船久保浩子はかく語りき   作:箱女

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―――――

 

 

 

 ( ふむ? )

 

 戒能良子は液晶に映った選手たちを見ながらすこし考え込んでいた。隣ではアナウンサーが学校と選手の名前を読み上げている。その選手たちは山から手牌を取り終えちょうど理牌をしているところだ。正確には三人だけ理牌をしている。残る一人はまったく手を動かしていない。あまり高校生のレベルでは見ない芸当だ。順子にしろ刻子にしろきちっと並んでいたほうが見やすいことなど言うまでもない。そこにどのような意図があるのかはまだ良子にはわからないが、千里山の選手だから、ということでなく船久保浩子という名前を頭の中にメモする。

 

 テレビを意識したアナウンサーの簡単な内容の質問を丁寧に解説しながら良子は局の流れをじっと見守る。浩子について振られたときは濁すどころか、保留だ、と完全に言い切った。たしかに質問をしたくなるような打牌がときおり見られる。出来面子を崩してみたり、不要牌を取っておいてみたり、と言い方は悪いが遊んでいるかのような印象さえ受ける。だがそれにしては目の真剣さが釣り合っていない。他家の打牌に際して彼女の集中力はもっとも増すように見受けられる。威圧しようというのではない。ただじっと見つめている。さてどういうことかと浩子の捨牌へと視線を移す。捨牌だけを見ると聴牌気配の漂うものになっていた。だがそれもおかしな話だ。もともと出来ていた手をわざわざ崩してブラフを打つ必要がどこにあるのだろうか。仮にブラフに頼るシーンがあるとすれば、それはどうしようもない手をなんとかそう思わせないようにするといった場面くらいしかない。良子は浩子に対する警戒を高める。おそらく彼女はなにかを企んでいる、とそう推測した。

 

 露骨な聴牌気配を匂わせた浩子の捨牌もあってか、周囲の選手はなかなか前に出ることができずにオリ気味に手を進めていく。彼女たちからすれば先のインターハイで戦っていた選手が攻めてきているのだ。オリたくなる心情も理解できる。そのまま局は進行し、結局だれも和了ることもないまま東一局は流局となった。浩子の影響もあって聴牌にさえたどり着けなかったため、ノーテンという声とともにそれぞれ手を崩して自動卓の中へと押し込んでいく。彼女たちにとっての大きな問題は、船久保浩子までもが聴牌していないことだった。

 

 

 良子は表情には出ないように必死で頭を働かせる。なぜ彼女は東一局からブラフを打つ必要があったのか。正直に言ってしまえば、まともではない。もちろんそんなことは今の解説という立場からすれば口が裂けても言えないが。たしかに聴牌はしていなかったのだから手を開ける必要はない。それは当たり前のことだ。だが卓を同じくしている選手たちは彼女が張っていると思っていたはずだ。そういう意味では虚をついたと言えるが、いったいそれに何の意味があるのだろう。オカルト能力の関連だろうか、いや違う。良子は異能に関する感覚が鋭いが、その感覚に訴えてくるものはなかった。だからあの打ち筋は彼女が意図したものと断定できる。良子はこの時点でスイッチをひとつ切り替えた。

 

 

 

 ( フツウに押せばフツウに退く。ここまでは想定通りや )

 

 せり上がってくる山を視界の端に認めつつ、浩子は東一局で得た情報を高速で処理する。それは切り出しのタイミングからくる攻めっ気の強さや、浩子に対する警戒の仕方から判断できる用心の種類など多岐にわたる。理牌のクセは事前の映像や実際の切り出し位置からほぼ把握できている。したがって手牌はよほどの対策を講じない限りは最終的にはおよそ八割ほど透けることになる。あと浩子が突き止めなければならないのは判断基準と、その源泉たる思考の流れである。

 

 岩手の地で浩子が出した結論は、当たり前のものだった。人間は、普段と切羽詰まった状況では反応が異なる。どちらがより本質に近いかと問えば、それは切羽詰まった状況だと浩子は答える。だが、そこで立ち止まってしまっては赤木や健夜、それに岩手で出会った人たちに申し訳が立たない。だから浩子はもう一歩その考えを進めた。

 

 本質とはその人間の基盤であり、普段の反応もその基盤の上に成り立つものである。

 

 浩子自身、まだ人の本質をつかむ精度に自信が持てていないため、アプローチの数はなるべく増やしておきたい。それが普段の反応も見ることを思いつかせた。切羽詰まった状況に追い込むことも大事だが、そこでの反応と普段の反応との類似点を見出さねば実用的とは言えないだろう。自在に相手を追い込むことなど浩子にはまだ出来ないからだ。できれば早い段階で一度は追い込んだ状況を作っておきたいが、それは手が揃わなければ叶わない。だがそれ以外にも、もう一度流局まで持ち込んで手を開けさせたいという考えもあった。もし全員が手を開けてくれるなら三千点の点棒など安いものだ。情報はまだまだ足りていない。

 

 

 

 「あの、戒能プロ?」

 

 「はい、どうかしましたか?」

 

 「私には千里山の船久保選手がベタオリしているように見えるのですがどうなのでしょうか」

 

 「そうですね。正しい見方だと思いますよ」

 

 「でもそれをするには早すぎるような気が……」

 

 「非常にグッドな観点ですね。ですが申し訳ありません。私にもまだよくわからないんですよ」

 

 良子の目から見て、東二局の浩子の配牌は決して悪いものではなかった。素直に育てていれば和了る確率も高かったように思われる。だが画面の向こうの少女はそれを平気で投げ捨てている。ますます訳が分からない。見に徹するにしてもやり方がおかしいような気がする。せいぜい振り込まないようにオリていればいいだけの話だ。彼女のように極端に打つ必要などない。そもそも見に徹するなら東一局のはずだ。そこで彼女がやったのは奇妙なブラフであって見などではない。それともあれも見だとでも言うつもりなのだろうか。

 

 ベタオリを続ける浩子が振り込むはずもなく、浩子の対面がロンで和了った。3900のリードを奪われたが、浩子にとってそんなことはどうでもよかった。重要なのは対面が手牌を晒しているということである。それと捨牌を照らし合わせ、判断の基準を仮定する。同時に振り込んだ選手の捨牌も確認する。聴牌気配の察知ができていたのかどうか、できていたのならその牌がなぜ通りそうと感じたのか。あるいは大物手が仕上がっていたのかどうかを高速かつ丹念に考察する。もはや浩子は、ツイたツかないだけで麻雀をするつもりなどなかった。

 

 

 ( これは……、えー?マジですか……? )

 

 他家の和了宣言のあとの浩子の目線を追って、良子は確信に近い疑念を抱いた。おそらく次の局を見れば、それは疑う余地のない確信に変わるだろう。だがそれでもはいそうですか、と簡単に受け入れられるような事柄ではない。なにせ浩子がやろうとしているのは相手の情報を引き出すというレベルを超えてしまっている。思考判断ごと理解するなど前代未聞だ。プロでさえそんな芸当は聞いたこともない。そんなことを思いつくことも異常と言えるが、実行に移そうと考えるのもまともな神経とは言えそうにない。指導者がいるならぜひ話を聞いてみたいものだ、と良子は思った。いったい何を生み出すつもりなのか、と。

 

 その結論に至った途端に前二局の打ち回しが思い出される。すべて()()()だ。反応を見るためだけに無意味なブラフを打ち、どう動くかを確かめるためだけにそれなりの配牌を捨て去った。大した度胸だ、と良子は嘆息する。だがまだ体系としては未完成なのだろう。ちぐはぐな印象は拭えない。しかし対戦相手を含め、彼女の意図を完璧に理解している人間がどれだけいるだろうか。少なくともプロクラスの実力がなければ見抜くのは不可能だろう。そう考えた良子は船久保浩子の名誉を守ることにした。

 

 「素晴らしいですね、船久保選手。アンビリーバブルです」

 

 「戒能プロ?いま和了ったのは別の選手ですが……」

 

 「もちろん和了った彼女も見事でしたが、船久保選手はちょっと枠が違いますね」

 

 「どういうことでしょうか」

 

 「すみません。私には飛び立とうとするヒナの邪魔をする趣味はないので詳しくは説明しませんが、とんでもないことやってますよ、彼女」

 

 「とんでもないこと、ですか……」

 

 「イエス。これから洗練されてくればもっとワンダフルな選手になるでしょう」

 

 

―――――

 

 

 

 「さすが戒能プロだよー。ちゃんと浩子ちゃんのことわかってるっぽいよー」

 

 「豊音、どういうこと?」

 

 両手を胸の前で合わせて感激している豊音に胡桃が尋ねる。胡桃からすれば下校後の浩子の動向など知りたくても知ることができない。大学受験が控えているのだ。今日と明日は息抜きということで自分を納得させている。

 

 「あれはねー、相手が何を考えてるかを知るための打ち回しなんだよ」

 

 「は?」

 

 胡桃の口から素っ頓狂な声が出る。もともと豊音が説明の得意なタイプではないと知っているがそれにしてもよくわからない言い回しだ。まず相手の考えていることを知るということと打ち回しという単語は胡桃のなかではくっつかない。おそらく豊音特有の言葉選びだったのだろう。だから豊音にもう一度わかりやすい形で言い換えてもらうために視線で促す。

 

 豊音はにこにことしている。聞き返されていることに気が付いていないようだ。胡桃はため息をついて、今度は真後ろにいる白望に尋ねることにした。結局、胡桃が得られた回答は豊音とまったく同じものだった。麻雀は強くなると言語野に異常でもきたすのだろうか、と胡桃は頭を抱えた。

 

 

 「でもすごいですよね。たった二局見ただけで浩子のやってることがわかるなんて。戒能プロってどんな方なんですか?」

 

 「ごめんね、戒能さんのことはよく知らないんだ。彼女が頭角を現したのって私が一線退いてからのことだったから」

 

 なるほどそういえばそうか、と塞は納得する。ある意味で言えば戒能プロは幸せなのかもしれないし、あるいはその逆と言えるのかもしれない。小鍛治健夜が同じ戦場にいるということはそういうことだ。その壁の高さに絶望するか、自分を試すための試金石とするか。何にせよ目の前にいるこの女性はそういう位置に置かれている。余談だが健夜が目立っていないのは本人曰く変装しているからだそうだ。黒ぶちメガネをかけているだけなのだが。

 

 

 

 今の船久保浩子にとって親番であることなど興味の対象ですらない。支配しているのは飽くなき相手への探求心である。薄皮を一枚ずつ剥いでいくように次第に本質が見えてくる。ときおりノイズが入りこそするが、それはただ自身が至らないだけであって興味を失わせるような事柄ではない。もっと精確に、もっと速やかに。頭の中では打ち回しに関する反省がその場でされている。浩子の本日の目標は半荘一回で他家の本質に対する確信を持つことにある。自分で得た情報に全幅の信頼を置いてこそ価値が出るというものだからだ。

 

 

 すでに闘牌とは言えない浩子の実験は、当然のように最後まで続いた。

 

 

―――――

 

 

 

 蓋を開けてみれば、先鋒戦終了時での順位は三位だった。ツモ和了りによる支払いこそあったものの、浩子自身は振らず和了らずで通し、一位とそこまで差がつくことはなかった。過程がどうであれ、あの名門たる千里山を順位で上回った学校の二人は息巻いている。それはたしかに彼女たちを勢いづかせることになるだろうが、浩子はとくに気に留めることはなかった。千里山女子高校が牙を剥くのは、ここからである。

 

 控室に帰った浩子はその奥の方の長椅子の中央に腰を掛け、目を閉じていた。その思考の中心は先ほどの試合である。他人の目にどう映ったかはわからないが、浩子からするとそれは失敗と呼べるものだった。相手の本質に対して確信を持たなければならないのだが、一人もそれを得ることができなかったからだ。 “おおよそ” だとか “たぶん” などといった曖昧なものは最終的に頼れない。浩子が自身に対して課したハードルは高いようにも思われるが、本人にとっては最低限のものですらある。一度だけ深呼吸をして、先ほどの対局の牌譜を確認する。自分が採ることのできた打牌を振り返るためだ。

 

 「どうや、浩子。手ごたえはあったか?」

 

 「んー……。まだ練習が必要やと思いますわ」

 

 「モノには出来るんか?」

 

 「今日かどうかはわかりませんけど、少なくとも近いうちには」

 

 これまでデータを軸に戦ってきた浩子は、あまりぼかした言い方を好まない。あるいは麻雀において未知の要素の強いものが好きではないからデータに頼るようになったのかもしれないが、それはこの際どちらでもいいことだ。その浩子がはっきりと言い切ったということは、もうそれはほぼ事実に等しいといってもいい。真剣に牌譜を見つめる浩子をもう一度だけ見やり、雅枝は中堅と戦略を練るために離れていった。余談ではあるが、このあと千里山女子は十九万点で初戦を勝ち抜いた。

 

 

―――――

 

 

 

 晩秋の近づく時節柄、太陽は次第に沈むタイミングを早めており、ホールを一歩出てしまえば外の景色は夕焼け色に染まっている。吹く風は真昼のものとは明らかに性質を変えて、確実に体温を奪っていく。未だホールでは各校の対戦が行われている。初日は二回戦までのすべてを消化するため、かなりの強行軍となっている。場内と比べてホールの外の広場は驚くほど静かだ。せいぜいが落ち葉の吹かれる音といったところか。選手たちのいる会場は防音設備が行き届いていることもあり、どれだけの歓声が上がったところで外まで届いてくることはない。その静寂に満ちた空間に、戒能良子は立っていた。

 

 目の前のベンチでタバコをふかす男は、夕日がまぶしいのかそちらには背を向けていた。白髪がきらきらと陽を受けて暖かい色合いに変化している。顔は陰になっていてはっきりとはわからない。だが、あそこに座っている男は間違いなく赤木しげるだと良子は確信していた。

 

 「エクスキューズミー、一本いただけますか?」

 

 「……ふうん。プロってのは安月給なのか?」

 

 「……これでも賞とか獲ってるんですけどね」

 

 はあ、とため息をつく。なるほどこれは大物だ、と良子は内心舌を巻く。大概の人は戒能良子と接するとき、多かれ少なかれ動揺する。だが目の前の男にはそれが微塵も感じられない。それどころかどうでもいい人に対応しているかのような印象さえ受ける。

 

 「それで、何しに来たの?」

 

 「おや、男女の機微は苦手でしたか」

 

 「クク、飢えてるようには見えねえけどな」

 

 主導権を取れないものかと試してみるものの、これ以上はどうやら無意味のようだ。

 

 「……千里山の愛宕監督を訪ねましたら、あなたの名前が」

 

 「それで?」

 

 「船久保選手にあの戦法を仕込んだ方とぜひ話がしてみたいと思ったのですよ」

 

 赤木しげる。良子はまだプロになってからそれほど年月が経っているわけではないが、それでもこれまでにこの名前を何度聞かされてきたことか。小鍛治健夜を表舞台の生ける伝説とするのならこの男は裏の舞台の生ける伝説だ、と。それも麻雀を覚えたてで裏プロを負かしただの、たった二、三局で七万点もの差をひっくり返しただのと一笑に付したくなるような内容のものばかりだ。それを信じるかどうかは良子の勝手ではあるが、船久保浩子をあのように仕上げたとなっては話は別だった。

 

 ひとつ長い煙を吐いて、やっと赤木は良子の方へと視線を投げる。話をしたければするといい、と態度だけで示している。

 

 だが、言葉が出てこなかった。雰囲気に圧されているというわけでもない。聞いてみたい内容もホールを出るときには頭の中でまとめていたはずだ。それにもかかわらず、どうしてか音としてそれが発されることはなかった。

 

 朱色の無言の時間が流れる。それは実際には五分だったのかもしれないし、一時間は経っていたのかもしれない。妙に時間の感覚がいびつで良子には確信が持てなかった。気が付くと赤木の視線は良子から外され、先ほどのように夕日に背を向ける形となっていた。それでもまだ言葉は出なかった。

 

 「……そうだな、明日ここの仕事終わったら空いてるか?」

 

 沈黙を破ったのは赤木だった。

 

 「ふむ。ディナーのお誘いですか」

 

 「なんだ、本当に飢えてるのか?麻雀に誘ったつもりだったんだけどよ」

 

 くつくつと笑う赤木に対して、良子は顔をしかめていた。だが彼女のように人気も実力も兼ね備えているとなれば、こういうお誘いはけっこうあるので勘違いしても仕方のない部分ではあるだろう。それよりも良子からすれば願ってもない話だ。噂ではあの小鍛治健夜をさえ凌ぐと言われた裏の伝説が自分と麻雀をしようと言ってくれている。あちらの意図こそつかめないが、これに乗らない手はない。

 

 「では面子はこちらで揃えますよ」

 

 「ああ、じゃあそいつは任せた」

 

 「時間と……、そうですね、場所はどちらに?」

 

 「アンタの仕事が終わってからでいいさ。そこの角を曲がった雀荘にいるからよ」

 

 「オーケーです。それではまた明日に」

 

 

 良子が解説を務める千里山女子の試合はしばらく前に終わっている。シードだから今日は一試合しか組まれていないのだ。今やがらんとした解説室に良子は一人で座っていた。他の二回戦の試合を見ながら、明日誘えそうなプロをリストアップしていく。三箇牧や姫松の試合を解説しているプロを誘うことができれば理想的なのだが、あちらにも予定があるかもしれない。だから念のために候補を挙げておくことにしたのだ。ちなみに残念ながら場内では携帯の電波が遮断されているため、この場で連絡を取ることはできない。

 

 胸の内に渦巻くのは、興味と功名心。プロの間でまことしやかにささやかれ続けている伝説の正体と、それを破ることによる名誉を得たいという気持ちが良子の内側で暴れている。あくまで噂ではあるが、あの三尋木プロもあの男に完膚なきまでに打ち負かされたという。そこでもし自分があの男を上回れば、それは一つの証明になることは確実だ。たとえ半荘一回であっても、内容次第では打ち手の格というものが決まる。やはりプロの麻雀打ちとして勝負にギラつく姿がそこにはあった。

 

 

―――――

 

 

 

 帰りの電車で浩子の頭がぴこん、と跳ね上がる。それまではじっと紙の牌譜を見つめていたのだが、なにがあったのか目を見開いて今度は遠くを見ている。ついで隣に座っていた泉の背中をばしばしと叩き始めた。

 

 「ちょぉ!痛い!痛いですて!なんなんですか!?」

 

 「んー?いやなんでも」

 

 先のインターハイで先輩に邪悪とまで形容された笑顔を浮かべて浩子は答える。どう見ても何かあった顔やないですか、と抗議をしてくる泉は無視だ。秋季大会二日目は三回戦・準決勝・決勝の三試合が組まれている。トーナメント表を見る限り、浩子が点を稼がなかったからといって負けるような高校は決勝までぶつかることはない。浩子の予定では準決勝の場で、速度を含めてあの技術の雛型を完成させるつもりだ。理想で言えば東場で分析を終えておきたいところだが、今の感触からすると少なくとも南二局までは使うことになるだろう。この作業を赤木や健夜はだいたい東二局で終わらせるというのだから恐れ入る。

 

 どうして浩子が準決勝の場で雛型を作るつもりなのかといえば、決勝戦があるからである。大阪の頂点を決める戦いはこの秋季大会しかない。インハイ予選は南北に分かれるため、姫松がそこからは外れてしまう。だからこそこの三強が一堂に会する大会で負けるわけにはいかない。いくら千里山とはいえ、浩子を抜いた面子で勝ち切れるかと聞かれればそれは難しいと返ってくるだろう。逆に浩子がいるからといって勝てるような相手でもない。つまり決勝でチームとしての全力を出すために、浩子は完成を急ぐ必要があった。従妹の愛宕絹恵や現在の高二世代最強と目される荒川憩と当たれないのはいささか残念ではあるが、千里山女子が勝つために船久保浩子が手を抜くわけにはいかない。

 

 そういった浩子の思いは決して外に出ることはなく、部の仲間と車内の迷惑にならないように話に興じる。話題はやはり浩子のことが中心のようだ。普段は大阪にいないのだからそれも当然と言えるだろう。ときおり嘘や冗談を交えながら面白おかしく岩手での生活を話す姿は、年頃の女の子のものだった。

 

 

 晩秋の月は綺麗だ。大阪も都会とはいえ、寒くなれば空気も澄んでくる。部のみんなと別れてひとりで歩く帰り道の月はただぽっかりと浮かんでいるだけだった。浩子は手持ちのスマートフォンで明日の天気と気温を調べ、マフラーとか要るかな、などと思いを巡らせていた。

 

 

 

 

 

 


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