帝国貴族はイージーな転生先と思ったか?   作:鉄鋼怪人

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今章ラストです。次は幕間を入れて次章に入ります


第百六十四話 やっぱり屑貴族は屑なんだって、はっきり分かんだね

 テレジア・フォン・ノルドグレーンにとっては今回の任務は最初から憂鬱なものであった。

 

 元々、エル・ファシルにおける失態の時点で彼女は半ば死を覚悟していた。主君が右腕を欠損した他、全身傷だらけで回収されたのだ。もう一人の従士と違い主君の命令で途中で離れる事になったとは言え、連帯責任は免れないように思われた。これまでの失敗の数々も含めれば家に帰った途端に目の前に毒入りのワイングラスを用意されていたとしたも驚かなかっただろう。

 

 ある意味その方が気楽だったかも知れない。現実は主君が予めリューネブルク伯爵に頼み込みその屋敷に保護される事になった事で、彼女は実家の家族と顔を合わせる事も、主家の伯爵夫人に詰められる事もなかったが。

 

 だがハイネセン滞在中は主家や実家から毎日のように使者と手紙が送りつけられ、彼女を精神的に追い詰めていった。大半はリューネブルク伯爵とその臣下が対処したものの、その事実そのものが彼女への圧力となっていた。

 

 そこに、大怪我を負った主君への心配と罪悪感が更なる追い討ちをかける。最初の出会いから負い目があり、失態を何度も演じ、ましてエル・ファシルでは危機的状況の中で勝手に病み、錯乱し、面倒をかけて、その癖に懇願までした身であった。従士の分際で主君に対して迷惑をかけて、懇願を聞き入れられて、その直後にこの様である。今となってはその事実すら彼女を陰鬱にさせる。

 

 それでも恥を忍んで耐えたのはそれこそが主君の命令だからだ。何があろうとも主君の命令が絶対なのは身分制度を絶対とする帝国貴族社会では最低限の規則だ。主君が自身の身の安全を図る事を望むのなら何があろうとも、どれ程後ろ指を指されようとも従うのは当然、まして彼女に主君の意思に逆らうなぞ有り得ない事だ。

 

 だからこそ彼女はその連絡が来た時、一切の躊躇はなかった。寛大で、自分を信頼してくれる主君のために彼女は主君との合流を図った。

 

 そうだ、それが最初の違和感だった。トラブルで合流が遅れた主君がもう一人の従士と共に現れた時、彼女はその妙な空気に違和感を感じた。

 

 元々、主君が自分よりももう一人の従士と付き合いが長く、信頼している事は承知しているし、その事は問題ない。問題ない筈だ。だが……その距離感がこれまでに比べて近すぎないか?

 

 その違和感自体は直ぐに主君の怪我と、次いで時間に追われる中で直ぐに意識から外れた。彼女は物事の優先順位を良く良く理解出来る程には賢かった。そして、それ故に使節団を乗せた船が航海中、その事を忘れ去る事もまたなく、純粋な疑問とどこか粘りつくような疑念を抱き続けていた。

 

 それは主君とスタジアムで離れ離れになった後、一層意識させられた。いや、正確には自分よりも伯爵家での立場が悪く、忠誠心の高い筈のもう一人の従士の態度を見てか……。少し化粧をして仕草を工夫すれば双子の姉妹にも見えるゴトフリート家の同僚は、これまでは主君の危険を知れば必死になり、悲痛な表情で四方八方手を尽くし駆けずり回るほどに生真面目で、爪先まで忠誠心の塊のような人物であることを彼女は知っていた。

 

 だからこそ、テレジアは同僚のいつもと違う態度に不審を抱いた。常ならばあらゆる手を尽くして行方不明の主君を探そうとする筈のベアトリクスが、しかし今回に限り余りに大人しく、しおらし過ぎた。ひたすらに主君の帰りを待つその姿は忠臣というよりかは寧ろ……。

 

 無様にもカストロプ公爵家の捕囚の身となり、そこで公爵家の気狂いに洗いざらいの事実を教えられた際、彼女は勿論驚愕はしたが、同時に極々自然にその言葉を受け入れる事が出来た。出来てしまった。

 

 それを公世子の戯れ言等と切って捨てる発想は微塵もなかった。それは彼女の忠誠心が不足しているというよりも、寧ろ余りに公世子の語った言葉と自分の感じていた違和感が合致したからだった。自分の感性と直感は誤魔化せない。

 

 そうだ、誤魔化せない。テレジアは愕然とした。そうだ、少し考えればその答えに行き着く事位出来たであろうに!!

 

 ある意味ではテレジアは僅かに、ほんの僅かにこの瞬間、目の前の放蕩貴族に感謝した。恐らくは自身が潜在的に見て見ぬふりをしていた事実を教えてくれた事に。尤も、それでも自分を同僚の姿にされて『代替品』扱いされた事には自尊心を傷つけられたし、衣服を破かれ視姦され、あまつさえ胸を鷲掴みにされて跡まで残されたのは屈辱であったが。

 

 マクシミリアンのふざけたショーは彼女の自尊心を更に踏みにじった。予め放蕩貴族から今回の件の全貌は教えられていた。(間違いなく彼女自身を苦しめるためというだけの理由だろう) ショーが開催されたからといって主君が残る理由は何一つない。そんな事よりも大公殿下達の救出を指揮するべきだ。残った理由は間違いなく自分のためだった。……いや違う。自分と良く似た、それでいて自分なぞとは違い主君に寵愛されている同僚のためだ。自分ではない。

 

 ショーは終わった。当然のように主君が勝利した事に、驚きこそなくとも心から安堵していた。腐敗し、堕落したオーディンの貴族ごときが、伯爵家の直系たる崇拝すべき主君に勝てると考えるなぞ思い上がりも甚だしい。それでもやはり不安は覚えるものだったが……テレジアは自身に近寄って来る主君に自身の事を伝えて失望の表情をされる事を覚悟しつつも喜んだ。

 

 本当に御目出度い頭をしていると思う。もっと注意していれば警告も出来た筈だ。そうすればこんな取り返しもつかない失態を演じる事もなかった。

 

 首の爆弾を外され、小賢しい公世子が無力化されても、何の意味もなかった。そんな事のために支払った代償は余りにも大き過ぎた。法外だとさえ思える。

 

 死にかけの敗北者が喚き散らす言葉にテレジアは絶望した。目の前の主君の姿を見る。その左目は赤と黒に塗り潰されていた。明らかに潰れた眼球、溢れるような血が涙のように頬を伝って床に血溜まりを作り出す。それは従士にとって、あってはならない事だった。

 

 彼女は全てを知った主君が失望する姿を幻視した。テレジアは自身の主君が寛大で家臣思いな事を知っている。だが、それでも片目を引き換えに救いだした愛人が別人ともなれば、怒る事はなくてもさぞ落胆することだろう。そして、それだけで既にボロボロな彼女の矜持はあっけなく崩れ去る筈だった。

 

『ノルドグレーン家のテレジアだろうが。何年の付き合いだと思っているんだよ、人の目を節穴扱いするな。それ位知っているわ』

 

 次の瞬間、その言葉を聞いてまず唖然とし、次いで安堵し、不安と期待とが彼女の内心を支配した。

 

 安堵したのは当然だ。自身の存在そのものに失望される事態を回避したのは幸運であったし、自身が同僚の『代替品』として認識されていない事は嬉しかった。

 

 だが……安堵のすぐ後に不安を感じたのは彼女の複雑で矛盾に満ちた欲望によるものだっただろう。『代替品』として見られていなかったのはこの上なく嬉しくても、同時にそれは彼女が主君のある種特別な存在である同僚とは異なる事も証明していたのだから。その意味では仮に主君が彼女の存在を見抜いていても見抜いていなくても、彼女はどちらにしても傷付いたのだろう。

 

 だからこそ、主君の告げた言葉がどれだけ彼女の心を奮わせたか!同僚の……ベアトリクス・フォン・ゴトフリートの代わりに愛でる玩具としてではなく、ましてや彼女に劣る模造品でも、ノルドグレーン家の付属品としてでもない。テレジアは目の前の主君がそんな前置詞なぞ端から意識せず、ただただ『テレジア』という一個人を見ていた事を感じ取る事が出来た。

 

 そして、だからこそ一層彼女は傷付いた。其ほどまでに自身を見て、信頼し、尊重してくれる主君を、彼女は自身の怠慢によって傷つけたのだ。左目を奪ったのだ。その事実が彼女の精神を追い詰め、罪悪感を植え付ける。

 

 それはあるいは自罰的過ぎる思考であったかも知れない。確かに一般的な同盟人でも多少の罪悪感は抱くであろうが、それにしても行き過ぎであった。

 

 そして、その理由は帝国的な価値観、封建的な忠誠心も一因であろうが、恐らくはそれだけが原因ではなかった。無論、この時点では当の本人も自覚していなかった。そして、彼女の暗い気持ちは病院の廊下を歩み、件の主君の元に近付くにつれて、より一層悪化しつつあって………。

 

「中尉?大丈夫かい?何処か具合が悪い所でも?」

「えっ……?い、いえ!問題は御座いません!」

 

 ノルドグレーン家の次女は、共に病院の廊下を歩くシュヴェリーン大公の言葉に慌ててそう返答する。同時に額から僅かに緊張の汗を流す。皇帝の次男の言葉に上の空だったなどと知られようものならば、帝国貴族としては終わりに等しい。少なくともオトフリート一世灰色帝のような極々少数の例外相手を除いてはそのような行いをするなぞ非礼の極みである。

 

 ましてやシュヴェリーン大公は無能からも怠惰からも、倦怠からも程遠い。精力的で聡明で、社交的な人物だ、多くの帝国人にとって理想的な皇族と言えよう。自身がそんな人物に声をかけられながら全く別の事を考えていたと知られたら……!

 

 平静を装うテレジアに、足を止め振り向いたままの姿勢の青年皇族は目を細め、観賞するように友人から借り受けている従士を見つめ続ける。その瞳にふとテレジアは非礼を承知でカストロプ公爵家の気狂い息子を連想した。

 

「いや、別に良いんだよ。人それぞれ悩み事はあるものだからね。外面は兎も角、内面まで干渉しようと思う程私は拘りが強い訳ではないよ。ただ、私は良いとしても他人が鬼の首を取ったように騒ぎ立てる事もあるからね。その辺は注意する事だよ?」

「し、承知致しました……」

 

 賑やかに微笑む大公に対して恐る恐ると頭を下げて謝意を伝えるテレジア。ようは見逃されたのだ。それどころか忠告までされた。幸い、この病院に訪問した大公の見舞いにおいて、傍に控える護衛役を仰せつかっているのは彼女ともう一人のみだった。この場に地上車に置いて来た専属の近衛が居ればどうなっていた事か……大公の言葉は完全な善意であった。尤も、それはテレジアのためではないかも知れないが。

 

「………」

 

 ちらりとテレジアはすぐ傍にいる顔立ちの良く似た同僚に視線を向ける。共に皇族の護衛を仰せつかる従士は普段通りの物静かな態度に徹し、何を考えているのかは窺い知れない。

 

(やはり、やりにくいものですね……)

 

 先日の騒動の後、主君の命令によりテレジアはもう一人の同僚と共にシュヴェリーン大公の下で護衛の任に着いていた。それが彼女の主家や実家からの追及を避けるための手立てなのは直ぐに理解出来た。

 

 流石に主家や実家も大公が預り、使役する従士を今すぐ引き寄越せなぞ言えない。リューネブルク伯爵家の預りになった時もそうであるが、本人が治療等のために動けない時は信頼出来る身分ある者の下に渦中の人物を貸しておくのは貴族社会のある意味でセオリーではある。

 

 だが無論、預け先が皇族ともなれば中々ある話ではない。しかも、もう一方の同僚は大公との交流も深いものの、テレジア自身はそういう訳でもなかった。

 

 ともなれば、大公と同僚に比べどこかぎこちない雰囲気が生まれるのもある意味では当然であった。大公は明らかにテレジアに配慮し、客人として尊重していたが、だからこそテレジアもどのような反応をするべきか測りかねていた。

 

「やれやれ、そう硬くならなくても良いのだけれどね……。おや、これは………」

 

 その部屋の前に辿り着いた大公は、僅かに開いていた入院室の扉から漏れ聞こえる会話の音に気付く。

 

「………おやおやこれはまた、相変わらず妙なものにばかり遊ばれるものだねぇヴォルターは」

 

 恐らくは室内にいるであろう存在が誰なのかを理解した大公は、僅かに呆れの色を含んだ仏頂面を浮かべた。あるいは見方次第では嫉妬しているようにも見えたかも知れない。

 

 そして、僅かに考え込むとどこか悪戯っ子のような幼さを感じさせる表情を浮かべ大公は呼ぶ。

 

「ノルドグレーン中尉、此方に。扉の前に来てくれ」

「は、はっ!」

 

 いきなりの呼び出しにテレジアは困惑しつつもそれに従う。命令に従わない選択肢なぞ元から無かった。そして彼女が扉の前に立ったと共に大公は満足そうな表情を浮かべ、二人をからかうようにこう放言した。

 

「二人共、出向御苦労様。だけど残念、辞令だ。そろそろ元の職場に出戻りする頃合いだね」

「えっ?あっ……!?」

 

 どこかふざけたその声にテレジアが困惑の言葉を口をしたのと、目の前の扉が異貌の自治領主補佐官によって勢い良く開かれたのは殆んど同時の事だった。

 

 

 

 

「そうだな、まずはそこに掛けてくれ。飲み物は紅茶と珈琲、何方が良いかな?」

 

 殆んど仕組まれたかのような経緯を経て、テレジアは一人病室に置いていかれた。従士は僅かに戸惑いと不満を抱き顔を伏せるが、直ぐに観念するように顔を上げ、自らの主君の顔を拝む。

 

 ほんの僅かに色彩の異なる双瞳で目の前の主君は彼女を見つめていた。片方の眼球を抉られて代用品を使う身にしては、特に影のない他者を慮る優しげな笑顔を浮かべている。……少なくとも表面上は。

 

「……では、紅茶に致しましょう。丁度茶葉なら御座います。私が御淹れします」

 

 そういって彼女が視線を向ける先にあるのは見舞品に交じったアルト・ロンネフェルトの茶箱であった。テレジアは自身の主君がどちらかと言えば珈琲よりも紅茶の方が好みな事を知っていた。

 

「テレジアは紅茶よりも珈琲を淹れる方が上手いと記憶していたが?」

「紅茶でも標準以上の腕は御座います」

 

 苦笑を浮かべる主君に恭しく従士は答える。未だに『テレジア』という名で呼ばれている事に安堵と感動を覚えるが、その事に気付かれる程に彼女は演技が下手な訳でもなかった。

 

「そうか。……いや、自分から尋ねておいて悪いが、珈琲の方を頼めるか?……そこに焼き菓子があるだろう?それ甘過ぎてな、苦めの珈琲の方が合いそうなんだよ」

 

 フェザーン自治領主府から贈られた見舞品の菓子箱を指差して済まなそうに主君は頼み込んだ。菓子箱は帝国や同盟のブランドの支店ではなくフェザーンの老舗菓子店の銘柄のようだった。フェザーン民族主義者かつ保守的なワレンコフ自治領主らしい見舞品であるが……残念ながら熱い土地柄のフェザーンの伝統菓子は同盟人や帝国人には若干甘過ぎる。

 

 菓子箱の中で行儀良く並ぶバスブーサも例外ではない。殻粉にピスタチオとシロップを混ぜて焼きココナッツを添えたそれは、フェザーンの激甘菓子の一つだ。一言で言えばシロップ漬けのパイである。

 

「……承知致しました。少々お待ち下さいませ」

 

 そう答え、テレジアは珈琲を淹れる準備をする。幸い、珈琲豆の方も高級品を誰かが見舞品として用意していたらしい。それを使い手慣れた所作で黒い液体をマグカップに注いでいく。

 

「御苦労、テレジアもそこに座ると良い」

 

 マグカップを受け取った主君が先程まで自治領主補佐官が占拠していた椅子を指差して勧める。

 

「いえ、私はこのまま……」

「長話になるかも知れん。それに、立ちながらだと飲み食いもやりにくいだろう?座る事だ、それとも命令した方がお前には気楽かな?」

「いえ……了解しました」

 

 それは嫌味ではなく、寧ろ配慮である事はテレジアも分かっていた。帝国人にとってはこの場で「座っても構わない」と言われるよりも「座れ」と命令される方が余程気が楽であるし、言い訳も出来る。それが分かっていてもテレジアは殆んど言い掛かりに近い不満を抱いてしまう。

 

(少佐でしたらどう答えていたのでしょう?)

 

 言われずとも最初から座っていただろうか?勧められてからすぐ座ったのだろうか?それとも……。

 

 無意味な仮定であるし、想像した所で意味のない事だ。それでも彼女は自分と、自分と良く似た同僚を無意識に比較し、そして目の前の主君がどう見比べてどう考えるのだろうか?等とついつい生産性の皆無な思考ゲームをしてしまう。

 

「……意識しているのは私ですね」

「ん?」

「いえ、何でも御座いません」

 

 そう答えて従士は腰を下ろした。軍服の下からでも分かる肉付きと形の良い臀部を乗せ、背筋を伸ばす。気品と愛嬌のある佇まいは、間違い無く彼女もまた厳然たる階級社会における貴族階級の一員である事を証明していた。

 

「……まぁ、あれだな。私もそろそろ退院出来るらしいが、其方はどうだ?怪我や後遺症はあるか?」

 

 恐る恐ると言った風にベッドに腰かける主君は尋ねる。その言い方は明らかに遠慮がちであった。

 

「いえ、怪我という程のものはありません。精々が軽い痣が出来た程度で御座います。それも今では殆んど痕は残っておりません」

 

 これは事実だ。確かに電磁警棒の一撃は特に酷い痣を作ったが、少なくとも刃物で斬り合い、素手で殴り合いをし、頭部を鉄板仕込みの靴で蹴りあげられ、あまつさえ眼球を抉られた主君に比べれば取るに足らないものでしかない。

 

「なら良いんだがな。特に後遺症の類いは時間が経ってから来る事も多いからな、注意する事だ。……うん、やはり甘味が強過ぎるな。珈琲を選んで正解だった」

 

 菓子箱のバスブーサを一つ摘まんで口に放り込み、苦笑いを浮かべてマグカップを口に含む。そしてテレジアがそんな姿を見つめていれば、視線に気付き菓子箱を差し出す主君。

 

「ベアトには断られてしまったが、どうだ?正直見舞品の量が量でね。食べないといけないのは出来るだけ食べてしまいたいんだよ。偏見かも知れないが甘い物は嫌いじゃあないだろう?」

 

 助けを求めるような口調で伯世子は頼み込むように尋ねる。それは家臣に向けて、というよりも気心の知れた友人に向けたものに近かった。

 

「……そう仰るのであれば頂きましょう」

 

 余り主君の言葉に遠慮するのも失礼だ。恐る恐るとテレジアは白魚のような白い透き通った手を伸ばし、菓子箱から一つ摘まみ上げる。

 

 菓子屑が落ちないように注意しながら一口サイズのバスブーサを口に放り込む。その所作一つ一つが優美で品があり、彼女の育ちの良さを証明していた。

 

(確かに甘いですね……)

 

 サクッとしたナッツ入りのパイ生地の食感、次いで糖度の高いシロップが少々強く自己主張する。それでも一応は銘菓のブランド物である。これが一般庶民向けの屋台や工場の大量生産品だったらどうなる事か……大昔のまだ貧しく市民の殆んどが齷齪して炎天下の下で働いていた頃の味付けは現代では諸手を挙げて歓迎はされないようだ。

 

(ですが……)

 

 甘いが、味気ない……そう思うのは菓子が悪い訳でなければ味覚障害になった事が理由でもないだろう。それは彼女の精神的な部分に原因があった。

 

「どうした?浮かない顔だな?やはり味が好みではないか?」

「いえ、そんな事は……」

 

 ばつが悪そうにテレジアは答える。そんな臣下を見て、伯世子の方もまた渋い顔を浮かべて、しかし決心したように口を開く。

 

「あー、目玉の事か?それとも捕まった事か?何にせよ、今更落ち込まれても困る。それについては確かに問題もあったが……幸い、結果論的には私にも都合が良い事もあった。そもそも腐っても相手は公爵家だからな、そう恥じ入る事もあるまいよ」

 

 伯世子の言葉は半分程建前であるが、少なくとも半分は本気であるし、一応の筋も通っていた。そもそもカストロプ家の馬鹿息子が呆れた企みをしなければ結果的に同盟政府や亡命政府は政治的・軍事的・経済的に大きな打撃を受ける事になっていたであろうし、見方によればそれが避けられたのは彼女が人質になったお陰でもある。そもそも、一従士がカストロプ家相手に何が出来よう?そして何を期待出来よう?

 

 特に後半は目の前の主君が必死に祖母に向けて強調した事だし、逆説的にだからこそ孫の成し遂げた結果がより称賛される理由ともなり得る。それ故に祖母は不機嫌気味な溜め息混じりに孫の言い訳を受け入れ、不出来な従士の失態を『見逃し』た。

 

「承知しております。若様の御慈悲には感謝に堪えません」

 

 ですが……と、一旦言葉を切りその先を口にするべきかを迷った。この場でその事を言うべきか悩んだのだ。このような私情の交じる質問をするのは軽率であり、しかも緊張感も反省の色もないように思われたのだ。

 

「言いにくい内容かな?……無理に、とは言わんが出来れば聞かせて欲しいな。幸い、この病室は防音だ。それに悩みや不満は溜め込んでも負担になるからな。内容によるが話して楽になる事も、解決策が出てくる事もあると思うが……どうかな?」

 

 微笑みながら尋ねる主君に、しかしテレジアは若干の不満を抱いた。このような事を悩む自身も自身であるし、半分程八つ当たりに類する事は分かっていても彼女の悩みに深く関係する当事者にこのように気楽に言われると、やはりどうしても言葉に出来ない感情が生まれるものだ。

 

「分かりました。ではお尋ね致します」

 

 もやもやとした心情を吐き出すように、僅かに復讐心を含んだ口調で彼女はその言葉を切り出した。

 

「……最近、ゴトフリート少佐と何か御座いましたか?」

「っ……!?」

 

 その言葉に主君は咀嚼していたバスブーサを噴き出しそうになり噎せる。ゲホゲホと咳き込む目の前の上官。その顔が赤らみ動揺するのは噎せた事だけが原因ではないだろう。

 

「……その御様子ですと、やはり話は真実でしょうか?」

「げほ…げほげほ!?て、テレジア……その話は何処で……?」

「公世子が私を捕囚とした後に申しておりました」

「はは、成る程……」

 

 顔を引きつらせながら乾いた笑みを浮かべ、納得するような表情を浮かべる主君。その態度にテレジアは改めて全てが事実である事を確信した。同時に苛立ちを覚える。

 

「それで、真偽の方は?」 

「……隠していた訳じゃない……訳でもないな。まぁ、うん。想像の通りだよ」

 

 渋々と、そして何処か恥ずかし気に伯爵家の跡取りは自供する。

 

「御関係はいつ頃でしょうか?」

「あー、別にそう昔の事じゃない。その……エル・ファシルの後、いや今回の任務を拝命する直前の事だ」

 

 つまり、屋敷から抜け出した後であり、任務を拝命する前となるとその機会があるのは……。

 

「成る程、あの時という訳ですか」

「ま、まぁ。そういう事だな……」

 

 歯切れが悪そうにテレジアの言葉を認める主君。

 

「今回の任務中、ずっとお隠しになっていたのですね?」

「んんんっ……!それは……!」

 

 何処か非難がましく追及するテレジア。その態度は本当ならば家臣が主君に向けるべきものではなかったし、実際テレジアも直ぐにその事に気が付いた。幸い、声をかけた相手はその事に思い至らないようでかなり焦っている様子だった。

 

(随分な慌てぶりな事ですね)

 

 相手が慌てているためだろうか、テレジアは妙に冷静になって主君を観察する事が出来た。そのために内心の怒りも激発する事はなかった。

 

 尤も、だからと言って許した訳でもないが。

 

(許す?全く呆れたものですね。私がそんな事出来る立場でもないでしょうに)

 

 自身の内心での発言に肩を竦める従士。同時にふと、テレジアは自嘲気味な苦笑を浮かべていた。今更ながら自分はこんなに執着心が強く、独占欲に満ちた嫉妬深い女だったのか、と思ったからだ。まるでこれでは愛人の存在を夫に問い詰める平民の主婦ではないか。

 

(そう言えば御姉様にも言われましたね……)

 

 小さい頃から両親や親戚に姉が褒められていると頬を膨らませて間に割り込み甘えていた、と姉にからかわれた事をテレジアは思い出す。

 

「あー、つまりだな?別に他意があった訳ではないんだよ。そもそも私も仕事があった訳でって……」

 

 一方、視線を泳がせ、気まずそうな表情を浮かべ続ける青年貴族。その口調は明らかに早口で、何処か要領を得なかった。顔もどことなく青ざめている。

 

 正直な所、ここまで効果があるとはテレジアも考えていなかった。自身の主君がどのような危険な状況でも苦笑いか、あるいは焦燥しつつもその頭は冷静に、かつ合理的に行動し切り抜けて来た事を彼女は知っていた。それ故にこの動揺は予想外だった。

 

(もう少し淡々と認めるのかと思いましたが……)

 

 少なくとも、帝国的な価値観においては主君の立場であれば愛妾の一人や二人囲っていようとも何ら問題は無いのだ。隠す必要性すらない。流石に御家騒動まで引き起こせば話は違うが……。

 

「落ち着いて下さいませ。私は何も若様を責めている訳ではないのですから」

 

 そもそもそのような事を口にする資格もないのだ。

 

(とは言え、ここまで困惑しているお姿は中々可愛くはありますが)

 

 普段は何だかんだあっても冷静で勇敢な主君が初な乙女のように慌てる姿というものも中々珍しい。珍しいと同時に親しみと親近感すらも抱く。そして……。

 

(ああ、そういう事か)

 

 ここで漸くテレジアは自身の感情に正面から向き合った。そして、彼女の内に眠るどす黒い欲望が目を覚ました。

 

 そして、彼女はその感情の赴くままにその手段を取った。

 

「テ、テレジア……?これは何の積もりかな?」

 

 次の瞬間、自身の手を掴む目の前の従士にその行動の意味を問い掛ける主君。その表情は僅かに強ばっている。それは、多くの身の危険を経験した結果獲得した、ある種の第六感が警報を鳴らしているのかも知れない。

 

 ……どの道、手遅れではあったが。

 

「そんなに私に怒ってる?」

「いえ若様、別に他意なぞ御座いませんわ。ですが折角の機会ですもの。入院生活にも御飽きで御座いましょう?このような『お遊び』も一興かと」

 

 次の瞬間、ガチャッ!と言う機械音と共に青年貴族はベッドに押し倒される。青年貴族は照明を遮るように自身を見下ろす家臣の顔を確認する。同時に伯世子は自身の右腕の感覚が消失している事に気付いた。焦りながら視線を向ければ、既に機械式の義手は腕のコネクタから外され、鉄の塊はベッドの上で布団とシーツに深々と沈みこんでいた。自身を見下ろす家臣と目を合わせるヴォルター・フォン・ティルピッツ。

 

「はは、マジかよ。冗談だよな?テレジア?」

「冗談と御思いですか?」

「そうであったら安心するのだけれどな」

「それは残念な事です」

 

 何処か芝居がかったやり取り、押し倒される伯世子はあはは、と誤魔化すように笑いながら視線を動かしこの状況をどう切り抜けるかを考える。だがそれも両頬を掴まれて無理矢理に視線を合わさせられる事で無意味と化す。

 

「色々と想像はしていたが……こういう展開は想定外だったな」

「そうでしたか?私が若様の下に贈られた元々の理由を考えればそこまで可笑しな話ではないと思ったのですが」

 

 少女のように可憐で、しかし何処か妖艶な微笑を浮かべ首を傾げる従士。その瞳の奥からはドロドロとしたものが蠢いているように伯世子には思えた。

 

「……贈られた、ね。そういう考え方もあるにはあるな。とは言え、個人的な考えでは私は結構恨まれているかと思ったのだがな?」

 

 いつだってもう一人の同僚と比べられ、そして一線を引かれる。しかも主君たる自身はトラブルの種ばかり作り出すのだ。恨まれても可笑しくないし、少なくとも不満を持たれるのは当然だと伯世子は考えていた。

 

「はい。御恨み申しておりました。こうやっていつもいつも中途半端にお優しくなされて、その癖に大事な事では仲間外れですから。恨みもしましょう、生殺しです」

 

 そういって頭を入院服の上から主君の胸元に埋める。耳では聞こえなくても、彼女には主君の心臓の鼓動が速くなっているだろう事を殆ど確信していたし、それは恐らくは事実だった。

 

 そのまま主君の胸元を何度か頭で擦り、そしてそのまま身体を密着させ、見上げるように顔を主君の方向に向けた。

 

 媚びるような寂しげな微笑だった。

 

「っ……!あー、私はどう反応したら良いのかな?」

「自分で考えて頂けませんか?」

「少しこの問題は難しそうだな」

「成る程、意地悪な事ですね」

 

 クスッ、と悪戯っ子のような笑みを漏らす従士。その態度に気難しそうに視線を一瞬泳がす伯世子。深い深呼吸をして、自身を落ち着かせようとするがそう簡単にはいかない。

 

 これまでも密着する事自体は皆無ではなかったが、このもう一人の付き人と何も命の危険もない状態でここまでした事はなかった。腰に手が回っていた。腹部に柔らかい感触がした。家臣の太股が自分のそれに触れ、足は絡み合っていた。命を賭けた場面では一々意識しない事であるが、今はその一つ一つまで全てを必要以上に認識させられてしまっていた。同時に自身と幼馴染みとの関係を知られた事による羞恥心も相まってその動悸は間違いなく高まっていた。表情にこそ出さないがその思考は混乱の極みにあった。

 

(不味いなぁ……これはどうすれば良い?)

 

 当初は単に慰めて、謝罪して、許して終わらせる……従士の精神面でのアフターケアを目標にしていたのだが、どうやらそうは問屋が卸さないようだった。それどころか事態はあらぬ方向に向かっていた。

 

 同時に、この事態に対して自身の奥底でほの暗い欲望が浮かび上がっている事に嫌悪感を抱き、伯世子は内心で舌打ちしていた。

 

「テレジア。ベアトの事を言わなかったのは本当に済まないと思っている。だが別にお前の事を疎んでいる訳でも、信頼していない訳でもないんだ。信じてくれないか?」

「何故私が疑うのですか?若様は私がそんな事を理由に今の行為を行っているとお思いで?」

「違う、といいたいのか?悪いが私はエスパーじゃあないのでね。はっきり言われないと分からん」

 

 おどけるように答える伯世子。しかしそれがこの場の状況を誤魔化すための痩せ我慢に過ぎない事をテレジアは見抜いた。主君が家臣の出で立ちを見抜けるように、家臣もまた主君の事を良く観察してその僅かな所作の癖を熟知していた。そして、その上で彼女もまたその嫉妬と不満と僅かな悪戯心から口元を吊り上げて目の前の主君を虐める。

 

「あらあら、酷い事で御座いますわ。ここまでしていて何も分からない振りをするのですね?若様は本当に酷い御方です。そうやって私の心を弄ぶのですね?」

「むっ……」

 

 泣きじゃくる振りをするだけで口元をへの字にして困ったような表情を浮かべる伯世子。その態度は周囲に秘密で同僚と関係を持ち、あまつさえ多くの命がけの戦いに身を投じて来た人物とは到底思えなかった。まるで二十歳にもなっていない不機嫌な恋人を必死に宥めようと悩む純朴な青少年のようだった。

 

「……そう難しい事ではありませんわ。元より私は少佐同様、若様に全てをお捧げする立場で御座います。ましてやこれまでの御恩を思えば可笑しな事ではないのでは?」

 

 本来ならば相手しろ、と命令されれば嫌でもするしかないのが彼女の立場なのだ。ましてや付き人として自身がどれだけ失敗し、どれだけ許されてきたのかを彼女は良く知っている。文字通り死ぬ筈の所を助けられてもいるのだ。好意を持つ事自体は可笑しくはない。可笑しくはない、が……。

 

「だが、恩があっても、だからと言って恋愛感情に繋がる訳でもないだろう?」

 

 しかし、主君はその感情に粗捜しするかのように疑問を呈する。それだけでは納得出来ない、といった態度だ。実際、彼は付き人の行動をある種の暴挙のように見ているのかも知れない。

 

「吊り橋効果って奴じゃないのか?それとも自罰的になっているんじゃないか?正直、私は顔と生まれ以外はそんなに魅力的なものじゃないと思うんだけどな?何の才能もない……凡人だからな」

 

 自嘲気味に笑う伯世子。それは自虐的であり、寂しげで、しかし謙遜しているようには見えなかった。それは事実のみを口にしているように思えた。そして、だからこそ力なく、辛そうな表情を浮かべていた。

 

 そして、そんな姿にテレジアはチクリと胸に痛みを感じた。それは本能的に目の前の主君の悩みが心の底からのものであり、同時に自分では到底解決出来ない類いのものだと察せられたからだ。

 

「………若様」

 

 目を細めて、従士は考える。この人の悩みは何なのだろうか?それは自分には教えてくれないのか?他の人になら教えるのだろうか?そして……自分は彼を助ける事は出来ないのだろうか?

 

 そこまで考えて、同時に既に確信していた。少なくともその悩みは自分にはどうしようも出来ないものなのだろうと。そして、きっとそれを乗り越えるためにこの主君は文字通り自身のあらゆるものを犠牲にするのだろうと。その寂しげな、下手すれば消え去りそうな何処か儚い笑みはいつも、危険に襲われた時、自身の犠牲すら覚悟する時のそれに良く似ていたから……。

 

 だから……。

 

「失礼を」

「えっ……?んっ!?」

 

 口をいきなり塞がれた事に伯世子は目を驚愕に見開いていた。その瞳には至近距離で自身を見つめる付き人の姿が映る。 

 

「んっ……んん……」

 

 丁寧に優しく、礼儀正しく、優美に、しかし同時に獣のように激しくテレジアはその口を貪った。舌を捩じ込んで蹂躙するような欲望にまみれた口付け……。

 

「はぁ……はぁ……どうでしょう?少佐に比べて上手かったですか?」

 

 銀糸を垂らしながら口を離した従士は、赤い唇を舌で一舐めした後、顔を赤らめつつも蠱惑的に微笑んだ。

 

「……二、三回しかした事ないから分からねぇよ」

 

 暫し唖然として、それから羞恥と焦りを含んだ何処か苦々しげな顔で伯爵家の嫡男は答えた。

 

「あら、結構少ないのですね?」

「そもそも本番自体一回しかしてねぇよ」

「そうなのですか?」

 

 もっと何度も経験しているだろうと勝手に想像していた事もあり、テレジアは心から意外そうに驚く。そして、同時にほの暗い欲望が溢れ出す。それは普段の澄まし顔の彼女のではなく、寧ろ彼女本来の性格から生じたものだった。

 

「ふふふ、良いお話を聞きました。でしたら私もまだまだ挽回の機会はありそうですね」

 

 するり、と従士は首元のスカーフをほどいた。それだけの動作がどうしようもなく官能的で、艶やかで、魅力的だった。それは思わず相手の伯世子が唾を飲む程だった。

 

「……なぁ、今ならまだ引き返せるから止めないか?」

「何て殺生な事を仰いますか。私にそこまで魅力が御座いませんか?」

「い、いや……ほら、音が聞こえるし」

「この病室は防音だったと記憶しておりますが」

「………」

 

 暫く沈黙した後、伯世子は忠告する。

 

「なぁ?私なんか狙うのは悪食じゃないか?」

「では少佐も悪食という事でしょうか?」

「はは、口で説得しようとした私は愚か者だったな。完全に丸めこまれてるじゃないか」

「御理解頂けて何よりですわ」

 

 くすり、と妖艶な笑みと共にテレジアは優美な手つきで上着を脱いだ。それだけの事なのに、その所作は凄まじい色気が漂っていた。

 

 同盟軍制式採用の薄いカッターシャツにズボンの出で立ち、その白い生地の上からも彼女の豊かな胸元が分かる。

 

 どうしようもなくちらりとそちらに視線を向け、しかしすぐに付き人の目を見つめる主君。その行為が何処か子供ぽく思えて、可愛いらしく、愛おしくも思えるのは彼女の元々の趣向なのか、それとも教育による後天的なものなのか、彼女自身も分からなかった。しかし、同時にそんな事はどうでも良かった。そういう感情を向けられる事自体が彼女には嬉しかった。

 

「……ははは、ベアトに言い訳を言うのが怖いな」

 

 自虐的気味にそう語る主君の、しかしその瞳の奥で蠢く欲望をテレジアは見逃さなかった。そして、それを表側に引き摺り出すのは簡単な事だとも彼女は本能的に理解していた。

 

「御心配なさらないで下さい。所詮は『お遊び』で御座います。一度使って、お気に召さなければそれきりお忘れ下さいまし」

 

 すまし顔で、妖艶に微笑む姿は到底一度も経験のない乙女のようには思えなかった。その耳元で囁く言葉は優しげで、淫蕩だった。

 

 多くの者はその笑みだけで心を奪われ、その囁き声だけで理性を失うだろう。そしてそのまま獣のように彼女を押し倒し、その欲望に身を委ねていただろう。それほどまでの魅力だった。

 

 ……無論、例外もいるのだが。

 

「……私がそんな無責任な奴に見えるか?」

 

 欲望に負けそうになりつつもギリギリで耐えて、若干不快そうな声を上げる伯世子。

 

「遊びではなく本気だと?」

「……どうなんだろうな。少なくともそれきりに出来る程割り切れる性格ではないと自覚しているよ」

 

 そう語る彼の左手が彼女の小さな肩に触れていた。その瞳には様々な感情が入り交じり、一言では言い表せそうにはない。だが、少なくとも彼女を嫌っている訳でない事は確かだった。

 

 だからこそ、彼女はその態度を受容と認容であると理解した。そして彼の内心の葛藤と迷いを振り切れるように語る。

 

「では、後程共に言い訳を考えさせて頂きましょう。ですが今は後先考えず……どうぞお楽しみ下さいまし」

 

 そう妖艶に唄い、目の前の青年の病院服に手を潜り込ませ、テレジアは身を寄せた。主君は複雑な表情を浮かべつつも、それを拒絶する事はなかった。

 

「………」

 

 奉仕を始めつつ、彼女はちらりと気付かれないように視線を扉の方へと向ける。締め切った筈の扉が僅かに開いていた。

 

 その瞳を細めながらテレジアはその扉を開けたのが誰なのかを殆ど確信していた。恐らくは先程までの会話は全て聞かれていただろう。

 

 知っていた。そう、彼女はそんな事元から知っていた。その上で……いや、だからこそ彼女は行動を起こしたのだ。宣言したのだ。要求したのだ。抜け駆けした彼女に自分にも分けるように、そして何らの行動もなかったのはそれが認められたという事だった。

 

 ……尤も、痴話喧嘩の類いは起こらない事をテレジアは最初から確信していた。そもそもそんな事の出来る関係でもないし、同僚は少なくとも自分と違いそんな嫉妬で動く性格ではない事を知っていた。寧ろ、複雑な心境を持ちつつも認めざるを得ないだろう。外面だけでなく、心からも。だって………。

 

(だって、少佐も似たような事をお思いでしょうし……)

 

 頼れる相手が、執着出来る相手がいなければ、この人は多分そのうち何かを守るために腕や目だけでなく、その命まで平気で引き換えにしてしまうだろう事を、彼女も、テレジア・フォン・ノルドグレーンもまた理解していたから……。

 

 

 

 

 

 

「そんで?今度は何の用なのよ?まさかまた飯を集りに来た訳でもないでしょう?こちとら家吹き飛んで金欠なんだけど?というか滅茶苦茶交通の邪魔なんだけど?」

 

『裏街』の貧相な市場の前に停まる場違いな黒塗りの高級地上車。その後部座席の窓が下がって禿げ頭の男が微笑を浮かべて顔を出す。

 

「やれやれ、だからそう無下にしなくても良かろうに。それに、今の生活は然程悪くはないのだろう?」

 

 カストロプ公の影響力の低下やどこぞの放蕩男爵が好き勝手したくれたお蔭でこの辺りを仕切るマフィアの勢力もとばっちりを受けるように弱体化しており、彼女にちょっかいをかけるような暇はない。更に言えば、自治領主府からも今回の口止め料が支払われている。はした金ではあるが、『裏街』では十分に大金と言えよう額であり、慎ましく暮らせば暫くは持つであろう。

 

「結局当面の生活がマシになっただけよ。働かなきゃすぐに無くなるわ。ねぇ、あんたには期待してないけどあの義手の奴から何か無かった?腹立つから利子つけて家賃と賠償金支払わせたいんだけど」

 

 冗談でもなく明らかに本気で少女は尋ねていた。そのがめつさと逞しさに、呆れ気味に苦笑を漏らした補佐官は一枚の紙を差し出す。

 

「丁度その事で話があった。彼方からの賠償支払いプランだよ」

「ふぅん、自分から顔を見せずに態態メッセンジャーを雇うなんて良い身分な事ね。生意気だから利子上乗せしてやろうかしら。それで?中身は……」

 

 鼻を鳴らして尊大な態度を取るアイリスは受け取った紙の上の文字に目を通し始め……顔を強ばらせる。

 

「………ねぇ、これって」

「そういう事だな。どうやら君の出自は知られているようだ」

 

 漸く我に返って恐る恐ると尋ねるアイリスに、肩を竦めてルビンスキーは答える。

 

「私自身も彼の意見には賛成だ。今回の騒動で君に注目する者もいるかも知れん。その中には君の御両親の事まで辿り着く者もいるだろう。不意に別の騒動に巻き込まれるのに比べればマシであろうし、考えて見れば寧ろ本来の形に戻っただけとも言える。私としても賛成だ。少なくとも私が見る限り大佐はそこまで劣悪な性格でもないし、君をぞんざいに扱い利用するようなまねはしないだろう。そんな割り切りが出来る程器用ではあるまい」

「言いたい事は分かっているわ。けど……」

 

 何処か歯切れの悪そうな口調で理解の言葉を呟くアイリス。そこには何やら葛藤があるようだった。そして黒狐にはその心当たりがあった。

 

「あいつか」

「………何か悪い?」

 

 否定的な印象を受けるルビンスキーの言にアイリスはむっとした表情を向ける。

 

「いやいや、あいつも幸せ者だと思ってな。全く、こんな別嬪がいるのに家出とは呆れる。それでお前はあいつの帰る場所を守っている訳か?」

「………」

「無言はこの場では肯定だぞ?やれやれ、困ったものだな」

 

 はぁ、と溜め息をつくルビンスキー。そんなルビンスキーにアイリスは尋ねる。

 

「あんた、実はあいつが何処にいるか知ってる?」

「………」「無言は肯定と認めて良いかしら?」

「ふん、全く変な所で勘が良い事だな」

「お褒めの言葉ありがとう」

「褒めてない」

 

 勝ち誇ったような顔をするアイリスを見て、再度溜め息を吐くルビンスキー。彼女が何を要求しているのか彼は察しがついていた。

 

「今更会っても仕方無いと思うのだがな?」

「それはあんたが決める事じゃないわ。けじめは必要よ。どうせあんた、これを機会に新しいコネクションを作りたいんでしょう?これくらいは協力しなさいな!」

 

 ふんっ!と要求をするアイリス。少女の要求に黒狐は断るなどという選択肢は存在しなかった。

 

 

 

 

 そこはフェザーン内陸部のとある金属ラジウム鉱山であった。

 

 今となっては生産量は其ほどではないが、フェザーンが自治領となるより遥か昔、銀河連邦崩壊以降の混沌の時代から採掘事業が行われ、フェザーンの最も苦難の時代を支えて来た歴史ある鉱山であり、経済的な目的よりも寧ろ資源小国であるフェザーンの資源自給政策と技術ノウハウの継承、伝統の維持、そしてある種の社会保障政策的な理由から操業が続けられていた。

 

「あいつ、こんな所で働いているわけ?呆れた、あんたを追い越すって啖呵切ってた癖に何で鉱夫やってるのかしら」

「いやいや、そう馬鹿にしたものでもないぞ?ここの待遇は思いの外良いからな」

 

 採算を考慮していないこの鉱山は、当然ながら多くの『裏街』の不法労働者が働くそれと違い安全対策は万全であるし、給金や福祉厚生も少ないとは言えまともな部類ではあった。

 

 何よりも社会福祉政策の一環として主に『裏街』の労働者向けの自由参加の夜間講座が開かれている。『裏街』の住民には義務教育も受けていない者が多いが、この鉱山での夜間講座で成績が良好な者には大学受験、そして学費の補助金が支給される事になっていた。

 

「一応聞くけど、あんたが自治領主府でプレゼンしたの?彼方さんの官僚達は私らみたいなド底辺の溝鼠の事なんか考えないでしょう?」

「別に同胞に同情した訳ではないさ。ただ『裏街』の人口は膨大だ。私は帝国人のような血統主義者ではないのでね、才能と意欲がある者は有効活用するべきと考えただけの事だ」

 

 『裏街』出身者が増えれば派閥的にも利用出来るしな、と不敵な笑みを浮かべて付け加える黒狐。その口調と態度は恐らくは照れ隠しではなく本音を語っているのだと言う事を少女は知っていた。彼女の弟分でもある幼馴染みも、そう言う時は瓜二つの表情を浮かべていたから間違いなかった。

 

「血は水より濃い、というけど……あんたを見てると真実だって思えるわね」

「それは正確ではないな。正しくは親の悪い所に限って似るのさ。お前もそうだろう?あのだらしない馬鹿貴族に似ていれば塵拾いなぞすまい?」

 

 残念ながら顔立ちだけでなく性格まで母親の方に似てしまったらしい、と黒狐は嘯く。あの没落貴族様は金銭面でどうしようもなく、見栄張りで、その癖女を口説き落とすのは巧かった。翻って独特の蒼い髪に美貌と美声で知られた元オペラ歌手の母親の方は気安く、明るく、そして面倒見が良過ぎた。

 

「やれやれ、君の御母上は情に厚すぎる。とっととあのような男捨ててしまえば良かったものを」

「父も母も愚かだったのは否定しないけどね。余り人の親を否定しないでくれないかしら?愚かであっても親は親だから」

「自分で馬鹿にする分は良くても他人に罵倒されたくないと?」

「悪い?」

「いや、だが……」

 

 不機嫌そうに睨み付けてくる少女を何処か愉快げに笑みを浮かべる黒狐。

 

「御母上は兎も角、御父上に対しても、と思ってな。あのフリードリヒ大公の放蕩仲間ともなれば子爵がどれだけ愚かで短絡的な人物なのか分かりそうなものであるのだがな」

 

 当時の主流派貴族であれば当然リヒャルト大公かクレメンツ大公のどちらかに与した事だろう。あるいは大穴狙いで傍流の他の皇族に付くのも野心家としては一手であっただろう。中立の立場を取る者がいるのも理解は出来る。

 

 だが、フリードリヒ大公の下に集まったのは当然野心家ですらない。皇帝から命じられて侍従ないし侍従武官として面倒を見ていた数名を除けば、大半は家から勘当された、あるいは同然の不良貴族に放蕩貴族ばかりである。アイリスの父もまた興隆と没落を何度か経験しているものの、一応は帝国建国以来続く武門の子爵家の直系であったのだが……。

 

(借金で首が回らなくなってよりによって武器や機密情報を売り渡すとは後先考えぬ愚か者というべきか……)

 

 ルビンスキーは若手官僚の頃に『裏街』で面識を持った、顔だけは良い自堕落男の事を思い出す。軍務省軍需局の一部長だったその大佐は、当初はカストロプ公達に廃棄予定の旧式兵器を横流しし、次いでそれだけでは飽きたらず接触してきた同盟のエージェントに軍の機密情報を売り払うようになった。その中には第二次イゼルローン要塞攻防戦の作戦立案の前提となる要塞の主砲射程や内部構造に関する内容も含まれていた。

 

 同盟軍の作戦自体は不発に終わったものの、帝国軍は同盟がどのようなルートから情報を獲得したのか調べ抜いたし、幾人かいた情報提供者の中で最も警戒感が薄く、短絡的であった子爵が最初に機密漏洩をした事を知られるのは当然の事だった。

 

 慌てて屋敷内の宝石類をかき集め、妻と幼い娘だけ連れて亡命を図った子爵はある意味では悪運は強かったのかも知れない。

 

 愚かな子爵の事である、罪の軽減のためにカストロプ公への兵器の横流しの事を自供するかも知れず、カストロプ公に雇われた幾人かの暗殺者が亡命先で待ち構えていたのだが……当の子爵はフェザーン商人に騙され財産の大半を失い『裏街』に流れる事になり、この暗殺は空振りに終わる。

 

「分かっているわよ。あの大馬鹿者の愚図はどうしようもない奴だって事位ね。けど母さんはそんな屑でも愛してたみたいだし?余り罵倒したら母さんが悲しむわ」

 

 心底不本意そうな表情で溜め息をつくと「昔話なんて止めてさっさと行きましょう?」と言い捨てて鉱山の方に向かう少女。

 

「………」

 

 その気性に比べて遥かに小さな背中を見据えながらルビンスキーは昔の記憶を思い浮かべる。

 

 無謀な起業やギャンブルに明け暮れて、遂に愛想を尽かした少女の母がすやすやと眠る幼子を抱えて彼と彼の最初の妻が住むぼろ屋敷に夜逃げして来た日の事を。

 

 半泣きの男が追いかけて必死に土下座していたのをルビンスキーは覚えていた。妻と共に彼らの子供を預かる間、外からは女性のヒステリック気味な怒鳴り声とあたふたと恐れおののきながら謝罪する情けない没落貴族の泣き声が漏れ聞こえていた。当事者でなくてもその声には思わずうち震えたものだ。

 

 和解して、漸く真面目に働くようになった男は、しかし全てが手遅れだった。男は突如失踪した。カストロプ公の追っ手に見つかったからだ。

 

 和解した妻と幼い娘は連れていかなかった。間違いなく逃げ切れないし、寧ろ連れて行く方が家族を危険な目に遭わせる事を知っていたから。ルビンスキーが最後に彼と話したのは電話越しの事だった。震える声で彼は彼の知る秘密を伝え、そして懇願された。彼の家族の事を。

 

 彼の死体が見つかったのは数日後の事だ。『裏街』で死体が出るのは良くある事だ。そして、失踪も。

 

「知らない方が幸せな事もあるからな」

「?何か言った?」

「いや、お前が気にするような事ではないさ」

 

 黒狐は不敵に笑い、少女を追い抜いていった。

 

 

 

 

「げっ!?どうしてお前がここに!?」

「誰がお前じゃこらっ!!アイリス姉さんとお呼び!!」

 

 鉱夫としての仕事の合間、休憩室で古びた参考書を熟読していたその少年が血の繋がらない姉と近所の幼馴染みを兼ねていたその少女の存在に気付いたのは、文字通り彼女が目の前に来た時の事だった。

 

 同時に肉食獣のような加虐的な笑みを浮かべたアイリスはそのまま年下の幼馴染みに抱き着き……その首を締め上げる。

 

「うぎゃああああっ!!?」

 

 少年は喉から凄まじい悲鳴を上げる。一見すればか弱い少女のか細い腕による締め付けである。その反応は周囲で唖然とした表情で見やる鉱夫達にとっても大袈裟に見えただろう。

 

 だがそこはその常人には有り得ない天然の蒼い髪からも分かるように、シリウス戦役時代に調整された強化人間の先祖返りである。その上『裏街』で幼い頃から肉体労働に従事している身である。その締め付ける筋力は下手な男以上だ。

 

 ましてや近所の子供と喧嘩する度にこてんぱんにやられ、その度に大泣きして姉代わりの幼馴染みに助け出された少年が勝てる道理なぞない。

 

「な、何でお前が……痛たたたたっ!?」

 

 そう叫べば更にきつく締め付けられる少年である。

 

「だ・か・ら!!誰がお前だ泣き虫ハロルド?あんたいつから私をそんなぞんざいに呼べる位偉くなったのかしら、ええ?おらおら!謝罪する時の言葉位覚えているでしょう?」

 

 意地悪そうに、楽しそうに、そしてどこか懐かしそうに宣うアイリス。そろそろ窒息しそうな少年は若干白目を剥きながら観念したように叫ぶ。

 

「わ、分かった!アイリス姉さん!いや御姉様!俺がっ!俺が悪かったですっ!!マジ許して下さい!!」

 

 懇願するように叫ぶ少年に少女は一旦その腕の力を緩める。そして目があった少年に向けて爽やかな笑顔。青ざめる少年。それが少女の処刑執行前の合図だと、彼はこれまでの経験から知っていた。

 

「何の断りもなく養ってやってる保護者の所から離れて偉そうに言ってんじゃないわよ!!この大馬鹿野郎がっ!!」

「うおおおっ!!?ぐえっ!!?」

 

 腰を掴み、大声で叫びながら少女は少年にジャーマンスープレックスを食らわせた。打ち込みは完璧だった。屠殺される鶏のような悲鳴を上げる少年。

 

「ふー、すっきりした」

 

 完全に戦闘不能になっている少年を投げ捨てて風呂上がりのような笑みを浮かべアイリスは額の汗を拭う。何故か周囲でそれを見ていた鉱夫達は思わずプロレス観戦をする観客のように拍手する。ルビンスキーだけが髪が壊滅している頭を抱えて唸り声を上げていた。当然ながらそれは日々行っている育毛が上手く実を結ばないためではない。

 

「済まない、この小僧を少し借り受けたい」

 

 ルビンスキーは年長の鉱夫達に自身の立場を伝えそう申し入れる。当然ながら拒否される事はなかった。

 

 鉱山の離れに引き摺られた少年が目覚めたのはそれから凡そ十分程が経過した頃の事だった。

 

「うぐっ……!?ね、姉さん、流石に野外であれはないって……痛てて……マジであれは死ぬか……」

「久しいな、ハロルド?いや、ルパートと呼ぶべきかな?」

「っ!!?貴様っ!!?どうしてここに!?」

 

 その声に反応して振り向いた少年の視界に禿頭の異形の男が映りこむ。同時に少年は目を見開き、その表情は怒りと敵意に満ちる。今にも目の前の男を殺さんばかりであった。

 

「貴様……貴様あぁぁ「五月蝿いわよ、ハロルド」ぎゃっ!!?」

 

 今にも黒狐に襲いかかろうとする少年をの後頭部を、手慣れたように遠慮なしに容赦なく殴り付けるアイリス。再び悲鳴を上げて後頭部を抑えながら蹲るハロルドと呼ばれる少年。

 

「やれやれ、その様子だとまだまだその娘には頭が上がらないと見えるな」

 

 その様子を見ていたルビンスキーは、息子がその本質は最後に会った頃と変わっていない事を見抜き、呆れ気味に首を振る。

 

「うぐっ……!!それがどうしたっ!!?貴様、よくもぬけぬけと俺の前に現れてくれたなっ!殺してやる!!今すぐに殺してやる!!」

 

 憎悪しかない視線で実の父を睨み付ける少年。鉱山での登録名は『ルパート・ケッセルリンク』であるが、当然ながらそれは偽名である事をルビンスキーも、アイリスも知っていた。『裏街』の住民には戸籍がなければ住民票もない。それ故に名前程度いくらでも自称出来るし、それを確認する術なぞなかった。とは言え……。

 

「甘いな。俺を狙うなら当然ながら同じように自治領主府に出世せざるを得まい。となれば勉学に打ち込むのは必然だ。『裏街』出身かつ年齢が合う勉学家ともなれば調べ出すのは簡単だったぞ?」

 

 本人は偽名でバレないと思ったかも知れないがまだまだ詰めが甘いな、とルビンスキーは内心で息子を採点する。

 

「貴様ああぁぁぁ!!「だから静かにしなさいな!」うぎゃ!?」

 

 再度アイリスにより後頭部にチョップを食らい蹲る息子に溜め息をつく黒狐。

 

「はぁ、全く興奮したら視野狭窄になるのはあの女そっくりだな。怒るのは構わんが、何故私がお前に会いに来たのか、そして彼女がここにいるのか位考えたらどうなんだ?」

「っ……!?」

 

 苦々しげに父を睨む男はしかし、その指摘を受けてはっ、と幼馴染みを見る。幼馴染みは肩を竦めて呆れたように深い溜め息を吐き……彼の言葉に答える。

 

「私から御願いしたのよ。最後にあんたに会いたいってね」

 

 何処か寂しげな表情を浮かべる姉でもある幼馴染み、その表情に言葉を失い、次いで尋ねるように父を見やる少年。

 

「そうだ。彼女を連れて行きたいと申し出ているさる高貴なお方がいてな。彼女自身はお前がいつか帰って来る時に備えて期限を引き伸ばして誤魔化していたが……遂に観念せざるを得なくなったのだよ。それで彼女の回収を仰せつかった私が同時にその願いを叶えるためにお前の所に現れた訳だ」

 

 ルビンスキーはアイリスの態度から何を望んでいるのかを察し、それに乗る事にした。何処か芝居がかった口調でルビンスキーはある亡命貴族が彼女の血筋を知り、自身の手込めにするためにあの手この手で彼女を追い詰めている事を伝える。

 

「馬鹿なっ!!?そんな……!?」

「おや、随分と驚いているじゃないかハロルド?お前、まさか彼女を一人置いていって何の危険もなく生きていけるとでも思っていたのか?」

 

 ルビンスキーは虐めるように尋ねる。実際、この馬鹿息子は母親が病死した後、恩義もある幼馴染みに何も言わずに父に復讐するために飛び出してしまったのだ。あるいは自身が成り上がった後に迎えにいく積もりだったのかも知れないが……その意志をいつまでも変えずにいられるかは分からないし、どちらにしろアイリスにとってそれは裏切りであっただろう。ルビンスキーはその事についても追及し、その度に息子は屈辱に顔を俯かせる。

 

「ね、姉さん……お、俺は別にあんたを捨ててなんて考えて……」

「お前がどう思おうが構わんが、結果としては折角自腹を切って養っていた貴様が何の前触れもなくいなくなったのは事実だ。しかも家出したきり一度も顔を出していないらしいな?だから彼女がどういう状況にいたのかも分からないのだよ。ふっ、お前は私に良く似ているな?」

 

 愉快そうに黒狐が挑発すれば悔しげに歯を食い縛る少年。そしてそのままアイリスの方を向く。アイリスの方は自嘲気味に笑みを浮かべる。

 

「あんたが何を目的にしてるかは知ってたわ。ルシア姉さんは良い人だったし、それを見捨てたそいつに復讐したいってのも分かりはするのよ。だから色々誤魔化して来たけど……駄目みたいなの。あんたの帰る場所はもう守れないみたい」

 

 心底済まなそうに答えるアイリスに少年は困惑し、次いで慌てながら口を開く。

 

「そ、そんな事……!姉さん、だったらこの鉱山に隠れてくれよ!!め、飯なら俺が稼ぐよ!ほら、ここは結構給金も良いんだ!姉さんみたいな少食なら一人位養え……」

「駄目よ。どうせ気付かれるわ。そうなったらあんたの命まで危険に晒されるわ」

「そんな……!!?」

 

 幼馴染みからの無慈悲な宣告に絶望する少年。

 

「言った筈だ。彼女を要求して来たのは高貴な亡命貴族様だとな。貴様程度の力と浅知恵では時間稼ぎにもならん。だからせめて最後にお前に会いに来たんだ」

 

 父の言葉に青ざめる少年。いきなりどうしようもない宣告を受けて混乱しているようだった。

 

「そんな……俺はただ……」

「ハロルド」

 

 アイリスのその言葉に、少年はびくっと怯える。叱られると思ったからだった。だがそれは違った。アイリスは彼のこれまで見たことのない穏やかな表情を浮かべていた。そして続ける。

 

「私も、あんたを少し縛り過ぎたとは思って反省しているわ。だから今回の事は別に気にしなくてもいいわよ」 

「で、でも……!」

「でも、じゃないわよ!もう、子供じゃないんだからそんな言い訳染みた言い方止めなさい!」

「うっ……」

 

 母親が子供を叱りつけるようにアイリスは宣った。そして、優しげに、そして何処か幼い笑みを浮かべて注意する。

 

「あんたが一人立ちするのは構わないわ。けどね、これだけは注意するわよ?ちゃんと朝は一人で起きなさいよ?」

「……あぁ」

 

 アイリスの言葉に悔しげに、そして寂しげに答える少年。

 

「朝ごはんは時間がなくても食べなさい」

「あぁ」

「朝家を出る時はこけないように注意よ?」

「あぁ」

「仕事は途中で小まめに水を飲みなさい!」

「あ、あぁ……」

「お昼ご飯は抜かない!」

「あ、うん………」

 

 これだけ、といいつつ五月蝿い母親のように三十近くの注意を次々と指摘するアイリス。流石に少年も途中から注意が多すぎて少し歯切れが悪くなる。

 

「それと……あら、もう来たのね。早いわ」

 

 最後の注意を言おうとすると背後から数台の地上車がやって来るのが見えた。振り向いてそれを見ながら寂しげな表情を浮かべるアイリス。少しげんなりしていた少年も、そこで漸く現実に引き戻される。

 

 地上車が停まり、中から数名の武装した傭兵達が出迎えるように降りる。それを見て、今更のように少年は事の重要性を理解した。アイリスは再度少年の方を向き、そして笑みを浮かべた。

 

「じゃあ最後よ。お腹が冷えないように、寝る時はちゃんと服を着なさい。ハロルド、元気でね?あんたの無事な姿見られて嬉しかったわ」

「姉さん……!!」

 

 駆け寄ろうとした少年を止めたのはアイリスの盾のように現れた傭兵達と、少年の肩を掴んだ黒狐の腕力だった。再度、少年は少女を呼ぶ。しかし、アイリスは二度と振り向く事はなく、一言も口にせずに地上車に乗りこんでいった。

 

「私も見届け人として着いていく事になる。私もお前とはおさらばだ」

 

 ルビンスキーの言葉に、しかし少年は殆ど関心を示さなかった。彼の視線は幼馴染みの乗り込んだ地上車にだけ向いていたから。

 

「……取り返したいか?」

「………」

 

 ルビンスキーのその言葉に、無言で少年は振り向いた。

 

「ふっ、言っておくが、私は取り返すための手は貸さんぞ?それに私とてどうにか出来る力がある訳ではない。だが……貴様が彼女を救うための力、それを手に入れるための指導ならしてやれる」

 

 その言葉に目を見開いて驚く少年。

 

「そう驚く事はあるまい。交換条件さ。お前が力を得るための援助をしてやる。代わりに貴様は私の栄達に協力しろ。ギブアンドテイクだ。簡単だろう?」

 

 意地悪な笑みを浮かべるルビンスキーに、ぎっ、と奥歯を噛み締め悔しそうにする少年。だが、それに何の意味もない。今の少年は余りに無力過ぎた。

 

「ふん。貴様が私を恨んでいるのは知っている。だが、それがどうした?貴様はその程度の男か?私を追い落としたいのだろう?そして彼女も救いたい筈だ。だったら話は簡単だ。今だけは私と組め」

 

 ルビンスキーは実の息子に契約を持ち掛ける。すっ、と腕を差し出す黒狐。

 

「貴様が真に血反吐を吐いてでも目的を達成する覚悟があるのなら私の腕を取れ。詰まらんプライドが大事ならば好きにするが良い。私もその程度のちんけな男に興味はない。二度と貴様に自ら会う事はあるまい」

 

 にやり、と相手を試すような不敵な微笑を浮かべる黒狐。それは普通ならば実の父が息子に向ける類いのものではない。

 

 だが、それでも未だ成人もしていない少年にとっては自身の野心と目標を遂げるための機会に他ならなかった。そして、この少年は父親と似てそのためならば手段も選ばない覚悟と冷徹さと、誇りを持っていた。

 

「良く選んだハロルド。いや、ルパート・ケッセルリンク。では行くとしようか、貴様程度の凡人でも肉食の獣になれるように、私が厳しく躾けてやろうじゃないか」

 

 自身の手を苦々しげに握る少年に向けて、アドリアン・ルビンスキーはそう力強く約束した。

 

 そして、同時に内心でこう考えてもいた。

 

(あの小娘、当て付けの積もりか?最後に馬鹿げた三文芝居なぞしよって)

 

 ユージーン&クルップス社が寄越した出迎えの地上車の中で、恐らくは小僧の反応に笑い転げているであろう少女の事を思いながら、ルビンスキーは息子にまずは相手の芝居を見抜く目を養わせようと決心した。

 

 

 

 

 尚、ハイネセンにて………。

 

「あら?貴女は誰かしら?……へぇ。婚約者なの?私?アイリス、アイリスディーナ・フォン・ナウガルトよ。貴女の婚約者に再興する家の後ろ楯を御願いしているの。……えぇ、確かにフェザーンでは『色々』とあったのだけれどね。まぁ、そういう事だから……どうぞ末永く宜しく御願いしますわね?」

「………」

(あ、死んだわこれ)

 

 宇宙港で心配そうに婚約者を出迎えたケッテラー伯爵家の娘がナウガルト家の少女に自己紹介された時、伯爵令嬢の瞳からハイライトが消えたのを、婚約者は見誤る事なく確信する事が出来た。




ケッテラー家とナウガルト家の関係は原作外伝で確認してね!

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