船久保浩子はかく語りき   作:箱女

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―――――

 

 

 「えええ!? 席順で二着とかそんなあ……」

 

 小鍛治健夜が残念そうに声を上げたとおり、赤木と健夜の点数は南四局を終えた時点で同点だった。東一局時に赤木は南家であり、健夜は西家だった。したがってルール上、起家に近いほうが順位は上となる。

 

 オーラスを迎えてトップの健夜のリードは5200しかなく、二位には赤木がつけていた。この時点でイヤな予感はビシバシ感じていたが、かといって南四局をやらないなんてわけにもいかない。同じ卓に入ってくれた中年たちはなかなかの腕で、対局をブチ壊すなんてことにはならなかったがそれでも赤木からすれば屁でもない。そんなことは健夜にもわかっていたため、何より自身が早く和了ることが正しいのだと理解していた。

 

 そういった勝利への希望が見えたところに赤木しげるはやってくる。

 

 たった六巡。親の切った牌に赤木がロンを宣言した。振り込んだ中年はやってられるか、といった表情を浮かべている。オーラスで親でもない赤木が和了をコールするということは、一位が確定する手ということ。たった5200の差しかないのに二位確定の和了なんぞしたら顰蹙ものだろう。それは40符3翻の順位まくり確定の和了だった。ただ、当の赤木は勝利を喜ぶでもなく、ふう、と大きく息を吐いただけだった。

 

 

そうして冒頭の小鍛治健夜の落胆に繋がる。

 

 浩子は目の前の出来事が信じられなかった。なにせ国内戦無敗の伝説級の女性プロが負けたのだ。半荘一回くらいなら紛れも出るだろう、と言う人がいるかもしれない。その紛れを起こさせなかった人間が小鍛治健夜で、それが数年単位で続いていたといえばその異常性は伝わるだろうか。涼しい顔してそんな人を上回った男がいると話したところで “冗談ならもっとマシなの持ってこい” と言われるに違いない。ただ、信じられなかろうがなんだろうがそれは事実であり、浩子は受け入れなければならなかった。

 

 「じゃあ小鍛治サン、宿よろしく」

 

 「ええ? いや負けたけどそれやっぱりサシウマだったの!?」

 

 対局中の集中力たるや恐怖すら感じるような二人だったが、終わってしまえばそうでもないらしい。浩子からすれば、赤木はいくらか常識の抜け落ちたお金に頓着しない青年である。健夜に関してはラジオ番組やインハイの解説のときのいじられ具合が素だと認識できた。そこだけ見れば普通のひとに変わりはない。ただし麻雀は鬼のように強いが。

 

 「ちょ、ちょっと待ってね。これから宿ってほぼ無理だから……」

 

 健夜がそう言ったときに浩子はちょっと不思議に思った。たしかに時間帯はもう夕方どころか陽はもう完全に落ちて、空には星が瞬いている。だからといってビジネスホテルだとかその辺が埋まりきってるなんてことは少ないだろうし、無理なんてことはないのでは? と。そんなことを浩子が思っているあいだに健夜はいそいそと携帯を取り出した。

 

 「あ、おかーさん? 今日ね、友達泊めてあげたいんだけど……、ううん、こーこちゃんじゃなくて……」

 

 

―――――

 

 

 

 目の前に広がるのは、なんとも家庭的な料理の数々。色合いは良く言えば日本的、失礼な言い方を許してもらえるならば地味なものであった。それでも料理から立ち上る湯気が食欲を刺激する。

 

 そう、浩子と赤木は小鍛治健夜の実家にいた。きょろきょろと見まわすと築年数は浅そうだ。ひょっとしたら親孝行として新しく買ってあげたのかもしれない。小鍛治健夜ともなればそれくらいはぽんと出せる額に違いはあるまい。浩子は視界にいる麻雀の鬼二人の金銭感覚が自分とはかけ離れていることをさきほど知った。いや片方はすでに知っていたため、もう一人の感覚が自分と違うと知ったというほうが正しいだろう。雀荘を出て健夜の車に乗せてもらい実家へと向かう最中の会話である。

 

 「いくらなんでもさ、ホテルのロイヤルスイートとか旅館のそういうのって電話してパッと取れるものじゃないからね?」

 

 「へえ、そりゃ知らなかったな……」

 

 ( いや普通の客室とかなら取れるやろ…… )

 

 金銭面の心配ゼロである。

 

 そんなこんなで健夜の実家へと招かれ、夕食をいただくことになった。浩子はガチガチに緊張しているが、赤木は平然とくつろいでいる。小鍛治家の方との会話を聞いていると、どうやら面識があるらしい。よくもまあこんな変人と楽しく会話できるものだと浩子は感心しきりである。

 

 

 夕食のあとにはお風呂もいただいてすっかり馴染んでしまった浩子は、今あの小鍛治健夜の部屋にいた。かなりこざっぱりとした部屋で過度な装飾などはなく、ベッドに本棚、座イスの前にはテーブルがある。部屋の隅にはテレビがあり、そこから少し離れたところにパソコン用の机がある。どうやらノートパソコンを使うらしい。テーブルの上には黒ぶちメガネとペン立てがあり、爪切りや耳かき、蛍光ペンなどが入っている。クローゼットは閉まっていて中を見ることはできないがさすがに衣類が入っているだろう。ベッドの頭のほうには多少ものを置けるスペースがあり、小さめの電灯や鏡、目覚まし時計が置いてある。

 

 ちなみに浩子の現在の服装は明るい水色の左胸にドナルド○ックのあしらわれたTシャツと黒いハーフパンツである。言わずもがな健夜の格好はみんな大好きジャージである。

 

 「あ、あの、あんまり見られると恥ずかしかったりするんだけど……」

 

 「すいません。小鍛治プロの部屋ってどんなんやろって気になってしまって」

 

 赤木は現在ご母堂と楽しく談笑中である。

 

 「そういえば小鍛治プロって赤木さんとどこでお知り合いになったんです? 赤木さんてプロちゃいますよね?」

 

 「知り合ったのはけっこう最近でね、三年とか四年前かなあ。あ、噂はプロになってからずーっと聞いてたんだよ」

 

 「噂ですか」

 

 「そう、曰く十三歳で麻雀を始めて以降、一度も二位以下をとったことがない怪物がいるって噂」

 

 茨城の夜は大阪に比べれば多少は過ごしやすく、虫の声がよく聞こえた。健夜は浩子に座布団を勧めつつ自分はテーブルに肘をつき、どうしてか少し苦笑していた。

 

 「オフシーズンだったかな、仲良しのプロの人とお酒飲みに行ってね、その後雀荘に行ったの」

 

 「はあ」

 

 「それでみんな酔ってたからわざわざバラけて卓についちゃって……、今考えたらすごい迷惑だよねこれ……」

 

 「お客さんはたまったもんじゃないでしょうね」

 

 「で、私がついたその卓にいたの」

 

 懐かしそうに少しうっとりしながら健夜は話を続ける。

 

 「いくら酔ってても私はプロだし、当然勝つつもりで打ったんだけど負けちゃって」

 

 浩子はあらためて驚愕する。酔っていたとはいえやはり勝ったのかと。さっき見た対局も万分の一もない紛れなどではなく実力だったのかと。

 

 「一気に酔いが覚めたよ。負けるなんてしばらくぶりだし新鮮だったから」

 

 さらっととんでもないことを口にしていることに気付きもせずに健夜は話を続ける。おそらくスランプに陥ったり伸び悩んだりしているプロに聞かせれば激怒間違いなしの発言だ。女性にとっての “食べても太らない” 発言と同レベルと捉えてもいいだろう。

 

 「だから次は本気で挑んだんだ。一緒に来てたプロの人にも同卓してもらって」

 

 「囲んだ、ってことですか?」

 

 「ううん、さすがにそんなことしないよ。全力で打ってもらったけど、それでも負けちゃってね」

 

 「…………」

 

 「それからかな、ふらっと街で出会ったり、インハイの会場で見かけたり」

 

 「ええ!? ちょぉ待ってください!あの人インハイ見に来てるんですか!?」

 

 「けっこう好きみたいだよ? 男子も女子も見てるし」

 

 「今イメージがガンガンぶち壊れていってますわ……」

 

 「そんなこんなで今だと色んな人脈があるんだって。トッププロにはけっこう知り合いがいるみたいなこと言ってたよ」

 

 浩子はなんとか頑張って飲み物片手に観客席で高校生の麻雀を眺める赤木を想像しようとしたが無理だった。致命的に明るい場所が似合わないのだ。ひょっとしたら赤木の周りだけ席が空いていたなんて事態が起きていたのかもしれない。

 

 

 「赤木さん!インハイ観戦しに行ってるってマジですか!?」

 

浩子が他人の家だというのも忘れて大声を上げて赤木のほうへと向かっていく。とくに詰問するという調子でもなく、純粋に驚きから確認しにいってると見て問題ないだろう。余談だが赤木の寝間着は和装である。

 

 「ああ、本当だぜ」

 

 「なんでインハイ見たあとで私を鍛えようとか考えたんです!?」

 

 浩子からすれば当然の疑問だろう。彼女は団体戦にしか出ておらず、ずば抜けた戦績をたたき出したわけでもない。悔しいがもっと注目すべき選手は他にたくさんいた。それこそ筆頭は宮永姉妹がいるし、浩子と同じ大阪であっても荒川憩がいる。鹿児島永水の神代に白糸台の大星、今回こそ出場していないものの長野には天江衣なんて存在もいる。他にも挙げれば枚挙に暇がない。

 

 「別にそういう目的で見に行ってるわけじゃねえしな……」

 

 「へ?」

 

 「インハイってのは死に物狂いで出ようとするし勝とうとするだろ?」

 

 「え、はあ、そりゃまあ」

 

 「ってことは、ある一つの牌を切るかどうかで結果が分かれる一打があるよな?」

 

 「ありますね」

 

 「そういう一打が見てえから行ってんだ。インハイはそいつが出やすいからな」

 

 二日連続二度目の肩すかし。つまりインターハイは完全に赤木の趣味として見にいっているのだ。その目的もなんというか、捉え方によってはあまりいい趣味とは言えないような。その辺りを差し置いて考えると、つまりまったく別の基準から浩子は選ばれたことになる。果たして喜んでいいのか悲しんでいいのかよく分からないが、とりあえずその事実は受け止めることにした。

 

 「ところでインハイ見てたんなら聞きたいんですけど、赤木さんから見て強い選手っていました?」

 

 「……長野個人代表の福路、臨海の辻垣内、大阪はずいぶん数がいたな、荒川に清水谷に江口、愛宕サンの上の娘もいるしな、あとは熊倉サンとこの連中もよく鍛えられてる、そういや奈良に小走なんてのもいたな」

 

 「み、宮永照とかは入らないんですか? 三年連続のチャンピオンですよ?」

 

 「今してるのは麻雀の話だろ?」

 

 「え?」

 

 「宮永だの神代だのと言いたいんだろうが、あの辺は麻雀を打ってるわけじゃねえからな」

 

 「麻雀を、打ってない? どういうことです?」

 

 「……そうだな、じゃあこいつは宿題にでもするか」

 

 三年連続でインターハイを団体でも個人でも制した宮永照を初めとして神代小蒔もそうだという。おそらくその流れでいくのなら大星淡も天江衣も同じく麻雀を打っていないということに違いない。赤木はこれをとんちでもなんでもなく純然たる事実なのだと言った。最後に小鍛治サンに聞くのは反則だと言い含めて赤木は客間の布団へと向かっていった。

 

 超高速で寝息を立て始める赤木を睨みつつ、船久保浩子は頭を働かせる。

 

 宿題。

 

 宿題ということはおそらくなにか目的があってそれを出しているはずだ。となればその目的の第一候補は浩子自身だろう。この宿題を達成することで赤木が見た自分の可能性を広げられる、そう浩子は考えた。聞くのは反則だろうが自分で調べたデータに頼るのなら問題はあるまいと iPadを取りだす。さきほど挙げられた赤木が考える強いメンバーと麻雀を打っていないとされるメンバーの情報を並べる。身長体重年齢出身地などどうでもいい情報にもいちおう目を通し、検討を始める。

 

 わかっていたことだが、どいつもこいつも強い。現時点での浩子では太刀打ちできないだろう。

 

 しかしどうにも引っ掛かる部分が多い。例えば先ほど小走やえの名が挙がったが、彼女は奈良の個人予選では一位通過しているものの、団体予選で阿知賀の松実玄に後塵を拝している。浩子は阿知賀の牌譜を詳細に研究したため彼女の能力がどれだけエグいか知っている。それでも松実玄の名前は出なかった。そもそも宮永照がそこから外れている時点で違和感自体は最高レベルに達していると言えるのだが。

 

 やはり “天照大神” になにか関わりがあるのだろうかと浩子は思考せずにはいられない。とすると宮永咲もこちら側に分類されると考えていいのだろうか。それらと対等にやり合っていた人たちは? などと多くの考えがぐるぐる回る。

 

 

 まず浩子が出した一つの結論は、魔物クラスの異能を持つプレイヤーは麻雀を打っていない、というものだった。これは赤木の言葉に推測を加えに加えて、データを見つつ出したものである。そして次が赤木の宿題の本意だろうと浩子ももちろんわかっていた。なぜ魔物は麻雀を打っていないと言えるのか。

 

 これに関する結論を浩子はやはり出せなかった。実際は期限など設けられていないため、明日だろうが明後日だろうが一か月後だろうがいつでもよかった。しかし浩子はすぐに結論を出したかった。初めてあの謎人間赤木が自分の麻雀強化にかかわる話をしてくれたのだ。それに浩子の麻雀の実力を向上させたいという思いも真剣なものだった。だからその日は悔しい思いをしつつ眠りについた。

 

 

―――――

 

 

 

 もう夏至など過ぎてから一月近く経とうというのに、まだまだ太陽は元気である。まかり間違って東向きの窓のカーテンを閉め忘れるなどという事故が起きればその光は眠り続けることを許可しない。そうでなくても蝉がやかましく騒ぎたてるため満足いくまで寝続けるのは難しい。齢を重ねれば蝉の声を風流と解することができると聞いたがその境地は遠いな、と浩子はため息をつく。

 

 ちなみに小鍛治家はかなり広く、浩子も赤木もそれぞれ一部屋借りることができた。借りたのは和室だった。客間だとか言っていたが、その真ん中に布団を敷いて寝るのは浩子としては寂しさすら感じるほどだった。思わぬところで自分の庶民感覚に気付かされてちょっとへこんだのは別の話である。

 

 

 洗面台で顔を洗い、人前に出られる程度に身だしなみを整えて食事スペースへと向かう。すでにそこでは赤木が朝食をとっていた。浩子の感想は “この人、朝似合わんなあ”。この一点だった。顔は洗ったものの完全には覚醒していない状態でふとふすまの方を見やると健夜が立っていた。目はうつろ。口は半開きの寝ぐせつき。女子力だとかそういった観点から見ても伝説のプロ雀士として見ても完全にアウトである。ご母堂の盛大なため息とともに少しだけ目に光が戻り、ついでばたばたと洗面所へ向かっていった。

 

 

 「そういえばしげるくん、なんでわざわざ茨城に?」

 

 食事を終え、冷たい麦茶をいただきながら三人でのんびりしている最中に健夜が尋ねた。実際のところは浩子が適当に選んだのだがそんなことは口が裂けても言えない。

 

 「小鍛治サンと打てばひろの成長に繋がるんじゃねえかと思ってよ」

 

 雀士全員の憧れたる小鍛治健夜と打たせてもらえるのは身に余る光栄と言ってもいいだろう。だが、彼女は手を抜かないのか抜けないのかテレビなどでアマチュアと打つとそれは常に惨たらしい結果を生んだ。ましてやテレビでもなんでもなく直に打つとなれば彼女の強さを身を以て体験することになるはずだ。ネットではトラウマ製造機と揶揄されるようなプレイヤーと打ちたいかと問われれば、浩子はすぐ素直にイエスと答えることはできなかった。

 

 「あ、そういうこと? ……でもそうするとやり方考えなきゃだよね」

 

 「てっ、手ぇ抜かれるんはイヤです!」

 

 潜在的なプライドがそうさせたのか、浩子は意識せずに声を上げていた。健夜は柔らかく微笑み、そういうことじゃないよ、と小さく前置きした。

 

 「浩子ちゃんに伝えるために全力で打つってこと。手を抜くなんて失礼なことしないよ」

 

 赤木はどこか満足そうに二人のやりとりを眺めている。結果として浩子は史上最強のプロに啖呵を切ったようなかたちになってしまった。これではもはや逃げ道など存在しない。だが、その最強のプロが自分になにかを伝えるために打ってくれるというのだ。ここで火が付かなければなんのために千里山を出てきたのかわからない。

 

 だから浩子は出来る限り丁寧にお願いします、と頭を下げた。

 

 

―――――

 

 

 

 卓の向こうについた小鍛治健夜を見て改めて浩子は思う。これは本物の怪物だ、と。船久保浩子は徹底的な理論派であり、実績から来るプレッシャーのようなものとは縁がなかった。少なくともこれまではそうだった。それは大阪強豪三校での練習試合で荒川憩と打ったときも彼女の圧力自体に負けるようなことはなかった。いくら全国個人二位に輝いたとはいえ、所詮は自分と同い年。別に年上がプレッシャーを放ってきたところで受け流せる自信もあった。

 

 しかし彼女が放つものはもはや高校生のそれとは次元を異にしており、健夜の周囲の空間が歪んで見えるかのような錯覚すら覚える。決して小鍛治健夜は浩子に対して敵意に類するものを向けているわけではない。ただいつものように対局に向かう心構えをしただけである。向かい合うだけで “ああ、こいつに勝つことは許されないんだ” とそう思わせるほどの圧倒的な存在感。浩子が以前見たテレビでどこかのプロが言っていた。宮永照と小鍛治健夜を比較するだけ無駄なのだ、と。いくら高校無敗という意味では同じであってもそういうことではないのだ、と。その意味をここへ来てようやく理解する。そもそも彼女は立っている場所が違うのだ。彼女からすればインターハイなど子供のお遊戯会に等しいのだろう。おそらく彼女自身が高校生だったころから。

 

 こんなのが君臨していたころの日本プロリーグは地獄であったに違いない。雀卓の向こうの小鍛治健夜とシーズンを通して顔を合わせるなど苦痛以外の何物でもなかっただろうから。ちなみに現在は一線からは退いており、名義上は地元のチームに所属している。基本はラジオのパーソナリティか麻雀番組のゲストとして活動しているだけだがその人気は未だ高く、腕も衰えていないだろうというのが一般の認識である。

 

 

 現在、場所は昨日の雀荘。太陽は変わらず絶好調で、たまに吹く風が道行く人々のせめてもの慰めになっている。卓には浩子と健夜、あとはお店から二人出してもらっている。彼らにはとくに何も注文をつけず、普通に勝利を目指して打ってもらうことにした。

 

 東一局。浩子の手牌は良くも悪くもない。とくにオカルト染みたなにかが起きている感覚もない。他家を見てみるが、別におかしい事態が発生している様子はない。ならば普通に打って点を稼がねばならない。点を取らねば勝てないのが麻雀である。

 

 

 ――― 十巡目。

 

 目を向けるのもはばかられるほどの圧力ではあるが、しっかりと見なければならない。小鍛治健夜に大きな動きは見られない。テンパイの気配のようなものも感じられない。浩子は張ってはいるものの待ちが薄いためリーチをかけるわけにはいかない。そのまま流局となり、結局テンパイしていたのは浩子だけだった。親が浩子へと移る。ひょっとして宮永照のように一局目は見にまわったのではないかと浩子は考える。だとしたら仕掛けてくるのは次の局からだろうか。健夜の雰囲気はまだ変化を見せない。あるいは隠しているのだろうか。

 

 

 

 

 船久保浩子の得意分野は情報の収集と分析、そこからの推測を含めた対策をはじき出すことである。つい先日まで行われていたインターハイでもその能力を圧倒的な精度で発揮してきた。その精度たるや監督やコーチを凌ぐことが間々あるほどであった。そこに妥協はなかったし、自信もあった。ただその自信はこの三日で粉砕されそうになっていた。二日前に対局した赤木しげる。そして今向かい合っている小鍛治健夜。分析を許さぬ無形と言ってもいいスタイル。目の前の相手の傾向が見えないということは浩子にとっては未経験のことであり、困惑を隠せないでいた。分析が不可能となれば頼れるのは自分がこれまで培ってきた麻雀の地力だけである。浩子の地力は高校生レベルで見れば相当のものではあったのだが、相手が悪かった。

 

 「それ、浩子ちゃんらしい捨て牌だね」

 

 そう言いながら健夜が手牌を倒す。

 

 気配は確かにあった。ただ、浩子にはあの怪物が何を待っているのかがわからなかった。その時点で浩子は三位に甘んじていた。手には和了ればトップを捲れる形が出来つつあった。攻めるべき手であった。一方で安牌もあった。だがそれを捨ててしまえば手が崩れる。すでに場は南三局。勝つために退かずに前に進んだ。そこを討ちとられた結果となってしまった。

 

 浩子は退くに退けないとき、しっかりと前に進むことができる。これは彼女のひとつの美点であり、健夜と赤木が後に言うには隙だった。合理的な思考ができるからこそ退くことに意味がないと断じてしまえば、どれだけ恐怖があっても自分の理に従える。だからさきほどの健夜の発言は褒め言葉であると同時にアドバイスでもあった。

 

 しかしそんなことに今の精神状態では気付ける訳もなく。その発言から完全に狙い打たれたのだと思っても仕方のないことである。この場において浩子が小鍛治健夜に対して抱いているものはもう畏敬の念ではなく怯えであった。

 

 

 一半荘を終えて、浩子はじっとりとイヤな汗をかいていた。未だに小鍛治健夜の姿が靄につつまれている。局の途中で分析することは諦めたものの、頭の中にしっかりとデータそのものは記憶していた。いちおう許可をとって卓上を録画してもいる。効きの悪いクーラーに少し苛立ちながら浩子はあくまで考える。小鍛治健夜の打ち筋を分析することそのものには意味はないのか。自分に伝えるために打ち方を変える、と言っていた。その打ち方とはまったく掴みどころのない雲のような打ち方。分析できない相手がいるということを伝えようとしているのだろうか。いやそれなら口で十分に伝わるはずだ。あの二人が麻雀を打つことで伝えようとしていることはおそらくそう単純なことではないだろう。少なくともあと一歩、恐らくは二歩以上踏み込んだなにかだ。

 

 答えの出ない問題を考え続けるのはひどく辛いものでもあったが、やはり浩子はさして嫌いではないようだった。

 

 

 

 

 


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