とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

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extraEp03:禁書目録(インデックス)

 

 

 

 

(よく来たな、時間通り。目覚めてまっすぐ寄り道せずに来てくれました、と)

 

 日曜日の早朝。第十学区の一等寂れた住宅街の隅に、生ゴミ臭い陽比谷が顔を出した。

 

 住宅街と言っても、あちこちに第十学区ならではの歪な光景が広がっている。

 

 居住用に改良されたコンテナが学園都市製の頑丈なワイヤロープでビルとビルの間にぶら下がっていたり、キャンピングカーが何故か建物の屋上にどでんと乗っかっていたりする。

 よくあるコンテナ港にも見えるため、原住民からは『ドライポート(海無し港)』なんて呼ばれている。もともとDry Portは陸上港を意味する言葉なので、その筋の方にはややこしい名称である。

 

 

 濃厚なゴミの臭いが染み付いた、レーシングスーツもどきの格好の男。

 第七学区ではひたすら嫌悪されるだけの服装だったが、"第十学区"は一味違った。

 

 『おい兄ちゃん、高そうなスーツ着てんな。ワシのジャージと交換してくれんか?』と陽比谷は早速、絡まれ始めていた。第十学区では、金の匂いを嗅ぎ分けることにかけては"三頭猟犬"を凌駕する超人どもがウジャウジャとその辺を歩いているので、ある意味しかたがない。

 

 勝手がわからなかったのか、諦めたのか。陽比谷は強烈な爆風でスキルアウト数人をひといきになぎ払った。

 額に一本の筋を浮かべ、苛立ちを隠せずに待ち人の姿を探している。

 

(ああ、あいつもうダメだ。助けてやらないと……)

 

 何事も、真っ先に暴力に訴えてばかりでは解決しない。

 陽比谷のしでかした行為は、スズメバチの巣に壊れない程度に優しく衝撃を与えるが如き愚行だった。

 直にわらわらとスキルアウトに群がられて、彼は囲まれるだろう。

 巣に入り込んだスズメバチをニホンミツバチが包み込んで蒸し上げるように……。

 おや? それではどちらがスズメバチだかわからない。

 

 

 一体どちらがスズメバチなのか区別がつかなくなってしまう、その前に。

 景朗は後ろからこっそり近づいて陽比谷の襟首を思いっきり掴み、傍のビル屋上へと遠慮なく跳躍してみせた。

 

「おわあああああああっ!!」

 

 叫ぶ少年を着地地点へ放って、景朗は無表情のままに吐き捨てた。

 

「ピーピーうるせえなぁ」

 

 咳き込みつつも少年は下手人を見上げ、苦しそうに言葉を絞りだした。

 

「ごほっ、ごほ。キ、キミだろ? こんな真似するのはキミだろっ?」

 

「おお正解。賢いね。ていうかちょっとなあ。シャワーくらい浴びて来てよかったのに……クサッ」

 

 今度ばかりは、相手も怒りを我慢できなかったらしい。

 

「全部テメエがやらかした事だろうがッ!! 随分とやってくれたなッ、何がしたいんだッ!!」

 

 いきり立つ青年の肌からは、バチバチと線香花火が燃えるような淡い火花が飛び散っている。

 

「いやいや、約束を守ってもらえるか心配だったからさ。だから"ずっと"見させてもらってたんだよ」

 

「『ずっと』? どういうことだ?」

 

「だから、第七学区のゴミ箱でお前さんが目を覚ましてからここに来るまで。ずーっと近くで監視させてもらっていた」

 

「……なんっ……」

 

 景朗の発言に、さしもの"能力主義"の少年も怯みをみせた。言いよどんだその仕草に、恐れが垣間見えている。

 

「ちゃんとひとりで来たみたいだな。なかなか肝が据わってる。すこし見直したよ。あー、でも、やっぱり賢いってのは撤回だ。マジで頭良かったなら、俺んとこにひとりでノコノコ来やしないし」

 

「キミ、イカレてるぞ……」

 

「ははっ。知らないのか? 超能力者はみーんなどっかイカレてるらしいぜ? いちいち気にしてんなよ。心配するな、お前は約束を守った。俺も約束を守ろう。さあ、移動するぞ」

 

「……やっぱり、目的地はここじゃないんだな」

 

「当然だろ。俺の"巣"に来てもらう。お前は"恐竜(ダイナソー)"の鼻先に小便を引っ掛けたんだ。見逃してもらいたいなら、それなりにやるべきことがあるんだぞ? ……でもまあ、勇気は買おう。痛い目にあいたくないなら、今が最後のチャンスだ」

 

 セリフの通りに、景朗は細心の注意を払って、陽比谷の動きを監視した。

 その間、目の前の少年に怪しい素振りは一切なかった。

 驚愕とともに目覚めると、彼は悪臭を身にまとわせたまま、あくせくと"先祖返り"との約束を守るために馳せ参じてくれたのだ。

 

 ここまで来て尻尾を出さずに帰るというのなら、景朗としてもそれ以上は追求しない方針だった。

 

「良いのか? そんなホイホイついてきて」

 

 発火能力者の口元はほぐれていたが、目元には歪なひきつりがあった。それでも、少年は得体の知れないLv5の背中を追ってくる。景朗に対して、よほどの執着があるらしい。

 

「こんな事初めてだけどいいんだ……。僕、キミみたいなヤツ好きだぜ……」

 

「……」

 

「彼――――ちょっとワルっぽい"超能力者"で、"先祖返り(ダイナソー)"と名乗った。第十学区も住み慣れているらしく――――あー。いいかな恐竜さん。すこしばかり準備させてもらってもいいかな?プレーには色々と道具が必要なんだ」

 

 ピタリ、と2人の足が止まった。

 

「いい加減にしろ」

 

 鍛えようにも鍛えきれない、精神の脆弱な部分を突かれたような疲れた顔つきで、景朗はそう口にした。

 

「言葉選んでくれない? マジで流れが危なくなってきたから。急に気分悪くなってきたから。なんか気分的に嫌だから」

 

 げんりとした表情で、一息に言い切った。

 陽比谷はしてやったり、と愉快そうに哂っている。

 

「ハッハ、なんだよ過敏に反応しやがって。もしかしてD○UTEIか?」

 

 その伏せ字のやり方は明らかに失敗だ。結局、問題なく読めるではないか。

 

「――――いい度胸だな。ホイホイついてきやがって」

 

「スルーか。最初からやり直しかい。もしや図星だったかな?」

 

「お前ホントいい度胸してんな。俺が笑ってみせてんのは、いつでも手を下せるからだぞ? くだらない話をするなよ、後悔するぞ」

 

 これではどちらがイカレているのかわかったものではない。

 緊張感ってものがないのだろうか、この男。

 まったくもって信じられないようなタイミングで、ちょくちょく下ネタをぶっ込んでくる癖がある。

 真剣に対応に困っていた。

 

 

「童貞には冗談も通じないから仕方がないか。実のところ、君のふざけたスケジュールのせいでレベルアッパーくらいしか準備できてないんだ。もうすこし"装備"を整えさせて貰えないかい? でないと意味がないんだよね」

 

「……なんだその言い方。もしかしてレベルアッパーを使ったとでも?」

 

「はッ! もちろん使ってきたさ。正確には聴いてきたってとこだけど、おかげで今朝から最高の調子だ!」

 

「はあ? バカ言うな。……え? ひょっとしてマジで使ったのか? 本当に"聴いた"のか??」

 

「ああ、聴いたが? 案外短かかったね。なんだい? 何か問題でも? あんな醜態をさらした以上、僕だって簡単には引き下がれ――」

 

「おい!? 本当に使ったのか? 嘘じゃねえだろうな!? 今すぐここで"使って"もらうからな? いいのか?」

 

 尋常ではない食いつきようの"超能力者"に、相手もたたらを踏んでいた。

 

(こいつ、電車の中で聞いてたのか)

 

「な、なんだ君は。使ったって言ってるだろう」

 

「――――くそ。オラッ、受け取れ」

 

 景朗はポケットから端末とイヤフォンを取り出して少年に渡し、そして。

 

「聴いてもらおう。今ここで。早くしろ」

 

「ほんっとうにめちゃくちゃだな、"先祖返り"。いいとも、聴いてやるよ! でも後で必ず特訓に付き合ってもらうぞ? きっちりと!」

 

 そう言いつつも、手にとったケータイを眺めると、鼻で息をつく。思案顔のまま、皮肉げに突っ返してきた。

 

「いらない。自前のがある」

 

「信用できない。俺のヤツで聴け。いいから早くしろ。……いや、やっぱり……。そうだ、やめるなら今のうちだぞ? 今なら特別に――」

 

 

「はッ! もう聴いたんだ、今更何も変わらないと思うぞ。まあでも物は試しに2度聴いてみよう。もっと効果が……あるかはわからないが」

 

 それでも陽比谷はしぶしぶと耳にイヤフォンをはめて、再生ボタンを押した。

 互いに無言のまま、おおよそ五分ほどその場に立ち尽くしたのだろうか。

 

「さあ、聴いたぞ」

 

 手持ち無沙汰にも程がある。そんな顔つきをしていた少年が、荒々しくイヤフォンを外す。

 

 

 その一方で。トゲトゲしい空気感を醸し出す事すら忘れて、景朗はツッコミを入れずにはいられなかった。

 

 

 

「……今、はっきりとわかった…………お前、バカなんだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 レベルアッパーが学生の界隈に広がり、暗部の業界まで流れ込んで、既に10日以上が経過している。そのさなかでポツポツと、とある報告が上がり始めていた。

 

 今では暗部の上層部では、完全に周知の事実となっている。

 

『"幻想御手"を使用した人物は遅かれ早かれ原因不明の副作用で意識を失い、ぞくぞくと昏睡状態に陥っている』

 

 "幻想御手"による、副作用。あまりに簡単に予想されていた出来事だ。

 

 命を切った張ったする暗部のエージェントですら、端からそれを疑って服用を控えていたほどだ。

 当然だ。原理すらわからぬまま、ひとつふたつもレベルが上昇する秘薬なのだ。

 副作用が有るに決まっている。

 おまけに、暗部の情報網でも未だに"出自"が判明していない"いわくつき"だ。

 

 

 

 

「いつまでここに居る気だ? さあ、早くしようじゃないか。君なんかにはわからないだろうけどね、僕は何が何でもLv5にならないといけないんだ……一刻も早くッ!」

 

「いや、それはいいけどお前。もうすぐ死ぬぞ」

 

「……はあ?」

 

 整った顔つきが、今ではただのマヌケ面に見えて仕方がない。

 

(ったく、ありえねえ……。こんなマヌケ野郎が"裏"を"使ったり"、"使われたり"? ありえねーよな……ほぼ100%"シロ"だ、この野郎は……)

 

 

 

 真実を教えてやると、陽比谷は途端に青ざめてぐったりとうな垂れた。

 まだ死にたくない、と怯える少年をなだめすかしつつ、時には恫喝して、叩くだけ叩いてみたが。

 それでも"ほこり"は一切出てこなかった。

 

 陽比谷という少年は『潮岸』に近しい身内でありながら、暗部にはあまり関わっていない潔白なところがあるようだ。

 

 "先祖返り(ダイナソー)"を知った理由も、軍事産業に明るい大叔父(潮岸)の伝手を使っただけだったと説明を受けた。

 

 ある程度、『潮岸』から情報が漏れるのはしょうがないことだ。彼が担っている軍事産業の裾野は広い。"先祖返り"関連の研究はそのド本命である。

 

 扱いづらい事この上ないこの一件は、業腹であるが放置して、泳がせて経過を見るしかない。

 それが、景朗の最終決定となった。

 

 裏世界でのいざこざでは、よくある結末だ。

 無闇矢鱈に白黒つけようとすることは、"互い"に危険を招く行為なのである。

 理事会の一角が相手では、こちらも無闇にヤブをつつくわけにいかないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 七月の第三週ともなると、どの学校もテストや"身体検査"が終了している頃合だ。

 街中に独特な開放感が漂っていて、学生たちにとっては事実上、一足早い夏休みの到来である。

 

 そういう雰囲気に包まれる最中、あれからすっかりとテンションがお通夜ムードにだだ下がった陽比谷クンは、助けろ助けろと執拗に景朗に食いついていた。

 

 どのような選択でも、常にリスクを天秤にかける必要がある。ただ、それを考慮に入れても、あの少年は恩を売っていれば少しは役に立ちそうな人材でもありそうだった。

 大能力者達のお山の大将を舎弟に組み込むことができれば、それなりのメリットがみえてくる。

 

 憔悴していく発火能力者を尋問する間際に、『洗いざらい吐けばレベルアッパーの件に協力してやろう』と嘯いてしまっていたのも、事実だった。

 

 それ故に、助力を願う相手を無下にもできない心境でもあった。

 しかし。かと言って、相手は軍事の『潮岸』(暗部のド本命)に極めて近しい人間である。

 信用することも、油断することも一切できない。

 そういうことだから。

 

 『埒があかないので、本格的に意識を失ってから連絡してきてください』

 とだけことづけて、景朗は静観を決め込んだ。

 相手は壮絶に絶句していたが、こちらも忙しいのだ。常に相手ができるわけではない。

 『ムチャクチャな事を言うな、不可能だ!!』と正論を跳ね返されたが、そもそも不用意にレベルアッパーを使用したのは相手である。こちらに責任はないはずだ。

 

 たとえ少年に屈辱を与え怒り狂わせて、思わずレベルアッパーを使ってしまうほどに追い込んでいた元凶が景朗であったとしても……。

 

 

 

 さて。そうして現在はすでに、七月二十日の朝を迎えているわけだが。

 

「……さすがにすこし、気の毒だったかなぁ……」

 

 景朗はケータイを手の中で弄びつつ、そうつぶやいた。

 陽比谷少年に唯一教え与えていたアドレスには、連日のように救助要請が届けられていた。

 

 それなりに、景朗なりに幻想御手の情報を嗅ぎ分けてみてもいたのだが。しかしどうにも、有益な成果は得られていなかった。

 結果として、効果的な救いの手を差し伸べることはできなかった。

 

 

 少年からの連絡は、よりにもよって七月一九日(夏休み前日)の夕方から途絶えている。

 今頃、彼の意識はお花畑へ昇天してしまっているのだろうか。

 いずれにせよ、肉体は病院のベッドの上だろうが……。

 

 

 

 しかし、景朗が気の毒そうに画面を見つめていたのはほんのわずか一瞬だった。

 すぐさまサクッと意識を切り替え、別の相手に電話をかけていく。

 

 忌々しい同僚へ、尋問をするために。

 

 "我らが高校"の夏休みは、八月二十日から、つまり本日の朝から始まっている。

 

 "青髪ピアス"としては、休暇中も"上条当麻(監視対象)"へ張り込む事は難しい。

 

 しかし、その気になれば別人に化けていくらでもやりようはある。

 故に、きたるこの日へ向けて、同僚と綿密な打ち合わせを行っていたはずなのだが。

 

 昨夜。急に手のひらを返した土御門は『任務は俺が一手に引き受ける。しばらく首を突っ込まなくていい』と豪語してきたのだ。

 

 ただ、やはり負担が大幅に削減されて嬉しい反面。

 どうにもこうも、胡散臭くてしょうがない部分があるのも事実だ。

 

 

 

『おお、青ピかー、ナイスなタイミングですたい』

 

 土御門は、"普段の口ぶり"とは大違いの、ふざけたハワイアンサングラスのキャラクターでテンションが異様に高い。

 ずばり。

 近くにウニ頭がいるらしい。

 

 景朗も、ただちに"エセ関西弁"を脳内にプリセットしなくてはならない。

 そうこうしている間にも、一方的に話しかけられていた。

 

『補習サボってんじゃねえぞコラ』

 

「……は? え? ど、どうしてですかね? ボクの成績でなぜに――」

 

 そこに強引に割り込んできたのは、上条当麻のとぼけた声色だった。

 

『青髪ーッ! 小萌先生が間違えてオマエのプリントも作ってたらしいぞー。よかったなー、来るだろ? 来るよな? 一人だけ仲間ハズレなんてあーもうなんてかわいそーなんでしょーかーっ?』

 

『ってことだからとっとと来るんだにゃー。十分以内に』

 

『十分は無理かもだけど、なるべく早くな。待ってるぞー同志よー』

 

「……な、なんですとー! わ、わーい! 小萌センセーのお呼びとあればはせ参じずにはいられませんなー! あっはっはっは……」

 

『ちゃあーんと来るんだぜーい? ………………いいから来い』

 

 

 

(そうきますか。

"補習"か!

想定外だった。マズいぞスケジュールまで補修しねえと!)

 

 

 

 ただでさえ、景朗のスケジュールは"レベル6シフト計画"の護衛で既にパンパンだったのに。

 上条の補習(お守り)にまで付き合うとなると、夏休みは大忙しの大惨事で確定になりそうだ。

 

 

 ただでさえ、 路地と路地の網目を縫うように"実験場"を整備して、人の目を取り繕うように隠匿して。

 "絶対能力進化計画"は薄氷にも近いギリギリの秘匿性の上で行われている。

 暗部のビッグプロジェクトなのだ。細心の注意が払われている。

 

 

 ところが、そこに夏休みだからと朝昼晩の時間帯を選ばず、街のすみずみまで学生たちが顔を出すようになると。

 

 運営を行う側には、負担しか生じてこない。

 とにかく何もかもが、ますますやりづらくなるだろう。

 そのことはとうに、幻生の招集命令の莫大な増加が証明してくれている。

 

 上条当麻の補習授業がどの程度の頻度になるかわからないが……どちらにせよ、スケジュールは圧迫される。

 

 必然。"誰か"と遊んだり、お茶したり、一緒に勉強したり。そんな暇はありそうにない。

 

(ああ。今度こそ愛想つかされちゃうな……)

 

 

 でも、それでいいのかもしれない。

 ありのままの雨月景朗本人が世間に顔を出すのは、もはや相当に危険な行為に成り果ててしまっている。

 先日も、陽比谷(素人もどき)が"先祖返り(ダイナソー)"に運良く食らいついてきたではないか。

 

 いい加減、諦めるべきなのだろうか。もう自分は"終わってしまっている"のだと……。

 

(いや、あきらめちゃだめだ。ここで諦めるくらいなら、端から手をかけてはならなかった人達がいるんだから。

 そうさ。いつだって前を向いてなきゃ。ポジティブさを失ったらどんな奴だってオシマイだ。

 そうだろ? 色々な現場を見てきたけど、それだけはまだ覆っていないルールのはずなんだ)

 

 夏休みはまだ始まったばかりだ。始まってもいないことで、くよくよしてはいけない。

 景朗は夏休み初日の太陽の下へ、勢いよく飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。夏休みが始まってわずか四日足らずのできごとだった。

 早速とばかりに監視護衛対象(上条当麻)が負傷した。

 一時意識を無くしたらしいが、今は容態が安定しているとだけ、深夜に唐突に報告が来たのだ。

 その時任務についていたのは、土御門ひとりだけだった。

 

 もちろん、『一体何があったんだ』と問い詰めた。だが。

 如何様な追求にも、土御門は頑なに口を閉ざした。

 アレイスターの許可は得ている、大した問題はない、との一点張りだった。

 その名前を出されては、景朗としても首を突っ込む訳にはいかなかった。

 

 

 翌日、念の為にと補習に顔を出した景朗は、心中穏やかではなくなっていた。

 小萌先生の両腕から、真新しい上条の血臭が漂っていたからだ。

 

 新鮮な血の香りは、流れ出した血液の量を暗に語っていた。

 どう少なく見積もっても、ストリートファイト程度でこさえる傷だとは思えなかった。

 

 

 振り返れば七月二十四日のその日からだろう。

 土御門が景朗に、隠し事を匂わせるようになったのは。

 "彼"らしくないお粗末な報告が目立ち始めたのも、このあたりからかもしれない。

 自らに勝るとも劣らず、土御門も何かに追われているのだと、景朗は悟り始めていた。

 

 

 上条の怪我の原因についてだが。

 心当たりに、昨日の『幻想御手事件』があった。

 第十学区当たりで御坂さんが盛大に暴れたらしい。

 お祭り騒ぎには漏れなく顔を出すフラグ建築士のことだから、ノコノコ現場にはち合わせていたのかもしれない。

 

 ともあれ、昨日はレベルアッパーを使用したものたちにとっては一応の転機となった。

 『幻想御手事件』と過去の事件のように名付けられているのには、それなりの理由がある。

 昏睡していた被害者たちが、一気に目覚め始めたのだ。

 対策にあたっていた"表"の機関には、軽い混乱が生じているらしい。

 

 

 となると、バイオテロ事件でレベルアッパーを使用していた夜霧少女と北大路少年も、少年院の独房で目を覚ましたのだろうか。

 景朗は未だに、あの事件の調査を続けていた。

 罪を償おうと試みて、命を失った子供たち。暗部のデータバンクで解決済みの事件としてひっそりと消えていくだけの名誉が、本当に彼や彼女たちにふさわしいのか。

 その疑問が心に染み付いたままでは、忘れることはできそうになかったのだ。

 

 "憎悪肥大(ヘイトコントロール)"。レベルアッパーにより賦活された情操能力(エンパシー)の大能力級(レベル4)ともなれば……数名の人間を意のままに操ることも十分可能だと。

 たったひと月で忘れ去られつつある事件について、景朗は今でもそう思っていた。

 

 

 それは、小さな小さな朗報に過ぎなかったが。

 幻生からの招集命令が連日のように繰り出されるさなか、景朗をくすりと笑わせる一件もあった。

 

 すっかり忘れていたどこぞの発火能力者から、[いつか殺す]とのメールが一通、届いたのだ。

 

 昏睡中の彼の動向を調べたが、実際に病院で静かに眠っていたようである。

 陽比谷クンのラジオ初主演も、その他もろもろのお仕事も降板となっていた。

 

 ここまでマヌケが隙を披露してくれると、対応に困ってしまうというものだ。

 

 とりあえず。

 

 非常にお怒りのご様子であったため、景朗は簡単に一言だけでも詫びてやろうかと思い至ったのだが。

 

 受け取ったメールの文面を読む限り、相手方にはどんな言葉を並べ立てても、火に油を注ぐような結果になりそうだった。

 

 最低限の短い快気祝いの言葉に、和むような顔文字でもつけて手早く済ませてしまおうと、景朗は思いつく。

 

 その時。たまたま目に付いたWEB記事に『女性が使うと萌えるネット用語』にて堂々の一位にランクインしていた『ぷぎゃー』なる言葉があった。

 

 使い方がよくわからなかったので、結局、彼はその顔文字だけをコピペして使ってみたようだ。

 

 

>Re:いつか殺す

>[ご快復されたそうで、本当に何よりです m9(^Д^)]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 七月二十八日。

 上条当麻が意識を失う怪我をして、さらに四日後。

 

「センセー、カミやんはおらへんのー?」

 

「上条ちゃんはまたまた入院ですー」

 

 ぽけーっとした青髪のリアクションに、小萌先生は苦笑を浮かべていた。

 彼女にしてはとても珍しい対応で、教室はしんみりと静まりかえった。

 

「だ、大丈夫なのですよー? 本人から連絡があって、軽い怪我だそうです。先生が直々にお話を聞いて確かめてあります。元気そうな声だったので、心配ないとおもうのです」

 

 ウニ頭が、また入院した。

 今度は軽傷だったらしいが、前日の怪我がたたって入院を決め込んだらしい。

 

(土御門の奴、どう考えても怪しいな……)

 

 上条がとうとう暗部のいざこざに本格的に首を突っ込んだのか?

 しかし、それにしては"アレイスターの猟犬"に干渉させないとは、つじつまが合わないところもある。

 

 なまじ、笑って切って捨てられない可能性がある。

 あの上条の不幸っぷり。

 

(あいつのことだからな……正真正銘真実本当に、ただドジ踏んだだけでした、なんて可能性もあるんだよな……)

 

 "デルタ"の中ではクールぶっているところがあるくせに、夏休みに入った途端どんだけはしゃいでんだあの馬鹿野郎。不幸体質を自覚しているのなら、すこしはおとなしくしていて欲しい。

 

 それが景朗の率直な感想だった。

 

 

 休みに入ってからというもの、彼の負傷率はぐんぐんと上がっている。

 

 まあしかし。今更それをあげつらっては"幻想殺し"の監視が務まらないのも、また真理である。

 程度の差はあれ、上条が怪我をするのは既定路線なのだから。

 

 では、なぜこうも自分はイライラするのだろう。

 決まってる。

 

(問題は、いつになったら補習が終わるのか、だな)

 

 もうすぐ八月だ。予定では七月中に補習は終わるはずだったのに。

 

 誰かさんの怪我や入院がかさんで、全然消化されていないのだ。

 

 もう既に、小萌先生の補講は八月の半ばまで延長される見込みである。

 

 このままでは上条も景朗も、秋の訪れまでずーっと地獄を見る羽目になりそうだ。

 

(というか、でなくてもいい補習にわざわざ顔を出してるってのに、なんで毎回毎回肝心のテメェラがいねえんだよ畜生……)

 

 いつのまにか、小萌先生からニコニコとした微笑みを向けられていた。

 よそ見をしていたはずの景朗に、なぜそこまで、機嫌の良い愛想を振りまけられるのだろう。

 

「先生は見直しているのです! いつまでもピアスを外してくれないので心配してましたが、やっぱり根はお利口さんだったみたいでなによりです。

自主的に補習に参加してくれている男子は、青髪ちゃんだけなのですよ!」

 

(あっ。そらそうですよね。ボクもそう思いますわ、小萌センセー……。まあ、いっか。小萌センセーの授業楽しいし。"俺"だってここでしか勉強する時間ねーしな)

 

 

 連日の補習ともあって、授業は普段よりだいぶ砕けたノリで行われている。そういう背景もあってか。

 教室の後ろの方から、『先生ー、青髪君はゲームの発売日まで暇なだけですよー』とヤジが飛んでくる。

 気だるげに無視していると、今日は仲間がいないから元気がないのかー、とクラスメートに心配されてしまっていた。

 

『青髪ちゃんはどんなゲームが好きなんですかー?』

 

 と小萌先生がつぶらな瞳で尋ねてきた。

 せっかくだから、と生徒はタメをつくる。

 

 それはもはや憂さ晴らしとも言うべき、人間性の欠如した質の悪い行為へと成り果てていた。

 

 青髪クンのフェイスが、怪しく輝いた。

 

「それはそれはもう"センセー"みたいに成熟した"アダルティー"な女性と片っ端からにゃんにゃんしていくゲームでーす↑」

 

 なにげに初めての経験だった。

 上条当麻がいないというのに、クラスメートから集団リンチを食らったのは。

 

 

 

 

 

 

 

 景朗にとっては、夏の夜の声というものは極めて特徴的だった。まぶたを開かずとも耳を澄ませば、いとも簡単に聴き分けることができた。

 街灯に群がる羽虫のオーケストラが、あちこちからこれでもかと鳴り響いている。

 

 

 雨月景朗にとっては、その"建物"は極めて馴染み深く、感慨深く、なによりも印象深い思い出だった。

 

 玄関をくぐる前に無意識のうちに躊躇して、5年前とまったく変わらない外壁を見上げ立ち止まってしまうくらいには、特別な場所だった。

 

 

 木原幻生が約束の薬(特別製の体晶)の受け渡しに指定したのは、意外な場所であった。

 

 

 第五学区、"鎚原病院"。幻生の居城。

 

 初めて幻生と出会った場所で、初めて幻生の悪事に加担した場所で、初めて人の死を目撃した。

 その忌々しさを思えば、形を成した悪夢そのものだと言っても良いところだ。

 思い出すことすら嫌気が差すものだから、"あの時"からは一度も、自ら足を運んだことはなかった。

 

 

 病院独特の薬品臭が鼻について、当時の記憶がよみがえってくる。

 

 "プロデュース"。この病院の地下深くで行われた実験は、今ではそう呼ばれている。

 今でも時折、その名を目にするたびに考えてしまうことがある。

 景朗と運命が交錯しなければ、犠牲者は今頃生きていられたのだろうかと。

 

(いいや。本当はそんなの建前だ。あーあ、心にも建前と本音があるなんて、なんてややこしくい生き物なんだろな、人間は。だから何するかわからないんだろな。

 本当はきっと……幻生の誘いを断る勇気が、あの時の自分にあれば、って……その先の未来はどうなっていたんだろうか、って。後悔せずにはいられないだけなんだろうな)

 

 幻生へ会いに、自動ドアを跨ぐ。

 自分がどれほど堕ちた場所に立っているのか、改めて弁えさせられるような感覚だった。

 

 

 

 なぜ、わざわざ鎚原病院へ呼ばれたのか。その点について、景朗はなんと、一言も会話を交えずに理解してしまった。まるで探偵のように、幻生の表情ひとつで洞察してしまえた自分に、景朗はげんなりとする思いだった。

 

 ヒョホホ、と幻生は薄気味悪く笑い、忙しなく院長室の中を小刻みに歩き回っている。

 ここまで喜色満面で機嫌の良い姿は珍しく、景朗が見てきた中でも確実にベスト3にランクインするだろう。

 景朗はよく知っている。木原幻生がこういった状態になる時は、きまって。

 決まって、自分の大好きな実験のプロジェクトが立上がった時である。

 つまり、なにかしらよからぬ企みがまたひとつ、この男の手によって世に生まれ出さんとしているわけだ。

 ……ちなみに栄えあるベスト1位は、景朗が"超能力者"へ覚醒した時だった。

 

 

「すまないね景朗クン。実はこれからしばらく立て込みそうでね。こうやって直に会って話せる機会もめっきり少なくなってしまうだろう」

 

「そのようで」

 

 端から見え透いていたので、景朗に驚きはまったくない。

 氷の様な無表情のままで、淡々と重苦しい唇を動かした。

 

「"ご入り用"ですか?」

 

「いやいや、今日はそんな物騒な話じゃないよ。楽にしてくれたまえ」

 

 幻生は隙だらけのあくびを晒して、思いついたように席を立った。

 

「先生、お忙しいところすみませんが、"俺たちの研究(丹生の治療法)"はどうなさるおつもりですか? 最近あまり進捗状況が良くないですよね?」

 

 蛇口をひねる音がして、水音が流れだした。幻生はかちゃかちゃとマグカップを弄っている。背を向けたままで、こちらへ振り向く気はないようだ。

 

「実は十分に睡眠がとれていなくてね。景朗クンも好きだっただろう? 眠気覚ましに一杯どうだね?」

 

 ほのかにインスタントコーヒーの芳香が鼻をくすぐったが、あいにくと景朗には気休めにすらならなかった。

 

「結構です」

 

「ホホホ、失敬。キミには眠気覚ましは必要ないか。いやはや、今朝は早くからひと仕事終わらせてきたものでね。老体には堪える一日だったよ。昨夜、何があったか景朗クンは知っているかな?」

 

「『樹形図の設計者(ツリーダイアグラム)』が故障したんでしょう?」

 

「悲しいかな。資金規模の大きい実験ほど、想定外の事態というものが頻発するよ。それがまた思わぬ僥倖をもたらすこともある。面白いよ」

 

「別に、"俺たちの研究"に支障は出ないでしょう?」

 

「これでも少しは忙しくなったんだよ? 珍しい事態には違いないからね。恣意的な横槍だと受け入れざるを得ないほどには。職員の一部は現実逃避に走ってすらいるよ、ほほ」

 

(まあ、そうだよな。ツリーダイアグラムが破壊された? 馬鹿馬鹿しい。学園都市の最重要施設を破壊できる国や組織なんて、どこにもありやしない。どうせ、上層部のイカレた内輪もめに決まってる……俺にとばっちりが来ないといいな……)

 

「まあ、研究者の皆さんはどこもお困りになられてるだろう、と思ってはいましたけど……。ですがそれにしては、先生の御機嫌はそれほど悪くなさそうですね?」

 

「トラブルには慣れっこだからねえ。亀の甲より年の功というやつだ。いつのまにやら、世の中は三日見ぬ間の"桜"のように便利になっていたんだねえ。散りゆく"桜"に慌てふためくのは、どいつこいつも経験の浅い若者ばかりだよ。この年になると、それを眺めているだけで楽しいものだ」

 

 コーヒーを一口含んで、幻生は一息ついた。

 

「――アレイスター君はさぞや涼しい顔をしているのだろうがね。だが、もれなく"彼の部下も"すべからく、という訳にはいかないはずだ……」

 

 まるで独り言のような、どこか意味深な呟きだった。

 その一方、景朗は余裕を貼り付けた表情の裏方で、幻生の発言の意味をひとつひとつ吟味していかねばならなかった。

 

 幻生も、やはり"ツリーダイアグラム"について愚痴をこぼした。

 学園都市随一のコンピュータが消え去った弊害は、研究者たちのみならず、他の産業や行政にも影響するだろう。

 そこにはもちろん、暗部の上層部だって含まれる。少なくない混乱が生じる可能性は、否定できない。

 

 景朗とて、とっくに気づいている。

 今この時は、アレイスターや統括理事会の手足たる暗部組織にも、わずかな麻痺が現れるタイミングなのである。

 幻生の発言はその事を暗に語っているような、含みのある言い方だった。

 

 

(まさか。まさか、嘘だろ? 嘘に決まってる。前から幻生はアレイスターを嫌っていると思ってたけど、冗談じゃない……)

 

 

 アレイスターは暴君だ。逆らえば容赦なく俺や人質をたたっ斬るだろう。頼み事などできやしない。

 

 一方の幻生は、骨の髄まで景朗をしゃぶる気だ。徹底的にアレイスターに庇護を申し出れば、聖マリア園の皆を守り通すことは不可能ではないかも知れない。

 けれども。丹生を助けられるのは幻生だけだ。そんなことをすれば、彼女は助からない。

 

 おまけにアレイスターとて、いつ"三頭猟犬"に用済みの烙印を押すのかわかったものではない……。

 

 万が一両者が争い合えば、雨月景朗の立場は……。

 

(冗談じゃない……こんなやつらに板挟みにされるなんてゴメンだ。冗談はやめてくれっ!!)

 

 

 

「先生。今のは冗談にしてはタチが悪いですよ? 俺の前で理事長の悪口を言うなんて……"心臓が止まりそう"になるじゃないですか。別に俺なら止まっても死にやしませんけどね」

 

「ホッホッホ、寂しくなるようなことを言わないでくれたまえ。私だってキミの躰を弄りまわしている時ほど、幸せな時間はないよ」

 

 幻生の対応は、いつもどおりの飄々とした態度だ。

 片手の指で足りる数しかないが、彼が時たま"暗殺"を命じる時のような、悪意の芳香は微塵も感じられない。

 二本のリードに繋がれた状態の景朗にとっては、肝の冷える思いをした瞬間だった。

 

「とにかく。もうそろそろ"俺たちの研究"にも力を入れてください。お願いしますよ、先生。そのために蒸し暑苦しい"実験場"で駆けずり回ってるんですから」

 

 景朗の強い意思を込めたセリフにも、幻生にとってはそよ風程度に感じられるものだったらしい。結局のところ、またしても幻生は景朗の催促に首を縦に振らなかった。

 

「……それにしても景朗クン。キミはすっかりアレイスター君と仲良くなってしまったね。古女房が浮気した時よりも妬かされてしまうなあ。このままでは……いずれキミは、私の元から去っていく。すっかりと枯れきった老いぼれをここまで妬かすとは、本当に悪い子だねえ……」

 

「っ。約束は約束でしょう?」

 

「やれやれ、キミの頼みも無碍にはできないときた。困ったなあ。困った、困った……」

 

 一体なにを言われるのか想像もつかず、景朗の思考は凍りついていた。

 じわじわと溶ける氷塊に垂れる一滴の雫を待ちわびるように、彼は幻生の次の言葉を飲み込もうと、立ち尽くした。

 

 

 なかなか、幻生は口を開かなかった。

 椅子に深く腰掛けた老人は、物憂げな表情を浮かべたまま、目を休めているようだ。

 

 しびれを切らしたのは、景朗だった。

 

「しばらくは会えないとおっしゃいましたね。でしたら、薬はどうするおつもりですか?」

 

「ああ、そのことかね。ホッホッホ。朗報だよ、例の調査にやっと結論が付いたところだ」

 

 景朗の追求が、ようやくアクションに結びついた。

 幻生は、椅子から身体を引き起こした。

 立ち上がるままに、彼はおもむろに近くの保冷庫へと近づき、その蓋を開ける。

 

 老人は、そこから注射剤の容器を取り出した。

 中身は、見覚えのある緋色の液体だった。

 

 景朗には、その液体の正体が、一瞬にして理解できた。

 それもその筈だ。それは、自分の血液だったのだから。

 

 

 "不死鳥の血"は、丹生の体調を安定させられる体晶の代替物たりえるのか。

 それが知りたくて、景朗が前々から幻生にあずけていたものだった。

 

 

 

 ゴクリ、と景朗の喉がなった。

 制止するタイミングも、疑問を挟む暇もなかった。

 幻生は注射器を容器に差し込み、内容物で満たすと、それをためらいなく自らの腕に注入し始めたのだ。

 

 

「ああ……素晴らしい……私が精製した物よりよほど使い勝手が良いよ。なによりもキミの優しさが滲みでているねぇ……老骨に染みわたる思いだ……」

 

 気づけば景朗は、食い入るように幻生の反応を見つめ続けている。

 

「……これならば問題ない。感動するねえ。やはり生命こそが、この世すべてに勝る分子科学の救世主であるべきだ……」

 

「ッそうですか!」

 

 今更のように人間らしく、景朗はぶはり、と安心したように息を吐き出した。

 少なくない確信があったのだ。

 自ら生み出した"体晶の新たなる可能性(Blood of Phoenix)"が、丹生の体に及ぼす影響について。

 

「"俺の血"でまかなえるのなら……」

 

 幻生から渡される怪しい薬を、丹生に飲ませずに済む。

 憎き相手の意見に賛成するのはシャクだったが、確かに景朗にとっては朗報に違いなかった。

 

「君のお友達は世界一の贅沢者に違いない。ホホ」

 

「そういうわけで、ご納得頂けたかな。では、しばし私は吃緊のプロジェクトを推し進めさせてもらおう。さて、差し迫って他に、何か要望があるだろうか? 私からは以上だが」

 

「……いいえ。ありません」

 

 覚悟していたよりも短い会話だったと胸を撫で下ろし、踵を返す。

 そうして部屋から退出する間際だった。。幻生は最後にひとつ、問いを投げかけてきた。

 その問答は、とりわけ意味深なものだった。

 

「そういえば、景朗クン。覚えてくれているかね? 昔、教えたことがあっただろう。私がこの世で最も忌み嫌う行為が、一体何なのかを……」

 

「どうされたんですか、急に」

 

「いやはや、私は"キミの事ならば何でも知っている"のだが、キミはどうかと思ってね」

 

「きっちりと覚えていますよ。"実験を邪魔される"のがお嫌いなんでしょう?」

 

 早く立ち去れ、とでも言いたかったのだろうか?

 しかし、たった今そうしようとしていたではないか、と。不信が鼻をつく。

 

 どうやら自分は、その質問の意図を掴み取れていないらしい。

 しばし答えを探すも、良いアイデアは浮かばなかった。

 部屋から去った後味は、おかげで最悪だった。

 

 

「ホッホッホ。キミとは末永く良い関係を築けると思っているよ。そのために何をなすべきか。夢々忘れずにいてくれたまえ?」

 

 

 

 

 

 

 その後。

 鎚原病院を抜け出す途中で、景朗は奇妙な患者を見かけることになった。

 

 病院で見かけた故に患者と評したが、その女の子は見てくれだけをみれば、患者ではなく囚人に近かった。

 

 目出し帽(バラクラバ)をかぶった屈強な傭兵崩れに両脇をマークされ、連行されているといった表現が近い、華奢な少女だった。

 

 何日も入浴できていないのか、少女の黒髪は濃厚な獣の臭いを漂わせている。

 しかしそれでも色艶は失われておらず、彼女の纏う黒い拘束服や黒いアイマスクとあいまって、その色合いは映えていた。

 

 

 しばらく見送るものの、予想通りに少女は幻生の部屋へと連れられていった。

 

(あんな子が、ジジイの"新しいプロジェクト"とやらに利用される……)

 

 過去の自分を見かけてしまった。そんな重苦しいやるせなさが、胸に燻りかけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八月八日。それは特別な日だったのか、なんの変哲もない日だったのか、どちらか判断しかねる奇妙な一日だった。

 

 

 景朗は土御門から呼び出され、第七学区のアイスクリームショップ手前で合流を果たしていた。

 

「よお。ようやくか。今日こそ教えてくれるんだろうな? 夏休みに入ってからコソコソやってた隠し事をさ」

 

 開口一番に前々からの疑問を投げかけた。からかい混じりに話してはいたが、景朗の表情は真剣だ。

 土御門は一言も口をきかぬまま、親指で荒々しく後方を指し示した。

 

「知ってますん。忘れないうちに言っておきましょか、と思っただけやんな」

 

「相変わらず畜生にも劣る雑魚エセ関西弁だぜよ(笑)」

 

「黙れよ」

 

 横断歩道を間に挟み、特徴的なツンツン頭が遠くに見えている。普通の人間には聞こえない距離だろうが、景朗の耳には彼らの会話の内容が素通りだ。

 

(あいつ、あっという間に女の子と仲良くなるんだよなぁ)

 

 またぞろ通行人に絡まれたらしい上条当麻が、外国人のシスターさんらしき人物と蒟蒻問答を繰り広げている。

 外国人のシスターさんとはいえど、極端に背が低く、カンカンと声も甲高い。明らかに彼女は子供だった。

 

「ちょっと確かめたいことがあるんだぜい。お前の力をかりたくてなあ」

 

「カミやん相手に?」

 

 潜入生活も長くなった今では、土御門の呼び出しには基本的に青髪ピアスとして出向くことになっている。

 取り立てて言付がなければ、雨月クンの出番はないのだ。そんな事だから、もしかしたら上条関連の事だろうかと想定してきてはいたが……。

 

「なあーに。お前はいつもどおりにしてればいいんだにゃー。いつものノリで責めろ。特にあの女装シスター」

 

 上条たちが移動する前に合流するつもりなのか、土御門は我先にと歩き出して、そう言った。

 

「ハハー、どう見ても女の子やん、女装って――"女装"――え゛ッ男?」

 

 

 第十四学区の教会郡で過ごしてきた身の上であるから、学園都市内のシスターさんの修道服には、ある程度見覚えが有る。

 ところが子供シスターさんの修道服は、まったくもって珍しく、初めて見る装飾ばかり。

 

 景朗の脳裏をよぎる。ハンドメイドの一品であれば……。

 

(それじゃ、もしかしてコスプレ……本当に女装少年……!?)

 

 その可能性は無きにしも非ずだ。しかし、改めてよくよく子供シスターさんの着ているものを観察すると、到底パチものとは思えないほどに造りが良く、極めて高級そうな代物である。

 偽物か、本物か。

 

「あーそうそう、あと、お先に言わせてもらっときますたい。カミやんは前回の怪我で頭を強く打ったらしくてにゃー記憶ぶっ飛んぢまってなーんも覚えてないかもしれないんで、そこんとこ確かめたいんですたいヨロシコ」

 

「ファッ!? さっきからウソかホンマかわからへんことばっかり?!」

 

 

 

 

 

 アイスクリームショップの真ん前で上条当麻に噛み付いていた銀髪のシスターさんは、ただの通りすがりではなかったようだ。

 インデックスと偽名臭い名前を堂々と名乗り切ったシスター少女と上条当麻は、とりわけ仲の良い間がらであるらしい。

 奴はまったくもって知らぬ間に友達をつくるのが上手なヤツである。

 

 

 そのままなんとはなしの流れで、皆で冷たいものを食べようかという話になったのだが。

 肝心のアイスクリームショップは閉まっていた。

 

 不機嫌になっていくシスターさんを何とかなだめようと、そこで上条はヤケクソ気味に手近なファーストフード店を指さしたのだった。

 

 

 

 

 バーガーショップを退店すると、再び夏の暑い空気にさられてしまった。

 しかし、そんなうだるような熱気の中でも、御機嫌麗しいインデックスさんが可愛らしい鼻歌を披露してくれているおかげで、ほのかな清涼感が漂っている。それもまた事実だ。

 しかしてその背後ではそんな気分をぶち壊すように、ツンツン頭が重苦しい鼻息をついていた。それもまた事実だった。

 

 

 銀髪碧眼なわりに日本語ペラペラで違和感が半端ないシスターさんに、土御門が旧来の友のように語りかけている。意外なことに、何かと会話は弾んでいるようだった。

 

 しかし、あのままにしておいていいのだろうか。奴の鬼軍曹(真性ロリ)っぷりは上条も承知であるはずなのだが。

 上条さんに危機意識の欠如を感じつつも無視を決め込み、先を行くアロハとシスターの背後で、青髪はしみじみと上条に口を開いた。

 

「しっかし『INDEX』て、やっぱ海外のキラキラネームはパないんやなぁカミやん」

 

「それ偽名だから」

 

 スパッとした切り返しに、うまく対応できなかった。

 

「……アッハッハー、なになにどういうこと? ボクらには本名なのっちゃいけませんって? え? たしかにシスターさんは守備範囲内どころか積極的に打っていきたいドストライクゾーンにハマってますが、ええ、なにか?」

 

「今日はとんだ散財だ……不幸だ……」

 

 どうしたというのだろう。今日はずいぶんと上条さんにシカトされている気がする。

 

「こ、こないだボカァぎょうさんたこ焼き食わせてやったやあーりませんか。そない気落ちしなさんなや」

 

「あっ、ああ、そうだっけ。まあな……ん? にしてもお前――」

 

 青髪クンの言葉使いに引っかかるものがあったのか、上条の目つきが険しくなる。

 

「そ、そうや今度はまたお好み焼きでも食べひん? 雪辱を晴らしますで、もち、ボクが――」

 

 危うい空気を感じ取った矢先に、銀髪シスターちゃんが救いの手を差し伸べてくれた。

 

「はいはいはい! イく! イクよー! 私も行くんだよ! お好み焼き! 知ってるよジャパニーズピッツァのことでしょう? ねえねえ私も連れてって連れてって青い髪のおにいさん!」

 

「おほ、かまいまへんでー。なんやキミ、日本語ペラペラやけど日本文化についてはもしかしてそんなに知らへんの?」

 

「あーあ、そんな安請け合いするとあとで後悔するぜい青髪ぃー?」

 

「それなりに知識はあるけど、経験はあいにくとまったくのゼロなんだよ! 日本食と日本の食文化には大いに興味があるからねー。こほん。で、ところで日本の文化体験食についてだけど、私は今からでも構わなかったりするんだよ?」

 

「……ぇへ? お、お嬢ちゃん、シェーキLサイズ3つガブ飲みしてましたけど、まだそんな元気がありますのんか?」

 

 こんだけ自分の欲望丸出しのシスターさんも珍しいなあ、と青髪の糸目も点になった。

 

「迷える子羊も、時として草を食まねば……あれ? そういえばおにいさん、さっきからずいぶんと不思議な喋り方してなーい?」

 

 ぎく。なんなんだよこの黒髪銀髪コンビ。結局どっちも関西弁モドキにツッコミいれてくるなんて。

 

「しゃーないにゃー。カミやんの予定次第なのだにゃー?」

 

 窮地を救ったのは、まさかの土御門だった。

 額に手を当てて黄昏ていた上条は催促を受けると、やれやれ、と一気にお疲れ気味の様子で口を開いた。

 

「ちょーっとまてインデックス。上条さんにはそんな暇ありませんよ? ほら、これを見てください」

 

 そう言って、手に持っていた重量感のある紙袋を指し示した。

 

「漫画?」

「アニメ雑誌?」

「参考書ー?」

 

 三者三様の答えが飛び出した。

 答えを知っている少女は一体それがどうしたんだとばかりに、ぽかんと首をかしげている。

 

 

「そうです! 参考書です!さんぜんろっぴゃくえんの参考書です! 何のためにこいつを買ったと思ってるんだっ!? 今日くらいっ。今日くらい上条さんはお勉強するんですっ! とにかく、とにかく今日、今すぐにでもこの包み紙を破かなきゃいけないんだっ!さもないとこいつは上条さん家の本棚で……永遠の肥やしになっちまいそうな気がするんだぁーーーっ!」

 

「ど、どうしたんやカミやん!? 急に勉強するや言い出すなんて本格的に夏の暑さで――」

 

「いいーじゃんかよー! 誰がいつ勉強したってよー!」

 

「ええー、それじゃ今晩はとうまがジャパニーズピッツァつくってくれるの??」

 

「カミやん、無駄な抵抗はやめとくにゃー?」

 

「そうそう、そんなことしても今更、補習は一秒たりとも減ったりはしないんやでー……(呪)」

 

「あーっもーっ。暑いしウザイし金欠だし、もういーーーーやーーーーーーーっ!!!」

 

 上条は頭をかきむしり、唐突に走り出した。どんどんその背中が遠ざかっていく。

 

「あーっ! まってーっ! とうまーっ!」

 

 銀髪シスターちゃんも慌てて追いかけていった。

 

 

 

 

 

 

 

 二人の影が遠く離れ、十分に小さくなったところで、土御門がつぶやいた。

 

「で? どう思った?」

 

「たしかにヘンだ。あの野郎が俺らに"奢ってくれた"なんて……たったひと月前に"金欠こじらせて"ひとりでタマゴ三桁(100個)も買い溜めようとしてた男だぞ……?」

 

 土御門からの返事はない。呆れたようなため息をつかれてしまっていたからだ。

 

「冗談だよ。記憶がないってのは、まんざら嘘じゃないのかもな」

 

「理由は?」

 

「俺はいつだってあいつの右手に気をつけて生活しなくちゃならないからな。だから気づいたのかもしれない。さっきの野郎、"まるで自分の右手に無頓着"だった。ほとんど別人みたいだったよ。あいつ自分で良く言ってただろ? 右手のせいでいろんな苦労をしてきたって」

 

「なるほど、そういうことか……」

 

「あるだろ? 手痛い失敗(経験)が生み出す"無意識の行動"って奴がさ。ちっとやそっと記憶が混乱したくらいで、体に癖が染み込むほどのトラウマが綺麗さっぱり無くなるもんなのか、って思うんだよ」

 

(あれ? ってことは、先月俺が上条をボッコボコにしたのもチャラになるんじゃね? "素顔"見られてたのも心配しなくて良かったり? そいつは素晴らしいぞ! 上条には食蜂の能力すら効かないと思うしっ!)

 

「でも"それ"が、今日の上条には全くなかった、ように思えた。"あれ"が続くんなら、少なくとも俺にとっては、以前とは別人みたいに接しなきゃならなくなったわけさ」

 

 皮肉げなセリフとは裏腹に、景朗の口調は晴れやかな香りが漂うものだった。

 

「まったく……なぜオマエが嬉しがるんだかな?」

 

「ひとついいか? 仮に、あいつの記憶が吹っ飛んでたとしてだ。それで何か問題があるのかよ? あいつの頭の中にドデカい秘密でも隠されてたってのか?」

 

(アレイスターが"異常"に上条を気にしてた秘密が、そこにあるのか……?)

 

 景朗には、土御門がなぜそれほどまでこの問題を恐る恐る扱うのか、理解が及ばなかった。

 それほどまでに気がかりならば、上条に直接『記憶がないのか?』と問いただしてしまえばいい。

 四月からいっしょに学校に通ってきたクラスメートの自分たちならば、その是非を問う程度、いとも容易い行為のはずだ。

 

 それを"しない"というのならば、あくまで上条に悟られずに確かめたかったという事か。

 それとも単に、"上条の事を慮り、配慮している"ということなのか。

 

 どちらにせよ、土御門のまどろっこしい態度は解せないものだ。少なくとも景朗にとっては。

 

「……まあいい。礼を言っておこう。オマエの話は参考になった」

 

「おいおい、こんな事に人を呼び出しといて、何の駄賃もなしかよ?」

 

「オマエには関係ない。そもそも、知らないほうがいい。オマエこそらしくないぞ? 余計な重荷を背負い込むのが趣味だったか?」

 

「どうせ上条に関わっている事案なんだろう? だったら俺だって危険を避けるために全力を尽くす」

 

「あくまで自分のため、か。……いいから、さよならだ。オレは退散させてもらう。ああ、ひとつ言い忘れてた。さっきとった写真、オレにもよこせ」

 

「あの天然の巫女さんも"何か関係"があるってか?」

 

「疑り深すぎだぞ。心配するな。オマエにはまったく関係ない」

 

 景朗は睨む。

 土御門のサングラスを透過して、その瞳を直接観察してみせた。

 

 嘘をついている目だった。

 しかし、虚しいことに。この男に限っては、それも役立たない情報だった。

 なにせ、この男、土御門元春は、春夏秋冬、四六時中ウソをつきっぱなしなのである。

 毎日毎日、口から吐く言葉のすべてが、詐欺師まがいの大法螺なのだ。

 これではもはや、どうしようもない。

 

 

「関係ないかどうかは俺が決める」

 

「雨月、オレにもどうこうしようがない。アレイスターが決めたことだ」

 

 

 

 




ちょっとマジですいませんorz

Episode29③を投稿してヒロイン登場!と行きたかったのですが、明日までまってください!
それまではexEP03をお楽しみください……

明日の深夜、新ヒロイン……
うわああああもう信じてもらえねえええええorz

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