東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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幸運の兎は迷い道に。

 

 

 

 

 何を疑い、何を信じるのか。生きたいのなら、まずはそれを決める事だ。

 

 

 

 

 ……………………。

 

 ……………………、……………………。

 

 …………――――超飛躍進化生物生成不可、演算失敗。

 

 第237万1002演算破棄。第237万1003演算移行、演算開始。

 

 ……………………。

 

 ……………………、……………………。

 

 …………――――新物質創造不可、演算失敗。

 

 第237万1003演算破棄。思考能力低下確認、演算中断、通常時移行――――

 

「……ふむ。どうにも上手くいかんな」

 

 やはり八意永琳は天才なのだと、朱雨は改めて認識する。自分一人では思いつけないような、己の進化の可能性というものを彼女はさし示してくれた。

 

 それはほんの僅かな能力の使い方の変化であったり、あるいは血界の異界と言う特性を利用した大胆な発想であったりと、まるでその場の思いつきで提案したかのような斬新さ。見習うべきところがあると、朱雨は感心する。永琳が聞いたらビクリとして乾いた笑いを出すだろうが。

 

 もちろん、永琳の助言に恩を返さない朱雨ではない。永琳が所望するいろいろな実験に付き合ったりした。あいにく朱雨が直接月に行く事は出来なかったので断念した実験も多かったが、それでも永琳の研究欲はまずまず満たされたようだ。

 

 ただ、永琳と話し合った事全てが有意義であったかと言われれば、そうではなかったと朱雨は思う。話の半分くらいは益のない無駄話だった。

 

 例えば、地上では中秋の名月にあたる十五夜の夜。その日は月の兎たちが餅をついて騒ぐ宴会の日らしく、永琳もほろ酔い状態で通信してきた。どこか間延びした声が話す内容と言えば、やれ月の兎は使えないだったりやれ同僚の仕事が遅いだったりと、そのまま眠りこけるまで延々と愚痴を聞かされた憶えがある。

 

 他にもある。永琳の実家にあたる八意家が使える由緒正しい御家に、このたび玉のように可愛らしい女の子が誕生したと嬉しそうに報告された事もあった。その時の永琳といったら、まるで自分の娘が生まれたかのように年を忘れてはしゃいでいたものだから、それを指摘してえらい目に遭わされた。

 

 なぜイチャイチャしているカップルを見るとああも苛ついてくるのかと果てしなくどうでもいい議論を吹っ掛けられたこともあったし、とにかく読めと強要され興味のない本を二、三千冊ほど読破させられた事も記憶に新しい。

 

 逆に朱雨が永琳にとって都合が悪い話を振った事がある。例えばそれは「なぜつがいを見つけて生殖行動に励まないのか?」といったもので、その時の永琳が浮かべた引きつった笑顔と露骨な話題転換は朱雨にとって今でも不可思議に思っている思い出の一つだ。

 

 まあ、そんなこんなで持ちつ持たれつ、実に数千万年もの間、朱雨は永琳と対話して過ごしてきたのだ。その年月は、朱雨がやってしまった地上での数千万年分の浪費を補って有り余るものだったと断言できる。

 

 そんな日々の事を、永琳は時折「とても充実した楽しい日々」だといって朗らかに微笑んでいた。朱雨にしてみれば実りがあるという意味では充実していただろうが、楽しいと言われてもその感情はよく分からないので答えようがないと返す。ただ、永琳はそんな反応でも満足していたようだった。

 

「理解しないと分からないは違うのよ?」

 

 ウィンクとともに紡ぎだされた言葉は意味深で、なまじ理解出来てしまうために朱雨は軽い混乱状態になる。その様子はまるで矛盾(パラドクス)を与えられたコンピュータのようだったと、永琳は笑いを堪えながら指摘していた。

 

 そんな、ある種とても平和な日々が続いていたあくる日の今日。

 

 永琳が仕事で通信できないため、朱雨は一人で自身の可能性を模索していた。が、それもいい加減限界が見えている、ほとんど行う意味のない慣習のような行動だ。

 

 そろそろ新たな生命が生まれてもいいのではないのか、と朱雨は演算で疲れた脳髄に直接栄養素を注入する。聞くだけならすごいグロテスクな事をやっているけれど、実際には自分の脳ではなく能力で作った演算用の巨大な脳細胞の塊――一種の有機コンピュータのようなものなので、特に抵抗はない。そもそも朱雨には躊躇いなんて全くと言っていいほど皆無だ。

 

「……ん、ようやくか」

 

 栄養素の注入が終わり、少し休ませてまた演算を始めようかと思った矢先、朱雨は地球上に新たな生命反応を感知する。この数千万年は色々あったが、あくまでも朱雨の目的は生命の観察であり、命の生誕は待ちわびたものだった。ただ、その待ちわびた瞬間が来た時の反応があまりにも軽かったので、仮に誰かに見られていたとしても普段通りにしか映らなかっただろう。

 

「……ん?」

 

 何か、違和感を感じる。確かにそれは紛れもない生命であったが、何か違う。それは無数に広がる瑞々しい枝葉の中に一つだけ枯れた茶色の葉っぱを混ぜるような、ほんの些細なもの。だが、その小さな違和感は朱雨にとってとてつもなく重大な問題をはらんだものだった。

 

 朱雨は宇宙空間にいながらにして地球上の事ならある程度理解出来る。生命感知はお手の物だ。ただ、それはあくまで感知のみなので、生まれた生命がどのようなものであるか知る為には直接見に行かなくてはならない。

 

 宇宙に漂っている朱雨は精神のみを血界内へ落とす。五感ではない第六感、全身に感じる普通は体感できないような不愉快な感覚に耐えつつ、朱雨は血界を通して地球に降り立った。

 

 異界に存在する血界の座標軸と現実の地球との座標軸を合わせ、血界内の現象を現実に反映させる。これもまた、永琳の発想と協力があって初めて実現した事だ。ただ、朱雨にしてみれば環境への干渉、生物の生態を変える事は極力避けたい事柄なので、本当に緊急を要する場合以外は使わないようにしている。

 

 血界内の地上に降り立った朱雨は地球上の大気と同じ成分の空気を造り出し地球とそれを同期させた。血界内で発生した空気は朱雨の肉体の一部であり、それが現実に存在するようになれば、その空気を介して血界内から現実世界を見ることが出来る。

 

 自身の内でせめたてる大きな期待を抑えつつ、朱雨は宇宙に旅立ってから初めて地球を真摯に見た。

 

 空は青い。海もまた蒼く、遠い天海の境界線が揺蕩っている。風に千切れた白い雲は日を遮り、土色とくすんだ鈍色の混じる大地を覆っては流れていく。昔の極寒も灼熱も過ぎ去り、今は穏やかな状態だ。

 

 それらを見るだけならば、確かに美しいと言えるだろう。だが、そこは文字通り不自然の地。生命なくば緑もなく、ただただ風と波の音だけが鳴り響く、永久不変の荒野でしかない。

 

 その片隅。地上に降り立って目を近づけ、更に凝らさなければならないような小さな場所で、儚くも力強く、生命は生まれていた。

 

「予想通りの命だな」

 

 朱雨の感想はそっけないものだ。まあ、朱雨は無から誕生するのなら最も単純な単細胞生物だと踏んでいたので、驚きなんてないのだから仕方ないのだろう。ただ、その命に向けて静かに言葉を紡ぎだす。

 

「新たに生まれた命を、まずは歓迎しよう。ようこそ――この遥かなる楽園へ」

 

 少しばかりの人間らしさ。永琳との交流の中で染みついてしまった特に意味のない行為を朱雨は行い、そしてその生命を観察する。

 

 見る。聞く。嗅ぐ。触れずとも触れ、纏うものを味わう。

 

 その姿を、命の鼓動を、体臭を、空気の振動を、漂う味を、朱雨は五感を駆使して分析する。

 

 ……全く、変わらない。何一つ変わらない。これは至極ふつうの生命だ。十把一絡げの、烏合の群れの、取るに足らない雑魚と同じ。とても当たり前な、有り触れていた命。

 

 それでも、何処か違和感を感じるのはなぜだろう。朱雨は喉に小さな骨が刺さったような歯痒さを懸命に解こうとする。しかし、どれほど考えてもその答えは見つからなかった。

 

 一体、何が違う。そう疑いを深めた、その時。

 

 乾いた砂漠が水を飲み込むように急速に、世界に命が溢れ始めた。

 

「――――!」

 

 空に明らかに雲ではない影が飛び交い、海に風のせいではない波が生まれる。岩石と砂でしかなかった無限の荒野に、墨汁が白紙を塗りつぶす勢いで緑が広がっていく。

 

 これは異常だ。明らかにまともな生命の蔓延(はこび)り方ではない。だが、朱雨はその異質な現象を見た瞬間、静かに理解した。

 

「……なるほど、違和感の正体はこれか」

 

 今世界に、一体何が起こっているのか。それは空を見上げれば簡単に理解出来た。

 

 それらは、あまりにも幻想的で、優雅で、光に満ちていた。形は様々で、大きさも力も個々で違う。だが、それらは例外なく煌びやかで、美しかった。そう、それらは、穢れや醜悪とは全く無縁の、真実に聖なる存在。

 

 人はそれを、神と崇め奉る。

 

「よもや、この生命が偶発的な生誕ではなく、神の意志によってなされた事だとはな――」

 

 呟いて、朱雨はかすかに首を振る。叶う事なら、この誕生は神に依らない奇跡であってほしかった。そう、頭のどこかで思いながら。

 

 

 

 

   आयुस्

 

 

 

 

 そして今、朱雨はなぜか竹林で迷子となっていた。

 

「……………………」

 

 特に理由などない。竹林に行き、迷子になった。ただそれだけの事である。

 

「…………ぬ」

 

 小さく声を上げた瞬間、スッと朱雨の姿が消える。しばらくした後、なぜか地面から這い出てきて、何事もなかったかのように歩き始めた。

 

「……………………」

 

 黙々と、淡々とただ歩く。前だけを見続ける顔はいつも通り感情がなく、何を考えているのか全然分からない。足取りも快調ではあるが、何かしらの目的を持っているようには到底見えなかった。

 

「…………あ」

 

 カチリ、と朱雨の足元で嫌な音がする。不覚、という感情がかろうじて読み取れる言葉を吐いた直後に、朱雨の頭上に大量の竹槍が降ってきた。

 

 が、たかが竹槍なので、朱雨の皮膚は貫けない。落ちてきた竹槍は朱雨に傷一つつける事なく辺りに散らばる。それをどうでもよさげに一瞥して、朱雨はまた歩き出す。

 

「…………、はあ」

 

 それからすぐ、てくてくと歩いていた朱雨は円形の開けた場所に出る。そこにでた瞬間にあからさまなため息を吐いて、真ん中に一本だけ生えている竹に近づいた。

 

 他の竹よりも一際大きなその竹には、節が刻まれた茎の一部に明らかに人為的な傷跡が残っている。その数、三十六本。それに朱雨は手を伸ばし、棒線が続く傷跡の一番下を爪でひっかいて、新しい傷をつくった。

 

「これで、三十七週目……あと何度巡れば、私は外に出られるのだろう……」

 

 もう、一週間になるだろうか。この竹林から出られなくなってから。

 

 もう一度ため息をついて、朱雨は空を仰ぐ。燦然と太陽が核融合を続けている澄み切った空は、朱雨が竹林で迷っている事を気にも留めないと言うように大きな雲が流れていった。

 

 

 

 

 そう、事の発端は一週間前である。

 

 神によって再創造された世界。それは偶然によって生命が生まれるのと、あるいは地球外から生命の種が流れてくるのと、なんら変わりのない世界だった。

 

 完璧な循環の元に完成された世界。互いが互いを利用し、食らい合い、協力し、積み上げられた死体の山から新たな命が紡がれていく。

 

 確かにそこは生命の楽園で、朱雨が望んだ理想郷だった。ただ一つ、ほんの小さな違和感を除いて。

 

 その正体が、神の手によってなされたからであるかどうかは分からない。ただ、その小さな違和感は朱雨にある迷いを抱かせていた。

 

 果たして、この世界は私が望んだモノなのだろうか、と。

 

 今まで生きてきた中で朱雨が迷いを抱いた事など皆無に等しい。故郷の惑星を離れた時も、天照の都を出る時も、隕石による生命の滅亡をただ傍観すると決めた時でさえ、一瞬たりとも迷いはしなかった。

 

 それが今はどうだ。世界の、生命の創造が神になされた――ただそれだけの事で朱雨は悩んでいる。ただ命を観察するという、その信念が澱んでいる。

 

 信じていいのだろうか? 朱雨は逡巡する。この新たな世界が、朱雨の望む命の輝きを見せてくれると、盲目に信じていいのだろうかと。

 

 そうやって迷いつつも、朱雨は行動した。脳髄の中だけでは決して世界は測れない。まずは観察あるのみと地上に降り立ち、永い間を放浪する。その中でたまたま目に入った竹林に立ち寄ったのだった。

 

 そして一週間。朱雨は竹林から出られなくなり、こうして今も彷徨っているのである。

 

「…………」

 

 非常にまずい、と朱雨は思う。今はまだいい。たかが一週間だ、すぐにでも取り戻せる。だが、これが一年二年と続いたら? 下手したら一生ここから出られないのかも知れない。

そんな懸念が、朱雨の内側で渦巻いていた。

 

 そもそも、この竹林は空間からおかしいのだ。入る時に一応全貌は確認しておいたが、それよりも明らかに長い距離を歩いている。それに、真っ直ぐ歩こうと直線まで引いて移動してみてもいつの間にか曲がりくねっていたりして、認識さえも誤魔化されているのだ。

 

 こんな状態では血界を使う事も難しい。なまじ空間がズレている分、下手に異空間へ向かうか異空間から干渉すればどんな事態になるか分からない。血界が朱雨の一部であったとしても、朱雨自身は血界をそこまで使いこなせるわけではないのだ。

 

 ただ、解決法がないわけではない。永琳に連絡をとるなり竹林を分断するレベルの力を放出するなり、いくつかは方法がある。だが、それは朱雨には出来なかった。

 

 後者は単に生態系を崩したくないがため。前者は、永琳と話が出来るような状態ではないと、朱雨が自分の状態を観察してそう判断しているからだ。

 

 悩むなんてことは、生命ならばありえない。本能によって生きている存在は、何一つ考える事なく生きる総てを実行できる。

 

 多少の知恵と知識を持つ分、朱雨の本能は鈍ってはいるが、それでも朱雨が目指すのは「心に依らない完全な生命」だ。そんな自分が悩んでいるなどと永琳が知れば(普段から感情のあるような素振りを見せるとそれを追及してくるような女だ)、まずそれを詰られるだろう。それだけは避けたかった。

 

 だから、こうして手を打つことなく、朱雨は今も竹林の中で出口を探し続けているのである。

 

「…………またか」

 

 それと、もう一つ。この竹林に入ってから、朱雨は幾度となく罠に嵌っていた。今もとがった竹槍が敷き詰められた板が二枚、さながら蠅捕草の如き速度で朱雨をとらえんとしている。

 

 それを上空へ飛び上がる事で避け、朱雨はこの罠を仕掛けたのが何者なのかを考える。

 

 相応の知恵を持った者である事は間違いない。短時間で罠を仕掛け、それを朱雨に気づかせる事なく、更には存在の尻尾さえ悟らせない隠密行動。

 

 この竹林の特性を熟知しているのだろう、そうでなければ朱雨が捕捉出来ない筈がない。たかが一週間見つけきれないだけではあるが、朱雨はこの見えない何者かに対してかなり警戒を強めていた。

 

 朱雨を罠に嵌め続ける目的も分からない。今のところ大した実害はないが、もしも罠の質が過激になっていけばそうも言っていられなくなるだろう。

 

 そう思っているうちにもまた、地面から聞こえてくる作動音とともに、周囲から竹でできた星球式鎚矛(モーニングスター)が朱雨目がけて突っ込んできた。

 

 これで何度目だろう、今まで罠にかかってきた数を数えつつ、朱雨は両手でいなす事で軌道を変えて避ける。そしてふと、目の端に白い物が横切ったのを見た。

 

「あれは……」

 

 白く柔らかな体毛で覆われた小さな体。色素(メラニン)のない赤い瞳と上にとがった大きな耳。そして丸っこい尻尾を持つ可愛らしい姿。

 

白兎(はくと)か。この竹林に入ってよく見かけるな。ここは、兎の住家になっているのか?」

 

 体長三十センチほどの白兎は、先程からしきりに顎下を地面にこすり付けている。縄張りを主張しているのだろう、そこかしこから漂ってくる臭いに朱雨は自分が兎の縄張りに入っている事を自覚した。

 

 朱雨がいる事に気づいたのか、白兎は可愛らしい動作でこちらを見る。まるで不思議なものを見るように朱雨を見つめ、白兎は首を横へ傾けた。朱雨もまた、白兎に視線を返す。

 

 傍から見ると、何とも珍妙な光景だった。赤黒い長髪の、見るからに動物が好きそうではない能面男と、愛くるしい白兎が互いを見つめ合っている。

 

 その、一種の奇妙な睨み合いともいうべきものは、唐突に終わった。朱雨が残像すら見えないスピードで白兎に近づき、捕獲したからだ。

 

 本当に一瞬の事だったので、白兎は本能的な反応すらできなかった。気が付けば体が宙に浮いていて、首根っこを良く分からない何かが掴んでいたのだ。なんとか脱出しようともがくものの、首を掴む腕はまるで岩を腕の形に削り出したように固く、全く抜け出すことが出来ない。

 

 朱雨はとらえた兎を頭の上にかかげ、日に透かすように目を細める。白兎は怯えた様子でもがき、朱雨の腕から出ようとしている。手から感じる感触は柔らかく、余分な脂肪がついている事がわかる。天敵がいないのだろう――朱雨は冷静に分析した。

 

 さて、朱雨が白兎をとらえた理由であるが、これはとても単純なものだ。要は、腹がへった。それが全てである。

 

 朱雨は他の生物とは違い血界というアドバンテージがあるため、本来ならば食事を摂る必要はない。ただ、生命が生まれるまでの期間、永琳に促されるままに食事のまねごとをしていたためか、食べる事が癖になってしまっているのだ。

 

 一週間飲まず食わずだったことも災いしている。そうでなければ、普通ならこの自然に存在しない異物である朱雨が、その辺りの動植物を狩って食べるような真似はしなかっただろう。

 

 朱雨の眼が更に細まり、腕に籠める力が強くなる。そこまでくれば白兎にも自分が危機に陥っている事が理解出来た。

 

 まずい、早くこの何かから逃げなくては!

 

 思考ではなく本能から、白兎は死に物狂いで逃げ出そうとする。全身にありったけの力を籠めて、後ろ足で朱雨の手を蹴りつけて何とか逃走を図ろうとする。

 

 だが、それはあまりにも脆弱な抵抗だった。一部の超越者達ならばともかく、この世界の片隅で生きるたかが一生物が、神亡朱雨という強大な種に敵うべくもない。

 

 朱雨は、抵抗されているという事実すら無いものとして扱う。ただ、その本能に従うままに。その、脆く柔らかな胸に手を伸ばし――

 

「何してんのさこの赤毛野郎―――――――!!!」

 

 竹林の影から飛び出してきた薄桃色の影に、朱雨は呆気なく蹴り飛ばされた。

 

「全く、うちの兎に一体何しようって――って、ああ――――!?」

 

 が、頭を蹴られて脳髄を揺さぶられても、朱雨は力を緩めるとか、そういったある種の弱点を突かれた様な反応はしないわけで。

 

 当然の結果として、朱雨の手の中にいた白兎も一緒に飛ばされ、地面に打ち付けられた衝撃で目を回しており。それに気づいた薄桃色の影――兎の耳と尻尾をはやした黒髪の少女――は、自分のドジに頭を抱えた。

 

 

 

 

「……それで、お前がこの竹林に住まう兎達の主であり、私を罠に嵌め続けた犯人なんだな? ――因幡(いなば)、てゐ」

 

「あ、あははー。あ、あたしじゃないヨー、罠仕掛けてんのー、な、なにいってんのサー?」

 

 朱雨はすごく怪しい物を見る目つきで目の前の少女、因幡てゐを睨みつける。ジト、とした視線から逃れるように、てゐはあさっての方向に首を曲げて口笛を吹いているが、内心首筋に刃物を添えられているような感覚に焦りまくっていた。

 

「…………」

 

 てゐを睨む朱雨の眼は疑惑で満ちている。が、これ以上の追及は無駄と察したのか、まあいいかと言葉を零し、視線を外した。

 

 全身を縛るような威圧感から解放されたてゐは安堵の息をつく。そして、横で同じようにびくついていた白兎の頭を撫でた。

 

「全く……あんたももうこんなのに絡まれるんじゃないよ。次にあたしがいる保証もないんだから。ほら、さっさと帰りな」

 

 ニカッと笑うてゐに白兎は頭を下げ、竹林の中へ飛び去って行った。それに手を振って見送ったてゐはすうっと深呼吸をして、朱雨と対峙する。意図を察したのか、朱雨は立ち上がり、その辺りの竹に寄りかかった。

 

「さて、と。じゃあ、改めて自己紹介させてもらおうかな。あたしの名前はてゐ、因幡てゐ。この竹林に住む兎達のリーダーさ。あんたは、神亡朱雨で良かったかな?」

 

「ああ、それでいい。私の現在の通称はそれだ、何の問題もない」

 

「おっけー。じゃああんたの事は朱雨って呼ぶから、よろしくね」

 

「ああ、宜しく、因幡てゐ」

 

 てゐでいいよ、とてゐは朱雨のそばによっていって、どこからか持ってきた木臼をひっくり返してその上に座った。よいしょ、と掛け声を出してピョコンと飛び乗る姿は中々可愛いものだったが、朱雨は警戒を解かずじっと視線を注ぐのみだった。

 

 正直、その視線に居心地の悪いものを感じていたてゐは、平静を装って朱雨と目を合わせる。能面のような無表情の奥で光る眼は何処までも紅く、底がない。吸い込まれそうな瞳はとても綺麗だけど、それが生きた人間のものとはてゐはどうしても思えなかった。

 

 そもそも、こいつは人間なのだろうか、とてゐは思う。

 

 こいつがこの「迷いの竹林」に侵入してきたのは今から一週間前だ。その時は年に何回か迷い込んでくる人間の一人だと思っていたし、たいして気に留めてもいなかった。せいぜい、あたしを見つけた時には何かしらふんだくってやろうと悪知恵を働かせていたくらいだ。

 

 でも、ある出来事を境にてゐの朱雨への考えが変わった。それは、最初に朱雨が罠に引っかかった時に、何事もなかったかのようにスルーされたからだ。

 

 その罠はてゐの自信作の一つだった。相手が地味に嫌な目にあいつつも、てゐをとっつかまえて仕返ししようとは考えないくらいの絶妙な匙加減で、しかも罠に注意していたとしても絶対にばれないやつだ。だから、朱雨がその罠に引っかかった時、てゐは大成功と大喜びした。

 

 だけど、朱雨はその罠を回避した。正確に言えば、罠自体は発動したが、その上でいとも簡単に避けられてしまったのだ。しかも、それを顔色一つ変えず、当たり前のようによどみなく。

 

 自信作の罠を避けられ、あまつさえ無視された。これにてゐのプライドはいたく傷つけられ、絶対にこの赤毛野郎をあたしの罠でこてんぱんにしてやる! と決意したのである。

 

 それから一週間。てゐはせっせと罠作りに励んだ。自分の明晰な頭脳と天性の器用さを持ってすれば、究極の罠の一つや二つ簡単に作れるけど、相手はそれを平気の平左で流す玄人、全力で挑まねばなるまい。

 

 そして、てゐの孤独な戦いが始まった。雨の日も風の日もてゐは休まず罠を張り続け、生涯最高の傑作を幾度となく作り上げた。だが、それでも朱雨にはとどかない。有象無象、合わせて百数十にも及ぶ膨大な罠から、朱雨は生還しきったのだ。

 

 そう、生還、だ。罠を事前に回避するでもなく、無効化するでもなく、その悉くを一心に浴びて、傷一つなく朱雨は生還した。

 

 流石にそこまでくれば、てゐもおかしいと思い始める。いくらなんでもありえないだろう、たかが人間ごときが、妖怪である自分が殺す気で作った罠を受けて平然としているなど。

 

 それに、例え人間じゃなかったとしても、てゐは朱雨を気味悪がっていた。表情を変えない、食事を摂らない、休まない、おおよそ生きているならやるべき事をやらず、勝手に動く人形みたいに延々と竹林を歩き続ける朱雨は、どう考えたって普通じゃない。

 

 てゐは悩む。この赤毛の男は、早急に竹林から追い出すべきではないか? 確かにプライドは傷つけられたし、ぶっちゃけこいつを一回ぐらいは殴ってやらないと気が済まない。だが、てゐは竹林のリーダーで、兎達の統率者だ。彼らを差し置いて自分を優先することなんてできなかった。

 

 まあ、そう気に病む事でもないか、とてゐは楽観する。なにせ、てゐの能力は「人間を幸運にする程度の能力」。こんな名前がついているが、別に人間じゃなくても「幸運」は与えられるし、それを自分に使う事も可能だ。出来る限り自分を「幸運」にすれば、あの得体のしれない赤毛と接触しても最悪死にはしないだろう。

 

 赤毛の方も、目的はしらないが自分に会う事で「幸運にも」目的が叶うかも知れない。そもそも、赤毛の目的なんぞどうでもいいのだ。さっさとこの竹林から出て行ってくれればそれでいい。

 

 そう決まったなら善は急げと、てゐは自分しか知らない竹林の地図を頭に広げて朱雨を探す。確か、あの辺の袋小路でぐるぐる回っていたはずだ、そこにたぶんいるからさっと話してぱっとお帰り願おうかな――と朱雨を見つけると、そこには大事な仲間を今まさに捕食しようとしている長い赤毛の変態が一人。

 

 その瞬間、てゐは自分に能力をかける事も忘れて一目散に飛び出し、アホみたいに大口を開ける赤毛野郎のどたまを蹴り捨てた。

 

(その兎を虐めていいのは天上天下であたしだけだ――――!)

 

 本音がこんなんじゃなけりゃ、もう少しくらい格好もついたのだろうが。

 

 それで、蹴飛ばした朱雨と口論となり、なんやかんやで互いの状況を説明した時、うっかり自分の罠の事をてゐはもらしてしまい、先程の詰問に発展したのだった。

 

「とまあそんなこんなで今に至るわけなんだよ。分かってくれた?」

 

 にっこり、というには少々引きつり過ぎた笑みをてゐは浮かべ、朱雨の顔色をうかがう。何とかなると思っていたてゐだったが、朱雨に睨まれた瞬間にそんな楽観はタンポポの種よりも軽く吹き飛ばされた。正直勝てる気がしない。ただでさえ一度とぼけているのだ、まかり間違って首が飛ぶような事態は避けたかった。

 

 そんなてゐの内心を、心音や言葉の強弱からある程度の予測を立てていた朱雨は、一度てゐから目を逸らして考える。

 

 頭脳明晰の稀代の罠師(本人談)である因幡てゐの話はある意味では納得した。群れのボスともなれば異物や危機にたいして敏感である必要があるし、そういった意味で朱雨は完全なイレギュラーだ、見逃すわけがない。

 

 プライド云々の話はこの際置いておく。どうせ理解出来ないのだ、考えるだけ時間の無駄だろう。てゐが異物である私を排除する為に行動していた事さえ分かれば、後はどうでもよかった。

 

 さて、と朱雨は竹から離れててゐの前に立つ。びくりと体を揺らすてゐの自分の顔を写している鮮やかな黒目には、群れを守ろうとする強い意志が見て取れる。ただ、やはり朱雨と正面から向き合うのは恐ろしいらしく、気丈な表情を保っているてゐの決意とは裏腹に、その手足はカタカタと震えていた。

 

 こんな状態では対等な会話はままならない。本来なら朱雨の方が下等でなければならないが、これでは完全に立場が逆転している。とにかく、こちらに害意がない事を伝えなければならない。それを簡潔かつストレートに伝える方法は、一つしかなかった。

 

 スッと、不意に朱雨の身体が沈む。そんな小さな動きにさえてゐは過剰に反応してしまい、脚を跳ね上げて木臼の上で威嚇体勢に入った。それに目もくれず、朱雨はそのまま膝を落とし、両手と額を地面に擦りつける。

 

「すまなかったな、てゐ。この通り、謝罪させていただこう」

 

 朱雨はとても洗練された動作で、とても綺麗な土下座をした。

 

「はえ?」

 

 朱雨の行動は、完全にてゐの予想の外の出来事だった。逆立てていた肌もすっかり静まり、てゐはつい素っ頓狂な声を上げてしまう。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ、なんであんたが謝るのさ!? 罠をあんたにけしかけたあたしが謝るんならともかく、わざわざ土下座までして、訳が分かんないよ!」

 

 もとから恐怖を押し殺して平静を保っていた事もあり、自分の想像を超える事態に直面したてゐは完全に混乱状態に陥っていた。目の前にいる朱雨ってやつは何から何まで行動が読めないし、全く意味が分からない、と。

 

 それをまたも無視して、朱雨は顔を地面につけたままで平謝りを繰り返す。

 

「いや、全面的に私が悪い。もともと私の方がお前達の領地に土足で踏み入ったのだ、罠をけしかけられようと攻撃されようと仕方ない。全ての非は私にある、どうか恩赦を施してほしい」

 

「いやだからさ、それとこれとは話が別でしょ!? あんたがあたし達の竹林を歩き回ったってそりゃいいんだよ! ここあたし達だけのもんじゃないんだから! あんな下手したら死んじゃうかも知れない罠に嵌めてしかも一回謝んなかったあたしの方が悪いの! あんただって痛かったでしょ、苦しかったでしょ!? だったらあたしが謝んなきゃなんないのは当たり前じゃない!」

 

 てゐがそうやけになって叫ぶと、朱雨は目を輝かせてとたんにがばりと体を起こす。

 

「何? この竹林がお前達だけのものじゃない? ――ふむ。縄張りを持てど、それは自然の一部としての境界であり、自らのみが善ければいいのではなく他の生命を尊重する。これも一つの真理か」

 

「反応するとこそこなの!? ああもう! あんたって本当、わっけわかんない!!」

 

 てゐはあまりの混乱に自分の頭をがりがりと掻き毟る。その横でぶつぶつと考察らしきものを呟き続ける朱雨に、更に目を回したてゐの叫びがむなしく竹林にこだました。

 

 

 

 

「そんで、結局あんたは何しに来たのさ?」

 

 あの後、再び土下座モードに入った朱雨の要求(もはやこういった方が正しい。あれは謝罪じゃない)を捨て鉢になりながらも受け入れたてゐは、疲れた長いため息を吐いて、涼しい顔をしている朱雨に投げやりに言った。

 

「ん? 説明した筈だが」

 

「あれ、そうだっけ? いつ?」

 

「最初にお前に蹴られた後の会話の中で説明した」

 

「会話って……あれってむしろ言い争いじゃない、あたしが一方的に怒鳴ってただけだけどさ。その中で話したって言われても、内容なんかいちいち憶えちゃいないよ」

 

 首と手を横に振っててゐは憶えてないという意志を表す。そうか、と朱雨は顎に手を当てて、自分がこの地に来た理由を再び検索し、不要な部分を切り落として要約した。

 

「私は永い間、ある目的の為に各地を放浪し続けていた。ここを訪れたのもその一環だ。しかし、私はこの竹林が入った者を迷わせるとは知らなかった。結果、私はここから出るに出られず、彷徨う果てにてゐ、お前に会ったんだ」

 

「ふーん」

 

 自分で聞いておきながら、てゐのリアクションは薄い。単に疲れているせいなのだけど、いただけない反応である事は間違いない。まあ、朱雨はそんな事これっぽっちも気にしない男なので問題はなかった。

 

「で、その目的ってなんなのさ?」

 

 ゴザの上でごろごろしているてゐは、目も合わせず気怠げに聞く。それに何の感情も抱かず変わらない無表情を保つ朱雨は、なんでもない事のように自身の目的を語った。

 

「この世の全ての生命をこの目で確かめる事、それが私の目的だ」

 

「え、なんでそんな事を?」

 

「全ては自らの進化の為。ありとあらゆる生命を見つくし、その生態、思考、形状、進化の過程、その他全てを知る事で、私は自身の進化に繋がると考えている」

 

「な、なんかすごい事考えてんだね、あんたって」

 

 てゐは朱雨の言葉に驚きつつも戸惑う。朱雨はたぶん人間じゃないから多少おかしな事を言っても不思議じゃないけど、さすがに壮大過ぎてついていけなかった。それを呼んだかのように、朱雨は言葉を返す。

 

「別に壮大ではない。進化は、森羅万象に義務付けられた宿命だ。私はそれに従っているにすぎん。ただ……」

 

 そこで、朱雨は言葉を濁した。話してまだ間もないが、朱雨は言葉を濁すのはこれが初めてだったため、疑問に思ったてゐは顔を上げて朱雨を見た。変わらない無表情、だけど、心なしか曇っているようにも見える。

 

「ただ?」

 

 復唱して、てゐは先を促す。しばらく黙っていた朱雨は、目を閉じ、やがて静かに口を開いた。

 

「……ただ、この世界の命は無から生まれたものじゃない。神などと云う、有り触れた超越者の意志が介入して誕生しているんだ。だから、私は悩んでいる。この世界の、この命達が――本当に、私の望んでいるモノなのだろうかと」

 

「…………………」

 

 てゐは言葉を返さない。目を閉じている朱雨にはてゐがどんな表情をしているか分からないし、心がないから、どう思っているかも分からない。ただ、自分が発した言葉の意味を考え、悩みを深くしていた。

 

 誰も何も話さない、重い空気が流れる。同じ思考の中で堂々巡りをしていた朱雨は、ふと、てゐの胸郭が何かを堪えるように震えているのを感知した。目を開けると、なぜかてゐがお腹を押さえてうずくまっている。ぷるぷると体も震えているし、一体何だ? と朱雨が確認しようとしたその瞬間。

 

「…………ぷは、あーっははははははははは! だめ、もうだめ、もう堪えきれない! あはははははは! あ、あんたみたいな、ぷふっ、無愛想なやつに、くふっ、な、悩みがあるなんて、はははは! もうおかしすぎるよ、あはは、あははははははははは!!」

 

 雷鳴もかくやというほどの大音量でてゐは爆笑した。抱腹絶倒、どんどんと地面を叩いて転げまわる姿に朱雨は驚き、笑われた事に目を大きくする。

 

「……どうした、何故笑う? 私の話のどこにお前の自律神経を刺激する要素があった?」

 

「ちょっ、だめ! 今話しかけるのだめ! ふは、あははははははは!! あ、やば、苦し、あははは、だめ、ぷふっ、笑い、過ぎて、あはっ、し、しぬう……!」

 

 流石に笑いすぎたのか、涙目になっててゐは必死に笑い声を抑えようとする。笑い過ぎによる過呼吸に陥っているのだと朱雨には分かった。過呼吸は二酸化炭素欠乏状態、だから朱雨はてゐの周りの二酸化炭素濃度を少しだけ上げて、落ち着かせるためにかがんで背中をさすってやった。

 

 しばらくして、ようやくてゐも落ち着き、ぜえぜえと荒い息を繰り返しているものの、過呼吸状態は脱したようだと朱雨は理解する。そのまま息が整うのを待ってから、朱雨は同じ質問を繰り返した。てゐは一息ついて、朱雨に説明する。

 

「ふう……だってさ、あんたって人間らしくないんだもの。人形みたいに表情変わんないしさ。そんなあんたが、普通の人間みたいに『悩みがある』って言ったんだよ? もうおかしくっておかしくって。あたしも長い事生きてるけど、笑い死にしそうになったのは初めてだよ。あ、やば、思い出して来たらまた……」

 

 クスっとてゐは口元を抑えて笑う。しかし、そんな事よりも朱雨は「人間みたい」と言われてかなり動揺していた。

 

 私が、人間のように、悩んでいる?

 

 それは、自分でも薄々気づいていた。だけど、それを指摘されるのがどこかいやで、それゆえに朱雨は永琳と話す事を避けていた。それを、こんな風に笑われながら言われるとは、朱雨も予想だにしなかった。

 

 そこで本当に笑いが収まったてゐは、自分の横で無表情ながらもどこか愕然としている様子の朱雨を見て、声を上げてびっくりする。

 

「ちょ、ど、どうしたのさ一体!?」

 

「いや、なんでもない」

 

 だが、朱雨は否定する。私は人間らしい感情も持っていないし、心も持ち合わせてはいない。今回もたまたま、選んだ行動が偶然にも人間らしく見えてしまっただけだと。

 

「なんでもないさ、てゐ。それより、聞かせて欲しい事がある」

 

 愕然とした様子も消し去って元の無情に戻った朱雨は、機械的にてゐに視線を向ける。そうっと下から朱雨の顔を覗き込もうとしていたてゐはいきなりの事にまたびっくりして、ちょっとドキドキしながら聞いた。

 

「な、なにさ?」

 

「なぜお前は、私が悩んでいるかといって笑ったんだ?」

 

「え――だって、悩むなんてすっごい馬鹿みたいじゃない」

 

 てゐは朱雨にちょっと怖いなーなんて思いながら、当たり前のように言い切った。

 

「――――――――」

 

「悩むなんてのはさ、本当に馬鹿らしいことなんだよ。だって自分の殻にこもってずーっと考えてさ、何にもしなくなるんだよ? それって全然意味ないし、とってもつまらないわ」

 

 悩むことは、つまらない事。そんな言葉が、朱雨にしみわたっていく。今まで抱いていた悩みは、至極つまらない事で、取るに足らない物だと、そう言われたような気分になる。

 

 朱雨の様子がおかしい事をてゐは察した。たぶん悩みが関係しているのだとてゐは思い、しょうがないな~と朱雨の肩に小さな手を置く。

 

「ねえ、朱雨。あんたが悩んでいる事が、あんたにとってどれくらい重たいのかは、あたしには分からない。だけどさ、ずっと悩み続ける事はないんだ。それで前に進めないってなら、いっそ笑い飛ばせばいい。あんたが悩んでいる間もこの世は回っているんだし、いくらでも進める道はあるんだから」

 

 てゐは真っ直ぐ朱雨をみつめる。その迷いのない真っ直ぐな瞳に、朱雨は初めて、美しいと思った。

 

「それに、あんたがどんだけ悩んで迷っていたとしても、絶対に出口が見つかるさ。なにせあたしは――」

 

 ぴんと背を正して、胸を張る。そこにドンと自分の拳を当てて、平原に咲く名も無き花たちのように、泥くさくも綺麗に、輝かんばかりの笑顔で宣言した。

 

「――幸運を呼ぶ、因幡の白兎(しろうさぎ)なんだから」

 

「――――そうか、そうなんだな」

 

 演技でもなく擬態でもなく、朱雨は初めて自然に笑う。それはとても僅かなもので、きっと、笑った事にさえ彼は気づかないだろう。

 

 でも、それは。朱雨が「心」を理解し始める為の、限りなく大きな一歩だった。

 

「あ! あとさ朱雨、あたしもあんたに聞いておきたい事があるんだけど」

 

 と、なんだか不思議な空気になっていると、唐突にてゐが切り出した。朱雨はもう笑みを浮かべてなかったが、どことなく気分が上昇した様子で優しげな声を出す。

 

「なんだ、てゐ」

 

「あんた、一体神様のなにが不満なのさ!?」

 

「――――はい?」

 

 そのまま、意味不明の指令を与えられたコンピュータのように、朱雨はフリーズする。それに構うことなくてゐは怒涛の勢いでまくしたてた。

 

「だから、神様の何が不満だっていうのさ!! 確かに悪い神様はいるよ。毛皮をひん剥かれた哀れなか弱い兎に「海水で洗ったら良い」とか「風に当たって高山尾上に伏せたら治る」とか嘘つくいじわるな神がね! でも、とってもお優しい神様だっているんだよ! 誰であろうその御方の名前は大国主神様! 数多くいる八百万の神々の中でも一番かっこいい御方なのよ! あの時意地悪な神達に騙されて儚く泣いていたあたしに、それはもう小鳥がさえずるような美しい御声で声をかけてくださって、ちゃんとした治し方をお教えになってださったの! はあ――あの御姿を、あたしは一生忘れないわ。それにさ、大国様は本当に素晴らしい御方で――」

 

 おそらく朱雨の回答にも耳を貸そうとしなくなっている、何やら有頂天になっているてゐを見て、朱雨は静かに悟ったのだった。

 

 ああ、因幡てゐ。お前も、永琳と同じだったのか。なにかとても、虚しくなったよ。

 


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