月が地球に落とされる!
皆、理解が追いつかなかった。あるいは、理解はできても感情が追いつかなかった。
アンスバッハがユリアンに確認した。
「理屈はわかる。しかし、そんなことが現実に可能なのか?」
「可能です。現に月はわずかずつ地球に近づいています。このまま攻撃が続けば遠からず……」
ユリアンの言葉をシュムーデも追認した。
皆、現実のことだと認めざるを得なかった。
「なんと冒涜的な!」
デグスビイ主教が呻いた。ド・ヴィリエとユリアンを除き、地球教徒は皆同様の反応を示した。
「星落とし。そんなものが実際に戦術として使われるのを見る日が来ようとは」
居並ぶメンバーの中で最高齢の武人であるクラーマー憲兵総監が感慨深げに呟いた。
シュトライトはユリアンに確かめた。
「そんな事態になれば月はおろか、地球も壊滅して熔岩の塊と化すでしょう。ヤン・ウェンリーはそれを許容するような悪逆非道な人物だったのですか?」
「地球には偽帝国の侵攻のせいで今や殆ど民がおりませんし、月に民間人や捕虜がいることをヤン・ウェンリーは知りません。そもそもヤン・ウェンリーが人民への損害を気にしないことはフェザーンでの戦いで私がよく知っています」
ヤンが経済的な損失に無頓着なだけで民間人の生命の無事を非常に気にする人物であることをユリアンは知っていたが、あえてそう言った。
「ヤン・ウェンリー、もはや人間ではない」
「悪魔め……」
地球教の主教、司祭が口々に呟いた。
悪鬼ヤン(ヤン・デア・デーモン)、星落としのヤン(ヤン・デア・シュテルンファーレン)という新たな二つ名が生まれた瞬間であった。
グリルパルツァーが進言した。
「攻撃は木星方面からです。なんとか艦隊を出撃させてこれを止めればよいでしょう」
アンスバッハがこれに反対した。
「木星方面には相応の数の部隊がいるでしょう。別にヤン・ウェンリーの本隊もいることですし、二千隻程度の我らの艦隊では逆に壊滅させられるリスクが高いかと。そうなれば我らの選択肢はさらに狭まります」
結論が出つつある様子を見て、ユリアンはルドルフ2世を促した。
「我らの負けです。ヤン艦隊が退路を塞ぎに来る前になにとぞ脱出を」
ルドルフ2世は決断した。
「余がここを離れれば、奴らも氷塊攻撃をやめるだろう。脱出し、再興を図る。皆の者、定めてあった脱出計画の通り行動せよ」
彼らは月要塞の不落を信じてはいたが、万一のための脱出計画も怠りなく準備していた。計画を作成したのは地球教徒の地球脱出も主導したユリアンだった。
脱出準備は効率よく進められた。
脱出者は神聖銀河帝国の主要メンバーを中心としており、殆どの兵士、労働者、その家族は置き去りにされる計画だった。
脱出のため、百隻の高速戦艦の準備が完了した。
乗り込むだけとなったこの時、一つの騒動が起きた。
「何だと。ミンツ元帥、卿は行かぬと申すか?」
ユリアンの残留表明に、ルドルフ2世は戸惑いを隠せなかった。
「はい。残される者の面倒を見る者も必要と思います」
「それを、卿がやると申すか」
「はい。それに、私にはここでなすべきことがありますので」
ド・ヴィリエがユリアンに尋ねた。
「結局、そなたの目的とは何だったのだ?」
「前にもお話しした通り、地球を人類の故郷として誇れる、青く美しい星に戻すことです。それは本来、ある女性の望みでした。それを私は代わりに叶えたいのです。そして……私の言う地球には、地球教徒のことも含まれています」
ド・ヴィリエはユリアンの言わんとすることを理解した。
「なるほど、地球教徒の穏健化と、地球を青く美しい星に戻すことで人類の故郷としての尊敬を平和裡に取り戻すことを同時に行なうというわけか」
ルドルフ2世は暫くユリアンを見つめていた。ユリアンにはその目の中に縋るような色を僅かに見て取った。ユリアンは決心がぐらつくのを感じたが、それを行動なり言葉なりに移す前に、ルドルフ2世が口を開いた。
「わかった。後のことはミンツ元帥に任せる。余の元で卿の目的を達成させられなかったのは残念だ。余の不徳だ」
絶対君主からの思わぬ言葉に、ユリアンはすべてを投げ出してついて行きたい衝動に駆られた。だが、寸前で思い留まった。
「勿体無いお言葉。しかしすべて臣の力不足のせいにございます。これまでのご恩、返せぬままとなること、忸怩たる思いです」
「返せぬと思うのは間違いかもしれぬぞ」
ユリアンは目をしばたいた。
「どういうことでしょうか?」
「余はいつの日か帝国を再興するつもりだからな。再興の暁には余の右腕としてまた働いてもらうとしよう」
ユリアンは、この少年皇帝には敵わぬと思った。
「仰せの通りに!」
ド・ヴィリエはその様子を黙って見つめていた。そして少し考えた後にユリアンに告げた。
「臨時の大主教会議を今開く。といっても、もはや私しかおらぬがな。大主教会議の規程に基づき、賛成多数により、卿を大主教とし、総書記補佐から総書記代理に昇格させる」
ユリアンは驚いた。ド・ヴィリエは言い訳のように続けた。
「ここに残す信徒達に恨まれるのは私の本意ではない。私の代わりにまとめ役なり糾弾の矛先なりになってくれるなら、願ってもないことだ」
「ド・ヴィリエ大主教。今までご指導頂きありがとうございました」
それはユリアンの本心だった。実務において有能なこの男に学ぶことは非常に多かったのだ。
ド・ヴィリエは目を見開き、そっぽを向いた。
照れたのかもしれない。
「そなたの手に余りそうな狂信の者どもは私が連れていってやる。だから、ミンツ大主教。私も地球に思うところはある。地球を美しき星に戻せるというのならやってみせよ」
「総書記代理として、承知いたしました」
レムシャイド侯も逡巡の後、ユリアンに言葉をかけた。
「ミンツ元帥、叙爵の話が留め置かれていたが、卿の実績を鑑み伯爵に推薦してもよいと考える。そうだな、宮内尚書」
急に話をふられたカルナップ男爵は、肯定する他なかった。レムシャイド侯はルドルフ2世に確認した。
「陛下、ミンツ元帥を伯爵に叙した上で宰相代理としたいと思います。よろしいでしょうか?」
ルドルフ2世は悪戯を思いついた子供のように目を輝かせていた。
「勿論だ。ミンツ元帥、要らぬと言うかもしれんが、断ることは許さんぞ」
ユリアンとしてはこう答えるしかなかった。
「慎んでお受けいたします」
レムシャイド侯は言いにくそうにユリアンに告げた。
「では、ミンツ伯、早速の仕事となるのだが……サビーネ樣、エリザベート様達が、急に流浪の旅はもう嫌だと仰り出したのだ。ここに留まるつもりのようだ。……というよりも、ミンツ伯が行かないなら行かない、どうやらそういうことらしい。我々はルドルフ2世陛下について行かねばならぬし……」
ユリアンはレムシャイド侯の言いたいことが理解できた。
「レムシャイド侯、承知いたしました。このミンツ伯、宰相代理として、また、帝国の藩屏として、皇族の方々をお守り申し上げます」
レムシャイド侯は救われた顔になった。
「うむ、うむ。頼むぞ」
ランズベルク伯は無邪気にユリアンの叙爵を祝福した。
「武名名高いユリアン・ミンツ殿が帝国の貴族に加わること、このランズベルク伯アルフレット、大変嬉しく思いますぞ。ですな、フレーゲル男爵」
フレーゲル男爵はランズベルク伯ほど素直ではなかった。
「ふん、平民上がりの孺子め。せいぜい帝国貴族の名を汚さぬように……うっ」
フレーゲル男爵はルドルフ2世に睨まれ、最後まで喋ることはできなかった。ユリアンは、フレーゲルの言葉も激励と解釈した。
「帝国貴族の名誉を汚さぬように精進いたします」
「ふ、ふん、わかっているならばよい……よいです」
その話の間に、ルドルフ2世は書き付けをしていた。ルドルフ2世はそれをユリアンに手渡した。
「余の全権委任書だ。最高司令官に任ずるとともに余が置いて行かざるを得ない臣民達と領土、財産に関して、一切の権限を委任する。あとは頼むぞ」
ユリアンは言葉に詰まった。ユリアンは自らの目的のために動いていたはずだった。彼らには裏切り者と罵られてもよいはずだったのに、彼らはユリアンの欲していたものを次々に提供してくれたのだ。
たとえ彼らなりの目論見があってのことでも、ユリアンとしては感謝するしかなかった。
彼らは後世に大悪人として名を残すことになるかもしれない。そう呼ばれるに値することを彼らがやってきたことも事実だった。
だが、彼らが「ただのテロリスト集団」として歴史で扱われることには、ユリアンは耐えられなかった。
よい思い出ばかりでは決してなかったが、彼らと生きることになったこの数年を、ユリアンはそれだけ貴重なものと感じていたのだ。
彼らのためにもとユリアンは決意を新たにした。
「陛下、承知いたしました。陛下ならびに皆様。このユリアン・ミンツ、これまでのご厚情に感謝申し上げます。決して皆様に対して悪い結果はもたらさぬと約束いたしますので、後顧の憂いなく脱出くださいますよう、お願い申し上げます」
そして深々と頭を下げた。
彼らは次々に去っていった。
ある者は無言で。ある者は言葉を残して。
「皇族の方々のこと、お頼み申し上げます」
モルト大将だった。
「なかなか上手くやりおったな」
バーゼル中将だった。
次々に去っていく中で、ルドルフ2世が最後に残った。ランズベルク伯を供にして。
正確には一度立ち去ったにも関わらず、戻って来たのだった。
ユリアンは驚いた。
「陛下、早く船にお乗りください!」
ルドルフ2世はどこ吹く風だった。
「そう急かすな。やっぱり最後に一言、言ってやりたくてな」
そう言うとルドルフ2世はユリアンを睨んだ。
ユリアンは身構えた。主君を見捨てたようなものなのだから何を言われても仕方がないと思った。
ルドルフ2世は不意に少年らしい笑顔になって言った。
「またな!ユリアン!」
少年皇帝はそう言い残して走り去った。
ランズベルク伯も慌ててその後を追いかけた。
ユリアンはあっけに取られた。
ルドルフ2世はユリアンのことを、最後の最後に名前で呼んだのだった。
思えば今まで大人ばかりに囲まれて生きて来たユリアンにとって、ルドルフ2世は初めての友達だったのかもしれない。
それはルドルフ2世にとっても同じだったようだ。
ユリアンの胸に彼との思い出が去来した。
「またな!エルウィン!」
ユリアンはルドルフ2世のかつての名を叫んだ。
ルドルフ2世、エルウィン・ヨーゼフの姿は既に見えなかったが、ユリアンはその声が彼に届いたと信じた。
ヤン艦隊の旗艦に関して
ヤンはこの世界ではずっとパトロクロスを旗艦としています。ヤンは第十三艦隊の司令官とならずに、パエッタの代理で連合駐留艦隊の司令官を務めた後、そのまま同盟と戦争状態に陥ってしまいましたので、パエッタに返しそびれたままになりました……
このため、この世界にはヤンが一度も乗らずに老朽艦として廃棄されたヒューベリオンと、その名を受け継いで前話でヤンの新たな座乗艦となった新鋭艦のヒューベリオンの二艦が存在します。(つまりこの世界ではヒューベリオン老朽艦説と新鋭艦説が両立しています)
感想で質問を頂いたので念のため