仮面の理   作:アルパカ度数38%

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1章5話

 

 

 

 フライパンの上で、ソーセージが焼けていく。

油が熱されるバチバチと言う美味そうな音がそこから溢れ、部屋中に響いた。

ぐぅうう、と、腹の音が一つ響き、リニスは思わずぷっ、と噴きだしてしまう。

 

「ウォルター、もうお腹が減ってきたんですか?」

「……まぁ、な。家で誰かの料理を待つのは初めてだし、胃が驚いているのかもな」

 

 と、難しい顔をした後、誤魔化せないと分かっているのだろう、ポリポリと頭を描きながら言うウォルター。

以外にもウォルターの家の冷蔵庫は品揃えがよく、ちょっと手抜きをしている主婦ぐらいの物が入っていた。

何でもウォルターいわく、ティルヴィングが健康管理について五月蝿いのだとか。

三食全部口を出されるのはいくらなんでも五月蝿くないか、と言うウォルターだったが、リニスは笑顔でティルヴィングの味方である事を伝えた。

ウォルターはがっくりと項垂れ、その様子はリニスの目には普段大人びているだけに子供っぽく見える。

中々に母性を刺激される光景だったが、段々子供扱いされると嫌そうな顔をするようになってきたウォルターの顔を立て、なんとか我慢する事にした。

ウォルターは確かにフェイトと一つしか違わない子供だが、同時にリニスを遥かに超える超常の魔導師であり、ともに闘う仲間でもあるのだ。

あまり子供扱いし過ぎるのも良くないだろう。

 

 静謐な部屋に、料理の音だけが寂しく響く。

そういえばクイントはどうしたのだろう、と部屋の方に目をやると、クイントはベッドの上で丸くなって寝ていた。

この中で最年長の彼女の無防備な姿に、思わずリニスは目を見開く。

 

「あら、クイントは寝てしまったのですか?」

「相当無理して休暇取ったみたいでな、疲れているんだろうよ。

夕食は取り分けておいて、後でレンジで温められるようにしてやっておいてくれ」

「はい、了解です」

 

 と言いつつ、リニスは手早く料理を作っていく。

できた料理を皿に取り分け、自分とウォルターの分だけ持って部屋に向かい、ウォルターに手伝ってもらって中央のテーブルに配膳する。

彩り豊かな食卓に満足した笑みを作ると、リニスはウォルターと共に夕食に取り掛かるのであった。

 

 パリッとしたソーセージやフカフカのポテト、バターの香りのするパン。

時折グラスの水でそれらを流し込みつつ、二人はゆっくりと食事を取る。

食事中の話は、専らリニスのフェイトの自慢話であった。

 

「と言う事で、魔法を習い始めてたった一年なのに、もうそろそろ学士レベルの勉強ができるようになっているんですよ、フェイトったら」

「へぇ、凄いなそいつは。俺は流石にまだ高等学校レベルだな」

 

 と、フェイトの優秀さを語る時もあれば、

 

「でしてね、フェイトったら目を瞑ったままシャワーノズルを探すことができなくって、一人じゃシャンプーできないんですよ。

何時も私やアルフに、手伝って、ってお願いしにくるんです。

可愛いでしょう?」

「あぁ……、なんだか分かる気がするな」

 

 と、フェイトの可愛らしい失敗を話す時もある。

そんな風に華やかな食事は過ぎていき、終わった。

食器を水につけておき、ウォルターと共にソファーに深く腰掛ける。

食後の緩やかな眠気と闘う時間であった。

普段のリニスであればフェイトに勉強を教える時間だ。

ならばウォルターにも勉強を教えてやってもいいのだが、一日だけとなると、正直出来る事など無い。

それに先ほどの戦闘で失態を犯してしまった手前、目上の者として振る舞うのに何となくバツが悪いのもあった。

自然、リニスの思考は先程の戦闘の事に傾く。

 

「……ウォルター」

「うん?」

「凄かったですよ」

 

 とリニスが言うと、男臭い笑みを浮かべるウォルター。

 

「まぁ、俺の戦闘能力は、自画自賛だがかなり高いからな。

ティグラとの戦いも二回目だ、慣れが少しは出てきたし、あれぐらいはできるさ」

「そうじゃなくって、ティグラを説得していた時のウォルターです」

「あぁ、あれか」

 

 と、ウォルターはバツの悪そうな表情になり、ポリポリと頭を掻きむしる。

何とも言えない渋い顔をして、視線を明後日にやりながらウォルターは言った。

 

「つっても結局説得できなかったからな、それほどでもないさ」

「いいえ、本当に凄かったですよ」

「…………」

 

 沈黙するウォルターから視線を外し、リニスもまた視線を泳がせる。

ソファーに沈んでしまいそうなぐらいに体重を預け、脱力するようにリニスは言った。

 

「本当に、凄かった……」

 

 ——それがまるで、自分に言われているかのように聞こえるぐらいに。

そんな言葉を噛み殺し、リニスは思考を過去に傾ける。

リニスは主プレシアに、その娘フェイトの世話と教育を任せる為に作られた使い魔である。

素体が山猫であるリニスは母性が強く、その愛情を全力を持ってフェイトに注ぎ込み、育ててきた。

けれどフェイトもまだ幼い子供。

母親の愛情を欲しており、リニスもまたフェイトには母の愛情が必要であると考えていた。

しかしプレシアは、フェイトに構って欲しいと言うリニスの言を、研究が忙しいの一言で何時も断っていた。

私には、時間がない。

病に侵されながらそう言うプレシアの鬼気迫る迫力に、リニスは渋々引き下がる毎日が続いた。

 

 しかしある日、リニスは見てはいけなかった物を見てしまう。

それは完全な状態で保存されたままの、プレシアの本当の娘アリシアの遺体。

それと同時に今まで切られていた精神リンクを一瞬だけ最大接続され、リニスは全てを知った。

フェイトがアリシアを生き返らせる為に作られた記憶転写クローンである事。

人格の転写には失敗し、プレシアはフェイトを失敗作とした事。

そしてプレシアが、フェイトを憎んですらいる事を。

 

 それ以来、リニスは主プレシアとフェイトとの間で、板挟みになる生活を送ってきた。

プレシアはアリシアの蘇生など出来るはずもあるまいし、フェイトは求めるプレシアからの愛情など決して手に入れる事はできないだろう。

二人ともが二人とも、幸せになどなれる筈も無いのだ。

だけどリニスはプレシアの使い魔で、フェイトの母親代わりなのである。

主の幸せを望むのは当然だし、娘のようなフェイトの幸せを願うのもまた同じ。

けれどリニスにできる事は、何もない。

プレシアに与えられたリニスの寿命はフェイトの教育が完了するまで。

せめてフェイトが真実を知る時まで一緒に居られれば何かできるかもしれないが、それは叶わぬ夢だった。

つい、最近までは。

 

 ムラマサ、生命力を奪い与えるロストロギア。

偶発的にリニスに回収の命が与えられたそのロストロギアだが、もしもそれが、プレシアの研究を完成させる事ができるならば。

例え失敗でも、プレシアがフェイトに真実を伝える時が来る可能性があるのならば。

自分は何もできないまま消え去るのではなく、二人の間で何かができるのではないだろうか。

それはリニスに生まれて初めて芽生えた、利己的な欲望であったと言っていい。

自分の限られた生の中で、フェイトに魔法を教えるだけでなく、少しでも意味有る事を残してやりたい。

当たり前のその気持ちが、リニスに芽生えて。

そして、木っ端微塵に掻き消えた。

 

 ティグラは強すぎた。

遠目に見ただけだが、明らかにリニスの力を遥かに超えた戦闘能力。

自動送還機能のみなら主を魔力封印すればムラマサのみを持ち出す事はできるが、もしプレシアに聞いたとおり自動転生機能を持っているのならば、主と共に捕らえなければならない。

加えて更に、ティグラにはもう一人リニスより格上のナンバー12が控えている。

リニス単独では到底攻略不可能だし、ウォルターとクイントの力を借りて打倒しても、今度はウォルターとクイントを倒さねばならなくなる。

もし奇跡的に消耗が噛み合い二人を倒す事ができたとしても、今度はリニスは管理局に表裏両方から追われる身となるのだ。

例えプレシアにムラマサを渡す事ができたとしても、テスタロッサ一家共々追われる身になるのでは意味がない。

表だけならフェイトが保護を望める可能性があるだけいいが、裏からも追われるとなれば、そんな可能性はまず無いだろう。

今ここに居るのも、ウォルターを放っておけないのと、一人で離れればティグラらに狙い撃ちされて死ぬと言う消極的理由からだけ。

 

 ティグラを説得するウォルターの言葉を聞いたのは、そんな風に諦めが心を覆い始めてからであった。

——どんなに諦めたくなるぐらいの苦境でも、乗り切る道は必ずある!

まるで心の奥にある扉が開け放たれるような、圧倒的感覚だった。

胸の奥に吹き荒れる風が飛び込み、漂っていた紫煙が吹き飛ばされたかのように爽やかな気分になる。

——諦めるな、目を逸らさず、自分の人生に目を向けろ!

目の前の霧が晴れ、視野がまるでパノラマのように広がった。

心の奥に火種が灯り、それが風を取り込みすぐさま成長していくのが分かるようであった。

——俺を信じろ、必ずそれはできる!

涙が滲むほどに、リニスは胸の奥が熱くなるのを感じた。

目頭が熱く、こんなにも心が燃え盛っているのだから。

 

 ウォルターの言葉は凄まじい熱量を含んでいた。

それは事実だろう。

が、同じく聞こえていた筈のクイントがリニスほど感動していなかったのを見ると、リニスにも原因があったのは確かだ。

恐らく、とリニスは思う。

恐らく自分は、大人な人格に比して経験の少ない使い魔なのだろう。

故に知識ではなく肌で感じなければ分からない、ウォルターの持つ精神を熱くさせる何かに強く影響されたのだ。

 

「ウォルターは、本当に凄いですよ」

 

 再び言うと、リニスはウォルターにもたれかかった。

肩の上に頭を置き、ウォルターの手を両手で包み込むように持つ。

少し驚いたような表情をしたウォルターは、すぐさまリニスを何時ものあの強く光る瞳で見据えた。

息がかかりそうなぐらい間近で、ウォルターの目が見える。

 

 自らの経験の少なさを思い知ったリニスは、自分の出した答えの正しさを信じられなくなっていた。

私はフェイトに魔法を教える事を通して強い心を持たせる事しかできない。

その筈だった。

その答えはムラマサと言う希望に容易く揺らぎ、そして希望を無くしまた縋りつく先となった。

そんな風にフラフラしている自分が、情けなくて悔しかった。

ウォルターのように、揺るぎない信念を持つ事ができれば。

そんな気持ちを乗せて、リニスは口を開く。

 

「どうしたって両立できない事があった時、貴方はどうするのですか? ウォルター」

 

 思わず、そんな言葉が口をついて出た。

流石にいきなり過ぎたのだろう、目を瞬き、ウォルターは返事をする。

 

「えーと、もうちょっと具体的に、どういう事なんだ?」

「……片方が愛していて、もう片方が憎んでいる、そんな関係の二人をどうにかして、二人で二人ともを幸せにできないでしょうか」

 

 瞑目し、ウォルターは暫しの間考えこむ。

リニスは経験によってしか得られない、表現しようのない何かを持っていない。

だからそれを持っているウォルターならば、リニスには得られないような答えが返ってくるのではないか。

勝手な期待だけれども、内心縋るような気持ちでリニスは問うたのだ。

しかし、答えは簡潔だった。

 

「もし本当にその通りなら、無理だな」

 

 リニスは、体が凍りつくような錯覚を覚えた。

思わずウォルターの手を持つ両手から力が抜けていき、だらりと垂れ下がるのが分かる。

そんなリニスに、垂れ下がった手をガッシリと握りしめ、ウォルターは再び視線を向けた。

どくん、とリニスの心臓が跳ね上がる。

 

「だけど、本当にそうなのか?」

 

 あの時と同じ、体が燃え上がるような瞳だった。

弱さの欠片も感じさせず、胸の奥が理由無しに熱くなる視線。

 

「憎んでいる側は、本当にもう片方の事を憎んでいるだけなのか?

憎しみの中に他の感情が入り交じっている事は無いのか?」

「それは——」

 

 あの日、プレシアが一瞬だけ精神リンクを最大にした時以来、リニスはプレシアとの精神リンクを繋がれた事は無かった。

それを考えれば、一瞬だけだったのでその感情を見失った可能性は——。

そんな風に考えこむリニスに、ウォルターは続ける。

 

「憎しみは強い感情だから、他の感情が入り交じっていてもかき消してしまっていて、一見分からないようになっているかもしれないだろ?」

「……そうかも、しれません」

 

 思わずリニスは呟いた。

確かにプレシアのフェイトへの感情は憎しみで塗りつぶされていて、他の感情があったとしても見えなかったかもしれない。

それも長時間プレシアとの精神リンクを繋げていれば分かったかもしれないが、プレシアはそれを良しとしないだろう。

もしもフェイトに対し憎しみ以外の感情を僅かでも持っていたのなら、尚更、それに気づかないために。

 

 そういえば、とリニスは古い記憶を呼び覚ました。

リニスが真実を知った後、一度だけプレシアにフェイトに愛情を分けてやってほしいと言った事があった。

その時プレシアは何と言っただろうか。

アリシアを愛する為だった時間をフェイトの為なんかに使いたくない、とそう言っていただけなのだ。

フェイトの事を嫌っていると、そう匂わせる言葉は何度も吐いた。

だがフェイトの事が嫌いだなどとは、直接口に出しては一言も言った事が無かったのだ。

 

「もし、そうだとしたら」

 

 と、ウォルターは言う。

 

「もしそうだとしたら、誰かがそいつに自分が憎しみ以外の感情を持っている事を、教えてやらなきゃならない。

その近くに居る、三人目の誰かがな」

 

 燃えるような視線が、リニスを突き刺した。

腹腔で燃え上がる炎が、勢いを増すのが分かる。

 

「その三人目に会えたら、言ってやるさ」

 

 言って、ウォルターは手を天に向けて伸ばした。

震えるほどに力を込めて、それを眼前にまで下ろし——、握り締める。

爪が皮膚に食い込み、血が滲む程に力を込めて。

 

「求める物が手に入るまで、決して諦めるな、ってな」

「……っ!」

 

 思わず、リニスはギュッとウォルターの手を握り返した。

体を起こし、しっかりとウォルターの瞳を見据える。

リニスは不思議な感動を覚えた。

これまでのウォルターの言葉が持つ熱さだけでなく、それ以上の何か……、何かとしか言い様のない何かが、リニスの心を刺激したのだ。

 

 リニスは、自分には時間が無いと思っていた。

フェイトの教育は予想以上に上手く行き、後数ヶ月でフェイトは魔導師として一先ずの完成をするだろう。

リニスの寿命はそれまでだ。

それだけの時間では、自分にできる事は少ない。

それにリニスは存在しているだけでプレシアの魔力に負担をかけ、ただでさえ病に侵されたプレシアの体調を悪くしている。

消える事も悪いだけの事ではないのだ、と思っていた。

 

 けれど、だけれども。

なんだろう、この体に湧く活力は。

隠している尻尾がピン、と真っ直ぐに張り詰めるのを感じ、リニスは残る片手で自身を抱きしめる。

まるで何でもできそうな、全能感とさえ言っていい感覚がリニスの中を暴れまわっていた。

 

 できる。

何の根拠もない確信が、リニスの中にはできつつあった。

プレシアとフェイトを、二人とも幸せにしてみせる。

そしてそれはできる、必ずやってみせる。

体に渦巻く煌きが、リニスの心に力を与える。

 

「それでももし、力足りず、求める物を手に入れる事ができなくなりそうだったら——」

 

 そんなリニスに、ウォルターは齢7つにして男らしい笑みを浮かべ、言ってみせた。

 

「リニス。俺に、助けを呼んでくれ。——絶対に、駆けつけてみせるから」

「……はいっ!」

 

 ぎう、っと。

両手でウォルターの手を抱きしめつつ、リニスは満面の笑みで答えた。

するとウォルターから出ていた威圧感のような物が消え、表情は少しだけ照れを含んだ笑みに戻る。

少しだけ子供らしさを取り戻したウォルターに、そういえば、と唐突にリニスは思った。

そういえば、リニスはまだ、自分が使い魔である事をウォルターに告げていないのだ。

勿論外で知られる主の名までは此処で明かす事はできないが、これだけ親身に相談に乗ってくれたウォルターに、なるべく隠し事はしたくない。

それにしても、ウォルターはどれだけ驚くだろうか、と内心で少し悪戯心を持ちながらも、リニスは口を開く。

その心からは、先ほどまであった倦怠感は欠片も残さず消え去っているのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 数時間後。

夜半、交代だと言う声で起きたクイントは、リニスと交代で起きる事となった。

それから時間帯的に夜食となってしまった夕食を食べ、何ともなしにソファーに腰掛け時間を過ごしている。

 

 ウォルターとの会話は、不思議と無かった。

静かな空間だが、実年齢7歳のウォルターに眠ってしまいそうな様子は無い。

ウォルターは、明日使う予定なのだろう新魔法の最終確認を行なっているようである。

話しかければ答えてくれるのだろうが、何となくそれも気が引けて、クイントは一人漫然と時間を過ごしていた。

そうしていると、先の戦いを終える時、自分が何を気にしているのか分かった経験から、その事ばかり頭の中に浮かんでくる。

思考がネガティブになっていくのを感じ、クイントはため息混じりに立ち上がった。

 

 額に手をやり髪を掻き上げながら、台所へ向かう。

暖かな冷蔵庫の天板に体重をかけ、片手で冷蔵庫を開閉し、ミネラルウォーターをボトルから直に飲む。

数度喉を鳴らすと、クイントは何ともなしにシンクの辺りまで進み、寄りかかった。

壁紙が外れかかった壁が視界を占拠する。

 

「はぁ……」

「どうした、なんか気になる事でもあるのか?」

「うわっ!」

 

 と思わずクイントが飛び上がり、勢い良く視線を横に向ける。

するとそこにはウォルターがクイントと同じようにキッチンに腰掛け、こちらを何時もの鋭い目で見ていた。

ウォルターは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し口を開け、数口飲むとまた冷蔵庫に戻す。

それから再び視線をクイントに。

まるで映した物全てを燃やし尽くすような灼熱の視線に、クイントは僅かにたじろいだ。

それをどうとったのか、ウォルターは腕組みしながら問う。

 

「俺みたいなガキにでも、話すだけなら無料さ。

それだけでも結構気持ちがスッキリするもんだぜ?」

「君、年齢詐称してないわよね……」

 

 呆れてクイントはぼやきつつ、視線を壁に戻してから、すっと上のほうを見やる。

そこには壁と天井の境目があるだけだったが、クイントの内心はそれを超えて遠くにある内心の情景を映し出していた。

しかしそれは、数日前に会ったばかりの子供に相談するには重すぎる内容だ。

代わりとばかりに、自然に思い浮かんでくる言葉をクイントは口にする。

 

「いや、ウォルター君みたいな小さい子が大人びなくっちゃいけない社会が、どうもね……」

「……そうか?」

 

 ウォルターの疑問詞には、単純な疑問以外にも、本当にその内容なのか? と言う疑問が詰まっているかのように思えた。

誤魔化すように笑みを作り、クイントは続ける。

 

「私、何でだか、子供には子供らしくして欲しい、って思っているのよ。

私が子供だった頃はとにかく大人扱いして欲しかった記憶があるけれど、立場が変われば思いも変わるもんなのよね」

「ふぅん。立場って大人になった事か? それとも他の事?」

 

 虚を突かれ、クイントは思わず目を見開いた。

バッ、とウォルターに体を向けると、微動だにせずウォルターはあの炎の視線でクイントを見ている。

しかし今のウォルターの視線には、あの他者の心を燃え上がらせるような成分だけではなく、他の何かが含まれているような気がした。

自信、だろうか?

クイントの思考は直感的にそう思ったが、しかし元々ウォルターは自信が服を着て歩いているような男だ、違うような気もする。

何にせよ、何と言うべきか、ウォルターの瞳はまるでクイントの全てを見通すような不思議な輝きを宿していた。

 

「……そうね、他の事よ」

 

 気づけばクイントは、本音を口にしていた。

一度言葉にしてしまうと、雪崩のように次々と言葉が口をついて出る。

 

「最近ね、検査で私は後天的に子供ができない体質だって分かったの」

「…………」

 

 もしかしたら動揺されるかな、とクイントの脳裏を小さな不安が過ぎったが、ウォルターは軽く眉を上げただけで、動じる様子は無かった。

かと言って無関心と言う訳でもなく、何よりもクイントの事を労っている事が伝わってくる。

それに安堵し、クイントは続きを口にした。

 

「夫にその事は話して、理解してもらったけれど、何処か夫も寂しそうにしているように感じちゃってね。

ううん、当たり前なんだけれど。

それまでもそうだったけれど、それからは特にかな、子供に子供らしくして欲しいな、って思うようになったの。

もしかしたら、自分の子供に優しくする筈だった分の優しさを、他の子に分けたいと思っているのかもしれない」

「……それで、か」

 

 クイントは静かに首肯した。

流石にウォルターには話せないが、他にももっと醜い事だって考えている。

ウォルターに対する対応を思い出すと、クイントは明らかにリニスに母性で劣っているように思えるのだ。

クイントはウォルターを、一人の人間として認め捜査に加えた。

リニスも利用する相手としてウォルターを認めたが、同時にまだ子供であるウォルターを慮っている部分が強く認められるような気がするのだ。

事実、トレーサーをつけたウォルターへの労りとして、クイントは肩を叩こうとし、リニスはウォルターを抱きしめ撫でた。

それが子供のような存在を持つリニスと、子供を持たない、持つことのできないクイントとの徹底的な差に思えたのだ。

それ故にクイントは、リニスに嫉妬していた。

それを柔らかく言い換え、クイントは言う。

 

「それでも本当に子供を持っている人には、母性で及ばないような気がしてね。

うん、でもそっか……、そうね。

私は優しさを他の子に分けたいんじゃあない。

他の子を自分の子にしてしまいたかったんだわ」

 

 それでも口にしてみると、それが本当に自分の考えなのかどうかが本能的に分かり、答えが見えてくる。

分かっている事ではあったが、ウォルターの言うとおり、話すだけでも気持ちは整理されるものだ。

こんな簡単な事を忘れちゃってたんだな、と思いつつ、ウォルターに視線を向ける。

その顔には、やんわりと困ったような表情が浮かんでいた。

 

「流石に、子供が作れる云々はまだ分からないけど」

 

 と、ウォルターは切りだす。

 

「だけど俺には、自分の信念を貫き通す為に、歩まなければならない道がある。

だから俺がクイントさんの子供の代わりになるって事は、できない」

 

 言われて、クイントは初めて自分がこの子供を自分の子供としたい、と思っていた事に気づいた。

それは勿論自分で気付けないぐらい小さい気持ちだったけれども、確かにあった気持ちなのだ。

それが否定される物悲しさと、クイント自身よりもクイントの事を分かってくれるウォルターへの暖かな気持ちが、入り混じる。

 

「けれど、それがあんたに子供ができないって事と、イコールじゃあない」

 

 クイントとウォルターの視線が、合った。

あの腹腔が燃え盛るような感覚が、クイントを襲う。

 

「何時か誰か、クイントさんの手を必要としていて、クイントさんが子供にしたいって思える相手に出会える」

 

 暗雲を吹き飛ばすような、パワーのある言葉だった。

クイントの嫉妬は消えないけれども、それを土壌として育っていた暗い感情は、ウォルターの言葉に吹き飛ばされてしまった。

 

「諦めなければ、必ずその時は来る」

 

 全身からぶわっと汗が出てくるかのようで、思わずクイントは自身を抱きしめた。

何の根拠もない言葉だ。

言葉面は平凡、医者や同僚や、それどころか街を歩いている赤の他人にでも言える言葉だろう。

だがウォルターの言葉は、不思議と説得力のある言葉であった。

何の慰めにもならない普通の言葉な筈なのに、クイントはその言葉に不思議と慰められた。

 

「ま、折角この気持ちに気づいたんだ、旦那さんとよく話しておくんだな。

そういう子の中で、家族になりたい、と思う子と出会った時の為に」

 

 と言うと、ウォルターは視線を冷蔵庫にやる。

再びミネラルウォーターを取り出し、数口飲むと、ボトルをしまった。

ウォルターの発する威圧感が消え去り、ふぅ、とクイントは内心ため息をつく。

確かに見つけたこの気持ちについて、夫とは話しておくべきだろう。

そう思ってから、10歳以上も違う子供に慰められてしまった事に気づき、クイントは小さく苦笑した。

 

「本当にあと10年若くて夫と出会っていなければ、君に惚れてたかもね」

「そりゃ光栄だ」

 

 肩をすくめるウォルターに、虚を突かれてクイントは目を瞬いた。

それからニッコリと、とびっきりの笑顔を作ってみせたのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 僕は、絶好調だった。

何時もは他人と話す前に何度も自分の言葉を確認しなきゃいけないし、それにマルチタスクだって使っている。

自分の姿が何かおかしくないだろうか、気になって仕方がない。

もしかして今の自分は何かを間違っているのでは、と思うと、その場でうずくまって泣きたい気分に襲われる事もしばしばだ。

 

 だけどあの時、ティグラにほんの少しでも僕の紛い物の言葉が届いた瞬間からは、違った。

言葉を吐く時、僕は何時もその責任に震えて泣きそうだけれども、今は強がりながらも辛うじて内心で震えずに言えている。

誰かの相談に乗るなんて初めてだったけれど、僕の言葉や態度が持つ重さに辛うじてとはいえ耐え切り、リニスさんとクイントさんを明るい表情にできた。

それは勿論失敗した僕に気を遣っての演技なのかもしれないけれど、最低限その演技はできるぐらいには心が軽くなった、と言う事なのだろう。

何時もの僕ならそれに落ち込んでばかりだけれど、今は次に備えてもっと確りするようにしよう、とすら思える。

 

 今なら僕は、ティグラに勝てる。

何の根拠もない確信だけれど、そんな確信が僕の心の中にはあった。

二度戦ってどちらも逃げられてしまったけれど、次こそは必ず勝ってみせる。

その後僕は、どうなるのか分からない。

ひょっとして管理局の裏側に関わり、二度と光のある世界に出てこられないまま一生を終えてしまうかもしれない。

それでもいいとまでは、僕には思えなかった。

幼い僕には漠然とした想像の世界でしか無いけれど、そんな一生は怖くてたまらなくて、想像するだけで足が震えてきそうになる。

 

 それでも、僕はティグラを止める事を辞めようとは思えない。

UD-182に誓った事だけでなく、僕はティグラにも、僕を信じろ、必ずそれはできる、と言ったのだ。

その言葉の責任は重く、今にも僕は潰れてしまいそうだったけれど、それでも言わなかったほうが良かったなんて少しも思わない。

ただその責任の重さを噛み締めて、やってみせると内心の炎に力を込めるばかりだった。

 

 あれから夜が明けるまで、僕ら三人は一人づつ眠った。

僕は順番にリニスさんとクイントさんから相談を受け、最後に僕が眠った。

直前のクイントさんの相談の内容からして、クイントさんとリニスさんと二人きりにする事に不安が無い訳ではなかった。

けれど眠らないわけにもいかず、せめて心配の声だけかけてから僕は眠ったのだけれど。

朝起きたら、何故か二人はものすごく距離が近くなっていた。

一体何を話していたのかと聞いたけれども、女の子の秘密よ、と二人して閉じた唇に人差し指を立て、ウインクまでされてしまった。

となれば追求する訳にもいかず、僕は後ろ髪をひかれる思いで追求を断ち切る事にする。

 

 さて、僕のトレーサーはほぼ丸一日持つと思われ、相手のトレーサーはそれ以上持つと思われる。

とすれば、決戦はティグラの忍耐が切れて僕らが待ちぶせしている所に来るか、僕らのトレーサーが切れそうになって相手の待ちぶせている所に行くかだ。

しかし前者であっても、ティグラが元々夕方以降に活動していた事から、夕方以降になるだろうと僕ら三人の意見は一致した。

となると、朝起きてからかなりの時間ができる。

僕らは午前中を作戦会議に使い、それぞれの手の内をある程度明かした。

一度逃げられてしまったのが効いたのだろう、作戦会議は順調に進み、終わった。

そして当然だが、待ち伏せに適した場所を見つけるよりも先に、昼食を取る事になる。

僕はクイントさんに任せたかったのだが、何故だか話の流れで僕が食事処を案内する事になった。

となると僕が知る外食の場所でパッと思い浮かぶ所など、一つしか無い訳で。

 

「一昨日もあそこでしたし、味は……それほどでも無かったんですけど」

「っていうか、微妙なんだけどなぁ」

「まぁいいじゃない、ウォルター君の言う情報屋にも会ってみたかったのよ」

 

 という訳で、僕らはラーメン屋の屋台へ向かって歩いていた。

繁華街の外れにあるそこに近づくに連れ、ラーメンのスープの良い匂いがして……こない。

代わりに嗅ぎ覚えのある、不思議な匂い。

どうしたのだろう、と首をかしげつつ僕らは進んでいく。

 

「ああ、っていうか此処なら、私同僚に連れていかれて一度来た事あるかも」

「げっ、それなら他所でも良くないか?」

「いや、面倒くさいし、もうそこでいいじゃない」

 

 と、最後の抵抗を試みるも、相手にされなかった。

肩を落としつつ進んでいき、最後の曲がり角を曲がる。

どうせ何時ものように、ハハハを背筋を反り返らせながら店主が挨拶してくるのだろう、と視線を上げて。

 

「…………え?」

 

 それが目に入った。

縦横無尽に張り巡らされた、進入禁止の黄色いテープ。

管理局の地上部隊の制服を着た大人達。

白いテープで型取りされた、人間のシルエット。

そして、嗅ぎ覚えのある……拭き取られて薄くなった、血臭。

 

「あぁ、こっちは……他所を回って……」

「……ういう事なんですか? ……知り合いで……」

 

 膝をつくのを、僕は辛うじて耐える事ができた。

けれど耳に入ってくる言葉が意味を成さない。

視界に映る光景が、理解できない。

 

「私も……捜査で……教えて……」

「連続……師殺害事件……者!?」

 

 呼吸音が嫌になるぐらい五月蝿い。

僕は今皆が何を話しているのか知りたいんだよ、と思うも、口は粘つき、目は乾いて、何もどうにもならなかった。

それでも精一杯力を込めて、耳に意識を集中して、ようやく僕はリニスさんの言葉を聞きとった。

 

「店主さんは……ティグラに殺された?」

 

 聞き取れて、しまった。

 

 

 

 

 


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