いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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しかし彼は道を選ぶのに杖を使った

 その男の子は自分をコントロールできていなかった。左右から延々と交互に、殴られているかのような頭痛は、抑えきれない感情が身体中の血液に混ざって頭の中で暴れているせいである。眩暈すら呼び起こす苦しさを前にしても、男の子は溢れ出る涙を止める事も、両手で必死に引っ張る母親の手を離す事も、決して諦めはしなかった。

 

 倒壊した建物の前で、男の子は泣いていたのだ。

 

 ついさっきまで手を繋ぎ歩いていた母親は、建物の下敷きになってしまっている。地面と瓦礫の隙間から唯一覗かせるのは母の左手だけだ。その下からは、地面の砂を取り込みながら面積を広げる、濁り切った血液が。

 

 声がする。

 

 瓦礫の下敷きになりながらも、我が子を想う母は弱々しい声で遠くへ行くように言っている。

 

 人がいる所に行きなさいと。

 ここは危険だからと。

 

 しかし、母の声は届かない。暴れる無垢な感情に囚われた男の子は、一心不乱に母の手を引っ張るばかりだ。遠くで起こっている争いも当然、男の子の意識には届かない。

 

 その時、地面が大きく揺れた。上下にバウンドしたかのような大きな揺れに、男の子は前のめりに膝を付く。掌を地面にぶつけ、痛みが走った。溢れる涙の量は増すものの、男の子はすぐに立ち上がって、母親の手を再度引っ張る。

 

 状況は変わらない。

 

 母親の声が、先ほどの地面の揺れを経てから、ほんの微かにだけ、強くなる。

 遠くに逃げろ。

 建物が崩れる。

 早く、大人のいる方へ―――。

 

 瓦礫が悲鳴をあげる。鈍く、錆びた鉄同士が擦れ合うような、酷い音。それは男の子の頭上から、覆いかぶさるように近付いてきた。

 

 屋根の骨格部分。倒壊した時にはまだ原形を微かに留めていたそこは、先ほどの揺れで致命を与えられ、最後の雄叫びを上げながら、崩れ始めたのだ。

 

 外側の石が剥がれ、骨格部分の鉄柱が、ゆらりゆらりと傾いていく。

 

 男の子は気付かない。

 

 感情に任せるだけで、何も男の子には届かなかった。

 

 また、地面が揺れた。男の子は尻餅を付き、その時になってようやく、鉄柱が自分を狙っている事に気が付いた。その気付きはたったの一瞬で、本能的にイメージできてしまった死の恐怖に身体は凍結させられる。唯一出来た現実への抵抗は、瞼を閉じる事だけだった。

 

 真っ暗闇。

 

 暗闇の底で、母親の温かい手を求めた。血に染まった手ではなく、建物が倒壊する前に繋いでくれていた温かさを。

 

「―――おい、小僧」

 

 低い、男の声が上から降ってきた。

 男の子は恐る恐る、瞼を開ける。

 

 そこには―――鬼がいた。

 

 身体の至る所を血に染め、巨大な包丁を背負っている。片方しかない腕は、落ちてきた鉄柱を後ろ手に支え、筋肉が盛り上がっている。双眸は、獲物を正確に見定める為に付いているかのように鋭かった。

 口元から首全てを巻いて隠す包帯の奥から、鬼の声が飛び出した。

 

「さっさと失せろ。殺すぞ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 木ノ葉隠れの里を救う。

 

 桃地再不斬にとって、これまで受けてきた依頼や任務の中で最も難しいものであった。

 

 なによりも、具体性が無い。何を以て完了なのかも、失敗なのかも分からない。もしかしたら、依頼主であるサソリの匙加減や、大本のフウコの気分次第で成否が決められてしまうことは十分に考えられる。

 ある意味では、不安要素が最も付き纏うものだった。

 

 それでも二言もなく了承をしたのは、ひとえに白の為だった。

 

 サソリから捨てられること無く、フウコの癇癪に巻き込まれないように。

 白と共にアジトを出て、辿り着いた木ノ葉隠れの里は、確かに死に体の近くにはあったかもしれない。滅びに向かう里というのは、こういう経緯を突き進むのだろうと思わせる程度の感慨を持ちはした。

 

 もしも野望を捨てなければ。

 

 自分は白と共にこの光景を作っていたのか―――いや、作ることが出来たのだろうか。

 これほど困難な光景を実現できただろうか。

 里を囲う高い塀に腰かけて、数分程、別の可能性の自分たちの末路に小さく恐怖していた。

 

「……ナルトくん…………」

 

 隣で白が小さく呟いた声には、悲しみが詰め込まれていた。

 

 里の中央から離れた区域。並んでいた建物が方円状に軒並み吹き飛ばされているそこには、全身を赤く染めたうずまきナルトが咆哮を上げているところだった。波の国で争った時よりも、チャクラの尾を増やし、より狐の姿に近付いた姿は、もはや人間ですら無く、里を滅ぼす最前線のようにしか見えない。

 

 おそらく、アレ(、、)を消せば、里を救う事に繋がるのは間違いない。

 

 だが。

 

「あんなのとやり合うつもりはねえ」

 

 再不斬は別の選択肢を選んだ。

 言葉通り、尾獣化したナルトと争っても勝ち目が無いという事が半分。白が、彼と争う事に抵抗を感じさせないという事が半分。どちらにしても、白を大事に思っての判断だった。

 

 再不斬はシンプルに、音の忍を刈っていった。

 

 無音殺人術(サイレントキリング)を駆使したゲリラ戦法。倒壊した建物の影から影へ。敵の背後から、また別の敵の背後へ。背負った首切り包丁を片腕で巧みに操り、一人また一人と、雑草を刈る様に命を消していく。

 

 何も考えずに、今までの経験を再現するだけ。楽な行為だった。

 

 白には索敵を任せている。効率が良い、という言い訳を指示として出しておいた。危険は無いだろう。里の中央付近で暴れている巨大な蛇らは、いずれ木ノ葉の忍に消されるはず。尾獣化されたナルトも、時間が経てば元に戻るのだろう。サソリは予め、木ノ葉隠れの里は救われると語っていた。ならば、危険を冒さなければいいのだ。

 救うも、救わないも、関係ない。

 これはフウコの癇癪を治める為のポージングである。

 意味の無い、結果しか観測されない行為。

 それはサソリも承知し、指示を出したはずだ。

 音の忍を殺しているのは、サソリの意図したもので間違いないだろう。

 サソリの指示に従い続ければ、白の救いが近づいてくる。

 何も考えず、何も見通さず、経験を再現するだけでいいのだ。

 

 そう、思っていた。

 

 つい数秒までは。

 

 なのに、どうしてだろうか。

 

 目端に引っ掛かった子供を捉え、落ちてくる鉄柱の間に身体を滑り込ませたのか。

 

 見逃せばいいのに。

 

 たかが子供一人。死んだところで、木ノ葉が滅びる訳ではない。そんなものは、分かっていた。いくらサソリと言えど、子供一人見捨てた所でこちらを見捨てたりはしないだろう。あるいは子供の死すら報告しなかったところで、名もなき被害者が増えるだけだ。どちらにしても、仕方がない、と彼は呟くだけだろう。そのことは、すぐに想定できた。昔の自分なら気にも止めていないのは間違いない。

 

 それでも子供を救ってしまった自身の不可解な行動に、再不斬は頭を悩ませた。瞼を大きく開き腰を抜かしてしまっている子供を見下ろしながら考えても、動いた事への正当性の証は見つけられなかった。

 

「おい、聞いてんのか。さっさとどけ!」

 

 有耶無耶とした自身の行動への苛立ちを、半ば八つ当たりのように声を荒げた。残りの半分は、折角助けたというのに、腰を抜かして動けなくなっている子供に向けた単純な怒りである。子供とは言え、忍里の人間ならば、いくら命の危機だったとしてもみっともなく動けなくなり続けるなど、話にならない。

 

 自分が同じくらいに幼い頃では人を殺している。死線も何度か潜り抜けた。それでも、動けなくなるほど怯えた事など無い。

 

 怒鳴っても動こうとしない子供に舌打ちをする。鉄柱を支える左腕にチャクラを集中させた。支えていた鉄柱を軽々しく横に弾き出すと、地面は軽く揺れ、鉄柱は誰もいない地面に突き刺さった。

 

「……立てるか?」

 

 ぶっきらぼうに尋ねる。子供は涙を零し続けながらも、リアクションは無かった。

 

 再び、舌打ち。

 

「死にたくなかったら、そこらへんに縮こまって隠れてろ。分かったな」

「…………―――――ん、が……」

「あ?」

「おかあ、さんが……」

 

 ようやく出てきた言葉に、再不斬は眉を顰める。ふらふらとした指で示す、倒壊した建物を眺め、そこで、どうして子供がここにいたのか理解した。

 建物の下から零れ地面を這う赤い液体。その上に横たわるのは人の手で、ああ、と再不斬は嘆息する。

両親なのか、知り合いなのか。子供は助けようとしていたらしい。

 

 まだ微かに指は動いている。生きているという事は分かる。また逆に、もうそろそろ、手の主人が死ぬ事も分かってしまう。何度も死の間際の人間を見てきた再不斬にとっては、空模様を眺めるのと同じくらい簡単な事だった。

 

「おね、がい……」

 

 気が付けば、子供が足元にしがみついていた。

 震えた声と震える足。しがみつく腕の力は弱く、軽く動かしてしまえば腕そのものが身体から引き千切れてしまうのではないかと思うほど体重を依存させてしまっている。

 子供と目が合った。頬を濡らす涙は、目を真っ赤にさせて、感情の痛々しさを訴えかけてくるものの、再不斬にとってはただ、煩わしいだけの光景でしかなかった。

 

「おかあ、さんを……たすけて…………」

 

 助けるつもりはない。

 

 瓦礫の下の母親は、じきに死ぬ。瓦礫から身体を出したところで、殺す術しかない自分には、結局のところ、死から遠ざける手段など持ち合わせていないのだ。ならば、もはや死体のそれに相応しい者に時間を費やすよりも、これから死体にさせられるかもしれない者を殺そうとする、音の忍らを消した方が効率は良い。

 

 里は救いに来た。

 

 しかし、人を助け(、、、、)に来たわけではない。

 

 今度こそはと、再不斬は足を一歩動かし子供の腕を払った。勝手にしろと、心の中で大きく言ってやる。特に目指す方向も無く、子供から歩み遠ざかる。頭の中を切り替えた。いや、戻したと言った方がいい。

 

 過去の自分に。

 

 つい先ほどまで音の忍らを刈り殺していた時の自分に戻らなければいけない。まだ里の脅威は消えていないのだ。

 つまりは、ポージングは続けなければいけない。

 戻そう。簡単な事だ。これまでの経験を思い出す。首切り包丁が骨を断つときの衝撃を、致命傷に至る部位を断つ為の思考パターンを。冷静冷徹を取り戻すにつれて体温が下がっていくような気がする。悪くない感覚だった。

 

 しかし、そこで―――子供は泣き出した。

 

 再不斬の背中に向けて罪悪をぶつけるように、音の忍の存在など気にも止めない大声だ。耳障りで甲高い、死にかけの鳥のような音だった。

 

 体温が上昇するのを感じる。鉄柱を腕で支えた時のような、原因不明の衝動と似た感覚だった。だが、浮上してくる苛立ちの矛先が見つけられなかった。子供に対しての苛立ち、自分の感情の無制御さへの苛立ち、どちらとも厳密ではないのは、自身が正確に判断できる。

 

 歩みを止めたのは、白が姿を現したからだった。

 

「ここの近くには、音の忍はいません」

 

 と、彼は呟いた。殆ど音を出さないままに姿を現したこと。フウコとの戦闘技術における修行とは別に、再不斬自身が教えていた忍としての技術だ。無音歩行術。随分と上達した、そう評価できる程度には、体温は下がっていた。

 

「里の状況はどうなってる?」

 

 白の微かな視線の動きを、再不斬は見逃さなかった。鳴りやまない大声を出し続ける子供を、白は一瞬だけ見た。その瞬間だけ、ほんの微かな刹那だが、白の表情に曇りが出来ていた。

 

 抱き、滲ませてしまった感情を瞬時に隠したのだと、再不斬は判断した。零れてしまった感情は、白らしい、優しいもの。しかし彼は無表情を徹底し、応えた。

 

「徐々に音の忍たちは刈られていっています。暗部も動き出しました。少なくとも、もう間もなく、大蛇丸以外の者たちは排除されるでしょう」

 

 下手をすれば、その排除の流れに巻き込まれるかもしれない。再不斬と白は同じ事を考えていた。里に到着した時は滅ぼされる過程を進んでいたかのような姿だったが、今はまるで違う。懐に入ってきた音の忍たちを囲い、殲滅し尽くそうとしている。

 その余波は、たとえ音の忍ではなくとも、木ノ葉の忍ではない自分たちをも巻き込んでもおかしくはない。

 救おうとしている相手に殺される、そんな大間抜けは御免だ。

 引き時か……。音の忍は、それなりの数に減らしたはずだ。雑魚に関しては、もう放っておいても構わないはずだ。残るは、大蛇丸と、ナルト。

 

 どちらの対処についても、サソリは指示を出さなかったが、ナルトは別にしても、大蛇丸が里にいる事は知っているのは間違いない。フウコが暴走しようとしたのも、大蛇丸が里にいるという事を【暁】から知ってからなのだから。

 ならば、無視をしろ、ということか。

 ナルトにしても、同様のはず。大蛇丸の所在を突き止めた【暁】ならば、ナルトの事も察知していてもおかしくない。集合の際は、報告がなされただろう。

 大蛇丸に関しても、ナルトに関しても、つまりは、ノータッチ。触れなくていい。

 下手な火の粉を被る前に、離れた方が―――。

 

「お願いだから……お母さんを………」

 

 足を、掴まれた。

 後ろで泣いていた子供に。

 今度こそは離さないという、微かな強い意志を持ちながら。

 

「助けてよ……」

「………………」

 

 子供の腕を払うのは、簡単だ。さっきと同じように、軽く足を動かすだけでいい。難しい事じゃない。今までの経験を思い出せばいい。

 自分たちを雇い、身勝手に契約を反故にし、報復を与え、怯え、命乞いをしてきた雇い主たちの時のように、足元の雑草を払うように。

 

 だが再不斬は……じっと子供を見下ろしたまま、微かにも動こうとはしなかった。

 

 子供の意志を受け取ったから、などという人情的なものではない。

 すぐ隣に、白がいるからだった。

 きっと普通の―――ごくごく普通の人間なら、助けようと思うのだろう。

 カカシ達のような連中はきっと、こういう場面では、子供の頼みを聞き入れるのだろう。死のうが、生きまいが、自分たちには何の影響も与えてはくれない赤の他人であっても、助けようとする。

 それが普通の感覚に違いない。

 そして白は、サソリの計画の果てに、その感覚が溢れた世界に行かなければいけない。

 その感覚の切れ端を、自分があっさりと破棄していいのか。思考が渦巻きを描き、流転し、そしてまた、自分の感情を見失う。子供を咄嗟に助けた時と同じ感覚だった。

 何を、今更。

 白はフウコの修行を受けているのを、なら、どうして止めなかった。

 サソリから木ノ葉隠れの里を救えと依頼を受けた時、どうして白を連れてきた。

 今更だ。

 今、その段階を考えるべきじゃない。

 白が普通の世界に戻る為の下準備はまだまだ先で良いと思っていたんじゃないのか。

 どうして考える。

 言い訳のような、考えを。

 無駄な、贅肉のような考えを。

 

「……再不斬さん、行きましょう」

 

 そう呟いたのは白だった。

 

「もうサソリさんからの依頼は達成したと思います。これ以上、木ノ葉にいると、僕たちが危険です」

 

 忍としては、正しい。

 だが、白の無表情は、自分の言葉に針を吐き出すような悲痛を抱えているのが伝わってくる。本当は子供を助けてあげたいと、思っているのだ。

 

「……お前がそんなこと言うんじゃねえよ」

「え? 再不斬さん……?」

 

 口元で小さく愚痴る言葉は、白の耳に明確には届きはしなかった。

 再不斬はしゃがみ込み、子供の頭を思い切り掴んでやった。

 

「いいか、小僧。これから俺の言う事をよく聞け。そうすりゃあ、テメエのおふくろを助けてやる。分かったな」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「ゆっくり進んでいきましょう、綱手様。無理はしないペースで。もうこの辺りには、敵はいないようですし」

 

 柔らかい、穏やかな口調でシズネは言ったが、綱手から返事は来なかった。声すら聞こえていないだろう。それでも温かな笑みを浮かべた、震える綱手の肩を両手で支える。細やかな木枯らしにすら劣る、緩慢とした歩みの主導権は綱手だが、それを少しでも動かそうとはしない。シズネは静かに、綱手を観察する。

 

 ―――だいぶ、落ち着いてきてはいる……。だけど……。

 

 今にでも壊れてしまう水鉢のようだった。所々にヒビが入り、隙間から水滴が少しずつ零れていて、微かな衝撃を与えてしまえば粉々に壊れてしまう寸前のようだ。この場合、身体の事ではなく、心がだ。

 中空を見つめる瞳は小刻みに震え、外界の情報を殆ど受け取っていないように見える。両手は首飾りの鉱石を握りしめているせいで、自身の身体を抱くような姿勢になっている。綱手にとって、外界の情報はもはや、そこに在るだけで心を破壊する情報なのだろう。夜中の布団の中で、窓の外の木の枝のさざめきに怯える子供のようだった。

 

 身体に外傷は無い。一つとして。しかし、まだ微かに彼女の身体からは、血の臭いがあった。綱手自身の血ではなく、他者から浴びた血の臭い。白い肌に付いたものは綺麗に拭き取り、血を浴びた上着は途中で脱ぎ捨てさせたが、それでもまだ、鼻に纏わり付く。あるいは、周りからの臭いもあるのかもしれないが、それらが、未だ綱手の心を正常に戻させなかった。

 

 血液恐怖症。

 

 綱手が患っている、精神疾患である。

 血に触れるだけ、血を見るだけで、綱手の身体と心は強く委縮してしまう症状に今、彼女は苛まれている。

 

 ―――まさか、木ノ葉に戦争を仕掛けてくるなんて……。

 

 運が悪かった、などという域を逸脱している。他里の忍との小競り合いはよく聞く話だが、里そのものに襲撃するなど、今の世においては沙汰の外だ。巨大な蛇が里の塀を破壊してから、瞬く間に戦闘は始まった。音の忍と木ノ葉の忍が建物を飛び交い、酒屋で酒を飲んでいた自分たちの上空から血が降ってくるなど、いったい、誰が想像できるだろう。

 血を浴びてから、綱手はしばらく動けないでいた。その間、幸いなことに、戦闘に巻き込まれる事はなかった。そのまま、動けるようになってからは、静かに気配を消しながら、細心の注意を払って移動していた。疾患に苛まれている綱手を傍に戦闘をするのは避けたかった。

 できたことは、綱手を慮りながら、避難所へ向かう事だけだった。綱手と共に木ノ葉隠れの里を離れる以前から、避難所の位置は把握している。年月と共に場所の変更はあったかもしれないが、他に手立てがない。このままの状態で一定の場所に留まるよりは、遥かにマシだ。

 

「綱手様。安心してください。もうすぐで安全な場所に着きますので」

 

 もはや何度目かも分からない、綱手を安心させる言葉をシズネは呟いた。言葉以上の効果を発揮しない事を証明するかのように、綱手はやはり、返事もしない。それでも着実に歩みを進める。

 

 子供の叫び声が聞こえてきたのは、その直後だった。

 

 不吉と不幸を隠そうともしない金切り声。シズネでさえ寒気を抱き、木ノ葉隠れの里の状況と相まって、容易に子供の事態を把握できてしまいそうなほど、はっきりと空気を震わせた波は、当然、綱手にも大いに伝わった。

 

 ピタリと綱手の足が止まった。そして、肩の震えが強くなるのを両手で感じ取ると、シズネは鋭く周囲を見回した。音の忍がすぐ近くにいる可能性を真っ先に予見したのだ。

 

 襲われているかもしれない子供。

 辺りの倒壊した建物に反響して広く響き渡る叫び声。

 その声に群がってくるかもしれない音の忍たち。

 幾通りの想定を重ね、綱手の一番弟子であるシズネの、その意識の警戒網を―――白は網目からすり抜ける水滴のように、悠々とすぐ眼前へと姿を現して見せた。

 

「―――ッ!?」

 

 音も無く、視界の外に霧のように気配を現した白を見た瞬間、シズネの思考はシビアになった。

美しい均整の取れた顔立ちをした子供。少女なのか、少年なのか、それすらも判別は難しい。木ノ葉隠れの里の忍なのかどうかすら。

 

 それらの情報を一切合切にシャットアウトし、綱手を守る為だけに身体は動いた。躊躇いなく袖の中に潜ませていた暗器を露わにする。暗器は指程の大きさをした筒状の射出機だった。数は五つ。中には毒液を染み込ませた針が装填されている。

 

 針の毒液は、皮膚を軽く削るだけでも十分に人体に害を及ぼせるほど強力なものだ。

 

 殺しても構わない。

 

 直感だ。

 

 目の前の相手は、少なくとも、木ノ葉隠れの里の人間ではないという直感が微かな躊躇いを踏み殺し、針を射出する紐を引いたのだ。紐から指が離れると、針は毒液を細かく飛沫させながら射出される。

 

 人の手で投擲される物よりも早く、そして目視難い小さな針。

 

 しかし、白はそれを悠々と指先で挟む様にして捕えた。

 

 すかさずシズネは術を放とうと印を結ぼうとした時、「安心してください」、と白は穏やかに呟いた。

 

「御二人と争うつもりはありませんので」

「……なら、どうして気配を消して近付いてきた」

 

 シズネは決して警戒を解くつもりは無かった。針をあっさりと捕えた事に脅威を感じた訳ではない。

 戦場となっている木ノ葉隠れの里の只中で、赤の他人を前に、子供らしい優しい笑みを浮かべている異常さが、シズネの琴線を弾いたのだ。見た目に反して、場数を相当数こなしているのが分かった。

 

 白は応える。

 

「ボクに修行を付けてくれる方の教えでして。常に気配を消して相手に近付けと、教えられています。誰かが近づいているのは分かっていたので、確認も兼ねて、そうしたまでです。木ノ葉隠れの里の方だと最初から分かっていれば、誤解を生まないで済んだのですが」

「どうして私たちが、木ノ葉の者だと?」

「今、木ノ葉を襲っている人たちとは恰好が全く違いますし、ボクがこうやって話している間も、警戒しかしていません。殺気も、もう収めてる。襲撃する側の人としては、いささか生温いです。襲っている側の人ではないのなら、木ノ葉の方だというのは、すぐに分かります」

 

 ですが安心してください、ともう一度、白は言った。

 

「ボクは木ノ葉の人間ではありませんが、敵でもありません。味方という訳でもありませんが……」

 

 言葉の信頼を得ようとするかのように一歩、彼は距離を取った。遠すぎる訳でも、近すぎる訳でもない、曖昧な距離。しかし、絶妙だった。言葉が本心かどうかは別として、不必要な敵意と過剰な好意だけを振り落とす位置関係。

 

 巧みさが鼻に着くものの、いやむしろそのわざとらしさが、本心を話しているのですよという奇妙な誠実さを伝えてきたのだ。

 

「……ならば、私たちを見逃していただけないですか? 敵意が無いというのなら―――」

「いいえ、それは少しできません」

 

 穏和な笑みから一転し、鋭く視線を細くした白に、そこで初めてシズネは違和感に気付いた。気配を消して近付いてきたというのならば、途中で分かっていたはずだ。こちらが音の忍ではない事に。なのにわざわざ、姿を現したという事の矛盾。

 目的がある。

 どんな目的か。

 もしも、要求してきた事を拒絶した場合、敵対ではないと言ったグレーの関係がどう変色するのか。

 

「……この針に付いているのは、毒ですね?」

 

 指に挟んでいた針を、毒液ごと指から払うようにして地面に捨てた。

 

「ボクの雇い主の人もよく毒を開発したり使ったりするので、分かります。その人は、人体に詳しいのですが……貴方も、それに類する方ではないですか?」

 

 もしそうであるならば、お願いがあります。

 

「向こうで、瀕死の女性がいるんです。治療が可能ならば、助けてあげてください」




 申し訳ありません。今回は難産だった為、大幅に更新が遅れてしまいました。次話はスムーズに行くと思います。

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