東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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大陸を渡り、朱雨は凋落の国をゆく。

 

 

 

 

 縁とは実に奇妙なものだ。善いも悪いもかえりみず、全ての生命(いのち)を繋いでいく。

 

 

 

 

 昼の喧騒は好ましくない。雑多な光、雑多な音。道端に寄って話し合い、商店をひやかしながらまわり、狭い路地で擦れ違う。人の営みというのはそんなもので、大地を這って行列をつくる蟻のようなそれは、(ひしめ)く血潮の流れを思わせた。

 

 藁葺き屋根とござを敷いただけの簡素な商店には、店主の前にところ狭しと小奇麗な商品が並んでいる。カットも装飾もない、ただ穴の開いた石に紐を通しただけのそれは、どうやら道行く人の足を止めるには十分のようだ。

 

 一方で、ボロ衣を着て足枷を引きずっている人間もいる。裕福そうな人々が楽しそうに笑い合う横で目を地に落としながら荷物を背負う彼らは、奴隷と呼ばれる者達だ。人としての扱いをされない、人間だった道具である。

 

 そういった持つ者、持たざる者達が日々を生きていく中、道行く人々の目を引く、ひときわ目立つ影があった。

 

 黒混じりの赤い髪を垂れ下げ、その陰に揺れる鮮血の目。仮面をつけていると言えば納得しそうな感情の無い顔は、良く見れば整っている。色味のない白い肌は、明らかに周りから浮いており、彼が異人である事を物語っていた。

 

「鬼だ……」

 

 誰かが呟く。黒髪、黒目、黄色の肌を持つ彼らにとって、滅多に見ない異国の民は、すなわち「鬼」だった。実際にそうであるかは関係なく、普段目にする人間達とはあまりにもかけはなれた風貌のため、異人は影で「鬼」と呼ばれるのだ。

 

 辺りでひそひそと声が飛び交う。抑えられた声は通常、何を話しているかは分からないものだが、彼にははっきりと聞こえていた。好奇、恐怖、あるいは侮蔑。総じて良くない感情を向けられている。

 

 だが、そうと知っても、彼は何も感じなかった。元々そんなものはないし、どこに行っても人間の対応はそんなものだったので、慣れ切っていたからだ。

 

 彼――朱雨は目線をさえぎる髪を掻き上げ、遠くに見える城を見上げる。特に意味のある行為ではなく、単に思い出していただけだ。自分が今、どこにいるのかを。

 

 ここは周。自身の名前である「朱雨」と同じ音を持つ、かつて栄華を極めた大国の成れの果て。黄河の中流を陣取る、(とうと)き権威の残骸である。

 

 

 

 

 悩みの晴れた朱雨は、精力的に世界を放浪した。気の向くままに限りなく、あるいは山へ、あるいは海へ。ある時には死海の底を歩いた事もあり、またある時には燃え滾る灼熱の溶岩へ身を投げた事もあった。

 

 ある一種の生物に擬態して、群れの中で生活する事もしばしば。期間は大体一年ほどかけ、朱雨は百年を目安に地球を一周していた。一か所に留まるより、流れながら観察した方が変化を見出しやすいからだ。

 

 楽しみは後にとっておくものだと、永琳に教わりもしたのだし。

 

 しかし、世界を放浪する旅路にはいくつか気をつけなければならない事があった。その一つが、人間との接触の仕方だ。

 

 正直なところ、朱雨にはもはや人間の生態を観察する意義がない。人間は環境によって体を造り替えるような事はしないため、どこに行っても大体同じような生活をしている。だから一か所だけを見れば十分なのだ。

 

 それに朱雨はすでに人間の進化の極致を見てきている。今は月に住まう幻想の民、月人が地上で築き上げてきた国に何百年も滞在して仔細に至るまで観察しきっているので、今更原始的な文化発達の過程を見る事に意味がなかった。

 

 だが、人間は侮ってはならない。

 

 朱雨はどんな状況下でも油断と慢心はしないよう心掛けている。しかし、人間に対してだけはそれに警戒も加えていた。

 

 人間は嘘をつく。

 

 動物は体を周囲に溶け込ませたり、毒々しい色になって毒を持っているように見せかけたりする。それは一度調べてみればわかりやすいのだが、人間はそれに加えて言葉でも嘘をつくから厄介だ。心と云う調べる事の出来ないモノを持っている以上、下手な刺激は出来ない。

 

 人間は賢い。

 

 これは言うに及ばない事だ。今はまだ強い兵器や効率的な能力運用の出来る人間はそうそういないが、詐欺と知略に関しては他の追随を許さない。一部にはとんでもない策士もいるので、気の抜けた行動をすれば残忍な罠にかかってしまいかねない。

 

 人間は臆病だ。

 

 これは生物にとって何よりも重要な能力だ。危険を事前に感知し、自身の生命を危機にさらすモノには全力で対処する。恐れられ、崇められるのなら運がいい。もし敵とみなされれば、二度とその地を踏むことが出来なくなるだろう。

 

 だから朱雨は人間の住む地に入る時、わざわざその場所の文化を見よう見まねで模倣して、人間の目の届く範囲で人間に擬態してきた。

 

 しかし先に述べたとおり、この時代の人間では朱雨の観察対象にならない。よってその場所その場所の文化に適応することがなく、結果として髪の色や肌の色を変えず、また異国から来たにしては荷物が全くないなど、怪しい人間ととらえられてしまっているのだ。

 

「――まあ、それがどうという訳でもないのだがな」

 

 所詮は奇異の視線だと、朱雨は斬り捨てる。人間は馬鹿ではない、外来の異人がいれば噂話もたつだろうが、すき好んでちょっかいを出すような奴はそうそういない事を、朱雨は今までの経験から理解していた。

 

「だが、それでも愚物はいるものだ。長居は無用か、さっさとこの地を出るとしよう」

 

 南半球で一番大きな大陸で、邪神信仰の部族に追い掛け回された事を朱雨は思いだす。奴らの信仰は常軌を逸しており、文字通り死ぬまで追いかけてきた。あんな目には二度と会いたくないので、朱雨は出口を探す。

 

 この辺りの人間達は、国を建国する際、都城制という方針に則って都市を造る。都城制とは、儒教の条坊制と呼ばれる都市開発の計画にそって造られた都を指す言葉で、思想を元にしているらしい。

 

 しかしこれまで朱雨が見てきた中で条坊制に完璧に該当する王城を見た事はなかった。時の権力者の気紛れか、はたまた民草の要望か定かではないが、少なくとも十やそこら見てきた限りにはなかった。人間というものは、信じる神の教えにさえ反するものらしい。

 

 実際には儒教は神への信仰ではなく、人の思想を元にしたものなのだが、朱雨は知らないし、間違っていたとしてもどうでもよかった。どうせ心の在り様や人間らしい生き方などという愚かな論争が続いているだけなのだ。食事と睡眠と性交をしていれば、生物として充分であるとヒトは分かっていない。

 

 人の文化もそうだ。快適に過ごす為の建築技術や家畜の飼育、食用植物の栽培などは評価できる。認めたくはないが、政治というものも高度な知能生命を統率する上で許容しよう。だが、なぜ人は娯楽にまで力を入れるのか、それだけが朱雨はどうしても許せなかった。

 

 文化と云えば華があろう、だが、それは断じて無意味だ。遊戯を楽しむ? 芸術を愛でる? 思想に耽る? 心を癒す? 鼻で笑ってしまう程に不愉快だ。どれもこれも時間をただただ浪費するだけで、何一つとして進化に結びつかない、腐乱したゴミ山よりも汚らしい廃棄物の塊だ。

 

 そう強談すれば批判もある。曰く、娯楽があってこそ人は活発になり進化する。曰く、娯楽によって真理が解き明かせる事もある。娯楽は決して無駄ではなく、むしろなければ人は人として生きる事は叶わない。

 

 確かにそうだ、認めよう。だが、朱雨は決して許容しない。娯楽による進化や解明はただのイレギュラー、いうなれば突然変異の類でしかない。それはただの害悪だ、生命とは、そんな物に左右されないありのままであるべきだろう。

 

「そうだ――命の営みさえ娯楽と称し、欲望なるモノを満たすのみに終始する。それこそ、人間の愚劣さを示す最たるもの」

 

 闇雲に出口を探していたせいかかなり時間が立っており、大陽も既に傾きかかっている。光が貴重な時代だ、日没に合わせて人の姿も段々とはけていった。斜陽が満ちる赤い建物に人が入っていき、道にはもう、朱雨以外に誰もいなかった。

 

 しかし、朱雨の耳にはあちらこちらから息づかいが感じ取れていた。どうも、にわかに活気付いてきているようだ。

 

 それもそうだろう。ここは夜に目覚める桃源郷。快楽と一夜の甘い夢を求める男達が集う、絢爛にして淫靡な甘露を味わう花園だ。そしてそれこそ、朱雨が何よりも許し難いと感じている、本能さえも強欲に貪る人間の浅ましさがはっきりと現れている場所でもある。

 

 妓院(ぎいん)と呼ばれるそこは、詰まるところただの売春宿だ。妓女という売春婦達が歌や踊りで、必要ならば寝床の上で男を満足させるために日々美しさを磨いている。妓女にもいくつかの階級があるそうだが、朱雨はそこまで詳しくはしらない。ただ、直接男の元に出向いて体を許す者がいる事は知っていた。

 

 別に調べたわけではなく、夜の人間の街を歩いているとそこかしこの家の中から聞こえてくるのだ。艶の混じった声、欲望を掻きたてる水音、興奮した荒い息づかいが。交尾の邪魔をする気はさらさらないが、正直聞いていて気持ちの良いものではない。

 

 中には欲望を抑えきれなかったのか、そこらの物陰で行為に及ぶやからもいるから始末が悪い。交尾中は基本的に無防備だから巣穴に籠ってやればいいものを。そんな馬鹿をするから最中に妖怪に襲われて殺される者たちを、朱雨は何度か見てきていた。

 

 そういった欲望の末路を見ていると朱雨はいつもこう思う。本能を欲望として消費するから、使うべき所で危機を察知し切れないのだと。永琳が居たあの国には感涙すら覚えたが、発展途上の文化では感涙どころか関心の一つさえも引っかけられない。だから簡単に断定出来た。人間の文化は、もはや見るにも値しないと。

 

「……、生臭いな」

 

 考えに没頭していた朱雨は、いつの間にか住宅街を抜け、広々とした広場に出ていた。石畳が敷かれ人の手が加えられた大きな石が理路整然と並んでいる。整備もきちんとされており、雑草の一本も生えていない。中々きれいな所だったが、生気の感じられない空寒い場所だった。

 

 おそらく墓場なのだろうと、朱雨は当たりをつける。この国に限った事ではないが、人間は先祖崇拝なるものをする。死後の霊魂には力があると信じ、彼らが生者に危害を加えないようしっかりと供養するのだ。肉体は死ねばただの養分でしかないが、霊魂はそうもいかない。特に人間の魂は時に神にすら届く力を持つため、こういった儀式は必要なのだ。

 

「……早く出よう、ここは死臭が強すぎる」

 

 しかし、それは間近に死臭の強い場所、死に誘う霊域をつくる事になる。厳しい自然を生きる生命達よりは死から遠い人間ならば耐えられるだろうが、朱雨はそうもいかない。朱雨がどれ程強くても、やはり死は忌まわしいもの。死に近い場所に長くはとどまりたくないというのも道理だろう。

 

「――もし、そこの美しい紅髪(あかがみ)の御方」

 

「……誰だ」

 

 しかし、それは叶わなかった。この墓地に一か所しかない出口、そこにいつの間にか淡い絹のみを体に巻いた、朱雨が見てきた誰よりも美しい女が立っていたからだ。

 

 いっそ荘厳ささえ感じるほどの妖艶な女だった。黄金の小麦畑を彷彿とさせる短めの髪、薄く淫らな微笑みを浮かべるふっくらとした赤い唇、筋の通った鼻とすっきりとした頬。パーツの一つ一つが素晴らしく、しかもそれらが絶妙な配置に置かれている。

 

 体の方も実にエロティックだ。薄い絹に覆われただけのはち切れそうな乳房とうっすらと透けるピンク色の頂点。頭から足元まで美しいラインを描き、腰のくびれが妙に艶めかしい。程よく肉のつまったお尻は見るからに柔らかそうで、もしこの女に靡かない男が居たとしたら、そいつは同性愛者か不能で間違いない。そう言い切れるほどに、その女はあまりに魅力的だった。

 

 だが、朱雨は何よりもその眼に心を奪われた。いや、正しくは一番関心を寄せたのは女のきらきらと輝く金色の眼だった。見つめているとどこまでも吸い込まれてしまいそうな、それでいて男を挑発する威風堂々とした女の瞳。その奥で光る見落としてしまいそうな小さな弱さ。その瞳はあまりに美しく、そしてあまりに扇情的だった。

 

「私に何の用だ」

 

「そう邪険になさらないでくださいまし。わたくし、今宵をしのぐために身を預ける場所がないのです。外は肌寒く、恐ろしい妖怪達が人間を食べようと牙をむいてうろついています。このままでは、わたくしはきっと妖怪の贄となり、むごたらしく殺されてしまうでしょう」

 

 ほう、と頬に手を当てて目を潤ませる姿は、それだけで城一つが立つほどの値段をつけられる。怯えるように自分の身体を抱く女の絹がそれによって寄せられ、きわどい部分が見えていしまいそうで。朱雨が人間だったなら、この時点でみっともなく目を充血させて鼻息を荒くしていた事だろう。

 

「それで」

 

「わたくしはまだ死にとうございません。でも、このままここに居続ければ必ず食い殺されてしまいます。ですから、お願いです」

 

 墓地の入り口に居た筈の女は、いつの間にか目の前まで来ていた。そして朱雨の胸元にすがりつき、細い指を背中に回して懇願する。

 

「一晩、たった一晩だけでいいのです。どうかわたくしを、貴方の家へ匿っていただきたいのです。もちろん、お礼は必ずします。貴方のいう事は何でも聞きますから。後生です。どうかこの哀れな女に、貴方の慈悲をくださいまし」

 

 女の話には不自然な点が多い。どうしてこんな夜更けに外にいるのか、家がないにも関わらず今まで妖怪に襲われなかったのはなぜか、これほど美しいのならどうして攫われたり強姦されるようなことがなかったのか。

 

 だが、それを考える事は出来ないだろう。美しい金の瞳に魅入られてしまったが最後、男は決してその美しさを手放せなくなる。女のいう事を何でも聞く奴隷となり、女の身体を貪る獣となる。そして死ぬまで、女に奉仕する下僕となるのだ。

 

 ――そう、それが。ただの人間の男だったのなら。

 

「悪いが他を当たってくれ。私はこの地の住人ではないから、定住する住居を持っていないんだ」

 

 それだけを言って、朱雨は自分にすがる女の肩を押して突き放し。入れ違うように入口へ向かった。

 

「――――え?」

 

 その言葉を、女はすぐには理解出来なかった。少しの間驚いて固まっていた女は、朱雨が墓地の入口へ到達した頃にはっとして、慌てて朱雨の方を向いて走る。

 

「ま、待ってくださいまし! そんな事を仰られてももう貴方の他には頼れる御方がいないのです! どうか、どうかお待ちを!」

 

 朱雨の背なかにぶつかるように迫った女は、悲嘆にくれた涙声で必死に懇願した。だが、朱雨は足を動かす事を止めない。それが分かって喉が張り裂けそうな声で哀願する女に嫌気がさしたのか、朱雨は足を止めて肩越しに女を見る。

 

「だから言っているだろう。私は住居を持た――――」

 

 言いかけて、朱雨は目を皿のようにして固まった。その視線の先には、涙を流す女の顔がある。

 

 赤と紫色が渦巻く、金色の眼を朱雨に向ける女の顔が。

 

「……ねえ、お待ちになって? わたくしを家に招き入れる事は、貴方にとっても悪い話ではないと思います。もし本当にないのなら、旅の宿でも構いません。――わたくしと、一夜を過ごしてくださいますね?」

 

 いつの間にか、女の涙は止まっていた。代わりに、ひどく妖艶で獰猛な笑みがはりついている。赤と紫の螺旋は止まらずに回り続け、朱雨の紅い眼をじっととらえ続けていた。それは、明らかに人の業ではなかった。

 

 女は石のように動かない朱雨の背なかから離れ、ゆっくりと正面に移動すると、後ろを向いたままの朱雨の顔を自分の方へ動かす。そして頬に手を伸ばし、熱い吐息を交えて最後の一押しをする。

 

「――わたくしを、好きにしてもいいのですよ?」

 

 触れるような口づけをして、女は勝利を確信した。この男が自分に靡かなかったのは意外だったが、この術にかかって自分に溺れなかった男は一人もいない。最初見た時は金を持っているようには見えなかったがなかなかの美形だ。せいぜいこき使って思う存分精を搾り取ってやるとしよう。

 

 唇をゆっくりと離し、女は朱雨を見下して鼻で笑った。その一挙一動さえむせるような色香が漂う。朱雨の頬に置かれた手をゆっくりと下にスライドさせ、彼の胸元を撫でおろして手を掴んで、手を引いて宿へ向かう。

 

 いや、向かおうとした。

 

「何度も言わさないでくれ。私は住居を持たないんだ。だからといってお前と宿に泊まる理由もない。他を当たってくれ」

 

 背後から聞こえてきた声に、女は本当に驚き完全に動きを止める。そんな馬鹿な、信じられない、この私の誘惑を振り切れる男がいる筈がない――女の今まで積み上げてきた絶対の自信がボロボロと音を立てて崩れていく。呼吸する事さえ忘れてしまう程、女にはそれが信じられなかった。

 

 心の中がぐちゃぐちゃになっている女とは対照的に、朱雨はとても静かだった。女が話を聞いていないと知ると、長居は無用とばかりに手を離し今度こそ女の横を通って墓地を後にする。

 

 女はその場から動かなかった。ぶつぶつと何かを呟き、ギュッと手を握り締めていた。それに一度も視線をくべる事なく、朱雨は道を曲がる。一度通った道を避けて出口を探して歩き、墓地から数えて何度目かの曲がり角を曲がった時。

 

 そこには、あの女が立っていた。

 

 先程の扇情的な薄絹の姿ではない。真っ白なワンピースの上に同じく白で模様が描かれた藍色の前掛けをかけている。レースのついた藍色の足首飾りの下は足袋に草鞋(わらじ)だ。

 

「…………」

 

 女は喋らない。ただ、獲物を狙う獣のような鋭い眼光で朱雨を貫いている。その内に込められた感情は、怒気か、恐怖か、あるいは精一杯の虚勢なのか。それは朱雨には計り知れないものだ。

 

「まだ、何か用か」

 

「…………」

 

 このままでは埒が明かないので、朱雨の方から声をかける。だが、女は答えず鋭い視線を向けたままだ。朱雨も静かに女を見続ける。しばらくの間そうやって睨み合っていると、不意に女が口を開いた。

 

「……貴様は」

 

 先程までの淫靡な声ではない、かろうじて絞り出された小さな音。それなのに音は明瞭に朱雨の耳に届く。まるで地獄の釜から上がる悲鳴だ、朱雨はいつぞやの地獄巡りを思い出していた。

 

「……貴様は、どうして私を無視できる」

 

「質問の意図が分からんな。私はお前に断りを入れて立ち去ったし、お前の言動や行動を無視した覚えはない」

 

「そんな事を言っているんじゃないっ!!」

 

 激昂した女が咆える。怒りに歪んだ顔はなおも美しく、されど眼光は更に厳しい。蛇に睨まれた蛙のように硬直するだろう炯眼に朱雨は微塵もひるまず、今更だがこれだけの声が響いても誰ひとり家から出てこない異常に気づいた。

 

「貴様は! どうして私に靡かない!?」

 

 女の金色の目が怒りに揺れる。威圧感は更に増し、辺りの空間が軋んでいると錯覚するくらい強くなっている。その重圧の中、朱雨は寂静と、女の姿をかつての誰かと重ねていた。

 

 懐かしい面影だ。あの日の、あの時の、あの叫び。美しい銀と、濡れた黒。

 

 久しく姿を見ていないな。場違いすぎる事を朱雨は考える。女の方も朱雨が自分を見ていない事に気がつき、血が出るほど拳を握りしめてあらん限りの声で叫んだ。

 

「今まで私を愛さなかった男はいなかった! 私に惚れない男はいなかった! だが貴様は違う! 私の誘惑に眉一つ動かさず、私の美貌にピクリともしなかった! 千年生きた大妖をも堕とす程の催淫術さえかけたのに、どうして貴様は私を愛してくれないんだ! 貴様は! ――貴様は、一体何なんだ!?」

 

 それは怒りの叫びだ。それは憤怒の咆哮だ。朱雨はそうとらえ、だからこそ気が付かなかった。その純粋な怒気に、一抹の寂しさが混じっていた事に。その叫びが咆哮ではなく、女の嘆きであった事に。

 

 気付かぬが故に朱雨は理解し、理解出来ぬままに言葉を返した。嘆きの内に秘められた想いを何一つ読み取る事無く、ただ淡々とその表面だけに。

 

「三つ答えよう。一つ、お前に私の正体を教える道理がない。一つ、私に妖術の類は通用しない。そして一つ」

 

 そして、朱雨は言い放つ。出逢った瞬間から分かっていた事を。心を汲み取る事を知らない朱雨という生命の一は、平坦に平凡に平静に女を見据え。

 

「私がどれほど飢えていようと、狐に腰を振る趣味はない。それだけの事だ」

 

 その静かな断言に、女は今度こそ完全に動きを止めた。朱雨は女の様子を見て、これで話は終わったというようにその横を通り、躊躇いなく立ち去っていく。

 

 今度はもう、追ってこなかった。

 

 

 

 

   आयुस्

 

 

 

 

「――――狐、か」

 

 周の国境を歩いて渡った朱雨は、そのまま川沿いに進み周の下流にある国「衛」、その首都である朝歌に滞在していた。それも、朝歌で最も格式の高い一級の宿に。

 

「どこかでヒトが噂していたな。確か、白面金毛九尾(はくめんこんもうきゅうび)の狐。周が亡ぶきっかけとなった皇后は、本当は化け狐であったというものだったか」

 

 高く昇った太陽が窓から室内を照らす。その光に目を細めつつ、朱雨は窓辺から街の風景を望んでいる。爽快な風を正面から浴びながら、朱雨は狐、狐と、狐に関する伝聞を記憶の底から掘り返していた。

 

「周の第十二代王の幽王は衰退する国を再び興そうとせず、ある一人の女に没頭した。傾国の美女とも呼ばれた女の名は、褒姒(ほうじ)。そしてその正体は白面金毛九尾の狐であった――それが十年ほど前だ。まだこの辺りをうろついていてもおかしくはない、か」

 

 朱雨の格好も一級の宿にふさわしい上質なものだ。それを当たり前のように着こなす朱雨の振る舞いも、実に裕福な人間らしい優雅さを備えていた。しかし、誰もいないせいか朱雨は表情まで作っておらず、それだけが大きな違和感を伴っている。

 

「しかし、妙だな。伝承を仔細聞いているわけではないが、褒姒は幽王を殺害した者たちに捕えられ、そのまま処刑されたとも聞くが……」

 

 ぶつぶつと独り言をつぶやく朱雨。朱雨自身それは誰かに向けたものではなく、無意識に口に出していただけだ。しかし、意外な事にそれに返答する者がいた。

 

「実際には処刑されたのではなく、慰み者になりかけたのだけどね。流石にそれは御免だったから幻術をかけて逃げたのさ」

 

 成程、そうなのかと朱雨は納得し、ふと妙に思う。あいつはあと二、三十分は帰ってこないはずだが、どうしてもう戻ってきているんだ? そう思って、それ以上考えるのを止めた。居るならいるで別に構わないか、どうせ、あいつの事について考えていたのだから。

 

 朱雨は窓から肘を離して振り返った。すると、窓と丁度同じ直線状にある扉の奥に人影が見える。白いワンピースに、藍色の前掛け。短く切られた小麦畑の髪と金色の瞳。面白そうに弧を描く唇。間違いなく最近できた旅の相棒の姿だった。

 

「貴様が聞きたいのなら根っこの先まで教えて上げようか? あいつらが私に何をしようとして、どんな目に遭ったのか。中々笑える話ですわよ?」

 

「……………………」

 

 思い出すだけでおかしい話なのか、くすくすと人影は声を漏らす。朱雨は別段興味もなかったが、聞かないとふてくされてどんなわがままを言うか分からない。こんな無駄話で貴重な時間を使うのは本当に嫌だったが、仕方なく話を聞いてやることにした。

 

「…………そうだな、付き合ってやってもいい。話してみろ」

 

「……なんだその態度。まるで私が嫌がる貴様に嬉々として強制的に話を聞かせているようじゃないか。貴様がいやなら私は別にいいんだぞ? 明日になって人間達が貴様に牙をむくようになっても一向に構わないんだがなあ?」

 

 まずった、地雷を踏んだか。人影がむすっとした声で言い終わった瞬間に朱雨は神速で頭を下げた。

 

「すまない、私が悪かった。どうか貴女の御話をお聞かせ願えないだろうか。この通りだ」

 

 よろしい、と鷹揚にうなずいて人影は嬉しそうに話し始める。やれやれ、こいつに付き合うのは本当に骨が折れる。朱雨はかつてないほど辟易し、ちゃんと聞かないと後が怖いので内容だけはしっかりと把握する。

 

 と、その前にふと思いついたことがあったので、朱雨は人影の機嫌を伺いながら話に横槍を入れた。

 

「ちょっといいか?」

 

「それでな、幸せそうな笑顔で「愛してるぞー!!」と叫んで全身筋肉の肉ダルマ男に突っ込んでいった様はもう笑いを抑えられなかった……ってなんだ、まだ話の途中なんだが」

 

「いや、別にたいした事じゃないんだが……すまない、おおいにたいした事だ。私はお前の本当の名を知らないのだが、お前の事は、褒姒、とでも呼べばいいのか――白面金毛九尾の狐」

 


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