鎌月鈴乃さんに変な属性をつけた話。(はたらく魔王様)   作:ほりぃー

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あけましておめでとうございます。


属性11 御姫様

 下を向いて歩く。鈴乃はゲームセンターを出てからずっと目を上げることができなかった。只々自分の足元を見て歩いていく。

 それでも鈴乃は迷うこともなく、また足取りを緩めることはない。なぜならばその手を引いてくれる人がいるからだった。

 真奥が半歩だけ前を歩いていく。それ以上離れることはない、いや正確に言うと離れることができないのだ。彼の手はしっかりと鈴乃の手と握り合っているからだった。彼は速く歩きすぎないようにしながら、脚を動かす。

 二人とも無言だった。それでも体はそれなりに近い。時折、真奥が持った紙袋の中で布の擦れる音がするのは、そこに入ったリラックス熊のぬいぐるみの音。

 鈴乃が少しだけ指に力を入れる。ぐにぐにと真奥の指を押してみる。真奥は「ん?」と不思議そうな顔をして振り返るが、なにも言うことはなくまた前を向いた。鈴乃も別段なにかを真奥へ伝えたかったわけではない。

 あたりはすでに暗い。だがここは東京の中枢である新宿である。街灯は煌々と街路を照らし、真奥と鈴乃の歩く横の道を自動車が流れていく。

 彼らの向かっている場所は東京都庁である。

 東京都庁は言わずと知れた、東京の政治を担う根幹である。そんなところへ、なぜこの二人が行くのかと事情を知らなければ疑問に思うだろう。しかし、東京都庁には東京タワーの高さに匹敵する高さの展望台がある。真奥と鈴乃はそこへ行くつもりだった。

 さきほどいたゲームセンターからは少しだけ距離がある為、二人ともこうして歩いて向かわざるを得なかった。いや、鈴乃としては何かの乗り物に乗ってしまえば「今日」の終わる時が早くなってしまいそうで怖かった。だから、これでよかったのだろう。

「なあ、真奥」

 鈴乃は小さく真奥へ声をかける。

「なんだ?」

「……いや、なんでもない」

 真奥の名を呼んで、鈴乃はそう言っただけだった。彼女はなんでもないと言ったが、真奥が彼女の呼びかけに応じてくれただけで、もう用事は済んでいる。彼に声をかけて、彼に振り向いてもらいたかっただけだった。傍から見ればじゃれているようにしかみえない。

「すまないな」

 鈴乃は自分勝手だなと思いつつ、真奥へ謝る。今日一日だけの我儘だと、自分に言い聞かせて少しだけ前に出るための行為。それが先ほどの呼びかけだったのだ。他愛もないことも彼女には貴重なものだった。唯振り向いてくれるだけで嬉しかったのだから、自分に嘘はつけない。

それでも自鈴乃は分の感情については口には出さない。真奥も鈴乃の様子を茶化すことも文句を言うこともない。それは、彼の手を握っている手が少しだけ強く握ってきたからだった。

「…………」

 真奥は口を開いてから、何も言わずに閉じる。なんといっていいのかが、分からなかった。少しだけ、手を握り返してあげただけだ。

「ああ、近くなってきたな。おい、鈴乃。ほら、都庁」

 はっと真奥の声に鈴乃が顔を上げる。

 東京都庁は二百メートルを超える。目の前までくれば、圧倒されるほどに大きかった。少なくとも鈴乃はそう感じた。

 その摩天楼は二つの塔を持っている。左右に分かれたそれらはそれぞれに展望台を持っており、東京を一望できるその高さは「都」のシンボルにふさわしいものだろう。

 鈴乃はそれを見て、きゅと胸を締め付けられるような気がした。

 もう空は暗い。今日は終わろうとしているのだ。この都庁でほとんどすべてが終わってしまうのだろう。自然と彼女の手に力が入ってしまう。ぐっと握りこむ。真奥の指を挟み込むようにしながら。

「痛い、痛いって! マジで!!」

 指が折れそうになりたまらず叫ぶ真奥。鈴乃は自分が力を入れすぎていたことに気が付いて、自分から真奥の手を放した。

「す、すまない。つい力がはいってしまった」

「……指が変な方向へ曲がるかと思った……」

 多少恨みがましい目で鈴乃を見る真奥。鈴乃はたまらず彼に駆け寄った。

「大丈夫か……ほんとうにすまながっ」

 急に真奥に顔を掴まれる鈴乃。彼女のほっぺたを真奥が両手でつまんだのだ。そのままぐりぐりと指でこねるように真奥は鈴乃の頬を動かす。

「にゃ、にお」

「なんかさっきから暗くねえか? 鈴乃」

「……すまない」

「…………」

 真奥から見れば、怒るだろうかというぎりぎりのことをしているのに、殊勝に謝る鈴乃。彼は何が気に食わないのか、さらに頬を抓る。なにか変な声を出しながら、鈴乃は抗議した。

「な、ないを。やめろ」

「少し太ったんじゃねえのか? すげえ柔い、マシュマロみたいな感じなんだが」

「!」

 鈴乃は急に真奥の手を掴むとぐっと力を入れた。真奥は痛さで手を離す。だが、その顔は不敵に笑っていた。鈴乃はそんな真奥を睨みつける。

「やりやがったな!」

「き、貴様。婦女子に言ってはならないことを……」

「婦女子が正拳突きしてきたり、手をひねったりするか! あと、女子は言い過ぎだろ」

「き、貴様あ!」

 思わず真奥へ飛びかかる鈴乃。真奥はぱっと持っていた紙袋からリラックス熊を取り出して、鈴乃の前に出した。うっと鈴乃の動きが止まる。いきり立ったところにだらっとしたクマの顔が出てきたら、そうなっても仕方ないだろう。

「もらったぜ!」

 真奥はぽんとリラックス熊を鈴乃へ渡す。思わず受け取ってしまった鈴乃の行動が一歩遅れてしまった。その隙に真奥は彼女の後ろへ回る。

 鈴乃はあわてて真奥を目で追った。後ろを取られようとも反撃することはたやすい。先にも書いたが、こと対人戦闘に置いてはだけ言えば真奥は鈴乃に敵わない。魔王としてそんな技術は必要ないからだ。

鈴乃もそう思っていた。その腋に手が入ってくるまでは。

「ひっ」

 鈴乃は急に腋を触られて驚く。真奥はそんなことには構わず、くすぐる。さすがに男として鈴乃を殴ったりするわけにはいかない。だからと言ってなにもしなければ、逆に殴られそうである。だからとっさに出た苦肉の策である。魔王としての精神HPを削りながらする捨て身の攻撃であった。

「あ…………き、あ」

 こみあげる笑いを鈴乃は唇を噛んで押し殺しつつ、動こうとした。真奥は離すまじ、とばかりに彼女の肩を掴む。それから思いきり両手で鈴乃をくすぐり始めた。

「あ、あはは、やめろ。まおう、やめ」

「ここまできてやめれるか!」

 やめたら殴られるかもしれない。やめなかったらセクハラっぽい。それでも真奥は鈴乃をくすぐった。ここで負けるわけにはいかない。

 鈴乃は耐えられないといった様子で涙目になりながら言う。

「はははは、ちょっ。ほんと。やめ。わかった、はは。こうさんする。降参するから」

 その降伏の宣言に真奥は両手を離した。そして両手をじっと見つめたまま固まる。こんなことをして勝って何が嬉しいのだろうか。いろんなものを失った勝利であった。真奥は喪失感とともに、勝利を味わった。

「……勝った」

 悲しげに言う魔王。こんな勝利で本当にいいのだろうか。

逆に解放された鈴乃は膝から力が抜けていき。地面にへたり込んだ。荒い息を吐きながら鈴乃は片手をつく。もう片方の腕にはリラックス熊が抱かれている。目には涙が浮かんでいた。だが、真奥は次の鈴乃の言葉にさっと顔を青くすることになる。

「貴様……せくはら、で訴えるぞ……」

「ぐ、い、いや今のは、そのなんだ、し、しかたねえだろ!」

 鈴乃は少し赤い顔で立ち上がった。じっと責めるような目で真奥を見る。真奥は傍目からでもわかるほどに汗をかいていた。だが、弁解するのは違う気がする。だから彼は言った。

「い、いや。鈴乃は笑顔の方がいいだろ?」

「…………見え透いたことを……」

「な、なんだよ」

 そこで、ふっと鈴乃は笑った。

 (励まそうとでもしてくれたのか? 真奥)

 鈴乃は心の中で、目の前の彼に問いかける。しかし口には出さない。出す必要もない。さっきまで悩んでいたことが、少しだけ楽になったからだった。真奥の真意がどこにあろうとも心は軽くなった。

「手を出せ」

 鈴乃はそれだけ言った。真奥はびくびくとした表情から、ホッと安堵した表情になった。どうやら鈴乃はこれ以上追及する気はないらしいと思ったのだ。多分、これから手を繋いで都庁へ歩くのだろう。そう彼は勘違いした。

 真奥は無言で手を差し伸べる。開いた右手を鈴乃へ。にたりと鈴乃はしながらその手を掴む。しっかりと指を絡ませる。

「い、いてえええええええええ?!」

 思いっきり、真奥の手が握られた。元気づけられたことと、公衆の面前でくすぐられた屈辱は別の話である。

 

 

 都庁についた二人は玄関から中に入り、エントランスを抜けて展望台行きのエレベーターの前に向かった。そこでは警備員が手荷物の検査をしている。二人の手荷物と言えばリラックス熊くらいしかないのですんなり通れた。

 それでも何人か真奥達と同じ展望台へのお客のいる中で、リラックス熊を検査されるのは真奥にも鈴乃にも恥ずかしかった。

 エレベーターには数組がまとめて乗る。それは混雑を防ぐ意味合いもあるので、真奥と鈴乃は少しだけ待ってから自分たちの組になって乗り込んだ。

「まだ、手が赤いんだが」

「自業自得だな」

 エレベーターの中で真奥の抗議の言葉を鈴乃はしれっとした表情で流す。真奥が先ほど握られた指をさすりつつ、「ばかぢから」と恨み言を言うのを鈴乃はくすりとしてしまう。

 エレベーターの中は多くの人がいた。真奥と鈴乃は壁際に自然に寄せられてしまう。お互いの肩の当たるほどに近い距離。案内員がしばらくしてドアを締めると、鈴乃は圧迫感を感じた。エレベーターは上へ動き出したのだろう。

そんな中で鈴乃はちらりと真奥を見た。彼の横顔が見えた。

 (真奥?)

 心で呼びかける鈴乃。勿論、届かないことくらいは分かっている。それでも、もしも彼がそれが分かってくれるならばと淡い期待を持ってしまう。

「なんだよ、鈴乃?」

「え、は?」

 急に真奥が鈴乃の方へ顔を向けた。鈴乃は思わぬことに驚いてしまう。まさか心の声が聞こえたとでもいうのだろうか。

「俺の顔になんかついてるのか?」

 やっと鈴乃はじっと真奥を見つめていた自分に気が付いた。真奥が鈴乃を見たのは、彼女が真奥のことを見ていたからだろう。

「なんでも、ない」

 あわてて顔を背ける鈴乃。頬の熱がわずかに上がる。真奥は今朝から何度も鈴乃の言う「なんでもない」を聞いているので、特に気にすることもなく目線を戻した。

「そうか」

 真奥はエレベーターの壁に背中を預けて、頭上についている階数表示をじっと見つめる。なにを考えるでもなく、なんとなくそうしてしまう。鈴乃が気が付くと真奥だけでなく、エレベーターに乗っているほとんどの人々が上を向いていた。

「?」

 その様子を不思議に思った鈴乃も顔を上げて階数表示に目をやった。これでほとんどの乗客は上を向くことになる。

 ふと真奥は鈴乃のことを見た。すぐとなりにいるので鮮やかな黒髪がそこにある、ふわりとしたいい匂いが少しだけする。真奥はそんな鈴乃の横顔をじっと見つめた。彼の赤い瞳は彼女だけを映している。

鈴乃は階数表示を見ていて、真奥の視線には気が付かない。乗客が多いので、背の低い彼女は背伸びをしながらみんなと視線を合わしている。

 そんな鈴乃を真奥は、見ている。

 痛がる、真奥をみながら鈴乃は苦笑した。そのまま彼女は都庁を見上げる。

「しかし、こんな形でまた、ここに来るとはな……」

 

 

 都庁の展望台は広い。そこには食堂や、土産屋まであるのだからかなりの人数を収容することができる。また、中央には広場がありそこでは音楽の演奏や、簡単な見世物を日替わりで行っている。

「おおおお! おい鈴乃。あそこ東京タワーじゃないか」

「ん、どこだ? あの赤い塔か?」

 真奥達の眼下には「東京」が広がっていた。夜の闇に人口の光が無数に散らばる、日本の首都。真奥達の言う東京タワーも遠くにその紅い姿が見える。天気の良い日であれば富士山まで見えるのだから、まさに東京を見渡しているといってよいだろう。

「車が小さいな」

 窓から鈴乃は下を覗き込んだ。数百メートル下では、小さな光が整然と並びながら、動いている。鈴乃の言うとおり、それはこの世界有数の都市で生きている人々の動きだろう。実のところ真奥にしろ、鈴乃にしろ浮遊の術が使えるので「高い」ことはあまり刺激にならない。彼が見ているのはどちらかというと、上からじっくりと見る「人の動き」である。

「なあ、真奥。あそこにあるのはすかいつり、あれ? 真奥?」

 鈴乃が後ろを見るといつの間にか真奥はいなくなっていた。慌てて彼女は彼を探す。

「鈴乃、すごいぞ。水道水が売ってる」

 真奥の声に鈴乃は振り向いた。お土産のコーナーのある場所で、真奥は鈴乃を呼んでいる。鈴乃の周りでくすくすと笑う声が聞こえた。彼はお土産コーナーの商品のワゴンの前で何かに驚いている。彼の前のワゴンには、なにかいろいろなものが雑多に置いてあるのが見えた。

先ほど笑ったのは他の客だろう、それはなぜ笑っているのかはわからないが鈴乃には真奥が子供の様にはしゃいでいることへの笑いだと思った。恥ずかしがりながら鈴乃は「それでも、魔王か」とこめかみに指を当てて彼に近づいた。

「何をはしゃいでいるんだ、全く。それに水道水などと言うものが売っているわけがないだろうが」

「これ」

 真奥は言葉で答えるよりも鈴乃へ一本の缶を差し出した、その表面にはでかでかと「水道水」と明記されていた。「ミネラルウォーター」などの文字や「何とかの水」と言う洒落たことは一切書いていない、唯々「水道水」と書いてあるのだ。

「な、なぜこんなものが? 売れるわけないだろう」

「そうか? なんか味が違うんじゃねえの。買ってみるか」

 真奥はそういうと缶を一本掴んで、レジへ行こうとする。だが、鈴乃がそれを止めた。

「おい、待て」

「あん?」

真奥は呼び止められて、鈴乃を振り向いた。鈴乃はもじもじしながら、言う。

「い、いや。もう一本買っても、だな」

「飲みたいのか?」

「う、うむ」

 真奥がはしゃいでいるのが恥ずかしくて注意した鈴乃が真奥と同じものをほしがる。それはそれでミイラ取りがミイラになった瞬間ともいえよう。

 ところでこの東京は過去に水がまずいことで有名であった。そのことから東京の水道局がいろいろと模索した結果、水道水をつめた飲料商品を製作したという経緯がある。つまり、真奥達の期待するものは正真正銘、まぎれもなく単なる「水」であった。

 

 広場にあるベンチに二人並んで座る。

 真奥と鈴乃は少しだけ期待している目で「水道水」の缶を開け、同時にぐっと飲んだ。

「…………」

「…………」

 一口目を飲み終え、同時に無表情になる鈴乃と真奥。その顔は明らかに落胆していた。真奥はぼそりと言う。

「本当にただの水道水じゃねえか……」

 真奥は手に持った缶をじとっと目で見た。真奥も鈴乃も裏切られた気分ではあるのだが、最初から「水道水」と書いてあるので、「まさか本当にただの水道水ではないだろう」というのは彼らの勝手な思い込みでしかない。

 鈴乃と真奥の横をコーラを持った子供が通り過ぎた。二人の目が無意識にそちらを向いてしまう。なんでこんなものを買ってしまったのだろうと真奥は思った。ついでに缶なので、飲み干すしか選択肢はない。実際にはペットボトルのものもあるようだが、真奥は缶を買ってしまったからには仕方がなかった。

 真奥はぐっと「水道水」を飲んだ。ごくごくと喉を鳴らして、味も何もない水道水を腹の中へ流し込む。ワゴンの上に載っていたので別段冷えているわけでもない。

「ぷはあ」

 一気に飲み干して、真奥は空になった缶を一旦ベンチの上に置いた。鈴乃はちらりとそれを見ていた。自分の手元にある缶にはまだ「水道水」が3分の2程度入っている。

「…………」

 鈴乃も意を決したように缶を傾ける。真奥と同じように喉を鳴らして水道水を飲む。だが、急にそんなことをしたからだろう。鈴乃は「うっ」と唸ると、げほげほとせき込んだ。真奥は驚いて、鈴乃を気遣う。

「鈴乃? 大丈夫か」

「ああ、だ、大丈夫だ。おい、口からこぼれて……あっ、待ってろ」

 真奥はポケットをごそごそと何かを探して、黒のハンカチを取りだした。そのまま、鈴乃の口元に持って行って拭く。こんなものを常備しているのは間違いなく、智将アルシエルのおかげである。黒のハンカチにはアイロンがしっかりかかっている。

「じっとしてろ」

 真奥は鈴乃の口元を自分のハンカチでふくと言う、まるでどこかの淑女のようなことを真剣にやっている。勿論なにか考えての行動と言うよりは、とっさの行動と言った方がいいだろう。鈴乃はしばらく、とはいっても数秒間だけなされるがままにしていた。だが、はっと気が付いた。

「や、やめろ。子供みたいだろうがっ!」

 鈴乃は真奥から身を引いた。今、普通に考えるならば真奥が鈴乃にされるべき様なことを、鈴乃が真奥にされていた。彼女の言ったようにそれは子供の様に。

「おっ、おい。アブな――」

 鈴乃は真奥の声を聞きながら、視界が動いていくのを感じた。ぐっと上に引き寄せられるような感覚がして、天井が見えた。あわてて真奥から離れようとして、その体勢を崩してしまったのだ。このままでは椅子から落ちる。

「ま、まお」

 もどかしいほどにどうにもならない状況で、鈴乃は何かを言った。それは焦りの言葉である。体勢を崩してから数秒も立っていないはずなのに、自分が頭から床に落ちることがしっかりと鈴乃にはわかった。彼女は目をつむり、唇を噛む。それしかできない。

 

 落ちない。鈴乃は自分の体に衝撃がこないことを不思議に思った。それでも体は斜になっていて。どう考えても、椅子に座っているような感じではない。それだけは目をつむっていてもわかる。

「……?」

 ちくりと鈴乃の小さな鼻に刺さるなにか。鈴乃はくすぐったさを覚えて、ゆっくりと目を開けた。目の前には先ほどの同じように広場の光景が広がっていた。唯目の前には真奥の姿がない。そう、「目の前」には。

「あ、あぶねぇ。ほ、本気で焦った」

 鈴乃の横で聞こえる、そんな声。息遣いすらも耳に響く、そんな距離。鈴乃はだんだんと事態を把握し始めていた。体が動かないのは、誰かに抱き留められているからだとゆっくりと認識し始める。

 両手が動かない。それは両腕ごと掴まえられているから。

 背中に圧迫感を感じる。「彼」の両手にしっかりと擁(いだ)かれているから。

 頭が真っ白になって行く。それはどうしてなのか考えるのは、鈴乃にはわかり過ぎている。

「まおう?」

「き、気を付けろよ。まじで今のはシャレにならなかった……落ちるかとおもったぜ」

 洒落にならないと言えば今の状況そのもののことだろう。鈴乃はこの広場の真ん中で、真奥にしっかりと抱きしめられているのだから。

 それも軽く、というものではない。鈴乃が全く身動きを取れないほど、強く抱きしめられているのだ。これも真奥が鈴乃の身を守る為に動いた結果なのだろう。それでも鈴乃は自分の顔のすぐ横に「真奥の顔」があることでどうしようもなくなってしまう。

 真奥の髪が頬に当たる。鈴乃の指がぴくぴくと動く。なにか言おうと思うのだが、口が動かない。開いては閉じてしまう。

 そんな混乱の極みにある鈴乃の目にある光景が飛び込んできた。

 ここは公共の施設の公共の場である。だから、鈴乃と真奥以外にも多くの人々がこの広場にいるのだ。鈴乃の視界の中に「彼らは」いた。それも皆が真奥と鈴乃の様子を見ている。あるものは手を口に当て、あるものは口元をほころばせている。

 (ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ?あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ)

 心の中で絶叫する鈴乃。今日一日の記憶が走馬灯のように脳内を駆けめぐっていく。真っ赤になった彼女の姿を、好奇の目で見る人々。方やよこの真奥は「焦ったぁ」などとのんきな言葉を繰り返している。本当に焦ったのだろう、今の鈴乃の比ではあるまいが。

「あ、わり」

 真奥はやっと鈴乃に抱き着いた格好であることに気が付き、彼女を離した。唯、腰に手を回して椅子に座り直させるというアフターサービスのせいで、鈴乃の心臓の音が大きくなる。

「鈴乃?」

「ひい」

「…………はっ! またゲーセンの時みたいに呆けちまった。その変な声で返事するのやめてくれ!」

 (そ、そんなことをいったってえ)

 涙目で鈴乃は抗議する。勿論声などでないから、視線を使ってである。不可抗力とはいえ、あんなことをされてしまったあとなのだ。体中が真奥に「抱きしめられた」感触を覚えているのだから、どうしようもない。

「ま、まおう。か、かたじけな、なな」

 呂律のまわらない舌で、なんとかお礼を言おうとする鈴乃。そんなことまで律儀にしようとする彼女は間違いなく善人なのだろうが、今はその性格があだになっていた。頬はほんのりと桃色で、目も少しだけ赤い。

「お、おまえ、すごい熱だぞっ。つうか、うまく言葉がいえてないし!」

 そういうと真奥は鈴乃のおでこ手を当てた。熱い。真奥は本気で鈴乃のことを心配した。

「やべえな。今日の疲れが出たのか? とにかく、早いところ病院に行かねえと」

 いうがはやいか真奥は鈴乃を抱きかかえる。背中と膝の裏に手を回して状態のそれは、まぎれもなくお姫様抱っこ。

 (えっ?)

 鈴乃と周りのギャラリーの心の声が一致した瞬間であった。あまりの真奥の決断の速さに誰もついていけてない。だが鈴乃は当事者である。そのうえ、熱とは言っても病気などではないので正常な思考能力はまだ残っている。

 (ま、まお。えっ?)

 見上げた先に真奥がいる。その彼は目線を下げて、歯を見せて笑った。

「安心しろ、鈴乃。下まで連れていってからタクシーを捕まえてやるからな」

 安心しろというのを言葉と態度で表す真奥だが、完全に見当違いである。なぜならばこの状況が一番安心できない。それでも立ち上がった真奥はその状態で、入り口にあるエレベーターまで彼女を連れていく。エレベーターの前は、今から降りようとしている人々が十人程度とその人たちを案内する警備員一人だけいる。真奥はその警備員の男にいった。

「警備員のおっちゃん! 鈴……この子が熱を出して、具合が悪いんだ! エレベーターに乗せてくれ」

「わ、わかりました。すぐに呼びます。お待ちのみなさん申し訳ないですが。急患が出ました! 次の搭乗はご遠慮ください」

 警備員はそう搭乗を待っている人々に言うが、特に非難の声は出なかった。それは鈴乃の顔が本当に赤いことと真奥の必死な様子に納得したからだろう。それから警備員は肩から下げた無線で何かを下に伝えていた。

「鈴乃、気をしっかりもてよ」

「……あ、あうう」

「くっ、変な声しか出ねえのか。今日一日なれないことをさせちまったからな……すまねえ、鈴乃」

 鈴乃はにはわかっている。この場の全ての人間が真奥達、主に自分を見ていることを。それだけでもう声が出せる状況ではない。

「つきました、お客様!」

「ありがとうございます!」

 真奥は警備員に敬語でお礼を言う。これもアルバイトで培った社交性と言うものだろう。彼の目の前でエレベーターのドアが開いた。下の人々も気遣ってくれたのか、誰も乗っていなかった。

 真奥は小走りでそこに乗る。一度振り返って、警備員やその他大勢のまってくれた人々に一礼する。そしてコンソールで一階に行くボタンを押した。

 (…………)

 鈴乃は無言で自分の顔を手で覆った。もはや恥ずかしすぎてわけがわからない。彼女はゆっくりと閉まっていくエレベーターのドアを指の隙間から見るしかなかった。

 ドアが閉まり、上から圧迫感を感じるのはエレベーターが動き出した証拠だろう。二人きりの空間が地上数百メートルから降りていく。

「……まおう……」

「ん? 大丈夫か」

「わたしは……病気……じゃない。別に苦しいようなこともない……」

「えっ、で、でも」

 真奥はその言葉に焦った。いろんな人に頼んでこの状況になったのだから、鈴乃が病気じゃないとなると別の意味で申し訳がない。だが、彼はそんなことで文句を言うような男でもなかった。

「まあ、それならよかったな」

 どこかほっとしたような真奥の声。鈴乃はそれを聞きながら思う。

 (もっと、しっかりと魔王らしくしてくれれば、私は……好きになったりしないのに……)

「真奥」

 もう一度鈴乃は呼ぶ。その後に続く言葉は絶対に言ってはいけない言葉。だからそれで黙ってしまう。真奥はいぶかしげに彼女に聞いた。

「やっぱり具合が悪いのか?」

「いや……」

 言ってしまいたい。自分の気持ちを。言えばどれだけ楽になることができるだろうか、それだけで苦しむこともなくなるかもしれない。しかし、それでも彼女は絶対に言うことはない。それを言うのであればすでに「鎌月鈴乃」ではない。

 鈴乃の唇が震える。理性が彼女を止める。お腹が鳴る。

「…………」

「…………」

 別の意味で赤くなる鈴乃。ごほごほとわざとらしく咳払いをする真奥。彼は鈴乃を気遣ってこういった。

「なんか俺、腹減ってきたなあ。そういえば夕飯は食べてなかったな」

「…………」

 わざわざ「俺」を強調するわざとらしい説明口調の真奥。黙り込んだままの鈴乃。

「最後に飯食いに行こうか。鈴乃はどこに行きたいんだ?」

「…………うどん…………」

 半ばやけくその気持ちで鈴乃は言う。真奥はうんと頷いてくれる。彼女がそれを好きなのは、彼も知っているからだ。しかし、ひょうたんから駒という言葉のとおり。思いがけないことは、思いがけないところで起こることもある。

 

 蛇足になるが一階に降りた真奥と鈴乃はいつの間にか「お姫様だっこ」から「おんぶ」に代わっていた。前者は恥ずかしいというのがその理由だが、都庁のエントランスを「おんぶ」で歩くのとはどっちが恥ずかしいのだろうか。

 





お疲れ様です。補足ですが、東京の水はペットボトルで売ってます。どうでもいいですね。


次は最終回です。最後までお付き合いいただければ嬉しい限りです。



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