船久保浩子はかく語りき   作:箱女

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十四

―――――

 

 

 

 からん、とグラスが鳴って。大きな氷と透明な琥珀色の液体が揺れる。グラスを持つ手は二本だけ。細い腕には軽く赤みがさしている。もしここがバーであるならば雰囲気もあろうものなのだが残念ながらここは咏のマンションの居間であって、咏と健夜のふたりはこたつの上に酒瓶を置いて楽しくやっている。こたつの脇にはこれから飲まれるのだろう瓶やら缶やらがビニール袋に入っている。くい、と熱い塊を喉の奥に押し込んで目を閉じる。液体自体は冷えているのに妙な感覚だ。ささいなことでも笑ってしまいそうなくらいに気分がいい。

 

 「すこやんさぁ、なーに目論んでんの?」

 

 とろんとした目つきで咏が尋ねる。着物の上に鮮やかな打掛を羽織ってこたつに入っている様は控えめに言ってもよく似合っている。

 

 「えー?なんにも目論んでなんてないよーだ。ふふ」

 

 こちらは薄いセーターにカーディガンを羽織っている。背中を丸めてこたつであたたまっている姿は幸せそうと形容する以外の言葉が見つからない。

 

 「嘘はよくないぜぃ?すこやんがついてくるだけとかありえねっての!」

 

 「……ま、浩子ちゃんが完成した姿を見たいっていうのはあるかなぁ」

 

 「あー、あの打ち方始めてまだ半年も経ってないんだっけ?」

 

 「それにさ、オカルト持ちの子をばったばったと倒していくの見てみたくない?」

 

 「そーいや高校麻雀はオカルトが主流だったっけか」

 

 「能力ありき、なんて麻雀もったいないってことに気付いてほしいよね」

 

 くい、とグラスを傾ける。気分の良さそうな息が漏れる。この部屋にいるのは二人だけ。話題の中心となっている浩子は別室で眠りについており、ときおりうめき声が聞こえてくる。それだけプロとの練習がハードということだろうか。ちなみに赤木は浩子がここに泊まることが決まったときに当たり前のように居座ろうとしたため咏に追い出されている。どこに寝床を確保したのかはわからないが、この部屋にはけっこうな頻度で顔を出している。

 

 「んー……、まあそうなったらインハイの解説がちっと大変になんじゃね?わかんねーけど」

 

 「大体の子が偏っちゃうからね。オカルトかロジックで」

 

 「イイトコ取りすりゃいいってのは賛成だけどさ、そう簡単じゃないぜ?」

 

 「だからさ、偏るなら極めるくらいの気概が欲しいよね。浩子ちゃんみたいに」

 

 「そういう面じゃ特殊だよねぃ、船久保ちゃん。なかなか真似できる姿勢じゃないや」

 

 目を細めてけらけらと笑う。裏表のないその表情から察するに、心の底からこの小さな酒宴を楽しんでいるのだろう。空いたグラスに命の水を注ぐ。

 

 「それで、咏ちゃんは何を企んでるの?」

 

 「企んでなんてねーっての。人聞き悪いなあ、すこやんってば」

 

 「うっそだあ!だったらロードスターズに浩子ちゃん呼んだりしないでしょー?」

 

 「ひひ、まあちっとでも恩を売れたらイイかな、とは思うけどねぃ」

 

 「ほらやっぱり」

 

 「プレイヤーとして来てくれたら一番だけどさ、そうでなくてもスカウトとかいいよねぃ」

 

 「ふふ、いっそのことフロントに入れてあげたら?」

 

 「……あれ、精力的に働く幹部の船久保ちゃんが見える」

 

 笑い声の絶えない冷える夜はまだまだ長い。風もない静かな夜で、数少ない外を歩く人たちはマフラーやコートに顔を埋めるように歩いている。空気はひどく澄んでいて、まるで透明というものが手に触れられるかのような錯覚さえ覚えてしまう。すべての家の門からは正月の飾りつけは取り払われ、学校も会社もあらゆる世界の仕組みがしっかりと動き出している。時間は感覚に違いこそあれ、全ての人の前を平等に過ぎ去っていく。

 

 

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 練習時間が同じならば、より密度が高い方が良いに決まっている。内容が無いよりも一度により多くの経験を手にし、より持ち帰るものが多くできるのならそれに越したことはない。生物には必ず死が訪れる。中でも先進国の人間は生きる時間というものを意識する珍しい生物であるために、無駄な時間というものを忌避する傾向にある。だから一粒で二度おいしく、短い時間で高い効果を得て、余った時間をできるだけ有意義に過ごす。これが正しい生き方だと考えている人間は非常に多い。浩子はその辺りの是非についてはどうでもいいと考えている。ただ彼女の現時点での問題は、密度が高すぎるというのも考え物なのではないか、ということだった。

 

 テレビでとある競技が放送される場合、注目選手や抜きんでた選手というものが存在しているのがほとんどである。個人種目であるのならばそういうことを考える必要もないのだろうが、団体種目や多人数で争う種目となると素人は誰に、あるいは何に注目していいのかわからないことが非常に多い。それを解決するのがいわゆる “目立つ選手” なのである。ただ問題点として、その選手以外が軽視されがちになってしまうことは否めない。もちろんその目立つ選手の周囲を固めているのもプロなのであって、実力は素人どころか経験者と比較してなお圧倒的なものを持っている。今、浩子を囲んで練習しているのも正真正銘のプロであって、周りから隔絶した実力を持っているからこそ横浜ロードスターズというチームに所属しているのである。そんな彼女たちの打ち筋は時に論理的であり、時に独創的であり、まさに浩子の目から見れば宝の山だった。しかしプロの打ち筋や思考の源泉がそう簡単に見抜けるわけもなく、とんでもない情報の洪水が浩子を襲っているというのが現在の状態である。ここは三尋木咏が時には最下位になることもあるプロの世界なのだ。

 

 浩子が参加させてもらっているのは、ロードスターズの若手中心の勉強会である。団体レギュラーには一歩およばないものの、それでも最低一年はプロ集団の中で過ごしてきている。明らかに浩子は格下で (だからこそ可愛がってもらえたという面もある) 、だからこそ死にもの狂いで観察し、研究し、推論を立て、場合によってはその推論を粉々にした。咏の言っていたオカルト持ちの選手ももちろんいて、その能力の使()()()は高校では見られないものだった。能力のオンオフの切り替え程度なら高校にも数は少ないが存在した。しかし能力を使っている振りをするような大胆なブラフは見たことがなかった。これも赤木の示した相手を操る技術のひとつに分類されるのだろうかと考えさせられるような見事な扱い方だった。

 

 浩子もこれまで身に付けてきたことをすべて出し切るつもりで参加した。分析はもちろん、卓を囲む相手が自分を見ていることも意識して打ち回し、振る舞いに気を遣った。これまで十年以上関わってきたにもかかわらず、浩子は麻雀に対して新鮮な面白さを感じていた。踏み込めていなかった領域がそこにはまだたくさんあって、そこからさらに奥の領域があるであろうことは容易に推測された。なぜならそう簡単にプロには通用しなかったからだ。これまで熱をあげてきた麻雀の未知の部分を浩子が知りたいと思うのは当然のことで、以前より深く、鋭く浩子は麻雀にのめり込んでいくことになる。ときおり感じる鈍い頭痛もまるでそれを止める要素にはならなかった。

 

 一方でその勉強会に参加しているプロも驚いていた。彼女たちも学生のころがあり、当然のように麻雀と関わってきた身であるから千里山女子の名は知っていた。聞けば浩子はその千里山の部長だというし、なにより咏が引っ張ってきたのだからそれなりの実力は持っているのだろうと思われていた。だが所詮は高校生。萎縮してしまうのが関の山だろうというのが大方の予想だった。だが彼女たちはその見通しが甘かったことにすぐに気が付くことになる。浩子の席に着いた姿は気後れなど感じられない堂々としたもので、見た目とは違う刺すような鋭い視線が印象的だった。もちろんその半荘でプロである彼女たちが負けることはなかったが、その精神的なタフさに驚いたというのが実際のところである。それはすでに高校生の領域を飛び出していて、浩子がこれまでにいったい誰と打ってきたのかが話題になるほどのものだった。

 

 横浜ロードスターズの事務所はまだ新しいテナントビルの六階にある。さらに下二つの階と合計で三つのフロアを借りており、四階は壁を取り払って雀卓が置いてあるだけの練習用のフロアとなっている。五階はロッカールームと談話室、それに雀卓がいくつか置いてあるフロアだ。事務所が置かれるようなテナントビルに入るのは初めてだったが、それでも物怖じせずにずかずかと入っていった浩子はさすがと言うべきか。ちなみにビル内の自販機は外に比べてちょっと安くはなっているものの有料であるところを見ると、有名なチームでも経費削減は避けられない問題らしい。

 

 学校から帰って勉強会に向かう生活を二週間ほど続けたころ、ついにプロ相手にもピントが合い始めた。彼女たちの持つ選択肢はそれこそ多彩であったが、やはり状況やその日の調子などの条件さえ整えば絞ることは不可能ではなかった。半荘一回の間に見破れなかったことは課題がまだ残っていることを示してはいたが、自分の分析がプロにも通用することを確信できたことについて浩子は誇らしく思う。自分の自信のある武器はそこまで届き得るのだと証明された。あとは卓を囲む組み合わせとそのときのツモ次第では、あの秋季大会のように圧倒できる。思考の源泉をつかむとはそういうことだ。現にその辺りから浩子の平均順位がじわりと上がり始めていた。

 

 

 ( ……アカンわ、これめっちゃおもろいやん )

 

 

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 マグカップから立ち上る湯気を何とはなしに見つめる。ぎい、とキャスターのついた椅子が軋んで音を立てる。机の上には全部員のデータが紙に印刷されたものが置いてある。雅枝は画面に表示されたものよりも手に取って見ることのできる紙の媒体が好きだった。古くさいと思われるかもしれないがそれはそれで構わない。雅枝はこうして三十分ほど千里山女子麻雀部の部内記録を眺めていた。単に部内の戦績だけですべてがわかるとは露とも思っていない。だがそれでもよほどの例外がない限りはおおよその見当はつくものだ。団体戦におけるレギュラーは固定するのも流動的にするのも一長一短であって、どちらにしろこの時期はその辺りの事情で頭を悩ませるのが通例である。それに春になれば新入生も入ってくるため、この冬の時期にある程度の練習試合をこなしておきたい、と雅枝は考えていた。

 

 今日は帰りが遅くなると娘たちには伝えてある。こう言うと本人たちは怒るかもしれないが、雅枝の心配はあの二人がきちんと食事を作れるかというところにあった。姉の方はこれから自分のもとを離れていくのだからそういった生活能力を養ってほしいという思いもあったりする。これから夕飯を作るときには手伝ってもらうことを提案してみようかと真剣に考え始めた。ちょうどそのとき、職員室の引き戸が開いた。

 

 雅枝はその音のする方を振り返る。本来こんな時間に学校を訪れる人はいない。どの部活の生徒たちも下校は済ませており、今残っているのは雅枝以外にはせいぜい守衛さんくらいのものだ。その守衛さんも職員室に来る用事などほとんどない。だからこの時間に誰かが訪ねてくることそのものが異常だった。場合によっては警察を呼ぶことになるのだろうか、と多少うんざりしながら職員室の入り口に目を向けた。

 

 そこに立っていたのは、見る者に鋭いという印象を与える男だった。少し古びた電灯の光を浴びて、男の白髪は鈍く光る。男は懐から何かを取り出そうとしている。片手に百円ライターを持っているところを見るとタバコでも取り出そうとしているのだろうか。雅枝から静止が入る。

 

 「赤木、校内は禁煙や」

 

 「なんだ、つれないな。最近はどこも肩身が狭くていけねえ」

 

 「どこもかしこもちゃうやろ。ここは高校や」

 

 「クク、悪いけどそういうのは疎くてよ」

 

 「で、わざわざ何しに来たんや」

 

 ため息とともにぶっきらぼうに言い放つ。雅枝の話し方はどこか普段とは違った響きを持っていた。目線を手元の資料に戻す。

 

 「ああ、ひろのことでよ」

 

 再び赤木に目を向ける。無言で続きを促す。

 

 「四月にはこっちに連れて帰ってこようと思ってる」

 

 「……もっとかかるもんやと思っとったけど」

 

 「クク、若いってのはいいよな」

 

 「なんや、当てつけか」

 

 とんでもない、と言わんばかりに赤木は首を振る。

 

 「余計なものがないからストレートなのさ」

 

 「まあ、混み入ったもんは大人が請け負ってやらんとな」

 

 そういって雅枝はコーヒーを口にする。手元の資料に向ける眼差しはどこか優しい。置かれたマグカップからはまだ湯気が立ち上っている。

 

 「ふーん。やっぱりオトナの言うことは違うね」

 

 「……なんでウチの旦那はこんなん拾ってきたんやろな」

 

 「さあ」

 

 手元の資料をファイルに入れ、そのまま鞄に押し込む。ふたたび椅子を軋ませて雅枝は立ち上がり、埃をたたいて払う。もはや習慣となったその行為は流れるように行われる。隙の無い歩き方で職員室から赤木を引き連れて出る。もう少し若い頃であったなら噂にでもなったのだろうか。結婚の時期は同い年に比べて早めだったからそれはないか、と思い直す。校門をくぐる前に雅枝は当たり前のように声をかける。

 

 「夕飯くらい食べてくんやろ?」

 

 「…………」

 

 「うちの子たちも旦那も喜ぶしな。たまには顔くらい出しや」

 

 「あらら、ずいぶん強引だ」

 

 

―――――

 

 

 

 夜遅くからちらつき始めた細かな雪はしんしんと降り続き、朝日が顔を覗かせるころには皮膚のようにうっすらと世界を覆っていた。浩子の一日はカーテンをちらりとめくって天気を確認することから始まる。晴れていると朝の光が隙間から差し込んできて、浩子はたまらず顔をしかめることになる。だが今日の大阪の街は違っていた。雲はそれほど厚くないように思えるのだが、そんなことより白い景色に目を奪われる。ベッドスタンドに置いてある眼鏡をかけて、今度はカーテンを開けて窓の外を見る。ため息をつくと同時に体が気温の低さを感知した。思わずもう一度布団のなかに潜り込む。時計は七時半を指している。もう起きなければ部の練習に遅刻してしまう。二週間に一度しか参加できない部長がそんなことではいけない、と気合を入れて立ち上がる。次にやることは洗顔だ。

 

 制服の上にダッフルコートを着込み、冷たい空気が入り込まないように厚めのマフラーを丁寧に巻く。コートのポケットにはそれぞれ一つずつ携帯カイロを入れてある。帰りの時のことを考えて鞄にもう二つ準備もしてある。それでも真冬の寒さは厳しいもので、吐く息は白い。それに下あごががくがくと震えてしゃべるのにも一苦労だ。耳と鼻の頭を赤く染めて浩子は歩く。風がないのが唯一の救いといったところだろうか。

 

 道端の雪はすでに数多くの人に踏みしめられてぐしゃぐしゃになっていた。一つの足跡もない雪の中を歩いてみたいというのが浩子のささやかな夢のひとつなのだが、今日もそれは叶いそうにない。音もなく降り続く白い欠片はどうすれば積もるのだろうかと疑いたくなるほど小さく、また手のひらに乗せてみるとすぐに溶けていく。少し滑りやすくなったアスファルトにうんざりしながら前に目をやると、同じように歩きづらそうにしている女生徒がちらほらと見受けられる。下駄箱にさしかかったあたりで同級生に会ったので、そのまま一緒に部室へ向かうことにした。

 

 学校の廊下はそれこそ別世界みたいに冷えている。太陽も見えないのだから色合いとしても陰鬱なものだ。運動部の友達に聞いたところによると、筋トレ以外のときは暖房器具などいっさい使わないのだという。それだけで尊敬してしまいそうだ。ちなみに麻雀部は冷暖房完備である。

 

 

 二週間に一度の参加頻度ではあるが浩子の目をもってすれば、部員たちの成長、あるいは変化を読み取ることは難しいことではない。男子三日会わざれば刮目して見よ、という言葉もあるが感触としてはそれに近いものがある。高校生の年代というのはきわめて繊細で不安定な時期であり、それだけに蛹が羽化するような急激な変化を見せることもある。強い選手、勝つ選手というのは必ずどこかで目覚ましい成長を遂げる。ここ千里山女子でもそれは毎年のように見受けられることだ。監督の指導の賜物か環境がそれを要求するのかあるいは別の要因があるのかは浩子の知るところではないが、それはもはやひとつの現実である。

 

 ふわりと暖かい空気が全身を包む。同時にかすかな甘い匂いが押し寄せ、それが浩子を安心させる。部室にアロマが焚かれるようになったのは十二月の初めくらいのことで、秋季大会の翌週から一年生たちが自発的に早く来るようになって少し経ってからのことだ、と副部長から聞いている。なんでも応援に甘んじるしかない一年生たちが、現状を打破するために少しでも練習をしようと誰からともなく言い出したのだという。それはきっと団体戦への憧れなのだろうと思う。浩子にも覚えがある。浩子は自分が一年の時に試合に出ていた先輩たちを憧憬の眼差しで見ていたことを思い出す。今の一年にも自分たちの姿がそう映っているのだろうかと考えると、少し照れくさくなった。

 

 

 千里山女子麻雀部の休日の練習は基本的に一日を通して行われる。したがって昼食休憩などが折を見て挟まれる。集中力の続かない状況で打ったところで何も得られるものはないことは自明の理である。昼食はさすがに雀卓を机にするわけにもいかないので、その時間はめいめい場所を探すのが通例となっている。浩子は冬でなければ中庭で食べるのも嫌いではなかったが、雪まで降っているとなっては選ぶわけにもいかない。他の部も似たような時間に昼食休憩に入るのだからそこに混ぜてもらうのもアリかな、と考えた浩子は階段を上がることにした。多くの部員たちが一緒にお昼を食べようと浩子を誘おうとしていたのだが、当の浩子は弁当片手に部室からさっさと出ていってしまっていた。妙なところで師匠の影響を受け始めているのかもしれない。

 

 休日の階段には誰もいない。なにか特別な静けさだと思いたくなるくらいに自分の足音が大きく聞こえる。上履きの靴底はゴム製だから音なんて立たないと浩子は思っていたが、想像していたよりも通る音がする。たん、たん、と小気味のいいリズムに違うリズムが混じる。おや、と不思議に思って手すりから頭を出して下を覗く。軽く息を切らせてこちらを見上げているのは二条泉の顔だった。

 

 千里山女子には一階を除いて各階にひとつずつちょっとお洒落な休憩スペースのような空間がある。ぶち抜きの二教室ぶんの廊下に面した壁をとっぱらって、そこに余裕を持たせて暖かい色合いのテーブルがいくつか置かれたものである。もちろん黒板も存在しないし、そのテーブルに合うように壁面も普通の教室とは違ったものを使っている。そこまで手のかからない観葉植物なども置いてあって雑談するときにはもってこいの空間となっている。これが平日であればかなりの競争率となるため浩子はあまりここには近寄らない。だが、今日は大丈夫ですよ、なんて言う泉のあとを着いていってみると空いているどころか浩子と泉の二人しかいないような状況だった。

 

 

 「ところで船久保先輩って今どんなとこで練習してるんです?」

 

 湯通ししたほうれん草を箸でつまみながら泉が尋ねる。サイズも中身もかわいらしいものだが、栄養素のことをきちんと考えてあるなかなか油断ならないお弁当だな、とは浩子の評である。

 

 「……んー、監督はなんか言うとった?」

 

 「知らんー、の一点張りですね。いや知らんことないやろとは思うんですけど」

 

 「これ言うてもええんかなぁ」

 

 「え!?なになに!?言うのもはばかられるトコで練習してはるんですか!?」

 

 「アホか、んなワケないやろ」

 

 ふう、とため息をついて続ける。

 

 「まあでもとんでもない人とは打ってるけどな」

 

 「へ?誰です?」

 

 「……小鍛治プロとか三尋木プロとか」

 

 「まったまたぁー!今時そんなん小学生でも信じませんて!」

 

 泉の屈託のない笑顔は心の底から浩子の言ったことを信じていないことを如実に伝える。強硬にこのことを主張しても面倒なことになるだろうと考えた浩子はどうやってこの場を切り抜けようかを考え始めた。それっぽい嘘がぱっと思いつけばそれでいいのだが、今の自分の状況と照らし合わせてどう答えれば差し障りがないのか見当がつかなかった。なんとも中途半端な苦笑いを浮かべて弁当をつつく。卵焼きがおいしい。泉が目をらんらんと輝かせてこちらを見ていた。梅の季節はまだかなあ、と浩子は現実逃避を始めた。

 

 

 

 

 

 

 


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