水面から発生したのは水の槍。澪霞の手の動きと共に十数の槍襖が灰狼へと伸びた。それを驚愕と共に灰狼は大地を蹴りつけることで回避する。恐ろしく早い。常人ならば影さえも認識できないだろうし、実際流斗も速度故に牙を受けた。彼が目を逸らしたわけでも油断したわけでもなく、単純に認識外の高速移動だったのだ。
しかしそれでも水槍は逃がさない。
数本だけが掠って灰の体毛から血を流させ、飛び退いた狼をさらに追いかける。追尾はほぼ直角ないし鋭角的な軌道を描いていた。
「Ruu……!」
自らを追い、振り切ることができないと理解した灰狼が飛び上がったのは直上だ。真上に高く飛び上がり反転。顎を下に向けてそこから咆撃を発射し、追いかける槍を砕いて、
「――!」
全身を銃弾が襲った。
いつの間にか澪霞が両手に突撃銃をに握っている。白の弾丸は命中し、しかし体躯を撃ち抜くほどではない。全てが狼の体毛で阻まれて地に落ちる。弾丸では効果が薄い。全身を覆う毛がほとんどの衝撃を吸収し、電撃も散らされるようだ。
澪霞の判断は迅速だった。
両手の突撃銃を捨て去り、左手で腰の小太刀を抜刀。右手はウエストポーチから符を一枚抜き出し、
「解」
次の瞬間には一振りの日本刀が右の掌に握られていた。
日本刀と小太刀による二刀流。構えを取るわけでもなくだらりと下げ、
「雷華」
刀身が激しいスパークを纏い、電動鋸のように細かく振動させ――そのまま駆ける。体躯が三メートル以上もある灰狼に近接戦闘を挑むのは不利だとは思い至らない。本来ならば遠距離から弾幕を張り、消耗させていただろうにも気づかなかった。
地面を蹴り、水面を走り、着地した灰狼へと迫る。
「――」
表情に色はない。けれど叩き込まれた斬撃は苛烈の一言だった。不自然な風の流れに背を押されたままに日本刀で斬りつけ、。一息に斬閃が五つ、反撃の爪は一つ。全てが灰狼の身体を切り裂き、反撃は小太刀で受け流し護る
「……!」
唸りをあげた灰狼が爪や牙を使わずにそのまま突進した。体当たり。これだけの巨躯ならば、単純にぶつかって押し潰すだけでも十分に威力が高い。それを灰狼は理性ではなく本能で理解している。
「……っと」
一度大きく飛び退いて回避する。川の半ばで着地し、今の交叉でわずかに損なった雷装を再補充。
基本的にヒットアンドアウェイだ。
体格や馬力でいえば灰狼が圧倒的に上であり、素早さや手数では澪霞が上。少なくとも相手の攻撃は回避するのは難しくない。
問題なのは、
「Garuu!!」
ばら撒かれる咆撃だ。まともに当たれば澪霞の耐久力で深手を得る。回避するのならばともかく、断ち切るなり受け流すのは最初のように五個程度が限界であり、この先数が増えないとも限らない。水面を細かいステップで移動して回避しながら接近、駆け抜け様に二刀を振るう。だが、大きなダメージは期待できない。想像以上に体毛が厚く、その身に宿している瘴気が多い。
瘴気とはつまり妖魔の強さの源だ。
人間の負の感情や
日本、護国課や陰陽寮で共通使用されている強さの等級は『イロハニホヘト』の七段階。最上を『イ』、最下を『ロ』としている。澪霞は四番目の『二』級だが、戦闘力的には『ハ』のソレにも匹敵する。これは決して低くない。寧ろ、澪霞の年齢からすればかなりの高位だ。二十歳以下の日本の術氏――『神憑』ということを加味してだが――ならば十本の指には入る。
それに対して、目の前の狼型の妖魔の等級は、
「『ホ』の中間程度だと思ったけれど……『二』級か、それ以上」
交叉の数が十を超えたあたりでそう判断する。
傷は何度も与えた。だが、致命には程遠いし、さらに言えば傷口に瘴気が集まって修復が始まっている。電撃を纏い、超振動する刃も少しづつ刃の通りが悪くなっている。ついでに言えば澪霞が事前情報を聞いた時は確かに『ホ』級程度の妖魔だったのは間違いない。
つまり――こちらの攻撃を学習しているのだ。
「……」
ほんの僅かに眉をしかめる。よっぽど注視しても解らないくらいに。
「……フゥー」
息を長く吐き、身体の熱を実感する。息は上がっていなくても、普段よりも無駄な力が入っているのは解っている。その原因だって解り安すぎるほど。ただ、それを解っていて身体の制御ができないのは未熟に尽きる。
ただ、その為にもここでこの妖魔を斃し切らないと拙いと判断できる。
雷撃と超振動による刀身の斬撃補正は覚えられている。
ならば
日本刀の切先を水面に浸し、小太刀を手の中で一回転させる。
「澪標、風車――」
今度は二刀とも逆手で握り、疾走する。
●
「――」
それらの光景を流斗はずっと見続けていた。
先ほど一瞬意識を失ったが澪霞が張った結界の中ですぐに回復し、一連の戦闘を見ていた。痛覚はあるし、肩の負傷は軽くない。本来だったら失血死やショック死してもおかしくなかった。
それでも痛いとは感じなかった。
変な感覚だと思う。いや、或は日常的な感覚が一周回って狂っているのだ。少し体をぶつけても、他人に言うまでもないと思って放っておく――そんな感じだ。右肩が抉れているというにも関わらず、それが放っておいていいと感じているのだ。
寧ろ体が軽い。
川岸に横たわっている自分を大きく覆う白い膜のおかげか、それ以外の要員かはまだ解らないがそれでもコンディションそのものは悪くない。肩の傷も半分くらい治っている。
それなのに体は動いてくれない。
恐怖か緊張か、はたまた全く別の要因か。
十、二十、三十と数を超えていく交叉を全て
何もかもが色を失い、ゆっくりと見える。
まるで古く壊れた映画を見ているみたいに。
全てが対岸の火事だ。
あぁ――これが分岐点だ。
まだ自分はこっち側で、澪霞や化物は向こう側だ。自分は向こう側に片足突っ込みつつもこっち側にいることには変わりない。自分はこれまでずっとこっち側に生きてきて、ほとんどの知り合いや家族も皆こっち側。
そして向こう側に行けば、絶対に戻ってこれない。
一方通行であり、後戻りはできない。
そもそも本当だったら関わらなくたっていいのだ。それは彼女も保障してくれている。このまま寝転がって、時間が過ぎるのを待てば澪霞はあの化物を斃して、自分を助けて、そのまま彼女の言う通りにすればまたごく普通の日常に戻れるのだろう。普通に学校に行って、普通に卒業して、大学に進学するか、就職するかして、社会に出る。そういう当たり前を享受できることのありがたみはこの数日間ではそれなりに理解しているつもりだ。
今だって、本当なら死んでいた。
駆や沙姫だって、極論で言えば流斗なんて必要としていない。どうなろうと彼らはどうとでもする。
だからここで踏み出さなくてもいいのだ。
寧ろ踏み出さないのが正解で、他の誰も責めたり、咎めることはない。
だから問題は――荒谷流斗自身がそれを赦せるかどうか。
少なくとも、ここで何もかもなかったことにすれば、成りたい自分には絶対になれない。
選ばなければ進むこともできないのだ。
追い求めた願いは永遠に叶わない。
他人の意思なんて存在しない。
自分がそれでいいかというだけ。
選ぶのは自分だ。
「あぁ……そんなの、決まってる――」
そして化物と戦う白詠澪霞を前にしながら彼は選んだ。
運命はとっくの昔に始まっていただろう。
非日常はあの夜から始まっていたかもしれない。
けれど、これは間違いなく。一切の推測や余談もなく、
――荒谷流斗は己の意思のみで踏み出したのだ。
●
「――!?」
澪霞も灰狼もその変質には一瞬に気付いた。超高速の交叉も睨みあいも即座に止めた。
いつの間にか彼は立っていた。立てるはずもない、命に関わる傷だったにも関わらず当たり前のように。当然ながら尋常の状態ではない。
まるで空間に異物が生じているかのように感じた。人の形をした空間の空白。澪霞はまず自分が支配していた気体の類が操作を離れるのに驚愕する。彼を中心に、その存在が周囲を歪めていると言わんばかりだ。
恐らくそれは間違っていない。
それがどういうものか澪霞は、彼女が彼女だからこそ、誰よりも早く理解する。
「――そん、な」
それ故に完全に我を忘れ呆然とする。目を見開き、形のいい口は勝手に開き息が零れ、反応が遅れた。
同時、灰狼は即座に反応した。それは狼という獣の形を取っているからこその本能。危険は生じる前に可能ならば潰す、それが無理なら逃走する。そして灰狼からすれば流斗も澪霞も潰すのは可能だった。だからこうして戦闘が成り立っている。先ほどもそれに従って流斗に牙を突き立てた。
今度も同じだ。
生じた異物に獣は全霊を以て牙を剥き、塵殺せんが為に動いた。
先ほどと同じ動きだが、速度は格段に上がっていた。澪霞との戦闘で得た経験値は恐るべき速度にて獣の中で消化され、実を結んでいた。澪霞ですら一瞬動きを見失うほどの移動にて流斗の背後、咢を開き、今度こそ止めを指しに来た。
「Gaaa!!」
そして――真っ黒な瞳と目があう。
「――やかましい」
「!?」
肘打ちだった。開いた灰狼の顎にぶち込まれたのは流斗の右肘。少し前までピクリともしなかった腕は驚くべき反応速度で振るわれた。すっぽりと顎に収まった肘は灰狼の牙数本と激突。呆気なく砕きり、
「てめぇなんぞ知るかァ……!」
差し込んだ右手で上顎を、左手で下顎と掴んで力任せに引き裂いた。
「……!」
声にならない、どころか泣き声や咆哮ですらない単純な音の奔流が灰狼の壊れた口から迸った。それに構わず流斗は顎の上下を握りしめ、
「オォ……!」
気合いと共に投げ飛ばす。
三メートルを超える巨体を軽々と投げ飛ばし、灰狼が水面を跳ねるようにぶっ飛んで、
「先輩!」
「……ッ!」
その呼び声に澪霞が反応できたのは一重に訓練の賜物だ。幼いころから続けてた修練、妖魔という人に仇名す物の存在を許さないという矜持。
水面を跳ね、砕かれ開いたままの顎に日本刀を投擲。あまりも容易く一刀は喉へと突き刺さり、彼女は畳みかける。
小太刀を逆手で握ったままに、複雑怪奇に十指を動かし印を結ぶ。『神憑』と陰陽術の重ね合わせだ。
「嘶き砕け雷霆ッ、咲き裂け水仙――ッ」
言霊は引き金となって異能を引き起こす。灰狼に突き刺さった日本刀から莫大な熱量を持つ雷撃が内部から全身を焼き焦がし、その上で水面から鋭い水の槍衾が出現し外すことなく串刺しにする。
そして音もなく灰狼は消失した。
後にはなにも残らない。
●
「っ……はぁ……はぁ……ッ」
全身に疲労がのしかかり、膝から崩れ落ちる。痛みは相変わらず感じない。化物の牙を砕いた時もこれっぽちも痛くなかったし、薄い木の板を折ったような小気味よさすら感じていた。
「あぁ……くそったれ。死ぬかと思った……良く生きてるな俺」
尻餅をついてへたり込み、息を吐く。とりあえずしばらく動く気にはなれなかった。何度か手を握ったり、開いたりして体の調子を確かめるが、先ほどの力は今は発動していない。あの化物の消滅と共に収まったらしい。
だが、切っ掛けは確かに掴んだ。
これまで碌に発動しなかった理由も朧気ながら理解したし、次は任意で発動できるはずだ。腹の立つことに結局駆の言葉通りになってしまった。いや、今の話がただのちょっかいで収まるのかは微妙だが。
嘆息をして、
「……」
彼女と目を合わせる。
「……」
「……」
言いたいことは多分同じだった。抱いた感情も似たようなもので、それをお互いに理解していたかもしれない。
ただそれでも、
「お疲れっす、先輩」
「……君は、どうしてここに?」
二人は示し合わせたように触れることはなかった。
「いや、なんか散歩してたらこんなとこまで来て。そしたらアレに襲われまして。いやぁ、びっくりしました。先輩来てくれなかったらどうなってたか」
「……そう。身体は?」
「なんとか問題ないですね。先輩の不思議パワーでほとんど治ってますし、大丈夫です」
「……そう」
「……えっと、俺帰ります」
「……そう」
「それじゃ、また明日会いましょう……あと、お弁当美味しかったです」
「ん……ありがとう」
「はい」
そして気怠い体を起こして流斗は澪霞に背を向け、彼女はそれを引き留めようともしなかった。本来ならばそうするべきではないのに。『神憑』の力を完全ではないとはいえそれに近い形で発現した彼を、澪霞は今すぐにでも捕まえるべきだった。
流斗だってそうだ。
『神憑』の制御法をある程度覚えた今の流斗ならば律儀に駆や沙姫の身柄を隠しておかずに、この場でばらしてしまえばよかった。そうすればどう動くか解らない謎の人物に悩まされることはないし、白詠の家、少なくとも澪霞は身の安全を保障してくれるのだから。
そうするべきだと解っていた。
ただどうしてもしたくなかった。
間違ってると解っていても。
彼らはそういう風にできていたから――どうしようもなくどうしようもなくどうしようもない。
登場した技とか等級については一章分終わったら活動報告にまとめ乗せますし、質問もどうぞ。
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