鎌月鈴乃さんに変な属性をつけた話。(はたらく魔王様) 作:ほりぃー
空を見上げると、丸い月が浮かんでいた。鈴乃は冷たい夜風を肌に感じながら、もう少しで終わろうとしている「今日」に寂しさを覚えてしまう。
(明日になれば、全ては元通りになるのだろうな……)
鈴乃はできる限り、感情を伴わないように思う。だから、真奥と並んで歩いていても足を遅らせることはない。ここまでくれば、真奥に気が付いてもらいたくはなかった。
「おい、鈴乃。こっちでいいのか?」
真奥は鈴乃を見て聞く。鈴乃はこくりと頷いてから返す。その時、彼の手に持った紙袋が音を立てた。中には例のぬいぐるみが入っている。
「ああ、間違いない。それにしても、よかったのか? さっきは動転し……思わずうどんなどと言ってしまったが……別に私はお前の好きなものでも文句などないぞ」
二人は今、夕食をするために「うどん屋」に向かっていた。それは鈴乃があのエレベーターの中でとっさに「うどん」と言ってしまったことが成り行きで決まったのだ。真奥としても不満はないし、鈴乃はその手に店ならば少しだけ詳しい。
「ああ? ……あー好きなもんか。いや、ねえな。普段あんまり名前のあるものを食べてねえから、とっさには思いつけねえし」
「名前のあるもの……?」
鈴乃は小首を傾げて考えてみた。普段真奥が食べている物といえば、少ない食費をやりくりしつつアルシエルが作った創作料理やそもそも「白米」としか言えないものを食べている。本当に切羽詰ったときにはきゅうりに蜂蜜を付けて食べるなどということもやっていた。
そこで鈴乃は気が付く。確かに「うどん」や「ハンバーグ」などという名前のあるものを真奥は食べていない。「ハンバーガー」ならば、食べているのだがそこは彼も気を使っているのだろう。
鈴乃はそこまで考えて、くすりとしまった。小さく顔を綻ばせる、鈴乃を見て真奥は安心したようにみてから、視線を前に戻した。彼女は気が付かない。真奥とて、なにも考えていない訳でもないし、相手のことを思いやることがないわけでもないのだ。
気がつけない冗談。食べ物の名前などいくらでもだせる。それをださない。
「で、鈴乃の行きつけの店ってのはうまいのか?」
「行きつけと言うほどではないのだが……先日、評判の店をルシフェルにぱそこんで教えてもらった折に何軒か回ってみて、心に残った場所ではあるな。まだ5、6回ほどしか行ってはいない」
「……多くね?」
真奥と鈴乃では少し価値観が違うらしい。それでも二人は一緒に歩むことができるのだから、同じ場所に行きことはできるのだろう。
着いた店の看板には「月屋」と書かれている。真奥と鈴乃はその看板の前で止まった。
都会特有の縦に長く建築された木造の建物。真奥が目を上げると、二階があるのだろう窓がついていて中は明かりがある。
月屋はそう大きな店と言うわけではない。しかし、東京の真ん中で敷地は狭いが二階建ての店を持てているだけ「大きい」のかもしれない。面積というよりは、比較の問題だろう。
鈴乃は店の玄関の取っ手に手をかけて、中に入ろうとした。しかしそこでふと手が止まる。彼女が後ろを見ると、真奥が外に設置されているお品書きを見ていた。
「真奥? 入ろう」
「ん、おう」
軽いやりとりをして、彼らは中に入る。
店の中に入ると熱気が鈴乃の顔を撫でた。それに伴って、ほのかにうどんのものだろう、スープの匂いがする。
手前にはいくつかテーブルが置いてあり、奥には座敷がある。しかし、鈴乃が見るとなかなかに客が多いらしく、開いている場所は見つからない。会社帰りらしき青年や、家族連れなど、客層も広い。
「いらっしゃい。何名様?」
そう言って二人を迎えてくれたのは人のよさそうな中年の女性だった。白いエプロンをつけて、そのしわのある顔で歯を見せる、くしゃくしゃの笑顔。思わず、鈴乃はつられて笑ってしまった。だが、すぐに顔を引き締めて、言う。
「二名です。できれば奥の座敷がいいのですが……空いていますか」
丁寧に鈴乃は女性に言う。真奥は少しだけ普段とはちがう口調に、驚いた。
「ごめんなさいね今はちょっと。……あなた?」
女性は目を細めて、鈴乃を見た。明らかに訝しんでいる。鈴乃は一歩下がってしまった。女性はそれでも彼女をじろじろと見る。鈴乃は「な、なんでしょう」と不安げに言ってしまった。だが、女性はそれには答えることなく質問する。
「あなた、もしかしてよく着物で来る方?」
「えっ。あ、ああそうです」
「そっちは……」
女性は真奥をちらりと見る。それでも何もかも諒解したような顔をして、はじけるように笑った。
「あはははは。そうかい。あの子がねえ。ちょっとおしゃれすれば、こんなになるんだねえ。しかも……」
女性はむふふと笑って鈴乃を肘でつつく。鈴乃は「?」を顔に張り付けて、愛想笑いをするしかなかった。真奥はもっと訳が分からないが、特に何も言わず女性が目を向けてきたときに会釈する。それだけで真奥の評価が、女性の中で上がったらしい。
「なんていうか、お似合いだねえ」
「オニアイ? オニアイ……お似合い……まっ!」
鈴乃はそこで気が付く、先ほどから女性が何を言っているのかがやっとわかったのだ。彼女は抗議しようとして、口を開けてから、何も言わない。その目はまだ何もわかっていないだろう真奥をちらりと見る。
「なんだ?」
「い、いや」
特に変わりのない真奥の様子に、内心ほっとした鈴乃は視線を女性へと戻す。そうするといつの間にか目の前から、女性がいなくなっていた。
「あ、れ」
鈴乃はいつの間にか消えていた女性に驚いた。全く気が付いていなかったのは彼女の注意が真奥に注がれていたこともあるだろうが、女性の行動があまりに素早かったことにある。しかし、女性は鈴乃の前に戻ってくることも速かった。女性は奥の厨房から、ひょっこりと出てきて、鈴乃の元へ小走りに戻ってくる。それから口を開いた。
「ああ、悪いね。お嬢ちゃん」
「悪い……空いていませんか」
「二階の個室しか空けないわ」
「………………あけない??」
鈴乃は困惑した。二階の個室しか空いていないのではなく「空けない」といわれたのだ。聞き間違えたのかと思い、記憶を反芻してみるがそう言われたとしか思えない。
「まあ、いいじゃないの? 父ちゃんもそれでいいって言ってるんだし」
「ご店主が……い、いや。私たちは普通に食べることができればそれで……」
「だめよ」
「ぐ、ぐう」
一刀両断。まさに女性の言葉はそれである。どんな言葉も、彼女の「だめよ」には敵わないだろう。そして女性の言う「父ちゃん」とはこの店の主人のことらしい、そう真奥は鈴乃の言葉から思った。女性がそういうのならば、彼女は「ご店主」の伴侶なのだろうとも彼は思う。
「とにかく、こっちよ」
「あ、あの」
強引な女性に鈴乃は手を引かれていく。弱ったという感じで真奥を鈴乃は見るが、一階だろうと二階だろうと何の不満もない真奥にはどっちでもいい。ここには鈴乃と「うどん」を食べに来たのだから、彼女さえいればどこでも構わない。
真奥は遅れて鈴乃についていく。なんだか小動物みたいな鈴乃に口元が、ゆるむ。
女性の案内で店の奥にある階段を上り、二階へ上がった真奥と鈴乃は短い廊下を過ぎて、部屋へ案内された。その入り口は襖になっており、案内の女性がそこを開けると畳敷きの部屋だと分かった。
それだけである。
後は部屋の中になにもない。畳の上にはテーブルもなければ、調度品もない。殺風景極まる部屋であった。強いて言うならば、部屋の隅に座布団が置かれていることくらいと床の間にがあることくらいだろう。女性はその座布団を二つ敷いて、真奥と鈴乃を誘った。
「なんにもないっておもったでしょ?」
「えっあ、あの」
鈴乃はなんて答えればいいのかわからずに困った。唯、単に思ったことを言えば失礼ではないだろうかと思ったのだ。だが、女性は「あはは」と朗らかに笑う、部屋の奥へ入っていく。奥とは言っても入り口から数歩ではある。
そこには障子で仕切られた窓があった。女性はそこをからりと開ける。
「あっ」
「おお」
真奥達が驚くのは無理もないだろう。窓の外は月が真ん丸として、浮かんでいる。煌々と金色の光が、この部屋の明かりに負けないような美しさがあった。まさに窓というよりは一枚の絵画のようである。
つまりこの部屋には、これだけしかない。月の見える部屋。それだけだ。
「二階は満月の時にくらいしか使えないんだけどねえ。元々、店の名前はこの部屋に由来……いや、そんないいもんじゃないね。てきとうに気分で決めたんだよ、20年くらい前に」
女性はなぜかはにかみながら言う。もしかしたら、彼女の若いころを思い出しているのかもしれない。
「ご婦人……痛み入る」
鈴乃はそんな女性に頭を下げた。この部屋を貸してくれるのは、明らかに好意からだろう。何故そんなことをしてくれるのかは鈴乃にもわからないが、それでも律儀な彼女はお礼を言う。真奥もそんな鈴乃に合わせて頭を下げて、丁寧に礼を言う。
女性は目をぱちくりさせてから、にやりと言う。
「似たもの同士だねえ。そんなにかしこまらなくてもいいわよ。初めて来た時みたいに『たのもう』って言ってくれればいいのさ」
「がっ」
鈴乃はのけぞった。この店に、真奥は来たことがない。鈴乃の案内で来たのだ。それだから、今女性がいった「たのもう」を言いながら店に入ったのは誰なのか明らかだった。
女性はあわてる鈴乃の様子を可笑しそうにしながら、手に持ったお品書きを一冊だけ鈴乃に渡すと。
「また、注文でも聞きに来るからね。がんばんなよ」
と鈴乃の肩を叩いて出て行った。鈴乃は何をがんばればいいのかわからない。
「なんだか、すごい人だったな」
真奥は手に持っていた荷物を下ろして言う。
「ああ、なんどか来ただけなのだが……顔を覚えられていたようだ」
「そりゃあ、着物で来た女性が『たのもう』なんて言えば、誰だって覚えるだろ」
「! い、いやあの時はその」
「まあ、鈴乃らしいけどなあ」
からかうでもなく、真奥は鈴乃のいつかの行動をそう評価する。鈴乃はそう言われて、返す言葉もなく、肩からポンチョを脱いで手で巻く。そして、真奥の置いた紙袋の横に置いた。
真奥はとりあえず、先ほど敷いてもらった座布団に腰を下ろした。よくよく考えれば、都庁で少し座った以外は歩いてばかりだったので、座布団の柔らかさが心地よかった。しかし、特にこの部屋には月以外見るものがないので、なんとなく見回してしまう。
真奥の左手側には狭い床の間があって、引き戸が壁にはある。真奥はなんとなくそれをひらいてみたが、何も入っていないので鈴乃を振り返った。
「すず――ぶ」
ちょうど鈴乃がブラウスを脱いでいる時である。彼女はブラウスの前のボタンを開けている。真奥はあわてて、彼女を止めにはいった。
「お、おまえ! 何をやってんだ」
「ん? なにをとは」
「い、いや、なんで服を脱いでんだよ」
「服を……はっ、な、なにをい、いやらしいことを考えているんだっ」
「お、おれが? いきなり脱ぎ始めたのは鈴乃だろうがっ」
「ち、ちがう!」
鈴乃は真奥に向き直った。彼女は真っ赤になりながら、両手でブラウスのすそを掴んで、まくり上げた。真奥には中には黒インナーを着ているのが見えた。それごと鈴乃はまくり上げたのだ。
つまり、鈴乃はブラウスだけを脱ごうとしていたのだ。決して、真奥の考えたようなことを鈴乃は考えてはいなかった。
「き、貴様。いらない疑惑をかけるな! そもそも、私がそんな人に肌を見せるようにみえるか!?」
「……み、見えてるんだが」
「なに」
ブラウスと一緒にインナーまでまくり上げたために、鈴乃のお腹が見えてしまっていた。小さなへそが見えている。
「う、あああああ」
あわてて、鈴乃はブラウスを引き下げる。それから、何故か真奥を睨んだ。真奥はうっとしてしまう。
「お俺は悪くないだろ。今の」
「もとはと言えば貴様がろくでもない想像をしたのが悪い」
こんなところにきてまで、二人は喧嘩をし始める。
鈴乃は黒いシャツの姿になった。脱いだブラウスは、とりあえず畳んでポンチョに重ねる。黒の無地にみえるが、よくよく見れば彼女の首元に桜のワンポイントが付いている。
鈴乃は真奥の横に敷かれた座布団に座る。ゆっくりと足をまげて、正座をした。そのまま彼女はある疑問を口にする。
「なぜ。お品書きが一つしかないのだろうか……」
落ち着いてから二人は肩を並べて、お品書きを眺めた。あの女性は一つしかお品書きを渡さなかったので、そうするしかなかったのだ。わざとなのか、それとも単なるミスなのかは鈴乃には分からない
お品書きとはいっても、ファーストフード店やファミリーレストランなどのように写真が付いているようなものではない。たが墨書された字はなかなかに趣のあるものだと真奥は思う。
横に座っているとはいっても真奥と微妙に肩を触れないように鈴乃はお品書きを見る。お品書き自体は真奥が持っているので、身を乗り出さないと彼女にはみえない。そんな鈴乃の様子を真奥は見つつ、お品書きをめくる。
――きつねうどん 五百八十円
――月見うどん 六百八十円
――天ぷらうどん 六百八十円
――たぬきうどん 六百八十円
――大盛りぜんざい 七百八十円
ぺらぺらとページをめくりつつ、真奥は言う。
「せっかく来たんだから、たかいのにしようぜ」
「…………、そう高価なものは置いていない。そうなると月見うどんなどが高いのではないか」
「そうだな。この部屋のはちょうどいいかもな」
なにかを無視しつつ、二人は話を進めた。真奥は、鈴乃の横顔を見てから、少しだけ動きを止める。それでも、わずかな間だった。
「じゃあ、さっきの人に言いに行くか」
「承知した。」
真奥が立ち上がって、部屋の襖を開けた。そして、下の階に向かって注文をしにいく。呼べばいいのかもしれないが、わざわざ注文をしに行くのは彼の人がいい為だろうか。悪魔としてはどうなのだろう。
しばらくして真奥が戻ってくる。そして、また鈴乃の横座った。
それきり二人は無言になる。向かい合うのではなく、横に座るのだから、とにかくしゃべりにくい、それは物理的な話もあるのだが、精神的なものもあった。
鈴乃は真奥の見えないところで指を擦る。別に意味などない。何となくの行為だった。今、真奥が隣にいて彼女は嬉しい反面、刻々と近づいてくる終わりの時間への寂しさを感じ始めていた。
「真奥」
「……」
なぜか真奥は返事をしない。それだけで鈴乃は不安になってしまう。今日一日、いやいつもどんな時でも彼は彼女に対して、返事をしてくれていたのだ。それを止められてしまうだけで鈴乃の心がきゅっと痛くなってしまう。
「真奥!」
「うおっ」
少し大きな呼んでしまう鈴乃。真奥は驚いて、なんだと鈴乃に目で問う。しかし、鈴乃とてなにか目的が合って呼んだわけではない。呼んだ彼女は真奥に訝しげな眼を向けれられて、内心焦ってしまう。だが、不思議なことに話すことには困らなかった。考えるでもなく口に出てきたのだ。
「今日は、楽しかった」
(……なにを私は言っているんだ)
鈴乃は何故自分がそんなことを言っているのかわからない。彼女は考えて、真奥の目に誘われるように口を動かしてしまったのだ。真奥は、少しだけ目を見開いてから顔を鈴乃に向ける。鈴乃は続ける。
「いろんなところに行けたことももちろんだが……その」
鈴乃はそこで口を一旦だけ閉ざしてしまう。なんだかこれを言ってしまえば、全てが終わってしまいそうだった。それでも彼女は言ってしまう。できる限り、明るい声で、顔に笑顔を張りつけて。わずかな告白をする。それは一線を越えないように、心を隠しながらのものだった。
「お、お前と、居れてよかった」
「…………」
真奥が驚いたように鈴乃を見た。それから鈴乃の顔からゆっくりと目を背ける。それから言う。
「ああ……」
いつもの軽口はない。何かを考えているように、真奥は目を閉じる。
「失礼します」
部屋の外から声がする。真奥と鈴乃がなんだと入り口を見ると、襖が開いて先ほどの女性が入ってきた。手にはお盆と、その上に湯気をたてたどんぶりが二つ置いてある。
「お待たせしました。ちゃんとお話しできたかしら」
女性は鈴乃と真奥を交互に見ながら言う。鈴乃は乾いた笑いを返しつつ、真奥はきらりと光る眼を向ける。彼の表情は特に変わらない。
「あら、やっぱりお邪魔だったかしら」
言いながら真奥と鈴乃の前にうどんを置いていく女性。ほのかに良い香りのする白い湯気を立てたどんぶりには、白い麺とその上に卵の「月」が浮かんでいた。鈴乃はごくりと思う。こんな時にもうどんに、反応する自分が少々情けない。
「ああ、まってね」
女性はそういうと部屋からあわただしく出て行く。そして、一階に降りたのだろう、とてとてと音がした後に、もう一度戻ってくる。今度も何かを二つ重ねて抱えていた。それは木でできた台だった。それを見て、鈴乃はがばっと体を動かす。
「そ、それは」
ぶるぶると女性の手にもっている「台」を見て鈴乃は体を震わせる。どこか嬉しそうな顔をしながら、彼女は聞く。
「そ、それは時代劇で良く見るものでは?」
「! そういえば、そうねえ。正確には懸盤というものよ。あら、実は時代劇なんかが好きなの……あっ、いつも和服だものねえ」
女性は何を納得したのか、うんうんと頷いてから懸盤を二つ降ろす。そして月見うどんをひとつずつとそれぞれに箸を載せてから、真奥と鈴乃の前に置いた。それから、女性は真奥に向き直って言う。
「お兄さんは、もう成人よね?」
真奥は少し複雑な気持ちで答える。成人になる年齢の約十五倍程度の歳をとっているのだからそうなるだろう。だが、彼は丁寧なアルバイト用接客口調で言う。
「ええ。一応20歳です」
「一応? でもお酒は大丈夫よね」
「お酒?」
真奥はうんと考えるが、そんなことはおかまいなしに女性は、どこからか「とっくり」と「お猪口」を取り出して、真奥の台に置いた。とっくりが動くとと、中で「ちゃぷ」と水の動く音がする。お酒が入っているのだろう。
「サービスよ」
「えっと。お酒は」
「じゃあ、またごゆっくりね、あっ電気は消していくから」
そう言って女性はいそいそと外へ出て行く。彼女は出て行くときに、宣言したとおり電気を消していった。部屋の明かりが消えて、ふっと夜の闇が広がる。真奥と鈴乃はあっけにとられて呆けてしまう。だが、しばらくすると鈴乃が声を上げた。
「な、なぜだ」
鈴乃には何故女性が電気を消して行ったのかはさっぱりとわからない。彼女は暗くなった部屋で立ち上がろうとした。だが、その手を真奥に引かれる。
「多分、あれを見せたかったんだろ、みてみろよ」
真奥は鈴乃の手を掴んだまま、目を後ろへ向けた。そこは窓のある場所。鈴乃はそれを見て理解する。この部屋は、電気を消しておく方がいいのだと。
窓の外にある月の光が、部屋に差し込んでくる。青い月光が、真奥と鈴乃をやさしく照らしてくれる。鈴乃はなにも言わずに、すとんと座り直した。
真奥も鈴乃も手元にある台から、丼ぶりを取って食べ始める。
淡い光だけしかない部屋で、二人はうどんをすする。手元は暗いのだが、月光はなかなかに明るく、食べるだけならば特に不自由はしない。
鈴乃は時折、真奥の様子を上目使いで見るのだが、彼の表情には特に変化はない。鈴乃は箸を握る手に、少しだけ力が入ってしまう。口に入れたものの味が分からない。
(このまま、でいいのだろうか)
鈴乃は自問する。今日は終わるだろう、だがまだ終わってはいないのだ。今のまま、このまま今日を終わらせていいのかと彼女は思う。もう少しでも、あと少しでも彼女は真奥と話しておきたい。今日話すことは、きっと明日話すこととは違うことだろうから。
「なあ、真奥」
「どうした」
どうした、と言われれば鈴乃には何もない。彼女は少しだけ考え込んでしまう。そんな時に彼女の目に「とっくり」が映った。
「ああ、酌をしてやろうと思ってな」
「…………?」
鈴乃は自分のどんぶりを懸盤に置いてから、真奥ににじりよった。
「な、なんだよ」
何故か真奥は警戒して、身をかわす。それを見て鈴乃はなんでもないように装いながら言う。
「そう邪険にするな。単にお前の酌をしてやろうと思っただけだ」
「……ああ……酌? 鈴乃は飲まないんだよな」
「私がか? そんなつもりはないのだが……! お前、まさか」
鈴乃はじろりと真奥を睨む。
「また、私が酒に飲まれて暴れるとでも思ったのか」
「ぎくり、い、いやそんなこと思ってねえよ。ちょっとしか」
「や、やはりか! あ、あれはルシフェルに怒ったのが悪かったんだ。す、好きで飲んだわけではない。そ、それに記憶はないが、あのときにお前に……」
そこまで行って鈴乃は恥ずかしくなってしまった。あの時の光景をおもい出すのではなく。想像してしまったのだ。伝聞でしかしらないが、鈴乃はあの時に真奥へ――。
「と、とにかく貴様はそのお猪口を持て」
「お、おう」
真奥は半分ほど中身の消えたどんぶりを台の上に置いて、白いお猪口を手に取った。普段は全くと言っていいほど酒を嗜なまない彼ではあるが、別段に下戸と言うわけではない。
鈴乃は反対にとっくりを掴んで、両手で持つ。それからじわりと膝を使って、真奥へ近づく。真奥は座布団に上で胡坐をかいている。
「もう少し前に出せ」
鈴乃は真奥にそう言ってから、手を伸ばさせた。そして彼女は両手でとっくりを真奥の手にある御猪口に傾ける。熱い酒が、小さく音をたててお猪口に入っていく。
月の中での光景である。悪魔の王と神に使える物が行うそれは、幻想的なのか喜劇的なのか、はたまた悲劇的なのかは誰にもわからないだろう。それでも、時間はゆっくりと過ぎていく。
真奥は軽く礼を言ってから、酒を干した。大した量ではないが、一息に飲み干す。それから彼は鈴乃に言った。
「なんか、あん時と逆だな」
逆とはあの日に酒を飲んでいたのが鈴乃で、真奥が鈴乃へ御飯なりなんなりをよそっていたことを言ってるのだろう。
「…………そのことを私は覚えていないと言っているだろうが」
「まあ、衝撃的ではあったぜ。まさかアパートの中に投げ飛ばされるとは思わなかったからな」
鈴乃は恥ずかしげに顔を赤らめて、横を向いた。手にはまだ中身が残っているとっくりが音をたてる。しばらくして、彼女はため息をついて真奥へ言う。
「まあ、貴様も監督不行き届きはあった。ほら、もう一献飲め」
「ああ」
真奥がもう一度、御猪口を差し出す。鈴乃はさっきと同じようにとっくりから入れてやる。
真奥が酒を飲む。今度は一息ではなく、口の中で味わうように飲んだ。彼の目には少しの酔いもない。
「酔ったな」
真奥は言う。それから、鈴乃へ歯を見せて笑った。
「なあ鈴乃、あの日のことを知りたくはねえか」
「な、なにを……。ひ、人の恥ずかしい過去をなんだと思っているんだ!」
「いや、そうはいってもおまえ。全く覚えていないんだろ」
「……」
真奥は続ける。
「漆原を投げ飛ばしている時は嬉しそうだったぜ。なんか悪魔みたいだったしな」
「き、貴様言うに事欠いて、私のことを悪魔だと」
真奥は赤い眼を動かす。その瞳で鈴乃をじっと見つめた。鈴乃はたまらず、目を逸らしてしまう。
「……別にそれでもいいんじゃねえの」
「い言い訳ないだろう! ほら、もう終わりだ。全て飲んでしまえ」
「い、いや結構ペース早くないか?」
弱い口調で抗議する真奥を無視して、鈴乃は彼の御猪口を出させる。それからとっくりに入っている酒を全てそこに入れてしまった。元々、大きくはないとっくりだが、最後とばかりに入れすぎて真奥の手に少しこぼれた。
「おおお」
「す、すまん」
さっきまで怒っていたのに、鈴乃はそう言いながらあたふたとふくものを探した。空になったとっくりは邪魔にならないところに置いた。
「いや、気にしなくていい。それよりも、鈴乃」
「な、なんだ。あの女主人殿はおしぼりを忘れているような……」
「鈴乃」
びくっと鈴乃は真奥を見た。いきなり、呼ばれて彼女は黙ってしまう。真奥はすぐには要件を言わず、手元の酒を飲みほした。それからお猪口を台の上に置いた。そして口を開く。
それは昔話だった。つい、数日前の昔話。
「たしか、あんときは鈴乃がいきなり俺に酒をのめのめって迫ってきたんだよな」
「ぐ、ぐう。そ、そんなことを私に聞かせるつもりなのか」
「いや、聞けって。 芦屋とかが変わろうとしたり、俺は飲めねえって雰囲気をだしていたりしたんだけどな、お前は全く話を聞こうともしなかったからな」
「……さすがにそれは……め、面目ない」
しゅんと鈴乃は視線を落とす。記憶はないが、それをやったのは事実だろうと彼女は思っている。真奥や芦屋、漆原は抜いたとしても彼女のなかで「悪魔」をそれだけで疑うことはもうできなかった。
「……あんときは、こうしてきたな」
「えっ」
真奥は鈴乃の肩を掴む。そして、ぐっと引き寄せた。
鈴乃の髪が動く。彼女の背中から腕がだきよせる。
「は?」
もういちど、鈴乃は言う。彼女の頬に真奥の肩が当たる。
「たしか、こういう風にされたっけな」
真奥の声が遠い。鈴乃は全身から力が抜けてしまう。そんな中で、彼女は頭の中で必死になって動こうとしているのだが、思考はそうでも体は動いてはくれない。だんだんと真奥の力が強くなってくる。
(ま、まおう、まおう。なにを)
何とか動いてくれる思考の断片を鈴乃は組み合わせる。それでも彼女はどうしようもないほどに今の状況が理解できない。そんな混乱した鈴乃を抱きしめるように、真奥の腕に力が入る。鈴乃の体がさらに真奥に引き寄せられる。
(だ、ダメだ。まおう。わ、わたしは)
この状況が怖い。全てが崩れてしまう、そんなこの今が鈴乃は怖い。しかし、受けいれてしまいたいような魅惑に彼女はとりつかれてしまう。彼女は思う。「ダメだ」と言わなければいけないと。
「だ」
そこまでは鈴乃には言えた。あとたった二文字。それだけで今が終わるだろう。鈴乃は口を動かして、それを言おうとする。言うことを聞かない手足を動かそうとする。真奥はそんな彼女に言う。
鈴乃には真奥の顔が見えない。彼がどんな表情をしているのか、それすらもわからないのだ。彼がどんな気持ちなのかをよみとれるほど、鈴乃には余裕がない。
そんな鈴乃に真奥は言う。
「少しだけ思いだしてもいいか?」
耳元で声がする。鈴乃は冷静になろうとした、思考を使って彼の言葉を考える。
(思い出す? もしかして、あの日を何があったのか、それを)
鈴乃はそこまで考えて、何故か体が軽くなった。そう、これはただ思いだしているだけなのだ。決して「裏切ったり」しているわけではない、そう彼女は結論した。理屈がどうというよりもそう思いたかったのだろう。
鈴乃は自分から、力を抜いた。今はただ、思い出しているだけだと自分に言い訳をしながら。
――ひきょうもの。
もう鈴乃は抵抗をしない。真奥は言う。
「めっちゃくちゃ強い力でつかんできたよな、そういえば」
「…………」
真奥の手が鈴乃の髪をなでる。さらさらとした黒髪が、月の光でうっすらと光っている。鈴乃はただ、真奥の声を聞いて、その体温を肌で感じる。それでも、あと一歩を踏み出さないように彼女は思う。
――卑怯
鈴乃は気が付かない。自分の中での声に。だんだんと明確になって行くその声に。
「まおう」
鈴乃は口を開く。自分の言葉から逃げ出したかったのだ。それでも真奥は彼女の問い賭けにこう、答えた。
「ん?」
ただ、それだけである。飾りも何もない言葉。いや、言葉と言うよりは声や音と言った方がいいかもしれないほど淡泊な返事。しかし、鈴乃にはそれだけで十分だった。別に仰々しい言葉を真奥からもらいたいわけではない。
庶民的な魔王。どちらかというと軽薄、それでいながら妙なところだけ鋭いこの真奥。それが鈴乃が好きになった真奥だった。
「……それで、私はどうしていたんだ」
鈴乃は真奥の話を進めてほしいように言う。真奥はまた「ん」と声を出して、鈴乃を抱きしめる。彼は顎を彼女の小さな頭にのせて、少し考えてるように沈黙した。
その沈黙が、何を意味していようと鈴乃にはどうでもよかった。心の奥では、彼を信頼してしまっているのだろう。
「なあ、鈴乃」
「なんだ」
短い会話。鈴乃はそれを楽しみながら、「心の声」を無視する。
――あと、一歩前に
ぐりぐりと鈴乃はじゃれつくように真奥の胸元に顔を押し付ける。真奥はそれになにも言わず、彼女の髪をなでる。お互いが、傍にいるのに少しだけ遠い関係。それが今の二人だった。
だから、真奥が一歩だけ前に出る。
「鈴乃、いや…………べる」
「!」
鈴乃は目を見開いた。真奥のささやくような声が、今の彼女を貫く。それはこの世で最も、特別なものを真奥が口にしたからだった。
クレスティア・ベル。それが鎌月鈴乃の本当の名前。
鈴乃、いやベルは唇を噛んだ。どうしようもない嬉しさが、こらえきれない。彼女の右手が真奥のシャツを掴んで、握る。皺のできたシャツだけが、彼女の反応だった。この期に及んでも彼女は真奥にそれだけしか伝えることができない。
真奥はそんなベルの額に自分の額を寄せた。近すぎる距離に反射的にベルは下がろうしてしまう。それでも彼女は真奥に抱き寄せられて「逃げることができない」のだ。そう、これは「仕方がない」ことである。
真奥の息遣いが耳元でする。ベルはそれを目を閉じて聞いている。目の前で真奥がどんな顔をしているのか、それを彼女は見ることは怖かった。
悲しげな表情していたら、自分は彼にどういえばいいだろう。
嬉しげな表情していたら、自分は彼に何を言うだろう。
どちらも何かを越えなければ、何かを捨てなければいけない。だから、ベルは自分の意思よりもあるがままに身を寄せてしまった。それでも、この優しい真奥は彼女を裏切ることはない。
ベルの唇に何かが触れる。抱き寄せられた彼女が何かに押し付けられる。
ベルは握った真奥のシャツに力を入れて、こみあげてくる気持ちを必死になって押し殺している。あと一歩でれば、あと少し考えればベルは思いを遂げられるかもしれない。ベルはそれを自覚することを拒絶し続ける。
それでも、ベルには今を見ることなくに過ぎ去っていくことはできなかった。彼女は戒めの為に、つぶっていた目を少しだけ開けて目の前にいる「彼」を見た。
「彼」の紅い目が其処に合った。「彼」は「彼女」のように目を逸らすことなく、全てを見ていた。「彼女」の表情も、仕草も、それは見えていないはずの心の中までみているように。
「彼女」はもう一度目をつむる。それから、顔を少しだけ動かして前に出す。気が付かれないだろうか、それは彼女が思ったことだった。
淡く小さな、彼女の思いを月だけが照らしている。
お疲れ様でした。あとは、少しだけエピローグをだしてこの話はおしまいにしたいと思います。詳しくはその時に言いますが、これは悲哀のお話ではないです!
最後まで付き合ってくださってありがとうございました。また、お待たせてして申し訳ありませんでした。