東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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朱雨はいまだ、ヒトというものを理解せず。

 

 

 

 

 かくして夢は終わり、雲は再び流れ往く。遥かに遍く、世界の果てまで。

 

 

 

 

 冷たい陽光が満ちる中、一匹の鳥が悠然と羽ばたいている。青い尾を引いて悠然と空を泳ぐ姿に、あの鳥は見た事がないな、と朱雨は目を細め、空気を切り裂き迫る銀閃を、蠅を払うように右の(てのひら)で地に落とした。

 

「ぐうっ!」

 

 落とされた斬撃は周囲に無数の(ひび)を入れ、刀身は半ばまで大地に埋まる。柄まで上ってきたその衝撃に剣の主は呻きを上げるが、それを意に介さないというように腕の筋肉を肥大化させ、剣を一気に振り上げた。

 

 だが、そこに朱雨の姿はもうない。剣を持った男があげた呻きは、時間にして(ぶん)、僅か0.1秒の間であったが、それは、朱雨にとってあまりに永い一瞬だった。

 

 数十メートル離れた位置まで距離をとった朱雨は、非常につまらないというようにため息を吐く。そして、呆れたような目で男を見た。

 

「その程度か、素戔嗚(すさのお)。修行を行ったから稽古をつけて欲しい、そう自信満々と言うから来てみれば……やれやれ、五年前と何も変わっていない。興醒めものだ、実につまらん」

 

 期待外れだと言うような侮蔑。歯に衣着せぬ朱雨の言葉に、素戔嗚と呼ばれた男は鬼のような形相で怒りを露わにする。

 

「――ッ! 侮るな、神亡朱雨!」

 

 たかだか五年ではあるが、自らの血反吐を吐くような修行を無意味だと断じられ、燃えるどころか溶解し昇華してしまう程の憤怒に駆られる素戔嗚。それに呼応するかのように、素戔嗚の身体から蒼い霊力が立ち上った。

 

「その認識の甘さ、泥梨(ないり)に臥して悔やむがいい……!」

 

 素戔嗚の獅子のような咆哮とともに剣が振るわれ、蒼い軌跡から生み出された幾千幾万の霊刃が暴風雨となり朱雨を襲う。

 

「くだらん」

 

 されど、それでも朱雨は揺らがない。心底呆れたというような一言を退屈そうに吐き出した朱雨は、迫り来る刃の壁をどうでもよさそうに流し見た。

 

 そして、朱雨は自らの首を掻き切らんとする霊刃を、己を傷つけるは不可能だと決まり切っているとでもいわんばかりに、首を傾けるのみでかわす。

 

 そこからの朱雨の動きは、まさに神憑りとしかいいようがなかった。京風と舞う木の葉のようでありながら、流水に聳え立つ巌の如く、無数の刃をあるいは避け、あるいは手刀でそらし、あるいは刃の一つを撞球(ビリヤード)のように別の刃に当て続けて活路を開く。

 

 出そうになるあくびを噛み殺して、朱雨は霊刃から身を守り続ける。だが、その眠そうな半目は、刃の壁の先に一瞬だけ垣間見えた、天を衝かんとする程の霊力が宿った剣、そして、既にその剣を振り始めていた素戔嗚の凄絶な笑みによって見開かれた。

 

 ――そして、振り払われるは銀の極光。全てを飲み込む霊力の螺旋。

 

 先行していた霊刃の嵐さえをも喰い尽くし、視界を覆い尽くして迫る茫漠な光の波に、朱雨はただ眼を見開くままだった。そのまま、為す術なく光に掻き消える。

 

 瞬間、閃光。おどろおどろしい雨雲の間を龍のように奔る電影を間近で目視したかのような、網膜が焼き付いてしばらく見えなくなる程の輝きが辺りを包み、瀑布に弾ける霧のような土煙が舞い上がる。

 

「言った筈だ、侮るなとな」

 

 刃を振り終えた姿勢のまま素戔嗚は悪漢のように嗤い、絵画に描かれた英雄像のように剣を肩に担ぐ。

 

 そう、先の刃の群れは囮。本命はそれを足止めに使った、ありったけの霊力を籠めた必殺の一撃だった。

 

 確実に()てた、と素戔嗚は確信した。いくら頑丈な肉体を誇る朱雨であっても、大山を切り裂くほどまで練り上げた自身の最高の技を食らったのだ、無傷では済むまいと、素戔嗚は憶断する。

 

 周囲は技の余波で舞い上がった砂埃で溢れていて、素戔嗚は泰然として晴れるのを待った。おそらくは立ち上がれぬ程に消耗しているだろう朱雨に、己の勝利を宣告する為に。

 

「……ん?」

 

 だが、その時。トン、と、素戔嗚は水月を軽く押されたような感触を覚える。特に何も考えず、脊髄反射で胸を見下ろしてみれば、そこには、紅い刺青が刻まれた一切の無駄がない屈強な腕があった。

 

 何だ、これは。素戔嗚は呆けたようにそう思い――刹那、雷撃に打たれたかのような凄まじい衝撃が水月に走り、全身を貫いた。

 

「ガッハア、ア――ッ!?」

 

 一体何が起こったのか。そんな事さえ素戔嗚には理解出来ない。

 

 今まで受けるどころか見た事さえないような、人智を容易く凌駕する衝撃。束になった肋骨が軋み、心臓が、肺が、諸々の内臓の機能が一瞬麻痺する。脳髄が揺れ、胸郭(きょうかく)の筋肉がブチブチと断裂する感覚が、濁流の如く素戔嗚を襲った。

 

 周囲の粉塵は素戔嗚を中心に吹き飛び、一寸先も見えない視界は一瞬にして明瞭になる。その世界に写ったのは、胸を押さえて倒れ込む素戔嗚と、破れた服を肌に纏わせる、半裸になった朱雨だった。

 

(いっ、きっ、がっ……出来な……!?)

 

 掻き毟るように胸を押さえてのた打ち回る素戔嗚。朱雨の放った一撃は外部に漏れず体内で爆発し、それは呼吸器官にもダメージを与えていた。その空気を求めて足掻く様を、朱雨は冷めた瞳で見下ろした。

 

「――戦いとはすなわち、己の命を賭けた殺し合いだ。そこに勝利や敗北などと云うモノはなく、ただ生者と死者のみが実存する。故に、己の総力を以て死地に挑まねばならない。余裕など抱くべからず、慢心などもっての外。自らを御し切れなかったお前が倒れるのは、至極当然の結末だ。……まあ、此度は殺し合いでなく、ただの鍛練故、殺さぬ程度に加減はしたがね」

 

 体についた砂埃を払い落し、血液で服を再生する朱雨。呼吸困難と激痛の中、薄れる意識でそれを聞いた素戔嗚は、負け惜しみさえあげる事も叶わず、屈辱を噛み締める。そうやって苦しみ続ける素戔嗚を、憐れむでも嘲笑うでもなく、朱雨はただ片手で軽々と担ぎ上げた。

 

「だがまあ――私に能力を使わせた事は褒めてやってもいい。お前の研鑽は、どうやら無駄ではなかったようだな。次はこの身に、切創の一つでも刻んで見せろ」

 

 ぴくりとも体を動かす事の出来ない素戔嗚に自然治癒力を促進させる薬を打って、柔らかな笑みとともに朱雨は賛辞を述べる。仮にも稽古の一環なので、前回よりも成長した部分は褒めてやるべきであると、僅かな経験則から見出した行為だった。

 

「…………ハッ、言われ……ず、とも……次は、必ず…………」

 

 それが嬉しかったのかどうかは朱雨には分からなかったが、素戔嗚は僅かに笑って悪態をつく。そして、自身の超えるべき壁である男との次の戦いをシミュレートしながら、素戔嗚は意識を深い底へと落とした。

 

 自分の肩にかかる負荷が強くなったのを感じたのか、素戔嗚を見る朱雨。そして、笑みを浮かべて眠る素戔嗚を見て、

 

 笑みを消し、人形のような無表情となる。

 

「……ふむ、眠ったか……。やれやれ、ヒトとはどうして、戦いを好む者がいるのだろうか。私には理解出来んな――自らの命を、進んで窮境に晒す意味など」

 

 そして、朱雨はヒトへと紛れ往く。未だに理解出来ない、ヒトというものを考えながら。

 

 

 

 

   आयुस्

 

 

 

 

「まあ、それで。此度の戦いで素戔嗚が私に敗北した回数が、めでたく百を迎えたわけだ」

 

「朱、朱雨殿!? それは言わぬと約諾したはずではなかったのか!?」

 

「はて、そうだったか? 憶えてないなあ」

 

「その顔は確実に確信犯であろう!」

 

「ハッハッハ! ばれたか!」

 

「ばれたか、ではない! ええい、この性根の曲がったうつけ者が――――!」

 

 日々の労働に追われる仕事人や休日を満喫する親子が行き交う天下の往来の中、朱雨の楽しげな笑い声と、怒りと羞恥で顔を真っ赤にした素戔嗚の怒声が響き渡る。

 

 一見して長身痩躯の美しいと称せる程の美青年である朱雨と、筋骨隆々・頑固一徹・筋肉こそ全てと言いそうな二メートルを超すムッキムキのマッチョ野郎である素戔嗚が子供のように走り回っている。

 

 それは見ていてどことなく犯罪臭を感じるような、ブルーベリーみたいな色の青いツナギを着たいい男を思い起こさせるような、シュール過ぎて笑えない光景であったが、それをクスクスと永琳は笑いながら見つめ、ひとしきり笑った後、二人を諌めた。

 

「飽きないわね、貴方達。でも、ここは公道よ。迷惑行為は慎みなさい」

 

「ぬ……永琳様がそういうのであれば、我も矛をおさめましょう。我ながら、大人気がない行動でした」

 

 賢者である永琳の言葉に、己の行動を反省して、毅然とした態度で素戔嗚は頭を下げる。その一挙一動をとってみても武人オーラがありありと浮かぶ素戔嗚に、普通の武術家はそんな子供じみた事しないんだけどね、と心の隅で思い、表面的には変わらない笑みを永琳は浮かべる。

 

「全くだ。以後、気を付けるように」

 

 その横で、いかにも自分は関係ないですよ~といった態で腕を組み、うんうんと頭を振り、人の悪いウザったい笑みを浮かべる朱雨の姿があった。

 

「何故貴殿が言うのだ朱雨殿! 元はと言えば貴殿のせいであろう!!」

 

 自分が諌められた原因にそんな事をされて、怒りを抱かない人間はいない。頭の固い武人気質の素戔嗚ならなおさらである。

 

「こら、止めなさい! 特に朱雨、人をからかうのは大概にしなさい!」

 

 とはいえ、一度は収まった喧嘩を再び引き起こすなんて愚の骨頂だ。朱雨はそれを狙ってやったのだと永琳には理解出来ていたため、懐に入れていた扇子で朱雨の頭をはたき、それ以上は自分も怒るぞと暗に示す。

 

「あ、ああ。了承した、永琳。だから仕置きは止めてくれ、あれはトラウマになりかねん……」

 

 よほど永琳のお仕置きにトラウマがあるのか、少し顔を青くしながらぶんぶんと首を縦に振る朱雨。その様をいい気味だというように素戔嗚は鼻を鳴らし、二度永琳に頭を下げた。

 

「重ね重ね我の為に申し訳ございません、永琳様」

 

「いいのよ、朱雨の手綱をきちんと握るのも、私の役目なんだし」

 

「……私を暴れ馬か何かと勘違いしていないか?」

 

「いいえ、貴方は立派な虎馬よ。下手な馬鹿よりたちが悪いね」

 

 落ち込んだような顔で低く問う朱雨に、人の悪い笑みでコロコロと笑う永琳。朱雨の擬似人格形成の一端には、この永琳の性格も入っているのかも知れなかった。

 

「……まあいい。それより素戔嗚、まだ着かないのか? お前の言う知る人ぞ知る穴場というところには」

 

「そう急かさずともよいであろう。我としては教えるのは気が進まんが、約束は約束。我に二言はない」

 

 ぬう、と本当に気が進まないというように素戔嗚は渋面を刻むが、仕方がないといった風情で首を振る。

 

 朱雨、素戔嗚、永琳の三人が今いる場所は、天照国の東南、(ソン)の方角に位置する夜見(よみ)と呼ばれる繁華街だ。一口に繁華街と言ってもダウンタウンとしての一面も持っており、ビジネス街と歓楽街とその他諸々がないまぜになったような、ある種のカオス圏である。

 

 それ故に一般市民や上流階級、果ては支配階層の人間でさえも全容を認識しているのはごく僅かであり、素晴らしい店なのに意外と知られていないと言った穴場が数多くあるのだ。彼らは、その中でも特に隠れた名店である場所へと向かっていた。

 

 理由は単純。朱雨が素戔嗚に百回勝利したから、そのご褒美? といった形で食事をしようというものだ。朱雨的には「素戔嗚くん百回目の敗北オメデトウパーティー」と銘打ちたかったらしいが、それは流石に永琳が止めた。正しい判断である。

 

「楽しみね、貴方がずっとひた隠しにしていた場所だもの。さぞ美味しいお酒や料理を提供してくれるのでしょうね」

 

 ちなみに、永琳が一緒にいるのは朱雨に誘われたからだ。素戔嗚はいい顔をしなかったが、まあ永琳様なら良いでしょうと、渋々頷いたのだった。

 

「その点に関しては我が保証しましょう。どうぞ期待なさられてください」

 

 ニカッと豪快な笑みで永琳に胸を張る素戔嗚。先程から喋り方といい立ち振る舞いといい、朱雨と戦っている時とまるで別人な素戔嗚であるが、これは彼が戦闘中の時、容赦も礼儀も善性さえも空の遥か彼方へ吹っ飛ばすベルセルク状態になるのが原因である。

 

 というか、そもそも素戔嗚って誰だよと思う方もいるのかも知れないので、ここで簡単に説明しておこう。

 

 素戔嗚とは月夜見の弟である。生まれついて類稀なる霊力と戦闘における天賦の才を持つ、ちょっと頭の弱い益荒男(ますらお)だ。それ故姉のように研究者の道に進む事無く、嬉々として戦禍へと飛び込んでいった、見た目からも経歴からも容易に判断出来る、生粋の武芸者なのだ。前回の話の冒頭で二番目のセリフを言っていた男だと言えば分りやすいかもしれない。一人目? あれはただのモブである。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 そんな感じで戦い大好きっ子な素戔嗚は生まれて八十年程が経った頃、二百年前に八戯莉に打ち勝った男が便利屋をやっていると聞き、道場破り的な感覚で決闘を申し込んだのだ。

 

 結果は惨敗とさえ言うのも生ぬるいほどの完敗。朱雨は何の策もなく突っ込んできた素戔嗚をその場から動く事なくお手玉のようにもてあそび、地に臥して動かない素戔嗚に対して欠点と愚劣な行動を余すことなく言い放ち、その誇りと自信を完膚なきまでに打ち砕いた。

 

 それからというもの、素戔嗚は朱雨を己の超えるべき壁と認識し、一定の周期で挑んでくるようになった。まあ、朱雨も暇ではないので、それを「依頼」として引き受け、しっかりと報酬を受け取っていたが。

 

 その依頼が通算百回目を迎えた現在でさえ、素戔嗚の戦い方は基本的に変わっていない。後退屈辱・全力前進・一撃必殺という、なんとも直情的な戦法に進歩がないと朱雨は冷たく分析し、あしらうように倒している。

 

 まあ、そんな素戔嗚の狂った武神のような一切合切の区別なき殲滅系の戦い方を朱雨は評価していたが、そんな事は現在どうでもいい、完全な余談である。

 

「――あら?」

 

 と、三人でくだらない四方山(よもやま)話に興じていると、永琳の視界の隅に月夜見の姿が映った。すっと視線を投げてみれば、どことなく意気消沈した感じでため息をついている。

 

「月夜見?」

 

「あっ永琳様! と……朱雨、様……それに素戔嗚も……」

 

 心配した永琳が声をかけて見れば、一瞬前の陰鬱な空気はどこへやら、ぱあっと雲が晴れたように笑顔になった月夜見だったが、朱雨を視界に入れた瞬間、ビクリと体を震わせ、再び沈んだ雰囲気を周囲に流す。

 

 その怯える小動物のような月夜見の様子に、永琳は朱雨に何かしたのかと厳しい視線で言外に問い、朱雨は覚えがないというように不可解そうな顔で首を横に振る。ではなぜ、と永琳は疑問に思いつつ、俯く月夜見の肩に優しく手を置いた。

 

「どうしたの、月夜見。なんだか元気がないようだけど……」

 

「…………」

 

 永琳の問いかけに答えを返す事無く、月夜見は俯いて沈黙したままだ。その様子に空気を読んでか、朱雨と素戔嗚は口を閉ざしている。しばらくの間、時折何かを言いたそうにしては逡巡していた月夜見は、意を決したように永琳の袖を掴み、か細い声で呟いた。

 

「……あの、永琳様に……内密の話が、あるのですが……その……ここでは少し……」

 

 床に臥した病人のような力のない声に危惧を抱いた永琳は、そっと月夜見を抱き留め、朱雨と素戔嗚に申し訳なさそうな声色で言った。

 

「ごめんなさい、朱雨、素戔嗚。今日の食事に誘ってもらったのは嬉しかったけど、月夜見の事が心配だから。残念だけど辞退させていただくわ」

 

「いや、構わんさ。無理を言って誘引したのはこちらであるからな」

 

 仕方がないさ、と朱雨は肩をすくめて不快感を人に抱かせないホテルマンのように笑う。そして、その横で余計な事を言いそうな素戔嗚の肩を叩いた。

 

「では行こうか、素戔嗚。案内してくれるのだろう?」

 

「あ、ああ。しかし姉上が……」

 

「いいから行くぞ」

 

 我々は邪魔になるだけだからな、と素戔嗚のみに聞こえるようにぼそりと言い、月夜見を心配そうに見る素戔嗚を引っ張っていった。

 

(ありがとう、朱雨)

 

 月夜見を心配して、というよりは経験則からの行動だろうが、それでもありがたかったので心うちで永琳はお礼を言う。そして、腕の中で怯えるように震えている月夜見を慈しむように撫でる。

 

「じゃあ、私の家に行きましょう。そこなら邪魔も入らないから。ね、月夜見」

 

「……はい……」

 

 生まれたばかりの小鹿のような返事をする月夜見に、抱き留めた時に簡単な触診を終えていた永琳は身体的な病臥の類ではなく、精神的なものだろうと推測し、とりあえず落ち着ける場所、つまり八意亭へと向かった。

 

 一方、心配そうに後ろを振り返りながら引っ張られている素戔嗚は、月夜見と永琳からある程度離れた場所でようやくその腕を離される。

 

「……何故、我を姉上から引き離したのだ? 返答によっては容赦せんぞ」

 

 自身の肉親に声をかける事を許さなかった朱雨に、怒気を滲ませて素戔嗚は詰問する。それに、朱雨は前に垂れた髪を掻き上げて苛立ちを含んだ瞳で答えた。

 

「あのままにしておけば、お前は月夜見を心配するかのような言辞を垂れたからだ」

 

「それがなんだというのだ。己の家族の安否を確認して何が悪い」

 

「阿呆。月夜見は陰鬱な気配を漂わせていただろう。あれは精神の病に冒されている可能性がある。故に、今の月夜見に余計な負担をかけるわけにはいかんのだ。仮に友人の私や弟のお前が心配するような事を言えば、月夜見の事だ、迷惑をかけていると感じるだろう。だからお前が無用に過ぎる事を言う前に退散する必要があったんだ」

 

 それぐらいは看取しろ、と朱雨はにべもなく言い放つ。その言葉に素戔嗚はいい思いを抱かなかったが、自分の姉上の為にとった行動であることは理解出来たので、眉間に(しわ)を寄せつつも頷いた。

 

「……しかし、月夜見のあのような姿を見ると事になるとはな。これでは美味い酒も上手く呑めん。お前もそうだろう、素戔嗚。だから、今日の所はひとまず解散としよう」

 

「ぬう……確かに、姉上が心配で食事が喉を通る気がせん。では、この埋め合わせは――」

 

「――月夜見が全快した時で構うまい。その時は、四人で笑いあいたいものだな。ではな、素戔嗚。お前はいつも通り生活すればいい。そして、月夜見が快癒する事を祈っていろ」

 

「うぬ、相分かった。姉上の為にそこまで考えてくれた事、感謝する」

 

 素戔嗚は硬い動作で朱雨にお辞儀をする。それを「そんなに畏まるな」と手を払うように振って見届け、朱雨は素戔嗚を背にその場を後にした。

 

 そして、数多の服装が入り乱れるが故に個性が普遍に埋没した雑踏の中、苛立つような、心配するような表情の朱雨は進んでいく。だが、それは擬似人格がそうしているだけであり、その深層は絶海よりも冷たい思考の元、一切の想いを抱く事無く月夜見の態度を分析していた。

 

 自らを見て、まるで恐怖の対象であるかのように灼然たる鬼胎を抱いていた月夜見。今までそのような素振りを見せなかった分、殊更強調されて見えたその態度に、一体どんな理由があるのか。そして――

 

(――永琳のみに密議したい事柄とは何だ?)

 

 朱雨の驚異的な聴覚を以て拾った月夜見の言葉。やけに意識に残ったその事項に、朱雨は漠然とした何かを感じ取っていた。経験則や思考に裏付けされない、強いて言えば、勘に等しい代物で。

 

 それが何なのかは、情報が足りなさすぎて予測する事さえ出来ない。

 

 ただ、何かが起こる。その不確かな真実だけが、朱雨には理解出来た。

 


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