とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

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期間が開きましたが、投稿再開の折に更新したのは

episode32
episode33
episode34

以上の3本です。
合計で10万字ありますのでお気を付け下さい。

皆様。
本当に、本当にお久しぶりです。

まず最初に、この4年ほど、いただいた感想に返信せず、放置していたことをおわびします。すみませんでした!!


うつ病で文章をかく元気がありませんでした。

ようやく、元気が湧いてきて、投稿までこぎつけられました。

皆様を振り回しっぱなしで逃げ出していたことを心苦しく思ってました。

キチンと完結させます。






episode32:欠損記録(ファントムメモリー)④

 

 

 

 景朗とダーリヤ。

 急造のでこぼこコンビが"屋台尖塔"に立ち入った。

 そこでは『想定外のトラブル』が2人を待ち構えていた――――ので、あるが。

 しかしそれは、ダーリヤを襲った謎の組織とはまったく別の案件だった。

 彼女とは無関係だったのである。

 なにしろ、その『想定外のトラブル』の原因を作ったのは、過去の景朗自身だったのだから。

 

 簡単に説明すると、こうなる。

 尖塔内で開催されていた夏休み最後の大イベント、『納涼チャンピオンシップ』。

 景朗はこの定例大会のいくつか前に開催された『新人歓迎食人遊戯』に参加し、優勝を収めていた。

 

 そう、『定例』大会である。であるのに、もちろん景朗は以降の大会には出場していない。

 彼は知らなかったが、コテンパンにされた当時のチャンピオンはその後、成績不振を引き起こし、大会は今や戦国時代の様相だという。

 フードファイトには賭博が絡んでいる。乱戦の端緒となった餓狼は行方不明。この逸話を観客は餓〇伝説と呼んだ。(あれ、なぜか伏字に。。

 とにかく、観客も選手層にも不満があった。

 その心情を組んだ実行機関は"餓狼(景朗)"の首に賞金をかけるに至った。

 それは無論、命を狙うというものではなく、大会に連れてこい、という大手スポンサーと大衆の意志だった。

 

 

 かような背景をつゆ知らず。

 会場に足を踏み入れた景朗は不幸にも、打ち負かした元チャンピオン当人に声をかけてしまった。

 彼は、大会出場者はみなが例外なく食事処の情報通だと知っていた。

 ただ、おすすめの店を訊きたかっただけなのだろう。

 

 "そういえば前回、試合でご一緒しましたよね"程度の認識で軽く挨拶を済ませたところで、それが地雷の上に自ら手榴弾を叩きつけるが如き行為だと思い知らされる。

 

 

 餓狼だ! 出口を塞げ! 逃がすな! という叫び。ねぐらに棒をつっこまれたスズメバチのように、あっという間にどよめきが伝播した。

 

 

 コアなファンは餓狼を逃がすまいと捕り物に協力し、見物客はイベントまがいの見世物かと興味深々だ。

 景朗と少女は取り囲まれ、罵倒され、不満を糾された。

 やたらいい匂いのする香ばしい粉をぶっかけられたりもした。

 ダーリヤはくしゃみが止まらなくなった。

 

 

 しかし。なぜかそのうちに、完全アウェーとでも言うべき敵意は、期待と興奮の香りへと変わっていって……。

 

 『"餓狼"をトーナメントへ強制参加させます!』

 

 人だかりをかき分けてきた運営スタッフは、混乱する景朗に向かって宣言した。

 

 嫌です。帰ります。逃げます。さようなら。

 

 それが景朗の心の声だった。とはいっても、アテにしていた"屋台尖塔"のハイクラスな警備がアダとなり、穏便に会場から出ていくことは難しかったのだろう。

 こうして彼は再び"餓狼"のリングネームを名乗るハメになったのでした……。

 

 

 

※⦅フードファイト編は、番外編としてやる予定です⦆

 

 

 

「また行きましょヲルフマンっ」

 

 エキサイトのなごりが冷めやらぬダーリヤから、景朗は疲れたように目をそらした。

 屋台尖塔では無意味で余計な骨を折っただけだった。

 ダーリヤを襲った集団の影すら掴めなかった。それは別に構わない。

 ただ時間を無駄にしただけで済んだのであれば、ぜんぜん良い。

 問題は、この蓄積された精神的疲労である。

 

 絶えず視線を寄こすダーリヤに歩幅をあわせて、それに気づかないふりをして景朗は歩いた。

 2人はまだまだ活気あふれる第十学区の裏通りを迷路のように巡り、帰りの途に就いた。

 

 

「明日も行く? 行きましょう?」

 

 とまあ帰宅したばかりで相変わらずの、この言い様である。

 観ていただけのチミはさぞ楽しかっただろう。

 

「ふざッ、ヴフッ。無理ィ、無理ですよっ」

 

 このガキんちょが相手では、考えて発言しなくてはダメだ。

 この数時間で、景朗とてそのくらいのことは学習している、つもりである。

 

「これから何をするの?」

 

 スパークシグナルにケチをつけ、プラチナバーグの怪しい取引を受け入れて、そしてフードファイトに意味もなく巻き込まれ、あげく、この少女に関わるトラブルへの手がかりは何一つ得られておらず。

 

「うーん、そうだなぁー……」

 

 あくせくと頭を使うのもいいが、情報量が限られているこの状況では終わりが見えてこない作業でもある。

 仮にも学園都市の暗部組織が1つとならず動き回っているわけなのだから、待つ時は待つ。

 そういう事にしよう。頭を使うことに自信がないからではない。決して。

 

「もう着いたし、とりあえず中に入れよ」

 

 これから何をすると問われたが『眠っていてもらうのが一番楽だ』とは言いづらい。

 言わずもがなダーリヤはゴキゲンである。

 帰宅道中のハシャギ様からして、そんな事を言えばキンキン声で反論されるに決まっている。

 むべなるかな、そもそも彼女を昼間にさんざん眠らせたのは景朗当人である。

 また眠らせるのは酷だろうか……いや、それほどか? いやいや、別にいいじゃないか。

 子供は寝るのが仕事って言葉もあるし。

 

 彼が開き直るのははやかった。

 

「ねえウルフマンは学校に行ってるの? 明日から学校が始まるんでしょう? ん、今日からだったかしら?」

 

 少女はセーフハウスの玄関をまたいだ途端に、開きかけていた口のチャックを解き放った。

 

「今日からだなー。そういう君こそ学校はどうしてた?」

 

「行ってないわ!」

 

 あっけらかんとした返事は、予想していたことだから意外性もない。

 ただ、学校に行っていないとなれば同年代とふれあう機会がほとんど無い。

 それがどうしてか、彼女はそこに不満がない風である。

 若干の引っかかりを感じたりもするが。

 

「……ほーう。そうなん」

 

「え、ウルフマンの学校は?」

 

「それを知られたら君を殺さなくてはならない」

 

 無論、景朗は冗談めかして言ったが、硬い意志は含めていた。

 ムッとしたダーリヤであるが、意外と聞き分けはよかった。

 

「じゃあ。これからなにするの? なにするの?」

 

「うーーーん、だからそいつを考えてる。あ」

 

 彼女の身の上話を続けていても、あまり楽しくなりそうではないぞ、と気づき。

 景朗は、じんわりと考え込み、はっとした。

 

「決まってんだろ」

 

 にやりと笑った。

 

「風呂だ」

 

 ようやく、かねてからの要求を突きつけられる。

 こいつをシャワールームに叩き込んでやる。

 

 

 

 

 

 

『ウルフマンちゃんといる?』

 

「ふぃぃぃぃ。そういやこんなことが日常茶飯事でありましたなぁ」

 

『ウルフマン?』

 

「ェーイ」

 

『ねえウルフマン』「オッケーわかってる。ちゃんと聞いてるよ。ちゃんと話もするよ」『ん。そうしましょう』

 

 シャワールームのドアにもたれて座る景朗は、生返事を吐き出すのをやめて、長々と続いていた呼びかけにやっと応じることにした。

 ダーリヤを風呂に押し込み、ちょこちょこと雑用を済ませようかと思いきや。

 超人的な聴覚をもってしては『うるふまん、うるふまん』と自分を呼ぶ声が、シャワールームからガッツリ聞こえてきて仕方なかったのである。

 

「へあ。……なあ、その"ウルフマン"ってのは一体全体どういう……その……"どういうニュアンス"で言ってんだい?」

 

『ええ?』

 

 ウルフマンと呼ばないで。

 2人して出歩いているときは、彼女は大人しくその言い付けに従ってくれていたのである。

 だが帰ってきた途端に、出会い始めの興奮が甦ったかのように、またぞろ怒涛の"ウルフマン"呼びが再燃してしまっている。

 

「だいぶ気に入ってくれてるみたいだけどさぁ」

 

『ここなら"ウルフマン"って呼んでもいいはずよ』

 

「NO」

 

『どうして?』

 

「……その名前は捨てたんですよ」

 

『え? なんで?』

 

「……『なんで』って言うなっ……」

 

 "ワケあってやめてほしい"と言っているのに、むしろ何故、かたくなに"狼男"と呼びたがるのか。

 

『2人きりの時はウルフマンって呼ぶわ』

 

「呼ばないで。じゃなくて、呼ぶな。呼ぶな!」

 

『じゃあせめて心の中ではウルフマンってよんでもいい?』

 

「やめろっ……というかもお、だからダーシャさんはさぁ、そもそもどういうモチベーションでウルフマンと呼びたいワケなのよ?」

 

『モティベーッ?』

 

「まさかとは思うけどスー○ーマン的なニュアンスで言ってるんじゃないでしょうね。あるいはどこぞの蜘蛛超人みたいな恥っずいハナシじゃないよね? ちがうよね? むしろ図星でも今ここで違うと言って」

 

『すーぱー?』

 

(知らねえのかよ)

 

『クモ? クモ超人?』

 

「いやいやいやいや、ご存じナイならイイんですよ」

 

『クモがどうしたの?』

 

「もういいの、蜘蛛の事は。ったく、それならなぜに『ウルフマンっ』

 

「あい」

 

『クモってなんのことっ? 昔、ウルフマンに教えたクモと関係あるの? ほら! ウルフマンが噛まれて「あのさ! ダーシャさんよ、ひとつだけ今すぐどうしても教えてもらいたいことがあるからさ、まずそれを教えてもらおうか」

 

『な――はぶしゅっ。なに?!』

 

 可愛らしい小さなくしゃみに、反射的に飛び出そうになった小言をまたぞろ飲み込んだ。

 先程から水音が途絶えていたものだから『入浴がお留守になってますよ』と内心ツッコミ続けていたのだが、このタイミングでそれを言っては話が脱線しっぱなしになる。

 

「ずーっと熱心に俺を探し回ってたみたいだけど、何故そうまでして俺に会いたかった? どんどん金もつぎ込み続けて。俺から見たら気味が悪くなるくらい偏執的だったぞ。こっちに気づかれずに探そうといった意図はなさそうだったけれど、なにが目的だったのかきっちり教えてもらおうか」

 

『どうして? どうして"そのこと"をウルフマンが知ってるの? もしかしてわたしが今まで探してたの、知ってて無視してたの?』

 

「いや違う。そうじゃない。実は君んとこの"お偉いさん"と話をした時に、君のプロフィール――というより君のプロファイルを見せてもらってたの。そこで初めて知ったの。大体、最初から君のことを知ってたら、あんな出会い方してないよ」

 

(そうさ。"こんな状況"には陥ってない)

 

 ダーリヤが元"人狼症候"を探し回っていたことに景朗が気づかなかったのは、プラチナバーグ側が隠蔽していたからであろう。

 

 景朗とて、前もって知る事ができていたら今回とは違う形で出会えていたかもしれない。

 

 ため息が出た。頭を悩ませるこの現実。

 我が基地のシャワー室に、この瞬間、厄介事の種が存在する事実を。

 まあ、暗部に入ってからずっとこんなことばっかりな気もするけれど。

 

 深々と吐露した景朗の声色には、"疲れ"の色が滲んでいた。

 それは彼にしては珍しい事態なのである。

 

 『チーフが? なんで……?』

 

 一方のダーリヤは、戸惑い半分、訝しみが半分、といった様子である。

 少女がそう悩む理由もわからない訳ではない。

 

(確かに。プラチナバーグがあそこまで(プロファイル開示)やってみせたのは、はっきりと怪しい)

 

「だからな、ダーシャさん。だいぶ昔の話になるけど、俺が言ったことを覚えてるか? 俺が"特別"扱いされてる、うんぬんって話。"ウルフマン捜索"の不自然極まる困難さに、君は当然、不穏さと危険さを感じ取ったはずだ。しかしそれでも食い下がり続けたのはなぜだ? ろくな成果もないままに、それでもお金を浪費し続けた。俺はそこを知りたい」

 

 

『それは……ウルフマンと……"ウルフマン"の仲間になりたかったから』

 

「何度も聞くが、俺にしか頼めないことがあるのか?」

 

『ちがうわ。うんと、ある意味そうね。だから、"ウルフマンと一緒"にまたシゴトがしたいの』

 

「"一緒に"ね。たったそれだけの理由であれほどつぎ込んだ労力や金額を納得は、できないな」

 

『だって! "ウルフマン"だものっ!』

 

 がこりとシャワーノズルが音を立てた。

 シャワー室はドアの向こうだが、興奮具合はあまさず伝わってきた。

 

『"ウルフマン"には――――。あのね――。そう! "ウルフマン"には"カリスマ"があったのよ!』

 

 

(カリスマ?)

 

 想定していなかった類の単語だった。

 それが自分にどう関連するのかわからない。

 

 なので、景朗は何と質問すればよいか悩んで、口を噤んだ。

 沈黙はひと時でも、会話のリレーはそこで途切れかけた。

 

『だって!』

 

 ドアを幾重に挟んでいても、ダーリヤは景朗が理解できかねている様を悟ったようだ。

 

『だから、"ウリュフマン"みたいに"強い"のに絶対に仲間を見捨てないなんて――"ウリフマン"ほど完璧な"オペレーター"は他にいなかったでしょ?!』

 

 ここにきてさらに舌足らずさが増していく少女の語りには、焦りと、もどかしさと、景朗にはイマイチ察しえない熱気が混ざっている。

 

「あのな、言葉を選んでくれているんだろうけど……」

 

『だから"ウルフマン"といれば〈何とかなるんじゃないか〉って。〈何とかしてくれるんじゃないか〉って、"みんな"思ってたのよっ!』

 

「"みんな"?」

 

『そうよ。"ウルフマン"は人気者だったじゃない』

 

「だから、どこの誰を差して"みんな"?」

 

『だからたとえばっ、あなたと一緒にチームを組んだバックアップスタッフのみんなよ!』

 

 つまりは、昨年のある一期間。

"オペレーターさん"ことダーリヤ少女と初めて一緒に仕事をしたとき。

 景朗が所属していた"ユニット"のサポートチーム。彼らのことを指すのか。

 あるいはプラチナバーグの元で活動していた時期もあてはまるのだろうか。

 

「確かに俺は強い方だったさ。でも強いだけなら他にいくらでも――。いくらでも、はいないかったかもしれない、けど。いや」

 

『"いくらでも"なんているわけないじゃない!』

 

 彼女の言うことはもっともである。

 

『全然いないでしょ! そんな人どこにもいなかったわ、"ウルフマン"の他には。あなただけがわたしたちを、"なかま"を"なかま"として助けてみせたし、助けられたもの』

 

「まぁ分かったよ。確かに俺ほど余裕のあった奴は珍しかっただろう。確かに」

 

『少しはいたわっ。ごくまれに"ウルフマン"みたいにやろうとしてた人も居はしたけど。みんな"身の程知らず"だったわ。でも、"ウルフマン"は特別なのよ! 最後まで生き残ったのは――生き残れるくらい強いのは"ウルフマン"だけよ!』

 

「……そういえば君は俺の事を買い被ってたね」

 

『わたしたちにはわかるのよ。"ウルフマン"には強さと自信(カリスマ)が溢れてた。わたしたちは"ウルフマン"なら信用できたわ!』

 

「わかった。もうわかったから」

 

『やっぱり"ウルフマン"には自覚が無かったのね?』

 

「別に。単にうぬぼれてなかっただけさ。"上"からの評価ならまだしも、すぐにいなくなる同僚なんかに興味なんて」

 

(いや、うぬぼれてはいたか。アレイスターなんぞに、手を出したッ)

 

『"ウルフマン"にまた会えたから、今日、じゃなくて昨日は襲われたけど、良かった』

 

「おーけーおーけー、もうこの話はおわり。それじゃあ、強くて信頼できるナイスガイな"俺"とどーおしても一緒に働きたかった、ってことなんだな? それほど俺に会いたかったというわけか……」

 

『……うん』

 

「は。ひどい言い方に聞こえるかもしれないけど、仮にも暗部の人間を友達みたいに誘えると思ってたのか? 本気で?」

 

『だってわたしたち……一緒に戦った仲間(同志)だもの』

 

 景朗はほんの短い間だったが、とまどってしまった。

 が、やはり"同志"だなんて言葉に乗っかる気はない。

 

「まぁ、ね。悪いね、ダーシャさん。俺は今"猟犬部隊(ハウンドドッグ)"にいるからさ。だから……はぁ。色々と無駄足にさせてしまって、気の毒に思うよ」

 

『そうなの。そうなの』

 

 ダーリヤの声に元気がなくなっていく。

 

「……なあダーシャさん、"ケルベロス"の噂は知ってる?」

 

『……噂ならたくさん知ってるわ。どうして?』

 

 裏社会の深奥たる"猟犬部隊"。暗部でも彼らと関わるものはごく少数である。

 その"猟犬部隊"の切り札、未曾有の怪物の噂話には、まさに創作としか思えない突飛さがあった。

 

 しかし、ただの興味本位で暗部の掃除屋に探りを入れる愚か者も存在しないわけで、つまりは。

 暗部においても、ケルベロスは噂話だと思っているものが多数派だった。

 

 ただし、いずれにせよ、それが真実であれば、かの存在は暗部の捕食ピラミッドの頂点に分類される。

 その逸話は、真実味を帯びたものもそうでないものも、暗部業界で広まらないはずがなかった。

 

 ダーリヤも耳にしていたようだ。

 まさかその最高機密が"ウルフマン"だとは、気づかせないほうがいい。

 

 

「どんな噂があるんだ?」

 

『教えてくれるの? ケルベロスの正体。生体実験に失敗した能力者ってのはうそ臭いわ。うわさの中でマシなのは、知性のある生物兵器説かしら。主人である理事長を守るためならどんなギセイもヒガイも厭わない。目撃者も残さないから、殺されたくなければ絶対に関わっちゃダメ。"理事長の猟犬(ケルベロス)"。絶対的な忠誠心を持ってて、理事長に近づくどんな危機も嗅ぎ付けて一掃する、怪物。ひょっとして"ウルフマン"がお世話してたりするの?』

 

 ウルフマンにならできそうだもの、とダーリヤは言いたげだ。

 

『……もしかして、ケルベロスはドウブツじゃなくてニンゲン(ウルフマン)なの? ケルベロスの噂が出始めた時期は……"ウルフマン"が消えちゃった後だわ。ねえウルフマン』

 

「いや、どの噂も嘘っぱちだな。"俺"はケルベロスってのを見たことはないよ」

 

『ふーん……ぶしゅっ』

 

 くしゃみの理由は明らかだ。ダーリヤの手を動かす音はずっと止まっている。

 

「おーい、手が止まってるぞ。おしゃべりもいいけどさ」

 

『じゃあもうおフロ上がるわ、ウルフマン』

 

「"じゃあ"ってちゃんと洗ったのかよ? ……あぁいい、いい、おーけー。ほら、そこにタオルとシャツがあるだろ。今はそれで我慢しておくれ、すまん」

 

『いーわ』

 

「ほふーん。そういうことだったとはねぇ……わりと深いところを見てくれてたんだな。正直言うと俺は、狼男(ウルフマン)の野性的なヴィジュアルだとか、モフモフ加減がキャラクターチックだったからぁ、なんて子供染みた理由をすこーし疑ってたよ」

 

『(……まあ……そういうのもすこしはあるけど……)』

 

「ん?」

 

 おそらく、景朗でなければ聞き逃していたくらいの小声である。

 

『(……かっこいい口吻(こうふん)……うるふまんはさいこうにかっこいい……のよ)』

 

 また小声である。つぶやくように言われても。

 

「え? なに? コウフン? って口(くち)のこと? ……もしかしてフォルムか? やっぱり俺の見た目か?」

 

「………………………………ぜんぜんそんなことないのよ」

 

 今回は取り繕うような大きめの声だった。

 

「なんだ今の間は? おいッ」

 

『……とにかく"ウルフマン"には"ウルフマン"にしかない魅力があるのーよ』

 

「おい! 否定してくれぇ?」

 

『(むふー)』

 

「ちょっと……今までの説明が崩壊しそうなんだが……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「寝なさい」

 

「全っ然眠くないわ。ウルフマン、これは無理だわ。さすがに無理だわ」

 

 やはりこうなった。一度は強引に布団に寝かしつけてみたものの、起き上がったダーリヤは不満もあらわに口をへの字に曲げた。

 少女は仮にも暗部で働いている身である。文句が出てきて当然の子ども扱いだと景朗とて内心では思っていたが、どうにも彼女のお喋り攻撃に嫌気が差していた。

 

 歯磨きをさせた。洗面台の鏡越しにまたぞろ見つめられ、ウルフアンバー! と謎の叫び。自分の目の色はウルフマンと同じ琥珀色なのよ、と突如うんちくが始まった。

 仕方なくオオカミが好きなのかと問うた。こげ茶色が動物の毛色として一番優れてると持論を持ち出された。

 まるで乞われていたかのようだったので、動物全般が好きなのかと聞いてあげた。蚊とハトとネズミとゴキブリは例外であると憤慨されてしまった。

 数えで9才になるというわりには背が小さいので食生活を聞いてみたら、壊滅的だった。小便から甘い臭いがした理由にアテがついた。

 脈絡もなく、ところでウルフマンはわたしのことをダーシェンカって呼んでもいいわよ、と言われた。ダーリヤの略称がダーシャというのは理解できるが、ダーシェンカって元の名前より難しくなってるじゃないか。わけがわからないよと言えば、それならダリュシュカでもいいわ、と答えになっていない答えだ。

 ウルフマンって呼ばないときは、カゲロウだからゲローシャって呼ぶわ、と突然宣言された。

 呼んでもいい? と許可を問われたので、ダメだと取り下げた。

 なんで? と詰問されたので、毎回毎回ゲロゲロと吐瀉物のような名前を呼ばれたくはないと返した。

 それなら雨月だからウゲェーシャね、と言われた。いや……あのね……そっちの名前もまだまだ嘔吐感があるじゃないのよ、と却下すると、なんで?! と怒られた。

 

 

 すべて他愛のない話だった。ただ、どうにも彼女はそういった子供っぽい発言をわざざわ選んで披露しているのではないか――と、彼は疑っていた。

 媚びる童女のような相貌には、絶えずこちらを観察する理知的な眼光が見え隠れしていた。

 つまり。

 昼間、麻酔でさんざん眠らせといてなんだがマジもっかいとっとと寝てほしいのである。

 

 

「ワタシ、放り出してしまっているシゴトがしたいわ」

 

「まぁいいけど、ネットは使わせられねーぜ」

 

「なんで?!」

 

「そういう約束だし……第一、セーフティのしっかりした環境がここにはないし。つーか、しなくていいんじゃないの? 今は流石に」

 

「ぬぃー、ハウンドドッグのID使わせて?」

 

「ふぢゃけんなよチビガキ」

 

「でもシゴト終らせないと困るわ。あいつらに言い訳なんか通じないわ、またいっぱい蹴られる……どうにかしてほしいのよ」

 

 風呂上がりに着せたTシャツからはみ出た、少女のなまっちろい二の腕には、確かに青あざがあった。昨日の襲撃犯とのイザコザで出来たものだと思っていたが、そうではないのかもしれない。

 

「うぅん……考えよう。でも今日のところは我慢してくれ」

 

「わかったわ。あ、じゃあ、それなら"ウルフマン"と一緒なら、ネるわ」

 

「あぁ?! ……はぁ。大人しく寝るか?」

 

「ふひゅ、ひひゅ! ネる!」

 

「たぁー、わかったよ」

 

「ねえ、はやく、"ウルフマン"、ほら変身して! 『わかった』って言ったでしょ!」

 

 いっそ別の"動く物"に変化してやろうかと思ったが、どちらにせよ喜ばれそうでそれ以上は考えるのをやめた。

 

 考えたいのは、明日以降のことについてだった。しかしそれがなかなか叶わない。

 とにかく少女が次から次に奇行を見舞ってくるからだ。

 

 続いてはご希望の"ウルフマン"が登場した途端のできごとだった。

 彼女の興奮のボルテージは最大になった。

 

 

「こっち見んなよ?」

 

 一度、景朗は給湯室から出た。変身する瞬間は子供に見せられない絵面のはずだからだ。

 まあ、ダーリヤはその逆で絶対に見たがるタイプだとわかっていたが、そこは意地だった。

 案の定、ドアノブが音を立て、部屋の内側からドアを開けようとチカラが込められる。

(ほら来た!)

 景朗は変身の途中でもかまわず、背中でドアを押した。

 

「ドシター? ソンナモンカ、ク〇ガキー」

 

「んぅーーー、んうーーーーーっ!」

 

 もちろんダーリヤにドアは開けられない。

 

「ハイザンネン。モウ終ッタゾ」

 

 景朗は狼頭で器用にニヤケつつ、部屋に戻った。

 

「!」

 

 ダーリヤはなぜか開いたドアの裏側、つまり死角に隠れるように立っていた。

 いや正確には、床につっ立っていたわけではなく、彼女はパイプ椅子の上に登っていたのである。

 ドアの裏までわざわざパイプ椅子を移動させたのは、何故?

 

「Ураааааааааааа!」

 

「チョ危ナァッ。飛ビ乗ルナッヤメッ、危ナイテッ! ――オイコラハナレロ、ヤメロッテオイッ」

 

 ダーリヤ本人は華麗に飛び掛かったつもりなのだろうか。

 なぜそこまで勢いよく飛ぶ必要がある。

 景朗は肝が冷えたように受け止めた。彼が手を出さなければ少女は身体のどこかを床に打ち付けていただろう。

 

「ヲォルフマァァァァアァァァァァァァッ!!」

 

「ウルサイッ!」

 

 テディベアを掲げるように脇の下から両手で少女を持ち上げ、腕を突っ張ってできる限り顔から離す。

 しかし少女はかかんに両足を振り子のように揺らし、勢いをつけてしつこいように景朗への接近を図ってくる。

 

「ク、クノッ! コイツッ!」

 

 脱いでおいたTシャツで、景朗はじたばた暴れるダーリヤを簀巻きにして縛り上げ、畳に転がした。

 

「あれ? あれ? ウルフマンッほどいて、ほどけないわッ」

 

「グルルゥーッ。モウ暴レナイッテ誓ウカ?」

 

「誓う! 誓うわ、ごめんなさい。テンション上がっちゃったわ」

 

 不信そうに狼男は鼻を鳴らし、確かめるように少女へと近づき、徐に片手で弁当箱をつまむように持ち上げてみる。

 

「オ前サン、ダイブ軽イナァ。トシハ9ツダッケ?」

 

「そうよ、数えで9才よ」

 

 学校に通っていれば小学三年生か。それでこの身長に体重なのか。

 景朗は聖マリア園で見てきたほかの子の体格と頭の中で比較して、呆れるように喉を鳴らした。

 

「トシノワリニ小サイナァ。オカシバッカ食ッテルカラダゾ……」

 

 少女の目の下にできた歳不相応な大きな"くま"には触れられなかった。

 暗部で仕事をする以上、睡眠が取れたり取れなかったりはどうしようもないだろう。

 

 ふとした質問が功を奏したのか、ダーリヤは落ち着きをとりもどし、おしゃべりモードに入ってくれそうな予感がした。景朗は畳みかけるように疑問を投じなくてはと焦った。

 咄嗟にその質問が浮かんだのは、心に残っていたからだろう。

 

「ナァ、ダーシャサンヨ、学校、行カナクテ平気ナノカ? 俺ハ明日カラ学校ダカラ、マタ別ノ所デ君ニハ待機シテモラウ事ニナルケド」

 

「平気よ。行きたくないもの。すんごいつまんなかったわ」

 

 狼男のつぶらな瞳に見つめられ、ダーリヤは宙にぶらさげられたまま、ついに出会って初めて、うんざりしたかのように唇を尖らせた。

 

「幼稚園には行ったわ」

 

 それで十分だわ。表情でそう語っていた。

 

(でも学園都市住みなのに最終学歴が"園卒"ってのは……まぁ頭良さそうだから必要なら大学いくか。大学行くまで、無事、なら……)

 

 景朗は失言を悟り、無言で拘束を解いた。尋ねたところで、そして返事が"学校に行きたい"というものであったとして、自分がどうにかする気だったとでもいうのか。

 逆だろう。行きたくない、と言われて、そうですか、それは良かった、で済んだことに景朗はほっとしなくてはならない。

 

 お互いに白けたのか、それからは幸いにも静かにことが運ばれていった。

 倉庫から今まで使うことのなかった新品の寝具をもう1セット取り出して、給湯室の畳に広げる。

 

 『そうじゃないだろ?』とじっと見つめてくるので、仕方なく、少女と同じ床に就いてしまった。

 

 ひとときの無言の空間。

 ああ、このまま寝付いてくれるならどんなに幸せか。

 しかし景朗のカンはそうはならないぞと警告していたので、どうせ何か起こるんだろうと身構えていた。

 

 ……なんというか、景朗のカンは優秀すぎた。

 フラグ回収までが異様に早かった。

結果を言えば、待つ必要などなかった。

いや、待てなかった、が正解か。

 

 

 布団に入って、闇につつまれて。

 せっかく歓迎すべき静けさを享受していたというのに、ややもせず、今度は景朗のほうから音を上げるように悲鳴をあげていた。

 

「ダーシャサン、早ク寝テネ? イイカゲン、息ヲ荒ゲルナ。聞コエテルカラナ。大人シクスルッテ言ッタダロ」

 

 台詞としては諭すような物言いなのだが、その実、それは切なげな懇願そのものだった。

 

「(すん……すん……ふんすっ)」

 

 布団に入ってからずっと、少女はぴったりとくっついたままである。

 いたたまれなくなった景朗は背中を向けて横になったのだが、その直後からもう怖くて振り向けなくなった。

 ダーリヤは静かに、しかし全力で、景朗の背中の毛に鼻を突っ込み臭いを嗅いでいる。もとい、堪能していらっしゃる。

 

 まんじりともせず少女はもぞもぞ動き続けている。背後で彼女が手を動かしている音が景朗にははっきりと聞こえていた。どこを触っているのか、想像もしたくなかった。

 ほんのわずかに荒い程度だが彼女の息遣いは一向に収まらない。その気配がない。

 というか、寝ようとしている気配はまったくない。

 

 

「ダァカラモジモジスルナッテ。ツゥカ……」

 

 景朗は最大限にためらいを見せたが、どうにか精いっぱいの覚悟を振り絞った。

 

「ドコイジッテンダ。気ヅイテルカラナ? モウ手ェ動カスナヨ。コレ以上言ワスナヨ、オメェ。……イイ加減出テクゾ?」

 

 まさかと思われるシチュエーションに、流石の景朗も秒で弱り切った。

 だって、言葉にしてはっきりと指摘したくない変なにおいがしている。水音もする。

 察してほしいR18のヤツである。マセガキとかいうレベルじゃない。そんなかわいいもんじゃない。

 このクソガキはきっと自分が何をしているのかまだわかってないんだ。それ以外ありえないじゃないか。それは景朗の切実な祈りだった。

 

 クソガキ、今すぐやめなきゃ強制的に眠らせてやる。彼の我慢も限界だった。

 

 景朗の警告で、ぴたりとダーリヤの動きは止まった。

 だが。なんということだろうか。気配でわかる。

 ものすごく不満そうである。己が何を"しかけて"いるのか、意味がわかってないのだろうか。

 わかっててやってるのか、本当にわかってないのか、景朗はぶっちゃけそこまで判断をしたくなかった。うやむやで終わらせておきたい。

 だって、意味がわかってなかったという事実が明らかになったとしてもだよ?

 そういうのは人前でやっちゃダメなんだよ、って。

 大人としてきちんとお説教してあげなくちゃならなくなるじゃないか。

 

 あきらめた景朗は、するすると狼男の変身を解く。瞬く間に人間の姿へ戻ってみせた。

 大能力者"人狼症候"であったころは、この変身を解くときに能力をカットするせいで、どえらい痛い目にあっていたものだ。

 超能力者となった今では戻るというより"人間に変身しなおす"要領であるので、痛みは完全に無くせるのである。

 

 つるつるの人間肌に驚いたダーリヤの反応が、これまた彼を疲れさせた。

 

「……うるふまん……どうして戻るの……"ウルフマン"?」

 

 ダーリヤは悲しそうに景朗を2,3度押して揺らし、再びまんじりともせず"ウルフマン"再臨を待った。

 が、反応がないことを悟ると、何を考えたのか。たぶん、ただそうしたかっただけだろう。

 景朗の背中にカプリと噛みついた。

 

 彼の我慢はそこでついえた。

 

「イタっ。うるふまん、チクっとした。なにかした?」

 

 それからわずか十数秒である。

 すー、すー、とダーリヤの天使のような寝息が聞こえてきた。

 

 すくっ、と布団からでて立ち上がった景朗は、つぶやいた。

 

「……だれか、助けてください……」

 

 深い後悔に満ちた者だけがひりだせる、呪言だった。

 

 

 

 

 

 

 

 寝付いたダーリヤを放置し、別室にて滴下水出しコーヒーを片手に、景朗はすぐさま至福の落ち着きを取り戻していた。

 

(今のうちに、このケータイのチェックを済ませてしまおう)

 

 不思議な巡りあわせである。景朗が初めて暗部の仕事に挑んだのは、去年の9月頭である。明日から夏休み明けの新学期が始まるので、ほぼ丸1年が経つのだ。

 あの当時、火澄や手纏ちゃん、クレア先生が送ってくれたメッセージには、虫食いのような返信しかしなかった。暗部生活を志したころあいだ。どうしてもそんな気に慣れなかったのだ。

 しかしだからこそ、景朗は心配をしてくれる彼女たちの優しさに縋るように、幾度も幾度も、目を通したものだった。だからか、懐かしくないかと問われたら、YESだと首を振るしかない。

 

 

 探るようにケータイのデータに目を通していき、目当ての、火澄が残してくれた最後のメッセ―ジ群を見つけ出した。

 これらは初任務の当日に彼女が送っていたものであり、任務中にケータイが壊れたので内容を確認できずじまいだった。

 奇跡的。一年越しでようやく初披露ということになる。

 

《景朗が重大な決断をしようとしてるのはなんとなく分かるよ》

《私たち、結局は誰も頼れないし》

《景朗にやりたいことがあるんなら他人の目なんて気にしないで。絶対に応援するから堂々とやればいいの! もし、誰にも話せなくて、辛くて、本当に嫌なことだったら、私が必ず助けてあげるからやめちゃいなよ!》

《相談に乗ってくれないのはすっごく寂しいけど、連絡ずっと待ってるからね》

《本当の家族だったらよかったなー それなら全部話してくれてた(笑)?》

《とにかくウジウジせずに勇気を出して。あと、私を頼ってね》

 

(本当の、家族……)

 最後まで火澄に打ち明けなかったのは、彼女が本当の家族じゃなかったからか?

 わからない。景朗にはわからなかった。でも、家族の様に想っていたからこそ、意地でも黙って来たつもりなのだ。

 でも、わからない。世の家族は、そういう事を打ち明け合うものなのか?

 本物の家族だったら、打ち明けていたことなのか?

 わからない。

 

《助けて!》

 

(ん?)

 

 脈絡もなく『助けて』とは一体どういうことか。

 

 続きを読めば、疑問の氷解は一瞬だった。

 ただ、まあ、しかし、なんというか、その、それは。

 劇的で、あった。

 

《気分が盛り上がって言いすぎたあああ! やばい! 好きバレしたかもももも。どうする? もう今、好きって告白したほうがいいかな?》

 

(あれ? これ、俺宛へのメッセじゃなくない? ――――手纏ちゃん宛か???)

 

《どうしよう告白したい。どうすべき? 好きバレしてたら告白すべき?》

 

("好きバレ"って、なに?)

 

 読んで字のごとくだろうと想像はつくも、景朗は神速の俊敏さで指を動かし、大手検索サイトで単語の意味を確認する。

 

 ああ、やっぱり。告白する前に、相手に好意がバレてしまうことだよね。そのまんまだね。

 

 もう一度、メッセージを。

 本文を、確認しよう。

 

《どうしよう告白したい。どうすべき? 好きバレしてるならここで告白すべき?》

 

(してます。今、好きバレしてます!!)

 

 

 このメッセージの着信から一時間後、火澄から怒涛の通話着信履歴が届いている。

 間違いに気づいて驚愕し、茫然とし、そこから立ち直って対策を練って挽回を図るまでに、1時間かかったんですね。

 おいたわしや……火澄さん……わかる……わかるよ……。

 

 

『あーもう、今のメッセージっ、深くつっこまないでねっ?! 察して!』

『あーのーね、あー……明日、きっちり話すから! 何も言わないでっ!』

『今はなかったことにして。お願い! 忘れて! 返事もしなくていい! わかった!?』

 

 一度言えばわかるのに、続けざまに3回も留守電を残すとは、テンパり具合が察せられる。っていうか。

 『返事もしなくて良い』とのたまわれておるが、そのあともすっごい数の留守電記録が残っているのでござるが……。

 

『うおらーっ! なんで電話にでないのっ?! でろよ! でろよてめー、でなさいっ!』

 

 ついにキレましたか。

 しかしこいつぁやむを得ないですよね。

 こんな緊急性を要する話題に言われたからってホントに無反応を決め込むたぁ、この雨月景朗ってヤツァふてえやろうですわ。

 

『つっぅぅ~かぁ~~~ここまで~~~言ってんのにぃぃ~~反応無しってぇぇぇ……ほんっとにぃ~、イッ! イラッつくんですけど!! むかつきゅぅぁぁ~ッ!……もおおっ、決めた! 今から行く! 行ってやるッ! シロクロつけてやるッ! 覚悟しなさいよッ!! 火達磨にしてっ、エビフライみたいに転がしてやるからっ! いや、火達磨は! やりすぎだから!? だからぼッこぼこにするっ! 昔みたいにぼっこぼこにしてほっかほかっにしてっ打ち上げられたアザラシみたいにしてやるぅぅぅぅぅっらッ!! ねえ! 出なさいよ!? 何ででないのよ! でろよ! でろぉぉぉぉぉっ、でろでろでろでろッ!! 出るまで続けるからね!? 出るまでぇぇぇぇやるからねぇぇぇぇえマジでぇえええええええっ! ああぁもぉおおおおおおおおおおおおおおおあうあうあうあうううううううううおおおおおおおっ! ふわぁーっ。すぅーーーっ。

 ――――逃げるなよ。今から行く。

 からッ! 逃げるなよぉぁ~~~っ! 聞いてる?! ~~~~っもう許さないっ。行くからねっ!』

 

『完全に頭に血がのぼってんなー』と他人事の"てい"での感想を浮かべた景朗だったが、ニヤけ顔は隠せていない。

 

 ドタバタ、ガチャガチャ、パタパタ、ゴガッ、アイタッ、ッタクモオッ、ドバン! アレ、カギ、カギ、ドコ、カギィィィ――――と。電話越しに聴こえる生活音がやけに大きい。

 

 ひょっとしなくても、彼女は盛大に部屋中を動き回っている。

 これは間違いなく雨月宅襲撃準備の音である。収まりきれぬ青春の情動である。

 まだ準備の段階であろうと、ケータイを片手に叫ばずにはいられないのだろう。

 

(なにをやってんだこいつは)

 

『軟膏は!? 包帯はあるっ!? 用意しときなさいよっ! ――――――いやいいっふふっほぉらここにあるからっ、あるからねっ! ひととおり持ってくから! 水浴びでもして体を冷やしてなさいっ、いや頭を冷やしてなっさい! うふふ、ふふふふ、ふふふふふふふふふf』

 

 ところが次の留守電で、一気に大人しくなった。

 

『ねえ、ほんとうにあんた大丈夫? ……あー……あのね、これ聞いてたら、もうね、ぼこぼこにするのは、やめますから、逃げずに家にいてください。いーい?』

 

 声に交じって街中の雑音が入ってくる。これは歩いているうちに頭が冷えたのだと考えられる。

 

(結局来る途中で冷静になってんじゃん(笑)。って、そうか救急キット!)

 

 思い出せ。去年の9月。一番最初の任務が終わって。火澄は景朗の家の前で待っていた。

 思い出す。なぜか不自然にも、あの時、火澄は救急箱を持参していたではないか。

 

「――あ、"あれ"。はは、"あれ"はそういう……」

 

 ワザとらしく笑いをひねり出したところで、はたと気づく。

 手の中のケータイは、無意識の握力でミシミシと悲鳴を上げている。

 

 俺は応えられていなかったんだ。

 なんてしょうもないオチだろう。火澄には本当に申し訳ない。

 

「うわあ、もったいねえ。これは聞いとくべきだった」

 

 ちょっとだけ、考えずにはいられなかった。

 もし、暗部の初任務に臨む前に。最初の一歩を踏み出す前に。

 このメッセージを聴いていたら? 一体どうしていたんだろう。

 あのとき、一晩と言わず。ひと月と言わず、自分は悩んだ。

 

 放り出していたのだろうか? 

 いいや。どうせ、"能力強度"が上がった自分の力に酔っていたじゃないか。

 だが。初任務に臨むあの時だけは誰にも連絡を取らず、最後まで悩んでもいたはずだ。

 

 直前に"これ"を聞いていたら…………それでも俺は…………?

 

 行ったのか?

 

(行ってたに決まってる。俺は大能力[人狼症候]を過信してた)

 

 ほんのちょっとだけ、考えてしまった。

 実際のところ、あのとき踏みとどまっていたら。

 たとえ皆に落胆されようとも、これほど取り返しのつかないことになるよりマシだったに決まっている。

 もちろん、それでも結局、今と似たような惨状に陥っていた可能性は十分ある。

 アレイスターや幻生が、どのみち俺に無理やり首輪を押し付けた可能性はある

 でも、その"些細な違い"は、胸の内にこびりつく"罪悪感"を幾ばくも和らげてくれていたに違いない。

 

(行ってたさ。"行っていた"って)

 

「いや行ってただろ」

 

 とっさに、衝動的に。振りかぶろうとしていた。

 

 手の中のケータイを思い切り壁に投げつけて、メチャクチャに壊そうとしていて。

 腕を振り上げたまま、景朗の躰も、思考も、事を起こす前に一度、硬直した。

 

「ッ」

 

 おいおい、何を今さら。落ち着けよ。

 心の中でそう唱えるたびに、凶悪な破壊衝動は跡形もなく消え去っていく。

 

「何を今さら。ホルモン過多の思春期高校生かよ」

 

 わざと口に出した。ほら、もう簡単に手の力を緩められる。

 

(今更聞く必要なんてなかったのに)

 

 このメッセージを当時、直接聞いていたら、自分だって火澄に好きだと答えただろう。

 でも、そうしなくて良かったと、今の景朗は心底ほっとした。

 まさにその当時から始まった、自ら為した悪事を少しでも考えてみると、そうしなくて良かったのだと、心から思える。

 

 

「ふっふ、しかしまっさか火澄から先に俺のことを、ねぇ。くく、このメッセージは宝物、になるな…」

 

 唇はそう嘯いた。しかし。

 

 狂おしいほどの熱を持っていた火澄の告白は、胸に深く突き刺さると、凍傷を引き起こすかのように痛んで、ひどく邪魔にも感じてしまっていた。

 "これ"を忘れさってしまえるまでどれほど時間がかかるか見当がつかなくて、それはひどく億劫だった。

 そして己が忘れたがっている事に改めて気づいて、なんじゃそら、と無様さに隣の部屋で寝ているダーシャの存在を忘れかけそうになる。

 

 

 宝物だと自ら口にした癖に、景朗には分っていた。

 

 

 この先、思い出を懐かしむために、自分が再びこのケータイを手に取ることなど無い。

 もう一度、再生ボタンを押す気力なんて無い。

 もう一度、耳にすることを想像するだけで、歯がゆいほどやるせなくなる。

 

 

 ほんの小さなものだったけれど、救いの手は差し伸べられていた気にさせられる。

 それを蹴った自分は、それを蹴って安堵してしまっている自分は。

 そんな"もしも"のことすら考えたくない今の自分は、やっぱり暗部の一員に過ぎない。

 

 

 手纏ちゃんの突然の告白後に、一歩引いた態度で接してきた火澄のことを思い出す。

 あの理由がやっとわかった。

 どこか他人事のような素振りに、景朗は少し寂しさを感じていたのだけれど。

 これでは無理もない。今となっては、お互いに過去の出来事なのだろう。

 

 このケータイの"中身"を蒸し返すことは可能だろうか?

 炎の少女との絆は、完全には途切れていないと感じている。

 だが、繋ぎなおす意義と、資格と、勇気と、未来が、見つけられない……。

 

 

 おもむろに立ち上がって、歩き回る。

 こんなことはこれ以上、考えなくていい。

 

 

 朝が来るまで、まだまだ長い。

 もういつからは覚えてないが、景朗は、夜も、朝も、昼も、眠らなくなっていた。

 景朗の悪事が、"殺し合い"から"殺し"に変わったころからだろうか。

 寝なくても肉体には問題が生じていない。これからもそうはならないだろう。

 

 

 考えるべきことは他にたくさんある。

 木原数多からの呼び出しがないことを祈りつつ、景朗は鼻歌まじりに気分転換に何度目かになる珈琲を淹れた。

 

 それからはひたすら、彼は陰鬱な静寂と向き合うつもりだった。

 

 

 しかし、突如として。

 またしてもそれをぶち壊したのは、皮肉にも散々彼を引っ掻き回したダーリヤだった。

 まったくもって、突如現れた少女は日常を引っ掻きまわす天才だった。

 

 おかげでその夜は、いつもと変わり映えのない、繰り返しのような眠れぬ夜にはならなかった。

 

 景朗にとっては遥か遠くから人の悲鳴が聴こえてくる、うるさくも静かな夜が当たり前の日々だった。

 

 でも、その日は本当に本当に、いつもの夜とは違った。

 

 なんというか、ただただ、うるさい夜だった。

 

 

 時刻は、丑三つ時を過ぎていた。

 少女が寝ているはずの部屋のドアが開いて、ぺたぺた、ぺたぺたという足音が、あちこちを這いずりまわりだしたのだ。

 ――――泣き声とともに。

 

 

 

 

 明かりもつけず、ダーリヤは廊下に立っていた。

 

「マーマァ、どこぉっ?」

 

 急ぎ駆け付けた景朗へと、出会い頭に彼女は問いかけた。

 

「どうした?」

 

 質問を質問で返した彼の問いに、少女は無視をする。

 それどころか、これまで過剰なほど興味を示してきた"ウルフマン"に対し、まるで大きな電柱がそこにあるかの如く、注意を向けてすらこない。

 

「マーマ、どこぉー?」

 

 眠りにつく直前に会話していた男がいるのに、まったく気にも留めてこない。

 ただし、はっきりと景朗の顔は見ている。それでいて誰何してくることもないのだ。

 道端ですれ違う通行人にいちいち注意を向けないような、無頓着さなのだ。

 

「ダーシャ?」

 

 完全に挙動がおかしい。いや、挙動というよりむしろ彼女の意識が、と改めたほうが良いのだろう。彼女の様子は尋常とはいえない。

 

「おいダーシャっ」

 

「ふぃーん、ここどこーぉ?! ひぃーぃう、ふ」

 

 まともな精神状態ではないが声量は意外なほど大きく、それはもう泣き叫んでいる、と呼称するのに遜色はない。

 目元は赤く染まり涙が滲んでいる。

 

「ほらダーシャ、こっちこっち」

 

 当初こそ混乱したが、景朗は少女の状態に心当たりがあった。

 夜驚症(night terror)だ。聖マリア園で、彼は幾度か目にしてきた。

 夜驚症について、景朗は夢遊病の仲間だと思っている。

 夢遊病では、極度のストレス下に置かれている幼い子供が、夜中に半覚醒状態で動き回る。

 朝起きると、当人はそのことを覚えていない。

 夜驚症もよく似ていて、夜中に起きて、怯えて泣き出す。

 

 ダーリヤの年頃では珍しいかもしれないが、直感は揺るがなかった。

 昼間、彼女は男達に襲われ、マーマと暮らしていた家を燃やされ(爆破したのは彼女自身だが)死にそうな目にあった。まさしく極度のストレス状態にあったと言って差し支えないのだ。

 

 優しく労わるようにそっと抱き上げ、イヤイヤと身体を動かし泣き続ける少女のバランスを取って、給湯室へと戻る。

 

「マーマ? マーマ?」

 

「マーマはちょっと出かけてるんだ。寝よ、寝よ、ダーシャ。寝て朝になったらマーマは帰ってきてるさ」

 

 嘘をつくことにチクリと心が痛むが、とりあえず安心させないといけない。

 布団に寝かせようとしたが、ダーリヤはしぶとく、うろちょろと給湯室の中を動き回る。

 何かを探しているのか。

 

「マーマのウシャンカがなぁいっ! どこ? どこぉ? ないっ、ないっ」

 

 ウシャンカ。たれ耳状の耳当てがついたロシア帽。

 彼女がこのことを話すのは出会った時と、洗面台の前でうんちくを聞いた時、そして今この瞬間の、3回目である。

 よほど大切なものだったのだろう。思えば、彼女が昼間襲われたときに、忘れず欠かさず持ち出してきたくらいである。

 

「どんな帽子だ? 色は? 大きさは?」

 

「ふぃひ、ひふぃ、どぉこっ、どこぉ」

 

 ダーリヤはやはり景朗の質問には答えない。

 聴こえてはいるのだが、返事をしなければならないという意識が生じないのだろう。

 

 根気よく、間を開けてでも話しかけつづけた。

 

「ホラ、ウルフマンダゾ」

 

 うなりながら辺りを歩き回っていただけの少女は、変身した景朗へふらりと近づいてきた。

 

 目と目が合った。だが、それだけだった。

 あら、目の前にウルフマンがいるわね。でも今はウルフマンに用事はないの。

 そう言わんばかりの態度だ。

 

 狼男の姿が効かなかったので、景朗は打つ手なしとばかりにダーリヤを抱き上げた。

 そのまま彼女を運びつつ、建物のあちこちに徘徊して、帽子を探す手伝いをしてやるしかなかった。

 

「こげ茶色の、よーろっぱおおかみの毛皮で、このくらいよ、うるふまん、このくらい」

 

 話しかけつづけた景朗に対して、唐突にダーリヤから返事があった。

 歩き始めて数分が経っていた。

 夜驚症はそれほど長くは続かない。10分も経ってはいないだろう。

 

「ダーシャ、とりあえず寝よう。ほらもう眠いだろ?」

 

 少女はようやく"ウルフマン"の存在を認識するようになった。

 こうやって受け答えができるようになれば、症状は終息する。

 景朗はほっとしたように息を吐き、給湯室へと踵を返した。

 もう彼女のぐずり泣きもやんでいる。

 

「ウシャンカ……うるふまん……」

 

 抱っこしてやっていたおかげか少女は落ち着き出すと、とたんに目蓋を重そうにしばたかせ始めた。

 それでもなお、朧げな意識で帽子を探し続けるダーリヤに、景朗はとうとうかける言葉が見つからなかった。

 昼間、"ウルフマン"は適当に探したわけではない。心当たりは全て当たっていた。

 だが、"警備員"の施設にすらなかったのだから、今後、帽子が見つかることはないだろう。

 

 給湯室へ戻ると、少女はテーブルの上に几帳面に置かれた狼男の頭部をぼんやりと見つめた。

 出かける前に少女に被せた、着ぐるみもどきの毛皮である。

 

 いたたまれなくなって、テーブルの上のそれを手に取って、眠りに落ちそうな少女の頭にかぶせた。

 大した抵抗もなく、ダーリヤは再びおとなしく横になってくれた。

 

 オオカミの毛皮の帽子だったらしい。

 無論、その事を意識して彼は狼のかぶりものを作ったが、代わりになるはずもなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ノロノロと起き出したダーリヤの上に、景朗は彼女の服を放り投げた。

 もちろん、夜間に近くのコインランドリーで洗濯してある。

 

「ありがとうルフマンっ。ほらこれ、ブルータイガー、オモンパターン!」

 

「は?」

 

 スモッグは園児が着ているようなイメージがあるが、ダーリヤが手にしたそれは、しっかりとした造りで軍用といった趣である。

 

「ベレスカカモ、アーバンタクティカル」

 

 取り上げていたダーリヤのバックパックを返すと、彼女は期待を込めてまたぞろ謎の呪文を唱えた。

 

「なに? なんなの? ……それよか、朝飯、何が食べたい? といってもその辺で開いてる店でしか買ってけないけど」

 

 う~ん、とほんのわずか考えて、少女はすぐに顔をあげた。

 

「バナナ!」

 

 もっとマシなものを言えよ、と口を開きかけてすぐに取り止める。

 バナナは朝食として定番だろう、と思い直す。

 第一、それで済むなら楽チンだ。

 

 心配してしまったのには訳があった。

 昨日から、食べたいモノを尋ねると先程のような調子で返ってくるのだ。

 飲食そのものに興味がないのか、料理に対する知識が全くないのか、どちらかイマイチわからない返事しかよこさない。

 

「ねえ、うるふまん、ひとつ仕事のお願い聞いてくれない?」

 

「どうしたんだ? トラブルか?」

 

「ううん。個人的な仕事の依頼。ひとり――――消してほしいの」

 

 ゆるやかな笑みに目が吸い寄せられた。そこには、見る限りでは、無邪気さだけがある。

 

「今回の任務に関係あんのか?」

 

「え? "任務"って何の?」

 

「……昨日君を襲った奴らから君を守り通す任務のこと」

 

「あらそうなの。もちろん。カンペキな別件よ。今すぐというわけじゃないわ。都合が悪ければうるふまんの任務が一息ついてからでもいいの」

 

 殺したいほど敵対している相手がいるが、昨日の襲撃犯関係ではない無いのであれば。

 もしかしてスパイ時代からの因縁だろうか。

 いやしかし、それならもっと切実そうな、切羽詰った姿勢で来るべきでなかろうか。

 

 ダーリヤを見る。念願のおもちゃをやっと買ってもらえるようになった。

 そんなときに子供が浮かべそうな、待ち遠しげな表情なのだ。

 

 何となく殺害対象の予想できて、景朗はあまり聞きたくなくなっていた。

 殺し屋をやっているせいで鍛えられてしまった、でも決して鍛えたくは無かった"勘"だった。

 

「ターゲットは身内か?」

 

「うん」

 

 殺してせいせいする奴となれば、彼女の組織内でのトラブルが真っ先に考えられる。

 暗部って、そういう場所だ。話に聞く外の世界のマフィアとそんなに違わないのかもしれない。

 景朗にだって木原数多がいるので、以外でも何でもない。

 あいつはいつかスリ潰してやりたい。

 

「消せってことは、バレずに殺れって?」

 

「イエス、そうよ!」

 

「理由は? 私怨か?」

 

「……うん、でも」

 

「わかった待て、これ以上ターゲットのことは聞きたくない。殺してどんな問題が解決されるのか教えろ。そいつの方が先にお前さんを殺そうと狙ってるなら考えてやる。セルフディフェンスか?」

 

 殺しがワリに合うほどの理由なんて出てこないんだろうな、という直感があった。

 であれば、突っ込んだ話なんてこっちだって聞きたくもない。

 

「うん」

 

 少女の鼻のアナが不自然にぴくぴくしているのを、当然、景朗は見逃さない。

 

「嘘つくな。なら、そいつがお前を殺ろうとしてる証拠を見せろ。だいたい同じ組織なら私闘はタブーだろ普通は」

 

「わたし、計画はきっちり考えてあるわっ! うまくジコに見せかけられるのっ!」

 

「なぁ! 悪いが任務以外で君の私事を手助けする気はないよ」

 

「ちゃんとお礼はするわっ、おねがいよ!」

 

「昨日の夜、蹴られるとか言ってたヤツか?」

 

「わたしはまだ小さいんだから仕方ないわよ!」

 

「なあッ……いいか、俺はお前の復讐には、絶対に、付き合わない。もうお前の知ってるウルフマンじゃないんだ。"殺し"は安請け合いしなくなったんだよ。お前程度が出せる報酬で"殺し"が割に合うことはない。永久にな」

 

 屁理屈だと笑われそうな言い訳だが、景朗にとっては曲げられない宣言だった。

 人殺しは今でもやっているが、それは逆らえない命令としてだ。

 まかり間違っても、今なお"仕事でやっている"わけではない。

 アレイスターから命令達成の支援は受けても、報酬は意地でも受け取っていない。

 

 どうしようもなく逆らえない相手からの命令で、必死に耐えて遂行しているだけなのに。

 自分の意思で人殺しはしていないこと。

 それを誰も信じるわけがないのは、日々実感すらしているところである。

 

「おねがい、殺してくれたら、わたし何でも手伝うわ! おねがい! おねがいよっ!」

 

「だから。悪いけどその提案も魅力無しだ。やる気は起きないね」

 

「どうして? わたしをその辺のこども扱いしないで! きっと役にたってみせるから!」

 

 説教まがいの拒否反応が口から飛び出そうだった。

 だが、そういった種類の建前を口にする資格が、自分には恐るべきほど無さすぎる。

 勢いは全て霧散して、深々と大きく息をつくだけに終わった。

 

「『何でも手伝える』って言ったな? それじゃあ俺がそのターゲットを生け捕りにして攫ってきたら、お前が"とどめ"を刺して後始末までするってんだな?」

 

「ええ! いいっ! いいわっ! それでもいいわ! それでやってくれるならっ! やるっ! やるやる! わたし、殺すわ! ふひゅっ!」

 

 ダーリヤは自らターゲットに手をかける光景を想像したのだろう。

 依頼を拒否された怒りとは別口の興奮に染まっていった。

 年齢に不相当な気持ちの悪い喜色に満ちていた。

 

 これを目にしたら、誰だって簡単に思いつくだろう。

 少女が直面してきた暗部の世界が、その心を歪めてしまったのか、と。

 

 正直なところ、そんなお涙頂戴の感想を抱いて、しかるべき機関に連絡を入れて、はい、それでおしまい、で済ませたかった。

 だが景朗はあいにくと、不幸をタレ流すドキュメンタリー番組を画面越しに眺めていればいいだけの、ごく平凡な一般人の立場にいなかった。

 

 道徳。慈愛。良心。

 

 たとえばそんなモノが、現実的に目の前の少女に必要な概念なのかすら、悩ましいことだった。

 だって、ダーシャは、これからも暗部の世界で生きていく。

 彼女が置かれた立場では、生きている限り足を洗えることもない。

 最初からこの結論が待っている。

 

 ダーシャは"建前"が"建前"に過ぎないという、その実例のなかで育ってきた。

 "他人の犠牲で自分の身を守る"という生存戦略よりも、"ささいな道義心の方を優先しよう"なんて破られ放題の公衆道徳の方を、あっさりと実践してもらえるわけがない。

 残念ながら、暗部の中で身を守るという一点に限って考えれば、不必要だ。

 いや、不必要どころかむしろ足を引っ張る邪魔な考え方だ。

 

 

「まいったな。殺すんですか。わりかし本気みたいだなぁ……。怖くないの、"オペレーターさん"は?」

 

「だからゼッタイにバレないように殺すわ」

 

 物騒なことを口走る少女は、バックパックから取り出した中折れ式の拳銃にスタンシェルを装填しつつ、動作を確認中だった。すっかり様になっている手つきだったが、その銃は無力化用で非殺傷である。聞いた限りではダーリヤがウェットチーム(戦闘要員)に出たことはない。

 

 人を殺すことそのものに恐怖はないのか、と聞いたつもりだった。

 だが、そんな事はそもそも殺してからじゃないとわからないので、聞いても無意味だったことを遅れて悟る。自分だってそうだったのだから。

 

「はは。そうか。俺はな、それがあるんだよ」

 

「"それ"?」

 

「だから、バレたことがあるんだよ。だから身に染みて実感してんの。他人の恨みを肩代わりするなんて、どんだけ対価を積まれようと果たして割に合うのか? ってね。はぁ……。さあ、聞くだけは聞いたぜ。結論、俺はやらない。手伝わない。そこまでやるなら全部自分でやりなさい。以上。さ、諦めてくらさい」

 

「大丈夫よ、あいつは殺しても大丈夫なの。調査済みよ、復讐の可能性はほとんどないわ」

 

「じゃあなおさら自分で後腐れなくサクっとやっちゃいナよ」

 

 景朗は話は終わったとばかりに、中座していた身支度にかかる。

 

「ねえ、なんでっ! さらってきてくれるって言ったじゃない!」

 

「ほら、ダーシャも早く準備して」

 

「どうして? いいじゃない。おねがいウルフマン。必ず対価を支払うわ。殺してようっ! もうっ! なんでダメなの?」

 

 クリスマスプレゼントにお願いしたものとは違うオモチャを買われそうで、必死なの。

 そんな風に子供が諦め悪くねだるかのような、そんな気軽さである。

 

「いいじゃない殺してようぅぅっ! どうして私の頼みだけ聞いてくれないの? 今もいっぱい殺してるんでしょう? おねがいしますっ。殺して、殺して、殺して、殺してくださいっ、殺してくださいっ」

 

 キンキンに高く幼い声で連呼されるのはそれだけで五月蠅いこと、このうえない。

 

「クソガkッ――――ちょっといいかな、ダーリヤ君。……いい加減に迷惑だよ。これからもし、また誰かが襲って来たら、俺が君の代わりにそいつらを殺してやるって状況だぞ。誰を殺すだの殺さないだので、君は文句を言える立場じゃ無い」

 

「それはっ、それはうるふまんの任務でしょう!?」

 

「おいおい、君は任務のためならどんな代償でも受け入れるのかい? それなら君だって任務中に受ける苦痛なんだろうし、甘んじて受け入れなよ」

 

 本当に言いたかったのは全く別のことだったが、偉そうに何を口出しできようか。

 余計なことはできない。しないほうがいい。

 ……しないほうがいい? うん、そうだ。しないほうがいい。

 

(超能力者の暗殺者サマにだって、てめえのことしか気にかける余裕がねえんだよ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 唐突だが、景朗は舎弟としている"人材派遣(マネジメント)"に資金と武力を提供して様々な事業をやらせている。

 その中の一つに貸倉庫がある。ヤクザ的に例えれば、"人材派遣"に貸倉庫業というシノギをヤラせて、景朗がケツ持ちをしている、という塩梅である。

 もともとは大量に食物を必要とする景朗が、街中あちこちに非常食や非合法な器具を安全に保管しておくためにやらせたものだ。

 管理・メンテ・経営はおおよそ人材派遣に任せてあるのでなかなか便利なものだった。

 無論、"人材派遣"側にとっても景朗の武力という破格のセキュリティを得られるので、これまたなかなかの稼ぎらしい。Win-Winの関係といえるのではないだろうか。

 

 上条当麻への張り込み、すなはち第七学区の高校への潜入を機に、学校の敷地の近辺に、いくつか私用の貸倉庫をつくらせていた。

 そのうちのひとつに、バナナを片手に文句を言うダーリヤを押し込み、『今日は半日だから昼に戻る』とどうにか説得し、無事に学校への登校を済ませられたのである。

 彼女が居る貸倉庫は無論のこと、校舎からさほど離れてはいない。

 距離的には、景朗の能力にあかせた力技で異変があればすぐに察知できる。

 その気になれば、教室の中で小萌先生の授業を聞きつつ、倉庫内のダーリヤの鼻息を聴いていられるくらいだった。

 

 とはいえ、新学期の初っ端から欠席をかました土御門の不在、それに加えて、夏休みに出会ったインデックス&姫神秋沙のコスプレコンビが登場した時には、さしもの彼とて一時、気を持って行かれはしたのであるが。

 

 

 

 幸いなことに、始業式はつつがなく終わった。

 終わってくれたのだが、縁起の悪いことに、実は新学期初日の今朝から、学園都市全域で第一級警報(コードレッド)が出ているのである。

 テロリスト侵入の報が公開されており、警備員と風紀委員たちは狩りだされている。

 猟犬部隊の情報網で知り得た限りでは、そのテロリストとダーリヤを襲った集団との関係性はあまり期待できない。テロリストの手口は、彼が相手をした者たちと違い過ぎていた。

 仮に、この一件が少女に関わっていたとしても、既に"表"の執行機関が対処に向かっている。テロの鎮圧後に結果はおのずと懐に入ってくるだろう。

 

 となれば、景朗としては、コードレッドの隙をついて謎の集団が大きく動いてくる可能性をあたりたい。

 今朝のテロ騒動と件の集団が別の組織だと仮定すると、連中にとってもチャンスになる。

 監視対象である上条当麻は、女子を連れ立って遊びに繰り出すとのこと。

 いくらあのアホでも、女連れで無茶はしないはずだ。

 

 そこで次の手として、小萌先生の授業中に、景朗は丹生多気美に連絡を入れていた。

 彼女の都合がついたので、念のためにダーリヤとの顔合わせをさせておくのだ。

 

「ダーシャ、"マーキュリー"のことも覚えてるよな?」

『あの"よわむし"?』

(弱虫?! 第一声で"よわむし"呼ばわり……丹生さん……)

 

 以上が、休み時間における、ダーリヤとのやり取りである。

 "マーキュリー"は、丹生の当時のコールサインだ。

 "ユニット"時代にも丹生とダーリヤはニアミスしていたし、プラチナバーグの元へ加入した後は同僚として最低限の付き合いはあったはずである。

 だがしかし、ダーリヤは丹生のことを良く知っているのに、丹生はダーリヤの素顔すら知らない。

 "もしも"のことを考えて、彼女にダーリヤを紹介しておく。

 とうにお互いの事を知っているのだから、余計なトラブルを考えなくていい。

 

 テロ騒ぎこそあれ、学校は半日で終わったのだ。時間はある。

 ダーリヤを丹生にぱぱっと会わせて、その後、景朗は謎の襲撃者たちの手がかり探しにいけるかと考えていた。

 

 そう、考えていた。少なくとも、そのつもりだったのだ。

 

 校門を出て、もよりのバス停を横切って、貸倉庫へ向かう。

 その途中で、苦虫を噛み潰すような人物と出会わなければ。

 

 最初に嗅ぎ覚えのあるニオイがして、警戒するとほぼ同時に気づかされた。

 既に逃げてもどうにもならない事態に陥っていたのである。

 正面から立ち向かうしかなかった。

 

 "幻想御手(レベルアッパー)"の昏睡から久しく連絡を拒絶していた陽比谷天鼓が、バス亭で"青髪ピアス"を待ち構えていた。

 

 嫌な緊張を切り裂いてくれるような、的確な問いが咄嗟には思い浮かばなかった。

 狼狽えていた。

 なぜなら、こいつは迷いなく"青髪ピアス"としての雨月景朗に挨拶をよこしたのだ。

 この上なく信じがたい。

 今回の接触は、前回のように偶然に遭遇してしまったような不運ではない。

 

 陽比谷は"どうにか"して自分を探り当てたのだ。

 "能力主義(メリトクラート)"の大能力者集団をかき集めて、力ずくで自分の元にたどり着いたとでもいうのか?

 大叔父だという、統括理事会の潮岸に泣きついたのか?

 

 だが、だが、しかし、それでも、アレイスター直属の"猟犬部隊"に隠し遂せて、俺にたどり着いたとでもいうのか?

 

「お茶でもしに行こう。珈琲、好きなんだろ?」

 

 ここまで接近されては、もう武力では解決できない。話を聞かなくてはならない。

 陽比谷には、怒りもなく、敵意もなく。

 ひとまずその場においては、相変わらず見覚えのある興味津々に"輝く眼"を携えて、景朗を誘った。

 

 

 

 

 

 

 

 確かに歩いてすぐの距離にあった。近場だったが、無造作に選んだのではなさそうである。

 陽比谷は、景朗が良く知っている"学舎の園"に隣接するカフェを話し合いの場に選んだ。

 

 そう。ここは、中学時代に火澄や手纏ちゃんと幾度となく語らった、想い出のカフェテラスなのだ。

 言外に、景朗の交友関係すら盾に取れるのだぞ、という脅しなのだろうか。

 

 テラス席のひとつに陣取り、勝手知ったるとばかりに、陽比谷は黙りこくる景朗の分まで注文してしまった。

 

 カフェに来る道さながらに、丹生にはダーリヤを回収してくれるように連絡を送っている。

 大いに迷ったが、他に手が思いつかなかった。正しい判断なのか自信もない。

 ただ、ダーリヤは丹生の顔を知っている。

 ダーリヤが信頼……とまではいかないが、従ってくれるような人物は、丹生以外に候補が無い。

 

 

 

「で。何の用なんだ、俺に?」

「オオ有りだッ、この野郎!」

 

 片手をズボンのポケットに回し、陽比谷は激怒した。

 景朗は目をそらさず、身構える。

 

「天下の往来で人様の顔面晒してなにしてくれとんじゃああああああ!」

 

 ドバン! ポケットに乱暴に丸めて収められていた週刊誌が、テーブルの上に叩きつけられた。

《陽比谷天鼓、回転寿司で250皿完食、フードファイター顔負け!》

 それが記事のタイトル。粗い画質だが、回転寿司店で食事をしている陽比谷青年の写真が掲載されている。客の誰かが撮っていたようだ。

 

(やべえ)

 

 でもこれはきっと小手調べ。

 単なるジャブ。景朗は警戒を引き締め直す。

 

「なにこれ?」

「しらばっくれるな!」

「どんな根拠があるってんですか?」

「逆に僕が間違ってるんなら好きにするといい、ホラ、別の真犯人がいるんなら連れてこいよ。その時はぶち殺せよ、自分(僕)を」

 

 陽比谷はもう完全に景朗の仕業だと決めつけている。片方がツバを飛ばして怒鳴っているのだから悪目立ちしているはずなのだが、客層が上品すぎるのか、チラチラ視線が飛んでくる程度で済んでいて、驚きである。ワリと物騒なことを口走っていると思うのだが。

 

「僕はなあ、自慢じゃないが行ったことがないんだよ回転寿司! 勘違いするなよ、自慢する気はない、今まで機会が無かっただけだ! こんなワケのわからない形で本人より先にデビューしてんじゃねえよ!」

 

 犯人だとあっさりバレたのは大したことではないが、青髪ピアスの中身まで看破された手段と目的は致命的だ。

 ……説明が遅れたが、景朗が陽比谷の外見を使って回転寿司で食事をしたのは事実である。

 しかしモチロン、彼に悪気は……悪気は…………。

 

「しかも女連れでだ! まったくの冤罪で振り回されるこっちの身にもなってみろやあ! 『陽比谷クンそんなに食えるなら食タレできるジャン、なんで教えてくれなかったの?!』ってゲイの社長には説教にかこつけて迫られるし!」

 

「オーライ、そんなことより、本題を……」

 

 陽比谷の収まりきらぬ憤りは、景朗の横槍を素通りしていった。

 

「小食が大食いだと証明するのは簡単さ、目の前で食ってみせればいい。でもその逆は不可能だろぁ?! 一度でも大食いしてみせた奴は、もう二度と小食のフリができないんだよ! 病気にでもならないかぎり誰も信じないだろ! こっちには完全に身に覚えが無いんだ! 必死に否定しまくったら証拠写真を突き付けられて、ボカァ今じゃ事務所ですっかりオオカミ少年あつかいだ!!!」

 

「証拠なんてないんだろ。いいから本題を言えよ」

 

「250皿なんてギ〇スもんの記録、アンタ以外に誰ができるんだこん畜生! みろよこの記事、店長が『100皿……いや150皿近くはなぜかイカでしたね。イカとかタコばっかり食べてました。バイトの女の子が途中からメモしてたんで間違いありません。イカなんてネタが切れちゃうまで爆食いされてましたよ。だから途中からタコになりましたけど』だとよ。なあ、なぜイカなんだ?! な・ん・で・イ・カ・なんだよッ!」

 

「だから……たべて、ますん」

 

「今じゃネットでアンチが『陽比谷氏、どう考えてもイカ臭いw』って叩きまくってお祭り騒ぎだよ!

僕の気持ちがわかるか? まさかネットで叩かれてるんじゃないかと思って検索しようとしたら、もうその時点で検索候補に《陽比谷 いか 臭い》って出てきやがったんだゾ?! なんとかしろよ!」

 

「そんなことどうしようもないだろ!」

 

 口応えした景朗を睨む陽比谷の眼は尋常じゃないギラつきようで、ヤバいくらに光り輝いている。

 窮地に陥っているというのに、自分のしでかした不始末が原因でどうにも相手ペースになってしまう。まずい事態だ。色々と。

 

「だから、本題を言えよ! んなしょうもない事を詰め寄りに来たんじゃないんだろ!?」

 

「う、うふ、うっふっふっふっふふふふふふふ!」

 

 キレすぎて陽比谷が笑いだした。もはや荒事は避けられないかもしれない。

 奇妙な空気感だからといって、正体がバレている以上、決着を付けないといけない。それを忘れてはいけないのだ。

 

「もともとモデル事務所に入ったのは母が経費扱いで僕に色々と干渉するためだった! レベルアッパーのせいでラジオデビューも逃したし。それでもなぁ……ッ!」

 

「わかった! いったん謝る! だから早く要求を言ってくれ! もう寿司ネタの話はヤメロ!」

 

 景朗が自らの非を認めたその瞬間。対面する男から、キラリ、と眼光が煌めいた気がした。

 

「うっ。うふ。フフ、フア~ッアハハハハハッ! 認めたわね、"うげつかげろう"」

 

 本名まで調べられている。

 カチンコチンに固まった景朗をみて、陽比谷は女のように高笑う。

 状況がどこまで酷いのか、もう想像もつかない。

 

「なぜ"イカ"なのぉ? あは。あんなに食べたのに、なぜイカとタコばっかりなのよ。ふっふふ、板前さんに面白おかしく言われて当然じゃない。はやく、神妙に白状なさい!」

 

 もはや、突然オネエ言葉になった陽比谷に対し、ツッコム余裕すらない。

 陽比谷はなぜそんなにイカのくだりにこだわるのだろう。

 面白おかしそうに、突然乗り移られたかのような女クサイ仕草で腹を抱えてニヤついている。

 もうほんっとに気持ちの悪いヤツだが、妙な緊張感でそれどころではない。

 

「イカが……その……プロテインが、生物価が豊富で……魚は普段、市場でブロック買いしてて…………あ?」

 

 まるで中身が女に入れ替わったような?

 

「あッ! あ…………あ…………おまえッ、食蜂操祈!」

 

「気づくのおっそーいんだゾ、おっかしー! おっひさー☆ケルベロスさん」

 

 憎たらしい陽比谷の顔面に思いっきり右ストレートを入れるところを妄想したが、今、その中身は女子中学生である。

 陽比谷の身体だし殴っていいだろ、いやこの女は敵にするのはまずい、一応女だし、というか。

 

 だったら本名知られてておかしくないってか、これまでの正体バレうんぬんで焦ったのが全部取り越し苦労ってことになるじゃないか。

 景朗の秘密をこの少女はもとから知っているのだ。

 大方、陽比谷が景朗を血眼で探し回っているのを発見し、イタズラに使えるとみて利用したのだろう。

 

 かくして。よかった~~~という渾身の安堵感で、陽比谷青年の顔面は変形せずに済んだのである。

 

「死ねよ。……死んでください。死んでください、クソ中学生」

 

「どうして250皿も食べたのにイカばっかり食べたんですかぁ? そんなにイカが好きだったっけぇ~? カワイソ~、この人、ネットで『イカ臭そう』って叩かれてるんだゾ☆」

 

「知らなかったんだよ。人間は普段200皿もお寿司を食べられないんだ。俺も……初めて行ったんだよ……回転寿司……」

 

 夏休みのとある一日。丹生と一緒に回転寿司に行った。

 いつもはレストランで満足するまで注文すると周囲に白い眼で見られるので、セーブしているのであるが。

 『回転寿司ってどんだけ大量にドカ食いしても一般客には不審に思われない』という事実に驚愕した景朗は大いにテンションを爆アゲさせてしまったのだ。

 

 栄養摂取じゃ! と高たんぱくで邪魔な糖質の少ないイカやタコがねらい目だった。

 まぐろのように人気があるわけでもないし、思う存分食わしてくれや!

 そりゃあまあ、ウン百皿も食うのにちまちまネタの種類を分けて頼むのはめんどくさかったから、不精にもまとめて注文したことは認めよう。

 ただまあやっぱり、イカに続いてタコもドカ食いしてネタ切れにまで追い込んだ景朗は案の定、店員に不信がられた。

 アドバイスをまるで聞き入れなかったせいか丹生にも恥ずかしがられ見捨てられそうになって、後始末を押し付けるのに便利そうな"あの少年"を思い出し、結局景朗は"その顔"でお会計まで済ませることにしたのである。

 

「マーダー☆ウィル☆アウトッ (悪事は必ずばれる)!」

 

 ケタケタと少女めいた笑いを見せる陽比谷(食蜂)の仕草がキモく、何より憎らしい。

 その諺は景朗の状況に刺さり過ぎてて全く笑えないではないか。

 

 

 

 

 

『最後に幻生と直接会ったのは"いつ"?』

 

 それが、食蜂が最初に放った質問だった。

 その後は軽快に回していた舌を止め、景朗を差すように見つめて、ひたすら押し黙った。

 答えなければなにも始まらない。

 いや、始める気はない、という確固とした意志が感じられた。

 

「……ツリーダイアグラムが壊れた日だ」

 

 景朗が最後に幻生と会った日だ。それ以降は連絡も取っていない。

 幻生の方からも、連絡は一切来ていない。

 景朗は連絡が来ないことを嬉しがっていたくらいだ。

 だが、実のところ、嬉しがっている場合ではなかったのだろう。

 

 幻生が顔を出さなくなったのは、景朗から食蜂の影を察していたからだろうか?

 

 本音は胸にしまうしかない。幻生にも、食蜂にも、敵対したくなんてない。

 景朗の"やわらかい弱点"に、2人とも手を伸ばせるのだから。

 

 景朗の返事に、食蜂は納得した様子を見せた。

 彼の嫌な予感はここにきて、最大限に極まっていた。

 

 食蜂は陽比谷の顔で、茶化すように宣言した。その眼は笑ってはいなかった。

 柔らかな笑みだったが、"威嚇"としてしか機能しない性質のものである。

 

「あの枯れた老いぼれを裏切りなさい。失敗すればあなたの"仲間"は永遠に失われるわぁ☆

 もちろん私になにかあれば、"彼女たち"も無事ではすまない」

 

 幻生を"裏切れ"とはどういうことだろう。裏切っているかと言われれば、すでにある程度は幻生を裏切っている。景朗からだとバレないような性質の、奴の情報をリークしたこともある。

 

 景朗は食蜂に暗部の情報をリークする。食蜂は景朗の"仲間"の異変を知らせる。

 以前からそういう"約束"をしている。

 無論、アレイスター関連は教えられない。

 食蜂は青髪ピアスが上条の側に居ることについて言及し、上条関連についてもしつこく尋ねてきた。

 偶然だが、上条については景朗も食蜂以上の情報は知らなかった。

 そう伝えると、ひとまず食蜂も納得はしてくれていた。

 

 その約束が、ここに来て。

 

「"約束"を変えてくるのか。一方的だな?」

 

「モチロンよ。貴方と永遠の契りを結んだ気はないもの。

 ごめんなさい。今回のお話は、これまでとはすこぉし違うのよ。

 貴方は私に言ったわ。守るべきものの為ならば、一切引くことはできないって。

 そう。今回は私もなのよ。あなたが相手でも一切引くことはないの。

 

 だから、しばらくわたしのワンちゃんになってほしいナ☆」

 

 食蜂は木原幻生と本格的に敵対するつもりか?

 幻生との間にどんなトラブルが?

 具体的にその内容を知らなければならない。

 

「ねえ、私と貴方が組めば、ちょっとした以上に快適な生活が送れるとは思わなあい?

 わたしたちはお互いに欠けているモノを補完しあえるはずだもの」

 

「あいつと何があった? どうせ能力でこの場のセキュリティは確保してるんだろ?」

 

「"妹たち"」

 

「あ? それがどうしたんだ?」

 

 なぜ、食蜂がミサカクローンに固執するのか。

 

「私が守る」

 

 頑なさが、言葉の少なさに表れていた。

 

(ミサカクローンズを守るのが、目的だと? 幻生がシスターズを狙ってるのか??)

 

「ご心配なく。もうしばらくだけ悩ませてあげる。こうして、"イエスかノーをせまる"なんてお遊びも、久しぶりで新鮮だものねぇ。でも。

勘違いしないでね。これは私の優しさだゾ。

この場は、この場だけは、待つのも一興ってことにしといてあげる☆

もう一度言うわ。わたしなら貴方の事情を"全て"汲んであげられる。お忘れなく」

 

 食蜂と幻生。どちらに味方すればいい。幻生にも連絡を取りたいが、果たして取れるか?

 幻生が景朗と食蜂の関係に気づいていたら、幻生にコンタクトを取っても無視される可能性がある。

 

(そうか……思い返せば、幻生は別れ際に、"実験の邪魔をするな"と言っていた。あれは、食蜂との関係を知っていて、俺に警告していたってことか?)

 

「迷っている……いいえ、悩んでいるってとこね。ふふ、相談にならのってあげるゾ☆」

 

(けれど、上条が"絶対能力進化計画"をぶち壊したのは、8月21日。だから、七月末のあの時点では、幻生は"ミサカクローンズ"に手を出そうとはしていなかったはずだ。つまり、あの時、幻生は実験にミサカクローンは使わないつもりだった。ならば、あの時点では、食蜂を危険視していた可能性は低い。でも、それなら、今、食蜂と幻生がミサカクローンズを巡って争う理由は?)

 

「……説明しろよ。どうして"妹達"をお前なんかが守ろうとする?」

 

(食蜂が嘘をついていて、ミサカクローンではなく"別の理由"で幻生と争っているなら。幻生は食蜂と俺の関係を見抜き、警告していた可能性がある。その場合、食蜂に味方すれば簡単に俺の裏切りが幻生にバレる)

 

「"友達"だから」

 

 いけしゃあしゃあとその言葉を口にした、その相手に、景朗は氷のような殺意を胸に秘めた。

 

「そうだったか?」

 

 皮肉げに牙を剥き突っかかる景朗に、食蜂は表情を動かさない。

(やっぱり、食蜂が、ミサカクローンズを命懸けで守るとは、思えない……)

 

「認めるわ。"向こう"はそう思っていないでしょうね」

 

(何なんだ、"そんな理由"で俺を説得できるわけないだろ?

 だいたい、今このタイミングで幻生を裏切れるか?

 丹生はどうする? 上条を当てにする? 上手くいく保証がない。

 幻生だ……体晶を造ったのは幻生だ。

 奴にその気があるのかはともかく、奴以上にその道のエキスパートはいない。代えはきかない……。

 まずい。まずい。まだ幻生を失う訳にはいかない。

 ああでも! 食蜂がその気になっている以上、協力すら断れば、たった今からでも、この場でこいつに先手を打たれちまう!

 陽比谷を寄越して、食蜂本人が出向かなかったのも、俺にこの場で殺されないためだ。

 

 そもそもが食蜂と俺が組んだところで幻生を抑えらえるか?

 食蜂が、学園都市上層部の幻生を相手に勝利するってのか?

 不利だから俺を味方に引きずり込みたいだけだろうが!

 

 ……殺す。

 なんとかこの女の裏をかいくぐって、殺す。其れまでは、言う事を聞いておくしかない。

 食蜂に緊迫した雰囲気はない。本人が言ったように俺を待つくらいの時間はあるみたいだ。

 万が一の話になるが。

 幻生が負けでもしたら、ヤツを食蜂の能力で操らせることができる。

 でもその後、用が済めば、きっと食蜂は幻生殺しを俺に押し付ける。

 クッソ! クソが! クソクソクソが! 最終的には、どちらかを殺さなきゃならないのか!)

 

 

「わかった。やるよ」

 

 静かに、景朗は返事をした。ひとまず、協力をするフリを示しておく。

 

「ふふふ。ヘタクソなウソねぇ。それくらい能力使わなくったってわかっちゃうわよ」

 

 少女の乗り移った陽比谷は、まるで同情するように苦しげな表情だった。

 

「困ってるわねぇ。ごめんなさぁい。今までのはぜ☆ん☆ぶ、じょーだん☆」

 

 残念そうに、食蜂は切り捨てる。

 

「それに駆け引きもニガテなのね。そこまで時間をかけちゃったらまるわかりでしょう。貴方が私と幻生を天秤にかけて、そこまで葛藤したのなら、結論は絞られる。

意外ねぇ。"即断即決"。これが"わたしたちの住んでいる世界"の残酷なルールでしょう?」

 

 忸怩たる思いで、景朗は悟った。

 景朗が迷ったのを見て、食蜂は協力関係から、脅迫関係に切り替えたのだ、と。

 

「はぁ。……まったく。この程度の脅迫で動揺するだなんて、ほんっとに頼りないわねぇ? 

 

 お互いに"超能力者"である以上。 

 

 私には捨身の貴方を食いとめられる防衛力はないし。

 貴方には、多角的に展開した私に対する掣肘力がない。

 

 お互いにこれ以上立ち位置を変えられないというのなら、仲良く二人三脚するしかないでしょう?」

 

「……どうしてそんな芝居をする必要がある? 俺は捨身にならなければ一歩も動けないのに、君は少しのリスクで俺にダンスさせられる。わざわざ何を言いに来たんだよ?」

 

(食蜂は一方的に俺の"秘密"を握っていた。なのにタダ同然で俺の前に名乗り出た……その狙いがわからない)

 

「貴方の立場では、幻生に従うほかはない。でも、それを承知で言うわ。

"このままだとあなたはあのお爺さんに永遠に弄ばれ続けるだけ"

 

大切な人の命を助けたいと思う気持ちは……どうしても捨てられないもの。

いいえ、捨てずに抱いて死ぬべき宝物よ。だから、私は貴方を躍らせたいの。

 

あなたは、勘違いしているわ。

人は誰しも、他人の命に、全ての責任を負うことはできない。

わたしたちは神様にはなれない。

残念ながら、あなたがどれほど命を削ろうと、他人の人生を背負いきることはできない」

 

 食蜂の言葉を否定はしない。

 力と権力、その両方をもった悪人から、他人を守り切る。

 計り知れない難しさがある。

 でも、背負いきれないなんて言い訳で、アレイスターや幻生、そして食蜂、お前に"あの人たち"を好き勝手させてたまるか。

 

「ふふ。当然ね、わたし程度の言葉ではあなたの"心"は動かない。

それなら、"彼女"の言葉ならどうなのかしらねぇ?」

 

 火澄たちに、本当のことを言って、仲間に引き入れろ?

 馬鹿な事を。それは景朗が最も恐れていることでもある。

 

「あなたは直接、彼女の意志を確かめたことはあるの?

私が身勝手だと思うのならば、貴方自身も身勝手だと知りなさい。

私の傲慢さもあなたの臆病さも。

人の意志をないがしろにしているという点では等しいのよ。

同じく女の子としての身の上から言わせてもらえば、あなたは真実を伝えて、当事者の気持ちをもっと尊重するべきよ」

 

 それを陽比谷の身体を使って言っているのは、何かのギャグなのか?

 景朗は食蜂入りのこの男を殴りつけることを、もう一度真剣に考え始めている。

 

「貴方は手を取り合う道を真っ先に切り捨てている。

レベル5の苦労がレべル4にはわからない?

それならあなたは、レベル5になれないレベル4の覚悟をどれほど汲んであげられているの?」

 

「人の心を駅のロッカーみたく無造作に開け閉めするお前が言うか? 笑わせるなよ」

 

「心を読んだ人間には、最後まで責任を持つ。

越権行為は覚悟の上、私は私の良心に従って最良の結末を諦めない。

そのために最後まで戦い貫き通す。

その業を背負う意志がなければ、わたしには力を使う資格がない。

 

あなたには守る意志があっても、私のように戦う意志がないようね。

 

ええ、確かにあなたは、戦えば死ぬ。でも、戦わなければ、先に心が死ぬわ。

"不老不死(フェニックス)"。あなたは不老不死なのでしょう?

だったら、心を生かしなさい」

 

「……うるさい」

 

「あら、そうだ。ついでに教えておこうかしらぁ。大能力者の覚悟、についてだけど。

 この人(陽比谷)をここまで連れて来たのは、貴方をからかうためだけじゃないの。

 彼の妹のためなのよ。

 私の後輩、常盤台中学校1年生、陽比谷南天(ひびや なんてん)は恐らく生まれると同時に陽比谷家の養女になった。だから彼女には血のつながらない兄がいる。

 兄の名は、陽比谷天鼓。

 潮岸の性を捨てさせて嫁を貰った陽比谷氏は、どうしても自分の血縁で"手柄(超能力者)"を立てたかった。

 幼い南天ちゃんが大能力を発現すると、それをなぜか見越していた父親は、兄妹にいずれ結婚するよう厳命した。養女から嫁養子になるわけね。

 

 結婚がいやなら、陽比谷少年は自ら超能力者になるしかなかった。

 妹を兄として愛していた低能力者は、死にもの狂いで大能力者になった。

 兄を助けたい妹は常盤台までたどり着いた。

 

 そこから先の彼の悪あがきは、貴方も知っている。

 貴方は私が知る内で唯一、他人の能力強度に干渉できる可能性がある。」

 

「そんなことはどうでもいい! んなこと知ったことか!」

 

「わたしは、心を読んだ人間の面倒は最後まで見る。"先輩(仄暗火澄)"然り。……そこに、貴方も含まれていると思う?」

 

「何が言いたいんだ」

 

 幻生と食蜂が戦うのなら、景朗は最後までコウモリに徹して、勝ちそうな方に着く。そう決めた。

 なんと罵られようと、景朗はどちらかを選択する。

 つまり、食蜂の負けが決っしそうになったら。

 奴に彼女の首を差し出す覚悟だった。

 そんな相手に対して、なんという綺麗事を吹かすのだろうか、この中学二年生は。

 

 食蜂は、幻生との争いを冗談だと言った。

 だが語っていた内容は、とても冗談だとは思えない。

 何時だって起こり得る未来である。

 ならば、これは、食蜂の善意なのか? 彼女の良心なのか?

 火澄のために俺を? 陽比谷のために俺に?

 俺のために、何かをする?

 

 阿保か? お前のメリットはどこにある?

 

 疑ぐり深い景朗に対して、やれやれ、と大げさに腕をあげ、食蜂は急に口調を元に戻した。

 陽比谷青年のものへ。

 それは長く続いたこの会話の、締めくくりを意図しているのだろう。

 

「ヤツ(幻生)には従ってるフリを続けてほしい。

決して悪いようにはしない。そして、今まで通りに過ごしていてくれればいい」

「……探せとは言わないんだな?」

「普段の君は、自分から積極的にヤツに連絡を取っていたのか?」

「いやまったく」

「それなら君から動いちゃダメだろう。相手から君にコンタクトを取らせろ。それまで動く必要もない。可能性は高くはないが、ヤツが君にコンタクトしくればつけ込む隙になる。

それまでじっと耐えてくれ☆ 得意だろ? そういうの☆」

「……それだけか?」

「ああ。お忙しいところ失礼した」

 

 

 ここに来て再びの、幻生裏切れ発言。

 結局、冗談じゃないっぽいんだが。

 ホントにこの女子中学生との会話はキライである。

 たちが悪すぎる。

 

「待て。俺からもひとつだけいいか?」

「何だい?」

「シリアスな話をするときは、次からはお願いだから野郎じゃなくて女の子で来てください……お願いします……」

 

 確かに、陽比谷にイジワルをした自分も悪い。

 それでも、思いっきりナヨナヨと話す男子高校生の女言葉を、こんな真面目くさった心境で聞き続けなければならなかった景朗の心労も、少しは考慮してほしい。

 

(というか迷惑かけたのは陽比谷だけだろ、クソ蜂に対しては何もしていないだろ!)

 

 もう一度言うが、食蜂なんて嫌いだ。

 景朗はここまで巨乳美少女を嫌いになる日が来るとは、正直、思わなかった。

 

「うふ☆ ちょっと人選ミスだったカナ☆ 認めてあげる☆」

 

 シナをつくって、イケメン男子高校生はキラッ☆とウインクを投げかける。

 

「やめてくれよ……"ちょっと"じゃないだろ……」

 

「わあっ! 僕に何した?!」

 

 ウインク状態から逃げる様に、突然の洗脳解除である。

 なるほど、陽比谷の瞳から輝きが消えている。

 パニック状態の陽比谷青年は、テーブルの対面に座る大男を見つけると、じわじわと状況を察していった。

 景朗はとっくに彼が見覚えのある姿に変身し直していたので、気づいてくれたようだ。

 何らかの能力を使われて、この場所に拉致られてきたのだと、当たりは付いているらしい。

 

「……超能力者は、悪ふざけも笑えないね」

 

 怯える様に、真剣にこちらの様子をうかがって来る男子高校生が、なぜだろう、一瞬、愛らしく映ってしまった。そんな自分を景朗は呪いたくなった。

 

 意識が戻ったばかりのセリフにしては落ち着いている。

 しかしさすがに、緊張気味にあちこちに視線を走らせ、いつもの軽い口ぶりは鳴りをひそめてしまっていた。

 

「僕に何をした?」

 

 テラス席にて一対一。こちらだって巻き込まれただけなのだから。

 『"俺は"何もしてない』と言いかけ、途中でめんどくさくなって、景朗は一切手を付けていなかった珈琲で、余韻たっぷりに舌を潤わせた。

 

(俺を気味悪がってる。笑える)

 

「ここは、どこだよここは?」

「で? 何の用なんだ? 俺に用があったんだろう? 話せよ、聞いてやるからさ」

「……そのとおりだ。ああ、言わせてもらおうじゃないか。てめえ! 勝手に人様に化けて好き放題してくれてるな! 見ろ! この回転寿司屋の記事をッ!」

 

「……もうその話はいいんじゃああああああああああああああああああああっ!!」

 

 ぼしいっ、と景朗の左掌底フックが、陽比谷の顎に炸裂した。

 

「はぐあぁっ! なぜだぁあっ?!」

 

 がらがらがっしゃぁぁんと盛大に音を立てて、青年は椅子ごと転がった。

 周囲の女子生徒たちの話声がぴたりと鳴りやんで、すっかり衆目が集まってしまった。

 食蜂の洗脳が解けてしまっているのだ。

 

「あっ、そうか。ここではもう内緒話ができないね……」

 

 

 

 




※夜驚症について


わたしは専門家ではありませんので、夜驚症についてWikiをかじり、動画をいくつか見て参考にした程度で描写しています。

実際の夜驚症とは相違点があると思います。
お詫び申し上げます。

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