東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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朱雨は諦め、狐と歩む。

 

 

 誰にも頼れない独り道。歩いて歩いて、先は見えず。

 

 

 

 

 地上に灯りの(とも)らない夜は、無限の星空が良く見える。明るい恒星、淡い衛星、宇宙を横断する銀河の河。宝石箱を目一杯ぶちまけたような大自然の芸術の中、美しい孤を描いた白銀の三日月が輝いていた。

 

 弱い月光もまた銀に等しく、夜の大地をほのかに照らす。銀の色合いを帯びた森林は得も言われぬ幻想さで、荒野に吹く風は砂を含み、それらが月の光を浴びて銀色に輝く様は、まさに銀の流砂といって差し支えのない光景だった。

 

 その美しい景色達を抜けていけば、そこには巨大な黄河がある。人類が最も古い文明の一つを起こしたその河は、その時から今に至るまで静かに人類を見続けてきた。これからもこの雄大な大河は枯れることなく、時代と共に流れ続けてゆくのだろう。

 

 そんな光景を遥か遠くに見やり、朱雨は宿泊している宿の屋上で正座していた。空中にふわふわと漂う紅いペンダントに向かって。パッと見、全く説明のつかない状況である。なぜこんな真夜中にこんな場所で、朱雨は当たり前のように浮いている装飾品に向かって正座をしているのか。その理由は、彼らの会話を聞けばおのずと理解出来るだろう。

 

『…………』

 

「…………」

 

『…………それで』

 

「…………それで?」

 

『何がどうなったらあの白面金毛九尾の狐と一緒に旅をすることになるのよこの馬鹿――――!』

 

「いやそれはもう三回も説明した」

 

『言い訳無用! 全く、どうして貴方っていっつもいっつもいっつもいっつもそうなの!? 私に断りなく地上に降りて百年も連絡取らないし! たまに電話してきなーって思ったら現在位置だけ言って三十秒で切るし!! 忙しいとかまだやる事があるとかいって私の実験に全然付き合ってくれないしッ!!! ええ分かったわもう許せない! 貴方のねじくれ曲がったその根性、いまここで叩き直してあげましょう……!!』

 

「おいおいおいおい待ってくれ! それは私も悪かった! 反省している、半年間ずっと謝罪し続けたのを忘れたのか!? って、ちょ、おま、月から狙撃するとかどんだけ、いや、本当ごめんなさい、私が悪かったです!! だからもう矢を撃つのは止めてくれ――――ッ!」

 

 …………簡潔に言うと、永琳に近情報告をしたらめっさ怒られた。

 

 そうゆうわけで、朱雨は絶賛月から狙撃され続けている。一撃が小規模の隕石級の矢の嵐はさすがの朱雨でも無傷では済まない。それ以前にそんなものを地上に撃ち続けたら一瞬で焦土になりかねないが、そこは信頼と安心の月人クオリティ。対象以外には一切の被害を出さない親切設計である。そこまでして朱雨を撃ち抜きたかったのか永琳よ……!

 

『はあ、はあ、はあ、はあ……ど、どう? 少しは反省したかしら?』

 

「…………」

 

『ちょっと聞いてるのっ!?』

 

「……撃たれ過ぎて、声が出ん……しばらく、待って、くれ……」

 

『え、ええ。……ごめんなさい、やり過ぎたわ』

 

 体のところどころから黒い煙を上げながら、朱雨はうつぶせに倒れている。永琳の事だから手加減はしてくれたのだろうが、いかんせんその見極めが完璧すぎる。そのせいで限界のギリギリまで削ってくるからたちが悪い。いっそ即死級の一撃を見舞われた方がまだましだと、朱雨は痛む体を何とか起こした。

 

「やれやれ、私でなかったら死んでいたな。そろそろ激昂したら当り散らす癖を止めて欲しいものだ。というか永琳、お前、私限定で行っているだろう」

 

『そ、そんな事はないわよ。ちゃんと失敗した部下とかにもお仕置きはしているわ』

 

「具体的に言えば?」

 

『……ちょっと一服盛る、とか』

 

「……たちが悪いな、おい」

 

 何よ、聞いてきたのはそっちでしょ! と手に持った紅い宝石から永琳の逆切れ気味な声が響く。これ以上刺激するのも不味いか。朱雨は炭化した衣服を血液再生させて永琳をなだめた。宥めすかすのは朱雨にとってかなりの労力を消費したが放置する方が怖い。何とか丸め込むと、とりあえず永琳に何が不味いのかを聞いた。

 

「それで、さっきからお前が怒っていて聞きそびれていたのだがな、九尾の狐と旅をする事、それの一体何が不味いんだ、永琳」

 

『あ・な・た・ねえ~! 九尾の狐なのよ! それも白面金毛九尾の狐! それがどれだけ危険な存在か、口をすっぱくして話したでしょう!』

 

 それは朱雨も知っている事だ。九尾の狐、それも白面金毛九尾の狐は、人間に災厄を撒き散らす悪狐として語られている。

 

 白面金毛九尾の狐。それは少なくとも四千年もの歳月を生き抜いた大妖の中の大妖、神域に達する大妖怪である。神力こそ持ちはしないものの、その力は神獣である天狐や空狐をゆうに凌ぐほど強大だ。

 

 しかし、特筆すべきは元々持っている力ではなく、男心を掴み取るその美貌だろう。白面金毛九尾の狐は時代と共に名を変え、場所を変え、時の権力者を魅了し国を傾けてきた伝説が多い。

 

 白面金毛九尾の狐に魅了された権力者たちは狐のいう事しか聞かなくなり、圧政を敷き人民を搾取し酒池肉林の宴を延々と行い続ける。狐の頼みごとならば妻や息子さえも手にかけ、狐を笑わせるために国中の絹を破いたりさえするのだ。狐がどれだけの美貌であったか想像するにかたくない。

 

 しかし、それがなんだというのだろうかと朱雨は思う。例えどれ程の美貌を持っていようが力を持っていようが、朱雨の本来の力に敵う生物などこの星の何処にもいないのだ。いくら神より力が強くても所詮それは井の中の蛙、宇宙と云う大海で揉まれた朱雨の敵ではない。

 

 そう考えているからこそ、朱雨は九尾の狐をそこまで警戒はしていない。今のところは協力関係であるのだし、下手に警戒して契約を反古(ほご)にされても困る。

 

 自分がそう思っている事を朱雨は伝えると、永琳は苛立ち半分、呆れ半分で怒鳴る。

 

『はあ、馬鹿じゃないの貴方は! いくら貴方が強くたって、あの女狐に惹かれる保証はゼロじゃないでしょう! もし惹かれちゃったら不味いのよ! だから一刻も早く別れるべきよ! ええ、今すぐに!』

 

「……うん? 分からんな、どうして私が若藻(わかも)に惹かれると不味いんだ?」

 

『どうしてってそれは……貴方が女狐に惹かれちゃったら、私が貴方で実験する愉しみ……げふんげふん、貴方が実験に協力してくれなくなるじゃない! そうなるととっても困るわ、主に私が! ……ちょっと待って、若藻って誰?』

 

「ん? ああ、若藻は九尾の狐の呼び名だよ。以前名前を聞いた時そう呼んでくれと言われたのでね、以来そう呼んでいる」

 

『へ、へえ~、そうなんだ~。(何さらっと名前聞いてるのよ! 朱雨の事だから呼び名以上の意味合いはないんでしょうけれど、これはちょっと本格的に不味いかも……)』

 

「何か言ったか?」

 

『いいえ、なんでもないわ。(状況を変えるには今しかない……!)……ねえ朱雨、その~、若藻だっけ? といるときっとろくでもない目に――』

 

「ん、すまん。若藻が帰ってきたのでな、通信を切らせてもらおう」

 

『え、ちょ、まっ』

 

 朱雨はぶつりと電話を切る。永琳が何か言いかけていたような気がしたが、きっとたいした事ではないだろう。朱雨は屋上から素早く飛び降り、宿泊している部屋へ窓から飛び込む。そしてすぐ隣の椅子に座って、ちょうど扉をくぐった白面金毛九尾の狐――若藻の方へ体を向けた。

 

「おや、てっきり出かけていると思っていたのに……いたのか朱雨。私の私物を漁らなかっただろうな? お前は常識ってものが欠けてるからな、人の物を勝手に漁りそうだ」

 

 開口一番に若藻は唇を吊り上げて毒を吐く。寝起きや会話を始める度に言われるので朱雨も慣れていたので何も言わず、風呂から上がったばかりの若藻のために用意した冷えた酒を差し出してやった。

 

「お、気が利くじゃないか」

 

 若藻はそれをすぐさま朱雨の手から奪い取り、杯を傾けて一気に仰ぐ。豪快な飲みっぷりだな、と朱雨は頬杖をついて、ぷはーっと気持ちよさそうな声を出す若藻を見つめた。

 

 風呂上がりのためか身に纏っている服は白いサマードレスのみだ。それもゆったりとしたデザインのため、動くたびにこぼれそうな双丘が目に痛い。スカートも膝より上にかかる長さなので時折ちらりとふとももが見え、その瑞々しさと淫靡さに大抵の男なら一発でノックアウトになる破壊力である。

 

 相変わらず美しい。朱雨は純粋にそんな感想を抱いた。ただし、例によってその感情は鉄壁の無表情を破ってまで表に現れる事はなく、人の表情を読むことに長けている若藻でも見抜けなかった。きっと見抜いていたらそれをネタにしつこく攻めて来ただろう。

 

 酒で一気に熱くなった体を冷ますように若藻は胸元をパタパタと仰ぐ。血流の良くなったほんのりと赤い肢体をおしげもなく晒しながら、若藻はそのままぺたぺたと歩いていき、食卓について朱雨を呼び付けた。

 

「朱雨、早く食事を出してくれ。こんな事をいうのもなんだが、もうお腹がペコペコなんだ」

 

 若藻は宿で出された食事を食べようとはしない。単純に不味いからだ。保存技術も満足にないこの時代では料理もそうそう凝れるものではなく、出てくるのは焼いた魚や木の実、黄米と呼ばれるキビ飯のみ。これでも民間で出せるものでは最高級の物なのだが、若藻はこれでは満足しないのだ。

 

 実は、昔はこれでも良かった。量こそ違えど食事の質は王宮のそれと比べても遜色はなかったからだ。しかし、朱雨がふとした時に出したある物を食べた瞬間、それらが全て色褪せてしまったのである。

 

「……お前も好きだな、若藻。もうこれで二週間連続だぞ? いい加減飽きはせんのか」

 

「いや全く。むしろあの味に飽きるという方が信じられないな、あんなに美味しいのに」

 

 呆れたように息をつく朱雨のジト目――しかしいつもジト目のような目なのであまり変わらない――に自覚がないといった態で若藻は真顔で首を傾げる。駄目だこれは、と朱雨は諦め気味に首を振り、若藻ご要望の品を体内から取り出した。

 

 食卓の上いっぱいに真っ赤な血液は広がり、ところどころが盛り上がったかと思うと潮のように引いていく。血液がきれいさっぱりなくなったそこには、ニンジンやシイタケなどが混ぜ込まれた酢飯が、しっかりと揚がった油揚げに包まれた料理――いなり寿司が鎮座していた。

 

「おお、いつ見ても美味そうだ! では早速――」

 

 ぱあっと目を輝かせる若藻は言うや否やいなり寿司を一つ、手に取って口の中に放り込む。とたんに幸せそうに頬を緩ませる様子を見ると、どうやら今回はお気に召したようだ。

 

 朱雨も手に取って半分かじった。さっぱりした味の酢飯と甘辛い油揚げの味が良くあっている。満足な出来だ。ふむ、と作った工程を頭の隅に記録して、朱雨はもう半分を口に含む。ゆっくりと咀嚼して飲み込んだ後、朱雨はもう一つ食べようとして手を伸ばしたが、細長い指にパシリとはたき落とされてしまった。

 

「食べ過ぎたお前。残りは全部私の物だ、一つも渡さんぞ」

 

「…………おい、私は五十個のいなり寿司を出して、まだ一つしか食べてないんだが?」

 

「充分過ぎるだろう、お前食べなくても生きていけるし。私は男から吸精したいのを我慢しているんだ、これくらいの役得はあってもいいじゃないか」

 

 フゥーッ、と毛を逆立てて若藻は威嚇してくる。しかしなんというか、ピンとたった狐耳が怒っている姿を愛嬌のある姿に見せているのは、やっぱり若藻の持つ美貌ゆえだろう。痛くもないはたかれた手をさすって、朱雨は食卓から窓際の椅子へトボトボと戻っていった。

 

 若藻が忙しく手と口を動かしている間、朱雨はお茶を入れ、若藻が食べ終わるのを静かに待つ。ただ待つのも暇なので、若藻と旅するに至った経緯でもなぞってみるとしよう、朱雨はそう思い、記憶の引き出しを開けはじめた。

 

 

 

 

 (さかのぼ)ること三週間前。凋落の国『周』で、朱雨は若藻と遭遇した。紆余曲折、というほどではない会話と口論を交わし、朱雨は若藻を置いてその夜が開けぬうちに周を出た。それから夜が明けても朱雨は黄河にそって歩き続け、ついに国境付近に辿り着いた際、またしても若藻と遭遇したのである。

 

 朱雨の率直な感想は「またか」であった。正直無視したかったが、若藻は妙に自信満々の悪い笑みを浮かべていたし、何よりその後ろにある国境の門番たちの目がおかしかったので、強行突破は断念した。たぶん幻術か何かにかかっているのだろう、下手に強行すればおそらく国中の追われ者になる。

 

「やあ、また会ったな、黒味の紅髪(こうはつ)。随分とくたびれた格好をしているが、まさか昨晩からずっと歩き通しだったのか?」

 

 朱雨の正面で堂々と仁王立ちする若藻は、余裕のある笑みで朱雨に言葉をふる。本当に、面倒な奴に絡まれた――朱雨はこれも運命とやらかと微妙に思いながら、若藻の言葉を無視して率直な疑問を返す。

 

「お前、一体何が目的だ? 私はこう見えてそれなりに忙しい。遊戯に没頭したいのなら、この場は見逃してやるからさっさと何処かへ行くんだな、狐」

 

 朱雨に質問を無視されて若藻は笑みを少し崩す。しかし、すぐに余裕のある表情に戻って更に言葉を重ねた。

 

「ふん、つまらない奴。女の扱いがなってないな。今まで余程女に縁がなかったんだろうな、お前。――いやあったのか? だとしたら救えない奴だな、女と付き合ってそんな無愛想にしかなれないなんて、ほんと、かわいそうな奴だ」

 

「…………(毒をよく吐く事だ)」

 

 朱雨は無言のままだ。内心では怒っている、というわけでもなく、冷静に若藻を観察しているだけである。しかし、よく朱雨がかつて女(永琳とかてゐとか)と共に過ごしていた事が分かったものだ。いわゆる勘か、それとも別の何かか。朱雨は警戒レベルを上方修正する。

 

 若藻の方も朱雨の事を測っていた。最初こそちょっとけつまずいたが、若藻も頭は良い。相手の様子を見つつ、自分の目的がちゃんと通るように計算していた。そして、朱雨が黙り込んだままなので、若藻は次の手段を使う。

 

「だんまりか。どうやら私の話に耳を貸す気はないようだな。いいだろう、だったら本題に入ってやる。単刀直入に言おう――私は、お前に興味が湧いた」

 

 途端に、若藻から突風が吹き荒れた。周囲の雑草が根こそぎ吹き飛ぶほどの強い突風――いや、これは妖気の風だと朱雨は見抜く。その妖気の風が止んだ頃、若藻に明確な変化があった。

 

 尻尾だ。若藻の背後で、九つの尻尾が揺らめいている。

 

 ……成程、あの余裕はそういう事か。朱雨は若藻の狙いを理解した。おそらくあれは威圧をかけて自分の目的を通そうとする作戦、敵が九尾の狐である事が分かれば大概のモノはすぐに畏れ慄くだろう。その隙を突こうというのが見え見えだが――いや、本当にそれだけなのか?

 

 朱雨の頭に小さな疑問が湧く。しかし、それに答えを出す暇はなく、若藻は笑みを更に深くし、犬歯をむきだして双眸を細めた。

 

「あまり、こうゆうのは好きじゃないんだがな……話し合いをするには便利なんだ。さて、私の要求は以下の通りだ。お前に興味が湧いたから、お前と一緒に旅をしたい」

 

「…………おおかた理解は出来た。お断りだ」

 

 若藻の話し合いという名の脅迫に際し、朱雨はようやくその目的を知る。つまりは、自分の色仕掛けと妖術がきかなかった存在に対して、朱雨と同じように『観察』してやろうという腹なのだ。それが分かった上で、朱雨はすぐに断る。

 

「なぜ?」

 

 断られるのを予想していたように若藻の質問は早い。笑みも変わらず余裕を保っている。不思議な事だ、妖力では朱雨がひるまない事を知っているかのような対応――何か、別に策があるのだろうか。朱雨はさっきの疑問を掘り下げつつ、若藻に回答を返す。

 

「なぜもなにも、私の旅に同行者は必要ない。理由は二つ。一つは同行者などいなくとも旅の生活には一切困らん。二つ、私は世界を縦横無尽に踏破している。山脈の上や日照りの砂漠、必要ならば海の底までな。そこまでついてこれる奴には現状会ったことがない。よって、同行者は不要だ」

 

「あらそう。なら仕方ないな。かくなる上は、お前の嫌いそうな事をするしかないか」

 

 断られるのも道理道理、とつぶやいて若藻は両手を横に広げる。浮かぶ笑みは苦笑に近く、正味何を考えているのか、朱雨には全く理解出来ない。

 

 だがまあ、一応は納得したようだし、この場から音速ギリギリで逃げ出せば解決するのではないか? そんな考えもよぎる。どうしたものかな。朱雨はこの時、四の五の考えず素直に逃げるべきだった。そうすれば、若藻に言いくるめられる事もなかったろうに。

 

「――人間って、噂話に弱いわよね?」

 

 その一瞬、若藻以外の音が止んだ気がした。朱雨は半開きの目を大きくして、若藻を凝視した。仮に朱雨が人間であったのなら、内心悪態の一つでもついただろう。なにせ、若藻が口走ったのは人間に関する事。それはつまり、朱雨が人間を危険視、あるいは天敵とみなしている事を見抜かれているという事に他ならないからだ。

 

「ほんと、人間は話に弱い。特に自分の知らない国からやって来た怪しい人間に対しての噂は、例えそれが眉唾のデマであっても信じてしまう。滑稽な事だ。ああ、そうそう。話は変わるが、私は噂話を流すのが大好きなんだ。吹聴した噂に踊らされる人間を見るのが楽しくてね。……ここまで言って、分からんお前でもないと思うんだが、どうかな?」

 

 若藻は心底楽しそうに笑う。その笑みの質が余裕から勝利のそれへと変わるのを目の前で見ていて、朱雨はため息を吐いて諦めざるを得なかった。だが、一つだけ聞かなくてはならない事がある。朱雨は肩と頭を落として、顔を上げずに若藻に問うた。

 

「……解せぬ事がある。お前は何故、私が人間を天敵視している事に気が付いた? 私はごく一部の者にしかその事を話してはいないし、当然ながらお前に話した覚えもない」

 

 そう、それだけが朱雨にとっての疑問である。人間を天敵視している事がばれればこうなる可能性も考えてはいたため、不用意に言葉を漏らすようなまねはしていない。にも拘らず、どうして若藻には分かったのか? それを若藻は、何を言っているんだというような呆れた表情で返す。

 

「あれだけ公然と人間を警戒していて、気づくなという方が酷だろう。あのレベルの警戒に気づかないのは人間位なもんさ。それに、お前も人間の中からかなり浮いていたしな。その癖恰好だけは一丁前に人間なもんだから、いやいやながら人間に化けていると踏んだまでだ」

 

「……成程、要は私の擬態不足か」

 

 それならば仕方ない、と朱雨は最後のため息を吐いた。若藻の方はと言えば、嬉々として朱雨に近づいてきてなぜか腕を組む。たわわに実った二つのふくらみがこれでもかというぐらい朱雨の腕に押し付けられてくるが、正直な所煩わしい上に動きづらい。ただ、

 

「これからよろしく頼むぞ、相棒」

 

 ……ただ、その時に向けられた若藻の満面の笑顔だけは、何よりも美しかったと、朱雨は記録している。知られると厄介ごとしか呼びそうにないから、その言葉は朱雨の脳髄の中だけに永遠にしまわれ続けるのだった。

 

 そしてまあ、現在に至るわけである。それまでも厄介ごとは多々あったと、朱雨は本当に泣きそうになった激動の三週間を思い出していた。

 

 そもそもはその衣装からだ。高級服以外は認めないし着たくもないという若藻のわがままにつき合わされ、その日のうちに国一番の服屋に引っ張って行かれて服を買わされるはめになった。理由は全く不明だが、代金はすべて朱雨持ちである。

 

 しかしその時代の金銭を全く所持していなかった朱雨にそんな金が払える筈もない。仕方がないのでこっそりと血中から黄金を生成して支払う事に。だが、その様子を若藻に見られていたのが朱雨の更なる運のつき。言うなれば地獄の釜が開いた時である。

 

 朱雨を金の成る木と見るや否や、若藻は諸国豪遊の旅をしたいと言い出したのだ。流石にそれは目立ちすぎるので勘弁願いたかったが、拒否権などある筈もなく。泣く泣く、本当に泣く泣く黄金を生成し続けて若藻を豪遊させてやらねばならなかった。

 

 更に更に朱雨の受難は続く。一日を遊びつくしてようやく宿で羽を休めた朱雨と若藻。特に朱雨の方はかなり疲れていたので、久々に永琳達と一緒にいた頃はよく入っていた湯船に浸かって骨休めをしていた。そう、自前で用意した湯船に浸かって、である。

 

 この夜の灯りにも苦労する時代、お湯を沸かして浸かるなどまさに王族などにしか許されなかった究極の贅沢だ。それを、あの若藻が見逃すはずがなかった。

 

 朱雨は肩まで湯船に浸かって口笛を吹くぐらいにリラックスしていた。そこに全裸の若藻が突貫してきたのだ。私も入れろ、そう叫んで湯船に飛び込んでくる若藻に朱雨は見惚れる暇もなく激突する。疲れをとるはずの入浴は疲れをうみだす場となってしまい、たっぷり一時間湯船を楽しんだ後の若藻の「明日もよろしく」という一言に、朱雨はもう限界に近くなっていた。

 

 とまあこんな感じで、暴虐不尽というか唯我独尊というか、とにかくハチャメチャなわがままっぷりを発揮する若藻との旅は本当に大変だったのである。そしてそれは、現在も進行中というわけだ。

 

「んくっんくっんくっ……ぷはーっ! ああ旨かった。やはりこの『油揚げ』を使った料理は絶品だな!」

 

 大きな湯呑に入ったお茶を一気飲みして、若藻は見た目が全然変わらないお腹をさする。おかしい、軽く五十個はいなり寿司を食べた筈なのに……女体とはすなわち神秘なのだと、朱雨はかつて永琳が言った言葉を思い出していた。

 

 しかし、と朱雨は思う。ここ数週間、若藻に振り回されてばかりだが――あまり、悪くない時間だと。それは、かつて永琳達と出会った時に感じた小さな安心感のような、朱雨が故郷を旅立つときにどこかで求めていたナニカだった。

 

 朱雨がじっと見つめている事に気づいた若藻は、流石に気恥ずかしいのか、お腹を押さえて頬に朱が差す。

 

「なんだ、じろじろ見て。食事をした後の女をねめつけ回すなんて、礼儀がなってないぞ、朱雨」

 

「……ん、ああ、すまない。少し考え事をしていてな。というかもうあのランタンしまっていいか? 私にも燃費、というものはある」

 

 朱雨は夜の部屋を明るくしている、部屋の四隅に置かれたランタンを指さす。これも朱雨が使い、若藻が見つけ、そのまま常用されるという三段論法(間違い)で使われるようになった品の一つだ。

 

「む。何を言っているんだお前。まだ例のやつが終わっていないじゃないか」

 

「ああ、そうだったな。これは失礼、雑念がひどくてつい忘れていたよ」

 

 そう言って朱雨は立ち上がり、必要のないランタンを消していく。ここから先に下手な灯りは要らないのだ。そう、互いの輪郭が見える程度で、十分だから。

 

「朱雨、朱雨、早くシてくれ、私はもう我慢できないぞ」

 

 若藻の方はというと、ベットの上で四つん這いになっている。頬は上気し、少なくなった灯りに照らされる肢体はどことなくいやらしい。よく見ると息も荒くなっており、もじもじと股をこすり合わせている。

 

 ひどく扇情的な格好だ。朱雨でなければ、いや、朱雨であってもその姿を見れば不意を突かれたように硬直するかもしれない。どこがとは言わないがそれはもうバッキバキに。怒髪天を衝くが如く。

 

「そう慌てる必要もあるまい。夜は長いんだ、先にやる事を済ませてしまえば、後はゆっくり出来るさ」

 

 朱雨の方はというと、なんと腰に巻いた帯を取り始めた。この土地柄特有の色合いの服の下から、鍛え上げられた筋肉が垣間見える。手に持ったランタンがゆらゆらとゆれるせいか、朱雨の身体も陰影が映え、どこか大人の色気、というものを感じさせた。

 

 上半身の布を取った朱雨は、ゆっくりとした足取りでベットに向かう。若藻は「我慢できない……」と甘い吐息混じりに呟き、息はさらに加速していた。そして、朱雨は若藻に手を伸ばして――

 

「だから、さっさと(かわや)へ行ってこい。我慢は体に毒だ、出来んと分かっているならなおさらな」

 

 ぺしりと若藻の頭をはたいて、疲れたように呟いた。きゃう、と可愛らしい悲鳴を上げて涙目で睨んでくる若藻を尻目で見て、今度は体ごと持ち上げて扉の前に放り投げる。「もっと丁重に扱え!」といいつつ扉から若藻が出ていくのを確認すると、朱雨は代えの寝巻を取り出した。変な展開を期待されただろうが、残念ながらそんなものはないのである。

 

 さて、女性が花を摘みに行った時間をはかるのも野暮というものなので、若藻が戻ってきた時点から再び話を再開しよう。互いに寝巻に着替えた二人は、旅の中で恒例となった事をやり始めた。それは、互いの身の上話を話す、というものである。

 

「朱雨、お前の話はいつになったら進むんだ? ここ二週間、お前が宇宙とやらで彷徨って彷徨って彷徨い続ける話しか聞いていないぞ? いい加減、お前に油揚げの作り方を伝授した女の話にはならんのか」

 

「まあ待て、物事には順番というものがある。この話は、私というものを語る上では欠かせない物語だ。心して清聴して頂きたいな。心配するな、今話している事項を語り終えれば、私が辿り着いた天照国の事を語ろう」

 

「今話している事というのは……あれだろ? いしゅたむ、とかいう奴等の話。正直私には壮大過ぎて理解が及ばないんだがな。ていうか、お前は本当に身の上話を語っているのか? 作り話とかじゃないよな?」

 

「失敬な。私はいつだって大真面目だ」

 

 若藻の視線は懐疑的だ。しかし、当然の反応なのかもしれない。地平に限りがあると言われるこの時代、宇宙の事について話しても通じないのが普通である。そもそも天動説が主流なので、それに真っ向から対立する朱雨の話を作り話というのも仕方がなかった。

 

「……まあいいや、面白いし。ほら、さっさと話せ」

 

 若藻はまだ疑惑の目を向けていたが、面白味があればよしとしたのか、朱雨の背をせっつく。朱雨は促されるままに、自身の旅路、そして今まで何を考え、何を思って来たのかを話す。そうして夜は更けていった。

 

 

 

 

   आयुस्

 

 

 

 

 夜中にいつしか決まり事が出来たように、彼らには日中にも決まり事がある。それは朱雨が宿泊売買豪遊全ての金銭を支払う事。その代わりに、若藻が人間らしく振舞う方法を朱雨に教えるというものだった。

 

 奴隷と裕福層の人間が入り混じる雑踏の中、彼らはいた。白いワンピースに藍色の前掛けと変わらない格好をした若藻と、男性が着装するものでも特に高級な一張羅を着込んだ朱雨の二人は、店頭に並ぶ商品を見ながら時折言葉を交わしている。

 

「朱雨、あの宝石なんかどうだ? かなり魔力が籠っているし、相当の年月を経た逸品だと思うんだが」

 

「フム……欲しいと言うなら買おう。ただ、看板に偽りがある。あれは純粋な金剛石ではなく混じり物だ。カットも単純、見た目にも悪い。あれをお前が満足するような輝きが出るまでカットするとなると、せいぜいが半分といったところだな」

 

 しなやかな細い指で店頭の一角を差す若藻に対し、朱雨は持ち前の観察眼でその品質のみを見通す。魔力や呪術的な要素は見分けられない分、朱雨の物理的な視点はかなり高いレベルなので、それを若藻は重宝していた。

 

「そうか……残念だな。あれは綺麗な(まじな)いの道具になりそうだったのに……」

 

 朱雨の評価に肩を落として、若藻は名残惜しげに宝石を見る。頭部の狐耳をペタリとさせて口元に指をあて、ちょっと涙目になっている表情はそれだけで心をえぐりそうな凶悪な可愛らしさだった。

 

「なに、あの程度の宝石ならいくらでも見つかるさ。それより、お前が望む魔力憑きかどうかは知らないが、旧い時代の大きめの宝石ならあちらにある。それを見に行こう」

 

 それにほんの少しだけ見惚れつつ、朱雨は宝石をじっと見つめる若藻の腕を引っ張る。予想外の強い力にたたらを踏む若藻は、ちょっと怒って朱雨に文句でも言おうとしたが、黒味がかった紅い髪の間からのぞく朱雨の横顔が少し絵になっていたので、見とれて怒る機会を逃してしまった。

 

 二人して無言のまま、彼らは雑踏の間を縫う。見れば若藻の顔は少し赤くなっており、どことなく恥じらっているようだ。いくら数多の男を落としてきた傾国の美女とは言え、こうやって普通の恋人同士のように街中を歩くという事には慣れていないのかもしれない。

 

 ところで、ここまでで違和感を感じた方もいるのではないだろうか。そう、真昼間の人間達の中にいるというのに、狐耳を露出したままの若藻と髪が紅いままの朱雨の二人の事で、どうして騒ぎになっていないのか、という点だ。

 

 もちろん、これには理由がある。朱雨は擬態のスペシャリストだ、その気になれば犬だろうが猫だろうが生きているのなら何にでもなれる。人間の姿をしている時は外見的な特徴として黒い灰を被ったような赤い長髪をしているが、別に色が変えられないという訳ではない。

 

 今までは必要がないと考えていたからやらなかったが、若藻と旅する以上、そうも言ってはいられないだろう。若藻の方も朱雨と同じような手段で人間の目をごまかしていると思ったから、朱雨は肉体の造りから変えようとしたのだ。しかし、それをしようとしたら若藻に爆笑され、もっと簡単な方法があると言われて、一枚の紙を手渡されたのである。

 

 それは筆で漢字が書かれた細長い紙だった。正直なところ朱雨には縁のない代物だったが、一応知識としては知っていた。確か、永琳達がよく使っていた御符というものだった筈だ。

 

 朱雨は当初、御符を渡された意味がよく分からなかったのだが、若藻が俗に言う変化の術を使った事で理解した。つまりこれは、人間の目を誤魔化す為の認識阻害装置なのだと。

 

 とまあそういうわけで、彼らは何の気兼ねもなく人間の国を白昼堂々闊歩する事が出来るのである。もちろん、そういった妖術の類を見破る為の仙人やら何やらが居ないわけではないが、若藻の術は一級品なので一流にしか見破れない。そして、その一流達は王族の御用達なので、王様やその側近に近づきさえしなければ、ばれはしないのだ。

 

「おお……! 朱雨、これなんかいいんじゃないか!? 十分すぎるくらい魔力が宿っているし、何より綺麗で大きい! これを見逃す手はないだろう!」

 

 と、ちょっとした説明をしている間に、どうやら二人は目的の市場についたようだ。着いた瞬間すぐさま掘り出し物探査機と化した若藻は、一分足らずでお眼鏡に叶うものを見つけたらしく、興奮した様子で朱雨を引っ張っていく。

 

「ほう、これは……素晴らしい、これほどまでに純度が高い代物をこの程度の技術力しか持たない人間が掘り出すとは……これは紛れもない一級品だ。店主、この宝石を言い値で買おう」

 

 宝石を検分した後、やたら感心した様子で朱雨は頷き、珍しく少し大きな声で店主を呼んだ。すると、店の奥からしきりにごまをするいやらしい笑顔の店主が現れる。

 

「へへえ、これはこれは。この宝石に目をつけられるとは、お目が高いですな~旦那様。そうでしょうそうでしょう、何しろこれははるばる西からやってきた旅の商人から高値で買った一級品で御座いますゆえ! いや~相当苦労して手に入れたそうですよ~、言葉の通じない異人たちと身振り手振りを交えて商い、ただっぴろい砂漠を何日も何日も決死の思いで渡ってきた――」

 

 出っ張った前歯をさらに出っ張らせて、店主は大げさなリアクションをして商品の説明をする。やれ高かっただのやれ苦労しただの、その説明の節々からは「絶対に安くは売らない!」という商売魂があからさまに透けて見えた。

 

 店主の長い話は、朱雨の方は特に苦痛でもなかったのだが、若藻の方はそうでもなかったらしい。話の合間にふと若藻の顔を覗き込んだ朱雨は、若藻の形相を見た瞬間に覗き込んだことを後悔し、慌てて顔を逸らしていぶかしむ店主に無用な笑顔を向ける。しかし、そっと肩に置かれた柔らかな手からは想像できない力で肉ごと骨を掴まれ、若藻の口元に引き寄せられた耳からドスのきいた声で一言。

 

「さっさとこいつを黙らせろ」

 

 恐怖、は流石に朱雨は感じないが、危機感と脱力感が全身を駆け巡る。朱雨としては別に長話を聞こうが不愉快だろうが、それが穏便な方法であればそれを選ぶのだが、どうやら若藻はそれを許してくれないらしい。朱雨は疲れの伴った長いため息を吐いて、懐に手をやった。

 

「店主」

 

「んん? なんでございましょうか? まだこちらは価格を提示しておりませんが……!? な、ななななななああっ!? そ、それは!!」

 

 つらつらと話をしていた店主は、ようやく客に呼ばれたのでやや不機嫌そうに表情を形作ってちらりと客を見る。ここらあたりで音を上げてさっさと金を払っていこうとするはずだと考えていた店主は、ここぞとばかりに法外な値段を提示しようとして、無造作に放り投げられた物体に目玉が飛び出そうになるくらい驚愕した。

 

「き、金っ!? こ、こんな大きな金、今まで見た事がない……! あ、あんた、いや、貴方様は一体……!?」

 

 店主は地面に転がった金の塊に飛びついて手に取る。ずっしりとしたこの感触、間違いなく純金……! 見た事もない財宝に目を回す、あるいは欲望に目をくらませる店主は、客である朱雨を見上げてさらに驚愕する。

 

「あいにくと忙しいのでな。さっさと切り上げたいんだ。これで足りるかな?」

 

 両手いっぱいの金、金、金! あろうことかこの客は、並みの商人が一生かかっても手に入れられるかどうかわからないほどの量の金を持っているのだ!

 

 店主は完全に目を回し、ただこくこくと頷くのみ。目の前にある現実があまりにも信じられなくて、夢かどうか疑っているのだ。まあ、店主が正気に戻ってもっと量を請求されるのを避ける為、朱雨が狙ってやった事なのだが。

 

 店主の驚きが醒めぬ間に、朱雨はお目当ての宝石を素早く懐にしまいこんでその場を後にする。若藻はというと、あまりの出来事にざわつく民衆に向けて極上の笑顔を振りまいてその場を後にした。笑顔と共に、忘却の妖術をかけるのを忘れずに。

 

 以上が、若藻と朱雨の旅の一齣である。こんな感じで彼らは各地を転々とし、贅沢の限りをつくし、ありとあらゆる物欲を極めた。

 

 朱雨にとって、それは悪くない時間だった。今までで一番苦労をしたし、本人に自覚はないものの、精神的な疲労というものを味わった。しかし、それゆえに何というか、今までで一番満たされていた、と感じるのだ。

 

 若藻にとって、それは幸せな時間だった。朱雨は一向に靡かないし、王族たちを傀儡にしていた頃ほどは遊べなかったけれど、とても幸せだったのだ。なぜなら、こんな何でもない時間こそ、若藻がもっとも欲しかったモノだったから。

 

 しかし、その悪くない、幸せな時間というものは永遠ではない。始まりがあるものには終わりがあり、時にそれは、どうしようもない結末として立ちはだかる。ほんの些細な食い違い、とても小さなきっかけで。

 

 彼らが旅をともにして、そろそろ一年という頃。分裂した国のほぼ全てを巡り終えた彼らは、どこかよそに行こうという話になった。そして、それで意見が食い違った。

 

 朱雨は輪廻転生の観念を持つ地に赴きたかった。若藻は遥か西洋に思いを馳せた。

 

 ただ行き先が両方とも違っただけの話。そして、彼らはとてもかたくなだったのだ。折れればいいのに我を通して、そして、別れる事になる。

 

 では、その最後の一夜から話を再開しよう。彼らの旅路、その最果てでかわした、互いに零した告白を。

 

 

 

 

 どうして、この風景だけは変わらないのだろうか。若藻は(さかずき)に注いだ酒を見ながら、ひっくり返った天上を揺らす。波打つ透明な酒に写る、黒い空と銀色の月。どんな時でもおんなじように光り輝く、とても綺麗で、寂しい景色。

 

 はあ、と若藻は息を零す。その息はとても小さくて、耳を澄まさなければ聞こえないくらいだった。しかし、その小さなため息に、どれ程の感情が詰まっていたのだろう。それは、ため息を零した若藻にだってわからなかった。

 

 ぐいっと、これ以上感情を零さないように若藻は一気に杯をあける。そして、若藻は机が揺れるくらい強く杯を置く。まるで物にやつ当たる子供みたいだ。自嘲気味にそう思ったって、若藻はそうせずにはいられなかった。

 

 そうして、そのまま腕の中に顔をうずめる若藻の杯に、朱雨は静かに酒を注ぐ。その動きによどみはなく、その表情に変わりはない。いつも通りの感情のなさ。そして、いつも通りに見える無表情を、朱雨は静かにたたえていた。

 

 双方、互いに言葉はない。朱雨も若藻も、互いを見ずに酒ばかり呑む。それなのに、互いに空っぽになった相手の杯に酒を注ぎ合っていた。言葉を交わさずとも、お互いの事を解り合っているのか。それとも、もう言葉を交わす必要もないほどに、議論を繰り返し尽くしたのか。

 

 それはどっちも間違いで、それはどっちも正解だ。二人にはまだ、言葉での会話が必要で、でも、それももう残りわずかなのだ。

 

「――――私は」

 

 唐突に。何の前触れもなく、言葉が響く。小さなそれは他の音に紛れずに相手の耳に届き、それでも、互いに目を合わせなかった。そのまま、口を開いた主、若藻は言葉を紡ぎ続ける。

 

「…………私は、たくさんの男を騙してきた。人間、妖怪、神様問わず、男だったらなんでも構わず、身体と言葉で騙し続けた」

 

 声は小さく、それは会話ではなく独白に近い。実際、若藻は朱雨に喋っているつもりではなかったのだ。ただ、いつもは美味い酒が今日だけは少し苦くて、そのせいで口をすべらせている、つもりだったのだ。

 

「罪悪感がなかったわけじゃない。恋人のいる男を寝取る事に、後ろめたさがなかったわけじゃない。でも、それを感じたのは最初だけ。何回もやって慣れてきた頃に気づいたんだ。私はただ、それが面白かったからやっていただけなんだって。それが私の……九尾の狐としての、自分を保つために必要な事だって誤魔化していた」

 

 空っぽの杯に、新たな酒が注がれる。注がれた酒が弾ける音が、やたらと耳に(さわ)った。

 

「それからはもう、ためらいなんてなかった。遊び半分で男に貢がせて、真剣に愛してくれる奴等には、一度だって身体を許してあげなかった。それでもみんな私に群がってきて、ちょっと笑ってあげたら馬鹿みたいに喜んで……本当、涙が出るくらい笑える、かわいそうな人たちだった」

 

 いつしか風も止み、ただ月明かりだけが彼らを照らす。その綺麗な丸い姿を凪いだ水面に投射する満月は、同じように静まり返った杯の中で怪しく輝く。

 

「でも、それもすぐに終わる。私はあの人たちとは違う時間を生きているから、すぐにばれてしまうんだ。私が、化け物だってことが。愛情が一気に憎悪に変わって、あんなに優しかった腕を、私を殺す為だけに振るっていた。そんなものじゃ、私は殺せないっていうのに。だから私は彼らを嘲笑(わら)って逃げるんだ。笑って逃げて、一人になって。その時が一番、(むな)しかった」

 

 もう、若藻の手に杯はない。机の中央に置かれた呑み手のいない酒は、ただただ月を写しだす事に専念している。それに見向きもせず、若藻は両腕に顔を沈める。

 

「一人になると、分かってしまうんだ。私は、ずっと孤独なんだって。だってそうだろう? 男を騙して女に憎まれて、それで私は男の気持ちに答えてやらないんだ。いつも、いつも、いつだって。そうやって私は、自分から独りになる。そして、夜中にいつも震えるんだ。だれも寄り添う人の居ない、暗く寂しい穴蔵で」

 

 いつの間にか、杯の酒が波打っていた。小さく細く、こまかな揺れは、若藻の方からやってきている。若藻の肩は、震えていた。金色の髪は、揺れていた。

 

 若藻は、泣いていたのだ。

 

「……独りは、嫌だ。……独りは、もう御免なんだ。……もう、あんなに冷たい石の上で泣き続けるのは、嫌なんだ。自分の尾にすがって朝を迎えるのは、嫌なんだ。……だから、どうか……お願いだ……」

 

 私を、独りにしないでくれ――――

 

 最後の言葉は、声にならない。若藻の嘆きは、朱雨に届かず喉奥で消える。だからなのか、朱雨は黙して語らない。ただ、何処とも知れぬ中空に視線を這わすのみ。

 

 ……いや、違う。朱雨ほどの五感の持ち主なら、喉を震わせずとも喉元までせりあがって空気の量で、何を言いたかったのかは分かる筈だ。それでも、何も答えないというのなら。彼は、分かっていて言葉を返さなかったことになる。

 

 何故、朱雨は何の言葉も返さないのだろう。ある程度は分かる筈だ、若藻がどれ程苦しんでいるのか、模倣された感情を持つ今の朱雨ならば、分かる筈なのに。

 

 朱雨は、何も語らない。ただ、(ソラ)に視線を這わせる。一定の軌道を描いて、一定のリズムで這わせ続ける。そして思うのだ。

 

 結局私に、心を理解する事は出来ないのだと。

 

 ああ、なんて単純な答えなのだろう。朱雨には、分からなかったのだ。どれだけ模倣した感情を所持しようとも、「孤独」というものを、朱雨は理解し切れなかったのだ。だから言葉を返さない。いや、言葉を返せない。神亡朱雨という生命は、悪くないと感じていた時間の中で、何一つ学び取れはしなかった。

 

 これが、彼らの交わした最後の会話である。この後ついに、彼らは言葉を交わす事なく、日の出とともに袂を分けた。互いに互いを見送ることなく、見事なまでに背を向けて。

 

 朱雨は、その別れを辛いとは思わなかった。立ち止っている暇はない、この世界には、いまだ見ぬ進化の軌跡があると、自らに言い聞かせ続けていたから。

 

 若藻は、その別れが今までの何よりも辛かった。若藻に惚れず、若藻を求めない朱雨は、どの男よりもありのままの自分を受け入れてくれたから。その暖かな揺り籠と別れるのは、何よりも辛く、寂しかった。

 

 

 だが。彼らに後悔はない。

 

 

 辛く、寂しい別れではあったけれど。

 

 

 どうしてか互いに、確信していたのだ。

 

 

 長い、永い生涯だ。縁があれば、また会えるだろうと――――

 


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