時の女神が見た夢   作:染色体

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第三部 9話 運命の糸

ヤンは旗艦パトロクロスで事態の推移を見守っていた。

「いやあ怖い怖い。やっぱり氷塊攻撃の情報は漏れていたか。でも、奥の手の方には気づいていなかったみたいだな」

 

ヤンは二つの策を考えていた。そしてその一つ、機雷と氷塊攻撃のコンビネーションについては情報統制を甘くしていたのだ。

策を秘密にしていると、ヤン・ウェンリーには秘策があると同盟軍は考え、意地になってそれを暴きに来るだろう。

そうなれば情報漏洩の可能性は高まってしまう。ヤンは同盟軍を安心させ油断させるためにブラフの策を用意したのだ。

 

 

本命は、まともな艦隊司令官が思いつかないような手段だった。

 

 

 

リンクス技術大佐はその時、フェザーンの地表から約3万km上空にいた。

彼はフェザーンの静止軌道、そして軌道エレベータにいたのである。

 

今フェザーンの軌道エレベータはケッセルリンクの命令によって封鎖されていた。表向きの理由は同盟軍の侵攻に備えるためであり、ボルテックもそれを信じていた。その本当の理由はボリスを通じてケッセルリンクにしか知らされていなかった。

 

軌道エレベータ、それはハイネセンにもオーディンにも存在しない、フェザーン固有の宇宙到達手段であった。

 

フェザーンの軌道エレベータの本体は、格子欠陥のない先細り構造の炭素クリスタル繊維による長い綱である。太いところでも2m程度の単繊維の「糸」が、さらに千本集まって巨大な綱となっていた。

 

末端にカウンター質量の付いた長さ3万5000kmを越える果てし無く長い綱、それが軌道エレベータの正体であり、その周囲を覆う構造物はあくまで飾りであった。

 

軌道エレベータはフェザーンの静止衛星軌道を中心として、引力と遠心力によって常に地表側と宇宙側に引っ張られていた。

静止軌道にあたる3万kmの位置に重心があり、その5000km先にカウンター質量を兼ねた管制センターがあった。

仮に炭素クリスタル繊維の「糸」をその重心位置で上下に切断したとしよう。するとどうなるか。

下側は引力によって地表に向けて落下する一方、上側の「糸」は遠心力に従って宇宙に向かって放り出されることになるのだ。

 

リンクス技術大佐が行なっていたのはまさにその、「糸」を適切なタイミングで切断する作業であった。

 

フェザーンの軌道エレベータは安全を見込んで必要最低限の二倍の炭素クリスタル繊維の「糸」から構成されていた。リンクス技術大佐は「糸」のうち、軌道エレベータを壊さないで済むだけの量である約4割、400本を切断した。

切断された「糸」は今回の目的のために管制センターに開けられた穴から放出された。

 

地表に落下する側の「糸」を、地表に被害を及ぼさないよう、いかに迅速に燃え尽きさせるか。

「糸」切断後も軌道エレベータ自体を維持するためにカウンター質量をいかに調整するか。

技術課題は多数存在したが、リンクス技術大佐率いる技術チームは見事にやり遂げた。

 

結果、直径最大2m、長さ5000km以上の長大な「糸」が天翔けることになった。その数400本。向かう先はファルケンルスト要塞の予測位置であった。

 

 

 

ヤンはファルケンルスト要塞の通常航行エンジンを破壊しようと考えていた。それを実現するために重要なポイントは

・事前に同盟軍に意図を気づかせないこと

・その手段が十分な破壊力を持つこと

・破壊が実現するまでにその手段が感知されないこと、あるいは感知されても対処が難しいこと

の3点であった。

 

最初の二点はまだしも、最後の一点が問題であった。それが小惑星であれ氷塊であれ、艦隊であれ、同盟軍の総力を上げた護衛体制に気づかれないわけにはいかないだろう。

 

しかし、宇宙空間を高速で飛ぶ長さ5000kmの「糸」であれば?

 

それはレーダーにも検知困難な細さであり、仮に検知できたとしても、ノイズとして処理されてしまうだろう。

いや、仮に検知されたとして長さ5000kmもある「糸」をどうやって迎撃すると言うのか。

 

そして細いとはいえ、太いところで2m、長さは5000kmもある構造物が高速で飛来すれば銀河最大の要塞とはいえ損傷は免れないだろう。

 

かくして軌道エレベータそれ自体を兵器とする、史上初で、おそらく以後誰も実行しないだろうその作戦が実行された。

ヤン・ウェンリーはこの作戦を「茶柱作戦」と名付けたかったが、ローザ以外の賛同を得られず、無難に「アリアドネ作戦」と呼ばれることになった。

 

ちなみにヤン・ウェンリーもケッセルリンクも気づいていなかったが、今回の作戦で消費された「糸」の総製造コストはフェザーンの国家予算の半年分に相当した。

この作戦を後で知ったボルテックは卒倒したと伝えられている。

 

 

さて、軌道エレベータから解き放たれた400本の「糸」のうち、

約90%は同盟軍とは無関係な位置に飛び去った。位置予測を一箇所に絞り切れなかったためである。

6%はファルケンルスト要塞周囲の艦艇に衝突し、何らかの被害を与えて飛び去った。最大で10隻の艦艇に衝突し、撃破した「糸」も存在した。

 

そして残り4%がファルケンルスト要塞に接触したのだった。

ファルケンルスト要塞にとってそれは、打ち据える鞭であり、拘束する縄であった。

 

ある「糸」はその先端を要塞にぶつけて衝撃を与えた。

 

ある「糸」は塊として要塞にぶつかり、その装甲を破壊した。

 

またある「糸」は中央から要塞にぶつかり、そのまま巻き付いた。

 

そして何本かの「糸」はファルケンルスト要塞に設置された通常航行用エンジンのいくつかを歪め、破壊したのだった。

 

エンジンを破壊されたファルケンルスト要塞は、バランスを失い、制御不能の回転を始めた。

 

ここに至っても同盟軍はヤンの攻撃手段を特定できていなかった。

しかし、起きた出来事自体は明確だった。

 

ユリアンは指示を出した。

「ファルケンルスト要塞から距離を取ってください!このままでは巻き込まれます!」

 

各艦隊は急いでファルケンルスト要塞から距離を取った。しかし周囲には機雷が存在し、少なくない艦艇がその犠牲となった。また、間に合わず要塞に激突した艦艇も多数存在した。

 

「糸」に打ち据えられ、艦艇を巻き込みつつ激しく回転するファルケンルストは、装甲の各所に亀裂が入り、満身創痍だった。

そこに再度の氷塊攻撃が行われた。

致命傷であった。

ファルケンルストのエネルギー炉が暴走を始め、大爆発を起こした。

 

多数の艦艇が巻き込まれた。

 

残存の同盟軍艦隊に対し、今まで遠方に待機していたヤン、クロプシュトック、シュタインメッツ、フォイエルバッハの艦隊、四万隻が襲いかかった。

 

同盟軍の提督達は絶望的な状況下でも態勢を立て直し、勇戦したが、戦局は変えようもなかった。

共に行動していたフェザーン艦艇は既にいずこかへと逃げ去っていた。

もはや大勢は決したと誰もが考えていた。

 

しかしただ一人、ユリアン・ミンツだけは諦めていなかった。


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