せっかくバーサーカーに憑依したんだから雁夜おじさん助けちゃおうぜ! 作:主(ぬし)
‡切嗣おじさんサイド‡
夜明け前の早朝。冷たい霜が静寂と共に降り落ちる、モノクロのような冬木市深山町。
その一角に佇む武家屋敷の小さな土蔵で、壮年の男が一人、凍てつく寒さに身を晒している。吐息を暗闇に白く染めた男は、覚悟を決めるように深く息を吸うと、久方ぶりの“呪文”を唱える。
「
転瞬、肉を深く裂くような激痛が身体の奥深くまで殺到し、男は大きなうめき声をあげた。うらぶれてしまった肉体は痛みを前に呆気なく屈服し、その場に膝をつく。爪がマニキュアを塗りつけたように紅く濁り、皮膚との隙間から鮮血が噴き出す。毛細血管の破裂という懐かしい痛みを努めて平静に受け止め、男は歯を食いしばって自身の現状を分析する。体内時間を改竄する魔術は術者の肉体と魔術回路に多大なる負荷をかける。そして、無茶に無茶を重ねた彼のそれらはもう
「―――僕は、無力だ……」
か細い悔恨の呟きが暗闇に溶けて消える。
わかっていたはずだった。10年前の
実際、彼は目的を達成した段階ですでに絶命一歩手前であった。血まみれの肉体は出血していない箇所を数える方が簡単だった。頭蓋の内側に大量の血が溜まり、意識を圧迫した。口、鼻、耳から信じられない量の血液が溢れだし、血管も神経もミキサーにかけたように裁ち切れ、骨肉はあらゆる箇所が粉砕し、魔術回路に至っては完全に断線して使い物にならなくなった。同行した師匠と妻と弟子による必死の治癒がなければ今頃は地獄の釜で極悪人の先人たちと共に茹でられていたに違いない。
寸でのところで死の淵から生還し、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした妻と娘を傷だらけの腕で強く抱き締めて、男は思った。「これでよかったのだ」と。
そんなささやかな願いすら、
10年前、彼のサーヴァントと
娘は、魔術師であり人間である男とホムンクルスの妻との間に生まれた奇跡の自然児だった。造り物ではない立派な魂を有しながら、同時にアハト翁の手による史上最高の特別なホムンクルスでもある娘の小さな心臓は、『小聖杯』という聖杯の力の受け皿たる機能を有している。第五次聖杯戦争が始まれば、娘は自分の意志とは関係なく小聖杯の役割を押し付けられ、やがて“器”と化して自我もろとも消滅する。悪辣な陣営があれば、有利を得るためにまず聖杯の器を確保しようと娘を誘拐するだろう。肉体を不要と判断すれば心臓のみ引きずり出して殺害するかもしれない。
娘は、同年代に比べてずっと小さい。アハト爺による本格的な調整を受ける寸前に奪還し、その後の治療の成果もあり、寿命に関しては普通の人間とほぼ遜色はない。しかし、その成長は周りに比べて緩慢を極めた。そんな儚くて華奢な娘が苦しめられながら殺される光景を想像してしまい、途方もない嗚咽感に喉を滅多刺しにされる。その瞳から光が消えていく様子など絶対に見たくない。それだけは断じて避けなければならない。命をかけて護ってやらなければならない。
……しかし、もはや阻止できる力は微塵も残されていない。肉体は未だ傷が癒えず体力は衰え、魔術回路は回復の兆しすら見られなかった。今の彼がうらぶれた身体を引きずって死に物狂いで戦ったとしても、その戦闘力は全盛期の精彩など望むべくもない。それは彼の妻や師や弟子も同じであった。例え、
「肝心な時に何も出来なくて、なにがヒーローだ」
掠れた声で胸元を探り、常にそこにある銀色の輝きを指先に確かめる。純銀の飾りナイフは、
「君の言うとおり、恋をしたよ。結婚して、子供を授かった。娘のことを心の底から愛している。だけど―――だけど、僕はハッピーエンドを迎えられそうにない」
力なく項垂れた男の頬を悔し涙が伝い落ちる。正義の味方を目指した男が、命をかけて子を護らねばならない父親が、娘の危機を前にしてただ手をこまねくことしか出来ない。男として、父として、これほどの恥辱があるものか。握りしめるナイフが皮膚に食い込んで鋭い痛みを発する。心の痛みの、何万分の一にもならない痛みだった。愛娘が味わうだろう苦痛の、何億分の一にもならない痛みだった。
「僕は、どうすれば、いいんだ」
身の内側で、悔しい、悔しいと泣き叫ぶ声が聞こえる。行き場のない怒りと屈辱に頭がどうにかなりそうだった。愛する者への罪悪感と非力な己への呵責が心身を内側からズタズタに切り裂く。親は、子どものためならあらゆる犠牲すら厭わない。だが、そのあらゆる犠牲を払ったとしても子どもを救えないと知ってしまった時、この心を引き裂くのは途方もない引け目と無力感だ。悪夢のような負の感情を抱えきれなくなり、男は土下座するようにして地に額をこすり付ける。顔面を醜く歪め、激しく嗚咽し、落涙する。彼は発狂寸前だった。
そして、今まで他者に助けを請うことのなかった男の口から、助けを求める喘ぎが、遂に喉を割って滲み出る。
「頼む、教えてくれ、シャーレイ! 僕はどうすればいいんだ! あの日のように、あの時のように、僕を導いてくれ!! 僕を―――イリヤを、助けてくれ……!!」
「
撞木で突かれた鐘のように心臓が大きく震えた。肋骨がバクバクと収縮し、瞳孔がカッと開き、呼吸がクッと喉元で止まる。
心臓が痛いほど早鐘を打つ中、男はゆっくりと背後を振り返る。
淡い月光に型どられた土蔵の戸口に、
腰まで伸びた艶やかな黒髪、シミひとつ無い
「……シャー、レイ?」
「ええ。久しぶり。元気そうで何より。ちょっと見ない内にだいぶ老けちゃったわね」
開いた口の塞がらない男の問いかけに、アリマゴ島で接していた時と何ら変わらない気安さで、
幻覚かもしれないと疑念を投げかける理性を、それでもいいと振り払う。義母を救い、歪みかけていた自分の性根を正してくれた彼女なら、例え幻覚であっても打開策を授けてくれるという確信があった。
先の少女の言葉を咀嚼した男―――元“魔術師殺し”の衛宮 切嗣が再び問う。
「“どうもしなくていい”だって? シャーレイ、どうもしなくていいわけがないんだ。また戦争が始まるんだ。君は知らないだろうが、聖杯戦争という魔術師同士の殺し合いがこの地で始まろうとしている。前回の戦争に僕は参加して、かろうじて生き残った。だけど、僕にはもう今回の戦争を戦いぬく力は残されていない。何とか戦争を止めようとしているが、聖堂教会も魔術協会も役には立たない。
血の滲む声に喉を震わせながら、切嗣は少女に迫り訴える。両者の身長差は10年前よりさらに開いていた。気色ばんだ大柄の男に両肩を荒々しく掴まれても、勢い余った爪が細肩に強く食い込んでも、少女は口を挟まず、目尻に優しさを湛えたまま切嗣のすがる視線を己の瞳に迎え入れる。
「イリヤには戦ってほしくない。もう何にも利用されてほしくない。傷ついて欲しくない。静かに……ただ静かに生きて欲しいんだ。護ってやりたいんだ。僕らとは違う、人並みの平穏な幸せを与えてやりたいんだ。そのためには、何か手を打たないと取り返しがつかなくなる。何でもいい、どんな手段でもいい、僕に出来ることがあるのなら何でもする。何か、何か手を打たないといけないんだ。だけど……だけど、今の僕はどうしようもないくらい、無力なんだ……!!」
洪水のように一気に流れ出た切嗣の
「ねえ、
一転して冷静な口調となったシャーレイがスッと切れ長の眼を開く。不思議な引力を放つ朱い瞳が星のように瞬き、思わず息を呑んだ切嗣の双眼をまっすぐに見据える。
「ニチアサヒーロータイムはちゃんとチェックしてるかしら?」
「は……? あ、ああ。してる、けど」
――― 正義の味方自称するんのならニチアサヒーロータイムの鑑賞は義務だろうがクソガキ ―――
正義の誓いを建てた日、強かな拳とともに受け取ったハチャメチャな言いつけを切嗣は律儀に守っていた。色彩賑やかな戦隊ヒーローから重厚感あるメタルヒーローまで、目を通していないものはない。一瞬、意識が現実から乖離し、遠い記憶に立ち戻る。朝焼けの下で強かな一撃を喰らったあの瞬間に。目を瞑っていないのに、まるで今まさに目の前で起きている出来事であるかのように眼球の裏に再生される。グォンとシャーレイの腕が渦を巻いて振りかぶられて、放たれた握り拳がスローモーションのようにゆっくりと顔面に迫ってくる。艶めく黒髪が龍の尾の如く視界を流れ、真っ赤な眼光が宙に鋭い光跡を描く。
そうそう、まるで
「
「グロ゛エ゛ッッ!!」
幻覚ではなかった。現実の痛みが左頬を強烈に打ち付け、切嗣の肉体は美しいほどに見事な回転を描きながら宙を軽やかに舞った。死徒の腕力を腰の捻りで増幅させたパンチは以前よりさらに磨きがかかっていた。そのまま天井の梁に勢い良く跳ね返り、スライムのようにべチャリとひどい音を立てて床に突っ伏す。なまじ身体が衰えていただけにかなり効く。だが、懐かしい。首根っこをひっつかまれ、絶望の沼から無理やり引きずり出されて陽の光の下に放り出されたようだ。
「だから、どうもしなくていいって言ってるのよ。文字通りそのままの意味。手出し無用よ。いつまでベタベタしてるつもり? そろそろ
「こ、子離れ……?」
思いもがけない世俗的な言葉に面食らいながらフラフラと半身を起こす。その胸を、シャーレイは年長者然とした表情でツンと突っついた。そこにあるのは誓いのナイフだ。
「いいこと、切嗣。貴方は確かによく戦った。破滅に至るはずだった物語を変えてみせた。貴方は紛れもなく
否定ではない、心から労をねぎらう口調と表情に、切嗣は反感を抱くことなく素直な心持ちで耳を澄ます。
「ヒーローってのはね、しぶとくて諦めが悪くなくちゃいけない。でも、引き際もしっかりと心得ているものなのよ。最終回でバッチリ決めて一年間の役目を終えたら、その背中を子どもたちに魅せ付けながら次の世代にかっこ良くバトンタ~ッチ。いつまでも前のヒーローが出しゃばったって、後に続く者の邪魔になるだけよ」
「―――イリヤが、
特撮ヒーローを例にした言葉の真意を切嗣は瞬時に悟った。シャーレイは飲み込みの早い生徒を称えるように「成長したじゃない」と満足気に微笑み、続いて問いかける。
「ねえ、切嗣。イリヤが貴方に願ったことがあったのかしら? “可哀想な私を助けて。お城のお姫様のように私を護って”と、貴方に泣いて縋ったことが、一度でもあった?」
その問い掛けに、無意識的に記憶の棚が開け放たれる。だが、全ての棚を覗き込むより前に結果はすぐにわかった。
「……いいや、無い。そう、無かった。ただの一度だって、あの娘が僕らに助けを求めることは無かった」
娘の口から“助けて”という台詞が発せられた試しが無いことを、切嗣はこの時に初めて気がついた。蝶よ花よと寵愛しようとする両親やメイドたちに反し、矮躯の少女は誰よりも強く気高くあろうと振る舞った。どんなに痛い時だって、どんなにつらい時だって、唇を噛み、小さな拳を握りしめ、細身を精一杯に膨らませて、まるで自分がこの世界を守護する盾となるかのように不条理と恐怖に真っ向から楯突いていた。
呆然と首を振って答えた切嗣を、確信の色をした瞳がまっすぐに見つめる。
「
楽観し、口先だけで語っているのではない。
いつ、どこで見ていたのかはわからない。しかし、シャーレイはイリヤをよく知っている。切嗣と同じくらいに、もしかしたら切嗣以上に、
「しかも、
この問いかけには、切嗣は即座に頷いた。そのように願い育てた自覚があった。誇り高い愛娘は、父の志と母の優しさを小さな身体いっぱいに秘めている。清廉な魂は濁りのない正義の炎に燃え盛っている。厳格な正邪の観念、道義を貫く意地と勇気を兼ね備えている。困難に対しては真っ向から挑まなければ気が済まない性格で、事実、一度だって背を向けたことはない。
頭の中に立ち籠めていた靄が薄れて、ぼんやりと何かが見えてくる。シャーレイが導こうとする先に待つ答えに指先がもう触れている。それは銀色の髪だった。成長期特有の、妻に似て、妻のものではない銀細工のように美しい長髪。
未だ膝をついていた切嗣の手を取ってそっと立ち上がらせ、シャーレイが霧を払う。
「貴方は何もしなくていいの。何のことはない、ただ
冷えていた指先に心地よい人肌の温もりを感じる。洋上で頭を撫でてくれた時と変わらない、同じ人間の体温だ。死徒になっても変わることのない、優しい女の温もりだ。
「思い出しなさい、これまでのイリヤを。想像しなさい、これからのイリヤを。それは、成長を誰よりも身近で見守ってきた親にしか出来ないことよ」
パチっと、何かが弾ける音を立てて切嗣の脳裏に映像が結ばれた。一時も目を離さなかった我が子の道程がそこに次々と浮かんでいく。それらは熱い風となって額を吹き抜けて、その時その時に味わった五感までもをありありと描写する。
生まれて初めて目を開けた娘の、穢れを知らぬ無垢な瞳、心の鼓膜を揺らす産声。
汗だくの妻からそっと渡されてこの手に抱いた時の、他の何にも例えられない愛おしさ、尊さ。
腕の中で眠りにたゆたう生命の奇跡の、その儚くも強かな命の重さに溢れ出した涙で、前が見えなかった。
父に肩車をされて胡桃拾いに夢中になる楽しげな笑い声、視界の左右で揺れる細い太もも、熱い体温。
幽閉の身から助け出され、泣きながらこちらに駆け寄ってくる娘の、希望と喜びに満ち溢れた涙と笑顔。
満ち足りた平穏を力いっぱいに甘受し、しかし、それを当然の権利と思わず一際気高くあろうとする雄姿。
底知れぬ知性の光と雄々しい勇敢さでもって、今だ悪の潜む世界に敢然と対峙する、生硬くも力強い娘の瞳。
そして、それらが一つに結実する未来の可能性―――不屈の闘志と若き気炎を滾らせて敢然と悪に立ち向かうは、“正義の味方”の煌めく背中。かつて父が目指していた理想の到達点。
天をどよもす大勢の鬨の声を一身に受けて、拳を高々と突き上げて応える、凛々しき勇者の背中。その姿を瞼の裏に想像しただけで、武者震いに似た高揚感が身体の奥から火山のようにせり登ってくる。長い時間をかけて力を溜めた引き潮が、一気に満潮となって心の波打ち際に押し寄せる。ズンと込み上げる怒涛の激情に、心の奥底にある
「故郷の島で、貴方が私に言おうとしてくれた決意を、夜明けの海で私に誓ってくれた夢を、あの娘は完璧に受け継いでいる。熱い熱い正義の心を、持っている。貴方たちが信じてあげなくて、いったい他の誰が信じるというの。あの娘が求めているのは、他の誰でもない、貴方たちの信頼だというのに」
言葉一つ一つが胸に沁み入り、そこを占領していた懸念を霧散させていく。そうして最後に残っていた不安も、コツンと胸を小突く拳で呆気なく霧散した。
「さあ、主役交代よ、切嗣。
夜明けが訪れた。シャーレイに率いられた白光の軍勢が世界から闇を追い払っていく。土蔵の窓から清浄な光がまっすぐ差し込み、スポットライトのように切嗣に降り注いだ。モノクロの世界に鮮やかな色彩が宿っていく。
あれだけの鬱屈が、すでに跡形もなくなっていた。“そうだったのか”という納得感がストンと胸に落ちて、すっぽりと型にはまったような感覚だった。
シャーレイの言う通りだ。自分は何を護ろうとしていたのか。何を見ていたのか。必死に護ろうとしていたちっぽけな幼子など、とっくにいないというのに。まだまだ幼いと思っていた。いや、思おうとしていたのかもしれない。娘にはまだ父の庇護が必要なのだと思い込みたかったのかもしれない。まともな父親を知らない自分たちは、子どもにどう接すればいいのか、どう導けばいいのか、常に暗中模索の状態だった。だが、やっとわかった。本当に必要なのは庇護ではないのだと。その考えに至って一抹の寂しさは覚えど、誇りのほうが何倍も勝った。
ついこの間まで赤ん坊だった娘は、当の昔に、親が気付くよりずっと早くに、加護の手から颯爽と降り立っていた。そして、成長した自らの足で世界に立ち向かい、人生を切り開く覚悟を決めて歩み始めている。常世に蔓延る悪意を身を持って知り、“それでも”と闇を振り払う勇気を備え、光を胸に力強く前を向いている。
珠のように大切にされたいなど、彼女は望んでいない。常に手を繋いで導いてやる必要など無い。親が子どもに与えられる最大の贈り物は、他の何物でもない、“期待”なのだ。「お前ならできる」「お前にしか出来ない」と、己の人生を見守ってきた存在からの全幅の信頼なのだ。
「―――ああ、そうだな。その通りだ」
シャーレイが言わんとすることを切嗣は完璧に理解した。迷いは消え、やるべきことはすでに見えた。不安も懸念も払拭された心の奥で、消えかけていた燃えさしが再び火の粉を舞い上げて真っ赤な炎へと復活する。これは“バトン”だ。自分がすべきことは、このバトンを信頼できる次の走者に、より良い形で譲り渡すことなのだ。心の中でバトンを掴めば、燃え盛る情熱が皮膚の下から噴き出してきて、現実の拳にも力が宿る。淀んでいた瞳が、かつての夢を語る少年の覇気を取り戻す。
「僕はイリヤを、皆の想いの結晶を信じよう。もちろん、そこにはシャーレイ、君の想いも」
我が子こそ世界に渦巻く不幸の連鎖を断ち切るに相応しい『真の正義の味方』なのだと、全身全霊を持って信じよう。彼女に必要なのは、後ろ髪を引く家族の不安などではない。そっと背中を押す家族の笑顔こそが必要なのだ。きっとそれが、彼女の力を何倍にも強くする。
シャーレイは何も言葉を発さなかった。それが彼女の答えであり、“正解”を意味していた。背後から包み込む清浄な朝日に輪郭を溶かしながら、シャーレイは満面に喜色を讃え続ける。世界を一新させる圧倒的な光量が視野を染めて、切嗣は眩しさに思わず手で目を覆う。
「その
「わかった。ありがとう。君のことを―――最高の僕の姉のことを、イリヤにも伝えるよ」
くすっと、微笑が聞こえた。まるで微睡みから覚めるようにシャーレイの気配が遠ざかっていく。次に目を開ければ彼女はもうそこにはいないのだろう。それでもいいと思えた。前回同様、寂寥感はまったく無かった。たとえ目に見えなくとも、彼女は常に自分たちを見守ってくれているのだから。
希望を灯す朝焼けを全身に浴びて、泥のように固着していた苦悩の澱が残らず溶けていく。最後に、切嗣は光に向かって何気なく問いかける。
「なあ、君はこれから、どこへ行くんだ?」
一秒ごとに輝きを増す光の中から、弾むような声が溌剌と応える。
「もう一つの我が家へ、もう一人の主人公を導きに」
その声は吹き零れるほどの歓喜に満ち満ちて、シャーレイの人生が今どんなに充実しているかを万の言葉より如実に表していた。そんな彼女が導くという“もう一人の主人公”について気にはなったが、不安は微塵もない。きっとイリヤの良いライバルになる。お互いを高め合える
そして―――気配は唐突に消えた。余韻すら残さず、まるで全てが幻覚であったかのような静寂が戻る。網膜が光量に打ち勝ったところで、視界を覆っていた手をゆったりとした動きで降ろす。
「……おはようございます、旦那様」
果たして、そこには
「旦那様、イリヤお嬢様が、“話したいことがあるので全員に集まって欲しい”と仰せです。とても大事なお話と仰られておりました」
「……イリヤ、とっても真剣な顔してた」
そんな彼女たちが、人形そのものに鮮やかな容貌を憂いに沈め、視線を俯かせている。あらゆる感情が滑り落ちてしまいそうな撫で肩はいつもの彼女たちらしくない。
「間違いなく、私たちが危惧していた聖杯戦争への参加の件かと思われます。やはり……やはり、例えイリヤお嬢様が抵抗なされようとも、今すぐ無理矢理にでも冬木市から逃がすべきでは―――って、だ、旦那様!? そのお顔は!?」
「キリツグ、鼻血が出てるっ」
意を決して主人に面を向けた途端、喧しい声で狼狽える。たしかに今の切嗣の顔にはひどい青あざが出来の悪いスタンプのように残り、鼻孔からはたらりと血が一筋垂れている。傍目から見れば悪質な追い剥ぎにあった中年被害者そのものだ。「敵襲ですか」と狼狽えてハルバードすらどこからか持ち出してきたメイドたちを切嗣は柔らかく手で制す。
「いいんだ。セラ、リズ」
「で、ですが……!」
「これは勲章さ。僕の目を覚まさせてくれた。今の僕には心地良いものなんだ」
頬をふっと緩め、痣を隠すことなく微笑みかける。その安らかな顔つきと声音に、メイドたちは一瞬言葉を失った。呻吟を吹き飛ばすほどの矜持に満ち溢れた父親の顔がそこにあったからだ。芯の通った男らしい声は、未だかつて聞いたこともないほどの自信に裏打ちされている。
「イリヤの話を聞こう」
穏やかな瞳が湛えるのは、己のみが寄って立つための頑なな自負と茨のような責任感ではない。肉親に全幅の信用を寄せる、心からの安堵だ。子どもを信じる親の心に、道理も理屈も関係ない。それは血縁のある親を知らぬはずのホムンクルスですら胸を打たれるほど堂に入って、父親然としていた。
「───畏まりました」
「───うん、わかった」
憂鬱の衣を脱ぎ捨てて一切の曇りの晴れた主人の表情に、如才ないメイドたちは食い下がることなくそれ以上の追求をやめて丁寧な傅きを返す。優秀な彼女たちは、主人が現状を打破する天啓を授かったことを明確に理解できた。
活気を取り戻した細胞の一つ一つに突き動かされ、切嗣は力を込めて一歩を踏み出す。
「僕たちは皆、まともな親を知らない。親が子供をどうやって導けばいいのかわからない。だからこそ、どうやってイリヤを守ってやるかを悩み続けていた。だが、そもそも
開け放たれた扉に立ち、曙光を全身に浴びる。皮膚一面が希望に熱くなる。太陽光に熱せられたのではない。身の内に誕生した炎に茹だっているのだ。湧き上がる満面の笑みを天に魅せつけ、切嗣は雄々しく紡ぐ。運命よ、見ているがいい。
「主役は僕らじゃない。イリヤだ。僕たちのイリヤなんだ。僕たちが全身全霊を掛けて育ててきた、この世の何者にも負けない、僕たち皆の娘だ。僕らが負うべき役割は、船をその場に留まらせる鬱陶しい錨じゃない。船出のために帆を推す追い風なんだ」
その言葉に、メイドたちがハッとして顔を上げた。色白だった頬が火照り、表情から苦悩と絶望が蒸発していく。意思とは離れて拳が勝手に握りしめられる。造り物の彼女たちにもわかった。目の前の男が、どこに出しても恥ずかしくない、立派な父親としてここに大成したことを。彼女たちのもっとも大事な少女を預けるに値する導き手となれたことを。
「旦那様がそう仰るのであれば」
「キリツグ、いい顔してる。とってもいい顔」
首だけで振り返り、自身を信任してくれたメイドたちに微笑みを向ける。
不意に、切嗣は立ち止まる。視界の隅に、見知った人影を見つけたからだ。湿気が滞留する土蔵の隅、忘れ去られたような暗がりに、その複数の人影が浮かんでいる。見紛うこともない。それらは自分自身の影だった。未来という光を浴びて映し出された、切嗣の人生の影。
アリマゴ島で地獄を目にし、実の父を手に掛けた幼い子ども。
数多の修羅場をくぐり抜け、殺し屋として育てられた、澱んだ目の少年。
魔術師を殺すためだけに生き、師であり母でもある人を殺そうとまでした冷たい目の青年。
暗黒の呪いに侵されたせいで、実年齢より遥かに老けて見える、弱りきった痩身和服の病人。
セイギを求める過程で己の正体すら見失い、人ならざるモノに成り果てた
過去、そして辿るかもしれなかった可能性。それら全てが、泥沼のような暗闇の内から切嗣をじっと見ていた。
そして、彼ら全員が───
肩を抱き合い、歯を覗かせて、各々が最高の笑顔を魅せていた。子どもは日に焼けた手を大きく振り、病人は痩せコケた頬をいっぱいに緩ませ、英霊は赤いフードの下で熱い涙を流していた。それらは、きっと一瞬の幻覚だったのだろう。その証拠に、人影たちは安心したように一様に頷くと、霧のように姿を消した。だが、彼らに対して強い頷きを返した切嗣は魂に確信した。己が今、衛宮切嗣という存在の前に並ぶ無数に枝分かれした可能性の中から、もっとも最善の未来を掴み取ったのだ、と。彼らはきっとその事実を伝えにやって来たのだ。彼らが望み、手に入れられなかった
「───
包み込むような優しい声に、切嗣は吸い寄せられるようにして今一度正面を向く。希望に眩しい曙光を背景に、その銀髪の女は美しく佇んでいた。幾つになってもその美しさが陰ることはない。切嗣が至情を捧げる、彼の唯一無二の理解者。彼女は、
10年前、そのことを身をもって教えてくれた一人の男とサーヴァントに思いを馳せ、切嗣はいつかの教会で感じたような情熱が胸の内によみがえるのを感じた。彼らは背中で証明してくれた。誰かを思って振るう力には不可能などないということを。彼らに出来て、自分たちの娘に出来ない理由など無い。
「ああ、答えは得た。もう大丈夫だ」
妻の腰に手を回し、躊躇いなくぐっと力強く抱き寄せる。まだこんな力が残っていたのかと心中に驚く夫を見上げ、最愛の妻はただ微笑み、10年前にもそうしたように彼の頬にそっと手を添え、心からの信頼を言葉ではなく人肌で伝えてくる。ルビーのように艶やかな瞳は一切の淀みなく、最愛の夫にすべてを託す親愛を湛えていた。どんなに長大で大げさな言葉よりも雄弁な眼差しの奔流を余すことなく心で受け止めて、切嗣は背後のメイドに指令を与えた。
「セラ。僕のニチアサコレクションから、至急持ってきてほしいブルーレイボックスがある」
「は、はい。しかし、なぜブルーレイボックスを……?」
戸惑いを隠せないセラに、切嗣は本当に久しぶりの不敵な笑みを浮かべてみせた。それは運命に喧嘩を売る男の顔だった。運命よ、お前なんぞに唯々諾々と従ってやるものか。お前がその気なら、こちらにだって切り札はある。
「あの娘に打って付けのサーヴァントを思いついたのさ」
未来は
「そういうことなら、畏まりました。ただちに持ってまいりますわ。して、タイトルは?」
「ああ、頼む。タイトルは───」
その瞬間、重厚な音を立てて、一人の戦士が“英霊の座”へと
それは、原初のホムンクルスにして大聖杯そのものたるユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンが、わずかに残った思惟で
お前以外に誰がその
おお、仮面の騎兵よ。稲妻と化して閃け。
おお、仮面の騎兵よ。真の愛を識る戦士よ。
おお、仮面の
TSバーチャルユーチューバー羽乃ユウナを讃えよ