とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

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episode26:一方通行(アクセラレータ)②

 

 

「なあ、2人とも今日暇だろ?どうせ暇を持て増してる系だろ?てか絶対やることないよな、よし。じゃ、ちょっと放課後付き合ってくれよ」

 

 上条の唐突な誘いに、景朗と土御門はカレーをすくうスプーンの動きを止めた。教室を離れた学生食堂、日当たりのよい窓際の四人掛けのテーブル席。デルタフォースの3名は各々は皆、学食で仲良くカレーライスに舌鼓を打っていた。なんだかんだで学食にやってきてみれば、3人が3人とも濃厚なカレーの香りの誘惑に抗えなかったようである。

 

 もしかしたら、昼休みの時間が残り半分を切っていたため、手早く注文できそうなメニューをチョイスした思惑もあったのかもしれない。

 

「スマンでカミやん。今日は用事ありましてね」

 

「オイラもパスだぜーい」

 

「よーっしゃ決まりだな!っしゃー、そんじゃ晩飯は俺んちでお好み焼きパーティーなっ、いえーい!」

 

 上条当麻には割とこういったところがあるのだ。青髪も土御門も大したリアクションを見せずに、聞こえなかったフリをしてもぐもぐと再び口を動かし始めた。

 

「Foooooooh!お好み、パーティ、お好み、パーティ、お好み、パーティ……」

 

 スプーンを視力検査のスティックのように扱い、片目を交互に隠してブツブツと煽ってくる上条。

依然としてワザとらしく騒ぎ続けるこのお調子者を我慢するのは、なかなかに忍耐力が要求されることだった。

 

「はーぁうるせーぇ!『いえーい』じゃねーぜいこの貧乏神条」

 

 耐え切れず反応した土御門。しかし彼の表情には張り上げた声色ほどトゲは含まれていなかった。ひょっとしたら。いや恐らく。彼はお好み焼きパーティなるものに、興味を注がれたに違いない。景朗は無視を決め込みつつも、焦りを胸に瞬かせた。上条も同様にそう考えたらしい。その隙を逃がさんと、ツッコミを誘う次手がウニ頭から矢継ぎ早に注ぎ込まれていった。

 

 

 唾を飛ばし合う上条と土御門の問答を尻目に、景朗はひたすらに忍耐を継続させた。馬鹿野郎なに反応してんだクソ御門。こういうのは無視が一番つれぇーんだ、シカトしろ我慢しろ。そう心の中で文言のように唱えていたのだが……。

 

「あ。青髪はお好み焼きの具はちくわだけな?フィールド(鉄板)でちくわイレブン出陣な?な?ちくわ、な?むしろちくわに小麦粉汁かかったのを焼いただけのやつな?ただし!タマゴだけは遠慮せず食ってよし!」

 

 ぶるり、と身体を悔しくも震わせてしまいつつ、それでも景朗はその煽りを耐え抜いた。

 

(ちくわだけのお好み焼きって何だこの野郎。ちょっと気になるじゃないか)

 

 ぱちり、と上条は頭上に電球マークを浮かべ、何かを閃いた様子を見せた。徐ろに。彼は突然スプーンで右目を隠すと、空いた手でぴこぴこと上下左右に人差し指を回す。それはどこからどう見ても、視力検査そのもののジェスチャーであり――

 

「右、左。上……あれ?お医者さーん、なんか今日のドーナツ、黄色くないですかー?いつもの黒いドーナツじゃなーい……あっ!これちくわじゃないですかー」

 

 頑なに閉ざされていたはずの口元から、ぷしゅっ、とこらえきれずに笑いが漏れ出てしまった。

 

「……ッ!あぁくそ、くそ、ちくしょお!」

 

 一体このやり取りに何の意味があろうか。されど上条は勝ち誇り、景朗は無言を貫き通すのがいたたまれなくなる。もう竹輪は勘弁してください……。

 

「あー無視無視。シカトやシカトー」

 

 上条はようやく、2人の友人は押しても引いてもダメだと悟ったようだ。椅子にだらけてよりかかり、ぶーぶーと文句を垂れだした。

 

「なんだよお前ら非道ぇーじゃん!ちょいと離れたスーパーで今日『タイムセール卵ひとぱっく69円(税込)おひとりさま3つまで』なんだよー!助けてくれよー」

 

「ホンマ堪忍、今日は無理」

 

「メンゴメンゴ、カミやんメンゴー、正直メンドー、そろそろ相手シンドー」

 

 カレーに夢中の2人は、目を合わさずにひたすらそう続けるばかり。

 

「マジかー……ツイてねえな。せっかくヒマだけが取り柄の帰宅部三人衆が揃ってるってのに……」

 

「もう諦めてデルタフォース(三馬鹿)と名乗ろうぜい?」

 

「嫌ですー。ごほん。いいですか?そもそもがワタクシめは、御二人さんと3人セットで扱われていることに不満なんですよ?れっきとした風評被害ですよまったくもう。切実に今からでもソロデビューしなおしたいくらいなんですから」

 

「……カミやん、それだときっとキミ1人だけが『エアフォース・ワン(空気の読めない馬鹿)』みたいなあだ名つけられちゃうだけだにゃー。どうせテロ(災難)に遭うんだろ的な意味で。そんできっと、オイラたち二人は無事に三馬鹿の括りから解放されました、なーんてオチになるだけな気がするぜい」

 

「はは、ボクも同じことかんがえましたよ、と。もっとオノレの体質を自覚せなな、カミやんは」

 

 無条件に土御門に賛同した青髪の態度に、上条も言われるがまま想像したのだろう。言葉に詰まり、悲観に暮れかけている。

 

「そやそや、あと一ついい?言うてな、ボクぁカミやんにテストの点1回も負けたことなかったりするんやけど、プふ。ほほ、土御門もか」

 

 ニヤニヤと見つめ合う青髪と土御門。彼らの追撃に、ひたと上条は唇を噛む。

 

「あれ?いやあれれ?となるとカミやんこん中で、一番、成績、悪――」

 

「笑止!たった入学三ヶ月で学業の優劣を決めようなどとは!?ならば良し!次のテストで勝負といこうじゃ……って」

 

 その瞬間、上条は思い直したように目を見開いた。

 

「待て待て待てゴラテメエら、話題をすり替えようとしてるなクッソ、野郎どもテメェらいつもいつもっ!」

 

 あーあ、気づきやがったか。そう言いたげな彼の友人二人は、全身で脱力を顕にした。上条の無事な方の拳は未だぷるぷると震えている。

 

「ていうか、まぁだタマゴ諦めてなかったのん?3パックで観念しいやぁー」

 

「それじゃ一ヶ月持たねえだろ?馬鹿なの?」

 

「一ヶ月?!だから3人で9パック必要ってことやの!?おバカはどちらさんや!ひとりで卵90個も消費しようとすなッ!」

 

 上条の口ぶりから予想するに、単純計算で一日3個の卵を30日消費していくつもりだろう。いかな神秘の右手と言えども、その身に蓄積されるコレステロールを破壊するのは不可能に決まっている。

 

(ま、俺なら大丈夫なんだけどさ……)

 

 されど、卵90個。口にした当の本人もその恐ろしさに思う所があるようだ。上条の表情を覗けばちょいと顔色も悪く、うっすら青くなっている。景朗はどうにも呆れを隠せなかった。暗部以前に、どうやって生きてきたんだこいつは……。

 

(これも、任務、か……)

 

「はぁぁ……。ん?そおやカミやん。もういっそ舞夏ちゃんにタカったらええねん。プライドより生命が大事やろ?」

 

 実は、上条と土御門は同じ寮の、同じ階に住んでいたりする。トドメとばかりになんと、土御門の部屋は上条の部屋の真横であった。もちろんこれは偶然ではないだろう。土御門の体を張った任務への献身に違いない。であるからして、この2人の交流は非常に容易い状況にあるのだ。あまりにあからさまな構図で上条を哀れむのを禁じ得ないが、とにかく、彼らはお隣さん同士だ。

 

 そしてさらに。土御門の部屋には、なんと想像上の産物だと思っていた"義妹"さんなる生物が生息していたりするのだ。かの義妹さんこと土御門舞夏の存在を思い出した景朗は、条件反射的にそう口走っていた。

 

 

 彼の提案に、一時、上条は表を上げ、如何にも希望の光を見つけたとでも表現できそうな仕草を見せた。しかし。

 

 ドスッ、とスプーンを握り締めたままの土御門の拳がテーブルに突き刺さる。

 

「冗談キツイぜこんな汚フラグ豚と舞夏を近づけさせてたまるか」

 

「……」

 

「……」

 

 残る2人の会話の隙を突き、もくもくとカレーを処理していた彼だったのだが、とうとう看過できぬ話題に触れてしまったらしい。上条と青髪は冷や汗をかいて押し黙った。

 

 実は景朗が口にした『義妹ネタ』は用法と容量を守り、節度を保って使う必要があった。でないとこのように時々、金髪サングラス君が沸騰しそうになるのだ。にゃーにゃーとうるさいこの男が標準語を喋る時、得も知れぬ畏れが襲来する。

 

 

 不用意に義妹ネタを繰り出した青髪に、お前がなんとかしろ、とばかりに上条がジト目を送っていた。

 

「しゃ、しゃーないのー。ほなら、ここはボクが少しばかりお金を融資してあげることにしましょうか」

 

 場の空気が一変するように、ひときわ明るい声で青髪が唄った。サイフを取り出そうとゴソゴソとポケットを探りながら、一層目を細めた愛想笑いが少々ぎこちなかったが。

 

「何っ!いいのか青髪っエ○ゲー買えなくなるんだぞ!ぐす、ありがとな生命より大事なエ○ゲーをっ!お前にとってエ○ゲーは万事に勝る玉璽っ!それでもいいのか青髪ピアスエ○ゲーをっ!うへ。いやでも俺としてはむしろエ○ゲーの方を頂戴したく存じ――」

 

「遠まわしに"要らない"って言うてますよね。しかも誰がエ○ゲー買えるほど銭貸してやるて言ましたか」

 

「そんなこと言わないで青神様ー!ああ青神様青神様青神様」

 

「うはぁぁーっうぜぇぇー。今日は一段とうぜぇぇぇー……」

 

(よっぽど金欠で切羽詰まってるんだな……)

 

 かちゃり、とカレーを食べ終えた土御門のスプーンが皿で転がった。彼は顔を上げると、板に付いた"やれやれ"のポーズをビシリと決めた。

 

「はぁぁー。わかったわかった。ちと遅くなってもいいならオイラがご一緒してやるぜよ。ったく、忘れんなだぜい?晩飯はカミやんの家でだって舞夏に言っとくからにゃー?」

 

 拝むように両手をピンと揃え、上条は上下に激しく振動させ始めた。

 

「ありがとう土御門ー!心の友よー」

 

「ああそれやめてほしいにゃー。キモいにゃー」

 

 土御門の指摘を機に、ああそうですかと上条はすっぱりとゴマすりを止めた。そのまま流れるように彼はふんぞり返ると、腕を組み、椅子に深く腰を据えた。

 

 そしてにわかに、青髪へと顎を指した。

 

「ふぅ。……で?青髪ピアスは?」

 

 『チミは一体何をやってくれるんだい?』

 おそらく、そのセリフの続きはそのようなものになるのだろう。それに加え、呼び方もわざとらしさ満点だった。今だにネタにされている『青髪ピアス』の呼称をさり気無く使ってきている。

 

 景朗は自然と、渋柿をめいいっぱい頬張ったような顔つきになっていた。そのまま感情を逆立てることなく、体内で生成された毒を吐きしてやった。

 

「○ね」

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。部活組の生徒たちが競って教室を抜け出す最中。上条と土御門はニヤケさせた顔を隠しもせず、こそこそと教室の後ろで駄弁り続けている。

 

 どちらがより上手い下ネタを繰り出せるか。どうせくだらない話題(エロトピック)を肴に、そんなことを意味もなく競い合っているのだろう。HRが終わるやいなや教室を後にしようとしていたところで、そのような彼らの様子を目にした景朗は、どこか羨ましそうにして立ち止まった。

 

 教室の出入り口を塞いだまま、小さく息をつく。その後彼は、はたと思いついたように首を後方へと傾けた。矢庭に、こういう時はこうするんだとばかりに、吹寄整理の姿を探し始めたのだ。

 

 その予勘はあっけなく的中した。案の定、何時もの通り。彼女は笑い転げる上条と土御門両名のすぐ近くにいた。

 

 エロトークに腹を抱える2人の男子高校生。それは世界中どこででも、幅広く見られるごく普通の日常的な光景であるはずなのだが……。そんな彼らに対し、吹寄整理は氷点下を遥かに降下した、蔑みに満たされた仮面を貼り付けている。

 

 

 身の毛もよだつような寒々とした女子高校生のその種の表情には、一定数の世の男性を『頑張ろう』と奮起させる力がある。クラスメート3名の日常を尻目にしつつ、景朗は深々と感じ入った。そのまま吹寄のクールビューティをなんとか起爆剤にして、後ろ髪を引かれる想いを断ち切って。彼は教室に背を向けた。

 

 そうしてそのまま一直線に、景朗は第七学区とは北西に隣接する学区、"第九学区"を目指していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 乗り合わせた電車は奇跡的にほとんど人が入っておらず、見事に空いていた。怒涛の帰宅部ラッシュを覚悟していたが、無駄に済んで何よりだ。景朗は幸先が良いとばかりに機嫌よく座席に座り、ポケットからケータイを取り出した。まもなく、電車は動き出す。

 

 

 

 数人乗り合わせた乗車客は、皆各々、ご自分のケータイに目が釘付けである。こちらを除き見る者など誰もいない。気休め程度の警戒ついでに一度、ぐるりと車内を見渡し、景朗もケータイを弄りだした。彼は没頭するように、第九学区へ向かう道すがら、今後の行動方針を頭の中で練り直す作業に移っていった。

 

 

 初っ端から目に飛び込んで来たのは丹生からの連絡だった。受信欄には、題名のない未読メールの表示がぽつんとひとつ。同時刻に着信記録もないため、それほど重大な要件ではないだろう。

 

 景朗は反射的にメールを開く。想像と違わず、それは丹生からの没個性的な学校生活の報告だった。今日もいつもどおり平和な日常生活でした、と最後にはそう締めくくられていた。

 

 

 丹生のおかげで、火澄たちのことを心配せずに済む。景朗は嬉しそうに、そのメールを読んだ。丹生は今日も、景朗の代わりに危険に目を光らせてくれている。

 

 

 本当なら景朗自ら、仄暗火澄、手纏深咲、それに加え勿論、丹生多気美の身辺に気を配っていたかった。しかし、記録上でこそ雨月景朗は彼女たちと同じ長点上機学園に在籍しているものの、彼にはもっぱら第十八学区を離れ、第七学区のなんの変哲もない普通科の高校に毎日顔を出さねばならない事情があった。

 

 それ故に、景朗は最後の砦と言わんばかりに丹生へと頼み込むしかなかった。日々、火澄たちの周辺に居るのならば、監視の目を光らせてくれるように、と。丹生多気美には暗部で半年ほど生き延びてきた経験がある。不審者、敵対勢力に対する備えや警戒は、素人とは比べ物にならないほど手馴れていた。

 

 

 今年の四月、入学式が終わったその日だった。景朗が丹生へと懇願した日だ。あの日、彼の内心の不安を吹き飛ばすように、彼女は快く応じてくれた。それからずっとこうして、何かあろうとなかろうと、彼女は定期的に連絡を入れてくれる。なんだかんだで、丹生にはものすっごく助けられている。

 

 

 

 本音を言えば、手纏ちゃんの安全については、それほど気を揉む必要はないのかもしれない。実際に四月の終わりに火澄と手纏ちゃんが第二位に襲われるまで、景朗はそんな風に楽観的に捉えていたところがあった。

 

 勿論、今では違う。手纏ちゃんに対しても、火澄たち聖マリア園のメンバーほどではないが危険に晒さぬよう万全をきす必要がある。

 

 

 

 手纏深咲の安全について、景朗が楽観視していたのには勿論理由があった。手纏深咲は、さる大企業の社長令嬢的なポジションにいる訳である。彼女だけを言うに及ばず、かようなVIPな生徒たちの存在はそもそも長点上機学園では珍しくもなんともなかった。

 

 元来、長点上機学園に在籍する生徒たちの事情は、"学舎の園"あたりと似通っているのだ。どこかの会社の御曹司だとか、学園都市内の研究所のお抱え能力者等が大勢いるのである。必然、学校側のセキュリティも並外れたものではなくなっている。

 

 故に、彼女たちが学校にいる間はほとんど安全だと考えて差し支えはないはずだ。……学園都市の暗部が、どの程度長点上機学園の表層にまで影響を与えるのか、にも依るかもしれないが。

 

 長点上機学園の学内に居れば、とりあえずは安全であるとみなせそうだった。さすれば次に浮上する懸念は、放課後や休日等の時間帯となった。

 

 手纏深咲に関して言えば、景朗はこう考えていた。彼女の父親が"学舎の園"の外部への進学を許可したのならば、それ相応のセキュリティを用意したのではないか、と。目立たないところでそれなりの安全対策が彼女に掛けられているのではないか、と。

 

 しかし。よほど火澄は手纏ちゃんの親父さんに信用されていたのか、それとも過保護からの脱却を図っていたのだろうか。景朗の浅はかな期待はあっさりと裏切られた。第二位は2人をいとも簡単に襲った。手纏ちゃんには大それたボディガードは付けられていなかったのだ。

 

 手纏ちゃんのガードが薄かった事実を、自ら確認していなかった景朗の落ち度である。かと言って景朗に何らかの方法を用い、四六時中彼女たちを監視する覚悟があったかと言われれば、そうではなかったに違いない。

 

 

 

 

 とりとめもなく色々な事を頭の中で羅列していくうちに、もう何度目だろうか。手纏ちゃんの事を思い浮かべる度に、景朗はあの告白のことを思い返してしまっていた。

 

 色々考えを巡らしているうちに、頭の中に手纏、という単語が浮かぶ。そうなると、次に告白の単語が回想されてしまい、なぜか最終的にエロいことに直結してしまうのである。

 

 完全に男子高校生の思考回路だった。まあ年齢的には矛盾はない。年齢的には。肉体的には少々歪になってしまうけれど。

 

 シートに座った景朗の片足が、知らぬ間に激しく上下に揺れ動いていた。エロい衝動を必死に振りほどこうと、無意識に貧乏ゆすりが発動しているようである。

 

(そういや、手纏ちゃんの……あれ……あの発言は、あの告白みたいな発言はホントもう、どう扱ったら良いんだろう)

 

 昼休みに悶えながらも考えた景朗であったが、彼はその時とある事実に気がついていた。手纏ちゃんがアグレッシグにも3階廊下から飛び降りる直前の、あの時。景朗が返答する間も無く、手纏深咲は勝手に納得して逃げ出してしまっている事を。『大丈夫です、忘れてください』と彼女は連呼して、彼の答えなど気にもせず走りさっている。

 

(……あるえ?これ、今から俺が蒸し返したらどうなるんだろ?……マジクソフ○ックなことに、今はお付き合い的なことできる状況じゃない……ゲン☆&アレイ☆は地獄に逝ってよし……。……なんか今、あやふやなカンジだし、こっから何かを追求するといっても、結局自分からまた断りの連絡を入れる形に向かってしまうよな……どうせ……

 

……嫌だ。そんなことしたくない。手纏ちゃんには悪いけどこのまま曖昧なカンジで射程圏内に収めておかせてもらう方向性がベスト!

 

――――ッてなんだよそれあぁぁ!男らしくねえ!自分のことしか考えてねえだろうがよ!手纏ちゃんの気持ちになって考えてみろよ。クソ、いや、しかし……、やっぱ……

 

 

『どんなことでも受けて立つ』って、"そういう"意味も入ってる系だったよな。入ってるカンジで手纏ちゃん焦ってたぽいよな。はあああああ!?マジかよ、これ付き合うって答えたら俺たちはどこへ向かう事になるんだろうか?!ああくっそ、はあああああああああああああああ?)

 

 もはや彼の足のブレは今にも衝撃波を放ち出しそうなほど、強烈に振動数を上昇させつつある。

 

(おいやめろクズ野郎!エロ目的はいかんぞばきゃろうが!最低だぞ道帝野郎!真面目に考えろよ俺!エロは除外して考えエロッ)

 

 気が付くと、ケータイのディスプレイに手纏ちゃん宛の新規メール編集画面が立ち上がっていた。慌てて景朗は削除する。

 

(ああ駄目だぁぁぁ俺だって16なんだって無理だって勘弁してくれよおお。あああうおおお手纏ちゃんまじかよ、そこまでしていい感じだったのかよ、なんだよそれ嬉しいってエロ抜きで考えても、嬉しいか嬉しくないかって言われたらやっぱそれって最高だろぉぉおおおおおおおおおお!?嗚呼いかん。頭を冷やさないと。くっそおこんな下らない事で能力使うなんて屈辱だがああああ……

 

 

うおらああああああ俺はこの世で性欲を支配できるたった一人の逸材!なんだぜえええええええええええ畜生おおおおおおおおおおおおおおおおあああ!!!!!)

 

「っふぅあッ!」

 

 突然、デカイ青髪ピアスの高校生が怒鳴り声を上げれば、誰だって驚くだろう。対面に座っていた小学生は飛び上がりそうになって身体をビクつかせている。

 

「……っはぁ~~~~ぁっ……」

 

 景朗は長く大きな息をついた。小学生など彼の視界には入らない。超能力のゴリ押しで強烈な賢者タイムへと到達した雨月景朗は、改めて落ち着きなおしたのだ。

 

「何考えてんだぁ俺は。自分の立場ってもんを分かってなさすぎだぁ」

 

 改めて彼はケータイを見直した。手持ち無沙汰に、丹生からのメールを読み返す。そこでようやく、とある一文が彼の目に留まった。

 

 [ご飯作ってあげよっか?実は今、カレーにハマってるんだよね!]

 

 いつもなら嬉しくなって飛び上がりそうになる内容だ。丹生からの誘い。今までにいくつあっただろう。が、彼が顕にした反応は喜びとは程遠い、重たく湿ったため息だった。彼は今、常人には理解し得ぬ深度の賢者タイムの渦中にいるのだから、無理もない。

 

 

 あの晩から二日が明けたが、丹生はまだ知らずにいる。上条当麻の理解不能な"右手"を用いれば、彼女の歪められた内蔵と体質を治療できるかもしれない。その可能性を、景朗は未だ伝えあぐねている。

 

 

 景朗が丹生へ申し訳なさを感じる一番の理由は、恐らく彼女の態度からくるものだった。色々と迷惑をかけてきているはずなのに、丹生は全くといっていいほど景朗に負の感情を当てつけることがなかったのだ。"百発百中(ブルズアイ)"と戦ったあの日、彼女が泣きじゃくったあの夜から、丹生から恨み言を聞いた覚えはない。

 

 そんな彼女の容態だが、それは景朗にとってもよくわからない不思議な経過をたどっている。丹生が景朗の細胞を身体に受け入れて、すでに八ヶ月近く経過していた。木原幻生は当初、丹生の容態は悪くなっていく一方だと言っていた。

 

 だが、現状の丹生を見る限り、ただ単純に悪化しているようには全く見えないのだ。彼女は未だ、どこからどうみても健康そうである。本人にも尋ねてみれば、どこも悪いところはないと答えを返す。

 

 そのことについて幻生を問い詰めたところ、彼は予想外の現象が起こっていると口にした。通常の人間ならば、もはやとっくに昏睡状態に陥っていておかしくない。それほどの量の体晶を丹生は体に蓄積しているはずだ、と幻生は前置きして、新たな見解を述べたのだ。

 

 景朗の細胞が、予想していたよりも遥かに丹生の肉体に適合し、体晶が人体に与える悪影響を緩和させているのかもしれない。だからああして、丹生は何事もないように健康なのだ、と。

 

 

 色々とややこしい事態が生じているらしいのだが、全てを掻い摘んで結論だけ言えば。これから彼女の容態はどう転んでいくか全くわからない。つまりはそういうことだった。但し、原則として丹生は依然として景朗の血液か、もしくは体晶を必要とする体質のままである。それに、今は元気そうに見えても、いつか不発弾が爆発するように、体の不調をきたすかもしれない。その予想はできない。しかし、現時点においては容態が急変しそうな予兆も見当たらないといえば一向に見当たらない、というのもまた真実であった。

 

 安定している丹生の現状が悩みどころであるものの、景朗にはこのまま手を拱いている猶予はない。いずれにせよ、彼女の肉体は治療する必要がある。だから。

 

 たった今この時からでもいい。早急に、今すぐにでも伝えておくべきだと、景朗の頭の中央で理性が訴えかけている。だが、言いあぐねさせる引っ掛かりがいくつも存在するがために、景朗の口は重くなっていた。

 

 

 

 第一に、本当に上条の"右手"は丹生の身体を救えるのだろうか、という謎がある。悪魔憑きの細胞が破壊されるその間、丹生の体は正常な活動を保てるのか。それにもともとの、景朗の細胞が置き換わる前の丹生の内蔵は、死滅した状態だったのだ。深く考えず適当に"幻想殺し"を活用できる状況ではない。

 

 徹底したリサーチが必要なのだ。しかしそこでまた、それについて助力を乞わねばならないはずの木原幻生が、どうしようもなく信用できない人物である点も問題になる。気が狂いそうなほど歯がゆい事実である。木原幻生はまず間違いなく、丹生の回復、そして景朗の離反を望んではいない。

 

 彼を頼らず、薬味久子の伝手を借りようかとも思えたが、それも実現性は低かった。薬味久子は景朗に断言している。木原幻生よりも能力体結晶の知識に勝る研究者はこの世に存在しない。それは恐らく、未来永劫変わらないと。一から研究を始めたデータを持っているのは幻生ただひとりである。そのバックボーンは容易く覆されることはない。おおよそ能力体結晶が絡むこの案件は、木原幻生が重要なウエイトを占めざるを得ないのだ。

 

 最後に最も気を揉む必要があるのは、ずばり、アレイスターをどう対処すべきか、という点だった。あの男は上条当麻に並々ならぬ執着を見せている。あの少年を、無策なまま木原幻生や薬味久子といった要注意人物たちの巣窟に招き入れていいはずがない。奴が黙って見過ごすとは思えない。

 

 薬味や幻生やらのアレイスターとの関係は、どこからどうみても単純な上下関係の範囲に収まらない様相を示しているのだから。

 

 

 

 

 

 

 ともせず、打つべき手は既に売ってある。とにかく、現代の医療技術でも除去不可能なほどに癒着した景朗の細胞を、丹生の肉体から取り除く手法、それだけはひとつ発見できたのだ。となれば、そこから新たに予想される不具合を、現代の医術の組み合わせでどうにか解決できれば、丹生は助けられる。ひとまず、その可能性を探るだけ探ってみせる。

 

 

 

 上条当麻については、心配する必要は欠片もない。『助けてくれ』と、そうたった一言頼めば、上条のことだ。理由すら聞かずに『何をすればいい?』と腕まくりをしてくれるだろう。だからこそ、景朗は少しばかり心が痛む。

 

 卑怯であったと自分を恥じる。今日の朝、上条の怪我を目にした瞬間、後悔と良心の呵責というやつが彼の元へ押し寄せた。

 

 "右手"を押し付けられて自制が効かなかった。そんな言い訳ができるだろうか。いいや、きっとできはしない。上条は馬鹿げた右手を持っていたが、身体能力は通常の人間そのものだった。自分とは違った。

 

 上条を痛めつけたあの所業は、大の大人が赤ん坊を無作為に殴るが如き、赤面して恥ずべき行為だった。

 

 よくある事かもしれない。時間とともに興奮と怒りが薄れれば、当然のように自らを省みる心持ちへと変化していくものである。

 

 

 ネガティブな考えに移行しかけていた景朗は、すっぱりと想いを断ち切るように思い切り顔を上げた。賢者タイムは終わりにしよう。

 

 いつのまにやら目的地へと電車が到着していたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 第九学区を説明した学園都市外部向けのパンフレット等によると、この学区は芸術と工芸に全力で比重を傾けた場所であるらしい。設立された学校も専門職の強いものばかりだそうだ。

 

 駅から出て一目見渡せば、嫌でもパンフレットの言いたいことが理解できた。オブラートに包めば、非常に個性的で独創的なデザインの建築物が景朗の視界に立ち並んでいる。通りすがる学生たちの雰囲気も、そのファッションも、第七学区とはまた装いが違っている印象を受けるものだった。

 

 学園都市においては"第十五学区"が流行の発信地だともてはやされている。学生が特に多い学園都市中央部の学区、要するに第七学区や第十八学区あたりもその点は踏襲していたのだが。

 

 ひと駅変わった程度でここまで学生の雰囲気だけ変化するものなのか。その日景朗はひとつ、新たな知識を獲得した。第九学区には、独自の流行が存在しているらしい、と。

 

 

 景朗はきょろきょろと、上京したばかりの若人のように周りを物珍しそうに眺めていった。だが、良く良く考えれば、今彼のいる第九学区は、彼が腰を据えている第七学区のすぐ隣の学区である。だというのに、景朗は街の実態すら僅かばかりも把握していなかった様子だ。

 

 その理由は単純だった。

 

 学園都市の都市機能は世界随一と自負して良いほど、極めて高度に計算され設計されている。それこそ特殊な事情など何も持たぬ一般学生が単純に学校に通い、日々の生活を営むだけならば、各々の学区内で十分に事が足りてしまうのだ。……いくつかの学区は例外的に排除しなければならないかもしれないが。

 

 正直なところ、景朗はそれまでの人生で欠片も第九学区の学校に興味を抱くことがなかったのだ。それ故に、こうして街を直接視察する羽目になったというわけである。全くと言っていいほど、今回任務で立ち寄ったエリアの土地勘を持ち合わせていなかったがために。

 

 

 

(ココ(第九学区)の裏事情だけならそこそこ知ってたんだけどなぁ。俺もすっかり嫌な意味での業界人かぁ……)

 

 景朗は薮から棒に時間を確認すると、やや急いだように足を速めた。彼がそこへ来た目的は当然、食事やショッピング、行楽といった穏やかなものではない。日が落ちてしまわぬうちに"実験区域"の周囲の地形を確認しておく必要がある。

 

 でなければ、恐らく"任務"をまっとうできないだろう。景朗は厳命されている。期待に応えられなければ、手痛いペナルティを負わされてしまう。

 

 ひと月ほど前に幻生から下された仕事の内容を、強引に一言で言い表せばこうなるだろう。

 

 "実験"を"妨害"する闖入者の徹底"排除"。

 

 ただし、じっくりと数分かけて女子中学生のクローン体を嬲り殺す"第一位"の所業を、本当に"実験"と呼んで良いのならば。

 それを阻止する事が、本当に"妨害"なのであれば。

 自らが直面している状況やその結末すら知らぬ、後のない者たちが捨て駒にされていく現実を、本当に"排除"の一言で済ませて良いのならば。

 

 景朗は以上の三つの事柄について、"ちっとばかし"疑問を持っていたけれど。しかし結局のところ彼は言われるがままに命令を遂行してきたのだから、何も口にする資格はないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽は鮮やかに色付き始めていたが、直に日差しを浴びる側からすれば十分すぎるほどに眩しかった。その一方で、街は少しずつ静けさを醸し出し始めている。少なくともその日の真昼間に、いつものメンツと散々バカ騒ぎをして暴れた"あの種の喧騒"は、微塵も感じ取ることはできなくなっている。それも仕方のないことだった。時刻は午後六時を回っている。冬の季節であれば、もはやとっくに夜の帳が下ろされている時間帯だ。

 

 満足できるまで少々時間がかかったものの、景朗は一通りの実験区域の確認を終わらせている。その後、彼は第九学区の中心に立地する何の変哲もない自販機横のベンチへと、ひとまず腰を落ち着けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何とはなしに茜色の空を眺めて、沈黙に体を投げ打つ。が、それも束の間。あっという間に空を仰ぐのに飽きた景朗は、顔を正面へと戻した。

 

 彼が位置していたのは、中学・高校がマス目のように連なりあって生じた十字路のような通りだった。完全下校時間も迫りつつあるというのに、ぽつぽつと雑踏が途切れることなく彼の目の前を流れていく。芸術に魂を捧げたこの街の学生たちは時間を忘れ、貪欲に創作活動に励んでいるらしい。

 

 あえて耳を立てさせずとも、景朗は余裕をもって察知できていた。自分の位置する自販機横のスペース。その周囲のみ微塵も会話が産まれず、確固たる静寂が保たれていることに。

 

 周りはほど良くざわついているというのに、自身の空間のみ無音がはびこる。これもまた、静寂――というよりは"孤独"を味わえる絶好のロケーションではないだろうか。そんな考えをくゆらせるばかりで、景朗はのんびりと他人事のように思考をアイドリングさせていた。

 

 

 ――――ましてや、たった一人で手持ち無沙汰に暇を潰しているわけでもなければ尚更、孤独を感じるものだ――――。

 

 

 そう、実はただ今この時、実は景朗は一人ではなかった。なんと彼の真横には、静寂と完全に同調したミサカ9632号が、同じベンチに人2人分ほどの間を空けて座っていたりするのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先程から自分一人だけが一方的に喋っていた気がしたが、気のせいではなかったようだ。その証拠に、一度口を閉じればこの有様なのだから。ふとした拍子に生じた沈黙。どうやって打ち破ぶろうかと悪戦苦闘しつつも、隣りで静かに珈琲に挑むミサカ9632号を横目で窺った。

 

 この極上に無口な少女の話相手をするのはやはり難度が高かった。だが、一人ぽつんと街をふらついているのを偶然見つけ、半ば無理やり彼女を引っ張ってきたのは景朗の仕業である。いつまでもこの居心地の悪い空間に浸からせたままでは、気が引ける。

 

 だがしかし。だれか。女子中学生のクローン体という、そのへんのSF小説より遥かにサイエンティフィックな存在が身を乗り出して食いつくような、そんな話題を。誰か教えてくれ。

 

 

 

「やはり、苦いです。……ふう……」

 

 小さな溜息とともに、ミサカ9632号はベンチの上に紙コップを置いた。景朗が待ち望んでいた反応が、ようやく返ってきた。景朗も思わず息を吐き出すところだった。

 

「率直に申し上げますと、これ以上この液体を摂取したくはありません、とミサカは予想された失望に溜息を飲み込みます」

 

(……はて、ため息はおもいっきり吐き出してませんでした?)

 

 景朗が紙コップで手渡した珈琲を、何の反応も返さぬままたっぷりと時間をかけて吟味してくれたミサカ9632号。だがしかし。待ちわびた彼女の感想には、珍しく拒絶の色がはっきりと含まれていた。

 

「うむぅ。申し訳ない、と言いたいところだけどまったく苦くない珈琲は存在しないのです。それが珈琲というものなのです」

 

「はぁ。ですが、簡単なもので良い、率直な感想を述べよ。と貴方が口にされたので」

 

 なんの感情の色も起伏も映さない、デフォルトな表情。そんなものがこの世に有るのか、そもそも定義され得るものであるのかすらわからない。が、景朗はその時、冷や汗を流した。まったくと言って良いほど心に波風立たせぬデフォルトな表情を浮かべたミサカ9632号が、そこに居た。

 

「おーけー。あー……じゃあ~……そう、じゃあ、前飲んでもらったヤツよりどれだけ違う味がしたか、そこんところはどうだったかな?」

 

 声をかけたものの、ミサカ9632号はボーッと呆けているようにしか見えなかった。新たに唇を震わせかけた景朗は、そこで気づいた。彼女のすぼめられた口角が、僅かだがへの字型に曲げられている。どうやら彼女なりに、さっきの珈琲の味を反芻しようとしてくれているようだ。

 

(苦いのは相当に苦手なんだなぁ。にしても、可愛いところもあるじゃないか)

 

「……そう、ですね。酸味が減っていたように感じました。しかし……香り、もしくは……苦味? ミサカは――」

 

 ミサカ9632号のおぼろげな感想が面白かったのか、景朗は思いっきり口角を引き上げた。

 

「ああ、苦味ね。ふふ、そうそう。その苦味みたいなもの、強くなってたりしてなかった?それはねぇ、前より深煎りの豆を使ったから、なんだよ。にしてもやっぱみんな、珈琲の味を表現するときはどうしても曖昧なカンジになるみたいやね。面白れえ」

 

 少女の関心の薄さに真っ向から立ち向かうように、景朗は体の向きを変えて彼女との距離を一人分詰め直した。

 

「実はさ、その珈琲を抽出した豆、前回のと全く一緒だったりするんだ。"一緒だ"の意味は言葉の通り、前回飲んでもらったヤツに使った豆と」

 

 景朗がぽつんと放置されたカップを目で追ってみせると、つられるようにミサカ9632号も顔を動かした。

 

「そいつに使った豆はDNA、遺伝情報、なにからなにまでほぼ同一のだってこと。一本の木から採取された豆なんだ。えぇとつまりは、同じ苗から実った種子の集まりってこと。DNAどころか、育った環境も与えられた栄養も同じだね」

 

「厳密には、同株から収穫された果実であっても栄養価は個別に異なりますが。とミサカは同意しかねます」

 

「まあそうだね。でも俺の言いたい事はなんとなく君だってもう察してくれてるだろ?それに珈琲の場合は沢山の種を一度に砕いて混ぜ合わせて使うから、あまり問題視しなくていいんじゃないかな?」

 

「同型の遺伝情報を共有しているという点で、私たち妹達と珈琲の種子が等しい境遇にあると議論したいのですね?」

 

「そのとおり」

 

 概ね希望に沿った答えを返してくれたものの、相手はその話題に微塵も興味を持っていないらしい。彼女は景朗と視線を会わす気すらないようで、おもむろに無骨な軍用ゴーグルを取り出した。流れるように、よどみなく手を動かし整備を始めている。

 

「遺伝情報が全く同じでも、工程ひとつで最後の味わいは大きく違ってくる。その苦いだけの飲み物ですらそれだ。これを人間に例えてみなよ……口にするのも馬鹿らしい事態になる、とは思ったりしない?」

 

 一方の景朗も、クローンズ達のこのような冷淡な反応には十分にこなれているらしい。決してめげずに、言い聞かせるように語り続けた。

 

 うんざりしている風のミサカ9632号の、その話は何十も何百とも耳にしたとでも言いたげなジト目。さすがの景朗も、僅かにたじろぎかけた。

 

 ある意味、これも新たな人間性の獲得と呼べるかと、無理矢理ポジティブ思考回路を脳に導入したものの。それが、どのみち景朗が導こうとしていた結果ではないことに気づいてしまった。

 

 どうにも居心地の悪い沈黙が再来しているではないか。

 

「毎回訊いてるけどさ……ああわかったよ!これはYesかNoの簡単な返答でいいから頼むよ」

 

 ミサカ9632号は景朗の話の途中だというのに前傾姿勢になりかけていた。席を立ちかけようとした彼女を強引に制し、質問で釘づける。

 

「はぁ」

 

「それ、苦かっただろ?予想していたより断然鮮やかに、そう、言わば世界がセピア色に色づき、濃厚な香りと味わい深い舌先の感覚それら全てが全身を乗っ取って」

 

「肯定です」

 

「あ、そか、良かった」

 

 とりあえず適当にYesと答えて話を終わらんと、もろ食い気味に発せられた返答であった。感情の薄いミサカ9632号にここまで言わせるとは、相当ウザかったに違いない。景朗は今にも折れそうな心を奮起させて、絶対にドヤ顔を絶やさなかった。

 

「見聞きするのと体験するのは別物だ。自分の舌や体で味わうとまた違った知覚があっただろう?」

 

「そうかもしれません」

 

「だったら――」

 

「私に毎回そう尋ねてこられるのは、貴方の趣味なのでしょうか、とミサカは訴えかけます。この度、"ミサカ"が珈琲を飲むのはこれで5度目です。一体どのような意図がお有りなのでしょうか。はっきりと申し上げてください。ミサカたちは徒労を感じています。僭越ながら、以前、ミサカ9174号は紅茶がより好ましい、と貴方にお伝えしていたはずでは?」

 

 景朗は一度、ぴたりと口ごもった。が、それは本当に僅かな瞬間だった。

 

「だから、死ぬのはきっととんでもなく辛いはずだよ、って言いたいだけさ」

 

 如何にもふざけて軽口を叩くように、おどけてみせた。その胸の内では、これで正解だったのか、と幾度も繰り返しながら。本当に言いたかったのはそんなセリフじゃなかったクセに、と若干の後悔をにじませながら。

 

「それが私たちの存在意義です。貴方はいつも、ご自身の意見を一方的に押し付けるだけなのですね。私たちが理解しあうことは難しいようです、とミサカはこれまでの"交流"を振り返ります」

 

「おいおい、コイツの存在意義はなにも人間に砕かれて熱湯責めにされるためにあるんじゃないぜ?」

 

「そうでしょうか?」

 

「もちろんだ。そんなもん全部人間側の都合じゃないか。珈琲豆の肩なんて持つ気はさらさらないけどさ、本当のところはただ単に俺たちがこの植物を弄って勝手してるだけ。いくら人間がコイツを消費するのが大好きだろうと、それで珈琲という植物の存在意義はゆらぎはしないだろ。生物は生物として、未だ人類すら知りえていない命題を全うするために生きているだけだ」

 

「ですがその珈琲豆は結局、消費されるために栽培されたのでは。それが目的でなければ、それが存在意義でなければ、こうしてこの場に存在することすらありえなかったのではないですか?」

 

「こいつは豆だ。ただの植物だ。何も考えちゃいない。でも君は人間だろ。鶏や豚なんかじゃないだろ……それとも――」

 

 彼の断定的な口ぶりとは裏腹に、その声色には覇気が無く、弱々しい響きに満ち満ちていた。

 

『家畜だとでも言うつもり?』

 

 寸前で景朗はその言葉をためらった。ミサカ妹達が何と答えるか簡単に想像がつく。そしてその後、どう言い返せばいいのか、反論が咄嗟に思い浮かばなかったためか。

 

 いいや、思い浮かばなかったのではない。彼女に問いかけたい激情が目まぐるしく頭の中を駆け巡っていたとも。しかしどれひとつとして、自分が口に出して良いセリフだとは思えなかっただけだった。

 

「ミサカたちはまさに、消費される事に価値を見出され造られたのです。私たちは消費されてこそ、存在意義を全うします」

 

 

 

 五月の終わり。街で偶然この少女を、正しくは在りし日のミサカ9174号を見かけた時はどうして良いかわからなかった。

 

 約束をしていたとかこつけて、とりあえず珈琲を奢った。初めて飲む、と驚いていたミサカ9174号に新たな約束を取り付けた。次は美味しい珈琲を持ってくる、と。

 

 単に、何もせずに素通りしていれば、罪悪感が沸いて沸いて仕方が無かったから。それだけだ。ミサカクローンズたちと会った後はいつだって冷静になる。そして考えるのだ。こうやって微かに沸く小さな罪悪感の流れに身を任せるばかりで、彼女たちに何か足しになるのか、と。

 

 

 もう一万人ほどが死んだ。何も出来ぬまま。かといって、本気で助ける気もない。そうだ。景朗は本気で助ける気はなかったのだ。恐ろしい事実に気づいている。今実験が終われば、死んでいった彼女たちは犬死になるのだろうか。

 

 暗部の非道な奴らなんかとは違う。自分は違うはず。こうやってちゃんと彼女たちの身を案じているフリをしているのだから。

 

 でなければ。ミサカクローンズの実験の護衛を文句ひとつなく遂行するだけの雨月景朗では、あまりに――。

 

「作業が残っていますので、それでは」

 

「次はもっと美味しい珈琲をごちそうしてみせるよ」

 

「その件ですが、これ以降はミサカは遠慮させて頂きます」

 

「ミサカ9174号と約束したんだけど。必ず美味い珈琲を――」

 

「結構です。お気持ちだけで十分です、とミサカ9632号はミサカたちを代表し、お礼を申し上げます」

 

 小さなお辞儀とともに、少女は景朗の元から去っていく。その後ろ姿にはすこしの未練も見当たらない。

 

 景朗は鮮明に覚えている。9174号と約束を取り付けたあの日、彼女は確かに、どこか嬉しそうにして帰っていったのだ。

 

 

 

 

 

 日が暮れれば、戦いが始まる。あの少女は"殺害"される。景朗はその"殺害"を邪魔しようとやって来る、敵だともなんとも思っていない、ましてや殺したいとは微塵も思わない相手を、探し出して地獄に叩き返さねばならない。

 

 統括理事会は本気だった。ここまでひとつの目標に真摯な暗部の空気というものを、景朗はそれまで感じたことがなかったほどだ。

 

 皆が厳命されている。"実験"を邪魔する奴らは容赦なく殺せ。必ず地獄へ落とせ。捕まえれば拷問だ。死体ができれば見せしめだ、と。

 

 




とりあえず更新しますorz
まだまだお披露目したいところまで行っていなかったのですが、あまりにお待たせしてしまっている状況ですしorz
これからすぐ感想の返信に入ります!ご容赦ください……

新ヒロインの件については忘れていません!ので!
クライマックスへの布石的な意味で一気にキャラクターが増える予定なのですが、その都合で話を書いては設定とシナリオの調整をー、という状況で筆が進みませんでしたorz

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