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( ……衣は、どうすればよいのだ? )
白を基調としたホールの、決勝でしか使われない特別な対局室へとつながる廊下に、小さな影がぽつりと頼りなげに立っていた。はっとするような金色の髪と、その上に戴く真っ赤なリボンが周囲の白から際立って映える。ただ普段の少女とまるで違うのは、その身からいっさいの覇気が感じられないことだった。視線の先には床がある。じっと見つめたところで返答はなさそうだ。
負けの経験がないわけではない。実際に去年のインターハイは出場すら叶わなかった。その夏に奈良の高校と練習試合を行った際にも衣は異能を抑え込まれた。それらは悔しさとともに新たな世界が開けた感覚を衣に与えた。自身の及ばぬ異能があることが単純に嬉しかったのだ。その能力ゆえにひとりぼっちだった過去を持つ衣にしかその心情はわからない。だがその喜びは同じ領域に住まう仲間を見つけたものに違いはなかった。決して敗れたことに対しての感情ではなかった。
それは、歪なアイデンティティの崩壊だった。持たざる者には決して踏み込むことのできない、選ばれた者だけが立つことを許された聖域を踏み荒らされることに等しかった。普段から衣がそういった選民意識を持っているというわけではないが、
( こんなとき、とーかならどうする……? 純は、一は、智紀は……? )
必死で頭を働かせる。あと一歩で自分たちが全国で最高のチームなのだと証明できるのだ。ここで負けたところで自分を責めるような仲間ではないことは百も承知の上だが、それでも自分と友達になってくれた彼女たちに報いたい。そんな気持ちがあったから、衣はなんとしてでも自分の力で勝ってみんなのもとへと帰りたかった。だが、まだ光明は見えない。
衣はあえてひとりにしていてくれるチームメイトに感謝さえしていた。
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できるだけ表情を見られないような場所のベンチに座り込む。肺から空気を出し切り、そうしてから大きく息を吸う。まだ半荘しか打っていないのに脳が軋む。郝慧宇と愛宕絹恵を相手にしたことももちろんそうだが、天江衣のオカルトを封じるための脳の酷使は想像以上に浩子自身にダメージを残していた。正直なところ理論としては対戦前から確立していたものの、ぶっつけ本番でやらざるを得なかったため負担がどれくらいのものかなど確かめることができなかったのだ。実力者がずらりと並んだなかで分析対象がそのすべてというのは、まさに骨の折れる仕事だった。
( でもまあ、分析そのものは及第点やろ。掴めはしたしな )
壁は厚い。相手を意のままに操る闘牌は浩子の持てる技術のうちで最高のもののひとつではあるが、自身を上回る地力をもつ相手を複数同時に操るほどのものはない。もしそれが可能にしても、よほど配牌と自摸に恵まれなければならないだろう。これまでは操る対象が一人か、あるいは複数でも地力が浩子と同等くらいの相手が限界だった。唯一の例外は、あの横浜でのプロとの練習中に入り込んだ世界でのことだ。性格上そんな不確定なものに頼るわけにはいかない浩子は、目を閉じて気合を入れる。
( ……やり方は、あるはずや )
立ち上がってひざ丈のスカートをはたいてホコリを払う。直に休憩時間も終わる。鈍い頭痛は止まないが、それとこれとは関係がない。口元をきゅっと引き締めて、浩子は歩き出した。
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「
郝が七巡目にして和了を宣言する。高い水準で実力が拮抗している相手がいるからこそ、インターハイ女子団体決勝後半戦は速度に重点を置いた叩き合いにならざるを得なかった。後半戦開始時の点差は臨海女子、千里山女子、姫松の三校が八千点以内、龍門渕とトップの臨海女子の差はおよそ三万点である。どの立場の選手から見ても重い一撃が欲しいところだが、それを許してくれるような卓ではない。そしてこの状況は浩子にとっては決して良いとは言えないパターンだった。
浩子がこの一年で磨き上げてきたスタイルは、簡単に言えば他家の本質を見抜き、その傾向を先読みして狙い撃つというものだ。しかしこの高速の場においてそれを実行するのは至難であった。加えて郝も絹恵もとくに速度に自信を持つプレイスタイルではない。早めようと思って早めているだけで、それはただ彼女たちの地力の高さを証明するものでしかない。もし速度に自信を持つスタイルであるのならばそこに照準を合わせて潰すこともできるが、そうではないのだから始末に負えない。今、浩子は格上の存在と地力で戦わなければならない状況に陥っていた。
浩子に地力がないわけではない。むしろ全国においても上位にあるとみて問題ないだろう。その経験の凄まじさは他に類を見ない。だがそれでも届かない領域はたしかにあるのだ。むしろその差を埋めるために浩子が赤木しげるについていくことを決断するほどに。今の浩子にできることは手牌読みから他家の和了を邪魔することと、ひたすら我慢することだけだった。もちろん隙が見えれば逆に和了ってみせることも頭に置いてはいたものの、そうそうそんなラッキーが起きることはない。
( ……魔物なんかよりよっぽど化け物やな。さーて、どうにか一度和了らんとなぁ )
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「臨海女子と姫松の叩き合いになってきましたね!戒能プロ!」
「どちらも素晴らしいですね、互いのスピードに遅れをとっていません」
「一方で千里山女子と龍門渕がおとなしくなってしまいましたが?」
「これは郝選手と愛宕選手を褒めるべきでしょう」
「と言いますと?」
「彼女たちの望みに牌が応えている、とでも言えばいいのでしょうか。状況にマッチした素晴らしい引きを見せています」
「にわかには信じがたいことですが……」
「あるんですよ、そういうことって」
「ということはこれから始まる南場もそのような流れなのでしょうか」
「おそらく大筋ではそうな…………」
「あっ」
会場内のスピーカーに、お茶の間のテレビにひどく不釣り合いな音声が混じった。これまで解説を務める試合では淀みなくわかりやすい説明をしてきた戒能良子のものとは思えない、妙に濁った声だった。それはどこか山深くを歩いていて、あらゆるものから忘れ去られた御神体を不意に見つけてしまった感覚に似ていた。忘れ去られておくべきだったものを見てしまった感覚に似ていた。
良子の音声が入る直前に反応する二つの影があった。
「お、こりゃあ……。船久保ちゃんにとっちゃ前向きに捉えるべきかねぃ」
「状況は変わるけど……。うーん、どうなんだろ」
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「……たしか、このような場合にはこのように言うのが正しいのだったな」
小さな口から鈴を鳴らしたような声音が響く。もちろん容姿に変わりなどない。だがそれでも、あらゆる微細な変化を見逃さない浩子の目にははっきりと違いが見てとれる。いや浩子でなくとも十分に察することができるだろう。先ほどまで彼女を支配していた怯えが消えている。論理的思考のずっと奥にある本能が警鐘を鳴らしている。
「 “そろそろ混ぜろよ” 」
まだ自動卓から山さえ出てきていない。三人の視線を受けて、衣は不敵に笑う。
「まずは非礼を詫びよう。そして全霊を尽くすということを思い出させてくれたことに礼を」
空気の音が妙に強く意識される。普段なら気にならない細かいすべてがその存在を主張する。
「返礼というのも烏滸がましいのだろうが、聞かせてやろう。昏鐘鳴の音を」
同時に牌の山が卓にせり上がってくる。まるで誂えられたかのようなタイミングに満足そうに頷き、衣は山へと手を伸ばす。その緩慢とも言えるゆっくりとした手の動きに、同じ卓についている三人だけでなくスクリーンの向こうの観客も見入っていた。動く肩に合わせて梳き心地のよさそうな長い髪が揺れる。全員が空気の変化を察知した瞬間だった。
浩子は必死に自分を抑えつける。ここで動揺してしまうことは敗北に直結するからだ。いつものように他家の理牌を視界に収めつつ、自身の理牌はきちんと散らす。配牌そのものに違和感はないように思えるが、あの目覚めた魔物が何も仕掛けてこないとは到底思えなかった。しかし局が始まってさえいないため判断の下しようがない。とりあえず浩子は衣が一向聴地獄を仕掛けていると仮定して手を進めることにした。もし精神的に立ち直っただけだとすれば、脅威ではあるが対応できない異能ではない。浩子が危惧したのは、そうではない場合だった。
何が原因で衣が復活を果たしたのか浩子にはまったくわからなかったが、それ自体には異議など唱えるつもりはなかった。今それを追及することに意味などないし、なにより人の心なんてそんなものだというのが浩子の考えだ。それよりは勝利のために頭を働かせることが状況に即していると言えるだろう。南一局の序盤は先ほどまでとはうってかわって静かに進行していく。浩子は次々と自摸を吸収していく衣の手から不吉なものを感じていた。
「リーチだ」
南一局九巡目、親でもある衣が動く。最も怖れていた事態が起きてしまったのかもしれない、と浩子は諦観にも似た気持ちを抱きかける。
( いや、まだ早い。仮にうちの推測が当たっとるにしても
天江衣の異能は三つだ。一つは相手の聴牌を察する能力、一つは他家の手を一向聴地獄に叩き込む山を作り上げる能力、そして海底の牌を見抜く能力である。これら三つの異能を浩子は二つに分けることができると考えた。正確には後ろ二つの根源は同じであると考えた。オカルトについて思考を進めると、しばしば “支配” という言葉にぶつかる。これは普通では影響どころか関わることすらできない領域に手を加えることと同義の言葉だ。それを持たない者からすれば麻雀という競技を根幹からぶち壊しかねないような概念だ。ただその “支配” を軸に置いて考えると、海底の牌がわかる能力に別の解釈があるのではないかと浩子には思えるようになった。
一向聴地獄に誘導するような山を作ることができるなら、海底の一牌くらい選べるのでは、と。
似た例として清澄の宮永咲は王牌を支配し、嶺上牌を察知していたという。つまり支配することと特定の牌を知ることには何らかの関連性があり、いまだ天江衣が自身でその能力の意味に気付かずに無意識的にその能力を振るっているのだとしたら。もし山全体に及ぶ支配と海底に任意の牌を置く能力が同一であり、なおかつその能力が成長してしまったとしたら。浩子の想定する最悪は、
もし本当にそれが最終形でそこにたどり着いてしまえば、天和でも何でもやりたい放題になってしまう。しかし今は衣がリーチをかけている以上、そこまではまだ行っていない。あるいは制約のようなものがあるのかもしれないし、本当はそこまで異次元の能力ではないのかもしれない。しかしこの状況で楽観できるほど浩子は図太くできてはいない。もし天江衣が一発で自摸和了りするようであれば、その萌芽は出ていると考えるべきだろう。
場違いなほどに小さな手が山へと伸びる。人差し指と中指で引くべき牌を手前にずらし、親指の腹で下から支える。腕を引くと同時に手首を内側へと曲げ、その目で自摸牌を確認する。そのまま牌を表に返して卓上へと置き、衣は手牌を晒した。
「リーチ一発ツモ、平和ドラ1に……、裏がひとつ。跳満だな」
先ほどまであれだけ早かった郝と絹恵が動かなかったことも鑑みて、浩子は衣の能力がどのようなかたちであれ発動したと断定した。現段階では可能性がいくつかあって絞り切れず、早めに解析を終えたいところではあったが、またそれとは別に浩子は違和感を覚えていた。
衣の打ち回しは巧いとは言えないものだった。浩子の目から見れば理牌で手がかなり透けるし、牌効率もきちんとしているとは言いがたい。それでもぐいぐいと牌が手に吸い込まれていく。ただただ愚直に和了りへと向かおうとする姿はこれまでのイメージとはかけ離れていた。
南一局三本場。二年前のインターハイにおいて、その高火力で三校を同時にトバしたあの天江衣が堅実な和了で連荘を続け、次に和了れば臨海女子とトップが入れ替わるところまで来ていた。一方で後半戦開始直後から何もさせてもらえていない浩子は最下位へとその順位を落としていた。さっきまで気にも留めていなかった卓上を照らすライトが、熱を持って肌を焼いているような気さえしてくる。浩子は、思考を続けていた。
( これで天江が手を晒したのは三回。データは十分、あとは詰めろ、や )
三度も和了った形を見せられて違和感の正体に気付かないほど浩子はぬるいトレーニングを積んではいない。衣の打牌に迷いが見られないことも、牌効率が考慮されていないことも、もっと伸ばせそうな手を伸ばすこともなく和了ったことも、すべてはひとつに還元された。ここから浩子がするべきことは対策を講じることだ。他家の実力もオカルトも何ひとつ余さず呑み込んで、そのうえで勝ちをもぎ取ることだ。浩子の頭は次第に回転数を上げていく。
条件は先ほどまでより緩くなったと浩子は考えていた。衣が和了っているあいだにもさまざまな打ち方を試し、今この卓が置かれている状況の把握に努めた。収穫は大きい。間違いなく衣は山に影響を与えていて、それは浩子たちには一向聴地獄を、衣本人にはまた別の効果をもたらしているだろうことが読み取れた。郝と絹恵の足を止めることができなかった浩子には、一向聴地獄は幸運とさえ呼べるだろう。それをすり抜けられるのは浩子以外にはいないのだから。
自身の連荘を含めれば残り何局になるかはわからないが、浩子はそのすべてで前半戦に実行したあのやり方を採ることを決めた。脳を太い綱が締め付けるような痛みがあるが、それ程度で諦めがつくほど団体戦優勝というものは軽いものではない。もう勝ちは半分以上見えている。
―――――
「……ちょっと驚いちゃったなあ」
「ん? なにが?」
「ほらさっき天江さんが復活した時点でさ、てっきり浩子ちゃんが感覚遮断するかと思ってて」
「うっそ!? すこやんのアレできんの!?」
「まだ自在じゃないみたいだけどね」
「まーったく末恐ろしい子だねぃ」
「でも今の戦い方で体力的に大丈夫かな、もう表情に気を回せてないみたいだし」
「極限状態ってやつかねぃ。つかなんで感覚遮断しねーんだろーね。わっかんねー」
「……どっかの誰かが何か言ったのかもね」
―――――
小さなミスひとつ許されない細い細い道を浩子はひとり歩く。丹念に郝と絹恵の流れ着く一向聴のかたちを推測し、自身が引くであろう牌を順序を問わずに読む。配牌時にはすでに最終形が見えているであろう衣の手格好を想定し、それを自分が鳴くことや他家に鳴かせることで崩しにかかる。なにか読み違えれば浩子の手は完成することはなく、また山全体に支配を及ぼしている衣の手は一度崩したところで簡単に再生さえしてみせる。浩子は歯を食いしばって頭の軋みを抑え込み、孤独な戦いを続ける。
呼吸を強く意識し、卓全体へと目を配る。指先に痺れているような感覚があるが、そんなことはどうでもよかった。浩子は基本を意識する。見ることがすべての基本だ。じわりと汗が滲む。場は進行していく。もう今がどの局なのかすらわからないような状況のなかで、浩子の当たり牌が河に捨てられた。点数が十分に足りている和了だったため、当たり前の論理にしたがって浩子はロンを宣言した。
北大阪地区代表、千里山女子高等学校の優勝が決まった瞬間だった。
割れんばかりの歓声が観客席を満たす。隣にいる人に話しかけようにも、それすら難しいような状況だ。立ち上がっている人も座っている人もみな一様に興奮している。それほどまでにたった今目の前で起きた逆転劇は凄まじいものだった。戒能良子の解説のおかげでスクリーンの向こうの彼女たちが何をしているのか理解できた観客たちは惜しみない称賛を選手たちに贈る。一度は最下位に落ち込みさえした千里山が、本当の意味で身を削るように龍門渕に対して仕掛けていく様を彼らはじっと見守った。麻雀を打つことで肩で息をするほどまでに追いつめられることはイメージさえ届かない範囲の出来事ではあったが、その痛ましいまでに必死な姿は現実としてそこにあった。
陽はもう完全に沈み切って、夜空は一等星と月だけの舞台になっていた。風のない静かな夜だ。ホールの中の熱など誰も想像できないくらいに。夜の下で誰かが涙を流す。理由など誰にもわからない。悔しいからかもしれないし、あるいはその反対なのかもしれない。まったく別の理由かもしれない。確かなのはその事実だけだった。
ありがとうございました、と他家が頭を下げるのを見て浩子は慌ててそれに倣う。今の局がオーラスかどうかにさえ気を回す余裕がなかったのだ。かろうじて点差だけは意識に残していたため、おそらく逆転したのだろうがなんだか実感が湧かない。それよりは襲い掛かる疲労感のほうが現実感をもって迫ってくる。浩子は背もたれに思い切り寄りかかって、息を深く吸ってゆっくりと吐く。今すぐ立ち上がるのは遠慮したい気分だ。どうせチームメイトが迎えに来てくれるだろう、とあまり褒められない計算高さを発揮して浩子は動かないことに決めた。
隣に誰かが立ったような気配がしたので顔を向けると、天江衣がそこには立っていた。
「……聞かせてほしい、千里山の大将。どうして、どうやって衣の支配から逃れたのだ?」
「ん、ああ、簡単なことや。うちは天江さんのこと研究しとったから」
「そ、それだけ?」
「それだけ、言うてもそれしかできひんからな」
「本当にそれが衣のような打ち手に通用すると信じていたのか?」
「ま、他に選択肢がないっちゅーんもあるけど、それでもそう思てはいたなぁ」
「……その理由は?」
「最後に勝負を分けるんは情報や、と思っとるからや」
そう言うと浩子は深く笑んだ。