とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

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extraEp02:水銀甲冑(シルバーメイル)

 

 

 

 アンチスキル第七学区支部は、異質などよめきに包まれていた。

 

 

 すこぶる機嫌の良い高校生男子のその後ろを。

 すっかりと機嫌を悪くした黄泉川愛穂が、練り歩いている。

 

 

 指導を受けた生徒が、指導した先生を先導する。

 アンチスキルの事務所において、通常ではとても考えられない光景だった。

 

 

 

 正面ゲートを目指して、二人組は廊下を迷いなく進む。

 喜怒哀楽がめっきり食い違った男女だった。

 周囲に違和感を振りまく元凶は、どうやら彼らにあるらしい。

 

 

 

 男子学生の足取りに迷いは見てとれず、しっかりと目的地へのルートを把握しているようである。

 街の片隅に屯しているスキルアウトなぞ比べ物にならないほどに、少年はアンチスキル事務所内の地理に明るいらしい。

 

 

 一度や二度、御用になった程度で、ここまで完璧に建物の間取りを覚えられるわけがない。

 つまりは、この教師と生徒の二人組が闊歩する光景は、幾度となく繰り広げられてきたということだ。

 

 故に、通りすがる職員たちにとってはそれほど珍しい状況ではないはずだった。

 しかし、彼らは皆が皆、まるで大名行列にでも出くわしたかのように、目線を逸らす。

 

 よくよく観察してみると。

 たった一人の場違いな高校生に対して、真正面から目を合わせるものがいないのだ。

 

 その実。黄泉川や一部の熱血教師を除いたほとんどの職員は、彼とトラブルを構築するのを恐れていた。

 

 

 

 職員たちが背を向けるのも無理はない。

 その少年には特別厄介な"後ろ盾"があるのだ。

 

 

 軍事産業の元締めたる統括理事会『潮岸』は、アンチスキルにも多大な影響力を持つ。

 にこやかに微笑む少年はその『潮岸』の身内の、息のかかった子息なのだ。

 

 

 堂々と廊下を闊歩する当の本人は、やんわりと向けられるアンチスキルたちの敵意に満ちた視線に、一歩も動じていない。

 

 そればかりか高校一年生にして、思わず舌打ちが飛び出そうなほどサングラスが似合っていた。

 才気煥発なオーラに満ちた自信満々の態度が、よくもわるくも憎たらしさを演出しているようである。

 

 

 

 

 

 

「また来るじゃんよ」

 

 

 正面玄関まで陽比谷天鼓を送った黄泉川愛穂が、ぶっちょう面で投げかけた。

 まだまだ物足りない。そう眼光で語る女教師にキツく睨まれて、高校生は薄く笑った。

 

「そこは『もう来るな』って言うところじゃないんです?」

 

「何を言う。お前はまだペナルティを受けていないだろう。少しは犯罪者だって自覚を持て」

 

「犯罪者?」

 

「まだ何も終わっちゃいないじゃん。あくまで一時的に中断しただけだ」

 

 アンチスキル本部の事務員が、緊急に連絡を下していた。

 陽比谷少年に対する鑑別は後日、直々に本部の調査官が執り行うことになった。

 そして続報として、少年を一時帰宅させるように、と。

 

 

 第七学区支部のアンチスキル全員が、反省の色が全く見えない小僧を一晩ほど少年房にブチ込んでやるつもりだった。その算段は、からくも破滅してしまった。

 

 

「ああ。"続き"ってのは本部でやるらしいですね」

 

「"らしい"? 他人事みたいな言い方すんなじゃん? ……おい、ちょっと待て。毎回君を引っ張っていく調査官がいると聞いたが……。試しに担当者の名前を言ってみろ?」 

 

「ん~。んん~と。あー、あー、あー。誰だったかなぁ?」

 

 若干のうろたえを見せるも、陽比谷は楽しそうにとぼけてみせた。

 バレバレの彼の対応が語っていた。

 "能力主義"担当の調査官なる人物は書類上存在しているだけで、実在はしないのだと。

 黄泉川は徒労を感じずにはいられなかった。

 

「ところでセンセー、犯罪者なんてひどい言い方ですよ? 僕らだって少しは傷つくのに」

 

「非行を喜々としてやらかす上に、欠片も罪の意識が無いとくれば。こっちも心を鬼にして、君たちを犯罪者呼ばわりするしかないじゃんか?」

 

「犯罪者と呼ばれる人たちは、犯罪を犯した人たちですよ? 僕たちは違います。"犯罪"なんて犯してませんから。アナタたちの上司のエラ~い方々だって、僕たちの"活動"を決して"犯罪"とは呼びませんよ?」

 

 黄泉川は返し文句を言いかけた。だが、徒労感には勝てなかったのか。

 不機嫌そうに腕を組むと、無言のまま『早くここから出て行け』とばかりに顎をしゃくった。

 

「虚しいですね。"犯罪"を"生み出す(規定する)"のは犯罪者じゃあないみたいです。社会の制度やシステムが決定するようですね。僕ら(能力主義)の存在が許容されているように」

 

「ほら、もう行けっての。ここにきて話を振り出しに戻すなって話じゃん」

 

「だから"犯罪"を無くしたければ、"アンチスキル(警察)"になったって意味がなかったんですよ。官僚や政治家にならなければね。結局、現場で駆けずり回るアンチスキルは"犯罪をなくしている"のではなく、どちらかというと"犯罪者を助けている"。ほら、このように」

 

 陽比谷は自由になった両手を悠々と広げてみせた。

 

 さんざんと語り合った彼の言い分は、こうである。

 この街は、巨大な実験場であると言うのだ。

 

 実験は成果を求めるために、正しき結果を求めるにあたり、時として当たり前の犠牲を払う必要がある、と。

 

 それは犯罪ではなく、犠牲であり、実験であると。"能力主義"が社会に被る迷惑は、実験の一部なのだと。

 

 そう語ってニヤつく子供を、黄泉川は職務を忘れて何度ぶん殴りそうになったことか。非常に危うかった。

 

 おかしいのは自分の方なのか? この街ではまさにこの小僧の言い分こそが、まかり通っている。いい加減に、怒鳴る気力もなくなっていた。

 

 

「ったくもう。まーだそんな戯言を口にする元気があるんじゃん……? その無尽蔵のエネルギー、もっとマシな事に使わせてやりたいもんだ」

 

 

 日が昇る時間帯に散々暴れ倒して。それから日が沈むまで、代わる代わる警備員(教師)に説教を食らい続けて。だというのに。

 

 

 この憎たらしい小僧には、なおも挑発を続けるエネルギーがあまり余っている。

 まさしく、子供だ。子供に違いない。

 差し入れのカツ丼に大喜びで、ガツガツとかき込んでいた時は、少しは可愛げがあるかとも思えたのだが。

 

 

 呆れた風に、負けを認めるように、黄泉川は疲れがこびりついた溜息をどっと吐き出した。

 

「ハハ。それじゃ約束通り、また黄泉川センセーに会いに来ますねー!」

 

 

 不良を更生させるのは、教師の勤めだ。だが理不尽なことに、この街ではあの少年こそが"社会的なエリート像"そのものなのだ。

 あの小僧の"勘違い"をうち解きたいが。その困難さは、まるで学園都市の社会構造そのものを相手どる様だった。

 

 ゆくゆくは、ああいった若者がこの街を、社会を率いていくのだというのに。

 

 

 

「統括理事会、か……」

 

 手のひらの腕章を見つめ、黄泉川はぽつりと呟いた。しばし、その場に立ち尽くし、夏の夜風に身をさらす。それも幾ばくか、粛々とした暇は束の間だった。

 

 ぎゅっ! と力強く手のひらを握り締めると、彼女は踵を返してきびきびと仕事へ戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 迎えのための黒塗りの車両が一台、道路の脇に停まっていた。しかしそれよりも先に彼の目にとまったのは、薄暗がりに浮かぶ馴染みのシルエットだった。

 

「鷹啄さん?」

 

「誰も迎えに行かないのは冷たいでしょ? それとあと事後報告!」

 

「そうだった。今日は雑用を押し付けて悪かったね、色々ありがとう」

 

「いいよ。それくらいのことは……それにしても、今日は随分遅かったねー……?」

 

「予想はしてたよ。今までで最大規模にヤラかしたんだから。特に道路と建物を数軒めちゃくちゃにしたし。さすがにしばらくは大人しくしてなくちゃ、まずい!」

 

 

 二人の高校生を積み込み、高級車は第七学区の夜道を駆け抜けていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十八学区(エリートの巣窟)とは一風変わった、第七学区(最大の学生街)の夜の賑わい。その風景が目に付いた陽比谷は、その場で運転手に停車を命じた。

 

 完全下校時刻は僅かに通り過ぎているが、もう少しだけ猶予はある。

 鷹啄を夜食に誘い、彼は繁華街へと繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 ところが。目ぼしい軒先にたどり着く前に、のっけから二人は予想外なトラブルに出くわした。

 やはり、その日は神妙におとなしくしておくべきだった、ということなのだろう。

 

 

 どうやらここは、"十八学区"とはスキルアウトの絶対量が違うらしい。

 女連れで通りすがっただけなのだが、陽比谷はあっという間に不良学生の獲物として見繕われてしまった。

 

 奇抜なスーツ姿のサングラス少年は、スキルアウトたちとって絶好のからかいの標的だった。

 

 

「ほぉら、見せてくれよー、能力者ぁ?」「オラどうした? 使えよ?」

 

 アンチスキルの事務所から出張ってきたばかりだ。小一時間とせずに出もどるのは、少々どころかだいぶ恥ずかしい。流石に黄泉川に合わす顔もない。少年がたじろぐ理由は、そんなところだった。

 

 高位能力者だから、自分に構わないほうがいい。

 口から飛び出したのは、第十八学区では一等効果を発揮する、荒事を避ける常套句だったのだが。

 

 第七学区では微塵も通用しなかった。

 それどころか、逆効果だったようだ。スキルアウトたちはますますいきり立つ。

 

 陽比谷はそれが普段の癖なのか、困ったように笑っていた。

 しかし。

 張り付いた笑みは、スキルアウトたちには逆の意味に写ってしまったらしい。

 すなはち――――ハッタリがバレて、怯えているのだと。

 

 

「ヘラヘラ笑ってねーでさっさと使えや、コラ。高位能力者さんよぉ?」

 

「……どうしたもんかな……」

 

 青年たちは異様なテンションで、陽比谷たちをからかうだけに止めておくつもりはないらしい。執拗に絡み、仲間内5人で二人を囲い込んでしまった。

 

「ワタシがやろうか?」

 

 さすがの大能力者たる態度で、鷹啄が耳打ちをした。

 

「あらら、かわいそーに。彼女に慰めてもらってるのーん? 今日はチョーシ悪いのかな」

「ざぁーんねん。俺ら全員、ついさっきドーテー(レベル0)を卒業したばっかでさぁ、最高にご機嫌なぁんですぅ。で、ずぅーっと相手を探しちたんで♪ どかーんと俺らにレクチャーしてくらちゃいよ、高位能力者クン」

 

 陽比谷は目ざとく見つけてしまった。青年のひとりが、ズボンに無造作に何かを突っ込んでいる。ポケットから顔をのぞかせているそれは、薄型の音楽プレーヤーだった。

 

 "第六位"には軽くあしらわれ、自分に絡んでくる輩はこの体たらく。レベルアッパーを使っただけで勇み、つけあがる無能力者どもだ。

 

「まあ、いいや。……鷹啄さん。悪いけど、ちょっと付き合ってくれる?」

 

 陽比谷は促されるままに、スキルアウトたちと人通りのない路地へと向かっていく。

 

 スキルアウトたちはその堂々とした態度にうっすらと青筋を浮かべつつ、ぴゅーぴゅーと口笛を吹いている。

 

 彼女の前で強がるイケメン。ありとあらゆる意味で、格好の的だった――かに、思えただろう。少なくとも、スキルアウトの面々には。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レベルアッパーは、どのような人間にも必ず一定の効能を与えるらしい。

 

 

 

 

 ピチピチスーツ男は、見かけによらず喧嘩慣れしている。

 そう気づいて舌打ちしたスキルアウトたちは、ためらいもせずに"能力"を使いだした。

 

 

 ちょろちょろと噴出する調理用バーナーみたいな発火能力に、膝裏をカクっと滑らせる程度の念動能力。

 

 

 とは言っても、実用に耐えうる"異能力"ほどの出力を持つものはいなかった。

 "能力主義"に身を置く立場からすれば、赤子のくしゃみのような弱々しさに感じられるものだった。

 

 

 それに加えて、彼らのおおよそは能力を初めて"ケンカ"に使ったのだろう。

 

 出力が弱いならば、弱いなりに活用法に気を使えば良いものを。

 案の定、垂れ流されるだけの能力の行使。

 Lv2程度の能力では、ゴリ押しのしようもない。そこいらの警備員でさえ、鎮圧用の盾ひとつでLv3を圧倒するというのにだ。

 

 

 無遠慮に顔面に投射された火球を、陽比谷はスーツに包まれた二の腕で、力づくで払う。

 

 さらには、最低限の手加減を行う心遣いもなっていないとくれば。こんなもの、まっとうなケンカにすらなりえない。ただの遊びだ。

 

 

 相手を速やかに戦闘不能にする効率も、必要以上に傷つけない配慮も、何もかもが見当たらない。

 

 ゆえに、結論としては。この耐火防寒スーツはやはり非常に高性能で、とても有用である。その事実が、改めて浮き彫りになった。このケンカで得た経験が何かと言われれば、そう答えるしかなかった。

 高価なスーツは衝撃や打撃を吸収し、刃物も通さない。強靭なグローブは、それだけで握りこむ陽比谷の拳を凶器に変えてしまっている。どれほど力を込めて人体を殴りつけようとも、殴る側の拳は傷まない。これなら、いくらでも人間を殴り続けられる。

 

 

 

 どうしようもないほど不細工なケンカだ。もっとも、それはお互いに言うべきことか。陽比谷は自嘲気味に荒い息を付いた。

 

 

 既に拳で2人ほど地面に横たわらせている。彼は、一切の能力を使用していない。暇さえあればダラけているスキルアウトとは、彼は少々事情が異なるのだ。

 

 彼は一応のところ、本気でLv5を目指していた。少しでも時間が空けば、いつだって自分を鍛えてきた。多少なりとも何かの"足し"になればと、格闘術にもそれなりに手を出していた。

 

 

 能力を使わず、どこまでスキルアウトたちをいなせるか。ふと思いついた"新しい遊び"だった。どこか吹っ切れたように、ニヤニヤといやらしく嗤う。それまで怒り狂うだけだったスキルアウトたちはそこで初めて、陽比谷の妖しい蔑みに気がついたようだ。

 

 

 

「クソ野郎、調子のんなやッ!」

 

 それなりに格闘技を齧っていたのか。そう判断したスキルアウトのひとりが、ポケットから折りたたみナイフを取り出した。仲間内で一番の実力者だったようで、彼の背後に隠れるほかの二人は、どこか自身がなさそうに目線を陽比谷の後ろへ向けた。

 明るい通りからこちらを覗き込む鷹啄の姿を、ちらちらとのぞき見ている。

 

 

 狙いがまるわかりだった。彼女を人質にでもとるつもりか? 

 もうこんなもの、勝負でもなんでもない。

 

 

 ナイフを持ったスキルアウトが切り込んでくる前に、陽比谷は能力で閃光を生み出した。

 それは一瞬の出来事だったが、ピカリ、と路地全体が薄く光る程だった。

 

「おあッ!」

 

 もとより薄暗かった路地で、目もくらむような光量を受けたのだ。スキルアウトは叫ぶようにうろたえて、たたらを踏んだ。

 

 陽比谷はグローブの上から、男のナイフをまるごとがっしりと掴み、強引に剥ぎ取った。

 目も見えず、武器を奪われた男はそれだけで一気に威勢が弱々しくなった。

 

 

 劣勢を確信したのか、相手が高位能力者だと薄々感じ取ったからなのか。

 残るスキルアウト二人は戦う気をなくしたらしい。すぐさま仲間を見捨てて逃げ出そうと走り出した。

 

 だが、それは果たされなかった。

 

 ケバケバしいネオンのような光と炎の壁が、何もない空間に突如として現れた。

 絶望的な熱を放つ炎の壁が、二人の逃げ道を閉ざす。

 

 

「なにも殺しはしないって。逃げるな。殴られる覚悟もないのに人様にケンカを売るな」

 

 陽比谷は淡々と、かかってこい、と背を向ける二人に言い放った。

 ナイフを綺麗に折りたたみ、右手で握り締める。冷たい金属の重みが、ほどほどに拳に馴染む。

 

 

「ひっ、あっあひっ! やめてくれ! わかった! 負けだ! やめてくれよ!」

 

 ナイフを取られた男は頭を防御するように両の腕で包み、這いつくばって縮こまる。

 

 目潰しは卑怯か? 

 しかし、能力で無法を行うならば、この街ではまだ可愛い小ワザの部類に入るだろう。

 少なくとも、能力でためらいなく急所を攻撃し、あげくポケットからナイフを取り出すよりも卑怯な行為だとは思っていない。

 

 それに加えて、陽比谷にはどうしようもないことでもあった。

 まともに能力を使えば、どうしてもそれなりの光量が発生してしまう。

 

 自分には、こんな程度の奴らがふさわしいのか?

 

 

 

 暴力的な思考が、その脚を動かした。寝込む男をガツンと蹴り上げ、顔を表に上げさせる。

 

 

「があッ! 痛ッ――もうやめてください! やめてくださいッ! すみませんでしたッ!」

 

 重りを持って殴れば、パンチの破壊力は増す。ナイフの柄をしっかりと握り込み、思いきり振り抜けば。耐火スーツのグローブは、己の拳をしっかりとガードしてくれることが分かっている。

 

 このまま加減無しの右ストレートをぶちかませば、目の前のスキルアウトの前歯はまるごとオシャカになるだろう。

 

 

 

 

 陽比谷は力強く、怯えるスキルアウトの腕を掴んだ。

 

 そして彼は拳を振り上げ――――。

 

 バチバチバチィ! と路地内が再び発光した。

 

 突如、暗闇の向こう側から高速で迫る"物体"が飛来し、陽比谷の能力圏内に干渉して、宙を燃え上がっていたのだ。

 

 燃焼した物体はべちゃり、と振りかぶられたままの腕に命中した。

 それはグズグズと焼き焦げた粘着質の液体だった。

 

「面白い!」

 

 そう口にして、謎の攻撃を受けた当人はナイフを奔放に投げ捨てた。

 からからと小さな金属音がこだました。

 放られたナイフが、陽比谷の気持ちを如実に表している。

 もはやスキルアウトなんぞには、興味がなくなったのだ。

 

「もういい。ほら、寝てるのも忘れずに持って帰ってってくれよ」

 

 スキルアウトたちの逃げ道をふさいでいた炎の壁が、打ち上げ花火がすうっと掻き消えるように、俄かに立ち消える。

 

 いそいそと仲間を背負いこんだ彼らは、豹変した陽比谷に対し、恨みと怯えが入り混じった奇妙な顔つきを向けた。

 

「ああ、そうだ。おいオマエ。そうオマエだ。オマエはポケットの中身を全部置いていけ」

 

 スキルアウトの少年は、ぎょっとした。悩ましい表情で硬直した彼にとっては、それは苦渋の選択だったようだ。だが、やがて大能力者の威圧に晒されて、涙目でポケットの音楽プレーヤーを地面に残す。

 ややして、全員が一目散に駆け出していった。

 早々と立ち去るその背中めがけて、陽比谷は叫ぶ。

 

「おい! いいか? 今度はもっといっぱいお仲間を連れて仕返しに来るんだぞ!」

 

 是非とも仕返しに来て欲しい。そんな風にニコニコ顔で嬉しそうに笑っている青年に、スキルアウトたちは精一杯の強がりで暴言を吐き、全速力で逃げ出していった。

 

 

 

 

 

 

 そして。誰もいなくなった路地の深部へと顔を向けて、陽比谷は一方的に語りかけた。

 

「なんだい? なにか問題でも? ナイフを向けられて前歯数本で済ませてやろうとしたんだ。そんなに悪かないだろ?」

 

 スキルアウトたちが逃げていった、そのさらに奥へ。

 陽比谷の目線の焦点は、曖昧な暗闇へと向けられている。

 返答を聞き逃すまいと、耳を澄ます。

 

 遠い喧騒が生み出す静けさが、鮮明になっていく。

 

 都会のど真ん中でも健気に生きる、セミたちの合唱だ。夏の暑さの象徴だ。

 その途端に、陽比谷は自分が汗だくになっていることに気が回り始めた。

 しばしの間、セミの鳴き声が耳朶を打つ。

 次に、ようやく――。

 

 

 

 

 

 

 

「別に。何も」

 

 

 

 

 

 

 

 興味の薄そうな、短い返事が暗闇に反響した。

 それは小さな声だったが、持ち主の巨体を思わせる野太いテノールだった。

 

 

「さっき一瞬、光った時に視えたよ。君の眼、イルカみたいにハートに潰れてるんだね。可愛いじゃないか」

 

 猫やカエルとは違い、イルカの瞳孔は潰れたような歪なハート型だ。その形状は、太陽光がそそぐ海面上と、深海が暗闇へと誘う真下の方向とを、同時に視認するのに優れている。

 学園都市の宵闇は、街灯やビルの強烈な明かりが遥か上空から降り注ぐ。"先祖返り"のその瞳は、街の暗闇に適応した結果なのだろう。

 

「やあやあ機嫌が悪そうだね。"大能力者"程度が図に乗ってたのがそんなに気に食わなかったかい?」

 

「まだ質問の答えを聞いていなかっただろ。教える気があるなら、昼間の続きができるかもな?」

 

 闇からの問いかけは、静かな驚きを生み出していた。

 言葉を発することも忘れて目を凝らし、影の主を探しているのだろう。

 

「おや? 一発"こづかれた"だけでギブアップかな?」

 

 景朗の放った挑発は、正解を引き当てたようである。

 

「冗談だろ? あんなもんじゃ足りない! もっとボコボコにしてくれよ! 何が何でも僕はLv5になりたいんだよ!」

 

「ねえー、どうしたのー?」

 

 唐突な少女の声が、男同士の会話に割り込むように後方からやってきて、路地を響かせた。

 

「なにしてるのー?」

 

 陽比谷の独り言に疑問符を浮かべた鷹啄が、こちらへ近づこうとしている。

 

「早く返事をしろ。やめるなら今のうちだぞ?」

 

 催促に返された返事は、火花が弾ける破裂音だった。

 

「わっ! え? え? どうしたの??」

 

 接近を拒むように、陽比谷は炎の壁で路地を封鎖すると。

 

「君はやっぱり話が早いな、勿論承知したとも! フッハッハッハッ! Awesome! 今日はスゴいッ! アメイジングな夜になりそうだ、キミとデートだなんてな!」

 

 鷹啄に何の説明もないままに、景朗とともに闇へ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 路地裏を席巻していた炎の明るさが、少年の存在を証明してくれていたのだ、と。

 鷹啄ははっきりと、そう悟っていた。

 炎の壁が霧消したとたんに、誰の存在も感じられなくなっていた。

 待ち人の姿も、当然のごとく見当たらない。

 

 

「え? ナニコレ? ちょっと、ねえー、なんの冗談なのー?」

 

 無理もないが、残された少女は状況の推移に対応できていなかった。

 

 自ら発した呼びかけが、虚しく消えていく。

 

 路地は静まり返っている。

 その現場には、既に人の気配というものが残されていなかった。

 

 

「……ええー? ……陽比谷クン、ホントに誰かと話してたの……? 女の子じゃなかったカンジだし……男の人? でも、"デート"って聞こえたような……」

 

 

 真横の、レストランの勝手口が錆び付いた音を立てた。怪訝な顔をしたスタッフは、暗闇にぽつりと立つ女子高生を目に入れる。

 君主危うきには近寄らず、とばかりに、すぐに扉は閉められた。

 

 

「そ、そんな……もしかして……男の人と、デート? ……なに、それ……」

 

 

 無表情のまま、少女はしばし暗い路地で立ち尽くした。

 

 

「……なにそれ――――――すごくイイ……」

 

 

 とてつもなく貴重な"発言"を聞き逃してしまった気がする。そんな気がしてならない、と。

 鷹啄の胸の内を、猛烈な衝動が突き動かした。

 

「いそげっ!」

 

 鷹啄は無言のまま、路地裏を駆け出した。妄想を炸裂させ、若き活力は走力へと変換されていった。

 そうして。

 かねてより待ち望んでいた"夢の実現"を見逃してなるものか、と彼女は小一時間ほど、執拗に周囲を探し回った。

 

 その間。

 

 脳みそ熱ばむ空間移動系能力者は、絡んでくるスキルアウト総勢15名程を千切っては投げ、千切っては投げつくし。

 

 邪魔な雑草をむしるがごとく、無心のままに空高くへと打ち上げ続けた。

 

 数時間後。半泣きの少年たちは無事、高層ビルの締め切られた屋上から救出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギョロリギョロリ、と両の眼は足並みを外れて暴れまわっている。

 深い紅茶色の髪の毛は一本一本が蛇の舌のように、小さな風の匂いも逃さない。

 皮膚の感覚は極限まで研ぎ澄まされ、全身で一つの鼓膜を形成するかのような鋭敏さだ。

 

 超音波すら補足する、生命としての五感の終着点。

 

 そこにはLv5級の演算能力と、景朗独自の能力である脳細胞や神経にまで領域(クリアランス)を届かせる、繊細さ。

 そして鋼のように細胞を堅固し、瞬時に修復させる驚異の出力が必要だった。

 

 それら全てが合わさった最高峰の知覚能力は、"科学"にすら真っ向から立ち向かえる。

 そう胸を張れる出来栄えだった。

 

 そんな風に、ピリピリと神経を張り詰める景朗の気も知らず。

 陽比谷は先程からノンキに、べらべらとまくし立てている。

 

「なあ、紫雲をどう思う? 君はどう見た? 見てたんだろう? 直前まで」

 

「あのなあ、質問するのは俺だ。お前が答えるんだ」

 

「なあ。君は手加減してたようだけれど、その気になれば簡単にアイツを片付けられてたのかい? "あれ"でもまだLv4の領域だってなら……Lv5の壁はやっぱり高いんだな」

 

 紫雲をよく知る陽比谷も、彼女の実力を訝しんでいたようだ。

 偶然にも、2人が思い浮かべた疑問。

 

 "同調能力(シンクロニシティ)"とやらは、書庫(バンク)に登録してある通りの"大能力(レベル4)"で相違ないのか? 

 

 景朗とて、あの氷使いに引っかかる部分は大きかった。だが、しかし流石に。

 

(あの女からは暗部のニオイがしたけど……。だからって"まさか"な……。そんなこと……)

 

「俺の知りたいことは何一つ言わずして質問攻めか。順序ってもんがあるだろ?」

 

「そうかい。了解した。それならさあ、何なりと聞いてくれよ。いずれにせよ面白いものを見せてもらったしね。アイツの氷が食い千切られるところなんて、初めて見た」

 

 陽比谷と紫雲が火澄に執着していた理由。

 それこそが、いの一番に聞き出したいことだった。

 だが、無遠慮にも直接その事を尋ねるのには問題がある。

 公には"先祖返り"と"仄暗火澄"は赤の他人同士でなければならない。

 

 回りくどいけれど、遠回りな質問で聞き出すしかない。

 故に――。

 

「その紫雲ってのの話がしたいんならちょうどいい。そいつ、うしろ暗い事をやってるんだってな?」

 

 

 こうして陽比谷と接触している以上、片時も油断してはならない。

 

 彼と行動をともにしていれば、敵が尻尾を出してくれるかも知れない。

 そんなものが本当にいるのだと仮定すればの話だが。

 仮に、もし何者かがこいつをダシに使っていたのだとしたら、そいつらはこちらの様子を伺わずにはいられないはずだ。

 何らかのアクションを目の前で起こしてくれれば、こちらにとってはチャンスとなる。

 

 "猟犬"たる超能力者は、その好機を狙っていた。

 

 

「ああ、そっちか。そういえば君も顔を表に出したくないみたいなんだものな。

……だとしたら不確定な情報をあげつらっても気に入ってくれなさそうだ。確定的に言える事はなにかな……」

 

「暗部に関係してるってのは?」

 

「ああ、あれ。実は確証はないんだ。そう匂わせる情報がたまに僕のところに入ってくるってだけで、もちろん、そっから先は手を出せないからね。とどのつまりは、何もわかっていないんだよ」

 

「本当か?」

 

「僕たちだって引き際は心得てるさ。一応、裏社会に片足突っ込んだようなところがあるからね。すこしは敏感なんだ、そういう話題には」

 

 人通りのない小路を選んではいるが、2人は屋外を歩いている。

 火澄を狙った理由。"先祖返り"を探していた理由。聞きたいことは山ほどあるが、こんな場所ですんなりと聞くわけにも行かない。

 

「あとは……。うーむ、さっきから質問に答えろという割には具体的な追求がほとんど来ないね? 何かあるんだろう? 聞きたいことが。もしやこういうのは苦手なのかな?」

 

 からかうように、軽口を叩かれてしまった。

 淀みなく弾む口を押さえこもうと、質問をくびりだした。

 

「じゃあ聞こう。俺は紫雲ってのに興味がある。能力や目的についてもっと教えてくれ。話したいんだろ? というか、そもそもなんで俺を探してた?」

 

「ふーむ。……とにかく、紫雲はわからない奴なんだ。確実に言えることと言ったら、アイツは"あの体たらく"でなぜか僕たちのリーダーになりたがってる、ってことくらいかな。どう考えても何か裏があるんだろうね。まあ悪いけど、その点については興味がなくて全然知らない」

 

 欧米人のように大げさに手を広げ、楽しそうに陽比谷は笑った。

 イタリア人ばりのジェスチャーが、よくよく様になる高校生だった。

 

「基本的には昼間見た通りの奴さ。いつも無口で、時たま話したかと思えば命令口調で嫌味ばかり。かちんこちんにモノを凍らせてなんだってあしらってくる。君には効かなかったようだけどね。書庫登録名は同調能力(シンクロニシティ)。ひといきに"同調(シンクロ)"なんて言ってもわかりづらいから、皆は"絶対硬度(アブソリュートエリア)"とか"破壊不能(アブソリュートエリア)"だとか"絶対不変(アブソリュートエリア)"やら"絶対領域(アブソリュートエリア)"――」

 

「まてまて、あぶそりゅーとえりあ? 何だそりゃあ、初耳だ」

 

「見ただろう、あの絶対領域(白いふともも)に掛かる一筋の闇(ガーターベルト)を……どう見ても外国の血が入ってるからね、あのスタイルは……あんなものを直視させられたら、"フローズン"して社会的に死――」

 

「おい、それじゃああの女は関係してないのか? 昼間のバカ騒ぎで蚊帳の外になってた女、巨乳の奴だ。紫雲とやらはだいぶご執心だっただろう。お前だってずいぶんと気にかけていたよな」

 

「へえ、君いいところに目をつけるねえ!

でも、あの娘自体は僕らにはなんにも関わっちゃいない。紫雲ともなんのつながりもない。

けれど、見事な目の付け所だ。

よくあっちが天然物だってわかったね、どうやって見抜いたんだい?」

 

「何の話だ?」

 

「溶岩をだしてた娘がいるだろう? あっちは養殖物となっていましてね」

 

「……は?」

 

 少年は急速に明るさを失い始めていた。もの悲しそうに俯くその姿は、やたらと小さく見えた。

 

「つまり偽乳。PAD, 巨乳御手(バストアッパー)を使用してるってことだよ。ぱっと見で2人とも85点以上に見えるけど、ひとりはカンニングだ。この僕が騙されていたくらいだ。さすがLv5はモノが違うな。一目で見抜くなんて……」

 

(火澄に勝るとも劣らないボリュームだったけど、偽モノ? え……あ、あんなサイズに盛るなんて、可能なのか? なんというか、その、大胆すぎる、故に精神的に可能なのかというか……そ、それは……他人事ながら確かにこっちまで悲しくなるな……って)

 

「ちょっとまて。お前さっきからふざけるなよ? 下らねえ話は要求してないぞ」

 

「あっ、ああ、そう、そうだ。よし、プライバシーを侵害したくないから、あの娘の事はできれば話したくない。彼女は本当に巻き込んでしまっただけだ。どうしても知りたければご自分で調べてくれよ。――ただし。その代わり、紫雲があの娘に執着してた理由なら説明できる」

 

 "先祖返り"は黙したままだ。それを肯定だととらえて、陽比谷は語り続けた。

 

「分かってもらえてると思うけど、"火薬庫"組の能力は基本的に手加減ができない。もっともそれは僕らだけに限った話じゃなくて、だいたいの発火能力者にも言える哀しい現実だ。そもそも高位の発火能力者(ぼくたち)には思う存分能力をぶちかます発散の機会と場所が無い。

だから決闘に活路を見出そうとするんだけど、そこでも相手を殺傷するのは御法度だ。

だから発火能力者(ぼくたち)は手加減するために仕方なく道具(武器)を持つのさ。カビの生えた昔ながらのツールなら、人体にどれほどダメージを与えるのか研究され尽くされている」

 

「その手加減どうこうの話がどう繋がるんだ?」

 

「確かに話がずれたね。だから要するに。僕はアイツと本気で闘えない……それは色々と相性が悪いから……それなら、なにも僕じゃなくたっていい。

他に相性の良い奴をぶつければいい。アイツを倒せるような奴を」

 

 もったいぶって話す少年の笑みに、嘲りのエッセンスが薄らと滲む。

 その胸の内に焦がれた期待と悦楽が、ほのかに透けて見えていた。

 

「とんでもなく苦労したけど、紫雲の能力を徹底的に調べた。で、結論として2つ。アイツは"物体"にしか干渉できない。そして意外なことに、分子量の大きい有機物なんかも凍らせるのが苦手だった。彼女が扱うのもっぱら水や空気、鉄、石。そんなのばかり。つまり……」

 

 陽比谷が暗に語ろうとしていることに、景朗の理解も進み始めていた。

 昼間の邂逅が脳裏に描かれ、反芻される。あの時。

 鼓膜を揺さぶるティラノサウルスの咆哮に、紫雲は"辛そうに"顔をしかめていた。

 

「紫雲は光や波や電磁波に直接干渉して防げない、ましてや実態のないものを凍らせられるはずもない。

その弱点を突く。既に"熱射波形(フラッシュウェーブ)(炎に"波"に変える能力者)"と"加熱光線(マグネトロン)(熱輻射に干渉する能力者)"を勧誘してあるんだ。

もう少し鍛える必要があるけど、ぶつけてみるのが楽しみだ。

今はちょうど"面白いもの(レベルアッパー)"が出回っているからね、クク」

 

「つまり部外者だっていう女の能力も紫雲に通用するってことか? だから嫌っていたと?」

 

「察しがいいね。そう、残る最後の1ピースがあの子の力だ。紫雲は"もともと自然界に存在する無機物"じゃないと上手く凍らせられないんじゃないかと。そう予想していたから……"あれ"はアタリだった!

フフッ、"あんな反応(仄暗火澄への執着)"をみせられちゃあ、YESと答えてもらったも同然だ。

あの巨乳ちゃんは特殊な発火能力をもっててね。

かの"第二位"、"物質化(マテリアライゼーション)"系統に連なる力。

架空の"ガスや高電離気体(ほのお)"を生み出す"物質化能力者"でもあるのさ」

 

(そう言えば昔、話を聞いてた。"消えない炎"の"からくり"か。確かに、紫雲は物体を凍らせて対処していた。能力で具現化された物質である火澄の炎なら、相手はそう簡単に防げない……だから、火澄)

 

 昼間、盗み見た"能力主義"の内輪もめ。その時の様子を、にわかに思い出す。

 彼女は、苛立たしげにつぶやいていたではないか。

 

(陽比谷が『潮岸』の身内でなければ、とっくに○してる……みたいなこと言ってたな。相当イラついてたな、あれは。無理もないか、こいつの悪巧みを知ってたのなら……)

 

「自慢げに語ってるけどな、相手に手の内が筒抜けだったみたいじゃないか?」

 

「ああ、そうさ。このままじゃあ頂けない。いったいどこから嗅ぎつけられたのやら。あの女は異常に"鼻が利く"んだよまったく。案外、暗部ってのも本当なのかな? ハハ」

 

 

 景朗にとっても、それはデリケートな問題だった。同じように"暗部"に所属している組織同士が、任務の都合上たまたま顔を合わせる。そういったことは十分に起こりうることだ。

 もし、紫雲が本当に暗部に所属しているとしたら。彼女の情報を探ろうと画策すれば、その行為はほぼ間違いなく相手方にも伝わってしまうだろう。

 

 暗部とは、おおまかに言ってそういう世界だ。どちらか一方が、一方的に相手の情報を抜き取り、優位に立つことは難しい。非常に難しいことだ。こういった話は、もしかしたら暗部の業界に限らないのかもしれないが。

 

 だとすれば。これから先、紫雲が必要以上に景朗や火澄に関わってこなければ。

 こちらも安易に、彼女に手を出さない方が良い。そういう風にも考えられる。

 

「あいつ、たぶんカタギじゃないぞ。一般人を巻き込むのはやめておいたほうがいい。お前に責任が取れるなら止めはしないけどな」

 

「それはこちらの台詞だよ。ひとつ言っておく。いいかい? 素直に君に情報提供してみせたんだ、あの巨乳ちゃんには手を出すなよ。あの子は前々から"別の意味"で狙ってたんだ。余計な茶々を入れるな?

どうせ答えないだろうから訊かないが、君があの子を助けるようなタイミングで現れたのはわかってるんだ」

 

「お前真顔で何言ってんだ……?」

 

 陽比谷なりにカマをかけての発言だったのだろうか。

 しかし景朗とて、あやうい反応は寸分たりとも表にださなかった。

 

「"不滅の炎"は、紫雲(不変の氷)にとっては"不壊の炎"も同然だったわけだ。それがわかっただけで十分。あのおっぱいはこれ以上傷つけさせやしない。どう見積もっても85点越えのレアリティ……あーあ、勿体無いね。紫雲の偏差値だってもっと高ければ……別の解決策も……あの脚線美は……」

 

 少年は再び、ブツブツとまた下らない話を披露し始めた。

 景朗はそんな少年に対し、凍てつくような視線を送っている。

 

 情報提供をしてやったぞ、とよくも押し付けがましく口にできるものだ。

 陽比谷がベラベラと手の内を喋ったのは、その情報を隠す必要がなくなったからだろう。

 既に、紫雲に手の内を見抜かれていたのだから。

 

(いずれにせよ、火澄が狙われた理由は聞けた。真偽を確かめないと。あと少しだけ情報を補完して……最低でも一晩は必要、か……)

 

 

 始終、"罠"にかかる気配は感じられずにいる。このまま待っていても拉致は明かないようだと、景朗は悟った。

 

 紫雲の問題を慎重に扱うとすれば、残る疑問はこの男が"先祖返り"を狙った動機、となる。

 陽比谷と火澄が以前から顔見知りだったのは、火澄本人から確認をとっている。

 印山の能力を使って景朗を見つけたというのなら、今日というこの日に"火薬庫"メンバーが自分を見つけたのは偶然だったのだろう。

 

(というか、誰が誰を狙っているだって?  何を貰うだって? ……いいだろう……)

 

 背後の少年に対する情けや同情がみるみると薄くなっていく様を、実感した。

 冷めた思考回路は、用意していた"次の一手"を打ち出すことに同意した。

 

 

 はた、と両名の足が止まった。前触れもなく、景朗が立ち止まったのだ。

 

「状況が変わった。"ここ"じゃ危なっかしくて録に話せない。場所を移す。改めて俺が指定した場所に1人で、誰にも行動を悟られずにひっそりと来てもらう。そこでお前の大好きな決闘が待ってるぞ」

 

「ほう? 相変わらず急だね。でもま、仕方ないか。"ここ(街のド真ん中)"でやらかせば昼間の二の舞だろうね。いいだろう。で、その場所は?」

 

「第十学区。俺のテリトリーに来てもらう。怖気づいたなら来なくていい。でもよく考えろ。貴重なチャンスだぞ、大能力者(レベル4)」

 

「ああ、ああ! で、いつだ? 今からかい?」

 

「それは"お前しだい"だ」

 

 "先祖返り"は、陽比谷相手に柔和な笑みを浮かべていた。初めてのことだった。

 

「どういうことだい? すまないね、僕は察しが悪いようだ」

 

「ところでお前、ボンボンなんだってな。個人的な警護とかついてないのか?」

 

「今更そんなことを……そんなものはついていない。ご立派なのはあくまで大叔父だけさ」

 

「ふーん、そう。オーケー。じゃあ、目が覚めたら全速力で来てくれ」

 

「だからどこに? いつ――つッ! なんだ??」

 

 唾を飛ばしていた少年は突然首筋を押さえ、顔を歪めた。

 チクリ、と太い針に刺されたような感覚があったのだ。

 困惑と疑問で、顔面が凝縮していたが。しかし、それも束の間の出来事だった。

 

 すぐに表情から締まりが取れて、あげく、みるみるうちに体全体が弛緩していく。

 あっという間に、彼は立つことすらままならなくなってしまった。

 

「何、した、オマエ……」

 

 "先祖返り"の腕が、朦朧とする少年のズボンに伸びた。

 そのままなされるがままに、陽比谷はポケットから財布を抜き取られてしまった。

 

 紙幣を1枚取り出し、景朗は血文字で待ち合わせ場所を書き込んだ。

 眼前でブラブラと揺らして見せると、陽比谷はそれをくしゃりと握り締めた。

 

「は、ふぇ。ふぁ……」

 

 耐え切れたのは、そこまでだったようだ。深い眠りに誘われ、少年はバランスを失った。

 

 倒れこむ寸前で、景朗は難なく片手で受け止めた。

 そのまま流れるように、すぐ近くに設置してあったゴミ捨て場まで少年を引きずっていく。

 生臭いゴミのコンテナをひとつ見繕って、そのフタをぱかりと開いて。

 

 女癖が悪いと噂の青少年を、がしゃりとゴミのコンテナに放り捨てた。

 

(お前さん、放蕩息子で有名なんだってな。日頃の行いって大事、と……俺も人のことは言えないけど)

 

 あの汚臭の中で少年が目覚めるまでに、色々と準備を済ませておかなければ。

 どこかすっきりとした面立ちの景朗は、夜道を颯爽と歩き去っていった。

 

 

 

 

 とあるマンションの一室の、玄関の前で。

 大柄な青年は立ち尽くし、そろそろと指をチャイムへと伸ばした。

 腕の付け根をたどってみれば、肩が弾んでいる。

 楽しみを抑えきれない。そんな喜びが垣間見えていた。

 

「に、丹生さーん。少しだけ話せないかな?」

 

『……しばらくそっとシトイテ。今日はゴメンネ。でもムリ。今は誰にも会えない……』

 

 景朗がインターホンへ向けてぼそぼそと呟くと、スピーカーからはどんよりとした返事が響いてきた。丹生の声色は低品質なマイクでさらに歪められ、無残な代物だった。

 昼間の盗聴騒ぎの一件で、だいぶ消沈しているらしい。

 

 されど。一度の挑戦で諦めるくらいなら、端からこの場所へやってきたりはしない。

 チャイムが再び鳴り響いた。

 

「にーうーさーん、お土産もってきてまして。受け取るだけでいいからー。少しでいいから開けてくださーい」

 

『お土産……どうせまたお好み焼きでしょ……?』

 

「ちがいますよ」

 

『そっかぁ。……良かったぁ。ちょうど甘いもの食べたかったんだぁ……』

 

(そういえば、食べ物しか買ってこないもんな、俺……)

 手土産といえば、食べ物。それが景朗の無意識な鉄則だった。

 他人の何気ない指摘で、改めて自らの癖を知ることもあるのだな、と。

 今更ながらに気づいた景朗だった。だがしかし。

 

「ううん。その……"たれ"っていうか、"ソース"は甘いかな。"砂糖"が入ってるから」

 

『……ケーキじゃないの?』

 

「オーケー今すぐケーキ買ってくる!」

 

『開けるからっ、開けるから入っていいよっ!』

 

「オーライ」

 

『ひあう。ちょっと待ってて十分くらい』

 

 

 

 

 

 お目通りが叶うまで、本当に10分近く待たされてしまった。

 その間、買って来た"ブツ"が冷めてしまわないかと気が気でない様子で、景朗は鼻歌交じりにリズムをとった。

 落ち着かない様子には別の理由があるようだ。

 すなはち、要するに。

 "ファミリーサイド二号棟、八階(丹生のお家)"からの眺めは格別だったということだ。

 

 

 

 

 

「きょ、今日はなんのご用時っ?」

 

 いつもどおりの平素な表情で挨拶片手に乗り込むと、邂逅一番に彼女はそう言った。

 そっぽを向かれていたが、既に相手の顔には熱がこもっている。

 

 丹生とて、自分が口走っていた告白もどきの"あのセリフ"を、しっかりと覚えているはずだ。

 それに加えて。あの叫び声を、景朗ならばお店の壁越しに耳にできていたはずだ、としっかり想像してくれているようである。

 

 そう気づいてしまっては、景朗もなかなか触れられなかった。

 

 

 両親と一緒に住んでいたという4LDKには、当時の生活感がそのままに残っている。

 ご両親が使っていた遺品がそのままに放置してあるからだ。

 しかし、掃除はこまめに行われているようである。

 まるまる1年間は履かれていないはずの玄関の紳士用の革靴には、ホコリすら付いていない。

 

 

 目新しいものといえば、景朗が提供した違法品(イリーガル)な探知機器や物騒なツール類だ。どうしてもこの部屋に住みたいと言って聞かなかった彼女のために用意したが、そのうちの一品(盗聴器)は本日の昼間に、思いっきり想定外な方法で使用されてしまっている。

 

 

「あー……昼間、だいぶ怒ってたみたいだけど、あれさ。俺も考えたんだけど、もしかして体晶が関係してたりする? いや、これでもビックリはしてるんだよ? というか、ずっと心配してて」

 

 いつもの丹生さんらしくなかったね、と言外に取りなした。

 丹生はその一言でずいぶんと出鼻をくじかれたらしい。

 さりとて、すぐに安心したように、どこかほっとしたように、宙に浮かせた腰をクッションへくっつけ戻した。

 

「そっか。景朗もやっぱり気づいてたんだ。安易に人のせいにしちゃいけないと思って、あの2人には言えなかったんだけど……」

 

(に、丹生さん、あなたの体の秘密はトップシークレットですから、もとより言っちゃダメだったんですよ)

 

「そ、それ秘密ね? そうそう、その事がずっと気になってたんだ。どうしてもちゃんと聞きたくて。ってあの2人といえば。手纏ちゃんとはあの後どうなったの?」

 

 やはりデリケートな質問だったらしく、深いため息を吐き出した丹生はちゃぶ台にうつ伏せ、だらっと脱力した。

 

「わかった聞かないから。おうし、じゃあ話を戻そう、それで体晶を飲むとどうなるって?」

 

「……怒らない?」

 

 むくり、と身を起こした丹生は、最初にその一言だけを言い放った。

 嘘でも良いからYESと答えてあげないと、先には進みそうにない。

 

「もちろん」

 

「……実は……ひと月くらい前から……」

 

「ひと月ぃ?」

 

 向かい合っていた丹生は怯えて体育座りのまま後退し、タンスにガタッ、と背すじをくっつけた。

 怒らないって言ったのに。ウソつきぃ、と顔に書いてある。

 景朗が不器用にニコっと笑うと、そろそろと席に戻ってくれた。

 

「さ、最近の話なの。薬を飲んでからしばらくしたら、ちょっと乱暴になっちゃう、時がある、かもなぁ、って……」

 

「かも?」

 

「最近なんだからねっ? さいきん。さいきん、少しずつ調子が変わってきてたかも……」

 

「あの時のカンジだと自制が効かなくなるくらい荒っぽくなってた気がするぞ? 気がする"かも"、じゃなくて大事な事なんだからもっと本格的に「へ、へるまにょにょはトクヴェツッ!」

 

 素っ頓狂な叫びが上がって、そのせいで、思わぬ一瞬の間が生まれしまった。

 丹生は醜態をごまかすためか、今度はわざとらしく不満をさらけ出した。

 

「今日のは特別っ! だって景朗がっ! 景朗が――「わかったわかった! そうだとも今日のはトクヴェツだったね! で、やっぱアレかな!? あの時の実験のやつかな原因は?? "第一位"サマのパラメータがどうとかこうとか言うやつ??」

 

 嫌な予感がして、景朗は話題を強引に戻そうと試みた。

 結局のところ、お互いに突っ込んだことを言う勇気がなかったようだ。

 丹生も、景朗の誘いに乗っかってきた。

 

「そうだよっ。"あの実験"の時と似てんの! あの時もみんなイライラしてたでしょ? 実験が終わった後っ」

 

「……去年の実験の? ……そうだっけ?」

 

「そうなの! どーせ景朗だけ別メニューだったんだよ、わかんないんならっ」

 

 丹生が言及しているのは、いわゆる"暗闇の五月計画"で行われた"実験"のことだろう。

 暗部で見かける資料では事実上、"あの実験"の通り名は"暗闇の五月計画"で固定されてしまっている。どれも似たような名前であったから、景朗も今ではそう呼んでいる。

 

 暗闇の五月計画と言われて、幻生を除いて強く印象に残っているのは、黒夜と絹旗、二人の少女だけだった。

 

 そもそも他の被験者とは、あまり触れ合う機会もなかった。

 施設の中では少年少女たちとすれ違うこともありはしたが、不思議な偶然か、丹生を見かけたことはついぞなかったのだ。

 

(あの頃はまだ、匂いに敏感じゃなかったもんな……今なら体臭で簡単に嗅ぎ分けられるのに)

 

 しかしいずれにせよ、丹生の能力には"絹旗のような特性(自動防御性能)"が備わっている。

 あの実験を受けていたことに間違いはない。

 

 

 

「ん? "みんな"って言った? "精神性(マインド)"を弄られてた全員が漏れなく?」

 

「そうだよ。だからしょっちゅうケンカが起きてたじゃん。こども同士で」

 

 丹生の言葉には信憑性がある。彼女の発言通り、あの当時は黒夜も絹旗も、普段から異様に苛立っていたのを覚えている。

 

 黒夜海鳥に至っては、まさしく自制が効かぬ怒り、と形容できそうな振る舞いだった。

 

 黒夜、絹旗、丹生。3名は操る対象こそ違えど、似たような念動能力者(サイコキネシスト)である。

 きっと類似した"第一位"の"精神性"を貼り付けられていたに違いない。

 

(そうか。幻生が言っていた"一方通行"の"精神性(攻撃性)"か……)

 

「それじゃあ、もしかしたら……お昼の時さ、ご飯食べてる時に言ってたよな、"身体検査"に備えてずっと能力の練習してる、って。それも原因のひとつだったりするんじゃないか?」

 

「……う?」

 

 目をぱちくりとさせて、丹生は硬直した。

 

 丹生の能力の底上げに"第一位"の精神性が関与しているというのなら。

 限界まで能力を振り絞るという行為は、"第一位"の精神性が眠る"領域(クリアランス)"へ踏み込むことと同義なのではないだろうか。

 

「あう。そうかも、ここのところずーっと特訓してたから。ああーっ、そうかも、そうだよ!」

 

 謎が解けた、と言わんばかりに喜んでいた少女を制して、景朗は軽く睨みつけた。

 

「とにかくっ」

 

「え、なにっ?」

 

 急変した青年の様子に、すぐさま彼女は戸惑った。

 

(健康に繋がりそうなことはなるべく教えてくれ、って言ってたのに。手遅れにならないようにっ。なのに……)

 

「ちょいと一ヶ月は遅いんじゃないっすかねえ……?」

 

「だ、だってすっごく最近の事だったからっ。自分でも自信なかったんだもん」

 

 しゃーねえなー、と諦めたようなため息を出すと、丹生はフォローに走った。

 

「うう、ごめん」

 

 謝る丹生の鼻声が、景朗の耳についた。

 もとより落ち込んでいた彼女に、追い打ちをかけに来たわけではない。

 そこで空気を変えようと思った。

 だから、何とはなしに浮かんでいた小さな疑問を口にしてしまったのだろう。

 

「なあ、そういえばあの時の"実験"。実験の間さ、ずっと頭ガンガンしてて、とんでもない悪寒でずーっとピクピクしてたよな、丹生も?」

 

「……えー? そんなことなかったけど。痛いのは最初の一瞬で、あとは――こう、すごい違和感がして、ずぅぅっとずぅんずぅん胸騒ぎがするようなカンジ。じゃなかった?」

 

「俺はずっとのたうち回ってたよ。それじゃやっぱり別の実験を食らってたのかな……ッチ。あのキモじじい俺に何してやがったんだ……」

 

(丹生と意見が食い違うな……。俺だけ別の実験されてたのか?

 

いや、幻生は"俺だけ実験結果の傾向が食い違う"といって大喜びしてた。

あれだけ特上にニヤケてたんだ。嘘やデマカセで笑っていたってのは、少し違う気がする。

 

……やっぱり、"あの言葉通り"だったと考えないと)

 

 

 景朗がLv5として覚醒した後に、幻生は平常運転の喜色を貼り付け、こう教えてくれたのだ。

 

 『"一方通行"と拮抗し、張り合える"パーソナルリアリティ"の素地が雨月景朗に眠っていた』からこそ。

 景朗だけやたらと実験で苦しみに苛まれる羽目になったのだと。

 

(奴はあの時気づいたんだよな。俺にそれなりの素養(Lv5級のポテンシャル)があったことに……ん? でも、どうしてだ??)

 

 矢庭に黙り込んだ景朗を丹生はじぃっと見つめて、観察し始めた。

 物珍しそうな視線が、神妙な顔つきの青年にずぶずぶと突き刺さる。

 

 普段ならすぐにからかう言葉を口にするところだった。

 しかし、頭の中で考えを巡らせるのに忙しく、景朗は見つめられるがまま、思考の海に沈んでいった。

 

 

 

(……遅くないか? 俺が"そう"だって気づくのが、幻生にしては遅くないか?)

 

 

 "素養格付(パラメータリスト)"は、恐らく実在する。

 少なくとも、噂話に登場する"素養格付"に似通った"産物"が、この街には存在しうる。

 

 先週末に巻き込まれた事件で、確信を得ていた。

 "幻想御手"が引き金となって勃発した、ウィルステロ事件。

 件の事後処理で起こった、"カプセル"のアジトの襲撃。

 木原数多は、そこで回収されかけた子供達の"素質"をその場で選り分け、ふるいにかけた。

 

 ガキんちょどもは皆が、まだ本格的に能力開発(カリキュラム)を受けていなかった。

 それにも関わらず、何故か仕分けが滞りなく行われていた。

 ということは。

 

 

 "素養の格付"なるものは、ヘタをしたら学園都市全体を巻き込んだ規模で行われている可能性すらある。

 

 

 幼き頃の雨月景朗にも、その捜査は及んでいたに違いない。そう考えるのが自然だ。

 となれば。

 景朗はLv5へとたどり着く素質があったというのに、そこをすんなりと見逃されていた理由はなんなのだろう。

 

 

(そもそもどうして幻生は俺の"資質"を知らなかったんだろう。奴ほどの研究者にすら知らされていなかったってこと、ありえるのか?)

 

 木原幻生ですら、"素養格付"を"調査する側"ではなかったということになる。

 だとすれば、一体誰が。一体どんな組織や機関が、180万人に迫る人間の調査を……。

 

(御坂さんなんて随分小さな頃から目をつけられて、裏でとんでもない計画に利用されて……ッ。そうか、"あれ"が始まりじゃあなかったってことなのか……)

 

 その時。どこか、脳みその奥深くで。

 その"想像"にたどり着いた景朗の脳髄に、幻痛にも似た仮想の衝撃が走った。

 

 信頼を決して裏切らない、持ち前の第六感がざわざわと震えだした。

 冴えた刺激が体中に張り巡って、思考回路に活が入りだす。

 

 

 そうして――過去の出来事が、鮮明に思い返されていく。

 

 もう生きてはいないミサカ9174号は、以前こう話してくれていた。景朗はありありと覚えている。

 

 御坂美琴ですら、幼少期からその才能(DNAマップ)を見出されていた。

 そして。後の計画のネックとなる、クローンの大量生産後の、"調整(学習)問題"。

 

 それを解決したのが、学習装置(テスタメント)。

 ミサカクローンズに言わせれば――テスタメント完成にもっとも貢献した"素材"が、雨月景朗の人間離れした脳みその耐久性だったっという話だ。

 

 

 クローンズの脳波パターンがオリジナル(御坂美琴)と完全に一致しないのは、生育環境の違いと、さらにもう一つ。

 雨月景朗の脳波パターンの癖が、うっすらとクローンズに滲んでしまっているから、らしい。

 

 それが一体どういう意味を持つのか理解できなかった。だが、ミサカ9174号は、"それ"が非常に価値を持つことなのだ、と景朗に礼を口にしたのだ。

 

 ミサカクローンたちは、景朗が計画の完全なる部外者ではない、と口にしていた。確かに以前から、彼女たちはそういう言い方をしていたのだ。印象に残ってはいたのだが。

 

 なんのことはない。彼女たちは、自分を"育ての父親"だとみなしていたようなのだ。

 曰く、景朗が素材として犠牲を払ってくれなければ。

 自分たちはこの世に生まれてすらこれなかったのだと……。

 

 丹生と楽しくちゃぶ台を囲む、この間にも。こうしている間にも"街"では、あのクローンたちが……。

 

(……いいや、知らないね。俺が知ったことか。俺には関係ない……)

 

 ふとした折に湧き上がる、じくじくとした後悔やもの悲しさ。そこから目をそらすのも、もはや慣れたものだ。

 

 今は別に考えなくてはならないことがある。景朗はすぐさま、思考を無理矢理に切り替える。

 

 

 御坂美琴(第三位の超能力者)は幼い頃からそのポテンシャルを見抜かれ、学園都市の計画に組み込まれていた。

 

 現に、"原石"やら、"解析不能"やら噂されている"第七位"以外のLv5は皆、ズブズブと暗部の匂いを漂わせているものばかりである。

 

 そうくると。

 

 暗闘の果てに開花したものではあるが、一応はLv5へとたどり着いた雨月景朗の"素養"が、都市の闇に見逃されていたとは思えない。

 

 果たして、幻生までがそいつを見逃すだろうか?

 幻生はなぜ知らなかったのか。

 その理由は限られている。

 すなはち、"あえて知らされなかった"のだ。

 

 何故か? 

 邪魔をされたくなったからなのだろうか。水面下でひっそりと"事"を成したかったから、なのだろうか。

 

 何を?

 "得体の知れない計画"をだ。"雨月景朗(自分)"に関わる何かよからぬ事なのだ……。

 

 

(……俺にも"あった"のか? いいや、"ある"と仮定しておかなければダメだ。

御坂さんのように、考えにも及ばない"何か"が。想像もつかない計画が、俺にも……。

もしかしたら、今この時も……)

 

 

 誰かが、幻生にすら"そう"とは知らせずに、"悪魔憑き"の才能を秘匿していたというのなら。

 そんなことをするのは誰だ? いや、むしろ。

 そんなことが可能なのは誰だ?

 

 思い当たる人物はそう多くはいない。

 ゆえに、わざわざ悩む時間すら必要無く、ひとりの人物が脳裏に強く浮かびあがる。

 

 

(アレイスター……やっぱり。やっぱり"あれ"は、きっとその一部なんだ)

 

 

 四月の末。垣根帝督を追い払った、"謎の現象"について。

 景朗の理解は未だに追いついていない。

 

 直感的にアレイスターの"未知の力"に対抗しうる、"切り札"になるかもしれない。

 そう期待していた"謎の現象"だったが。

 

(やれる。やれることはわかっているんだ。でも、なぜ"できる"のかまるで理解不能だなんて。この期に及んでまだ、詳しいことはわかってない……)

 

 景朗はあれから1度、"未元物質(ダークマター)"との戦いの"再現"を行っている。

 戦闘に極めて有用である"謎の現象"を、いつでも活用できるよう"訓練"するためだ。

 

 しかし、その"訓練"とでも呼ぶべき"再現"の成果は、芳しくなかった。

 その原理や応用法について、なにひとつ解明できなかったのだ。

 

 

 薬味から受けた最後の依頼である、御坂美琴への威力偵察。

 速やかにそれを済ませて、景朗は早速、"謎の現象"の解明に取り掛かかった。

 

 厚い雲が空を覆っていた、五月の半ばのどんよりとした日だった。

 

 景朗は"特訓"に挑むためのフィールドを、第二十一学区のダムの、その水底に求めていた。

 つまり、ダム湖の深い水の中で"再現"を行ったのだ。

 わざわざ辺鄙な場所を選んだ理由のすべては、アレイスターの目から逃れるためにあった。

 

 

 丑三つ時の深夜。濁り、暗闇に包まれた生ぬるい水の奥底で、もう一度、"第二位"を打ち負かした"魔法"の再現に臨んでみせた。

 

 

 

 結論から言うと、羽の生えた狼は無事に、見事な紫炎を吹き出すことに成功した。

 

 しかしどうしようもなく説明不可能な現象だ。

 景朗が変身した狼には、生物として可燃性ガスを作り出す器官も、発火を促す牙も、なにひとつ存在しないのだ。

 

 

 一言で言えば、"それ"はとても不思議な体験だった。

 "あの時の戦い"でたった一度ばかり経験したことを、体は完璧に覚えていた。

 まるで息を吸うように、自然に願いが叶うように。

 

 

 だからこそ、その過程が一体なにを意味するのか、まったくもってつかみどころがなかく。

 理論の"り"の字も見つからないその現象は、まさしく魔法のような出来事だった。

 

 それでも確かに――――"再現"は成った。

 

 そして悔しいことに、理解できたのはそこまでだった。

 

 

 

 

 仕組みをわずかにでも理解できればと景朗は期待していたが、希望は無残に打ち砕かれた。むしろ、真逆の結果と言って良かった。

 新しく獲得した知識はなにひとつなく、結局は余計に理解の及ばない現象ばかりが起きてしまったからだ。

 

 狼男に羽を生やしただけで、景朗の躰中の細胞はどこまでも壊れていった。

 そして、知った。

 痛覚を抑えるとか、痛覚を感じる神経を無くすとか。そういった抵抗は一切の無駄だった。

 どうやら"強烈な痛み"が、その行為には要求されるようなのだ。

 

 景朗の変身能力には前提として、幼い頃から有していた"痛覚操作(ペインキラー)"が必要となる。

 そもそも、肉体に"痛覚を感じる余地"が残っていれば、変身する段階で失神してしまう。

 

 もし、痛覚が生きた状態でバリバリと躰が裂けて変形していけば。

 どれほど非道な拷問にも勝る苦痛が、躰中をかき乱すことだろう。

 

 

 垣根と戦った時も、思い出したくもない身の毛もよだつ激痛が生じたのを覚えていた。

 

 だが、それはてっきり"未元物質"が生み出した"細胞分裂を抑制する物質"の影響によるものだと、そう思い込んでいた。

 現実は違った。非常に惜しまれることに間違った推理だったようだ。

 

 

 

 景朗がどれほど"痛み"から遠ざかるように能力を使おうとも――――。

 例えるならば、自分でも触れることのできない箇所にある、脳髄の奥底で。

 決して"いじくってはならない"聖域が、ぎりぎりと有刺鉄線でがんじがらめにされていくような――――。

 

 

 "謎の現象"は絶えず、耐えようのない苦痛を景朗にもたらした。

 "謎の現象"を発動させ続ける限り、それは終わりなくじぐじぐと深みを増していった。

 垣根を追い払った時は、ほんの短い刹那の時間で変身を取りやめていたので、気づかずに済んでいただけだったのだ。

 

 どうやら、長時間の使用は"不老不死(フェニックス)"の肉体をもってしても、不可能である。

 結果として、そう結論づけるしかなかった。なぜなら。

 

 

 

 深い深いダムの底。そこには自分ひとりしかいないはずなのに。濁った水の中で。

 景朗は、誰かの視線に気づいてしまったのだ。それは奇妙なことに、複数の視線だった。

 しまいには、だんだんと話し声まで聞こえ始めて――。

 謎の解明に躍起になっていた景朗は、そのうちに気づく。

 

 隔絶した疼痛は精神の限界を容易く打ち破り、幻覚や幻聴を引き起こしはじめていたのだ。

 

 やむなく"訓練"を打ち切ったものの、その頃にはすっかりと憔悴しきっていた。

 水中から湖畔に上がると、消耗は想像以上に激しく、気づけば身を横たえてしまっていた。

 

 

 質の悪い"幻"だったと、景朗は悪寒にガタガタと震えた。

 

 "体調を崩す"なんて、普通の人間であれば当たり前のことだ。

 だが、"戦闘昂揚(バーサーク)"へと覚醒して、何不自由のない肉体を獲得した数年間。

 一度としてそのような経験を得ることがなくなっていた景朗にとっては、とりわけ背筋が寒くなるほどの違和感を覚える"驚愕"だった。

 

 

 

 ――――湖の中で感じた"視線"には、見覚えがあった。

 まったく同じものが網膜に焼きついて、鮮明に記憶に残っている。

 彼らの"最後"をみとる直前の、光が消え失せる寸前の熱いまなざし。

 

 いずれの幻聴にも、聞き覚えがあった。

 当然だ。あれは――――自分が殺した人たちの声だったのだから。

 

 よくも殺したな、と。全員が自分を恨んでいた――――。

 誰ひとり欠ける事なく覚えていた。だからきっと、あれは自分の記憶なんだ。

 そうだ。それならあれは、ただの幻覚だ。束の間の幻聴だったんだ――――。

 

 それ以外に何がある?

 

 

 

 幼い頃は、暗闇が理由もなくおそろしかった。在りし日の身をすくむような思いが蘇り、景朗は十数年ぶりに、ダム湖の湖畔で縮こまって震えていた。

 

 

 

 

 結局。そこまで苦労したものの、獲得できた知見は多くなかった。

 羽の生えた狼という、なんとも捉えどころのない"悪魔の似姿(合成獣の外見)"が、唯一の発動条件であること。

 判明した事実はその程度であった。尚且つ、それは。

 

 

 その事実は、"悪魔憑き(キマイラ)"と真っ先に呼んだ人間が誰だったのかを、思い出させるものだった。

 

 ところが、事態はそれだけでは済まなかった。

 

 空気を漂う"謎のナノマシン"から逃れたい。そのためだけにわざわざ、"訓練"の場所に深い水底を選んでいた。だがその考慮が、余計に至らぬ結果を招いてしまった。

 

 明らかな失策だった。広大なダムには水害や水質環境、その他もろもろの調査を行うためのセンサーが網目のように設置されていたのだ。

 

 

 後日。当然のごとく、ダムの底質環境を調査していた研究機関は大騒ぎの、お祭り騒ぎだった。

 

『怪奇!! 第二十一学区のダムに"不可解な痕跡"。巨大水棲生物の謎!?』

『我が研究室は巨大生物の確かな生痕を発見した!』などなど……。

 

 

 丹生からまとめサイトの記事を教えられ、景朗は人知れず青ざめた。

 ダム湖の謎の水棲生物の名称について、あちこちの報道機関が好き勝手に命名戦を繰り広げ始めていた。

 景朗にとっては、昨年の"狼男騒動(ウルフマン)"が沈静化してきて、やっと胸をなでおろした矢先の出来事になってしまった。

 

 もちろん、悪いことはそれだけではない。"学園都市の研究機関"がデータを測定していたということは。それはつまり、一番に秘密にしておきたかった人物にも、即刻あの"訓練"の情報が伝わったということだ。

 十中八九、アレイスターは景朗の行いを見通してしまったはずだ。

 

 真正面から戦いを挑んでも勝てない以上、情報戦が命取りになる。

 アレイスターの狙いがどうであろうと、出来うる限り自分の情報を与えてはいけないはずだったのに。

 

(まあ、情報戦こそ勝ちの目がない分野なのかもしれないけどさ……)

 

 焦って秘密をさらけ出すのは愚の骨頂だ。

 もしかしたらどこかに眠っているかもしれない、逆転の目を、自ら潰してしまうことになる。

 どんな行動を起こすにしても、よくよく慎重にならなければ……。

 

 

 冷や汗を拭うように、景朗は首筋を手でさすった。

 自慢の肉体には、そんなものは流れていなかった。

 

 

 

 

 ふと、目の前の"動き"に意識が吸い寄せられる。

 

 丹生はすっかり飽きてしまったのか、景朗が買ってきた手土産を思い出したように、ガサゴソと探っている。

 

 丹生の存在が、非常に心強かった。

 自分は強くなったはずだった。強いはずだった。それでも、アレイスターや幻生を相手にしていると、たった自分ひとりで得体の知れない"街"そのものを相手取っているような気分になって、心が折れそうになってしまうのだ。

 

 

 "謎の現象"。あれはきっと、アレイスターが"自分"を手元に置いているのに関係がある。

 

(アレイスターが俺を"使う"のに、何か特別な理由があるのかもしれない。考えようによっては、俺は常にアイツの隣で管理されているとも言える)

 

 それはもしかしたら、ずっとずっと、昔から。

 景朗が"始まり"だと思っていた、あの日よりも。

 まだ小学生だった景朗が、木原幻生と馬鹿げた契約なんてものを結んだ、あの日よりも。

 もっと昔から用意されていた、オゾマシイ運命なのかも知れない。

 

 

 

「どうして今になって気づくんだ……っ」

 

 ほのかな怒りをまぶした自嘲の声を、景朗は荒げてしまっていた。

 だがその時。包み紙に手を伸ばしてかけていた丹生は。

 

「ひうっ?!」

 

 壮絶にビクついて、手を引っ込めた。景朗の歪みに歪みきった壮絶な怒り面に、それほどまでに大事なことだったのか、と涙目になっている。

 

「ごめん、そうだよねっ……? たこやきっ、たこ焼きでしょ、これ」

 

 丹生の発言に、景朗は刹那の間、理解が及ばなかった。

 

「あ……ごほん。ああいやごめん、こっちの話。うん、そう。それたこ焼き。美味いぜ。ささ、お食べください」

 

「う、うん。ごめん、アタシ鼻が詰まってて、匂いがわかんなくて」

 

 丹生は少し前に泣いていたようだ。部屋に入った時から、景朗はニオイで悟っていた。

 恐らく、手纏ちゃんと喧嘩してしまったせいだろう。

 

「ふは。はな……涙の匂いがしてたから気づいてたよ。そんな泣きなさんなって、仲直りには誠心誠意協力しますから」

 

(あっぶね。鼻水の匂いがしてたっていうところだった……)

 

 ところが、ガサガサとたこ焼きの封を剥がすのに忙しく、丹生は話を聞いていなかったようだ。

 

「今日はたこ焼きなんだ。この間まではずっとお好み焼き買って来てくれてたけど、結局粉モノだし……ねえなんでここんとこずぅっと粉もの?」

 

 景朗の取りなしをスルーして、別の質問が飛び出してきた。

 

「諸事情あって……」

 

「むぅ。最近やたらとあたしに食べさせたがるけど、どうして? 教えてくれなきゃ食べてあげないって言ったらどうする?」

 

(丹生さんがもっとも一般人的な味覚をお持ちだからです。けど、そんなシラケるような事は言いませんよ、このタイミングではね)

 

 丹生に粉ものを食べさせたい理由とは。

 当然あるのだが、少々情けない事情からくるものだった。

 なので、ごまかすしかない。

 

「に、"任務"の都合上……」

 

「どうしてすぐわかる嘘つくのかなっ?! アタシだって暗部に居たんだからわかるよそのくらいっ?!」

 

「い、いいから鍛えるんだっ。"粉もん"を鍛えるんだっ!」

 

 首を180度回転させて、景朗はわざとらしく口笛を吹いた。

 

「ひわあっ! 痛々しいからやめてぇっ!」

 

 誰にも真似できない必殺の"視線逸らし"である。どんなに目が泳いでいても、相手は自分の表情を確認できない。

 

「もーおおっ、『鍛えるんだ』って、鍛えたいのは景朗の方なんでしょ? 無理やりアタシを巻き込まないでよっ。そもそも、たこ焼きやお好み焼きで誰か接待でもするの? そんな急にサラリーマンみたいに飲み会の幹事押し付けられましたーみたいな任務にならないでしょ……景朗の仕事っていったらどうせ……あ」

 

「そうさ……どうせ……俺は……」

 

「はいはいストップ! 落ち込んだフリしない! そんなことしても無駄だからねっ。いい加減"悪巧み"してること教えてくんなきゃ食べてあげない。どうせ大した理由じゃないんでしょ?」

 

「なっ。……ふっはっはっは『食べてあげない』とな? ふふふ、『どうかお願いしますから召し上がってください』とまで言う気はないのですよ」

 

 景朗はたこ焼きの箱を奪うと、おずおずと爪楊枝でそのうちのひとつをつまみ上げた。

 そろり、そろりと口元に運んでいく。

 

「これ、ウマいと評判のお店ですから。厳選の一品ですから」

 

 ひとつひとつが美しい円形にまとまっており、生地の色合いも見事な黄金色だ。濃厚なソースの香りは甘く、食欲へと囁きかけてくる。

 ごくり、と丹生のノドが鳴る。されど、彼女の意地もなかなかのものだった。

 

「いいもん。たべないもん……」

 

 困った。景朗とて、本当に食べる訳にはいかなかった。

 本音を言えばまぎれもなく、丹生に味の感想を聞くのが目的だったりするのだから。

 

「ひとパック3000円でも?」

 

「ウソッ!? これ三千円もしたの??」

 

 驚いたのか、今度こそガタッ、と丹生は腰を上げた。ところがすぐさまその事を恥じたらしく、ただちに疑惑の声で切り返してきた。

 

「い、いいもん。3000円のたこ焼きなんてヘンだよ。そこまで高くなるなんて普通の"たこ焼き"じゃなくなってるんだからっ。きっともう別の食べ物になってるよっ。そんなに高いなんてヘンだもん」

 

「ぬぐ」

 

 言われてみると、確かに不思議になる。そもそもたこ焼きは原価が抑えられる部類である。

 一体どこに3000円まで高騰させる要素があるというのか。

 技術か? 材料費か?

 

 景朗はクンクンと匂いをよく嗅ぎ分けてみた。

 

(あ、このたこ焼き、トリュフ入ってる……この分だと恐らくタコも高級品だな……)

 

 確かに、このたこ焼きはうまいのかもしれない。でもやっぱりここまで行くと、"普通にたこ焼きとしてウマイ"というよりは、中に入ってるトリュフとタコがウマイってだけなのでは……。

 

 思い切ってぱくりと口に放ると、丹生が耐え切れずに反応した。

 

「あっ」

 

「もごもご。ふ、ふおおおおおおおおおおおおっ! ひょーうめえぇっうめえ! ほらほら丹生ひゃんもたべへみなおっ! ほらほらっ」

 

 美味だー、と盛大にはしゃぎつつ、そのままゴリ押せとばかりに景朗は強行策をとる。

 ザクリと爪楊枝をたこ焼きに突き刺し、丹生の口元へと急ピッチで運んでみせた。

 

「あう……あ……たべな……たべ……」

 

 食べないと言い張った手前、丹生は我慢するようにそっぽを向いた。

 サイドで止めた髪がハネて、景朗の鼻先をくすぐった。だが。

 

 彼女の正面で、ふるふると艶やかにエサを揺らしてやると。にわかに視線が合体した。

 とたんに若干テンパった仕草を見せて、相手はしばらく葛藤を披露した。しかし。

 すぐにおとなしくなって、意外にもあっさりと。

 

「あむっ」

 

 勢いよく食いついた。

 

「どうっスか? 美味いっスか? どんなカンジ?」

 

「もぎゅ、もういっこ」

 

 追加を要請しておきながら、丹生はおずおずと器用に少しずつ後ずさる。

 景朗もちゃぶ台を挟み、前のめりにならざるをえない。

 

「おうし。ほら、さあほら」

 

「あむむぐっ」

 

 しばしの間、もきゅもきゅと音を立てて咀嚼し、そして飲み込んだのか、喉が上下した。

 

「ど、どう? 感想が聞きたいんスけど」

 

「もうすこし食べてみないと……」

 

 丹生は受けの姿勢を強くして、あーん、と口を開けた。

 一方の景朗も、彼女をさらに覆うような前傾姿勢となる。

 

 言わずもがな、手ずから相手に食べさせるこのシチュエーションには、気恥ずかしいものがある。

 

(丹生の野郎、目をつぶって口だけ開けやがって……い、いいだろう。俺は負けない。降りないぜ。自分から降りてたまるか……)

 

 ぎゅっと閉じられていた瞳が、突然パチリと開く。思いっきり覗き込んでいた景朗の眼光を正面から受けて、丹生は慌てて目をつぶった。

 生唾を飲み込んだのは、景朗の方だった。

 

 

「じゃあほら、第3弾どうぞ」

 

「むぐ、むぐむぐ」

 

 さらにパクつくと、丹生はまたぞろじわじわとお尻だけで器用に後ずさってしまう。

 

「美味い? ってえか、なんでそんな仰け反るんだよ? 食べさせにくいよ」

 

「……感想が聞きたいんでしょ? じゃあ。あ、あーん」

 

 至近距離でじっくりと観察してみると。そしてさらに相手の心臓がばっくんばっくんと高鳴っていることに気づいてしまうと。

 今まで気にもとめていなかった事実を、ふと再確認してしまったりするものだ。

 

 真上から、瞳を閉じた相手を見下ろす。そして、気づく。

(丹生ってこんなスタイルよかったのか……限りなく谷間に近い絶景が……はっ!)

 

 もうそろそろ、いい加減にしろ、とどこか遠くから聞こえてきそうだった。

 景朗はそこでようやく思い出したように前傾姿勢を取りやめて、恥ずかしそうにおずおずと腰を据え直した。

 

「おい、もう腕が伸びねえって。もっとこっち来てくれよ……あっ、そうか」

 

 腕の長さが足りないなら、伸ばせばいいのだ。

 爪楊枝をつまんだまま、二の腕がにゅるにゅると"伸びて"いく。

 

「ひゃうわあ、キモっ!」

 

 薄目を開けた瞬間に飛び込んできた、奇妙に伸びたるんだ腕に驚いたらしい。

 それと同時に、丹生の背筋も飛び上がらんばかりにビクリとハネてまっすぐ伸びた。

 

(あ。姿勢が戻った)

 

「むーっ、いいじゃんちょっとくらい……ひわ! わかったからやめて、自分で食べるからっ。食べるからウデ戻してっ」

 

 うねうねとタコ足のようにくねらせていると、ようやく丹生から降伏宣言があがった。

 

「で、味は?」

 

「うーん、なんかよくわかんない味なんだけど、すっごく美味しい。うん。フツーに美味しいよ」

 

「星いくつくらい?」

 

「な、なんかわかんないんだけど、なんだか……今日のは星……三つ!」

 

「おおおなるほど星3ついただけました。フツーに美味しいとな。普通な感性をお持ちの丹生さんにそう言っていただけると安心できますよう。ふいーっ」

 

(丹生さんの星三つが来たなら間違いない。こいつは"デルタ"の奴らにも紹介できるぞ。上条と丹生さんは同じ貧乏舌してらっしゃるからな)

 

「もーったまには素直に褒めてよぅ。ふん、だ。いいもんね。全部食べてやるっ」

 

「あ、いいよ全部食べちゃって」

 

 あっけらかんとそう答えると、丹生は白けた風にたこ焼きのパックをちゃぶ台に置いてしまった。

 

「おや、どしたの?」

 

「……やっぱりあとで食べる」

 

 丹生は飲み物を取りに行ったのか、おもむろにキッチンの方へ向かっていった。

 

「っしゃあ……リベンジだ……」

 

 土御門とその妹、舞夏ちゃんと一緒に行う予定の"たこ焼きパーティ"第二回戦へ向けて、景朗は闘志を燃やす。

 次の"たこパ"にもほぼ間違いなく、前回において散々に青髪の無知をあげつらった上条当麻もおまけでついてくると思われる。

 ※実際のところは青髪くんこそがオマケポジションなのかもしれないが。

 

 

(土御門はあのナリで信じらんねえくらい博識だし、上条も勉強できねえくせに余計なコア知識だけはやたらと詳しいんだよな畜生。

 エセ関西弁系キャラだとはバレてしまってるけど、それでも……仲間内でよりにもよって"青髪クン"が一番"粉もん"に詳しくないって現状は……

 ウニ頭なんて完全に"キャラ崩壊しかけてるイタい奴"を見る目つきなんだもん……)

 

 糞御門クンは針のむしろに立たされた青髪クンをゲラゲラ笑って指差していたが、そもそも余計な心労をプレゼントしてくれているのは彼奴のせいなのだ。

 今にして思えば、当然の過ちだろう。

 土御門の腐れアドバイス崩れなど、最初からまともに取り合ってはならなかったのだ。

 あんなものは助言でもなんでもない。腐敗し、崩壊してしまっており、アドバイスとしての体をなしてなかっただろう。

 どうして自分は鵜呑みにしたのだか。

 

 おそらくは。録に窓のひとつも付いていない"あのいびつな空間"が、己の正常な判断力を奪っていたのだ。そうに決まっている。

 

(あの時は"あのアレイスター"に重宝されている敏腕エージェントに見えたんだもの……)

 

 そこまで思い浮かべて、景朗はかぶりをふった。

 あの男は確かに、"敏腕"であるには違いない。

 無能力者(レベル0)のあの様で、理事長の命令をこなしつづけているのだから。

 

(まあ、それも怪しいけどな。俺もだんだんとわかってきてるんだぜ、土御門。ただの無能力者が、あれほどアレイスターに重用されるわけないってさ)

 

 それは、カンに過ぎない。だが、疑いは徐々に景朗の内側でどんどんと膨らみ、存在感をましている。

 

(どうせお前さんも、"謎の現象"と何か関わりがあるんだろう?)

 

 

 ああちくしょう。何もかもあいつらのせいだ。

 あのクソ御門のせいで。幻生のせいでっ。アレイスターのせいで。

 心の中で当り散らす。

 

 しかし、責任の一端は自分にもあるのだと、そう理解している理性は、決して頷き返してはくれなかった。

 

 だが、それでもやはり。一番の元凶は、奴だ。

 アレイスターに操られるままでは、全てがままならない。

 

 自分の人生を決めるのは、今のところすべてあの男次第なのだ。

 

 だというのに、現状ではヤツの弱みを握ることすらできそうにない。

 お粗末な手法でアレイスターの粗を探せば、その目論見は丸裸にされてしまうだろう。

 

 

 自分ひとりでは、やはり限界がある。

 

(かと言って。一体誰と……)

 

 死んでも構わないような赤の他人(悪党)は、端から信用できない。

 かといって。

 信用できる極少の人間は、絶対に巻き込めない。

 

 

 

 

 またぞろ考え込んだ様子で、無言で停止していた景朗が気になるのか。

 麦茶のグラスを二つ持って帰ってきた丹生は、そわそわと横顔を覗き込んでくる。

 

(なんだか今日は特別に落ち着きがないな、丹生さんは)

 

 一方の景朗は、不思議なほど心が安らぎ、落ち着く心持ちだ。

 不思議な話だが、この家は異様に居心地がよかったりするのだ。

 彼女の家にお邪魔すると、景朗はいつもいつも心が凪いで、研ぎ澄まされていく。

 だからだろうか。ついつい、考え事にふけってしまうのは。

 

(……うーん。そうも言ってられないか……)

 

 どこかの誰かさんが、やたらと心臓をばっくんばっくん脈動させている。

 こういうものは、一度気づいてしまうとなかなか頭から離れない。

 隣から聞こえてくる心拍(ハートビート)の高まりは天井知らずで、どこまでも上昇していきそうな予感がしてならない。

 

 だんだんと無視ができなくなっていた、その折に。

 

「それで、か、景朗、今日はいつまで居るカンジなにょ?」

 

 緊張がたっぷりと含まれた声だった。

 見つめ合って、汗が噴き出しかける。

 いつのまにか丹生の両眼が血走っている。これでもか、というほどに。

 

 

 それもそうだ。こんな遅い時間に、特に用もなく、丹生とふたりっきりになったことなんて、そういえばなかったではないか。

 

 ニヤっと誤魔化し笑いを浮かべたとたん、ごくり、と丹生は息を飲んだ。

 

(いかん。取り立てて用件もなしに、丹生とこんな夜遅くまで……。ふ、普通に俺らヤバいんじゃ。アンチスキルが黙ってないぞお……)

 

 

「な、なんかテモチブタサだねー」

 

「あ、悪い。麦茶だけいただきます」

 

「あっそうだ。ヒマだし、いっしょにゲェムでもしようよ?」

 

 ゴトリ、と飲み干したグラスを置いて。

 

「よし。遅いから帰りますわ」

 

 相手の顔が見れなかったのか、景朗はあさっての方向へと告げていた。

 

「へ?」

 

「ごめん。帰るっていうかね、俺、そういえば用事があったんだった……」

 

「……え? ホントに?」

 

 むくりと起き上がって身支度に取り掛かると、丹生はポカンと口を開けた。

 

「ええっ? ウソっホントにたこ焼き食べさせに来ただけッ?」

 

「…………いや、帰るって…………かっ、帰らずに何をすると言うんだね? こんな遅い時間にっ!」

 

(不純異性交遊に道徳感が引っかかる暗殺者って。本当にどうしようもねーななんだこれ)

 

 力強く、照れくさそうに言い放つと、わりと直接的な言い方がまずかったのか。

 その先を想像したらしい丹生さんの表情も、ピキリと硬直した。

 

 

「…………うん。そおだねー、エヘ。わかった。いつもの任務?」

 

「違う違う。ちょいとその辺のクソ迷惑野郎をボコボコにしばいてくるだけさ」

 

「そ、そっか。ほどほどにね」

 

 気の毒そうに、どこか悲しそうに。丹生が顔をしかめてくれた。

 景朗はそれが、ちょっと嬉しかった。

 

 

「あ。そうだ、丹生さん、もしかしたら緊急のヘルプ呼んじゃうかも知れない。万が一、いいや億

が一、ありえるかって緊急事態の話だけど。ごめんな」

 

「いいよ。わかってるから!」

 

「そだ。なあもう"アレ"いけるんだよな?」

 

「ふっふー、だいじょぶ!」

 

 丹生はラックのハンガーにかけられていたIDを手に取り、景朗にかざしてみせた。

 

 見覚えのある、学園都市専用の一輪・二輪車用の運転免許だ。

 これから先の未来、引き起こされうる未曾有の惨事に備えて、彼女に取得しておいてほしい、と景朗がお願いしていたものだ。

 

 有事の際の、"移動手段"の確保のために。

 

 

「いーねー。今度丹生さんに乗っけてもらいてえな」

 

「いいけど、景朗も取ってよ! アタシ、ひとりで取ったんだよ?」

 

 あさっての方向を向いていても、手に取るように感じ取れる。

 さそや恨めしそうな顔をなさっていることだろう。

 

「いやー、でもなー。街でちょろちょろ走ってる車より……俺、基本的に自分で走ったほうが早いじゃん……?」

 

「うう、そうだけどさっ!」

 

 

 

 

 名残惜しそうに、丹生は玄関まで見送りに来てくれた。

 夏休みは時間とれるかな、と。

 最後の最後に放たれた、質問とも取れないつぶやき。

 

 

 景朗は、何も答えなかった。

 長期休暇ともなれば、時間帯を問わず街中に学生が溢れ出す。

 

 人の目が、街中に開放されてしまうのだ。それはつまり。

 

 

 必然、"第一位"様のお守り(レベル6シフト計画の進行)が難しくなるということだ。

 夏休みのせいで追加される問題の解決に、幻生はためらいもなく景朗をあごで使うだろう。

 呼び出しの機会は倍増し、スケジュールは間違いなく圧迫されることになる。

 

 

 そして悲しくも、予想通り。

 景朗は貴重な高校一年生の夏休みも、棒に振ることになった。

 

 

 

 

 




まことに心苦しいですorz

次の話で、次の話でーとマジでヒロインだすだす詐欺してしまってますorz

ちょっと計算が狂ってしまって、書いとかなきゃーって部分を増やしてしまったんです。
とはいえ、ヒロイン登場回はかけてます。
ただ、気を使わなくてはならない部分があって、もうすこし時間をかけたいのですorz

とはいえ、ヒロイン出しますって宣言してしまった以上、出来うる限りの形でお約束を守りたいです。
明日、もう一話更新いたします。
深夜になって、月曜日に踏み込んじゃうかもしれませんが、申し訳ないですorz
次の話は95%書き上げてあるので、ほぼ100%更新できます
ですが、もうちょっとだけ加筆させてください


あと、お二方の感想をお待たせさせてしまってます。
あすの更新に合わせて返信いたします。いや、本当にお待たせしました……

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