船久保浩子はかく語りき   作:箱女

19 / 24
十六

―――――

 

 

 

 「皆さんの入部を、私たちはホンマに歓迎します」

 

 新入生が立ち並ぶなか、ひとりひとりの顔を見ながら浩子はそう切り出した。その場にいる全員の視線が注がれている。中学生大会で鳴らした選手もいれば、これから麻雀を始める人もいるという。その新部員たちはおそらくもう知っているだろうが、あらためて部長である浩子の口から説明しておかねばならないことがある。

 

 千里山女子の麻雀部はわざわざ誰かに聞くまでもなく名門だ。部員数も並ではない。そのため、練習効率を考えて部員は実力順に組み分けされる。千里山は徹底した実力主義だ。力があれば一年生でも団体戦のメンバーに入れるし、一方で上から六番目の実力では三年生でもメンバーから落ちる。当たり前と言えば当たり前だが、実際に目の当たりにするとそれはシビアなものだ。それが浸透しているからこそ彼女たちは麻雀に関しては手を抜かないし、またそれを失礼だと考えている。それでも雰囲気がギスギスしないのはお互いに環境を理解しているからなのだろう。

 

 それでも気後れすることなく頑張ってほしいという旨を最後に告げると、後のことを副部長たちに任せて浩子はパソコンの置いてある資料室へと引っ込んでいった。インターハイの予選まであと二ヶ月、本選まで三か月と少しと実はそこまで時間的余裕はない。浩子はチームのためにめぼしい高校のデータを集めようとしていた。本来なら牌譜集めやその研究はレギュラー外の部員の仕事なのだが、こと千里山においては情報収集能力も研究能力においても浩子がずば抜けているために彼女が担当している。もちろん本人がその作業をやりたがっているというのもあるが。

 

 浩子自身、不思議な視線を受けていることはわかっていた。なにせ新体制になって以降、浩子は一度も卓を囲んでいない。とりわけ浩子が行っているのは先の情報収集と新しく入った部員の調査である。卓を覗いてはどの程度打てるのかを見て回り、あるいは異能を抱えているのかどうかを判断しようとしているのだ。もちろんそんなことは自分で打ってしまえば判断は一番早いのだが、三十人に届こうかという人数を捌くとなるとそうも言ってられなくなる。部長である自分の打ち筋が気になるという心情は浩子も理解している。かわいい後輩のために目の前で打つこともやぶさかではない。だが、相手の本質を見抜くという技術を手にしてしまった浩子の打ち方は、まず間違いなく参考にならない。いきなり他家の手牌が透けて見えているかのような闘牌を見せられても疑問しか湧いてこないだろう。いずれ見せることにはなるのだろうが、それはもう少しこの部の雰囲気に慣れてからでも遅くはないと浩子は考えていた。

 

 

 結果として浩子が打ったのは、新入生が来てから一週間後のことだった。いかにこれまで厳しい環境のなかで鍛練を積んできたとはいえ、きちんと練習をしなければいずれ技術は錆びついてしまう。だから浩子としては何の気なしに卓について打とうとしたのだが、サイを振る段にはすでに人垣ができていた。部長というのはそんなに注目を集めるものだったか、と浩子は考えを改める。実際は泉や副部長やその他の部員が一年生に吹き込みまくったことに起因しているのだがそれについては知りようがない。そのとき浩子は資料室にいるのだから止めようがないのだ。間近で見られるのはあまり経験がないな、などとぼんやり考えていると、監督から群がる部員たちにひとつ注意が入った。

 

 「最初っから浩子の後ろに回るんはやめとき。半荘終わったらビデオで撮ったん見てええから」

 

 ずいぶんと不思議な物の言い方だった。おそらくほとんどの一年生がそう思うんだろうなと考えて、なんだか懐かしくなり浩子はくすくすと笑う。口元に手をやって楽しそうに笑う理由が周囲の人間にはいまひとつ理解できない。まさか八か月ほど前に本人が似たようなことを言われたなどと推測できるものなどいないだろう。

 

 

 「ところで監督、ずーっと気になってたんですけど」

 

 「何や」

 

 人だかりのできている浩子の卓から少し離れたところに、この部の監督である愛宕雅枝と二年生にしてエースとなりうる素質を持った二条泉が立っていた。

 

 「船久保先輩、どうなってるんです?あの勝率と振り込みの無さは異常やと思うんですけど」

 

 「泉、クセって意識したことあるか」

 

 「そりゃバレたら嫌ですし」

 

 「浩子はその本人よりクセが見えとるんやと」

 

 「は?」

 

 ふいと窓のほうを向いて雅枝は目を細める。青空には小さなちぎれ雲がいくつか浮かんでいる。鳥の影がすっと横切っていく。泉は監督に対してあるまじき返答をしてしまったため、取り繕おうとしてあたふたと手を動かして話を続ける。

 

 「いや、その、クセ言うても全然そんなん無い先輩もいますよね?」

 

 「浩子の目にはそうは映っとらんらしいで」

 

 にやり、と少し意地の悪そうな笑みを浮かべて雅枝は続ける。

 

 「それにそうでもないとあの戦績は説明つかんやろ」

 

 

―――――

 

 

 

 ひどく疲れた顔をして、深いため息とともに廊下を歩く一人の少女の姿があった。春の陽気に満ちた外の景色とはまるで似つかわしくない様子である。日の光は廊下の窓に縁どられて影を落とし、ちょうど歩いている浩子の膝の辺りに境界線ができている。浩子がついさっき出てきたのは応接室で、そこでインタビューを受けていたのだ。これは半ば名門の部長の義務といっても差支えないもので、全国大会常連の高校ともなればどこも事情は同じだろう。明らかにこういうのは自分には向いていない、と浩子は思う。前年の部長であった清水谷竜華はまったく意に介することなく見事にこなしていたが、そもそも人種が違うのだ。あの包容力は高校生が持っていいものではない。そうやって頭の中でひたすら愚痴を吐きながら浩子は歩く。

 

 土曜日の午後は暖かく、廊下の窓から見えるグラウンドでは陸上部がそれぞれの種目の練習をしている。自分の身長以上の高さのバーを跳び越えるなどいったいどうやるのだろうなどと興味深そうにしげしげと眺める。物理的な原理は理解していても、実践するとなるとまた話は別である。浩子だけ練習から外れてインタビューを受けていたため、今こうやって廊下を歩いているのも浩子ひとりである。いつもとは種類の違う疲れを感じていたから少し休憩することに決めて、例の談話スペースに向かうことにした。

 

 学校用のものと違って背もたれがすこし後ろに傾いている椅子はなかなか快適なものである。これにクッションでもついていれば完璧なのに、と思うがそれは言っても仕方のないことだ。腰を下ろしてスマートフォンを取り出す。部活中は音も振動もしないように設定してあるので、取り出してみると連絡が入っていることがあったりする。メールボックスを開いてみると、メールマガジンといくつかのメールが入っていた。どれも先輩からのものだ。大学生だのプロだのというのはそんなに時間に余裕ができるのだろうかと少しうらやましくなる。今日は土曜だから時間があってもそこまでおかしくはないのだが、名門女子麻雀部にはそんなことは関係ない。軽めの文章に部活が終わったらまたメールします、と添えて送り返し、浩子は部室に帰ることにした。ちなみに浩子の言う “先輩” には千里山はもちろん宮守も含まれている。

 

 

 「先輩、インタビューどないでした?」

 

 練習が終わって荷物をまとめていると、泉が声をかけてきた。空はこれから夜に向かっていくような紫色をしている。冬に比べて一気に日が伸びたことを実感する。

 

 「どないも何もフツーやろ。今年の目標と、あとは注目してる学校とかやったし」

 

 「んー、目標は全国制覇やからええとして、ガッコはなんて答えたんです?」

 

 「答えてないな。どこも強豪なんで気ぃ抜けませんー、て」

 

 「めっちゃオトナな回答やないですか」

 

 「こういうんは無難でええの」

 

 「でもでも、ホンマは警戒してるトコとかあるんですよね?」

 

 浩子は視線を宙にさまよわせ、あごに手を当てて短いあいだ考え込んで答えた。

 

 「……龍門渕、やな」

 

 

―――――

 

 

 

 天江衣の孤独と退屈が壊されたのは、一年前の六月の半ばのことだった。

 

 

 しとしととやわらかい雨が降り続く梅雨にあって、その日は珍しい快晴だった。前日までの天からの恵みを存分に受け取った木々の葉はつやつやと輝いて、合間に見える花の色を際立たせている。日差しもあって気温は高く、全国高校生麻雀大会長野県予選に出場する選手はそのほとんどが夏服での参加となっていた。

 

 しかし会場の外の清々しい景色とは裏腹に、会場内には陰鬱といってもいい空気が流れていた。小声でささやかれるのは、龍門渕高校の絶対的な強さについてである。近年の長野県における麻雀の強豪といえば風越女子というのが暗黙の了解であった。去年までの六年連続での優勝というのは並みの実績ではなく、それに対抗する高校も現れなかったためその記録がどこまで伸びるかと期待されていた。そんなときに登場したのが龍門渕高校である。当時の龍門渕の選手たちはまったくの無名だった。そしてその年の長野を制したのはその無名の一年生たちだった。強豪たる風越にあって唯一対抗できたのは先鋒を務めるエースただひとりだけで、他は言い訳の利かないほどの敗北を喫した。

 

 その年のインターハイで龍門渕、それもとりわけ天江衣の名は一気に広まった。各県の代表校が集まるその場において、衣は三校を同時にトバすという離れ業をやってのけた。外見こそ小学生と見紛う程度の身長と、腰まで届く透き通った金髪に高く聳える赤いリボンという可憐なものであったが、その戦いぶりは鬼神と称されても違和感のないものだった。そのインターハイで、衣は団体戦での最優秀選手に選ばれた。

 

 衣の異常性はその能力に由来する。すべての局というわけにはいかないが少なくとも半分以上の局で、衣は相手の手を支配する。一向聴で他家の手を止めてしまうのだ。麻雀は競技の性質上、和了らなければ勝つことはできない。つまりこの時点で天江衣は自分以外の勝利をほとんど否定していることになる。これについて衣自身は何らの影響も受けない。さらにもう一つの能力によって衣には海底の牌が何なのかが判る。それには理由も根拠もなく、ただ事実としてのみ判るのだという。つまるところ、それに合わせて手を作れば和了れてしまうのだ。相手を和了らせないように縛り、自分は判りきっている牌へと向かって打っていく。加えて一向聴での縛りが発動しないときでも相手の打点の高さが読めるという異能も持っている。負ける道理がなかった。

 

 だから今回の大会も龍門渕が圧倒するのだろうと思われていた。

 

 それを打ち破ったのは、奇しくも昨年の龍門渕と同じく無名の高校だった。それもあの宮永照が存在しているにもかかわらず、高校最強の呼び声さえあった天江衣を破ってのものだったがゆえにその衝撃の大きさは計り知れないものがあった。だが会場全体が龍門渕の敗北にどよめくなかで、衣はひとり歓喜した。そのとき心の奥に小さくくすぶっていたなにかが取り払われた気がした。海の底に光が差した。勝ちに飽いだ魔物が初めて麻雀を楽しいと感じた。そこに初めて負けたくないという感情が生まれた。

 

 

 「なあ、とーか。衣は、来年あの場所で打ちたい」

 

 自分たちが出場するつもりだったインターハイの観戦からの帰り、まるで音を立てない快適なリムジンの中で、衣が呟くように言う。とーか、と呼ばれた少女は小さく微笑み、隣に座る衣に肩を寄せて言う。

 

 「あら、気にしなくても私たちが連れていって差し上げますわ」

 

 「違うぞ、衣は、衣はみんなで勝ちたいのだ」

 

 体の向きを変えこちらを見上げてくる衣に、透華は母のようなやさしい眼差しを向けて、ついで可愛らしくウインクを決めてみせる。

 

 「ならば!帰ったら特訓ですわね!」

 

 言うや否や同じリムジンに乗っている他のメンバーに何やら相談に行っている様子を見つつ、透華は本当に人の心を読み取るのが上手だと衣は思う。衣にはそれがまるで魔法のように見える。現に衣は早く練習がしたかった。執事の静止を振り切って移動中の車の中で動こうとしてずっこけている透華はとてもコミカルに見えるが、そんなもので人の器は測れない。

 

 

 その絶大といってなお余りある能力を持っているために、衣の打ち方は稚拙なものだった。相手は基本的には張ることはなく、張ったにしても高い打点だとわかっていればその手は絞れてくる。よって衣が大きな手に振り込むことはなく、それ以外は放っておいても勝ててしまうのだから彼女が麻雀という競技に対して研鑽を積むことはなかった。しかしあの敗北を経て、衣は勝つ為に何が有効かを考えて打つようになる。これまでそのような打ち方をしたことはなかったから、もちろん失敗だらけのスタートであった。きちんと打つことに関しては周囲と比べて経験不足は否めない。それでもひとりの魔物が殻を破ろうとしていること自体が重要だった。

 

 麻雀を打つことに目的を見出せたことも大きな変化のひとつだった。自身に土をつけた選手でさえも苦戦するインターハイを観て、全国にはまだまだ素晴らしい打ち手がいることを知った。チームメイトとまた東京の地に行くことも大きなモチベーションのひとつだったが、それ以上にあの舞台で人並み外れた選手と打ってみたい、勝ちたい、と衣は強く願った。

 

 

―――――

 

 

 

 「えっ、長野やったら清澄が怖いんとちゃいます?」

 

 泉は不思議そうに声を上げる。

 

 「まあそこも怖いけどな、龍門渕は全員三年生やから」

 

 「はあ、そうなんですか」

 

 浩子の発言が何を意図してのものなのかがわからず、泉は生返事を返す。浩子は帰る支度を整えて泉のほうへ向きなおり、軽くデコピンを食らわせて歩き出す。

 

 「江口先輩が言うててなぁ。三年生ってなんや不思議なパワー出んねんでー、て」

 

 額に右手をやりながら泉は聞く姿勢をやめない。

 

 「そんなん非科学的やから認めたくないけどな、実力以上のもんが出るって」

 

 「それやったら船久保先輩も出るんちゃいます?」

 

 「いらんいらん。実力通りで十分や」

 

 もう一度、今度はさっきより少し力を込めてデコピンをする。何するんですか、と後ろから文句を言ってくる泉を置いて廊下を歩く。窓の外はだんだんと夜が押し寄せてきている。それほど重くない鞄を肩から提げて下駄箱へと向かう。どうやら別の部の生徒たちも下校する時間のようだ。いくつかのグループが端っこで固まって話をしている。校門の先には路上の電灯が点き始めていた。

 

 

―――――

 

 

 

 ふいと左を向いて空を見上げる。ここしばらくは天気がいい。一昨日に薄曇りだったくらいで、あとはずっと青空が見えている。かつかつと黒板にチョークを走らせる音が聞こえてくる。浩子の席は窓際の後ろから二番目で、そんな席に座ってしまうと外の景色をどうしても見てしまう。考え事があって、さらにそこまで面白い授業でないのならばなおさらだ。授業をしている日本史の先生はいきなり指したりしないからそこだけは評価できる。それに中間テストも終わったばかりだから今の時期は詰めた授業をやったりしない。

 

 頬杖をついて、空いた手でオレンジの蛍光ペンをくるりと回す。視線は窓の向こうの住宅街の方をこそ向いてはいるものの、特に何かを見ているというわけではなさそうだ。頭を支配しているのは、じきに始まるインターハイ予選。気にかからないわけがない。先輩が達成することができなかった全国制覇を自分が成し遂げる最後のチャンス。万に一つも予選で躓くわけにはいかない。授業中に頭を悩ませたところで何が変わるというわけでもないのだが、それでも考えずにはいられない。

 

 つい昨日、団体戦のメンバーが発表された。浩子は最後にきちんと勝利を決定づける役割を任された。プレッシャーやそういったものは浩子にはあまり関係がないが、今年はおそらくどの学校も大将に力を入れてくると推測される。なぜなら天江衣も、荒川憩も、どちらも大将の位置に座るだろうから。どれだけ先鋒から副将までで稼いでも大将だけで逆転する可能性を否定しきれない二人なのだ。その二人を食い止めるとすれば、千里山の選手では船久保浩子を措いて他にない。大将という役目を雅枝から言い渡されたとき、大変そうですね、なんて軽口を叩いたがその本心は高揚していた。強くなるために、全国にいる怪物どもに勝つ為にこそ千里山をしばらく離れたのだ。浩子が対戦を楽しみにするのも当然と言える。やはり麻雀の熱にアテられているのだ。

 

 そうやって麻雀のこと、主に対策などを考えていると授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。なかなか有意義な時間だったな、と浩子は満足そうにうなずく。一拍置いてノートを開いてさえいないことを思い出し、あとでクラスメイトにパックのりんごジュースをごちそうすることになったのは別のお話。

 

 

 プロとの対局のときに入り込んだ、あの透き通った世界から浩子はしばらく遠ざかっていた。音がなにかに吸収されるかのようにくぐもって小さくなり、思考だけが自分の意図を超えて加速する世界。そこにいる間は気分の良さも悪さも何も感じなかったのに、いざ出てきてみると脳を直接ゆさぶられたかのようなひどく重たい気持ち悪さが襲い掛かってくる、なんとも説明しにくい感覚。できることなら二度と関わりたくない現象だったが、冷静に記憶をたどってみればあれが生涯で最高の力を発揮したと言えるのは疑いようのない事実だった。だがあの世界への入り方などまったくわからない。悔しいやらほっとしたやらどちらともつかない気分のまま、浩子は帰り道を行く。たまたま視線の先に石ころがあったから蹴ってみたが何が変わるというわけでもなかった。

 

 調子は平常通りかな、と浩子は自分に評価を下す。図抜けた引きの波が来ているわけでもなく、かといって救いようもない自摸の悪さというわけでもない。それよりはるかに重要な分析能力は、しっかりと実戦で使えるほどに叩き上げてある。目の配り方も他家から見た自身の振る舞いにも十分に気を回せている。これでいい、と浩子は思う。変に調子が良かったりすれば、場合によっては自分のスタイルが崩れてしまう可能性があった。たとえどんな状況においても、浩子はまず “見る” ことから始めないといけないと考えている。そこには一片の驕りも見られなかった。

 

 

 夏が、近づいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。