船久保浩子はかく語りき   作:箱女

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十五

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 背中を曲げてあごを乗せ、腕を伸ばしてこたつの上でみかんの皮をむく。今日は練習が休みということで、浩子は朝からとくに何をするでもなくぐうたらとしている。昨日の天気予報で聞いたところによると外はこの冬でも指折りの寒さらしく、その寒さのなかで出かけようとするほど浩子は活発ではない。今日はこたつから離れることなく本を読んだりテレビを観たり、あるいは iPadを使って調べ物でもしようかと考えている。オフシーズンということもあってか、家主である咏やともにお世話になっている健夜は浩子に輪をかけてぐうたらした生活を送っている。下手をすると朝は起きてこない。そのためここ最近は浩子が朝食を作るのが常となっている。思っていたより評判がよかったので宮守での経験に感謝しきりである。

 

 ぱらぱらと本のページをめくる。浩子が小説を読むようになったのは横浜に来てからのことだ。こっちのクラスメイトたちとも仲良くやっているが、宮守女子ほど時間が取れないのだ。基本的に放課後はロードスターズでの練習のためにすぐに帰ってしまうから、忙しい人なのだと思われている。高校麻雀の界隈における千里山女子の知名度は抜群で、そこで二年生レギュラーを張っていた浩子は麻雀部員からすれば騒ぎ立てるには十分なものを持っているのだ。そうやって騒がれたことも忙しい人と思わせる要因のひとつになっているのだろう。だから学校も麻雀の練習もない完全な休日は、ぽっかりと空いた時間になる。そこで試しに咏の持っている本を読ませてもらったところ、これが案外面白くて習慣化したのだという。

 

 浩子が好んで読むのは歴史小説や伝記ものである。偉人たちの遺した功績はそれだけを見るならば輝かしいものだ。だがそんな人たちにも当たり前の生活はあって、そこでは思ったより俗っぽい生活をしていたりする。あるいはどう見てもただの偏屈な人にしか見えなかったりする。浩子はそういうのを見るのが楽しいのだと言う。咏から借りた半纏を羽織ってこたつで読書に耽る様は英単語の暗記をしている受験生に見えなくもなかった。

 

 

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 いつか咏が若手の勉強会に参加したときに全体に向けて放った言葉がある。それは浩子自身に自覚のないまま、心の中に小さな種を残した。

 

 「いいかい?我が強いのは大事なことだ。そんでその我を通して勝てるんなら文句はない。だけど知ってんだろ?どっかでそいつを曲げなきゃいけない時が必ず来る。勝つ為にだ。大事なのは曲げるタイミングを間違えちゃいけねーってところだ。早すぎてもダメ、遅すぎてもダメ。どっちも負けに繋がるし、下手すりゃフォームが崩れる。ここを見極められるからこそアタシ達はプロなんだよ。我を通して散るって美学もわからなくはねーけど、そいつはアマチュアに譲ってやんな。プロとして求められてるもんくらいわかってんだろ?」

 

 この話を聞いたとき、正論だ、と浩子は思った。程度の差こそあれ、千里山女子高校麻雀部という場所においては浩子も似たような立場にある。部長うんぬんの話ではなく、団体戦レギュラーという選抜された選手という立場においてだ。浩子は麻雀における自分というものがまだわかっていなかったから勝つ為に自分を曲げるというあたりはぴんと来なかったが、最大の目的が勝利だというのは大いに頷くところだった。

 

 その日の練習は普段と比較して圧倒的にプロたちの熱が入っていた。本来であれば日によって気合の入れように差が出るのは好ましいものではないのだが、そこは三尋木咏の存在感や影響力が大きかったと捉えるべきなのだろう。ロードスターズの若手のプロたちにも馴染みはじめていた浩子だったが、その日だけはさんざんに裏をかかれた。試しに毎回来てはどうかと提案してみたが、たまにだから効果があるのさ、と軽くいなされてしまった。さて二週間に一度だけ練習に参加している自分は、千里山の部員たちから見ると同じような存在なのだろうかと考えてみるが結論は出ない。なんだか最近結論の出ないことをよく考えるようになったなあ、と思う。故郷を離れるということは、本人が思っている以上に精神的な変化をもたらしているのかもしれない。

 

 

 浩子は麻雀の勝負となると容赦をしない。もしそれが遊びなどであるならばいくらでも手を抜くし、場合によっては勝ちを譲ってあげることもある。だが勝負となるとそうはいかない。隙を見せればそこに噛みつく。弱点と見るやそこを徹底的に叩く。実際に前回のインターハイでは王者たる白糸台の副将に対してそれをやってみせた。それを卑怯だのせせこましいだのと言える人間はさぞ()()のだろうと浩子は思う。皮肉でもなんでもなく、相手の得意技を真正面から受けてさらにそれを叩き潰す真似などできないから。だからずっと情報という武器で戦ってきたし、最近はそれに磨きをかけている。そういうスタイルだからこそ浩子は容赦をしないし、またするわけにはいかない。そうして砥がれた牙は、ついに恐怖を与える段階までに鋭くなった。

 

 それは二月半ばのある晴れた日の夕方のことだった。その日の浩子はどこかぎらぎらしていて、なのに遠くへ行ってしまいそうな不思議な雰囲気を持っていた。とはいっても振舞いが普段と違うということもなく、近頃はほとんどチームメイトとしての扱いを受けるようになった浩子はいつも通りに練習に参加した。この勉強会で高校生に無様なところは見せられないということで、浩子はひとつの刺激になっていた。だから参加しているプロのうちで誰も気の抜けたプレイは見せなかったし、それは大いに彼女たち自身の鍛練にもなった。だがそれ以上にプロの全力を間近でいくつも見学し体験した船久保浩子は、それらを吸収し自らの糧としていった。

 

 思考の源泉、あるいは本質を見抜く作業において重要な役割を持つのが “幅” である。もともと浩子が行っているのは自分にはない思考の流れをトレースするというある種異常な行為であって、それは同時に他人の思考を認めるということでもある。自分とは違う考え方だから、という理由で否定してしまえばそれは根本的な部分で成り立たない。この手法は、こういう考え方もあるんだと受け入れることから始まる。それを実行するためにできるだけ多くの人と対局し、その幅を広げる必要があった。そしてこの勉強会という場は、多くの考え方を見るという点においてうってつけのものだった。打つたびに新たな発見があるこの環境に浩子は歓喜した。そしてその精神状況が彼女の成長をさらに加速させたのである。

 

 その日の練習は咏がいた日に比べるとゆるやかな空気のもとで行われていた。さすがに普段からあの生き死にを賭けたような気迫を込めるのは不可能だろう。それでも至って真面目な雰囲気の中で場は進行していった。三回戦目の浩子の相手にオカルト能力寄りの選手がいた。なかなか懐の深いプレイヤーで、そう簡単に自分の匂いをつかませない上手な打ち回しをする人だった。

 

 かちり、と何かが嵌まる音がした。

 

 プロの練習に参加するようになってしばらくは情報の洪水にやられていたが、ここ最近はそれなりに選び取ることができるようになっていた。しかし今、浩子に与えられていたのは解答だった。()()()()()()()()()()()()()()()()、という過程をすっ飛ばした解答だけがあった。主体性も何もあったものではない。これから打つのだから相手のことは当然のように考えた。だが浩子自身は何も問うてはいなかった。問いを発するより先に準備されている解答など気味悪くてしょうがない。しかしその中には、その選手のオカルトを封じるものも含まれていた。薄い吐き気を覚えながら、浩子はそれに手を伸ばすことにした。

 

 異能を持たない者が正確な意味でオカルト能力を潰すには、大雑把に分けて二つの方法がある。ひとつは相手にオカルト能力を完全に展開させ、その上で地力で和了りきるという手段。もうひとつは相手に能力を使わせる前に芽を摘んで封殺してしまうという手段である。もちろんそれは十分な分析の上に成り立つものであると同時に、その能力そのものとの相性もあるためどちらが有利だとは一概に言うことはできない。相手に恐怖を与えるという一点で見るのならば前者が有効なのには違いないが、相手を焦らせて正常な判断を奪うという見方ならば後者ほど効くやり方もない。したがってこれらは状況によって使い分けられるべきものなのである。浩子のような戦法の選手にとっては特に。

 

 

 やけに静かな気がした。いや違う。たしかに牌同士のぶつかる音は聞こえてくる。卓が動いている音もする。自分だけ空気圧の変えられた透明な膜に包まれているかのように音が遠いのだ。知覚に異常はない、と浩子は確信している。受容の仕方が変わったのだ、と理性ではない部分が主張する。のぼせた時のように頭が熱いのに思考は極端に冷静で、ひとつの脳の中でまったく別のいくつかの作業を並列して行っている感覚がある。それらは事前に取り決めでもしていたかのように決して混ざることはなく光のようにまっすぐ進んでいく。心臓が脈を打つ。血液が体の隅々まで行きわたる。すこし色のうすいほっそりとした腕が伸びていく。これでいい、と大きな安心感が体を支配する。

 

 それはどちらかといえば夢の中の出来事だと言われたほうが浩子にとっては納得できるくらいに現実感のない闘牌だった。たしかに動いているのは自分の腕であったし、動かしているのは自分の意思だった。わずかなノイズもない澄み切った思考のなか、浩子は数ある選択肢から的確に恐怖を植え付ける打牌を選び取る。一打に力はなくとも積もり積もって重なって、決定的な場面で足を止めさせる打牌を。あたかもその決定的な場面が来ることがわかっているかのようにぶれることなく彼女は手を進める。浩子と卓を囲んでいるうちの誰一人としてその意図に気付かない。なぜなら浩子がそうなるように誘導したから。

 

 対面に座った彼女は苦い表情を隠しきれていなかった。表面上はいつも通りの整った顔立ちに違いないが、浩子の目を通せばその違いは浮き彫りとなる。状況は南一局十一巡目。点棒はほとんどイーブンで誰が抜け出すかわからない。誰もが和了りを欲しがる状況で、浩子はただじっと観察していた。すでに分析は終えている。浩子は彼女が動き出すのを待っているのだ。彼女は半荘の初めのあたりで自分のオカルト能力を使おうとしていたが、浩子を含む他家に対応されて地力での勝負を余儀なくされた。そこでも何が悪いのか思うようには打たせてもらえず、彼女の精神はじりじりと追い込まれていった。追い込まれれば追い込まれるほど人間の行動は単純化されていくことを浩子は知っている。もちろん分析は済んでいるので彼女がその際にどのような行動を取るのかは把握している。本人にとって軸であり続けた能力に頼るしかないのだ。それを狙い撃たないなど考えられないことだった。

 

 彼女から出た牌で浩子は和了る。それはたった3900の取り立てて騒ぐような和了りではなかったが、浩子と彼女には大きな意味を持つものだった。間違いなく彼女はこの半荘の間に復活することはないだろう。対局前に見えていたビジョンに現実がやっと追いついた。少なくともこの半荘の間、浩子は完成していた。卓を力づくで支配するのではなく、全ての対応や反応を読み切ったうえで意のままに操った。その姿は、ある条件を満たす人が見たならばとある人物と重なって見えてもおかしくないものだった。

 

 

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 すっかり陽も落ちて空気の冷たさがコートの上からでもしっかりと感じられる中を脇目もふらずに浩子は走っていた。待ち合わせの時間に間に合わないかもしれないからちょっと急ごう、という走り方ではない。全力でなにかを振り切ろうとするものだ。右手で鞄を胸の前に抱きかかえ、左手を思い切り振っている。呼吸はときおり咳が混じって苦しそうだ。目にはうっすらと涙が溜まっている。道行く人々があまりの必死さに振り返る。しかし誰かが後を追っているというわけでもないようだ。

 

 咏の住んでいるマンションにたどり着いてエレベーターのボタンを押す。酸素が足りていないせいか、脳が締め付けられるように軋む。息は切れ切れで額には汗がにじんでいる。エレベーターが下りてくるまで壁に手をついて呼吸を整える。指先は外気に晒されて冷たいはずなのにどうしてか冷たいのか温かいのか判断がつかない。練習場で浩子を支配していたリアルな夢のようなあの感覚はとうに消え去っているのに、どこか体の隅に潜んでいそうで怖かった。

 

 叩くように七階のボタンを押して壁にもたれかかる。その衝撃で一筋の汗が首を伝っていく。頬は上気して赤く染まっているが、今の浩子の表情と合っているとは言えそうにない。ドアが自動で閉まって独立した空間が生まれる。浩子自身にもなぜかわからないが、そこで安堵のため息がこぼれた。途中で止まることなくぐんぐんと上っていくエレベーターの中で、浩子は自分の身体というものを意識した。そこには確かに重みがあって、やっと感じられた筋肉的な疲労にも今は感謝したかった。

 

 

 やっとの思いで三尋木家の扉を開けると、お手洗いから出たばかりの健夜がそこにいた。普段と様子の違う浩子を二秒ほど見つめ、ふわりと微笑んで一言だけ告げた。

 

 「そういうものだよ」

 

 

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 新年度から千里山に戻ることを報告すると、ロードスターズの面々は大げさと言ってもいいくらいに残念そうにしていた。どう見てもお世話になったのは浩子の方で、さんざん打ってもらっただけでなくわからないことがあれば質問にも答えてくれたし、素直に浩子の成長を喜んでくれもした。人や環境に恵まれすぎて浩子は空恐ろしくなる。これはインターハイで成長の証をきちっと見せなければならないな、と苦笑する。麻雀においては引きなど特に強いと感じたことはないが、人生においては案外引きが強いのかもしれない。

 

 駅にはチームを代表して咏が見送りに来てくれた。いつものようにからからと履物の音を立てて歩く姿は周囲の人の耳目を集めた。それでも何が影響したのか彼女に声をかける者はなく、きちんと改札の向こうに行く前に話をすることができた。

 

 「船久保ちゃん船久保ちゃん」

 

 「どうしました?」

 

 ちょいちょいと手で招かれたので顔を近づけると、咏はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 

 「ウチのチームの席はいつでも空けとくからさ、考えてくれると嬉しいねぃ」

 

 「へ?」

 

 「……んー。口説くのってどうやりゃいいんだか。わっかんねー」

 

 がしがしと乱暴に頭を掻いて咏は口を尖らせる。浩子は勧誘に関するプロの協定など知らないから、果たしてこれが問題ないのかもわからない。

 

 「ま、とりあえずインハイ頑張んな。おねーさんが応援してっかんね」

 

 「やれるだけやってみよ思います。ホンマお世話になりました」

 

 

 時期としては春休みであるため、新幹線もそれなりに混んでいた。さすがに夏休みや冬休みほど帰省する人が多いわけでもないが、それでも新たな生活を始める人や小旅行に出かける人はいる。浩子の目的地である大阪はそういう人たちからある程度の人気を得ているということなのだろう。浩子もさすがに新横浜から大阪まで立ちんぼはイヤだったから、事前に三人分の予約席を取っておいてある。赤木と健夜が大阪に来る必要があるかどうか疑問があったので本人たちに確認したところ、どうやら行く意思があるようだった。いったい向こうで何をするつもりなのだろうか。

 

 次々と客が乗り込んでくるのを横目に見ながら、片肘をついて久しぶりにぼんやりと思考を巡らせる。宮守の先輩たちのこと、ロードスターズのプロの方々のこと、千里山女子のこと。ああ、これからは自分の部屋でずっと寝るんだな、なんて考えているときにはたと思考が止まった。早くも寝息を立てている赤木と大阪観光ガイドを熱心に読んでいる健夜。はたしてこの二人は大阪でどこに宿泊するつもりなのか。これまではホストがいた。岩手では熊倉トシ、神奈川では三尋木咏。ならば大阪ではどうするつもりなのだろうか。よもや我が家に転がり込むつもりではなかろうか。日本国民なら誰でも知っている小鍛治健夜と見知らぬ男をいきなり連れてきたとなれば家族は失神コース間違いなしだ。これはよろしくないと考えた浩子は眠り込んでいる赤木を放っておいて健夜に聞いてみることにした。

 

 「あの、健夜さん。大阪に知り合いとかいらっしゃるんですか?」

 

 「え、いきなりどうしたの?」

 

 「いや、どっか泊まるアテあるんやろかって思たんで」

 

 みるみる健夜の顔から血の気が引いていく。どうやら浩子の推測は当たっていたらしい。穏やかな呼吸をしている赤木の肩ををつかんで揺さぶる。

 

 「ん……?着いたのか?」

 

 あの短時間で本格的な眠りについていたのかと浩子は呆れるが、健夜はそういうわけにはいかないようだ。特徴である困り眉を久しぶりにさらに困らせている。仮にも日本女子麻雀プロの記録をいくつも塗り替えてきた怪物が何たる理由で焦っているのかと浩子はため息もつきたくなる。大阪に滞在するだけというならホテルでも提案するのだが、おそらくそれくらいは本人も思いついてはいるだろうからまずは見守ることにした。

 

 「……しげるくん。私は大阪でどこに泊まればいいんだろう」

 

 寝起きということもあってか、珍しく赤木が不思議そうな顔をしている。まさか赤木が答えに窮する場面をこの目で見られるとは思っていなかった浩子もびっくりである。普段ならスマホを出して撮影でもしていたのだろうが、それもできなかったことからどれだけ動揺しているのか推測できるだろう。

 

 がくりと席が揺れて、新幹線が動き始めたことを知らせる。なんだか落ち着かない様子の健夜をよそに、しばしのあいだ思考に耽っていた赤木はため息をひとつついて誰に聞かせるでもなくつぶやいた。

 

 「……怒られちまうかもしれねえな」

 

 

 窓の外にはまだ横浜の街並みが見える。どうやら今年の春は暖かいようで少し前に桜は散ってしまったが、芽吹いたばかりの緑と柔らかな日差しはしっかりと季節を感じさせるものだった。大阪もさして気候は変わらないだろう。浩子は二週間に一度のものではない、しっかりとした帰郷に胸を弾ませていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




来週はお休みです。
また来年に。

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