とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

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episode05:窒素爆槍(ボンバーランス)

 

 

布束さんと別れた後、幻生先生としばらくぶりのコーヒーブレイクと洒落込んだ。対面に座る幻生先生は、組んだ腕の上に顔を乗せ、新味のないニヤつき顔を崩さない。

まずいな。長い間彼と接触していなかったからか、あの顔に対する抵抗力がすっかり抜け落ちてしまっている。

 

「さて、一息着いたところで、景朗クン。改めて、"学習装置"の開発協力、御苦労さまだったと言おうかな。」

 

「いえ、そんな。先生こそ、いつもうちの施設への"御協力"ありがとうございます。」

 

「はは。その話はよしたまえ。キミへの正当な対価を支払っているだけだよ。この話はもう何度目だか記憶していないがね、キミの能力そして素質はこの学園都市でも指折りに希少で利用価値の高いものだ。ゆめゆめ忘れないでいてくれたまえ。常時、進んでキミの協力が得られてこちらは大助かりだよ。」

 

本当に何度目だろう、この話。今では疑う余地もないが、どうやら幻生先生は掛け値無く、オレの能力を買ってくれているみたいなんだよな。…というか、"買ってくれている"というよりは、むしろ"執着している"と言ったほうが適切か。

どうしてそこまでオレに拘泥するのか理解できない。彼には申し訳ないが、時々うすら寒く感じている。

 

「ところで先生。先ほど、今後の予定について打ち合わせをすると仰ってましたけど、またなにか新しい計画のご予定がお有りで?」

 

オレはわずかな希望をこめて、彼に質問した。よくよく考えれば、年頃の女の子と一緒に共同研究なんて…なんてレアなイベントだったんだろう。

布束さんみたいなキュートな研究者、そうそう居ないっての。先生の顔つきが少し硬くなったように見えた。

 

「まったく、キミは勘がいいね。そうだとも。実はキミに着手して貰いたい、とある実験があってね。…だが、その実験は少々、被験者に危険な操作を強いるものなのだ。キミがこの手の研究を毛嫌いしているのは十重承知だ。だからこそ、今度は包み隠さず、キミに予め実験の危険性を告げようと思う。それが私なりのキミに対する誠実さだよ。…どうやら、その顔を見ると…やはり厳しいかね?」

 

幻生先生の、そのほんの少し強張った表情から推察できていた。あの"プロデュース"に参加した他の"置き去り"たちがどんな目にあっていたのか。結局、その末路は彼から聞き出せずにいた。

あの実験にはオレが必須だった。それだけは確実に分かっている。つまり、オレがあの実験に協力していなければ…。

うちの施設を潤おすためだけに、他の人間を危険にさらしていいわけがない。極力、幻生先生の機嫌を損ねたくないけれども。…一度決めたことだ、断ろう。

 

「申し訳ありません。"あの時"の、被験者たちの苦痛の声は今でもはっきりと耳に残っているんです。オレはもう、あのような事件に関わりたくないです。」

 

オレの拒絶の返答は、先生としても織り込み済みだったようで、特に落胆した様子はみられなかった。しかし、彼はまだオレの説得を諦めてはいなかった。

 

「景朗クン。科学の発展には、いつの時代もそれ相応の代償が要求されてきた。いかな人類最高峰の科学技術を持つ学園都市といえども、その理を超越することはできない。…理解してくれんかね?」

 

先生はオレの目をまっすぐ見つめていた。残念だが、彼の悪だくみに付き合うことはできない。自分の意思を確固として伝えなければ。視線を逸らしたいという欲求を必死に自制し、彼の眼をしっかりと見つめ返した。

 

「オレには無理です。お願いです。他の、もっと安全な研究にオレを使ってください。こんなことを言える立場ではありませんが、それでも…。オレの意思は変わりません。」

 

しばらく両者の視線が交差し合った。幻生先生は決して目線をオレの目から離さなかった。だが、やがて、幻生先生は根負けしたように苦笑すると、しぶしぶと言った表情でオレの意向を汲んでくれた。

 

「ふむ。仕方がない。我々もこれ以上キミの機嫌を損ねるわけにはいかないからね。先程の実験計画以外にも、幾つかキミにあつらえ向きのプランがある。今回はキミの意思を尊重しよう。ただ、私たちは諦めたわけではないからね。キミの気が変わったら直ぐに教えてくれたまえ。」

 

「ありがとうございます、幻生先生。本当に…」

 

どっと疲れた。先生とその後も、明日からのスケジュールの打ち合わせをした。結局、すべてが終わったのは日が落ちる直前、黄昏時になってからだった。

 

 

 

 

 

それから暫くは、学校の研究室で諸処のデータ収集に従事するだけでよくなった。そうして、中学二年生の春もいつの間にか過ぎて行った。そしてまた暑い季節がやってくる。

 

梅雨明けの時期。学園都市の完璧な天気予報のおかげで、ここのところも急な通り雨で体を冷やすこともなく、快適に生活できている。樹形図の設計者(ツリーダイアグラム)様様だな。

 

最近は、ようやく午後からも授業が受けられるようになった。この機会を逃してはならぬ、とオレは精力的に勉学に勤しんだ。またいつぞろ別の研究に取り掛からされるかわかったもんじゃないからな。今のうちにやれることはやっておかないと。

 

このふた月ほどで、授業の遅れはほぼ取り戻せてきたように思う。だいぶ頑張ったよ。能力をフルに使い、常にクリアな思考で、長時間集中する。そうやって勉強するのはズルをしているみたいで、少しだけ罪悪感が沸いたのだ。

しかし、この1年間はほとんどずっと、午後の授業をまるごと受講できていなかったのだ。背に腹は代えられない。勘弁して下さい。

 

 

 

その日も、みっちりと日が暮れるまで授業に参加した。能力を解除すると、心地よい倦怠感に包まれた。今ならきっと何を食べても美味しく感じられるだろうな。背中側で腕を組み、思いっきり伸ばして体をほぐした。周りを見渡せば、もはや教室には用は無いとばかりに皆こぞって退出していく。一人一人顔立ちは違うものの、他人に興味のなさそうなツラだけはお揃いだった。

 

ふと気付いた。オレはこの学校に入学してから常に、友達ができないと嘆いていた。であれば、同じように友人がいないことに難儀しているような奴を、オレ以外に目撃してもよさそうなものである。

 

しかし、これまでの学校生活中に、そんな同士がいるような気配はまるで感じなかった。思い返せば、この学校に入ってから、普通の中学校でお目にかかれそうな"部活動"に励む学生に遭遇したことすらない。

 

もちろん隣の高校のお姉様たちは例外だ。時たま、帰りがけに、体操服姿で楽しそうにスポーツに励む彼女たちを視察しているからな。

どうにかしてお近づきになりたいが、セキュリティが半端なく厳しく、彼女たちに接触することは容易ではなかった。

 

 

そろそろ帰宅しようかと思い立ち、席を離れようとしたその時。携帯が震えてメールが一件。火澄からだった。とりあえず椅子に座りなおし、メールを開いた。

…なるほど、何時ぞやの、水泳の上達ぶりを披露するという話についての内容だった。おお、手纏ちゃんも一緒に来てくれるらしい。件の話、すっかり忘れていた。

 

今のオレにとっては思わぬサプライズだな!そういえば、この約束をしたの、ちょうど一年前くらいだったか。

 

そうそう。手纏ちゃんのメールアドレスと番号をゲットできなくて悔しかった、あの後。激しかった火澄の警戒を掻い潜り、なんとか彼女を説得して、手纏ちゃんと連絡先の入手に成功していたのだ。まあ、正確には説得というより、友人の不在を嘆いての泣き落しからの、憐憫、同情に近いものだったが。

 

そうして、今では手纏ちゃんも立派なメル友もどき…かな?ほとんどは時間が取れるときに、勉強会と称して火澄と同じ席で昼食や夕食をご一緒していただけだからな。そこそこ仲良くなったとは思うけど。

 

しかしまあ、火澄のヤツ、まともに泳げるようになるのに丸一年かかったのか。よくそれで常盤台中学の水泳部に在籍していられたものだ…いや、ひょっとして。マネージャー業を務めていたのかもしれないな。詳しく話を聞いていないから断定はできないけど、その可能性も低くはなさそうだ。

 

よし。都合のいい日時は、今週末もしくは来週末か。ヤヴァいなあ!楽しみ過ぎる!

 

 

 

火澄の一件には、もちろん迅速に了承の返答をした。今週末、日曜日に第七学区の近場のプールセンターで彼女たちと落ち合う約束である。

居てもたっても居られなくなって、約束の日まで授業を受け続けるのが面倒くさくなってしまった。週末の予定が入る前には、あんなに勉強に対して気合十分、やる気に満ち溢れていたというのに。

 

 

あれから長かった。プールに遊びに行く当日。間の悪いことにオレはその日の夕飯の当番になっていた。真泥に必死に頼み込み、なんとか幸いにも順番を変わって貰えた。もはや何の憂いも無し。心おきなく楽しもう、と意気込んで聖マリア園を出発した。

 

七月半ば、夏休みも真近である。第七学区のプールなんてどこも中高生で埋め尽くされていそうなものだが…。これから向かうは、第七学区区立の第3総合水泳場という所である。

乗車中、ネットで調べてみたのだが、ここは学園都市内でも指折りに新しい、最近建設されたばかりの施設だった。普段は第七学区の大規模な水泳大会などに使用されており、各種飛び込み台などの機能も充実しているみたいである。

 

ここまでは他の学園内の総合プールと比べても遜色ないのだが。実は、この第七学区区立第3総合水泳場は、とある筋の人たちには特別な場所らしい。

 

その理由は施設内に設置された"The Underwater City"というプールにあるようだ。その"The Underwater City"は、なんと水深が36mもあるとのこと。今現在、世界で1番深いプールなのだそうだ。縦長の円柱形、側面には様々な形状の人工的な洞窟、他にも色んな構造物(ストラクチャー)が存在し、目にした人は「まるで"海底都市"のようだ」と感想を漏らす…とな。

なるほど、海底都市でそのまま"Underwater City"か。普段はダイバーの練習場や、研究機関の物理演習場としても使われているらしい。まったく、今日は色んな意味で、興味深い体験ができそうだな。

 

 

目的の第3総合水泳場は、第七学区所在といえども、その実、第二十二学区との境界線上に立地していた。なるほど。第二十二学区は地下深くまで開発が進んでいる。その"The Underwater City"とやらの建造にはさぞ利便性の高い土地だったろう。

 

しかしまずいな。時間の見積もりが甘かったかも知れない。目的地は、第七学区と二十二学区、さらに第十学区も合わせた境界上に立地していた。つまりは、第七学区の最南端ってことだ。想像していたよりもかなり遠い。マズイな…彼女たちを待たせる羽目になりそうだ。怒って帰ってしまったら…。くッ…。…畜生!彼女たちの水着姿を拝めずに、のこのこ帰れるか!

 

バスで向かう予定だったが、そんなもん悠長に待ってられないぜ。…よし、ならば、走ろう。能力を全開。全速力で走破する。っしゃあー!人間の限界を超えてやるぜ!

 

 

 

 

結局、待ち合わせ時刻には間に合わなかった。オレの足が遅かった訳ではない。走行速度自体はたぶん時速50km近くは出ていたと思う。今、軽く時速50kmとか言ったけど、自分でも驚くぐらい速かったよ。

もちろん、目的地に着く頃には死ぬほど疲れ果てたが。生身で時速50km、これでも"強能力(レベル3)"だってんだから、"大能力(レベル4)"ってのはやっぱりすごいな…。おっと、話が脇道にそれてしまった。

 

そう、速度は問題なかったんだ。自動車とほぼ同速度。そのため、道端をそんな速度で走る訳にもいかず、道路を暴走しなければならなかった。そして、道路と走っていたその時。運悪く警邏中の"警備員(アンチスキル)"に目をつけられてしまった。

 

連中、オレを見て死ぬほど驚いていたが、日々能力者相手にドンパチやっているせいか、直ぐに対応してきたよ。警邏車で追っかけてきやがった。慌てて顔を隠しつつ、「歩行者が道路を走るのに道交法もクソもないだろ!?」って反論したんだけど、「どこが歩行者だ?!走りたきゃ最低限サイドミラーとウィンカーを手に持ってからにしろって話じゃん!」とやらたじゃんじゃん五月蠅いお姉さんに説教された。

 

彼女を撒くのにすっかり時間がかかってしまって…。なんだよ、畜生。サイドミラーとウィンカー持ちながら走るって、ダサいってレベルじゃないじゃん。

 

 

 

 

さる事情により、遅刻の上、全身汗だくで登場したオレを目にして、火澄と手纏(たまき)ちゃんの2人は若干引いてしまっていた。オレの奇天烈な行動にはさすがの耐性を持つ火澄は、すぐに呆れ顔に表情をシフトさせた。

 

「どうしたのよ、その格好。汗かき過ぎよ。どんだけ走って来たのよ…。全くもぅ。連絡をくれれば、10分くらい待ってあげたわよ。」

 

なんと!…良かった。本当に良かった。機嫌を損ね、約束を放棄して帰られていたら立ち直れなかったぜ。遅れそうだと連絡することも考えが、策を打つ前にとにかく行動したかったのさ。遅刻の連絡で帰られたらたまらないからな。

 

「う、雨月さん…。これ、どうぞ…。あのぅー…今日は、これから大丈夫なんでしょうか……。そのご様子だと…そうとう、お疲れなのでは…」

 

やはり手纏ちゃんは優しいな。心配そうに、ハンカチを差し出してくれた。ふうっ。こんな所でヘバッっている場合じゃないぜ。さあ、能力をフル回転だ。深く、深く、深呼吸して…。

オレはハンカチを受け取ると、努めてなんでもない、大丈夫だ、と元気な態度を見せた

 

「大丈夫大丈夫。ちょっと走っただけだから。こんなんすぐ落ち着きますよ。待たせてすみません。お詫びにドリンクでも御馳走させて下さい。さあ、とにかく中に入りましょう。楽しみにしてたんですよー。」

 

オレの提案を「いえいえそんな、結構ですよ。…それでは、行きましょうか。」とやんわりと断りながら手纏さんはなんだか慣れた様子で施設へと入って行く。

 

火澄の顔は明らかに「言った通りに何か飲み物奢りなさいよ」と言っていたのだが、何も言わずに手纏さんの後について行った。オレも慌てて2人を追いかける。先程遠目に見ただけでも、ずいぶんと大きくて広い建物だったからな。はぐれたら面倒臭そうだ。

 

 

 

彼女たちの案内で、更衣室へと向かう。これからのことは、ともかく水着に着替えてから話し合うらしい。通路の壁面に、この施設の簡易見取り図が設置されていた。南端に"The Underwater City"の文字がある。そうだな、今日は是非ともコイツを見物してから帰りたいものだ。できれば体験してみたい。

 

「そういえば、ここには"The Underwater City"っていう、ものすごく深いプールがあるんだよな?世界一深いとか。できれば今日はそいつを見物していきたいな。ちょっと楽しみにしててさ。」

 

オレの質問に、前を歩いていた2人は顔を寄せ合い、小さく微笑んだ。間を開けずに、手纏ちゃんはこちらに振り向き、どこか愉快そうに話し掛けてくる。

 

「ふふ。ご心配なさらずとも大丈夫ですよ。今日は見学どころか、雨月さんが望むなら、実際に Underwater City に入ることもできますから。」

 

「ええっ?!それ、ホント?……確か、ここのHPには一般客の利用には許可が必要って書いてあったんだけど。おお、そうか。予め許可を取ってくれてたのか。」

 

オレの返事に、今度は火澄がこらえきれずに吹き出してしまった。なぜだろう。さっきから2人が異様に楽しそうなのは。

 

「景朗、まだピンと来ないの?あのね、深咲ちゃんの能力を考えたら、この施設との関わりもなんとなく予想がつかない?」

 

手纏ちゃんの能力との関連だと。酸素を操って、水の中でも息が―――ぬぐ。そうか。もしかして、いや、もしかせずに。

 

「うぐ。その通りだ。よくよく考える必要もないな。手纏さんの能力は、さぞ、"The Underwater City"とやらと相性が良いだろう。つうことは、手纏さんはこの施設の研究者さんたちとは…顔見知りなんだろ?そうだな。たとえば――ここで身体検査(システムスキャン)をしていたり?」

 

オレの答えに、火澄は及第点をくれたようだ。"まあいいでしょう"とでも言いたげな表情で、続きを述べた。

 

「当たらずとも遠からず、ね。確かに、深咲ちゃんはここで身体検査(システムスキャン)を受けたりもしてるみたいだけど、それだけじゃないの。この"The Underwater City"は、ダイバーの練習場以外にも、流体物理や医療の研究で使われていてね。深咲ちゃんはその研究のお手伝いをしてるのよ。」

 

どこかで聞いたような話だな。火澄は恥ずかしそうにしている手纏ちゃんと視線を交わすと、目を瞬かせた。また1つ何かを思い出した様子である。

 

「そうそう。それからね、景朗。"The Underwater City"は言うまでもなくそんじょそこらのプールと違って、独特な形状をしているのよ。だから管理がとても難しいらしいの。そこで深咲ちゃんは、能力を活かして、研究だけでなくプールの管理にも定期的に協力してるって話よ。

 

つまり、深咲ちゃんはここの研究所の人たちと、管理をしている人たち、全員と仲がいいの。だから、今日あんたがこの"The Underwater City"に入れるのは、深咲ちゃんのおかげなのよ。」

 

話を聞く限り、真実そのまま、そのプールに入れるのは彼女のおかげのようだな。さすがは常盤台と謂うべきか。いいカンジの研究に従事してるみたいだなぁ。

 

やっぱ霧ヶ丘はブラックだわ。なんだよ"学習装置"って。"学習"ってオブラートにつつんだ表現をしているけど、実際には"洗脳"って言ったほうが近いシロモノだったぞ、アレ。

 

「ありがとう。手纏さん。オレ、興味津々だったんだよ。是非、Underwater Cityとやらを体験させて下さいな。」

 

手纏ちゃんは顔をすっかり赤らめていた。両手を突き出し、いやいやと小刻みに振りながら、オレにそんなにかしこまらないでくださいと言ってくれた。

 

「へぇー。管理が難しいってえのはあれかな。潜水病ってやつ?てことはやっぱり手纏ちゃんの能力って潜水病とかにも対応できるのかな?」

 

手纏ちゃんはちょっと驚いた顔を見せた。

 

「ご、ご名答です。景朗さん。素晴らしいです。よくご存じなんですね。」

 

「いや、あてずっぽうに言っただけだから。オレも詳しいことはわからないんだよね。」

 

「そう…なんですか。…雨月さん、今日は Underwater City をご体験されたいのですよね。でしたら少し説明いたしましょうか…。」

 

そう言うと、少々まごつきながらも、彼女はオレの疑問に解答してくれた。

 

「潜水病、減圧症とも言いますが、簡単に言うと、…そのぅ、人体にかかる圧力の急な減少によって体に悪影響が起きてしまう現象があるんです。深い水深の下、高圧環境下で体内に溶け込んでしまった窒素は、浮上による急な圧力の低下によって、体のあちこちで気泡化してしまうんです。

軽い症状なら関節痛や窒素酔い程度で済むのですけど、…酷い場合になると死亡したり、後遺症が残ってしまう恐ろしい現象です。」

 

え?酷い時は死ぬの?考えが顔にでてしまっていたのか、オレを見つめていた手纏ちゃんは慌てて補足する。

 

「だ、大丈夫ですぅ。圧力の変化が適度に緩やかであれば、なんの心配もいらないんです。それこそ、100mや200m潜っても、そこに時間をたっぷりとかけていれば、体には何の異常もありません。…反対に、たった5mや10mの深さでも、急激な潜水と浮上を行えば、人によっては重度の障害が出たりします。

重要なのは潜るスピードなんですよ。あ…あの…安心してください。わ、私が、その時はちゃんとお教えします…から…。」

 

そんなうるうるとした瞳で見つめられてはタマラナイなあ。オレは彼女に向かってほほ笑んだ。

 

「わかりました。今日はご指導よろしくお願いします。オレ、手纏さんのこと信用してますから。」

 

「えへへ…よかったですぅ。」

 

手纏ちゃんはオレの言葉を聞いて嬉しそうにしてくれている。しかし、彼女にしては頑張って、長々と説明してくれたなあ。

 

「というか、驚いたなあ。手纏さん、そんなに長いセリフもちゃんと喋れたんだね。」

 

「そんなぁ。酷いです。雨月さん!」

 

おお、冗談を言い合える仲になってるようだな。これは幸先いいなあ。…さっきから、火澄を蚊帳の外にしてしまっているけど、大丈夫かな。そう思った矢先。ガスコンロが点火するような、鈍い音が響く。

ほぼ同時に、Tシャツの裾からむき出しの左腕に一瞬、高熱を感じた。

 

「あちィッ。ちょ、火澄!なにをっ。」

火澄に火の玉をけしかけられた。彼女の方をみやると、完全にむくれていた。なんだよ、コイツ。いきなり…。

 

「フン。深咲ちゃんには相変わらずデレデレのようですね。」

 

あ。そっか。今日はそもそもコイツの水泳の成果を確認しに来たんだった。それなのに、プールに着いても尚、その話題には一切触れずに、手纏ちゃんと話してばっかりだった。

 

「ちゃ、ちゃんと覚えてるよ!今日はオレに水泳の上達をとくと見せつけて、昔からかわれた雪辱をきっちり返すといいさ。そんなスネなくとも…地味に…痛…」

 

「言われなくてもそのつもりよ!さ、もう行くわよ!」

 

いきり立った彼女は、オレと手纏ちゃんを置いて足早に更衣室へと入って行った。慌てた手纏ちゃんは、オレに男性用の更衣室の場所を教えると、すぐに火澄の後を追って消えていった。

 

ようやくお待ちかねの、彼女たちの水着姿が拝めるってのに。次に会うときは、まず火澄のご機嫌直しから始めなきゃダメみたいだな。ま、そのくらい屁でもないさ。毎度のことだしな。

 

 

 

野郎の着替えが長引くはずもない。さっそうと水着に履き替えたオレは、更衣室を出て、いかにも学園都市風の、近未来的なデザインで統一された建物内を、通路に沿って歩いていた。

 

目的の場所である第1飛込プールへの道中、50mプールのそばを横切った。そこには、熱心に水練に励む多種多様な中学、高校の生徒の姿があった。やはり休日でも一生懸命練習するヤツは居るんだな。

 

もし、霧ヶ丘付属へ入ってなかったら、オレは今頃何をしていただろうか。いや、それ以前に、幻生と関わっていなければ、どうなっていたんだろう…。少しでも先を見据えれば、胸中に薄暗い畏れとともに、重たい痛みが生まれてくる。

 

一体いつまであの後ろめたい実験に協力しつづければいいだろう?…馬鹿な考えだ。もはや後には引けない。うちの施設にはあれから倍も、生活する人間が増えた。今、幻生先生の援助を失えば、大変なことになる。

 

それに…彼らの援助が無ければ、真泥たちとの出会いも無かったはずだ。…そのことに悔いはないな。そう考え始めると、胸の中の痛みが消えていった。本当のところはわからないけどね。今のオレなら能力を使えば、心の中の"痛み"すら消滅させられるんだから。

無意識に能力を使っているのかもしれない。降りかかる火の粉から、反射的に身を守るように。感情を支配する術を得た代償に、自らの本心を認識できなくなるとは。やっぱりクソな能力だな。

 

 

 

待ち合わせ場所の飛込プールに辿り着いた。途中で少々迷ってしまってな。考え事をしてたもんだから、道を間違えてしまった。プールサイドに設置されたベンチで火澄と手纏ちゃんが待っている。2人とも顔を寄せ合って話し込んでいるな。

 

折角なので、オレは忍び足で、彼女たちに後ろから近づく。二人とも同じ水着を着ていた。競泳水着…ではないな。だいぶ近いが。恐らく、常盤台中学指定のスクール水着なのだろう。しかしまあ、なんだ。オレにスク水属性は無かったはずなんだけど、これはこれで…。

 

さて。後ろ姿はもう十分堪能させてもらった。いい加減正面からご挨拶させてもらいたい。

 

「おーい。待たせてごめんよ。ちょっと道に迷ってさ。」

 

真後ろから急に発せられた呼び声に、2人とも驚いて飛び上がった。大げさな驚きようだな。会話は耳に入っていたんだけど、彼女たちのうなじに集中していて碌に聞いていなかったんだ。

 

「ちょ、ちょっと。いきなり後ろから脅かさないでよ!」

 

すぐに反応した火澄が威嚇してくる。ってぐはっぁぁ。振り向いた拍子に…豊かな丘陵が振動したぞ。うおおおおああ。思わず視線が吸い寄せられた。ヤバイ。火澄は目ざとくオレの行動に気づいた。

 

「こ、こら。どこ見てんのよッ!」

 

彼女が吠える。同時に蒼炎がオレの髪の毛に発現した。へへっ。ここはプールだぜ。素早く水中に飛び込んだ。だが。おかしい。異変が…花火が弾けるような音が未だに…。しまった。火澄の炎は水を浴びた程度じゃ消えないじゃないか。まままままずいぞ。このままだとまずい。早く彼女に許しを請うて、火を消してもらわなければ。冗談じゃなくハゲちまう!

 

慌ててプールから飛び出す。ふてぶてしい顔でこちらを睨みつける火澄。自信満々の表情がニクいぜ。最終的には、ドリンクを御馳走するだけの予定が昼食とデザートに化けた。

 

 

「ところで、どうしてわざわざ屋外の一番遠いプールを選んだんだ?入ってすぐ近くの室内プールもちらほら空いてたじゃないか。」

 

先程から頭にチラついていた疑問を2人にぶつけてみた。実は、なぜ入口からもっとも離れた屋外の飛込プールを待ち合わせに選んだのか不思議に思っていたのだ。エントランスから距離が離れているし、屋外だから人が少ないのかなと推測していたんだが、道中には人のあまりいない閑散としたプールがいくつか点在していたからな。

 

「どうしてって、そりゃ、飛込台が無ければ、飛び込み(ダイブ)が出来ないでしょう?」

 

火澄がため息を吐いた。ええっ、飛び込み(ダイブ)だあ?いくら熱心に教えても、結局小学校卒業までに平泳ぎも覚束なかった火澄が。…常盤台に入ってから猛練習したのかな。とかく、彼女、これから面白いものを見せてはくれそうだ。

 

「じゃあ…。もしかして、今からダイブやって見せてくれんの?」

 

「ええ。その通りよ。活目してご覧あれ!」

 

なにやら自信がある様子だ。意気込み、オレに人差し指を突き付ける。隣を見た。さっきから若干空気だった手纏ちゃんは、不安そうな表情を浮かべている。うーむ。これはふたを開けてみなきゃわからないな。

 

 

オレと手纏ちゃんは、飛び込み台へと向かっていった火澄を見送る。さあ、彼女は何を見せてくれるんだろうか。悔しいがわくわくするよ。隣の手纏ちゃんがオレの体をちらちらと見つめているが、ほうっといてあげとこう。

 

 

飛び込み台の頂上で、火澄が手を振った。手纏ちゃんも手を振って返した。いよいよか。ほどなくして、火澄は迷いなく、整然とした動きで飛び込み台から降下した。

足をすっと伸ばし、ひざの裏に手を回す。体ごとくるくると2回転させた。最後に姿勢を広げ、みごとに着水。静謐な無音の空間と水飛沫の残響とのコントラストが際立った。

 

 

……な、なかなかやるじゃないか。率直に言って…綺麗だった。素直に称賛すべきだろう。手纏ちゃんの反応も確認してみた。すると意外なことに、彼女の表情には陰りが。あれで何か不足があったのだろうか。素人目には美しいって感じたんだけどな。疑問符が浮かぶ。

 

そうしている間に、手纏ちゃんはだんだんとおろおろとした態度を隠さなくなってきた。あれ、そういえば―――火澄、全然浮かんでこないな。

そうだ。そもそも彼女の"泳ぎ"を拝見しに来たのであって…。

 

突然。着水地点からいくぶんか離れた水面から、人間の頭部が、まるで巨大魚が水面を跳ねるような猛々しい水音とともに付き出てきた。プールの渕までのこり数メートルといったところか。火澄は濁音をあげながら、不格好な泳ぎ方で近づいてくる。

ぶはッ。良く見たら腕は平泳ぎっぽい動きをしているが、足はところどころ犬かきのように不器用なものだった。く、くくく。あはは。肝心の"泳ぎ"は駄目駄目じゃないか。最高だよ、火澄!オチまで用意してくれてるなんて!100点万点だよ…ククク。

これじゃ台無しだ。コントじゃあるまいし。たっ耐えろ。ぅぅぅ……ダメだ、我慢できない。

 

爆笑。

 

声を上げて笑うと、火澄が覚えておきなさいよ!と水中で吠えた。あーあ。後が怖い。

 

 

陸に上がった火澄はすぐさまオレを火焙りにした。その後、手纏ちゃんが宥めてくれたおかげでようやく火澄は落ち着いた。

それから、ひとまず昼食を取ることにしたオレたちは、施設中央のフードコーナーに移動した。ごく普通のファミリーレストランからファーストフードまで一通りそろっており、水泳場とは思えない規模だった。この施設はそこそこ大きくて、いくつかの研究所の出先機関も組み込まれているから、そこまで不思議ではないか。

 

ともあれ、ランチを奢って埋め合わせを果たすと、火澄はようやくオレを睨むのをやめてくれた。

たっぷり休憩を挟んだあとは、午前中に話題になった"The Underwater City"へ行くとのこと。はやる心を抑えつつも、やはり皆、どこかテンションを昂らせており、ファミレスでの談笑では盛大に花が咲いた。

 

 

 

初めて見る"The Underwater City"は、真上からみると、その蒼さに感動が湧き上がった。約36メートル。これは、なんと10階建てのビルがすっぽり入る長さである。

その様は深い池や海特有の、深淵を覗きこむような原始的な畏れをも感じさせた。とはいえ、透き通った水質に加え、随所に光源が設置してあるようで、水底までくっきりと視界に入った。

 

手纏ちゃんの一声で、所員さんたちは簡単に許可を下した。彼女はここでは所員さんたちのアイドルらしい。通りすがる作業員どもの向けてくる目が痛い。

 

 

オレは専用のウエットスーツを借用したが、手纏ちゃんは着のみ着のまま常盤台のスクール水着のままで着水した。火澄は頬を膨らませていたが、おとなしくお留守番している。Underwater City の入り組んだ洞窟の様な、その壁面には随所に窓が設置してあり、建物内から中の様子は問題なく伺えるようである。

 

手纏ちゃんは通信用のヘッドセット以外は何も付けていなかった。そのまま潜水するようである。送気用のヘルメットを被ったオレは、手纏ちゃんからの通信を頼りに、彼女の言うとおりに潜水を行った。ホースから常に新鮮な空気が送られてくるので、時間を気にせずに潜っていられる。

 

上下左右、重力のくびきからほぼ解放されたと言っても良い。奇妙な感覚だった。

 

水中での手纏ちゃんの姿は地上のそれとは全く異なっていた。ひと繋ぎの特大に大きな泡で体をまるごと覆っていた。幻想的な光景だった。水中できらめく泡は、溜息がでるほど美しかった。

 

空気の鎖で繋がれ、動きを拘束されたオレとは違い、彼女は、何物にも束縛されていない。優しく微笑む手纏ちゃんは、まるで童話に聞く人魚のようだった。

 

彼女のしぐさに、美しい泡の塊が滑らかに追従する。水の中で優々と挙動する、泡と少女。気がつけば、オレはこの人工の縦穴になど目もくれず、彼女のことばかり眺めていた。

 

「手纏さんの能力、初めて見たけど…素晴らしいよ。綺麗な泡を纏って…まるで人魚みたいだね。」

 

「へうっ…!…そ、そんな…。て、照れちゃいます……。」

 

最も近い窓から、物体が打ちつけられる音が響いてきた。目を向けると逆さに映る火澄が、オレに絶対零度の視線を浴びせていた。あ。やべえ。今の通信、火澄にも聞こえてんじゃん。

 

 

 

努力もむなしく。水泳場を出て、帰りのバスに乗る際まで、火澄の機嫌は直らなかった。物理的にも、精神的にも1人除け者に去れた彼女は、相当にへそを曲げていた。

 

Underwater City 探索中も、気づけばケツの周りの水が熱湯に変わっていて、大変な思いをした。その時には必ず、近くの窓から悪魔の笑顔が。

 

バスから顔を出した火澄に、今度こそ上達した泳ぎっぷりをみせておくれよ、とお願いしてみたが、べーっと、舌を突き出され拒絶されてしまった。はは。今日はホントに楽しかった。

 

 

 

 

夏休み。機嫌を損ねた火澄にはあまり相手をしてもらえなかった。必然、友達がゼロのオレはやることが無い。偶に幻生先生の呼び出しを受けてこまごまとした実験に手を貸したりもした。

だが、ほとんどの時間は、まるまる一年午後の授業を受けずにいた負債の返済のため、おとなしく自主的に補習を受講することに当てていた。

ふふふ。この夏、オレは"偏差値"を以前の水準に戻せたんだぜ…。物哀しい中学二年生の夏は、灰色のまま幕を閉じた。という訳で、当然、夏の間は、うちの園の中にたむろしていた時間は比較的長かった。

 

 

たしか夏の終わり頃からだったろうか。真泥の様子が少しおかしくなった。以前から他の子とは若干違う挙動をする子だったため、この時はそこまで気にかけなかったんだ。今にして思えば、直ぐに気づくべきだった。彼が抱えていた苦悩に。今でも後悔が募る。

 

 

 

 

ねっとりした温風、不快指数をかち上げる湿気も、秋の長雨が洗い流してくれた。秋分がつい最近通り過ぎたばかりであり、まだそこまで差はないはずなのだが、夏を挟むと不思議と、日が落ちる時間が早くなった気がするものだ。

 

今年の大覇星祭では、折角の数少ない霧ヶ丘付属の参加枠を、惜しくも逃してしまった。大多数の霧ヶ丘付属中学生徒と同じく、傍観者となったものの、そのおかげで火澄や花華たちなどの競技は余さず観戦できたのではなかろうか。

 

大覇星祭中は、色々と上手くことが運んだように思えた。が、やはり、ひとつ問題が有った。夏の終わりから真泥の様子がおかしい、その事に確信を持ちつつあった。大覇星祭の時に、競技に姿の無い日が幾つもあった。態度も変わった。一人で行動することを好むようになり、休日はもっぱら一人で街へ出かけるようになった。誰にも行き先を告げずに。最近は頓に暗い顔をしている。

 

ある時、そんな真泥の様子をみて花華が、昔のかげにいに似てきたね、とからかった。その発言でオレはとある可能性に行きついた。もしや、いつぞやの"ボク"のように。

 

真泥と腹を割って話そう。そうふん切りがついたのは、彼の口から、5日間の検査入院のため、園の仕事の当番を代わってくれ、と頼まれた時だった。

 

「真泥。最近元気無かったのは、やっぱりなにか病気してたからなの?5日間も検査入院って。クレア先生も酷い顔してたよ。」

 

「だ、大丈夫です。違います。最近風邪気味だったので、お医者さんに診てもらいに行ったんですけど、その時に一応念のために検査入院してくれ、って言われただけです。そんな大げさな様子ではなかったです。心配しないでください。景朗兄さん。」

 

真泥はそう言って安心してくれという表情を送った。彼の顔ではなく、オレから逸らされたその眼を凝視した。なつかしい。見覚えがあった。それは、何かに脅える目、必死に耐えようとしている目、自分を偽ろうとしている目だ。そう思えて仕方が無かった。昔、鏡で何度も見た気がする…。

オレの第六感は恐ろしいほどに警報を鳴らしていた。いつでも気づけたはずだった。なぜもっと早く…湧き上がる焦燥を能力で押さえつけた。自分を強制的に冷静にした。

 

仮に。仮にだ。仮に彼がオレと同じ立場になりつつあるとして。今までみんなに黙って、"それ"を何食わぬ顔で行ってきた、そのオレに何か言う資格があるか?彼に「やめろ」と言う資格が、ほかならぬオレにあるだろうか。全くもって微塵も存在しないはずだ。何も気づかなかった、という表情を造り、真泥と別れた。

 

携帯を握りしめる。確認しなくては。杞憂であってほしい。きっと幻生先生は「キミは突然何を言い出すんだね?」と呆れた表情を返してくれるはずさ。いくらなんでも邪推し過ぎかな。

 

 

 

 

さっそく幻生先生と都合をつけた。ちょとしたデータ収集を見返りに、彼と一対一で話せる時間を捻出して貰った。この人は老獪だ。オレの手には余りに余る人である。最初から、単刀直入に真泥の件について確認した。

 

オレの祈りは叶わなかった。オレの糾問に、幻生先生は弱り果てた表情を作った。だがその眼は、眼だけは、どこか愉快そうな色を含んでいる気がしてならなかった。

 

「そうか。気づいてしまったか。その顔を見れば確認するまでも無いようだね。景朗クン、キミとの付き合いも長い。事ここに及んだならば、正直にキミに教えよう。…これでも、キミに伝えるべきかずいぶん悩んだんだがね。」

 

事実だった。真泥はやはり幻生先生と関わりを持っていた。オレに伝えるのを悩んだ?素直にそれを信じる訳無いだろ。真泥に何をさせようとしているのかはわからないが、なんとしてもやめさせなければ。

 

「そう、悩んだのだが。最終的に、調川(つきのかわ)クン本人の意思を尊重したのだよ。彼も在りし日のキミと同じ想いだったのだよ。…キミが我々の行動に怒りを覚えるのはよく分かる。キミが施設の輩を大切に思っていることは重々承知の上だった。故に、打ち明けなかったことは謝罪しよう。だが、どうか最後まで私の話を聞いてほしい。私なりに、キミを慮ってのことだったのだよ。」

 

「…どういうことですか?」

 

「調川クンは今、以前のキミと同じ状況下に居る。即ち、我々の実験に協力する代わりに、施設に経済的援助が行われるのだ。この事は、キミに内密にすべきではないと思った…が。調川クンの意思は、思いのほか固くてね。施設の皆には黙っておいてくれと、断固として私に口止めを要求したきたよ。それで結局、敬意を持って彼の要望に答えたのだ。」

 

「幻生先生。あなたは相変わらずまだるっこしいですね。教えてください。そもそも真泥を巻き込んだ理由を。」

 

「最初に言っただろう。まずは最後まで話を聞いてくれと。怒りを収めてくれないかね。キミなら雑作も無いだろう?」

 

幻生先生はため息をついた。

 

「それでは、理由から先に述べよう。私は以前からこう考えていたのだ。…キミは少々、あの施設に思い入れが強すぎる。出会ったころに教えてくれたね。キミは、中学卒業後には、あの施設を出ていくつもりなのだろう?私は今後も、キミに能力を提供して貰い、様々な研究を行う腹積もりだ。だが、キミの様子を見れば、中学校を卒業した後も、かかわりのなくなったあの孤児院にそのまま寄付を続けていく腹積もりではないか。確かに、キミがあの施設に"滞在"している間は、その要求は筋の通るものだと思うが。それ以降は、果たして、道理にかなった行いと言えるだろうか?」

 

オレは何も言い返せない。自分だってずっと悩んでいたことだったから。

 

「今年の春に、私が打診し、キミが断った実験。その実験の被験者を選別している時に、ふと閃いたのだよ。キミの施設に次々と入ってくる子供たちにも、我々の研究を手伝ってもらえば良いとな。キミが居なくなった後も、調川クンが我々に協力してくれれば、継続してキミたちの施設に我々も援助できよう。孤児院には莫大な金額を寄付している。何の理由も無しに、そのような振る舞いはできかねるからね。」

 

「なんだって!真泥を、あの時あなたが危険だと言った実験に参加させているんですか!?」

 

声を荒げたオレに、幻生先生は初めて、厳しい視線を送りつけた。

 

「彼は自ら選んだのだ。自らの意思で。以前のキミのようにな。前にも言ったが、キミに、他人の意志、その選択に、どうこう口を出す資格があるのかね?ましてや、調川クンの覚悟を、他ならぬキミがどういった道理で妨げようというのかな?」

 

窮したオレに、彼はさらに畳みかけた。

 

「無論、私が道理を説くのも許されぬことだが。…景朗クン、調川クンの参加している実験は、危険だとは言ったが、それは、想定の範囲を超えた、不運がいくつも重なった最悪の事態に陥らなければ、命の危険は無いといってよいものだと言っておこう。

 

…さあ、どうするかね?調川クンを計画から外そうと思えば、できなくもない。ただ、その場合は、キミは何時までとも知れず、とうに関わりを無くした孤児院の救済を望み続けることになるだろう。また、既に調川クンとは契約をきっちり結んでいてね。それを反故にしようというのなら、それ相応のベネフィットを我々に提供してくれなければ。」

 

濁って。暗くて。狂気に包まれた瞳がオレを射抜く。理解した。この人は…。この人は、最初からオレに…。

 

「調川クンの代わりに、今我々が取り組んでいる実験にキミが協力してくれるのならば。非常に喜ばしいのだがね。」

 

喉に出かかった、ありとあらゆる文句、罵倒を必死に飲み込んだ。なにがオレのためを思ってだ。まるでマフィアのやり口だ。何も知らないガキを騙して…。

 

だが、オレがここでこの人に思いのたけをぶちまけたとして。それでどうなる?きっと何も変えられない。状況が好転するわけない。中学二年生の立場では、何もできない…。

 

「…わかりました。その実験に協力しますよ。だから、真泥のことは…真泥だけじゃない、うちの施設に居る全員に対して、今後これ以上、あなたたちの実験には係わらせないと約束して下さい。」

 

「…それで本当に良いのかね?」

 

「はい。最初に、オレが貴方の口車に乗ってしまったのがすべての元凶でした。…だから、責任は最後までオレが取らなければいけません。」

 

「耳が痛くなるような言い方をするね。だが、こちらも慈善事業をやっているわけではない。言い訳はするまい。…今日は何にせよ、キミの実験への協力を漕ぎ付けられた。それで良しとしよう。」

 

全く、コイツは…。オレが了承の返事をしたとたん、すぐに何時もの作り笑いが貼り付いた。

 

「さっそくだが、明日からにでもすぐに我々の研究に参加してもらいたい。自発的なキミの協力を得られて本当に良かった。昨今の研究で、キミの能力は最上級にレアな研究対象となっているからな。なかなか上から使用許可が下りなくてね。困っていたんだよ。キミ自身の意思で研究に加わるならまだしも、私の個人的な研究用途として、キミを強引に実験に使うことは禁止されていたのだよ。ただし、キミの同意が得られるなら、その問題も無くなるわけだ。」

 

そういうことか。オレをその実験にどうしても使いたくて、わざわざ真泥をダシにしたのか。…畜生。

 

「統括理事会肝入りの実験。ただ手足としてこき使われているだけならば、私は現在の地位に伸上がれておらんよ。…景朗クン。これを言うのは何度目だろうか。キミの素質を非常に買っているのだよ、私はね。今、我々が取り組んでいる実験は、さっきも言ったが統括理事会、上層部肝入りの大変重要なものだ。この際、キミにもその目的を理解してもらうとしよう。」

 

あんたがやってるクソみたいな研究のいくつかは、この学園都市のお偉いさんが望んだものだったと。徹底的に腐ってやがる。この街が急に…地獄に思えてきた。

 

「現在、学園都市で第一位の超能力者(レベル5)、"一方通行(アクセラレータ)"。彼の脳が織りなす、演算特性(アルゴリズム)精神性(マインド)、"自分だけの現実(パーソナルリアリティ)"を切り取り、個々人の能力者に、能力の向上に適切な処理を施して貼り付ける。

 

そのような試みに挑戦中でね。現段階では、被験者個々人の脳波、パーソナルリアリティの解析を行い、彼らの能力の向上に最適な"一方通行"の特性の算出過程にある。」

 

一方通行(アクセラレータ)。耳にしたことがある。霧ヶ丘付属には今、学園都市の超能力者の中でも最強、第一位の能力者が在学しているらしいと。

…どうやら、その話は信憑性が高いみたいだな。やれやれ、噂も馬鹿にならないね。しかし、その第一位の超能力者さんが、まさかこんなところで関わってくるとは。

 

 

「その後の、彼の特性の被験者へのインストール方法についてだが。知ればきっとキミも驚くだろうな。"学習装置(テスタメント)"。キミが開発にかかわったあの装置(デバイス)だよ。アレを使う。

 

もっとも、布束クンが調整したような生易しい設定ではなく、我々が独自にチューンした特別製を使うがね。」

 

「へ?……えっ…?」

 

そ…んな…。どうして…どうして、コイツらは、オレを尽くそちら側に引っ張り込もうとするんだ。…クソッ!止めたくても止められない。オレにはコイツらの悪事をどうすることもできない。

 

もしこれから"学習装置"で被験者が傷ついたら…その責任は少なからずオレにもあるんじゃないか!?。"プロデュース"の時だって、オレがコイツらに協力していなければ、恐らく被験者は…!

 

幻生は話を区切ると、小さく息を吐いた。オレを見つめる、そのにやけ面は最高潮に達しただろうか。あんたは、オレがあんたの話を聞いて、一体何を想うのか、微塵も興味がないんだろうな。いつの間にか彼は愉快そうな口調になり、長々と、オレに目をつけた理由を語りだした。

 

「そこでだ。私はこの計画を上層部の連中に押し付けられた時に、ひとつ素晴らしいアイデアを閃いてね。その試みの実行のために、私自ら計画の指揮を執ることにしたのだ。

 

その肝心の"試み"とは、キミのことだよ、景朗クン。"学習装置"が擬似的に人間の五感に干渉するための、基本的なアルゴリズムは、すべてキミの脳と能力から蒐集したデータが基盤となっている。であれば、まず間違いなくキミと"学習装置"との親和性は最高のものとなる。

 

また、開発の過程で、我々が掴んだキミの能力のポテンシャル、例を挙げれば、能力によって賦活されるキミの脳細胞の耐久性の向上などがあるがね。そういったキミ自信が元来有する、今回の実験への適正も考慮すれば…。」

 

ごくり、と幻生はつばを飲み込んだ。興奮した表情には嫌悪感しか抱かない。期待に満ちた表情ではあるが、その目だけは、実験素材を見る目つきであった。

 

「必ず成功する。キミの"自分だけの現実(パーソナルリアリティ)"に直接、"一方通行"の演算特性(アルゴリズム)を組み込むのだ。

キミの脳はその負荷に必ずや打ち勝ち、超能力(レベル5)級の演算能力を獲得するだろう。かつて無い成果となる。

私は有史以来初めて、強制的に"自分だけの現実"を拡張させ、"超能力者"を産み出す!その第一歩を踏み出すことになるだろう!」

 

 

興奮と欲望で濁りきった彼の瞳は、オレを捕らえて離さない。ダメだ…。オレはもうきっと戻れない。とっくの昔に学園都市の暗部に飲み込まれてしまっている。せめて、真泥だけでも救わなければ。これ以上他の誰かを巻き込みたくないよ。

 

最後まで、幻生に言いたい放題言われたな。丸め込まれたように思えるが…。違う。そもそも始まりから、彼の手のひらの上で踊らされていただけに過ぎなかったんだ。

 

オレが何もかもをかなぐり捨て、すべての責任を投げうって、逃げだせば…?いや、学園都市のお偉いさん方がグルなんだ。上手くいくはずはない。オレの打てる手は限られている。ここで、この学園都市の暗部の淵で、踏み留まるしかない。

 

 

 

 

幻生の、この"実験"に対する意気込みは相当なものだった。あの日の翌日から早速、オレは彼の命令で、演算データの処理や収集に付き合わされた。

そして、布束さんと一緒に一年近く滞在した先進教育局、木原研究所の一室で、今日も頭痛に耐えている。

 

"本番"前の最終調整――要するに、"一方通行"とやらの、演算パターンの処理が彼らの理論値通りに加工されているか――、その為の、リハーサル、確認作業に付き合わされているのさ。

 

そもそも、本来の"学習装置(テスタメント)"は未だに布束さんが監修しており、現時点では未完成である。今回の実験で使われる"洗脳装置(テスタメント)"は、その完成前のプロトタイプであり、必要最低限のプログラムしか組み込まれていない。そのために、基盤になったオレから直接、必要とされるデータを集めているのだ。

 

この確認作業中に、オレの脳に叩きこまれるのは、オレ専用に加工されたデータではない。オレ以外の、哀れな犠牲者たち。つまり、この実験の、他の被験者に合わせて加工されているものだ。それ故、能力を全開にして、送られてくる演算パターンに抵抗しなくてはならない。

 

脳を無理やり歪められるような、激しい頭痛が常に付きまとう。痛覚を操作すれば、痛みを感じることもないのだが、それだと研究者たちは"正しい解答"が得られないらしいのでね。痛覚の操作のみ、許可されていなかった。

 

 

幻生は真泥をこちら側から解放した、と宣言した。オレは彼をそう易易とは信用できないので、注意深く確認していくつもりだ。

 

 

 

依然として、名称の決まっていないこの"実験"。参加してから随分と経ち、外を見れば、すっかり冬景色へと移り変わっていた。

へとへとに疲れたオレの耳に、幻生からねぎらいの言葉が入ってくる。気づけば、今日のノルマも終わっていた。

 

「辛そうだね、景朗クン。いつもいつもすまないね。そんなキミに朗報だ。そろそろこの作業も終わりに近づいてきた。もう少しで、次のステップへと進めるだろう。今日までのような苦痛ともお別れだよ。」

 

「それは素晴らしい。間違いなくそれは朗報ですね、幻生先生。」

 

辺りを見渡せば、皆実験の後片付けを始めていた。体に取り付けられた拘束具を外す。すっかり手慣れたもので、もはや目をつむっても数秒で取り外せるだろう。

 

能力を発動させて、精神をフラットな状態へと矯正した。この人の話は、しっかりと耳に入れておかなければ。

 

「来年の頭には、いよいよ実際に被験者たちの"自分だけの現実(パーソナルリアリティ)"の加工を開始できるだろう。ああ。心配しなくていい。キミのように見込みのある者たちは、しばらく"性能(スペック)"の低い者たちに試してみた後で、一通りの整形のノウハウを得てから実験を行うからね。」

 

「……そうですか。」

 

全然嬉しくないよ、そんな話を聞いても。どこまでも、人間を実験材料(モルモット)扱いか。もはや怒りもいちいち湧いてこない。能力を使わずともな。特に、保護者の居ないオレ達"置き去り"に関して言えば、コイツは完全に、研究者のための実験素材としか認識していない。

 

オレに対する認識だってそう変わらない。いや逆に、希少価値、有用性がある分、もっと始末が悪いだろう。これから犠牲になる他の被験者たちのことを想い、何度も、すべてを投げうって、実験から逃亡しては、と考えた。

 

しかし、本格的にこの"実験"に関わって行くうちに重々理解した。この実験は、オレが立ち会わなければそもそも成り立っていなかった。オレがいなければ、恐らく彼等は途中で立ち往生していただろう。

 

最初から、完全に。幻生はオレを無理にでも取り込む気でいたのだ。十中八九、真泥を巻き込んだのは、オレを引き込むためにやったことだろう。

今年の春、幻生の誘いを断らなければ、ヤツは真泥に興味すら示していなかったはずだ。

 

 

だんだんと、こちら側、学園都市の暗部世界の理が分かってきた。一度でも目をつけられ、身に染まってしまえば手遅れさ。光の世界で安寧と生きていくことは不可能だ。

 

闇の中で、大切な人たちを巻き込まないように生きていければ、それだけで奇跡なんだ。真泥を救いだせただけでも、行幸だったと考えなければ。

 

 

幻生はオレの渇いた態度に勘付きもしない。席を立ち、実験室から退出すると彼も後を追って来た。

 

「ああ、楽しみで仕方がないよ。キミの他にも見込みのある被験体があってね。空気中の窒素を操る、空力使い(エアロハンド)系の娘が2人。キミと同じく、どちらも強能力(レベル3)級の出力を持つのだよ。

 

重要な点は、その両者の能力特性(スペック)が非常に似通っているという点でね。彼女らの"自分だけの現実"に、それぞれ"異なる領域(クリアランス)"を与えてみるつもりだ。木っ端のような弱小の能力者では観察し難い、我々の操作による能力の発達の相違がより浮き彫りとなるだろう。」

 

後ろを歩く幻生の声に耳を傾けていたその時。突然、通路の角から少女が飛び出して来て、オレにぶつかった。

 

咄嗟に受け止めたが、その行動はお気に召されなかったらしい。彼女がオレの腕の中で、嫌悪感を剥き出しにしたその瞬間、彼女とオレの間のわずかな空間に突如、突風が発生した。

 

その風圧は凄まじかったが、瞬時に重心を落とし、なんとかその場に踏みとどまった。すると、代わりにその女の子が吹き飛んだ。飛ばされた直後に、彼女は表情を驚きに染めた。どうやら、この突風は彼女が生み出したらしい。それで、オレが吹き飛ばなかったのは想定外だったと。

 

その娘はそのまま壁に激突するかと思ったが、ぶつかる直前に速度が緩やかになった。まるで壁との間に見えないクッションができたかのように、ふわりと制止し、危なげなく彼女は着地した。その後すぐにオレに向かって両手を構えた。

 

少女の外見はまだ小学校の中学年ほどだ。花華や真泥と同じくらいの年頃だろうか。黒髪を肩のあたりまで伸ばし、可愛らしい外見とは似ても似つかない、黒く濁った瞳で睨みつけてくる。…いや、ブツかって来たのはそっちだろうよ。

 

「おお、ちょうどいい。噂をすれば、だ。景朗クン、彼女だよ。黒夜海鳥クンだ。今話していたばかりの、窒素を操る能力者、そのうちの片割れだよ。」

 

その黒夜海鳥という少女は、幻生の言葉に過敏に反応した。もとから嫌悪感を晒していた顔が更に歪む。

 

「幻生先生。その"片割れ"呼ばわりはやめてくれよ。あの超超うるせぇクソガキと一緒にされちゃたまんないんだよね。」

 

黒夜海鳥は幻生に対してはあからさまな敵意を向けなかった。そう、その代わりに、彼女の険しい眼光がオレを捕らえて離さない。

今だに構えを解かず、油断なく両手の掌をオレに向けたままにしている。なぜオレをそこまで敵視するんだ?そう疑問を感じながら見つめていた、彼女の口が開いた。

 

「気に障る野郎だと思ったら。アンタが噂の雨月景朗か。こんな間の抜けたツラしてやがったとはね。」

 

「初対面の君にこう言うことを言うのは憚られるけどさ。とりあえず、掌を向けるのを止めてくれないかな。能力を屋内でそうぽんぽんと使わないでくれよ。オレはともかく、幻生先生のようなご老体にその風は障るからね。」

 

のっけから飛ばすな、この娘。しかし、初対面の少女にこんなに嫌われているとは。オレはこの研究所でなんて噂されているんだよ。思いきり警戒されているが、この少女は幻生によれば、オレのせいで被害に会う被験者のうちの1人なんだよな。

 

「話に聞いただけで気にくわねぇヤツだとは思ったが。ここまでいけ好かない野郎だったとはね。それはそうと、オマエ、去勢された犬みてぇな目で私を見てんなよ。自分勝手に1人憐れんでるんじゃねぇよ。殺すぞ。」

 

一体どうしろと。考えあぐねていたところに、幻生の仲裁が入った。

 

「落ち着きたまえ、黒夜クン。ここには私もいるんだ。キミに能力を使われては敵わんよ。」

 

彼の制止を聞きいれた黒夜は、オレへと伸ばした腕をしぶしぶと降ろした。憎悪に塗れた鋭い眼光は已然残されたままだったが。幻生は黒夜の様子に満足したのか、今度は彼女にオレを紹介し始めた。

 

「黒夜クン。彼が、この計画の開始時に話した、雨月景朗クンだ。どうやら、キミは景朗クンと仲良くする気はないみたいだがね、これだけは言っておこう。彼に危害を加えるな。キミも優秀な被験体だ。少々の気まぐれには目をつぶろう。だが、計画の要である景朗クンは手を出さないことだ。覚えておきたまえ。」

 

黒夜は予想通りに、幻生の警告に対して、さも煩わしそうに首を縦に振った。

 

「わかったよ、所長さん。ほんのお茶目だってば。ちやほやされてる噂の坊ちゃんが、どんなヤツなのか確かめたかっただけさ。」

 

それだけ告げると、彼女はこれ以上は面倒だと言わんばかりに盛大にため息を吐き、オレ達の前から去っていった。幻生はオレに向き直ると、心配そうに説明をしてくれた。

 

「見ての通り、黒夜クンは少々血の気が多くてね。制御しづらい面があるのだ。数少ないレベル3のサンプルでもあるからね。彼女と衝突して、無駄に実験素材を摩耗させたくはない。キミも、彼女と積極的に関わるのは控えてくれたまえよ。とはいえ、彼女は長大な射程を持つ能力者だ。向こうがその気になれば、キミは少々不味い事態に陥るかもしれんな。」

 

さっきの風圧程度なら、全く屁でもなかった。が、窒素を使うと言ったか…。確かにまずいな。窒素を使って、無酸素状態なんかにされれば、打つ手がなくなるかもしれない。空気は殴れないからな。彼女にそれができればの話だが。

 

そんなことを考えていたおり、思考から回帰した幻生がふたたびアドバイスを与えてくれた。

 

「…ふむ。そうだな。彼女ともう1人、窒素使いの娘がいると言っただろう。絹旗最愛という子だ。黒夜クンとは犬猿の仲でね。やむを得ない場合は、彼女に頼ると良いだろう。2人が出会えば、間違いなく互いに罵り合いを始めるだろうからな。それでキミは身の安全を確保できよう。」

 

…え?なんだそれは。本気で言っているのか?呆然として突っ立っていると、幻生は安心した様子で、オレを放置し、書斎へと帰って行った。本気かよッ。

 

 

 


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