東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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別れの刻。

 

 

 

 

 永遠なんて求めない。朽ちるからこそ、美しいものもある。

 

 

 

 

 この月を見上げるのは、もう何度目になるだろうか。始まりの時も、過ごしてきた時も、いつだって空を見れば、空漠の夜には命を狂わせる満月が輝いていた。

 

 このちっぽけな大地を踏み締めて幾星霜。見た事もない数多の生命に紛れ込んで、思い起こす事さえ億劫なほどの永い時を彷徨って来た。それには多くの無為があったけれど、どれ一つとして無駄ではなかったように感じる。奈落のように底の見えない月を見ていると、不思議とそう思えてくるのだ。

 

 初めてこの世界を見つけた時。最初に目に入って来たのも、この狂おしい満月だった。思えばあの頃から、この煌きは変わる事がない。

 

 己の肉体を無理を通して造り替えた時も。この命溢れる世界に酔いしれた時も。己と同じように高い知能を持つ存在に(まみ)えた時も。ただの一度も、その曖昧な月明かりさえ(かげ)りを知らない。

 

 夜になればいつだって、限りない星に彩られたこの空に君臨していた満月(もちつき)の君。生まれては消えていく数多の星屑の中で、その輝きだけは終わりがない。

 

 例え、幾許(いくばく)かも分からないほどの歳月が流れようとも。例え、私以外の全てが朽ちて消え逝こうとも。きっと、この満月だけは。これまでのように、これからも私の行く末を照らし続けてくれるのだろう――

 

 ――などと、ヒトは思うのかも知れないな、なんて考えながら。

 

 この摩天楼の頂でもまた、彼は遼遠の月を望んでいた。彼の象徴とも言うべき、黒味がかった鮮血のように紅い長髪を、大気の風に泳がせて。在りし日の想いを追憶するように。

 

 その姿はひどく曖昧で、(かすみ)というより朧に近い。存在が希薄なのではなく、風景の一つと勘違いしてしまいそうな程融けているために、あまりに自然で物悲しいのだ。まるで、彼は自らの命よりも、世界という機関の歯車である事に重きを置いているみたいで。

 

 それは「個」を持つ人間の姿としては決して相応しいとは言えないのだろう。けれど、ありとあらゆる在り方を内包するヒトならば、在り得ないとは言い切れない。それこそが彼が選んだ、人間としての在り方なのではないか。

 

 人間のようで、ヒトでなし。人では無いのに、ニンゲンらしい。

 

 彼からすればほんの僅かな時間を生きる、人間という獣の一。その膨大な刹那を積み重ねて進化する系譜に身を投じた彼は、何を思い、何を考え、何の為に生きているのだろうか。何処まで進化しようとも、彼以外の同胞なんて、世界のどこにもいないというのに。

 

 ――きっと、そんな事は誰にも分からない。おそらくは、それでも生きる彼自身にさえ。

 

 元より、心なんてものを持たない彼が、そうやって自らに疑問を持つ事はないのだろう。機械のように生きる事を望む彼が、そんな無駄な想いを抱く事なんてないのだから。

 

 だから、彼は今日もヒトと()る。観察を重ねた人格を被り、人間らしく振舞いながら。昨日のような明日の螺旋で、ただひたすらに生きていく。

 

 ――唐突に。何を思ったのか、夜が渦巻く天上で、クハリ、と彼は笑みを漏らす。そして、クルリクルリと廻りながら、まほろばの月に(ボウ)と舞った。朦朦(もうもう)闇衣(やみぎぬ)を夜に纏わせ、(かす)かな笑みを浮かべながら。

 

 ここは月夜の幻想舞台。観客もいなければ演出もない、たった一人のための夢。どこまでも広い宇宙の中、道化は一人、ただ踊る。

 

「――天叢雲(あまのむらくも)。九天を貫き、星界の果てを目指した闇夜の楼閣。大地から遥か遠きこの空隙は、所詮、闇が晴れれば崩れてしまう泡沫(ウタカタ)の夢に過ぎん。そうだろう? 幻想を見極めんとする賢者――八意永琳よ」

 

 まるで讃美歌を謳いあげるように、伝説を奏でる吟遊詩人の声色で。夜に融ける儚げな姿で彼は朗々と語り、己を呼び出した待ち人へと踊るように振り返った。それを合図とするように、黒塗りの自動扉が音もなく開いた。

 

「……まあ、それは否定しないわ。魔力で織り成されたこの場所は、満月を浴びて初めて知覚出来る場所。夜が明ければ深淵へ還るしかない、まさに砂上の楼閣ね。…………それはそれとして、その芝居がかった台詞は遅れてきた私に対するあてつけかしら、朱雨」

 

 空が近いせいか、月明かりしかないこの場所でも映える、無数の星座が描かれた赤と青。それにあざなうように風に揺れる銀の絹髪を抑えて、永琳は呆れた声で屋上へ足を踏み入れた。

 

「いや、失敬。先日、心を打つ歌劇(オペラ)を観たばかりでね。ついその真似事をしてしまった。門外漢ではあるが、中々様になっていただろう?」

 

 それに朱雨は宙を歩くように軽やかに踊りながら、言葉先だけで詫びを入れる。実際には悪いと思っていないだろう。何もかもを嘲って羨むような笑みで、朱雨はよく分からな独特のポーズを決めた。当然の如くドヤ顔である。

 

「馬鹿じゃないの?」

 

 それを永琳は非常に白けきった目で斬り捨てた。その情け容赦ない一閃には流石にザクリときたのか、朱雨はうめきをあげて石化する。そのまま崩れるように膝を落とす朱雨を尻目に、永琳はため息を吐いて髪を掻き上げた。

 

「全く、こんなくだらない事のために貴方を呼んだんじゃないのよ、朱雨。……それに、今日は人間としての神亡朱雨ではなく、一生命体としての貴方と話すために呼んだのだから、擬態は解いて構わないわ」

 

「そうか。それならば、ヒトの模倣を終了するとしよう。それで、何の用件だ」

 

 永琳の言葉を聞くやいなや、朱雨は先程までの人間らしさを一切消失させ、何事もなかったかのように立ち上る。そして、抑揚はあるが機械的な音で設問を始めた。

 

「……………………」

 

 その沈黙に、いかなる意味があったのか。

 

 きっとそれは、長い間被り続けてきた擬似人格を、まるで使い捨ての包装紙を破り捨てるように簡単に剥ぎ取った朱雨に、何か感じ入る事があったのだろう。悲しげに、あるいは虚しさを振り切るように永琳は首を左右に振る。

 

 そうやって押し黙る永琳の様子に何を思うでもなく、朱雨はただ物言わぬ石のように待った。彼に時間が惜しいという感覚はなく、心を理解出来ない彼は、永琳の行動が何を示すかは理解しても、何故そうするのか分からないから。

 

「…………ここじゃ寒すぎるわ、中で話しましょう」

 

 肩に走る震えを誤魔化すように、永琳は建物内に入る事を促す。それを寒さ故の提案と誤認した朱雨は、恬淡と頷いて左手を横に掲げた。

 

「ふむ、そうだな。ここに留まる理趣もなし、座談にも適さんからな。元より、ここは単なる待ち合わせの地でしかない」

 

 朱雨は静かに呟くと、不意に、彼の左側の空間が歪み巨大な壁が出現する。昆虫の外骨格を連想させるクチクラ質の厚い円錐形は、赤く染まったかと思うと液状に崩れ、ものの数秒で朱雨の左手に吸収された。

 

 そんな人間に擬態している時は決して行わない行動を平然と行う朱雨を見て、ああ、本当に簡単に人間を捨てられるのだな、と永琳は辛そうに眉をひそめる。それを何か勘違いしたのか、朱雨は紅い眼光を永琳に向けた。

 

「そんな目で見るな、永琳。何という事はない、これはただの風除けだ」

 

 地上十数キロメートルに位置するこの摩天楼の頂は、消費される魔力量を削る為に防護結界を張っていない。それ故、ただの人間ならば一瞬にして凍えてしまう程に気温が低く、非常に強い暴風が吹き荒れている。

 

 ただの人間でない永琳は技術と頭脳を駆使してそれらをほとんど緩和していた。朱雨は自らの血液を風除けに変貌させて風を防ぎ、避役(カメレオン)のように周囲の景色と同化させる事で視覚には捉えられないようにした。見えなくした所以(ゆえん)は、単に人間的にふるまっていたからに過ぎない。

 

 しかし、それを咎めようとして眉をひそめた訳ではないので、やぶから棒な朱雨の言葉に永琳は少し疑問符を浮かべる。

 

「え? ……ああ、そうゆう事ではないわ。貴方に言っても分からないだろうから、説明は省かせてもらうけれど……」

 

 その稀代の頭脳(ニューロン)は朱雨の言葉を瞬時に紐解き、心に関する事だから彼は誤解したのだと永琳は理解した。その上で彼女は話す必要はないと判断し、朱雨は放っておいても勝手についてくるだろうと一足先に建物内へと戻っていった。

 

「…………ああ、置いて行かれたのか」

 

 余談ではあるが。

 

 乾いた寒風が吹き荒ぶ中、一人ポツンと取り残された朱雨がその事に気が付いたのは、永琳が去って数分後の事だった。

 

 

 

 

 それは、地上に星の海が生まれたかのような光景だった。

 

 一つ一つはたいした事はなく、せいぜい六畳一間を照らす程度の燈火(ともしび)でしかない。しかし、千を超え、万を抜き、億へと届くほどの光の群体は、眠りを忘却するほど地に満ちている。

 

 そんな光り輝く街並みを背に、コトリ、と酒を注いだグラスを永琳の前に置いた朱雨は、目の前で両手の指を組んだまま黙っている永琳が口を開くのを待ち続けた。

 

 朱雨が習慣的に出した酒に手をつけず、永琳は何か迷うように視線を宙に彷徨わせていた。普段ならば考え込む事はあっても逡巡がない永琳の行動に朱雨は違和感を覚えるが、だからと言って現在人間への擬態を停止している彼が何かを思う事はない。

 

 ただ、永琳が何の為に己を呼んだのか、永琳が話す内容は何なのかと、それらの事項を予測するだけだ。それが実際と一致するのなら、少なくとも八意永琳という人間の事をある程度理解したという証明になる。

 

 しかし、予測を打ち立てるのは難しいと朱雨は思う。なにゆえ永琳が己を呼び出したのか、その理由を察する為の情報があまりにも少なすぎるのだ。あるとすればせいぜい、先日の永琳と月夜見の密談か――それから漠然と感じた変化の予兆、くらいか。

 

 変化の予兆。確信。そういえば何故、あの時己は何かが起きると確信したのだろう。根拠も思考さえも挟まなかったあの状況下で、何を以て確信を抱いたのだろうか。たった今もまた永琳から感じ取っている、この言いようのない変化への確信は一体どこから湧き出ている。

 

(……これは、思索の価値があるやもしれんな。この何の変哲もない思考の断片が、進化の鍵となる可能性も無きにしも(あら)ず。何より、私にとって時間は広大無辺と在るのだから)

 

 例え徒労に終わろうとも、たいして気に病む事もなし。彼はそう結論付けて、永琳が発言するまで思考の展開を試みようとして――

 

「――朱雨」

 

 かろうじて絞り出したような小さな声で、しかし一切の軽んずる行為を許さない重みを持った言葉を永琳が発した。その空気を鋭敏に感じ取った朱雨は、姿勢を正して鋭い視線で永琳と向き合う。

 

 ひたすらに紅い朱雨の眼に写るのは、一点の濁りもない宝石のような漆黒の瞳。その輝きに秘められている強い意志を見抜いた朱雨は、これから語られる事は己にとっても永琳にとっても、運命の分かれ目になるだろうと直観した。

 

 厳粛な静寂の中、永琳は静かに口を開く。それは朱雨が想定していたどの事項にも当て嵌まらない予想外の言葉であり。

 

 それこそが、朱雨の感じていた漠然とした変化の正体だった。

 

 

 

 

「単刀直入に言うわ。私は――いえ、月夜見と系譜をともにする優秀な一族達は、この穢れた地上を離れて、穢れ無き月へと移住する。それに、貴方も一緒に来て欲しいの」

 

 

 

 

   आयुस्

 

 

 

 

 錆び果てた砂の大地。何物にも踏み締められる事なく、何もかもが生きながらに死んでいる、黄昏(たそがれ)すらない永遠の砂漠。凍てついた風が索漠と吹き荒ぶ以外に何一つ変わりはしない朽ちた白には、延々と刻まれた彼の足跡だけが残り、それすらも砂嵐に消えていく。

 

 一切が枯れた風を全身で受け止めて、ここは何も変わらぬ万古不易(ばんこふえき)の地だ、と朱雨は空を見上げた。あの満月ほどではないが、ここも変化というものを知らないようだ。

 

 だが、それを懐かしいとは思わない。情緒などと云う曖昧で不必要なものなど彼には理解出来ないのだから。思う事は、かつての景色との相違のみ。それ以上に思考するべき事柄はない。

 

 空を仰ぎながら歩いていた朱雨は、前触れもなく立ち止まった。光を反射するだけの紅玉色の眼球は、光り輝く満月の一点のみを見続けている。

 

「――そうか、辿りついたのだな」

 

 唇から零れた音は、乾いた風に消えていく。それは誰かに向けた言葉ではなかったが、彼にとってそれは別れを意味していた。もう二度と会う事はないであろう、あの未曾有の賢人への手向けの言葉だ。

 

 ヒトの身ではあまりにも広く果てのないこの大地。そこに這い(つくば)っている己の言葉など、月に届くわけがない事なんて分かっている。それでもあえて無為を行ったのは、最後まで己を気にかけてくれた彼女への感謝だったのかもしれない。

 

 彼女は、八意永琳はもはや地球上には存在しない。旅立っていったのだ――この穢れきった穢土を離れ、穢れ無き浄土へと。万象森羅に宿命づけられた、いずれ来るであろう死を厭うが故に。

 

 朱雨がその事を告げられたのは、もう一週間も前の事だ。天叢雲に呼び出され、永琳が語った事は要約すれば三つある。穢れと、月夜見が新たに発見した事柄と、そして共に月へ行かないかという誘いだった。

 

 これらに関して朱雨が驚いた事は、穢れの事項のみである。新発見についてはどうでも良い事であったし、月への移住など、そもそも杳然(ようぜん)とした宇宙の最果てからやって来た朱雨だ、驚くべき要素はない。重要なのは移住する理由だ。

 

「……『地に穢れが満ちてしまっているから、私達は月へと逃れる。貴方に倣って言えばそう――私達のみが持ちうる心というくだらないモノに従って、ね』か。確かに、永琳の物語る通りだな。互いに争い合って生き抜く事を最善とするこの世界において、他から搾取する事を峻拒(しゅんきょ)し、円環の内のみで完結する事を選ぶなど――心を備える存在にしか出来ない事だ」

 

 均一な形をした白い砂を、朱雨は一掴み程掬い取る。指の間からざらざらと零れていくが気にせず、掌に残った砂に目を落とした。そして自らの力を開放する。すると掌の砂は風化しない筈なのに徐々に細かくなっていき、やがて塵となって風に散った。

 

「自らの力を正確に認識するか否か。ただそれだけでこれほどまでに力を使い(こな)せるようになるとはな。成程、人間が解明に勤しむのも頷ける。汝自明の理とならば我が手中に在り、理解こそ利用への第一歩という訳だ」

 

 穢れ。それは生命の闘争の坩堝(るつぼ)において生まれる、忌み嫌うべき災厄である。だが、あらゆる生命はそれを認識する事はない。何故なら穢れを纏っているからこそ、我々は生きているからだ。

 

 あらゆる生命は己を最優先に生きる。それは語るまでもない事だが、そのためには他の生命を踏み躙らなければならない。最も代表的なのが捕食にあたり、次点として巣作りで植物を利用するのがあげられる。そうやって他の生命を犠牲にする事で、初めて生きる事が出来るのだ。

 

 だが、考えてみて欲しい。捕食をする時、食べられた側の生命はどうなっているのか。当たり前だが、その存在は既に死んでいる。そうやって身近に死を感じる事で生きている事を強く実感するのなら、それ故に更に強く死を認識するのではないか。

 

 それが穢れなのだ。他の何を差し置いてでも生き抜こうとするその在り方が、結果として自らに死という概念を与えている。他を踏み躙る事で強くなる死の気配、それが月夜見が発見し、朱雨が操っていた力の正体だった。

 

 先程砂が塵となったのもその原理だ。朱雨が砂を穢し尽した事で砂は崩れ、塵となった。万象に変化を与えるというのも、言い換えてしまえば全てのモノから永遠を奪うという事に等しい。だからこそ、これを解明した時月夜見は恐れた。穢れがないからこそ長寿を誇っていた天照国が、朱雨によって穢れで満たされてしまうのではないかという危惧が生まれたから。

 

 何百年も住まわせておいて何を今更と言いたくなるが、それでも不安というものは尽きるものではない。自分の隣に毒を吐き散らすかも知れない存在があったら、恐怖を抱くのは当然だろう。

 

 とはいえ、そのように扱われようとも朱雨は気を悪くしたりしない。月夜見が何故己を恐れたのか、その答えが出ただけで満足であったし、どのような感情を向けられようと思う事などありはしないのだから。

 

「月夜見、か。思えば、彼女に対して特別性を感じた事は一度もなかったな。より高位の資質を持つ永琳と先に出会った所以か、はたまた関心を誘う特徴を持っていなかったからか。理由は定かではないが……まあいい。解明したところで無駄な話だ。月夜見の新発見とやらも、私には理解出来なかったしな」

 

 だから、どうでも良い事なのだ、と朱雨は結論付ける。世界は可能性で出来ており、起こり得ない事など何一つ存在しない、なんて言われても彼にはさっぱり分からない事だった。可能性を手繰るだの、世界は何処までも繋がってるだの、その理論は彼にとって理解不能の理だ。

 

 それはおそらく、その理論の側面に精神的な解釈が混じっていた事が原因だったのかもしれない。そうであれば、精神、心を拒絶する朱雨に理解出来る筈もなくて。

 

「ああ、そうか。月夜見の研究は全て、心に関連するものだったから、私は興味を抱かなかったのか。合点がいった、だからどうという事はないが」

 

 どうでもいい、それ以外に思う事など何もないのだ。しいて挙げるとすれば、結局彼女と酒を酌み交わせなかった事ぐらい。それだけは、後悔してもいい事だろう……、……?

 

「……待て、後悔だと? 私は今、後悔の念を抱いていたのか? ――莫迦(ばか)な、ありえん。この私が、我を他の何よりも嫌うこの私が、後悔するなど断じてありえはしない。……おおかた、擬態の一部を解くのを忘れていたのだ。そうに決まっている。そうでなければならない。それ以外の理由など、一片たりともありはしない……!」

 

 そこで、朱雨は己が声を荒げていた事に気づく。ハッとして周りを見れば、無意識のうちに周囲に放出した穢れによって、自分を中心とした砂漠が塵となっていた。

 

 何を莫迦な事をやっているのだ、と朱雨は頭を振って己を叱咤した。声を荒げる意味などどこにもなかったのに、何故己は声を荒げたのか。穢れを放出したのもそうだ。無意識の内に能力を行使するなど、愚劣の極みではないか。

 

 

『――朱雨、気づいていないかも知れないけれど、貴方は――』

 

 

「――ッ!」

 

 天照国から去る間際、永琳に投げかけられた言葉がフラッシュバックする。それをかなぐり捨てるように頭を振った朱雨は、しばらくの間立ちすくんだ後、やがて懐から紅く輝く宝石が埋め込まれたペンダントを取り出した。

 

 それは言葉を投げかけられる前に永琳から受け取った物だ。触れずとも明確に存在を認識できるその血塗られたような宝石は、他ならぬ朱雨の血液によって構成された物質である。

 

 かつて永琳が朱雨の血液検査を行った際、利用価値を見出して保存しておいた血液。それから造り出したそうだが、いかなる理由で制作したのかは分からない。考える必要もないと無造作に受け取ったソレを朱雨は見続け、語りかけるように口を開いた。

 

「……少々、ヒトに毒されてしまったのだ。あまりに膨大な数の心を日々捌き続けてきた故に、私自身もまた心のようなモノを無意識下に造り出したのだろう。それ以外に解釈は必要ないさ、八意永琳。お前の云う様な事は、決してない」

 

 語りかけるような口調はすぐに平坦なものに変わり、少しばかり表情が歪んでいた顔はいつの間にかいつもの能面に戻っていた。ペンダントを首にかける事無く再び懐にしまった朱雨は、天照国を背に歩き出す。

 

 永琳、いや、月夜見の系譜に生まれた天照国の優秀な人物の多くは、全て月へと旅立ってしまった。天照国に残っているのは、最早老獪な阿呆共と、考えなしの馬鹿だけだ。そんな残骸めいた所に留まり続ける理由など、何処にもありはしない。

 

 なればその地を離れ、新たな生命を観察する事にこそ価値があるだろう。だから朱雨は天照国を旅立った。もう戻らない事を決意して。

 

 ひたすら前を見続けて歩く朱雨の目に、後悔や郷愁の色はない。今までもこうして生命の中を流離って来たのだ、今更思う事などなにもなく、思う事すらありえない。背中越しに一瞥くれてやることすらなく、朱雨はただ歩いて行った。

 

 こうして、朱雨の人間としての生活は幕を閉じた。彼にとってそれは一生物の観察の終了を意味し、新たなる観察への幕開けである。ただ、それだけの事だった。

 

 

 

 

 ――訣別の日の、最後の会話が甦る。

 

『……あの、やっぱり、一緒には……』

 

『何度も同じ事を言わせるな。お前は穢れぬ事を選び、私は穢れぬく事を選んだ。その事実は変わる事無く、未来永劫我々の道は混じりはしない』

 

『……そう、ね。ごめんなさい』

 

『謝る必要性などない。最早、二度と会う事はないのだから』

 

『…………』

 

『では、さらばだ』

 

『……待って、朱雨。一つだけ、言いたい事があるわ』

 

『……何だ?』

 

『――朱雨、気づいていないかも知れないけれど、貴方は今、泣いているわ』

 

『……なにを莫迦、な…………これは……涙……?』

 

『貴方は今まで数多の動物を観察して、その中で生きていく事で進化を模索してきた。その中でも貴方は異種族に染まる事なく、自分自身を見失う事はなかったでしょう。……けれど、自分と違う種族となって生きる事は、僅かでも確実に、貴方自身に影響を与えるのよ。人間の中で生きれば、心を得る事だって――』

 

『推論だけの妄言はよせ。今のお前の言葉には、確証された根拠など何一つ存在しない。ここは乾いた砂漠だ、砂嵐の一つでも起これば、眼球の保護の為に涙くらい流れるさ。……もういいだろう、私は行くぞ』

 

『朱雨! 貴方がどれ程否定しようとも、何よりも貴方の近くにいた私には理解出来る! 貴方は、心を――!』

 

「…………ありえん、ありえぬ事なのだ、永琳。例えその可能性が、選択肢があったとしても。お前のいないこの世界で――私がその未来を選ぶ事はない」

 

 ヒトを被ったナニカは選んだ、ただただ進化し続ける事を。それを哀しみ嗤うように、狂った月は皎皎(こうこう)と――

 


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