暑い夏の季節。
近年では毎年恒例の異常気象とも呼べる暑さで気温は既に三十という大台を軽く超え、温度計は三十三度を指している。
じりじりと照りつける太陽の下、額に汗を浮かべ働く人々も多いだろう。
それに今は丁度八月だ。夏休みに入った子どもたちが暑さに負けず、元気に公園で遊んでいることだろう。
そんな八月の頭。
アパートの二階、六畳二間の一室でパラ、パラ、と紙を捲る音が聞こえる。
ちりんと時々鳴る風鈴のような不規則なものとは違い、一定の間隔が妙に心地良い。
その音を奏でているのは、紫陽花のような色をした長髪を持った眼鏡の少女。
真っ白なノースリーブから伸びる肌は服に負けじと白く、見るからに文学少女だ。
だが彼女の横には文庫本からハードカバーまで様々な書籍が積まれており、本の虫という言葉が一番適しているかもしれない。
それを証明するかのように、積まれた布団にもたれ掛かりながら文庫本を読んでいる姿は実に絵になっている。
「ただいま」
玄関の扉が開き、一人の男が入ってくる。
ただいま、という言葉から男もこの部屋に住んでいるようだ。
男は勝手知ったる我が家へと上がって行き、小さな冷蔵庫からペットボトルを取り出す。蓋を外し、急ぐようにして中に入った水を飲む。
傾けたことで勢いよく喉へと流れ込んでいくそれは、火照った身体を冷やしてくれる。
部屋の中も少し暑く感じるが、外に比べると随分とマシだ。
蚊が入ってこないように網戸にしているが、窓はきちんと開けている為、風は入ってくる。その風も時々熱風となって吹いてくることがあるのだが。
ちなみにこの部屋にはエアコンが完備されている。
ただし金銭面的な問題もあり、滅多な事では付けないと決めている。
具体的に言うと熱風が吹いてくる時とか。
なので普段は窓から入ってくる風と、五百円ほどで購入した小型扇風機だけでこの異常気象を乗り越えなければならない。
その扇風機も今は目の前で読書に耽っている少女が独占しているが。
扇風機が生む人工的な風で髪を揺らす少女の横まで歩いていき、扇風機をひょいと奪い取りこちらへと向ける。
「私が使っているのだけど」
「知ってる」
「暑い」
「俺も暑い」
読んでいた本から目を離し、こちらを睨んでくる。
しかしそれに取り合わず、フィンを自身の方に向け続ける。
少女はそのまま顔に風が当たるように涼んでいる男に向けて手を伸ばそうとする。
だがもともと二人の身長差があることに加え、座っている少女と立っている男。
当然、手を伸ばしても届くわけがなくすぐさまその手を引っ込め、本へと視線を落とす。
「拗ねるなよ」
「拗ねてない」
少女は男の言葉にすぐさま異を唱えた。
これでもそれなりの付き合いだ。
彼女の性格はわかっているし、どれだけ顔を合わせてきたと思っているのだ。
彼女を知らない人はいつものように無表情に見えるかも知れないが、男には少しむすっとしているようにしか見えない。
そんな顔も可愛らしいが、放置しておくと一向に機嫌が直らないこともよく知っている。
「きゃ」
突如頬に感じた冷たさに可愛らしい声が上がり、驚いた表情で少女は頬に手を当てながら、男の方へと再度視線を向ける。頬に付いた水滴を触りながら、少女は何が頬に触れたのか理解した。
「可愛い声だな」
「……」
「これ買ってきたから許してよ、パチュリー」
アイスを持って笑みを浮かべる男の顔に、パチュリーは持ってた本を思い切りぶつけてやった。
◆
「まだ膨れてるのか?」
「……」
「膨れてるのね」
「……」
「それでもアイスはちゃっかり食べるんだな」
その言葉にアイスに突き刺すスプーンの手が一瞬止まる。その手は少し震えている。
パチュリーの頬が少し赤く染まってるのは暑いだけが理由ではないはずだ。
今の彼女は本を読んでいないからかメガネを外しているので、赤くなっている顔がよく見える。
程なくして観念したのか、はたまた気にしないことにしたのか、パチュリーはスプーンを再び動かしアイスを口へと運び始める。
彼女のアイスは高級な二百円を超えるストロベリー味。パチュリーのお気に入りだ。
暑さで少し溶けたそれを小さな口へと運んでいく。
その様子を眺めながら、男も手に持った溶け始めているアイスを食べ始める。
「ずっと本を読んでたのか?」
「えぇ、それが目的でもあるしね」
パチュリーは幻想郷という場所からこの街にやってきた。
結界により現代から隔離されたその場所は本来、その結界により外に出ることが出来ないのだが、何の因果か二人は幻想郷から出ることができてしまったのだ。
その気になればいつでも帰ることができるのだが、二人は未だ幻想郷に帰らず、近くの町でアパートを借りて住んでいる。
しかし二人は資金という資金を殆ど持ってなく、パチュリーの持っていた宝石を質に入れお金を手に入れ、パチュリーの魔法で不動産屋に戸籍を偽り、パチュリーのお金で部屋を借りた。
見事ここまで全てパチュリー頼り。
しかし宝石で出来たお金はせいぜいふた月ばかりの生活費分しかなく、決して無駄遣いできる額ではない。
それに加え、パチュリーは長い間幻想郷に住んでいた為に今の世がどういうものなのかわからない。
よってパチュリーだけでは何もできない事は明らかだ。
だがその不足部分を補うのが男の存在だ。
男は元々幻想郷の外にいた人間である。
今の世の中での生活の方法も心得ており、生活費を稼ぐくらいのバイトもすぐに見つけることが出来た。
なので男は週四くらいでバイトをしている。
だがそれはあくまで男の話だ。
今の世というものを知らないパチュリーを一人にするのはかなり不安だ。どれくらい不安かというと機嫌の悪い幽香の前に、何も知らない人間を放置するのと同じくらい不安だ。
なので男は極力パチュリーと共にいることを心掛けている。
バイトのない日にはパチュリーに今の世の事を教えたりなどもしている。
そして今日はその休日だ。
「それで今日の予定なんだけど」
「昨日言っていたあれね」
アイスを食べ終えた男は立ち上がりながらパチュリーに顔を向ける。
予定というものにパチュリーは思い当たるものがあった。
それは昨夜、バイトから帰ってきた男がパチュリーと共に夕食を食べている時に男が提案した内容だ。
そろそろこの生活にも慣れてきた頃なのでパチュリーも外出してみようと男が言ったのだ。
話した当初、パチュリーは露骨に嫌そうな顔をしていた。
彼女は元々外を出歩くような者ではなく、身体が弱く、毎日薄暗いジメジメした大きな図書館で過ごすような根っからのもやし少女だ。
なので外を歩く、それも炎天下の中での行動に彼女は気が進まなかった。
男の方も身体の弱いパチュリーをあまり連れまわしたくはないが、最低限知ってもらわないといけないことがあるのも確かだ。
なのでまずは近くから少しずつ距離を伸ばして行こうということにし、とある場所へと行かないかと提案したのだ。
その提案にパチュリーは有無も言わずに頷いていた。
二人はすぐに身支度を済ませ、部屋を出た。
部屋に鍵を閉め、階段を降りてアパートを後にする。
「日焼け止めは塗ったか?」
「塗ったわよ、貴方がしつこかったから」
辟易しながら男の隣を歩くパチュリー。
身体の弱い彼女には日焼け止めを塗らせてある。
強すぎる太陽の光からパチュリーの白い肌を守るためだ。
先程までの部屋着、白いノースリーブのワンピースに加え、今の彼女は鍔の大きな麦わら帽子を被っている。
「それで、まだ着かないのかしら」
「……もうすぐだよ、というかまだ外に出て間もないだろうに」
歩き始めて数分だと言うのに少し疲れ気味のパチュリー。
心なしか歩く速度も遅くなってる。
もやしここに極まり。
しかし目的地はすぐ近くなので今更戻ると言う選択肢を選ぶつもりはない。
これくらいの距離を移動できないというのは流石にやめてもらいたい。
なので苦言するパチュリーを宥めながら、二人は歩を進めていく。
「……なんでこんなにも暑いのよ」
「そりゃ、夏だからだろ」
「……幻想郷の夏はここまで暑くないわ」
「毎年徐々に気温が上がってきてるんだよ。地球温暖化、異常気象ってやつ」
さも知ったように言う男だが、当然ここ数年幻想郷にいた彼が知っているはずがない。
確かに彼が幻想郷に行く前から少しずつ暑くなってはいたが、まさかここまでのものとは思っていなかっただろう。
実際に戻ってきた感覚と、新聞やテレビのニュースで確認したのだ。
男自身、戻ってきて驚いたことは他にも沢山ある。
その最たる身近な物ものが携帯電話だ。
以前まで使っていた携帯電話(今はパカパカと呼ばれているらしい)はその殆どが使われなくなり、今では画面をタッチして動かすスマートフォンやらアイフォンなどという物が主流だという。
最近幻想郷にやってきた化け狸に少しくらいは話を聞いていたが、それでも実際に見た時は驚いた。
たった数年で世の中こうも変わるとは思ってもいなかった男は少し時代に取り残されたようにも感じた。
だが構うまい。
どうせこちらにいるのはそれほど長くない。
今も横で少し気怠そうにしている彼女の目的を果たしさえすればそれでおしまいだ。
それまでの間、少し特殊な小旅行とでも思っていればいい。
懐かしいという気分と共に知らない世界が広がっている感覚が同時にやってくる今の世に男は短絡的にそう考えることにした。
「着いたぞ」
「……ここ?」
足を止める男に習うようにしてパチュリーは目の前の建物を見る。
中々に大きな建物だ。
紅魔館よりも格段に小さいが人里の民家よりは格段に大きい。
建物の前には巨大な棒がそびえ立ち、てっぺんには大きな文字で「本」と書かれている。
そう、二人がやってきた場所は古本屋だ。
パチュリーが未だここに残っている理由、外の世界の知識を蓄えるという目的を果たすために二人は今日ここにやってきた。
「じゃあいくぞ」
「ま、待ちなさい」
パチュリーは建物に向かって歩き始める男の服の裾を掴む。
何だと男が彼女の顔を覗き込むと少しオロオロしているように感じた。
いつも毅然な態度の彼女もなんだかんだ初めての場所に不安を感じているのだ。
普段滅多に見せない縋るような上目使い。
それが可愛くてもう少し眺めていたいと強く思うが、可愛さと一緒に不機嫌さも鰻上りに上昇するのでその衝動を必死に抑える。
代わりに男が差し出すのは少し大きめの手。
その手をパチュリーは小さな手を伸ばし、無言で握る。
ギュッと握る。
暑くはない。彼女の手はこの炎天下に晒されていても少し冷たい。
そのまま二人は店の中に入って行った。
◆
自動ドアが開き、店員のいらっしゃいませと言う声と共に店内に掛かった軽めのBGMが二人の耳に入ってくる。
流石に店内は冷房が効いており、先ほどまでの暑さが嘘のように涼しい。
店内は広く、入口のすぐ横には二階へと上がる階段もある。
外の暑さもあるのだろうか、客もそこそこに来ており、皆本棚の前で本を広げて読書に耽っている。
手を繋いでいるままのパチュリーを見るときょろきょろと辺りを見渡している。
驚いているような表情はしていないが、観察していると言ったところか。
「思ってたよりも少ないわね」
「そりゃ紅魔館の図書館に比べたらそう思うわな。これでもこの辺りじゃそこそこ大きい場所なんだぞ」
「まぁそれは良いのだけど、ここは本を購入するところではないの? 昨日そう聞いた覚えがあるのだけど」
「あぁ、基本的にはもう読むことのなくなった本をこの店に売りに来て、その本をまた販売するっていうのが古本屋って場所だよ。けど立ち読みすることもできるんだよ。買ってまではいらないけど読みたい本とかあったりしたらここで読んでしまったり、こういった場所で人と待ち合わせがてら時間を潰したりとか、まぁそんな使い方をされるとこ」
「なるほどね」
そう言って再びパチュリーは辺りを見渡す。
興味は既に目の前の知識に移っているようだ。
「とりあえずこの階にあるのはマンガと雑誌……あとはCDやDVDみたいだな」
「マンガというのは貴方が買ってきた草双紙のようなものよね。しぃーでぃーやでぃーぶいでぃーというのもこの間教えてくれたものでしょう?」
「あぁ、まぁうちにはレコーダーもPCもないから買っても意味ないけど」
「別にいいわよ。少し興味あるけど、今日は本さえ読めれば」
「じゃあ自由に歩き回って読みたい本を探してみろよ。俺もぶらぶらしながらマンガでも読んでるし、いつも読んでるような活字の本は二階にあるみたいだから」
「えぇ、わかったわ」
そう言って繋いでいた手を離し、本に誘われるようにとことこ歩いて行くパチュリーを見送りながら、男も自分の読みたい本を探し始める。
男としても昔読んでいたマンガがどうなっているのか気になっていたのだ。
目的のものを見つけ、手に取る。
幻想郷にいた時期が長かったこともあり、完結しているもの、いまだ続いているもの、残念ながら打ち切りになったものと様々だ。
「これも完結してるのか……前にどこまで読んでたっけ」
自身の記憶を辿りながら、男もマンガへと耽っていく。
一時間程経った頃だろうか。
一つのシリーズを全て読み終え、最終巻を棚へと戻す。
幻想郷での生活も楽しいものではあるが、やはりこういうものは現代っ子であった男としては非常に心が躍る。
巻数の少ないものをカゴに入れ、購入を決める。
幻想郷に戻る時にも持っていけば向こうでも読むことができるだろう。
幻想郷の知り合いに本を持って帰ってあげてもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、男は辺りを見渡す。
どうやらパチュリーを捜しているようだ。
一階を一通り見渡すが、見当たらない。
「二階か?」
男は二階に上がり、再び周囲を見渡す。
歩きながら棚と棚の間を一つずつ見ていくと、奥の一角でパチュリーの姿を見つけた。
しかし様子がおかしい。
片腕をグッと上へと伸ばし、足も爪先立ちしている。
どうやら上の方に取りたい本があるらしく、背の小さいパチュリーでは届かないようだ。
ノースリーブで伸ばされた腕は妙に妖艶で白く美しい。
可愛らしく唸りながら、身体を伸ばしてぷるぷるさせるパチュリー。
時々その場で跳んだりしてるが全く届く様子はない。
非情に可愛い。
男は後ろからこっそりと近付いて驚かせてやろうかとも思ったが、流石に同じ日に何度も驚かすのもどうかと思い、素直に本を取ってやることにした。
「この本か?」
「え、えぇそうよ」
棚の上の方に突っ込まれている目的の本を取り出し、パチュリーへと渡す。
念願だった本を手に入れ、両手を使ってその本を抱きしめる。
まるで宝物を手にしたようなその様子に男の表情も緩む。
「その本は小説か?」
「魔法使いが主人公の話みたいだしね。外の世界での魔法使いの見られ方が少し気になって」
彼女が抱える本は有名な小説で、男も昔に何度か読んだことのあるファンタジーモノの小説だ。
魔法使いであるパチュリーは外の世界での魔法使いの在り方が気になっているようだ。
「じゃあそれ買って行くか」
「……お金は大丈夫なの?」
彼女も金欠という状況は理解している。
だからこそ今ここで読んでしまおうと思っていたようだが、そんな気遣いは無用だと言うように男は手に持ったカゴを彼女に見せる。
「俺も買いたい本あるし、元々買っても大丈夫なように古本屋に来たんだし。だから欲しい本があるのならもう少しくらい持ってきても良いぞ」
「いいの?」
「男に二言はない!」
どやぁと仁王立ちする男。
正直むかつく。
それはパチュリーも同様らしく、男をスルーしてパチュリーは幾つかの本を見繕い、無言で男のカゴにどさっと入れる。
カゴが一気に重くなった。
「流石にこの量は……」
「男に二言はないんでしょ? さぁ早く会計を済ませて帰りましょう。ずっと立ちっぱなしで疲れたわ」
スタスタと男を放って一階へと降りていくパチュリー。
店内の冷房が一層寒く感じた。
男は一階に降りて、始めに入れたはずのマンガを元あった場所に戻し、会計を通した。
重い荷物が増えた反面、軽くなった懐に一抹の悲しさを覚えながらも店を出る。
外はもう日が暮れて空は紅に染まっている。
そして男の前には彼を待っていた紅に染まった紫陽花の少女。
二人は並びながら岐路へと着く。
帰りながらも男は今日の夕飯の献立を考える。
冷蔵庫の中身に何があったかを思い出し、
「それ持つわ」
パチュリーはそう声を掛けてきた。
「いやいいよ、結構重いし」
「けど結局私のものしかその中に入ってないのでしょ?」
パチュリーは男が自分のマンガを戻しにいったところを見ていたようだ。
どうやら少し悪いと思っているらしい。
男としては特に気にしていないのだが、それではパチュリーは納得しないだろうと思い、一つ提案をする
「じゃあ半分持ってくれるか?」
「半分?」
「あぁ、半分」
本を詰め込まれたビニール袋についている取っ手の片方をパチュリーの方へと差し出す。
彼女はその取っ手を受け取り、二人で本の入った袋を持つ。
「あの、」
「ん、どした?」
パチュリーがもどかしそうに口をごもる。
何かを言おうとしている彼女のことを男は優しく問い掛け、彼女の言葉を待つ。
パチュリーは何度も口をパクパクとさせるが、暫くして口を一度閉じ、意を決したように言葉を口にした。
「今日は……ありがと」
最後はか細く、小さくなってしまったがそれは感謝の言葉。
なんだかんだでパチュリーは男に感謝しているのだ。
今まで一度も言ってこなかったが、だから今日こそはと。
勇気を出して言ったその言葉は、
「え、なんて? ごめん、ぼーっとしてた」
どうやら男には聞こえなかったらしい。
「……しらないわよ、ばか」
「え、なに、どうしたんだよ」
ぷいと顔を背けるパチュリーを男が慌ててフォローする。
茫然としていた男が先程見た光景。
パチュリーが頬を赤くしているのは夕焼けのせいなのだろうかと考えながら。
今月中に家政夫録が更新できそうになかったので代わりに少し書いてみたパチュリーのお話です。家政夫録はもうすぐで投稿できると思います。
こちらも感想や意見を頂ければ幸いです。
この短編は不定期になりますが、続きも更新すると思いますのでよろしくお願いします。
また初めて読んで下さる方はこちらで投稿している【東方家政夫録】もお願いします。
また別の原作の作品も投稿していますのでそちらの方も興味がありましたらお願いします。