に入り細を穿った体の動きまでナノ単位で理解出来るが、振り向かないのはそれとは違った理由があった。

 

「無礼な招聘(しょうへい)、お許し頂きたく願うわ。お詫びに紅茶はいかがかしら?」

 

 彼女はそう言ってまた朱雨の感知できない何処からか紅茶の入ったカップを取り出し、これみよがしに口に運ぶ。その動きを朱雨が感じ取っている間に、またしても理解の及ばない孔が開き、朱雨の前にテーブルとティーカップが落とされた。ご丁寧に背後に椅子付きで。

 

「…………」

 

 朱雨は話さない。椅子に座る事も紅茶を飲む事もなく、全身全霊で背後の女を観察する。

 

 体構造は滅茶苦茶だ。脳に胃が直結し、全身の骨がバラバラに配置され、その全てが小腸によって繋がれている。いくつか内臓が増えては消え、時には脊髄や大脳さえ姿を消す。意味のない神経結合、有害でしかない脳内物質、話にならない体組織。こんな埒外な体で、どうしてこの女は生きている。

 

 唯一分かるのは妖怪であるという事だけ。それ以外がまるで分からない。それだけで最大級の警戒をするべき相手であると判断できるが、朱雨はもっと別の理由で警戒していた。

 

「うーん、いい香り……あら、お飲みにならないの? 早く飲まないとさめてしまうわよ」

 

 僅かなバラの匂いと鼻腔をスッとさせる爽やかなこの香りは、おそらくウバなのだろう。紅茶の香りを楽しむ女は一向に手を付けようとしない朱雨に、コロコロと笑いながら聞いてきた。

 

「…………」

 

 朱雨は喋らない。矢文を呼んだ瞬間から一ミクロンも微動だにせず、虚空に開いた孔を調べようとする。

 

 全く理解出来ない孔。分かる事は、その裂け目の奥には秩序という秩序がまるでないという事だけだ。音も、匂いも、味も、感触も、何一つとして同じではない。一瞬先には全く別の何かに変わり続けるその孔の中は、無数の目玉が連なっているだけだ。

 

 華麗な振る舞いで紅茶を楽しむ女特有の『程度の能力』なのだろうが、一体何をしているのか見当もつかない。得体の知れない相手に下手な行動は慎むべきだが、朱雨が動かないのはそれ以上の理由だった。

 

「そう、お気に召さないのね、残念だわ。じゃあ、こちらのクッキーなんていかがかしら。チョコレートチップが練り込まれているから、甘くて美味しいわよ」

 

 朱雨の無反応っぷりを不機嫌な為だと受け取ったかどうかはしらないが、紫のドレスに身を包んだ女は孔からチョコレートチップクッキーを取り出した。独特の甘い匂いとクッキーの香ばしさはそれだけで味が湧きあがってきそうだ。

 

「…………」

 

 朱雨は語らない。ただ静かに、女が持つ技術や知識がどれ程のモノか推測する。

 

 女は当然のように紅茶やクッキーを取り出してくるが、先の紙と同じように、現在の文明下ではどれも存在しえない代物ばかりだ。チョコレートはないし、原材料のカカオは食品ではなく通貨として流通している。紅茶はまず茶の文明が始まったばかりだし、クッキーなどそもそも原型になるものすら作られていない。

 

 あるとすれば月の都くらいなものだが、まずそこに行きつくだけでも相当の力を要する。独学で作り上げたとしても驚愕に値する。しかし、朱雨が驚く理由はそれだけに留まらなかった。

 

 そう。朱雨が驚き、警戒する理由。それは振り向く必要がないからでもなく、相手の巫山戯(ふざけ)た体構造でもなく、訳の分からない『程度の能力』でもなく、底の見えない叡智(えいち)でもない。朱雨が背後の女を――場合によっては殺す覚悟で警戒する理由は、朱雨の背後に立った事、ただそれだけだった。

 

 何だ、たったそれだけの事か、と拍子抜けするかもしれない。いや、間違いなくそう思うだろう。普通ならば背後をとられる事くらい、百戦錬磨の武人でさえ時には許してしまうような事だ。

 

 しかし、神亡朱雨は普通ではない。この(せかい)の常識を凌駕する、(くら)き星界の奥地に潜む怪物中の怪物だ。単なる生物としての性能は、一介の動物などと比べる事すらおこがましい程の桁外れさを有す朱雨は、更にずば抜けて感知能力が高い。

 

 これは長年の観察にも起因する、まさに人外の能力である。眼の性能は言うに及ばず、霊魂だろうがなんだろうが『視える』ものならほとんど見える。見えないのは余程特殊な事柄だけだ。

 

 耳や鼻も莫迦みたいに利く。どんな波でも耳は音としてとらえ、万を超える音が混じり合っても容易く聞き分ける事が出来、鼻はどんな悪臭でもひん曲がらずに嗅ぎ分けられる。

 

 味覚も耳や鼻と同じように機能し、無味無臭のものにさえ僅かな差異を見出して分類する事が可能だ。触覚は空気の微細な振動を探知し、必要ならば何も見ずとも、振動を頼りに周囲の完璧な絵を書き記せる。

 

 このような五感のレーダーを保有する朱雨は、常に半径百キロ程度まで警戒網を広げている。そして、かつて永琳が矢文を放った時のように、本当に僅かな間でも反応を返すことが出来る。それだけの能力を持つ朱雨が背後をとられるというのは、事実上ありえない事だ。

 

 だが、取られた。生きている間は一切の油断も慢心もしない事を信条とする神亡朱雨が、いとも容易く取られてしまった。後方3.19メートル、高さ2.81メートルの約2立方メートルの空間に敵の存在を許してしまった。

 

 はっきり言おう。これは、朱雨が死んでいてもおかしくはなかった状況なのだ。

 

 朱雨とて生物だ。故に弱点――肉体を動かす為の中枢器官――が存在する。普段それは血界の奥深くで守られているため、例えば剣で胸を刺されたり矢で頭を射抜かれても、刃が弱点にまで届く事はない。

 

 だが。背後の女は、朱雨の警戒網を掻い潜った存在だ。それほどの実力を持つのなら、朱雨を殺せる手段を持っていると警戒するが妥当だろう。

 

 だから、今更でも打てる手は打っておく。出来る限りはやり切っておく。そうして準備が整った時――朱雨はようやく振り向いて、背後の女と対峙した。

 

「何者だ、お前」

 

 他の感覚ではなく初めて視覚に捉えた女は、一言で言えばとてもうさんくさい女だった。

 

 容姿は朱雨の見てきた限りで間違いなく最上位に入る。ウェーブのかかった腰まで届く黄金の髪、新雪のような白い肌、人を誘惑する妖艶な唇。均整のとれた美しい肢体はラインが強調される紫のドレスで包み込まれ、頭には赤が映えるリボンが結ばれた白い帽子を被っている。それと同じように白い日傘を差し、身体の所々にリボンが飾られていた。

 

 目の前に立つのは紛う事なき美人なのだが、しかし、そう思うよりも先にうさんくさいと感じてしまう。

 

 まず、女が座っている得体の知れない孔が問題だ。朱雨のいかなる観察も受け付けない孔はまるで空間を裂いているようで、その中はたくさんの目玉が揺れ動くだけで気味が悪い。

 

 口元に浮かべる笑みも小馬鹿にしているような、見下しているような、面白がっているような印象を与え、何を考えているか分からない紫の瞳がそれに曖昧模糊(あいまいもこ)な意味を付け加えてしまっている。

 

 つまり、この女は怪しいのだ。そして、妖しい存在でもある。いかにも得体の知れない、うさんくさい女。それがその妖怪の第一印象で、たぶんそれはこれから先も変わる事がないだろう。

 

「これもお気に召さない、と。ああ、ごめんなさい、私の名前だったかしら? レディに名前を尋ねるなら、まずは自分から名乗るものよ」

 

 女はクッキーを孔の中に放り捨てて、やや不機嫌そうに言葉を返した。朱雨に無視されたからだろうか? 頬が若干むくれている気がしないでもないが、そんな事にいちいち反応を示す朱雨でもなく、単調に言葉を受け取って名乗る。

 

「神亡朱雨」

 

「実直ね、つまらないわ。もう少し付き合ってくれてもバチは当たらないわよ? それとあらためて――初めまして。私、八雲(やくも)(ゆかり)と申しますわ」

 

 そう言って女――八雲紫は、実に優雅な一礼をした。座ったまま、それも傘も差したままだがその一礼は文句のつけようがない。しかし、そもそも文句をつけない朱雨は同じように頭を下げる事もなく、淡々と用件だけを問う。

 

「何の用だ」

 

「たいした事じゃないわ。贖罪のために生まれてきた哀れな子羊がいるって聞いたから、ふらふら誘われてきちゃったの」

 

 クスクスと笑いながらも、孤を描く口元はうさんくさい。文脈からしておそらくはイエスの事かと当たりをつけた朱雨は、だったら己に用はないだろうと思い、それをそのまま口に出した。

 

「ならば去れ。私に用はあるまい」

 

「……本当、つまらない奴。用がなければ矢文なんて飛ばさないわ。私のお遊びにも付き合わないし、貴方、友達少ないんじゃない?」

 

「そうか、では改めて聞こう。何の用だ」

 

 言葉を額面通りに受け取って、自分が聞きたい事以外は何も話さない朱雨。紫もそれを察して嫌味を言ったのだろうが、まあ当然の如く朱雨は反応しなかった。そのせいか、用があると言っておきながら紫の顔は面白くないの言葉で埋め尽くされている。なんかもうそのまま怒って帰っていきそうな感じだ。

 

 しかし、なぜか急に元のうさんくさい笑顔に戻る。それに朱雨は疑問を抱き、紫から紡ぎだされた次の言葉に驚きを禁じ得なかった。

 

「……まあいいわ。実は私、貴方とお話がしたくて来ましたの。だってそうでしょう――当たり前のように海底を歩く人間がいたら、ねえ?」

 

「……何故、それを知っている」

 

「あら、案外頭が悪いのね。大体百年くらいの周期でふらりとやってきてはいつの間にか消えている人間がいたら、長生きしている妖怪なら誰でも不審に思うわ。ちょっと後をつけてみたら、涼しい顔して海に入っていくもの。入水(じゅすい)したのかと思えば死んでないし。ですから、少しだけ興味を持ちまして」

 

 言葉とは裏腹に、紫は心底楽しそうだ。朱雨がようやく望む通りの反応を返したからだろう、うさんくさい笑みを浮かべる紫の瞳には、人の慌てふためくところを面白がる性根の悪さが見え隠れしていた。

 

 一方の朱雨はというと、実はいままで妖怪はガン無視していたので盲点だったと反省していた。確かに、いくら人目がないからといって好んで有毒ガスが発生する洞窟に足を踏み入れたり、珍しい鳥の住む断崖絶壁を登ったりしたのは不味かった。猛省。

 

「少しだけ?」

 

 そう反省している思考とは別のところで、朱雨は紫の台詞から言葉を拾う。朱雨に対する興味が「少しだけ」なら、見逃してもらう道もあるかもしれない。それがどんなに誇りを棄てた選択であれ、命を懸けない事以上の大事はないのだから。

 

「ええ、少しだけ。ここに来たのも貴方を追いかけてきたわけじゃなくて、人間を救うために人間に処刑される神の子供を見に来ただけだしね」

 

 ま、あんな事してちゃ異端者認定されちゃうわよねえ。と日傘の影で紫は嗤う。それは先程までのものとは違う、妖怪としての残虐さを孕んだ笑みだった。それはそれで仕方のない事だし、朱雨にとってはたぶん関係ない事なので、純粋に言葉を受け取り、答えを出す。

 

「そうか、ならばもう良かろう。失礼させて頂く」

 

 それだけ言って、朱雨は紫に背を向けた。紫の言葉がひねられたものでないとすれば、朱雨に出会った時点で紫の目的は達成されているわけだし、朱雨に対する評価も「つまらない奴」だと下している。なら、もう私に構う必要もないだろう。そう考えての返答だった。

 

 が、しかし。

 

「あら、それは駄目よ」

 

 紫の気品ある満面の笑みとともに周囲に無数の孔が開き、朱雨の行く手をさえぎった。

 

「……何の真似だ」

 

 無数の孔を前に佇む朱雨の声には怒気が混じっている――わけがない。何の感情もない、ただの質問だ。現に朱雨は孔を前にして腕を組み、世界に重ね合わせた血界の作動を行っている。

 

「本当、貴方にかほんのちょっぴりしか興味はなかったの。いくら人間離れした事をやっても、所詮は人間。取るに足らないお肉の一つってね。そう思っていたのだけれど――貴方、面白い境界を身に宿しているでしょう?」

 

 それに気づけない紫は心底楽しそうに嗤い、神亡朱雨の外殻に在る『世界』と『血界』の境界を見つめる。光溢れる青の燐光と漏れ出る鮮烈な紅の発光。まるで世界と摩擦しあっているようなその境界は、他のどんな境界とも違う。

 

 開いてみるのが愉しみだわ――そうまだ見ぬ境界の奥地に胸を弾ませる紫と違い、朱雨の顔は本当に少しだけ渋面になっている。「境界」などと言われても、その言葉だけでは何を差しているのか分からないからだ。

 

「境界、だと?」

 

「そう、境界。あちらとこちらを分け隔てるモノ。混沌を駆逐する秩序の壁。誰も彼もが『そこに在る』ための境い目。ちなみに私、境界を操る程度の能力を持っていますの」

 

「……ッ、厄介な」

 

 まあ、そんなわけで朱雨は気軽に聞いてみたのだが、紫の返答は思った以上に深刻なものだった。

 

 境界を操る程度の能力。それは簡単に言えば無敵の能力である。森羅万象世界全土、あらゆるものは別たれているからこそ自己というものを保っていられる。それを操るとなれば実質出来ない事は何もないからだ。

 

 例えばの話、自身と全知全能の存在との境界を失くしてしまえばどうなるだろうか。その瞬間から自身は全知全能の存在と等しくなり、出来ない事など一切なくなる。逆に、全知全能の存在のそれぞれの力に境界を創ってしまえば、その時点で全知全能の存在は力の数だけ別れてしまうのだ。

 

 それが境界を操る能力である。この能力を持っているのなら朱雨の感知できない範囲から距離の境界を操って突然現れる事も出来るだろう。気味の悪いあの孔は境界の間を通る時のモノ――スキマともいうべきか。

 

 しかし、境界を操る能力とは。これは朱雨にとって非常に厄介だ。一番まずいのは自身の生と死の境界を操られて死亡する事だが、他にもそれと同等にまずい事がある。

 

「あら、理解出来たの? 愚直な凡夫とばかり思っていたけど、少しは頭が切れるようね。それにその反応……相当面白い境界を抱え込んでいると見たわ」

 

 否定した事でもっと興味が湧いたのか、朱雨の反応に紫はますます笑みを深める。まずい、このままでは下手に境界を弄られてしまう。紫と対照的に朱雨にしては珍しく、目に見えるほど顔をしかめて眉根を寄せていた。

 

「忠告する、八雲紫。私の境界を操作しようなどと考えるな」

 

 心なしか朱雨の声に焦りが滲んでいる。それもそうだろう、血界は朱雨の体内であり朱雨自身だ。そして、朱雨が統治しているからこそ血界は血界としての均衡を保っているとも言える。その支配が朱雨の手から離れてしまえば、世界としての体裁を失ってしまう。そうなってからでは遅いのだ。

 

「何? 私に忠告ですって? あらあら、いい気なものね、人間風情が。たかだか血液が操れるくらいで私に忠告出来る立場にいると思っているの? だとしたら笑っちゃうわ」

 

 八雲紫は妖怪だ。そして朱雨の事など非力な人間であるとしか考えていない。だから紫にとって朱雨は玩具であって、間違っても対等な言葉を交わす存在ではなかった。

 

「力の差などどうでもいい。八雲紫、私の世界は下手に弄れば最悪、辺り一帯が喰い尽くされる。私の制御下になければ、私の世界は腹を空かせた獣の群れでしかない。三度目はない、忠告する。私の境界を、操作しようなどと考えるな」

 

 だが、今はそんな事に構ってはいられない。もし紫が下手に境界を弄り血界が世界に流れ出す事になれば、それこそ朱雨の言う通りになる。

 

 血界は循環し、生きているのだ。それだけに体内の枷から解き放たれれば、捕食の為に地球を喰い始める。辺り一帯が喰い尽くされるだけならまだましだ。最悪の場合、地球は血界に一飲みにされて滅びてしまう。

 

「へえ……面白いわ、とても。たかが人間が、そんな御大層なものを秘めているなんて嘘、一体誰が信じるのかしら。それを実力差が分かっていながら、この私に言うなんて――とても面白くて、つい殺してしまいそう」

 

 しかし、八雲紫は信じなかった。紫が朱雨をどう思っているかを鑑みれば当然だ。むしろ格下に二度も上から目線で忠告されて苛立っている。完全に逆効果だったか。朱雨はしかめっ面のまま首を振って、大きく息をはいた。

 

「……そうか。ならば、諦めよう」

 

 二回髪を掻いて、朱雨は両手をだらりと下げた。意図して背を伸ばし、紫のいる空間を把握する。海千山千されど(あやま)る、蝸牛(かぎゅう)角上(かくじょう)争い已む無し。永い時を生き続けようと、つまらぬ(いさか)いは避けられない。

 

 紫はそれを降伏だと思った。「諦めて」「力を抜いた」と勘違いした。だがそれでも、機嫌を損ねた代償は払ってもらうと手を伸ばし――

 

「怖気づいたのかしら? 随分と切り替えのお早い事で。でも、それで許されると……っぐう、あ!?」

 

 紫が繰り出したスキマの数より遥かに多い数の紅い線が世界に奔り、溢れ出た大量の血液が一斉に紫に絡みついた。

 

「交渉による危機の回避は、諦める事にしよう」

 

 完全に不意を突いた一撃。紫が硬と柔の境界を操る間もなく飛び出した、(たこ)のような吸盤のついた触手がギリギリと紫を締め付ける。衝撃、接着、そして圧迫。肺が潰される感覚に悲鳴を上げた紫は、すぐさま堅と脆の境界を操り、周囲の触手を引き千切った。

 

「貴方、何をっ!?」

 

 痛みに顔を歪ませる紫は怒りのままに朱雨を睨みつけ、その有様に言葉を失う。

 

 刺青(いれずみ)だ。朱雨の髪の色と同じ紅く黒い血潮のような色の刺青が、朱雨の全身をのた打ち回っている。蛇のようにうねり、虎のように牙を剥き、鷹のような速さで蠢くそれは、まるで百獣の姿を描いてそのまま貼りつけたように統一性がない。

 

 さっきまで一枚布だったはずの服はいつの間にか消え去り、代わりに先端がボロボロの腰衣と漆黒のスラックスだけが現れていた。上半身は裸であるが、まるで生きているように形を変える刺青のせいで逆にそれが目に悪い。

 

 朱雨の顔に表情はない。いつも通りの能面の如き無表情ですらない。鼻も目も口も耳も眉毛も頬もちゃんとついているのに、まるでそれらをそっくりこそげ落としたような無貌。

 

 その「無」の顔に紫はたまらず悲鳴を上げそうになる。おぞましい、何だあれは。あの男は人間だ、人間だったはずだ。だがあれは何だ、形は人間だが人間じゃない。人間にあんな何もかもが抜け落ちた表情が出来るものか。じゃあ、一体あれは何だ? あの人間の形をしたナニカは、一体何なんだ!?

 

 その、紫の動揺も予想していた。だから朱雨は更なる混乱へ誘うべく指先を跳ね上げ、それを合図に森を血液で塗りつぶす。

 

「――これは、血液!? 一体いつ、いえどうしてこんな量が!?」

 

 朱雨の想定通り、紫は辺り一面を真っ赤に染めた血液に驚き、あろう事か朱雨から注意を逸らしてしまう。その時間はたっぷり五秒。それは、朱雨が次の手を打つのに十分過ぎる時間だ。

 

「悪いが、質問には答えない」

 

「――――ッ!!」

 

 朱雨が用意した攻撃手段は全部で千にも及ぶ。全て当たっても殺害には至らないものの、その全てがまったく違う方法の攻撃だ。そのため対処するには最低でも百以上の境界を同時に操らなければならない。

 

 そして、対処するには気付く時間が遅すぎた。紫がはっと朱雨へ注意を戻した頃には、被弾まであと一秒もない。全方位、地中からも飛び出す千の一撃に紫は為す術なく飲み込まれ――土ぼこりが晴れた時、そこには誰もいなかった。

 

 同時刻。大きな爆発があった森から遥か離れた山の上に、バクリと大きなスキマが開く。輪郭が少しブレているそこから、片腕を押さえた紫が這い出てきた。

 

 その姿は目を背けたくなるくらい痛々しい。綺麗な紫のドレスは袖が引き千切れスカートの端がズタボロになっている。足や腕には擦り傷が目立ち、足取りもふらふらとおぼつかない。土で汚れた手の先には持っていた日傘の残骸が引っかかるように残っていた。

 

 あの状況下で紫が逃げ出す事が出来たのは、本能的に回避したからだ。当たる寸前にスキマを開いて何とか逃げおおせたものの、百数十発かは食らってしまった。命に別状はないが、今すぐ動けるほど浅い傷でもない。

 

 紫は血が出るほど下唇を噛む。人間だと侮っていた相手にこれほどの手傷を負わされてはらわたが煮えくり返っているのだろう、整った顔立ちは憎悪に塗り潰され、ズキズキと痛む身体が拍車をかけていた。

 

 許さない。今の紫の心はそれで占められていた。荒い呼吸を繰り返しながら、紫はふらふらと手を前に出し、スキマを開く。まずは体を癒さなくては。そうは思うものの、傷つけられたプライドがそれを許さず、紫は苛立ち混じりの悪態をつく。

 

「はあっはあっ……! くそ、人間如きに、この私が遅れをとるなんて! 許さない、あの男、絶対に殺して――――!?」

 

「重ねて悪いが、逃がすつもりもない」

 

 だが、それさえも許さないというように。厳かな朱雨の声と共に絶望的に美しい蒼と紅の境界が閃き、滝のような大量の血液がスキマもろとも紫を飲み込んだ。

 

「な――――ああっ!? どうして、私の、場所、があっ!?」

 

 ゴウゴウと渦巻く鮮血の濁流に身体の自由を奪われる。飲み込まれた衝撃でスキマは閉じてしまった。早く、早く! ここから逃げ出さなくては!

 

「……!? 何、何なの、一体! 境界が、見えない!? 一体、何なのよ! この血液は!!」

 

 だが、スキマが開けない。荒れ狂う血潮をいくら凝視しても一片の境界も見えない。何で? どうして!? 度重なる精神への打撃によって混乱していた紫の心は、ここに来て限界を迎えようとしていた。もはや何が何だか分からない。心が乱れすぎてスキマの一つも出せない程に。

 

「――――あ、」

 

 その混乱の最中、紫は見た。

 

 激流する鮮血の海の中で平然と歩く、紅い血潮の怪人を。その横で轟々と逆巻く、刺青だった紋様の渦を。あまりに茫漠な穢れを右腕に纏う、名前も知らない紅髪の彼を、確かに見た。

 

「かはっ!」

 

 不浄の右腕が鳩尾に振り抜かれる。しかし、不思議と痛みはない。あれだけ勢い良く殴られたのに、軽く胸を叩かれた様な感触。覚悟していた苦痛とは違う痛みに少し拍子抜けして、紫は強い眠気に誘われた。

 

(しば)し眠るがいい、八雲紫。お前の諌言(かんげん)は、身を以て実践させて頂く」

 

 意識が揺れる。身体が溶ける。眠りに落ちる前の底のない闇に落下していくような感覚が紫の脳を支配する。痛みが消える。心が散っていく。そして、それらが完全に夢に(まみ)れる寸前に、答えが聞ける筈のない問い掛けが口から零れた。

 

「う、ぁ……貴方……一体、何者、なの……?」

 

 

 

 

 次からは勝てないだろう。少なくとも殺さずに済ます事は出来なくなる。それが八雲紫との戦闘で出した、朱雨の個人評価だった。

 

 眠りに落ちた八雲紫を、朱雨は今横抱きで抱えている。世界に呼び出した血液は既に血界へと帰し、彼らの周りは緑溢れる美しい自然だけが広がっていた。

 

 正直に言えば、八雲紫と戦って勝てる見込みはほとんどなかった。それでも終始圧倒し続けられたのは、ひとえに八雲紫が未熟だった事に尽きる。精神面においても戦闘面においても彼女は未熟で、自身の能力さえ使えこなせてはいなかった。

 

 でなければあれしきの事で混乱する事もなかっただろうし、もっと上手く立ち回る事だって出来ただろう。少なくとも朱雨が「境界を操る程度の能力」を相応の熟練度で所持していたとしたら、決着は一秒もたたないうちについていた。

 

 朱雨は紫を静かに見る。彼女を血液に巻き込んだ際、朱雨の血潮で補完できる場所は治し、身体の汚れや破れた衣服は修復しておいた。ついでに細胞をいくつか奪ってもいるが些細な事だろう。

 

 スースーと寝息をたてる紫の寝顔は、その豊満な体からは想像できない可愛らしい寝顔だった。先程までのうさんくさい、掴みどころのない性格を見ているだけに、この少女のような寝顔は反則的だ。

 

 ちなみに朱雨はもうちゃんと服を着ている。寝ている女を上半身裸の男が横抱きしていた場合、どのような扱いを受けるか考えて、であればいいのだが。単なる気紛れであったらそのうち女性の敵にされかねない。

 

 話を戻そう。朱雨が見ていたのは紫の寝顔ではなく、体内の穢れの量だ。先程尋常じゃない量の穢れを叩き込んだので、ちゃんと元の値に戻っているか確認していた。

 

 最後の一撃で紫が眠りに落ちたのは、麻酔薬などの薬物を投与したからではない。そもそも訳の分からない身体構造をしている紫に薬など効く保証はないし。あれは穢れの量を一時的に増やす事によって強制的に疲れを溜めさせ、眠りにつかせただけだ。

 

 穢れとは、生きる上で必ず身に纏う死の匂いである。それが薄いと本能も薄まり、また体もそれに合わせる。何日も食べなくてもすむし眠らなくてもいい。身体の代謝も落ちるしエネルギー使用率も減る。その代わり眠る時間も長くなったりするのだが、まあ割愛しよう。

 

 穢れが薄ければ生活サイクルが長くなるなら、濃ければ濃いほど短くなるのは自然な事だ。一瞬のうちに爆発的に増えた穢れは紫の生活サイクルを一気に短くし、結果、紫は眠くなった。寿命が半日程減るが、妖怪だから問題ないだろう。そう信じたい。

 

 とまあそんな感じで八雲紫に勝利を収めた朱雨であったが、その顔は晴れていなかった。地球に降り立ってから今まで晴れた事なんて数えるくらいしかないが、とにかく朱雨はただただ疲れていた。

 

「……無意味だな、この戦闘は。私に得る物はない上に、間違いなくこの妖怪の恨みを買った。なるべく見つからんように生きるしかないか。どうやら、あの男にも気付かれたようであるし。さっさとこの地から消え失せよう」

 

 なんで疲れているかというと、台詞通り得た物がないから。未熟者と戦ったところで何の経験にもならないし、生死を賭けた戦争以外で争うのも体力の無駄でしかない。何より、いらん恨みを買ったところが一番面倒だ。

 

 ふと、朱雨は後ろを振り返る。標高の高いこの山からならここからでもガリラヤ湖を見る事が出来た。その岸辺、墓地の近くから神の御子はこちらを見ていた。朱雨達の姿が見えるわけではなく、妖力、そして穢れの力でも感知したのだろう。

 

 さてはて、厄介なものだと朱雨は二度目の修羅場にうんざりする。相手はよりにもよって神の御子、それも唯一神の一人息子ときたものだ。その桁違いの神力を行使されたら、さしもの朱雨も無傷では済まない。現に、あの場所から朱雨達を山ごと浄化するつもりのようであるし。

 

 さっさと逃げて、二度と姿を見せないでおこう。身体は人間だ、百年もすれば骨しか残らん。朱雨は血液で巨大な鳥を形作り、その上に乗って逃げる事にした。紫は――抱きかかえたままで。

 

「見捨てるには割に合わん。おそらくは一人一種族の妖怪、ここで浄化させるにはあまりに惜しい。せいぜい生きてもらおう。妖怪は好ましくないが、その在り方は嫌いではない」

 

 そして、朱雨はその場から離れ、適度に安全な場所に紫を降ろしてすぐさま地平の彼方へ逃げ出した。ばれないよう、紫にこっそりと血印(マーキング)をつけて。これでこの先どんなに紫が朱雨を探そうとも、朱雨は紫の場所から遠ざかる事で逃げ延びられる。

 

 とりあえず、日ノ本の国へ向かおう。最近てゐにもあっていないし、何か目新しいものがあるかも知れない。諸外国の人参と大量の酒、後はもち米でも持っていけば土産は十分か。

 

 それから人間への擬態をもっと完璧にしなければならない。誰にも見られていなくても、極力人間の性能に合わせた生き方をしないとこの先、いくらでもこのような出来事が起こりそうだから。やれやれ、前途多難だな。置いて行かれる太陽を背に、朱雨はこれからの苦難に思いを馳せた。

 

 

 

 

 もし彼の話が本当だとしたら。それは、イエスが――――

 

 

 ……………………。

 

 

 しかし、まあ。

 

 

 居て欲しくない物だな―――天敵なんて、存在には。

 

 

 

 

「……ぐ、うぅ……私、は……!」

 

 一人、月明かりの満ちる洞穴で目を覚ます。痛みはない、疲労もない、むしろ心地よい目覚めを迎えたような晴れやかな気分。身体を見回してみれば傷一つないし、衣服だって破れていない。

 

「あの、男ぉ……!」

 

 だからこそ、紫は朱雨に憎悪を抱く。格下であると侮ったのはこちらの責任だ。しかし、殺さずに眠らせて、自分がつけた傷を治し衣服を仕立て、あまつさえこんな安全な場所に運ばれた。これでは、身の程を弁えず強者に挑んだ挙句ボロボロに敗北し、情けを掛けられた三下のようではないか。

 

「……許さない、絶対に許さない!! あの男、この世のあらん限りの苦痛を与えて、(むご)(あさ)ましくこの世界から消し去ってやる!!!」

 

 プライドを完全に叩き潰された紫の絶叫は、岩に響いて洞窟内へ木霊していく。その真上にぽっかりと空いた穴から顔を出す、月に届けと言わんばかりに。

 

 彼女は知らない。紅髪の男の名前さえも。

 

 彼女は知らない。今の自分の未熟ささえも。

 

 彼女は知らない。故にいずれ、知る時が来る。

 

 スキマと血。彼らの話は、また、いずれ――――

 


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