いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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 中道です。

 およそ、一年近くの改訂の末、今回でようやくの灰色編の終了となります。中道の不手際によって、こちらを読んでいただいた方々、そしてご指摘やご感想及び評価などをしていただいた方々に多大なご迷惑をかけてしまったことを、この場を借りて謝罪申し上げたいと思います。

 誠に、多大な時間をいただいてしまい、申し訳ございませんでした。
 今後、身の丈に合った分相応なストーリー構成で精進していきたいと思います。

 前述したとおり、今回で灰色編は終了と致します。また、サブタイトルが打ち切り漫画のタイトルのように思えるかもしれませんが、匙を投げるつもりはございません。次話からは、ナルトの世代を本格的に加えて話を続けていきます。今のところ、次世代編、という名目で作ろうと考えております。

 次話の投稿に関してですが、少しだけ時間をいただきたいと思います。具体的には、今月末日、あるいは来月の一日のいずれかまで、次話は投稿は致しません。

 理由としまして、まず、ここまで書いてきた文章の誤字脱字などの訂正を行いたいと思っております。そちらに時間を幾つか割いてしまうということが一点。さらに、中道のプライベートな理由もございます。
 実は、中道は近々、肉体改造をしなくてはいけなくなりました。親知らずというものと戦うことになっています。しかも二本です。改造後は激痛が残るようで、それによって書くペースが遅れてしまうことが危惧されます。

 以上の理由を持ちまして、次話の投稿は今月末日あるいは来月の一日となります。必ず、そのどちらかに投稿は致します。

 では、灰色編最終話です。およそ三万文字ですので、お暇な時間に軽く読んでいただければ幸いです。

 ご指摘、ご批評がございましたら、ご容赦なくコメントしていただけたらと思います。

 ※追記です。

 書き忘れてしまったことが一つありました。実は、灰色編は構想の中では、もう一話分書こうと思っていたところがあります。ですが、その話を入れても、本編との中心的なストーリーとはあまり関わりが深くないため、没としました。けれど、本編を書きながら、ポツポツと書き進め、いずれはその没になった話を外伝として入れようと思っています(具体的には、フガクやミコト視点などの内容です)。

 ○ ○ ○という記号を今回は用いています。こちらの記号は、時間経過及び三人称視点を示唆するものです。


敗北の彼方。……そして、次の世代へ。

 私は走った。

 背中から追いかけてくる恐怖から逃げるように、走った。

 

シスイを背負っている。血液が抜け出たせいか、彼は軽かった。人一人を背負っているとは思えない軽さにおびえながら、頭の隅で考える最も人目に付かないルートを選ぶ。

 向かう先は、暗部の元。

 暗部には医療忍術に秀でた者が常備待機されていて、手術を行える設備も用意されている。その設備なら、まだシスイは助かると私は一心不乱に考えていた。

 

 そう。

 

 私はまだ、現実を受け入れられなかったのだ。

 シスイが死んでしまったということを。

 永遠に、彼と会うことができないという事実を。

 二度と、彼と会話を交わすことができない未来を。

 

 暗部の本部に入る。副忍である自分だけが知らされている、裏口から。万が一にも、今の自分の姿をダンゾウさん直轄の【根】以外の者に見られるのは危険だったからだ。

 

 大樹の中のような、上に高く下に深い、薄暗い内部。上下に幾重にも直線の通路が張り巡らせていて、その一つを走っていると、ダンゾウさんが通路を歩いていた。彼の後姿に、私は涙声で呼びかけた。

 

「ダンゾウさんッ!」

 

 震える足から力が抜けて、膝をついてしまう。

 振り返ったダンゾウさんは、包帯が巻かれていない左目で私を見下ろすと、微かに眉を動かしたけど、この時の私は彼の表情の機微に気づくことはできなかった。

 

「お願いしますッ! シスイを………シスイを助け―――」

この者を捕えよ(、、、、、、)ッ!」

「え………?」

 

 ダンゾウさんの怒声が響き渡る。突然の彼の言動の意図を理解する前に、私は十数人もの【根】の者たちにうつ伏せに組み敷かれた。猛獣でも抑えつけるかのように乱暴で、それでいて迅速な対処に、成す術もなく顎を地面に打ち付けられ、背負っていたシスイから離された。首筋に暗部の刀を据え付けられるが、私は乱暴な感情のままに彼に尋ねた。

 

「これはどういうことですかッ! ダンゾウさんッ!」

「黙れ」

 

 残酷さと冷酷さを隠そうともしない声が耳に残響する。彼は私からはっきりと視線を逸らし、一人の【根】の者が抱えたシスイの姿を見た。シスイを抱えた者は迅速に脈拍を測っている。

 

「どうだ?」

 

 と、ダンゾウさんは彼に尋ねた。

 

「死んでいます」

「……そうか」

「違うッ! 死んでなんかいないッ!」

 

 何よりも客観的な判断しかできない【根】の触診を、私は大声を上げて否定した。

 

「ダンゾウさん、お願いしますッ! シスイを………シスイを助けてくださいッ! まだ彼は生きていますッ! ここの設備を使えば、きっと、シスイは………」

 

 そこで一度、私は言葉を切った。

 目を覆われたからだ。

 布か、紙か。とにかく、完全に視界を封じられた。その時になってようやく、事態を把握できた。

 

 疑われている、と。

 

「これから……貴様がどちらかなのかを判断する。―――お前は誰だ?」

「わ……私は…………うちは―――」

 

 首に据え付けられた刀に微かな力が加えられる。

 もしかしたら今の瞬間、私の首が刎ねられてもおかしくなかったのかもしれない。私は改めて、言葉を選んだ。

 

「……八雲…………フウコです………………」

「血継限界の能力は?」

「血を操る……能力です………。副作用として………………、同族の生命が危ぶまれた時………血が……………血脈を残そうと…………暴走します………。相手を滅ぼすまで……、身体を動かされます………」

「八雲一族を滅ぼした一族の名は?」

「……かぐや一族だと、扉間様から聞いています」

「母の名前は」

「………八雲……エン」

 

 沈黙。

 どのような判断がされたのか。

 いや、それはどうでもよかった。

 

「シスイ……。シスイを………助けてください………」

「シスイは死んでいる」

「死んでなんかいないッ! シスイ……起きて…………声を聞かせてッ!」

 

 だけど私の叫びに応えてくれる人はいなかった。

 目隠しが涙に濡れる。

 胸が苦しい。

 後悔が、舌を痺れさせる。

 本当にもう二度と、彼と話すことができないのか。

 生きている限り、彼と会うことができないのか。

 死んだとしても、 会うことができるのか?

 

 もし。

 もしも、

 永遠に彼に会うことが、出来ないのだとしたら。

 私は、彼と最後に交わした言葉が……嘘のまま。

 謝ることも出来ないままだった。

 その恐ろしさと、悲しさに、歯がカチカチとぶつかって鳴り、苦しくなった。

 

「シスイ……、お願い…………目を覚まして………。お願い………」

「お前が殺したんだ」

 

 断定的な宣告。

 その言葉だけで私は死んでしまうのではないかと思ってしまうほど、心臓が大きく動いた。

 

「違う………。わ……私じゃ……。フウコちゃんが……」

「お前があの時、滝隠れの里に行った。その選択が、この事態を招いたんだッ!」

「違うッ!」

 

 私じゃない。

 私じゃ、ない。

 何度も私はその言葉を口にした。自分に言い聞かせるように……ううん、事実、私は自分に言い聞かせていた。繰り返した言葉は、徐々に力を失い、最後には口の中にしか響かないほど小さくなっていた。

 

「すぐに部隊を編成しろ。シスイの遺体は誰にも目に付かぬよう隠せ。間違っても、うちはに情報を与えるな」

 

 了解しましたと、暗部の者たちが口を揃えて返事をした。空気のように軽い言葉は、私の背筋に氷柱よりも冷たい悪寒を突き刺すのには十分で。

 

「ダンゾウさん、お願いしますッ! まだ、うちは一族には手を出さないでくださいッ!」

 

 まだ救える。

 誰も傷つけないまま、無血解決ができる。

 きっと、救えるんだ。

 

 私の、何の根拠もない無責任な言葉たちにダンゾウさんは応えることなく、張り詰めた声で【根】の者たちに指示を出し続ける。

 

「ヒルゼンに伝えろ。もはや時間は無いとな。何か言いたいことがあるなら、俺のところまで来いとも伝えるんだ。後は俺が説き伏せる」

「…………やめてください、ダンゾウさん」

 

 だけど。

 弱々しい私の声がそもそも届いていなかったのか、敢えて無視をしたのか、ダンゾウさんは続けた。

 

「シスイの行方について、うちは側からアクションがあると思われますが」

「大蛇丸の捜索ということにしろ。滝隠れの里の情報を小出しにし、うちは側の動きを抑えることにする。即時、必要書類の作成、及び承認偽装をしろ。既に手回しはしている。その間、感知・幻術部隊の半分はうちはの監視だ。残りはすぐにフウコが辿ってきた道と現場を抑え、不用意な証拠は始末しろ」

「やめて……。まだ……うちは一族は…………ッ!」

「情報を集めろ。滝隠れの里から帰還してから、今に至るまで、シスイの目撃情報をまとめ、辻褄を合わせろ」

 

 何もできないまま、

 うちは一族が包囲されていく。

 木ノ葉隠れの里に、血と、千切れた肉の空気が近づき始めている。

 それでも私は声を張り上げることはできなかった。

 ダンゾウさんの指示が理に叶っていると、思考の底で判断できていたからだ。

 シスイは死んでいないという幻想を抱いても、うちは一族を止めることはまだ不可能ではないと思っていても、 うちは一族の動きを止めることを目的とした場合……間違いはなかった。

 

 だけど、次の瞬間の【根】の一人の言葉とダンゾウさんの短い会話に、私の感情は爆発した。

 

 

 

「うちはイタチはどうしますか? シスイの件について、彼はこちらに疑念を抱くと思われますが」

「捕えろ。どのような手段を使っても構わない」

「その後は」

「俺が奴を諭す。だが―――上手くいかなかった状況に備え、いつでも始末できるようにしておけ」

 

 

 真っ白になった意識。

 すぐに、イタチの姿が、顔が、彼と一緒に過ごしていた日々が連続して流れ出る。

 さらには、サスケくんやミコトさん、フガクさんの顔も、日常も、ぶり返してしまって。

 それらが血みどろの池の中に溶けて、バラバラになって、ぐちゃぐちゃになってしまう未来が、一瞬で予測されてしまった。

 

「…………ッ! やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおッ!」

 

 意識した訳でじゃなかったけど。

 目元を覆う目隠しの奥で、私は両眼を万華鏡写輪眼にしていたらしい。

 須佐能乎を発動させていた。

 

 膨大なチャクラの奔流によって、私を抑え込んでいた者たちは弾き飛ばされる。

 目隠しが吹き飛び、視界が開けると同時に身体が軽くなる。

 そこからは、私は自分の身体をどんな風に動かしたのか覚えていない。気が付けば私は須佐能乎を停止させて、黒羽々斬ノ剣の刃を、ダンゾウさんの首に当てていた。

 あと少しでも腕に力を入れれば、頸動脈をあっさりと傷つける事が出来るほどに。

 

 眼前には、ダンゾウさんの顔が。

 彼のチャクラには、感情の揺れによる乱れは見て取れない。どうやら私は、写輪眼は維持したままのようだった。

 

「ダンゾウさん……今すぐッ! 先ほどの指示を取り消してくださいッ! ―――ッ!? お前ら……動くなぁッ!」

 

 産毛がヒリヒリと逆立ってしまうほどの冷酷な殺気は、全方位から私に向けて放たれていた。視線を一瞬だけ動かすと、円形の壁を覆う、チャクラの粒たちが。全て、【根】の者たちだった。

 

 おそらく、予め配置させられていたのだろう。

 多分、今朝、シスイが滝隠れの里の件についてダンゾウさんに報告に行った時から、この場面を想定していたんだ。私が報告を怠るという事態に違和感を覚えて。

 

【根】の者たちは、私の声に完全に動きを停止させ、だけど殺気は一切収めはしなかった。

 

「……どうやら、俺の知るフウコのようだな」

 

 ダンゾウさんは淡々と呟いた。

 

「うちはフウコなら、今ので俺は殺されていただろうな」

「ええ………………、ええ、そうですッ! これで分かっていただきましたか?! なら、うちは一族には手を出さないでくださいッ!」

「それは出来ん。言ったはずだ。俺は、お前たち三人だからこそ信頼していると。シスイを失った今、考慮する余地はない」

「シスイは―――ッ!」

「死んでいる」

「違うッ! 死んでなんかいないッ!」

「お前が殺したんだ」

「私じゃ……ないッ! フウコちゃんが、」

「お前の選択が招いたことだ。俺は言ったはずだ。冷静になれと。その結果がどうだ? 身体を奪われ、シスイを失った。うちは一族は必ず、この事態を黙ってはいない。万が一にも、シスイが死んだ事実を知られた場合、うちは一族は我々を疑う。その疑心が、全ての引き金に成りかねないのだぞ。……お前は…………、自分がしでかした、事の重大さを理解していないのかッ!」

 

 突き付けられる現実に、腕に不必要な力が籠ってしまって刀がカタカタと震え始める。

 

「選べ、フウコ。これが最後だ。貴様はどちら側だ? 木ノ葉か? それとも、うちは側か?」

「……わ…………私は……………………」

「もし貴様がまだ、扉間様の意志を受け継ぐというのなら、ある程度は要求を呑もう。その代わり、貴様には全ての責を負ってもらう。俺の言葉が、分かるな?」

 

 思考が進まなかった。

 木の葉隠れの里の平和を選択しても、うちは一族のクーデターを選択しても。

 私の未来には……途方もない孤独しか待っていないのだと、考えなくても分かってしまったからだ。

 

「時間は十分に与えたはずだぞ、フウコ」

「…………ぇ?」

「お前がまだ、アカデミー生の頃に、うちはへの潜入任務を与えてから今に至るまで……お前には十分に考える時間があったはずだ。決意を固める時間は、あったはずだ」

「……そんな…………だって……私は………………こんなことに……なるなんて……………」

「なぜ、すぐに答えを出すことができないのだ」

 

 喉が震え、吐く息が湿っていく。

 答えなんて……、決まってる。

 うちは一族のクーデターを無血解決させて、

 木ノ葉隠れの里の平和を守って、

 楽しい時間を―――、

 

 だけど、その答えは、ダンゾウさんが求めている選択肢の中には含まれていない。

 

 呼吸が速く、浅くなっていく。

 額、頬、首筋、背中から、汗が噴き出て、顔を覆うシスイの血が汗と一緒に口端に入った。

 シスイの血の味に触発されて、私はゆっくりと後ろを振り返る。須佐能乎を展開した時の衝撃で転がったのかもしれない。彼の身体は、通路を縁取る鉄柵に背中を預けて横に倒れていた。

 

「もう一度言うぞ、フウコ。シスイは死んでいる。頼るなッ! お前が決めるんだ」

 

 シスイ。

 その時、私は小さく呟いたかもしれない。分からない。私がどうすればいいのか、彼なら答えを導き出してくれるのではないかという期待があったのは確かだった。今すぐに彼は目を覚まして、私の手を引いてくれるんじゃないかと。

 

 だけどシスイは目を覚まさないまま、沈黙な時間だけが数秒、過ぎ去り。

 ダンゾウさんは、刀を持つ私の手を掴んだ。

 

「さあ、決めろ。このまま俺を殺し、うちは一族のクーデターの引き金となるか……。刀を収め、俺の指示の元、木ノ葉隠れの里の平和を守るか……。他に手は無いぞ………八雲フウコッ!」

 

 八雲フウコ。

 それは、私の名前。

 本当の、私の名前。

 うちはフウコではなく、

 イタチの妹として家族に加わった名ではなく、

 シスイの恋人として手を繋いでくれた名ではなく、

 イロリちゃんが友達として笑顔を向けてくれた名ではなく、

 サスケくんやナルトくんが可愛らしく声をかけてくれる名ではなく、

 かつて私を示した名を、

 扉間様に一方的に平和を誓った過去の名を、

 私の……本当の名を、

 ダンゾウさんは示した。

 

 過去になれと、言われているような気がした。

 未来を捨てろと、言われているような気がした。

 

 混乱した。

 だって―――だって………、ずっと、思っていたから……。

 楽しい日々が。

 贅沢な日々が。

 彼方まで、遥か彼方まで、続くと思っていたんだ。

 なのに、未来を捨てろと……そして、イタチやイロリちゃんやサスケくん達の過去に成れと、言われた。

 

『平和な世を、必ず、ワシと、そして木の葉の子らが実現してみせる。だから、フウコよ……お前はその世で生きろ』

 

 扉間様の声が、頭に響いて消えた。

 それを皮切りに。

 また多くの記憶が溢れ出てきた。

 イタチと初めて会った日。

 フガクさんとミコトさんに家族として迎え入れてもらった日。

 ミナト様とクシナ様にナルトくんを任された日。

 シスイと話した日。

 イロリちゃんと友達になった日。

 サスケくんに起こされた日。

 ナルトくんと手を繋いだ日。

 ブンシ先生に怒られた日。

 それらの記憶は、私の記憶だ。

 私だけの、たった一人の私だけの、記憶なんだ。

 捨ててはいけない記憶。だけど、不思議なことに、流れていった記憶は瞬く間に鮮明さを失い、思い出せなくなっていく。

 混乱しているからなのか、心の奥底でそれらの記憶がこれからの自分に不必要だとストッパーをかけているのか、分からない。

 助けて、と私は思った。

 誰に向けた想いだったのか。

 それほど、私の心は絶望的に衰弱していた。

 もう一度だけ、思った。

 助けて、と。

 イタチ―――兄さん―――助けて、と。

 

「……もしお前が、里を守りたいと思うのならば…………イタチとサスケの命は保証してやってもいい」

「―――ッ!」

 

 心が傾く。

 決定的に。

 イタチの命と、サスケくんの命は救うことができる。

 悪魔の囁きだったのか、正しい導きだったのか。

 里を……守る。

 誰の為に?

 

 それは……、

 

『……頑張れ……フウコ』

 

 それは、

 それは―――。

 

『愛してるぞ…………』

 

 それは……もう二度と、会えなくなってしまった、シスイの為なんだと、私は思った。

 扉間様でもなく、イタチやサスケくんの為でもなく―――勿論、彼らのことを全く失念していたわけじゃないけど―――シスイだった。

 最後に彼に付いてしまった、嘘の言葉。

 多分私は、子供のように、誤魔化そうとしていたんだと思う。

 嘘を、嘘じゃなくするために。

 里を愛していた彼の想いを、無駄にしたくないと。

 なら、里の平和を守れば、

 彼に呟いた言葉を本当に出来るんじゃないかって。

 本気で、思ったんだと……思う。

 

 

 

 そして、私は―――。

 

 

 

 ダンゾウさんの首を刎ねることが……出来なかった。

 刀を持つ指から力が抜ける。刀が床を叩いた金属音が鼓膜を揺さぶった。その音はまるで、お前は里を守ることを選択したのだと、未来を捨てることを選択したのだと、訴えかけてきて、

 

「……ぅぁ…………」

 

 身体中から力が抜けた。

 頭を支えてくれる首から力が抜けて、ゆるゆると顔を振ってしまう。

 指の関節から力が抜けて、指が震えてしまう。

 

「……あぁぁ……………っ! ……ッ!」

 

 膝の力が抜けて、床に膝をついてしまう。

 

「……やだ…………。いや……だ…………ッ! やだ……ッ」

 

 心の形を保っていた全ての力が抜けていく。

 どれほどの言い訳をしても、自分の選択を口では拒絶しても。

 選んでしまったんだ。

 

 未来が、繋がりが、無くなることを。

 

 私に残ったのは、

 扉間様に一方的に捧げた誓いと、

 シスイへの愛を本当にするということ、

 それらだけで、

 つまりは自己満足の事柄でしかなくて、

 だから、

 えっと……、

 そう、

 私は完全な孤独を、

 

 

 

 選んでしまった。

 過去になることを、選んだんだ。

 

 

 

 目の奥の力が抜けて……涙が…………止まらなかった。

 

 

 

「うっ……うぅ………ぁ、あああああああああああああああああああああああああああッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこから先のことは―――つまり、翌日の朝までのこと―――あまり覚えていない。断片的な記憶だけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

【明日、お前を俺の部下が迎えに行く】【血を洗い流してから戻れ。湯浴みの準備をさせよう】【よいな、フウコ。今宵のことは禁とする。呪印術を使用しないことが、お前への最後の信頼だと思え】【お前の役割は……分かっているな?】

 

 

 

【大丈夫よ、フウコ。怖いことなんて、何もないわ】【フウコ! 今までどこにいたッ!】【フウコ、何があった】『何も―――何も、なかった』

 

 

 

【すまなかった、フウコ。大声をあげてしまって。安心しろ、俺は最後までお前の味方だ】【私もよ、フウコ。だから、正直に話して。何があったの? 今まで、何をしてたの?】『何も……ありませんでした。遅くなって、すみません』【………………】『話しは……終わりですか?』【………ゆっくり休みなさい】【お腹、空いてない? 今、すぐに貴方の好きなものを作るわ。ね? フウコ、少し落ち着きましょ?】『おやすみなさい。フガクさん、ミコトさん』

 

 

 

 部屋に戻った私は、写真立てを見た。

 私、イタチ、シスイ、イロリちゃん。

 四人が映った写真は、けれど、イロリちゃん以外の顔が潰されていた。

 フウコちゃんがしたんだろう。

 私は、残ったイロリちゃんの顔を潰すことにした。

 皆との繋がりを、否定するように。

 

 

 

 その夜、私は夢を見なかった。

 楽しい夢も、辛い夢も。

 真っ暗闇。

 孤独だった。

 そして私は目を覚ました。

 ここからの記憶は、鮮明になっている。

 眠ったおかげで、心が微かに元気を取り戻したのかもしれない。

 

 

 

 瞼を開けると、世界は血みどろだった。

 天井からは粘っこい血が垂れている。私の眼球に入り込んだ。視線を一度、部屋の中に這わせる。鉄分をたっぷりと含んだ血がザラザラと眼球を痛めつけるが、生理的反応な涙を浮かべるだけで、私は特に何かを感じることはなかった。

 

 心と身体が、大きく乖離している。あるいは、心が壊れているのかもしれない。私が眠っていた布団の周りには、多くの人たちが佇んでいた。

 ミナト様、クシナ様。

 カガミさん。

 私がこれまでの任務で殺してきた人たち。

 シスイ。

 誰もが身体中に穴を開け、溢れ出る内臓や血を治そうとしないまま、私をじっと睨んでいる。

 

 ああ、と私は息を吐いた。

 幻術か。

 そう思った途端、彼らは私の首に手を伸ばした。

 締め付けられる。

 抵抗はしなかった。このまま殺してほしいとさえ、思った。

 でも、幻術が私を殺してくれるわけもなく。ただ目の奥の血管が破裂したような偽の感覚が生まれただけで、私は身体を起こした。心はまだ、彼らに締め付けられる感覚を引き摺るけど、私の身体はやはり心と乖離してしまったようで、身体は淡々と部屋を出た。

 

 幻術は止まらないままだった。

 死んでいった人たちは私の周りに纏わりつき、何かを囁いている。廊下には剥がれた頭皮から生える髪の毛や、歯茎に刺さったままの歯が落ちている。

 

【おはよ、フウコ】

 

 居間に行くと、ミコトさんが料理を作っていた。

 血と肉片が散らばる居間では、元々無かった食欲も膨れることはなく。

 天井から大量に零れる血に身を汚しながら、ぎこちない、だけどとても優しい笑顔を私に向けてくれる。

 声は水中にいるみたいに濁っていた。

 

『………おはようございます』

【すぐにお昼ご飯を作るわね。今日はいっぱい材料を買ってきたから、安心して―――】

『ご飯は……いいです』

【え?】

『……縁側で、ゆっくりしてます』

 

 縁側に座る。いい加減、幻術に疲れてきた。

 私を殺してくれないのに、煩くて、邪魔だった。

 周りにいる人たちは、本当の人たちじゃない。姿形は似ていても、私の記憶の中にいる人たちではないんだ。

 

 横から足音が聞こえた。

 視線を向けると、サスケくんが立っていた。

 

『……おはよう、サスケくん。今、起きたの?』

 

 何も考えないまま呟く。考えるほど心に元気はなかった。

 

【姉さん、大丈夫?】

『え?』

【疲れてるみたいだから……。風邪でも、引いたのかなって】

『ごめんね、気にしないで。修行、付けてほしい?』

 

 きっと目の前のサスケくんは本物なんだと思った。まだ血と肉片が降って溢れる幻術の中で、サスケくんだけは何も変わらず、私に話しかけてくれるから。

 でも、心と身体は、乖離したまま。

 身体は反射的に、サスケくんと会話を続けた。

 

『サスケくん、今日、アカデミーは?』

【日曜日だから、休みだよ】

『そう』

【……いい天気だね】

『そう?』

【だって、晴れてるじゃん】

 

 私が見上げている空は、血のように真っ赤で、血の雨を降らせている。

 

『そうだね。でも、晴れてるからって、いい天気っていう訳じゃ、ないと思う』

【じゃあ姉さんは、どうして空を見上げてるんだよ】

 

 ああ、昔、イタチも似たようなことを訊いてきたっけ、と私は思い出す。

 やっぱり二人は兄弟なんだ。

 私と違って、本当の、家族なんだ。

 

『昔、イタチも訊いてきた。空に何があるのかって。空には、空しかないのに』

【……そういえばさ、姉さん】

『なに?』

【いつになったら、父さんと母さんに、シスイさんと付き合ってるって言うんだ?】

 

 一瞬だけ……心が揺らいだ。

 

 淡い期待。

 

 もしかしたら、昨日の夜のことは夢だったんじゃないかという馬鹿みたいな考えが過った。でも、幻術の中には、死人のシスイが立って私の首を絞めていて、一瞬で願望は打ち破られる。

 

 残念だ、と思った。とても軽い感じに思ったのは、きっと、昨日の夜が現実だったということを意識が処理してしまったからなんだと思う。

 あるいは心が乾き切っているのかもしれない。

 

【早く言わないとさ、ほら、隠し事してた訳だし。あんまり長く隠してると、母さん、すごく怒ると思うし】

 

 だけど、乾き切った私の心にも、サスケくんの言葉は苦しかった。

 

 わざとらしくトーンを上げたサスケくんの声は、言葉の端々からシスイのことを思い出されてしまう。思い出される度に、罪悪感が意識を刺し、泣きそうになる。

 心が蘇ろうとする。

 未来を求めようとしてしまう。

 求めようと私が動けば、破滅しか待っていないのに、感情が動き出そうとしてしまう。

 それだけは、防がなくてはいけない。

 

『―――サスケくん』

【それに父さんも母さんも、多分、気付いてると思うんだ。だからさ、もう―――】

『サスケくん……お願い』

 

 サスケくんの頬を撫でる。

 冷たい幻術の中で感じ取れる、唯一の温もり。

 きっともう、二度と、サスケくんに触れることはないと、私は予感した。

 泣きそうになる心を冷却して、思う。

 

 怖がって、サスケくん。

 私を疑って。

 私を憎んで。

 もう私を、姉さんと呼ばないで。

 私は貴方の過去だから。

 振り返らないで、手を伸ばさないで。

 未来だけを見据えて。

 

『もう、シスイのことは、言わないで』

【―――え?】

【フウコはいるか! 出て来いッ! 話しがあるッ!】

 

 ちょうど良く玄関から、男の怒声が聞こえてきた。ちょうど良い、というのは、これ以上サスケくんと会話をしていたら涙を溢れ出てしまうのではないかと、思っていたから。

 

 玄関に向かう。

 

 嗤い声。

 フウコちゃんの嗤い声だった。

 

 ―――ねえねえ、フウコさん。どう? 私に代わってくれたら、辛いことも、苦しいことも感じないよ? ふふふ。ダンゾウの望む通り、うちは一族を皆殺しにしてあげるよ?

 

 特に反応はしなかった。彼女と会話をしても得は無い上に、会話をするほどの元気もなかった。

 玄関に着くと、三人の男が立っていた。三人ともうちはの家紋が記された服を着ている。

 

『……何か、ご用でしょうか?』

【昨日、なぜ会合に参加しなかった?】

『すみません。詳しい事情をお話しすることは出来ませんが、突然の用事があったので、参加することが出来ませんでした。以後、気を付けたいと思います』

【……何故、事情を話せない?】

 

 ここに彼らが来た時点で、ある程度の予想は付いていた。

 鼻に付く、彼らの猜疑心と微かな優越感。

 どうして彼らはそんな感情を作り出すことが出来るのだろうと、この時私は、苛立ったと思う。

 私の選択によってシスイは死んでしまった。

 だけどそもそも、お前らが原因なんだと。

 ナルトくんのように頑張って笑顔を浮かべて、正しい努力をしなかったお前らが、原因なんだと。

 そして、

 だから私は未来を捨てることになってしまったんだと。

 私にだって幸せになる権利があったはずなのだと。

 思った。

 それらの感情を押し殺して、私は続けた。

 

『ご理解いただけませんか?』

【……暗部の副忍として、多くの制約があるのは分かる。だが、今、お前は多くの者から疑われている】

『何を疑われるというのですか? 会合一つ出なかったところで、意味があるのですか? それとも、何かあったのですか?』

【……昨日の会合に参加しなかった者が、お前の他にもう一人いる。シスイだ。彼は昨日の晩から今まで、家に戻っていないそうだ。行方を捜しているが、まだ分かっていない】

『シスイが、行方不明……ですか…………。私は、何も知りません』

【もう一度訊く、昨日、お前は何をしていた?】

『………………』

 

 男たちの視線が隠す気のない怒りを露わにした。

 

 逆に訊きたかった。

 

 お前たちは今まで、何をしていた? と。

 だけど、ここで怒ってしまっても意味がないと思って、私は淡々とした表情を浮かべた。それでも、私の心の中は、無能な男たちへの怒りを抑えるのに手いっぱいで、そして彼らの内の一人が、痺れを切らしたかのように言った。

 

【今、うちはが大事な時期なのは知っているだろう。もしお前が何かしようとしているなら……分かっているだろうな】

 

 男の言葉には一切、配慮がなく、他二人の表情を見ても同じだった。

 男たちには、シスイの安否を気にしている様子はなかった。おそらく、昨日の会合に参加した者たちも同じなのだろう。

 怒りが抑えきれなくなりつつあった。

 

『……ああ、そういうことですか。遠回しに言うので、分かりづらかったですけど……私がシスイに、何かをしたって……言いたいんですね?』

【お前の実力は誰もが認めているが……、力が信頼を引き寄せるとは思うなよ】

 

 笑ってしまいそうになった。

 お前たち程度の信頼なんて、たとえ頭を下げられてもいらなかった。

 

 どうしてこんな程度の人たちが平然と生きていて、シスイは死んでしまったのか。

 あまりの馬鹿馬鹿しい現実に、笑ってしまいそうになり、同時に、怒りは最高潮に達した。

 人生で初めて経験だった。

 ここまではっきりと、人を殺したいと思ったのは。

 平和の為とか、忍の任務としてとか、そんなものは関係のない、純粋な殺意。

 

 気が付けば私は男たち三人を吹き飛ばし、玄関の外にいた。真っ先に思ったことは、よく男たちを殺さなかった自分に対しての驚きだった。無意識に、里の平和を思ったのかもしれない。

 そう、私は守らないといけないんだ。

 シスイが愛した里を。

 

 どれほど馬鹿馬鹿しくても、彼らはまだ、木の葉隠れの里の忍なんだ。

 

 切り捨てられるまでは、まだ。

 

『私は、シスイを愛してる。嘘じゃない。決して、嘘じゃない。私は、シスイを愛してた。お前たちのくだらない考えを、私に、わざわざ言わないで。才能だけあって、本当の努力もしないのに、口先だけ。いつもお前たちは、くだらないことばかり言う。あまり、私を怒らせないで』

【なら……、昨日一日、何をしていたのか、言えるはずだッ!】

『昨日、私が何をしていたのか、お前らには関係ない』

【なんだとッ! 貴様、それでも、うちはの人間か!】

『黙れ』

 

 うちはの人間?

 そのうちはの人間であるシスイの行方が分かっていないのに、どうして彼の心配をしない? 

 それが、うちはの誇りなの?

 言ってて、自分たちがどれほど馬鹿みたいな人間なんだと、思わないの?

 

 男たちを吹き飛ばしても、怒りは少しも減少はしなかった。

 益々、大きくなるばかり。

 このままいっそ、今からでも、イタチとサスケくんだけを残して皆殺しにしてやろうかとさえ思ってしまう。

 

 だけど、その時、視界の端に……彼女が立っていた。

 

 イロリちゃん。

 

 どうして彼女がここにいるんだろう。

 でも、そのおかげで私は冷静さを取り戻した。

 ここでうちは一族を皆殺しにしてしまっては、彼女が巻き込まれてしまう可能性が大きい。イロリちゃんの為だと考えれば、コントロールが出来なかった怒りの感情も簡単に収めることができた。

 

 同時に……私は、考えた。

 うちはフウコとしてではなく、八雲フウコとして、ある一つの考え。

 

『私は、夢の世界に行くの』

 

 ―――え?

 

 フウコちゃんが驚いた声が聞こえた。

 

 ―――夢の、世界? それは……私が、マダラ様と約束したことだよッ!? 急に、どうして……。

 

『お前たちみたいに、たった一つしか違わないのに、全部を否定する、そんなくだらないことを言わない、綺麗で、楽しい世界に、私は行くの』

【何を、言って―――】

『分からない? 私の言ってることが。どうして? 同じ言葉を使ってるのに。いい加減にしてよ。言葉が通じないなら、どうすればいいの? 分からない? 分からないなら、邪魔だから……殺すぞ』

 

 そして私は、自分の役割を演じた。

 うちは一族に【うちはフウコへの疑心】を植え付け、暗部に回収されるために。自分の部屋に戻ると、イロリちゃんが付いてきた。好都合だ。何かを私に訴えかけてきているけど、ほとんどはやはり、反射的に言葉を返してるだけだった。

 

【私の目を見てよッ! フウコちゃんッ!】

 

 ―――イロミちゃん、すぐにこいつから離れてッ! 何かおかしいのッ! 早くッ!

 

 フウコちゃんの叫び声は勿論、イロリちゃんに届くことはない。

 まだ、私の考えに至らないなんて、フウコちゃんは、頭が悪いなぁ。

 

イロミちゃん(、、、、、)

 

 ―――……ッ! フウコさん、まさか…………ッ!

 

 そうだよ、フウコちゃん。

 私は、貴方の言った通り、偽物。

 イロリちゃんの本当の友達じゃない。

 

 だから、貴方に代わって、私が、

 

 貴方の気持ちを伝えてあげる。

 

 イロリちゃんが、私を、貴方だと思えるように。

 

 貴方が、シスイにやろうとしていたように。

 

 貴方もやったんだから(、、、、、、、、、、)私もやっていいよね(、、、、、、、、、)

 

 イロリちゃんが、貴方を恨むように。

 シスイを殺した私を、うちは一族を滅茶苦茶にした、私と貴方を。

 軽蔑するように。

 

 ―――いや……いやぁあッ! 気付いて、イロミちゃんッ! こいつは……私じゃないのッ! だから…………ッ!

 

 ふふふ。

 あはははは。

 あははははははははははははははッ!

 

【……フウコ、ちゃん?】

『またね。また、遊ぼうね』

 

 私は、笑うことができた。

 精一杯の……笑顔を。

 うちはフウコとして。

 そう、私はこれから、うちはフウコを演じる。八雲フウコとして、うちはフウコを演じるんだ。

 名案だった。

 だって私が全てを捨てなければいけなくなったのは、彼女のせいなんだから。

 だったら、貴方も、付き合ってくれるよね?

 私と一緒に、過去になろう。

 私には何も残らない。だから、貴方にも、何も残さない。

 貴方がこの里で手に入れた、唯一のものを。

 友達を。

 絶対に、残してやるもんか。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 牢獄に入れられてから、私はずっと軽くすることにした。

 体重ではなく、心の比重を。

 私が手に入れてきた色んな、記憶と感情を処理していった。

 これから、うちはフウコを演じる私には、八雲フウコとしての記憶も感情も不必要だったから。

 

 牢獄に入れられた時に、ダンゾウさんが、

 

【うちはイタチをどうするつもりだ?】

 

 と尋ねてきた。

 私は迷わず応えた。

 

『シスイの眼を使ってください。彼の別天神で、イタチから、クーデターの記憶を封じてください』

【いいのか?】

『そうしなければ、イタチがうちはの味方をするかもしれません。里の平和を守るには、最も越えなければならない障壁です。お願いします。……きっとシスイも、それを願っています』

【分かった。他に、俺に要求はあるか?】

『イタチとサスケくん、そして里の平和を保障するだけで構いません。あ、あと……』

【なんだ?】

『イロリちゃんの育ての親……あの男を、殺してください』

【……いいだろう】

『他には、もうありません。……うちは一族は、私が滅ぼします。根の人たちは、バックアップだけにしてください』

 

 また、ダンゾウさんは【今後、表面上としてお前には拘束衣を施す。暗部からの尋問もあるだろう】とも伝えてきた。別に、それは構わなかった。牢獄の中でたった一人になれるのは、私を捨てるのに必要な環境だった。

 

 目元を覆うマスクは完全な暗闇を作ってくれる。

 身体を縛る拘束衣は私を孤独なのだと思い知らせてくれる。

 心を無くしていく作業は難しくなかった。

 フウコちゃんを地獄に連れていくという憎しみをそのままに、フウコちゃんになりきろうと思えば、自分を捨てることに何も抵抗を感じない。

 

 フウコちゃんと一緒に過去になって、うちは一族を皆殺しにすれば、必然と里の平和は守られる。

 扉間様への誓いも、

 シスイへの愛も、

 本物にすることができるんだ。

 そう思うと、嬉々として自分を捨てていった。

 

 なのに―――。

 

【……分かった、信じてやる】

『…………え?』

【安心しろ。てめえのことは、てめえの親の次に分かってんだ。お前がんな頭の悪いことするはずねえもんな。大丈夫だ、あたしがぜってーお前の無実を証明してやっから。それまで、まあ、なんだ、我慢してくれ】

『……信じて、くれるんですか?』

【あたりめえだろうが。あたしは、お前の先生だぞ?】

 

 現実は私の邪魔をする。

 

 ブンシ先生の言葉と心を触れさせて、私の決心を鈍らせようとする。

 先生に何度、助けを求めようかと、葛藤させられた。私の敵を、困難を、叱ってほしいと、拳骨で倒してほしいと、舌の上までに昇ってきたんだ。

 

 だけど私は堪えて、そして、先生との感情を切り落とした。

 

【フウコ】

『なに?』

【大丈夫だ、怖いことなんて、何もない。安心しろ】

 

 イタチの声に、涙を零してしまった。マダラがシスイを殺したという嘘をついてしまったことへの罪悪感もあったかもしれない。彼が届けてくれたお弁当は、美味しくて、苦しかった。

 

『イタチは、優しいから。だから、巻き込みたくない。私の方が冷たくて、優しくないから。今まで、家族でいてくれて、ありがとう。愛してくれて、ありがとう。兄さん』

 

 そして私は、最後に、兄さんに……兄さんが愛してくれた私に、別れを告げた。

 

『さようなら。―――天岩戸』

 

 この時、兄さんに打ち込んだ私の魂の一部はきっと、家族としての【うちはフウコ】だったんだと思う。ダンゾウさんに移植されたシスイの万華鏡写輪眼による別天神から逃れられないように、瞼を開かせて、視線を固定させる。

 別天神が発動され、途端に周りの【根】の者たちが無防備なイタチを幻術で眠りにつかせる。

 

【これで、もはや引き返すことは出来んぞ】

 

 ダンゾウさんが呟く。傍らでは【根】の者たちがイタチを牢獄の外へと運んでいく。

 

【覚悟は……問題ないな?】

『大分前に、処理しています。引き返せる点も既に過ぎているのではないですか?』

【……そうだな。では明日、任せる】

『任せてください。油断したうちは一族を皆殺しにするのに、不手際なんてありえません。暗殺は……扉間様から一番最初に教えられた技術ですので』

 

 無音殺人術に始まる、私に蓄えられている暗殺術は全て、扉間様から教えてもらったもの。

 安全に、確実に、相手を殺すために。

 黒羽々斬ノ剣を作ったのも、扉間様からの教えに従った結果だった。

 いくら相手に気付かれずに近づけても、得物は必要で。時を越える前の私も刀を使っていた。その技術を使えば、うちは一族を殺し切ることなんて、わけない。

 

『私は、八雲フウコです』

【ああ。そうだ】

『ですが、八雲フウコとして、お願いさせていただきます。イタチの、サスケくんの、ナルトくんの、そして……多くの人たちと、木の葉の里の平和を…………守ってください』

【任せよ。さらばだ、フウコ。息災でな】

『ダンゾウさんも……、御元気で』

 

 

 

 記憶の旅は終わって。

 私は、歩き出す。

 夕焼け空は、跡形もなく。

 夜が進む。

 シスイを連れて行ったあの夜と、似たような夜空で、だけど満月が浮かんでいる。

 

 

 

「……シスイ。私ね……貴方のこと、愛してるよ」

 

 懐から、彼の額当てを取り出す。

 牢獄に入れられる前にたった一度だけ会った彼の遺体から、私が抜き取ったもの。木の葉隠れの里を愛した彼の意志を受け継げるような気がするからだ。

 

「愛してる。嘘じゃ、ないよ。見てて」

 

 これから、貴方が愛した里を壊そうとする、うちは一族を皆殺しにするから。

 私も、里は大好きだから。

 大好きになってしまったから。

 里を愛しているから。

 貴方が愛して、私も愛した里の平和を、守るから。

 

 だから、シスイ。

 

「……愛してる」

 

 

 

 マスクを着けられ、拘束衣で縛られた私は、椅子ごと台車で運ばれている。

 

「ここからは、警務部隊の施設だ。暗部の者は下がってもらおう」

 

 微弱なチャクラの気配は四つ。その内、二つはうちはの人だということは、私が運ばれている道中の二人の会話から判断できた。残る二つは、暗部の人。

 

 そう……【根】だ。

 

 二人は「うちはフウコを無事に警務部隊に引き渡されるのか」という名目の元、監視役として随伴してきていた。

 

「すまないが、俺たちの任務は、うちはフウコが警務部隊に無事に拘束することを確認することだ。中に入らせてもらう」

 

 うちはの人と【根】の些細な口論は続いたけど、最終的にはうちはの人が折れる形で暗部の随伴は続いた。

 台車の車輪がガタガタと不規則に振動する。唇に触れる空気が冷たくなった。辺りは静まり返り、後ろを歩く四人の足音が、微量に残響している。

 

「……ここは、牢獄ですか?」

 

 と、尋ねてみる。すると、私のすぐ真後ろから返答が来た。

 

「お前に教えることは何もない」

 

 苛立ちを隠そうともしない声には、私への疑念と、私よりも優位だという優越感が混ざっているようだった。

十分。

 足音よりもはっきりとした声は辺りを反響し、鼓膜から伝わってくる高低様々な音の波は、脳裏に辺りの状況をイメージさせるのに余りあるほどの情報量だった。

 

 辺りには、私と、うちはの人と【根】の者しかいない。場所は通路で、両脇には檻が連なっている。天井は低かった。警務部隊の施設に入ったことはなかったけど、地下なのだろう。音がどこかへ逃げるような感じはしなかった。

 

 ―――ねえ、フウコさん? 私と代わらない?

 

 フウコちゃんの声が聞こえてきた。うちはの人の声とは違って残響しないせいかクリアに頭の中に入り込んでくる。

 

 ―――辛いでしょ? うちはの人たちを殺すのは。ね? すぐにフウコさんに身体を戻すから。

 

 返答を私はしなかった。フウコちゃんの微かに怯えた声が心地良かったから。

 きっと、イロリちゃんと会う時間はない。もし会ったなら、彼女が忍として行動できないよう、そして、フウコちゃんを恨むように仕向けるつもりだけど。でも、うちは一族を皆殺しにした後にゆっくりしていたら面倒なことになる。

 

 まあ、イロリちゃんに、うちは一族を皆殺しにしたことが耳に入れば軽蔑してくれると思う。

 

 とにも、

 かくにも。

 

 さあ、終わりにしよう。

 

「……今日は、夜が静かですね」

 

 その言葉は、コードだった。

 私がこれから、うちは一族を皆殺しにするという合図。

 二人の【根】の者は静かに、結界術を発動させた。

 私が何をしても、チャクラの波が伝わらないようにするための、結界術だ。

 

「お前ら何を―――ッ!」

 

 台車を押していない方の人が大声を出そうとしたのを、私は防いだ。

 マスクで視界を覆われていても、拘束衣で身体の自由を奪われていても。

 須佐能乎を発現させるのには、何の障害でもなかった。須佐能乎の左腕を一本だけ発現させて、巨大な指で大声を出そうとした人の頭を潰した……音が聞こえた。

 

「貴様―――」

 

 台車を押していた人の頭も潰す。

 

 静かになった牢獄からの空気には、鉄臭さと生臭さが漂い始め、私の唇を湿らせる。舌で拭うと、口の中がザラザラとした。

 

 須佐能乎を収める。身体中の細胞が蠢き、それぞれが別の方向に離散し始めているかのような痺れる痛みに耐えながら【根】の人に尋ねる。

 

「辺りはどうだ?」

「状況に変化は無いようです」

「そう。すぐに拘束衣を外してくれ」

 

【根】の二人は手際よくマスクと拘束衣を外した。自由になった身体を立ち上がらせて、肩や腕の関節を動かすと音が鳴る。足元には、うちはの人の頭のない遺体が。千切れたような首の傷跡からは勢いよく血が噴き出ていた。

 

「副忍様、こちらを」

 

 一人が口寄せの術を発動させ、黒羽々斬ノ剣を出現させて私に渡してきた。

 黒い鞘から刀を抜き、漆黒の刀身を見る。刃こぼれはない。

 

「では、副忍様。我々は、配置に着きます。後は、お願いします」

 

 私は視線を彼らに向け、

 

「ええ。任せて」

 

 二人を殺した。

 

 刀を横に一閃させるだけで、二人の首を切断することができた。身体の調子は良く、二人は一縷の行動が許されないまま、血と一緒に命を身体から手放した。

 

 暗部の遺体も作っておけば、より、私が単独犯だという印象を与えることが出来ると思った。

 

「………………」

 

 足元に転がる、四つの遺体。

 彼らには、大切な人がいたのかと、ふと思う。

 でも、私にも大切な人はいたんだ。

 数は多くないけど、だけど世界の何よりも大切な人たちが。

 そう……いたんだ。

 

「おーい。終わったか?」

 

 暗闇が続く牢獄の向こうから、男の人の声が突き抜けてきた。

 

 印を結んで、遺体の中の人の声を模写する。

 

「ああ、悪い。うちはフウコが少し暴れてな」

「手を貸そうか?」

「そうだな……、手伝ってくれ」

 

 声の主がこちらに近づいてくる。

 私も、声の主に近づく。もちろん、音を立てないで。

 

 夜を……静かにしよう。

 

 灰色を、白くしよう。

 丁寧に丁寧に、シスイが大好きな白い時代を作ろう。

 イタチや、サスケくんや、イロリちゃんや、ナルトくんが、安心して、平和に暮らせる時代を。

 

 

 

 ○ ○ ○

 

 

 

 火影の執務室で、ヒルゼンは小さく肩を震わせた。寒気を感じたのだ。しかし、夜であっても身を震わせるくらいに空気が冷える時期ではない。椅子に座る彼は、両手を顔の前で組み両肘をデスクの上に置く姿勢を作るが、合わせた両手は小刻みに震えてしまう。大きく息を吐くとちょうど、灯りの点いていない薄暗い部屋の唯一のドアが静かに開いた。

 

 入ってきたのは、かつてからの友人関係であるダンゾウだった。

 

 いや、友人関係というのは正確ではないかもしれない。ヒルゼンはダンゾウのことを友人だと思ってはいるが、彼が今でも自分のことを友人だと思っているのかは分からない。ただ互いの思想や行動は尊重し、理解することは出来ている。

 

「……首尾は、どうじゃ?」

 

 ダンゾウがここに来ることは、予め承知していた。ヒルゼンは両手の震えを彼に見せないように落ち着いた風を装ったが、ダンゾウはそれを見下すように鼻を鳴らした。

 

「俺がここにいる時点で、首尾など有って無いようなものだ。現状、フウコに全てを委ねているのだからな。……今のところ、俺の部下からの報告がない以上、フウコは無事に任務を遂行しようとしている最中なのだろう」

 

 任務という言葉の無機質さに、寒気が余計に強くなった。

 

 遠くで声が聞こえたような気がした。

 泣き声のような、悲鳴のような、とかく、黒く暗い感情を起因としたものだ。

 勘違いか何かであってほしいと思っても、ダンゾウにはフウコが任務を放棄したという報告が無い事実が余計に、勘違いではないのだと無意識に自覚させられてしまう。

 

「言っておくが、ヒルゼン」

 

 ダンゾウは立ったまま、睨むように左目の瞼を細くする。

 

「フウコの邪魔をすることは、この俺が許さん。今……そして、これからもだ」

「……分かっておる」

「本当に、分かっているのか?」

 

 疑うようでも、あるいは、忠告するようでもあった。

 

 分かっておると、ヒルゼンは声をやや強くした。意図して強くしたわけではなく、口から発せられた声を鼓膜が捉えて初めて、自分の声の強さを理解した。

 

「……手が震えているぞ」

 

 その指摘に、ヒルゼンはゆっくりと両手をデスクの下の膝の上に置いた。

 

「ダンゾウよ……本当に、これしか方法が無かったのか?」

 

 とうとう、自身の感情を吐露してしまう。だが、もはやダンゾウも気付いているのだろう。だから念を押すように、分かっているかと尋ねてきたのだ。

 

 ヒルゼンが抱いている、後悔の念に。

 

 ダンゾウは怒りを露わにすることも呆れることもなく、淡々と言った。

 

「ああ。他に手段は無い。これが最も安全で、効率的な方法だった」

「フウコは……何か、言っておったか?」

「うちはイタチ、うちはサスケ、そしてうずまきナルトの安全の保障。そして、里の平和を守ってくれと言われた」

 

 事実を指摘すれば、フウコはそれ以外にもう一つ、言葉を残していた。

 

 イロミを育てた男の暗殺。

 しかし、ダンゾウは勿論、そんな黒い話題を口に出す必要性を感じてはいない。そもそも、部下を差し向けた段階で男は死んでいたのだ。この事実は、フウコ自身も知らないことである(フウコには、男を暗殺したという虚偽の報告をしたが)。この場でその話題を展開しても、誰も得はしない。

 

 ヒルゼンは眩暈を感じた。

 

 自分の未来を捨てた彼女が求めたのは……他者の幸福。

 かつての彼女―――そう、浄土回生の術によって肉体が融合する前の彼女―――なら、他者の幸福は望まなかった。ただ忍としての効率だけを優先して、ただただ、里の平和だけを求めたのに。

 

 彼女は変わった。

 

 一度、心を壊してしまった彼女が無くした、人間性。

 それをこの時代で、手に入れたのだ。

 

 なのに、その時代が、彼女が集めた大切なものを全て奪い去ってしまった。

 

『ヒルゼン。里を任せたぞ』

 

 扉間の言葉が蘇る。

 

『フウコが……、幸福に生きていけるよう。平和な世を―――』

 

 咄嗟に、ヒルゼンは立ち上がる。無意識の行動だった。

 扉間に託された願いを反故にした自分への自責の念に駆られたのかもしれない。ヒルゼンの行動に、ダンゾウは大きく息を吐いた。

 

「……何のつもりだ、ヒルゼン。座れ」

「………………」

「聞こえないのか? 座れッ!」

 

 だが、ヒルゼンは座ろうとはせず、かといって歩き出すわけでもなく、彼の葛藤を表現するかのように、両手に作った拳を震わせて奥歯を噛みしめていた。

 

「何を迷っている。何を、迷うことがある……。もはやお前に出来ることなど何もないのだぞ」

「……ワシは、扉間様から託された。フウコが幸福に、平和を享受できるようにと」

「お前だけではない。フウコを知り、扉間様と関わりが深かった者全てがそうだ。俺も、そしてカガミも……これまで多くの者が、里の平和を願い、努力し、支えてきた。そして俺たちは………負けたのだ……」

 

 負けた。

 

 うちは一族にではなく、時代にでもなく……そう、うちはマダラに。

 

 もし、九尾の事件が起きなければ……あるいは、波風ミナトが生きていれば、結果は大きく違っていただろう。たった一瞬の隙を突かれたせいで、うちは一族は完全に追い詰められ、フウコやシスイ、イタチらがクーデターを阻止しようと行動することもなかった。

 

 自分たちの敗北をヒルゼンは理解できていた。だがそれでも、感情は呑み込めない。

 

 まだフウコの未来を取り戻すことが出来るのではないかと、考えてしまう。

 

「もう一度言うぞ、ヒルゼン。これが最後の忠告だと思え。座れ」

「………………」

 

 それでも座らないヒルゼンに、ダンゾウは部屋に来て初めて表情を怒りに歪めた。

 

「……貴様は…………、火影ではないのかッ!」

「そうじゃ。ワシは火影じゃ……だからこそ、フウコを…………、フウコ一人に全ての責任を取らせるわけには……」

「ふざけるなッ! 火影ならば、フウコの決断を無下にするなッ!」

 

 ダンゾウは荒げる声を静めないまま、ヒルゼンのすぐ目の前まで歩み、そして睨み付ける。

 

「あやつは……フウコは決断したぞ。この世の全ての者から疎まれ、木の葉の者全てから憎まれることをッ! これまで多くの者の命が作った里を、扉間様やカガミが願った平和を守るために、全てを賭けたッ! そして俺も決断した……木の葉の里の者に恨まれることをだッ!」

 

 この時、既にダンゾウは準備を進めていた。

 

 翌日、うちは一族が惨殺されたことは里中に知れ渡るだろう。その結果、暗部の副忍であるフウコが実行犯だということも周知される。彼女をナンバーツーとして置いていた自身はその責任を取るために、暗部の管理職から外される。

 その為の準備をしていたのだ。

 権力を無くしても、今後も、里の平和を守れる準備を。

 

 ダンゾウは乱暴にヒルゼンの胸倉を掴む。

 この時の彼の感情に、火影であるヒルゼンへの個人的な黒い感情が無いということは否定できないが、それでもほとんどは、フウコの決断に対するヒルゼンの曖昧な態度への苛立ちだった。

 

「ならば貴様は……これから死ぬ者たちの恨みくらい背負ってみせたらどうだッ! フウコが背負うものに比べれば、軽いものだろうッ!」

「………………ッ」

「…………良いだろうヒルゼン。フウコの元へ行きたいというのなら、好きにしろ。だが、お前が今、この部屋を出るということは、火影を捨てるということだ。それだけは覚悟しておけ」

 

 敢えてダンゾウは、火影の座を奪うという表現は避けた。そんなことを言ってしまえば、ヒルゼンはその言葉を逃げ道に部屋を出ていくかもしれないからだ。彼はそういった甘い部分がある。

 

 うちは一族と粘り強い対話をしてきたのは評価している。

 人間性を重視した里の政策も評価している。

 これらは、扉間が認め、故に彼が三代目・火影として就任出来た要因の一端だからだ。

 

 しかし今、フウコの元へ行こうとしているヒルゼンを、ダンゾウは一切に評価していない。

 

 それは全てをご破算にする、個人的な私情によるものだ。火影としてあるまじき行動だった。

 憎かった。

 こんな甘い部分を残すヒルゼンが、火影であるということが。火影として一応は評価していた自分が、憎かった。

 

 ヒルゼンは静かに、視線を下に向ける。すると、押しのけるようにダンゾウは胸倉を離し、その反動でヒルゼンは椅子に腰かける形になった。

 

「……お前は、俺を暗部から外す書類でも作っていろ。少し時間をやる。それまで、頭を冷やせ」

 

 そう言ってダンゾウは、部屋から出て行く。

 静かになる部屋。

 遠くで、また悲鳴のような冷たい声が聞こえたような気がした。

 

 それがうちは一族の者の声なのか、それとも、フウコの声なのか。

 

 大きく震えた息を、ヒルゼンは吐いた。

 

「……すまぬ、フウコ」

 

 彼のその呟きは、誰の耳に届くことはなかった。

 

 

 

 ○ ○ ○

 

 

 

「……なに?」

 

 今まさに、イロミの応急処置を施そうと、チャクラを纏わせた左手が止まった。腹部から背中にかけて作られた刺し傷からは血が溢れ出ていて、もちろん、彼女の内臓や重要な血管を傷つけないように配慮したけれど、このままでは出血多量で生命が危ない状態だとフウコは疲れ切った意識で理解していた。

 

 確実に意識を断ち切るほどの痛みをイロミに与えたというのに、彼女はフウコの足首を噛んでいた。

 

「……ゔぃがば、ぶ」

 

 イロミの喉は潰していた。十分に喉を鳴らすことのできない彼女の言葉は、何を言おうとしているのかはっきりとは分からない。潰れた喉が気道を塞ぐ場合もあるのだけれど、今回は気道は塞がらなかったようだと、冷静な医者のように彼女を見下ろした。

 

「……ぶぁ、がぁ、ぶぶ、ご、ぢゃ」

 ―――イロミちゃんッ! 早く……早く逃げてッ!

 

【フウコ】が、身体の中で悲鳴をあげた。

 

「ヷブ、ジャ、い」

 ―――イロミちゃん……、頑張って……。負けないで……ッ!

「……ダぎゃ、」

 ―――こいつは……っ、偽物なの…………。私じゃないの…………。ごめんね………………また、遊ぼうって、約束したのに………。

 

 通じていない二人の会話を前に、フウコは何も感じないまま、噛まれている足を引いた。イロミの口は離れ、フウコは乱暴に彼女の前髪を鷲掴む。彼女の額の火傷の跡があっさりと視界に入った。

 

 ―――やめてよッ! イロミちゃんに、そんな、乱暴なこと……ッ!

 

 鼻から血を溢れさせ、力なく開いている瞼の向こうからこちらを見るイロミを、フウコは無表情に眺めた。

 

「もう、話しかけないで。気持ち悪い」

 

 気持ち悪い。

 特に考えることもなく、その言葉を呟いた。

 イタチから教えてもらい、シスイが大きく落胆した言葉。

 それ以外にフウコは、相手を傷付ける言葉を持っていなかったのだ。

 

「才能も無いくせに、私のお願いも聞けないくせに、まだ友達だと思ってるの? 気持ち悪い」

 ―――お前、ふざけるなッ! イロミちゃんは気持ち悪くなんかないッ! 私の友達を、私のフリをして馬鹿にするなぁあッ!

「……ヂグ……じょ…………う」

 ―――泣かないでッ! 信じないで、こいつの言うことをッ! こいつは、偽物、だから……っ。

 

 大粒の涙を、イロミは流し始める。目尻を落ち、頬を伝い、顎から零れる。

 

 フウコは既に刀を腰帯に挿している鞘に納めていた。空いている右手で拳を作る。

 

 ―――……ッ! 止めて……。これ以上、イロミちゃんを…………。

 

【フウコ】の声を聞き流し、フウコは右手でイロミの頬を殴った。脳に衝撃が伝わるように、やや弧を描くように。それに合わせて、前髪を掴んでいた手を離すと、イロミは回転するように後ろに倒れ、今度こそ完全に意識を失った。

 

 その後、フウコはイロミの応急処置に動いた。しかし、その時、フウコは予想以上のチャクラの浪費に見舞われた。

 

 チャクラを使用した医療忍術は、悉く、効果がなかった。

 

 まるでチャクラそのものが、傷ついたイロミに吸収されるかのような不可思議な現象。フウコはそれでも、残ったチャクラの総動員させて腹部の刺し傷を治した。どうやら、通常の人に比べ、細胞か何かが強靭なようだと、フウコは分析した。

 

 大蛇丸の研究によって副産物的に生まれた彼女の肉体。その前情報があったフウコは、そこまで焦ることも驚くこともなかった。

 

「副忍様」

 

 ちょうど、イロミの腹部の応急処置が終わった時だった。

 暗闇から浮き出たかのように、暗部の者が二人、姿を現した。二人はフウコの横に膝をついている。

 

「……ダンゾウ様の命令か?」

 

 と、フウコは視線を向けることもなく、チャクラを大量に消費しながらもイロミの身体の検診に集中する。

 

「道理で。どうして彼女がここにいるのか分からなかったけど……。万が一の時の保険のつもりだったのか」

 

 おそらくダンゾウは、自分が直前で木の葉を裏切るようなことがあった時に備えて、彼女を捕えていたのだろう。確かに、木の葉隠れの里を裏切るという甘ったれた選択をした自分になら効果的だと、フウコは思う。

 

 シスイが仮面の男に人質として利用された時と、同じように。

 

「申し訳ありません。ダンゾウ様からは、猿飛イロミの拘束のみが指令でしたが、不意を突かれ逃してしまいました」

「いい。彼女の仕込みには、手を焼く」

 

 二人の暗部―――【根】の者だが―――からは、火薬やら薬品やらの匂いが微かにする。彼女が彼らから逃げる際に、大量にばら撒いたのだろう。数という面的な暴力の恐ろしさを、フウコ自身もつい先ほど感じ取った。

 

 蛇狂破音。

 

 イロミが放った音の暴力。フウコは須佐能乎をコンパクトに、そして高密度に展開したおかげで、大事には至らなかったが、逆を言えば他に防ぐ手段はなかった。勿論、大量の忍具や鋭い竹が襲ってきた段階での防ぎ方は、フウコが残ったチャクラの量を考慮したもので、万全な状態であるなら蛇狂破音を放たれる場面にならなかったのだが……それでも、イロミの実力はフウコが追い込まれるほどのものだった。

 

「お前ら、彼女を木の葉に搬送しろ」

 

 検診を終わらせ、写輪眼の瞳で二人を見る。

 治した腹部の傷からの出血以外に、すぐさま命を失うような要因はなかった。ただ、急がなければ危ないという状態ではある。

 

 二人は静かに頷き、一人がイロミを背負った。

 

 そしてフウコは、刀を抜き、背負っていない方の男の首に刀の刃を当てる。

 

「いいか? 必ず、彼女を里の病院まで運べ。迅速にだ。そうすれば、間違いなく彼女の命は助かる。もしも……彼女が死んだということが私の耳に入れば…………貴様らに地獄を見せてやる」

 

 イロミを徹底的に痛めつけはした。

 しかしそれは、彼女が自分に恐怖と憎しみを抱くようにするため。そして、あわよくば、忍の世界から逃げてくれることを願ってだった。

 

 フウコの容赦のない声と視線に、二人は慎重に頷いた。

 

「了解しました」

「さらばです、副忍様」

「ああ。……行け」

「「はっ!」」

 

 木の葉隠れの里へと二人は、風のように向かった。

 

 

 

 真っ暗で、孤独な夜にフウコは置いてかれる。写輪眼を解き、刀を鞘に納め、彼女は歩き始めた。

 

 

 

 特にどこかを目指しているというわけではなく、単に、イロミの血の香りが漂うその場から離れたかっただけだった。しばらく歩き、十分な距離を歩いたが、それでも血の香りは鼻を刺す。身体中に浴びた血の匂い。

 そのせいなのか。

 眠気が、やってきた。

 ふらふらとした足取り。一歩一歩と足を前に出す度に、力の抜けた足首はだらりと爪先を地面に擦らせる。

 

「あ」

 

 ついにフウコは足を躓かせた。前のめりに体勢を崩すが、地面に両手をついたおかげでみっともない倒れ方はしなかった。

 ふと、音が耳に届いた。

 音は頭の中から。

 その音は……【フウコ】が泣いている声だった。

 

「……ははははは」

 

 眠気を押しのけて、笑みが零れる。

 

「あっはっはっはっはッ!」

 

 フウコの笑みは、壊れていた。

 勝ちを確信したかのような傲慢さを秘め、

 自虐的な開き直った情けなさを秘め、

 子供のような素直な悲しみを秘めていた。

 

「あっはっはっはっはッ! ……ざまあみろ。………ざまあみろッ!」

 ―――お前は、よくも……よくもイロミちゃんを……ッ!

 

 壊れた笑みを浮かべたまま、フウコは言う。

 

「これでフウコちゃん……お前は、彼女に恨まれた…………。私と一緒。もう、たった一人。あははははッ! お前に残ったものを、壊した! 壊してやったんだ!」

 ―――今まで散々、私から奪っておいてッ!

「………………フウコちゃんがいけないの……。私からシスイを奪った……。私の未来を奪ったから、だから、仕返しをしただけ。全部、フウコちゃんが悪いんだよ」

 ―――私は……! ただ、お父さんとお母さんに会いたかっただけなのに……。イロミちゃんと、遊びたかっただけなのに……………。

「馬鹿じゃないの? お前にはそんなこと、出来るわけないでしょ? 皆の平和を壊そうとしたくせに……」

 ―――先に、私を壊したのは……、お父さんとお母さんを殺したのは、木の葉でしょ?! どうして……私ばっかり…………こんな……。

「私のお父さんとお母さんも殺されたよ。訳の分からない一族に襲われて。お前の親に私は人生を奪われた……。そしてお前に、私は全部、捨てさせられた。何かいけないこと、したかな……私」

 ―――お前さえ……いなかったら…………。

「私がいなかったら、フウコちゃんはきっと身体は治っていなかった……でも、私の代わりに誰かが、浄土回生の術の贄になってたかもね。……じゃあ、私も。フウコちゃんさえいなければ私は………」

 ―――もっと、幸せになれたんだ……ッ!

「ずっとずっと、大切な人たちと一緒に、大切な時間を過ごせたのに」

 

 お前さえいなければ。

 誰かがいなければ。

 世界はもっと幸福に満ち溢れて、自分はその幸福を享受できた。

 

 だけど、他者はいる。現実はいつだって邪魔をする。

 幸福という枠はどうしても傾いてしまい、高低が生まれてしまう。

 時には枠からはじき出されてしまう。

 そして他者を排除しようとし、現実を否定する。

 

 お前さえいなければ。

 誰かがいなければ。

 

 皆が皆、それを呟く。

 

 身体に痛みが生まれる。

 

 うちは一族を皆殺しにし、イタチと戦い、イロミと戦い。

 

 フウコは多くの忍術を使った。

 

 うちは一族を皆殺しにするのに、影分身を使用し辺りの警戒に使ったり、変化の術を使用し相手を油断させたり、無音殺人術を使用するのに精密なチャクラコントロールを持続させたり、時には天岩戸で相手が声を出さないようにしたり。牢獄から抜け出す時も一時的であるが須佐能乎を使用した。

 

 サスケを殺さないように、常に感知忍術を使用してイタチが助けに現れるギリギリのタイミングを見計らった。

 

 イタチとの戦闘でも須佐能乎を使用した。イタチの月読を破るのに多くのチャクラを消費した。影分身も使った。イタチとサスケを眠らせるのに、高天原を使った。

 

 イロミとの戦闘でも影分身を使い、須佐能乎を使った。彼女の検診や応急処置に、予想以上のチャクラを消費した。

 

 それらはどれも、針の先よりも細く、氷よりも遥かに密度の濃い集中力を要した。

 

 全てを成し遂げて、緊張が解けたせいで、それまでの負担を全て自覚できるようになってしまったのだ。

 

 ―――すぐに私の身体を返してよッ! お前はもう、何もないんだからッ!

「……黙って…………よ………………」

 

 身体の痛みは広がり、強くなり、眩暈すら起こさせる。

 

 ―――私はこれから、マダラ様と一緒に夢の世界に行くんだッ! お父さんとお母さんに会って、いっぱい…………いっぱいいっぱいいっぱいッ! 褒めてもらうんだッ!

「マダラは……私が…………殺す…………。二度と……木の葉には……ッ! 手を……」

 ―――ふざけないでッ! これ以上、私から何を奪うつもりなのッ?! この……悪魔ッ!

「……少し…………黙ってよ……」

 ―――身体を返せッ!

「…………お願い……もう…………しゃべらないで……私は…………、無くしちゃったんだから…………」

 

 もしも心の必要最小限の範囲を決めるとしたら、それはきっと、身体なのだろう。

 痛みを感じたり、味を感じたり、匂いを感じたりするから、それを楽しんだり喜んだりと心が生まれる。他者と触れ合いたいという欲求は、身体があるからだ。

 

 身体の痛みは、フウコの心に触れた。

 

 身体が激痛を訴えるのは、危険を知らせる為だ。危険を知らせ、対処を求めるため。けれど、今のフウコではそれらに対処を施すことは出来ない。

 

 体力も残っていない。

 チャクラも、簡単な術一つ発現させることもできないほど枯渇している。

 

 では誰が、対処するのか。

 

 それは、彼女と親しい者だ。

 家族や友人や恋人。彼女の苦しみを理解できる者。

 だが、今の彼女の傍には誰もいない。

 絶対的な孤独感。

 それをフウコの心は、感じ取ってしまった。

 苦しく、辛く、痛いのに。

 誰も―――助けては、くれない。

 

「……わだじは…………すで……ぢゃっだんだ…………」

 

 捨てたはずの心が―――いや、心を捨てる事なんて誰にもできない。

 フウコは心を捨てたつもりだったが、心を奥底に押し込めただけだった。

 里の平和を守るため、シスイへの嘘を本当にするためというプロテクトで心を守っていた。

 

 それらの心の鎧が、身体の痛みで、剥がされていく。

 

 涙が、溢れていた。

 止まらない。

 怖い夢を見たみたいに。

 怖い夢が現実になってしまったからだ。

 涙が―――。

 

「ぜんぶ…………、っ……すで…………ぢゃ…………っだぁ…………」

 

 

 

『フウコ。お前がどこにいても、血は繋がっていなくとも……俺たちは家族だ。お前の父だったことが、俺の誇りだ』

 

 

 

 フガクの最後(、、)の言葉が蘇る。

 

 

 

『お母さんって、呼んでくれないの? フウコ。私も、どこまで行っても、貴方の家族よ。怖いことなんて、何もないわ』

 

 

 

 ミコトの最後(、、)の言葉が蘇る。

 

 

 

『俺は……お前を信じてる』

 

 

 

 イタチの、

 

 

 

『私たちは、友達、だよね……?』

 

 

 

 イロミの、

 

 

 

『……頑張れ……フウコ………』

 

 

 

 シスイの、

 

 

 

 言葉たちが、記憶たちが、

 声を張り上げて、

 夕日の向こうに消えるような別れを告げていく。

 涙が溢れ、

 心が悲鳴をあげた。

 誰か、助けてと、呟いたかもしれない。

 もしかしたら、最初から最後まで、そう祈っていたかもしれない。

 助けてと。

 一人にしないでと。

 そんな惨めな心を持っていたのだと感じ取ってしまい、余計に心が、叫んだ。

 

 

 

 フウコは泣いた。

 

 

 

 道に迷った子供みたいに。大声で。

 

 そう、彼女は……子供だ。

 

 遊び疲れて布団に包まれながら、明日は何をして遊ぼうかと心を弾ませる子供だった。

 

 子供のとしての心が芽生えたばかりの…………子供だった。

 

 声を押し殺すこともなく、泣き続ける。

 立ち上がり、歩く。

 帰り道が分からない。

 家の場所が分からない。

 家族も、友達も、恋人も、どこにもいない。

 泣きながら、大声を出しながら、森の中をただ一人で歩く。

 

 かつて見た。

 いつか見た。

 アカデミーの頃に過ごした、あの黄金に輝く理想郷は。

 もはや、古里になってしまった。

 二度と戻ることのできない……故郷(ふるさと)に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「八雲フウコだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、現実はやってくる。

 涙を流して現実から逃げようとしても、

 いつだってどこだって、

 現実は……邪魔をしてくる。

 

 目の前には、七つの(、、、)人影が立っていた。

 

 木々の葉が月明かりを邪魔し、判然としない亡霊のような人影。

 七つの人影の内の一つ―――仮面の男はひと際大きな木の幹に立ちながら、仮面の奥に潜める写輪眼をフウコに向ける。フウコは仮面の男を見上げた。

 

 もう、涙は乾いていた。

 

 泣き疲れ、小さな木を背に眠ろうとしていた矢先のことだったのだ。

 

 瞼を閉じて眠りにつく寸前の仮面の男の出現に、フウコは動揺を隠せなかった。

 

「……うちは…………マダラ…………。なんで……」

「お前が木の葉でしたことは、既に知っている」

 

 その言葉に合わせて、仮面の男の横から白ゼツと黒ゼツが姿を現す。ニタニタと笑っている白ゼツの表情だけは、はっきりと分かった。

 

「うちはフウコを返してもらおう」

 ―――マダラ様! やっぱり、来てくれた!

 

 もはや、戦う余力は皆無だった。

 

 それでもフウコは立ち上がり、刀を鞘から抜き、抵抗の姿勢を示す。

 

 だが。

 

 腕が震えた。

 膝が笑う。

 絶望的な状況に、顎がカチカチと怯えた。

 写輪眼すら発動できないほど、チャクラは枯渇している。

 

 せっかく、全部捨てたのに。

 苦しい思いをしているのに…………ッ!

 こんなところで……負けたくなんか―――。

 

 どうして、

 どうしてどうしてどうして!

 いつも、私だけが―――ッ!

 

「抵抗するか。まあ、いいだろう。今のお前に勝ち目はないがな、せいぜい、無駄な足掻きをしろ」

 

 仮面の男は呆れるように嘲笑するが、フウコは既に、地上に立つ六人の男たちに視線を巡らせていた。

 

 勝てる見込みはない。

 

 逃げることを選ぶ。

 どこか隙が無いか探すが、顔中に杭のような物を打ち込んだ男たちは、まるで全員で一つの生き物かのように、一片の隙さえ見つけさせてくれはしなかった。

 

 ―――あはははははッ! フウコさん、ほら? 早く身体を返しなよ。痛い目に合う前にさ。

 

 フウコは歯を食いしばる。

 

 ―――分かってるでしょ? 潔く諦めたら? どうせフウコさんがやってきたことなんて、無駄なんだからさ……。後は、私の中で寝ていれば、

「無駄……じゃない…………」

 ―――何言ってるの?

「無駄なんかじゃないッ!」

 

 その言葉は、誰に向けたものだったのか。

 そして、未来を見据えた言葉だったのか、過去に囚われた言葉だったのか。

 

 フウコは、駆けた。

 逃げるために、生き延びるために。

 

「うぁあああああああああああああああッ!」

 

 今出せる力を振り絞った。

 

 だが、

 しかし、

 けれど、

 やはり。

 

 その速度はあまりに遅かった。下忍と同じレベルのもの。

 刀を振り上げ、狙うは、オレンジ色の髪の毛をした短髪の男。

 

 男との距離は縮まり、刀を振り下ろす。

 刀は正確に男の首を狙っていた。

 この一撃で目の前の男を殺し、あるいはダメージを与え、隙を作り、逃げようと咄嗟に考えた。

 

 自分のしたことを決して無駄にしないために。

 犯した罪を力に。

 渾身の力を全て、両手に込めた。

 

 だが、

 現実は、

 あっさりと理想を否定する。

 

 刀が届くよりも遥か先に、男は右手をフウコの顔に添えた。

 

 

 

「神羅天征」

 

 

 

 世界が、回転する。

 上も下も、前も後ろも。

 全てが曖昧になった。

 起きているのかも、眠っているのかも。

 フラッシュバックのように見える夜空は、後頭部が地面に叩きつけられて、刀が折れ、背中で木々を砕く感触を受け取る度に、白くなっていく。

 

 もう、空は、見えなかった。

 代わってしまっているのか、そうでないのか。

 綺麗なのか、美しいのか。

 

 

 

 

 

 

 フウコは―――負けた。

 彼女の人生を、罪を、苦しみを全て賭した抵抗は虚しく。

 敗北した。

 




 月日は流れ―――

 昼。

【うちは一族抹殺事件】の記憶が、ただの歴史の文字となってしまったかのような穏やかな空気を漂わせる木の葉隠れの里。

 中央の大通りには賑わっていた。ちょうど昼食時で、お腹を空かせた大人たちが行き交っている。今日はどこで食べようか、家に帰って妻の手料理を楽しもうか、今月は給料が厳しいから安いもので済ませよう、一楽のラーメンを久々に食べようか。十人十色の笑顔を浮かべて作られる優しい人波は、正に里がどれほど安定し皆が満足しているのかを象徴しているかのようだった。

 そんな人波を、一人の少女は器用な格好で歩いていた。
 根元が黒く、毛先に近づくにつれて白くなっていく特徴的な髪の色は、彼女が中忍だった頃よりも幾分か伸びていた。真っ白な毛先が肩に乗っかるくらいには長くなり、けれど、前髪は変わらず目元だけを隠している。髪の下には、脹脛の裏まで伸びるほどの長い緑色のマフラーが首にかかっている。緑色の薄いジャケットの下には半袖の黒いインナーがあり、右の二の腕に額当てを巻いている。白いハーフパンツと、膝下まである黒いスパッツ。両手には黒いグローブと、足には忍の模範的なシューズが。そして、背丈ほどある巨大な巻物を彼女は背負っている。

 しかし、混雑する人波を流れるような足運びで誰にもぶつかることなく進んでいく彼女を、辺りの人たちが不思議そうな視線を度々向けるのは、特徴的な前髪や巨大な巻物、異様に長いマフラーのせいではない。

「あんなに買い物して……どうするつもりなんだ?」

 どこかの誰かが、彼女を見て呟いた。きっとこの呟きは、彼女を見た多くの人たちが抱いた疑問を総括したものだろう。

 少女は合計で五つの買い物袋を抱えていた。五つとも、今にも中身が飛び出してしまうのではないかと思えるほどパンパンに膨らんでおり、その全てが食材だった。成人男性の身長よりも頭一つ分身長の低い彼女が、それら全てを、食材一つ腐らせることなく食べ切ることなんて出来るわけがない。

 また、五つの買い物袋の持ち方も彼女に視線が集中してしまう要因の一つだった。

 左腕抱えているのは二つの買い物袋―――中身は野菜類。右腕に抱えているのは二つの買い物袋―――中身は調味料や肉、お買い得な卵パックなど。そして残った一つの買い物袋は―――こちらは果物類だ―――は、なんと頭に乗っけていたのである。器用にバランスをとって歩く彼女の姿に、もはや反対方向から歩いてくる人たちは彼女から避けるようにすらなり始めていた。

 少女―――猿飛イロミは、辺りの視線に全く気付かないまま、頭の中で今晩の夕飯を考えていた。今日は卵が安かったため大量に買ってしまったが、どんな風に料理しようか。目玉焼きでは味気ないし、オムライスでもまだ足りない。折角だから、本格的な卵焼きを作ってみてもいいかもしれない。前回は出汁で味付けをしたが、今回は砂糖を多めに使った、ふっくらでジューシーなものに挑戦するのも悪くない。きっとプリンのように甘いものが出来上がるだろう。

「やあ、イロミちゃん」

 そんなことを思っていると、横から声をかけられた。聞いただけで、彼の知的具合と冷静さが、そこらの大人よりも遥か上位にいるのだと思えてしまうほどシャープで聞き心地の良い声質。イロミは真っ直ぐに伸ばした首だけを動かし、方位磁石のように声の主に顔を向けた。

「あ、イタチくん」

 立っていたのは、友人のうちはイタチだった。彼は成人男性よりも少しだけ身長が高く、顔を上げなければはっきりと彼の顔が見えない。首を軽く動かし、器用に頭の上の買い物袋の重心をズラして、買い物袋を額よりやや上に置く。すると、彼を上手く見上げることができ、整った顔立ちが自然な笑顔を浮かべているのが分かった。額には、木の葉隠れの里のマークが彫られた額当てを着けている。長い黒髪は、後ろだけを一つにまとめていた。首から下は黒いコートで隠されている。

「おはよう。これから任務?」

 と、イロミはイタチに尋ねた。今や暗部の部隊長に就任した彼は、昼夜問わず、突発的に任務に駆り出されることがある。最近は少し忙しいようで、こうして里の中でぱったりと会うのは一週間ぶりくらいだった。
 イタチは小さく首を横に振った。

「いや、もう終わったところだ。今日は調べ物があって、朝からずっと、書類の整理をしていた」
「暗部が事務仕事なんて珍しいね。そういうのは、私の仕事なのに」
「そろそろ、中忍選抜試験が始まる。イロミちゃんや、他の方々も忙しくなるから、そのサポートということだ。荷物、持つよ」
「ありがとう」

 頭の上に乗っけていた買い物袋をイタチが持つと、随分と首が楽になった。本音のところを言ってしまうと、正直、首が痛かったのだ。最初は頭に買い物袋を乗っけるというのはバランス感覚の修行になるのではないかと思ったのだけれど、意外とあっさりと重心を捉えてしまい、歩くにしても特にブレることもなく、歩いて数分で苦行になってしまっていたのだ。

 二人は並びながら、歩き始める。

「じゃあ、これからお昼ご飯なんだ」

 とイロミは呟いた。

「ああ。そろそろ、午前中の演習も終わってサスケが帰ってくるから、久々にあいつと一緒に食べようと思っていたところだ。イロミちゃんも、一緒にどうだ?」
「うーん、どうしよっかなぁ」
「これから仕事でもあるのか?」
「あるにはあるけど、まだそこまで急ぐほどのものはないんだよね。中忍選抜試験の準備で、大名の人たちに出席通知とか砂隠れの里の人たちへの募集要項の書類準備とか色々あるんだけどね。今すぐって訳じゃないの。それに、フウちゃんが凄い頑張ってくれているからね」

 イロミは昇進していた。
 昇進、と言っても、半ば補欠合格といった感じのものだが。今の彼女は、特別上忍という地位にいる。この、特別という表現には人によって変わった意味合いが含まれている。
 例えば、みたらしアンコ。彼女にとって特別というのは、大蛇丸の弟子だったという意味合いがある。
 例えば、フウという名前の少女。彼女もまた、特別上忍だった。彼女にとって特別というのは、七尾の人柱力という意味合いがある。
 イロミにとっての意味合いは、両手が不自由であるということと、猿飛ヒルゼンの娘であるということ、そして彼女自身も知らないことだが、大蛇丸との繋がりがあるということだった。

「なら、どうして?」

 イタチは不思議そうにイロミを見下ろした。他に用事でもあるのか? と尋ねているようである。あはは、とイロミは笑った。

「うーん、やっぱり……サスケくん次第かな」

 あれから月日が経ったが、彼との溝は、まだある。イロミ自身は、彼に対して拒絶的な感情はないけれど、サスケはイロミを邪魔者として考えたままだ。

 いつだって人間関係というのは、一方的な不具合が起きてしまうもので。仕方ないと思う反面、いつかは必ずその溝を埋めたいという思いもあった。

「サスケはイロミちゃんの料理を食べている。そこまで考える必要はない」
「食べてるって言っても、どうせ、他に食べるものがないから食べてるって感じでしょ?」

 イタチは苦笑を浮かべた。

「まあ、そうだな。だが、俺が作る料理はいつも御代わりをしない」
「イタチくんの料理って、薬か何かを食べてるみたいで味付けが薄いからだよ。薄過ぎなんだって」
「濃い味付けだと、俺が食べれないんだ」
「極端過ぎるんだよ。イタチくんは、信じられないくらい料理は不器用だよね。なんか、こう、切羽詰まってる感じが料理から伝わってくるような」
「料理が?」
「うん、料理が。料理がもう、叫んでるみたいなんだ」
「何を叫んでいるんだ?」
「食べたら不味いぞって」
「イロミちゃんは、何か、すごいな」

 風が吹く。
 温かく、柔らかな風。
 ちょうどイロミが通り過ぎた地面にいた一羽の鳥が、風に乗って空に向かって飛んでいく。それをイロミは、微かに顔を上げて見送った。

 空は澄み渡る、蒼い世界。雲は一つもなく、高い位置の太陽は白い光を降らせている。

 ―――フウコちゃんも、空、見上げてるのかな。

 一時期、フウコが死んだのではないかという情報が流れたことがあった。【うちは一族抹殺事件】の調査の時、イロミが発見された場所の近くで見つかった異常な戦闘の跡やフウコの血痕、折れた刀の刀身などの情報。それらに加え、事件以後、一切に彼女が姿を現さなかったこともあり、そんな情報が広がったのだ。

 しかし、彼女は姿を現した。
 事件から一年が経過した時、とある小さな忍里同士の戦争に、彼女の姿があったという目撃情報があった。
 写輪眼を持つ、黒く長い微かなウェーブのかかった少女の姿。写輪眼を持つ少女は、今では、この世にたった一人しかいない。

 フウコは生きている。
 犯罪者として、だが。

 それでもイロミは、彼女に手を伸ばすことは、今でも諦めてはいなかった。

「イロミちゃん? どうした?」

 いつの間にか、足を止めていたらしい。少し前でこちらを振り向いて立ち止まっているイタチに視線を向ける。

「ううん、何でもない」

 二人は再び並んで歩いていると、反対側から見知った人たちの姿があった。

 赤毛交じりの黄色い髪をした男の子。
 イタチとよく似た顔立ちの、青いTシャツを着た男の子。
 桜の花のように綺麗な髪の色をした女の子。
 灰色に近い髪の色をして、額当てで左目を隠し、マスクで鼻先まで顔を隠した、長身の男性。

 ちょうど午前の演習が終わったようだ。

 四人はイロミとイタチがいるのに気付いたのか、様々な表情を浮かべた。

 うずまきナルトはイロミに対して小さく笑顔を浮かべた後、イタチを見るや小さく唇を尖らせた。
 うちはサスケは不愉快さを隠すこともなく、イロミから視線を逸らした。
 春野サクラはイタチを見た途端に顔を真っ赤にし、手櫛で髪の毛を整え始めた。
 はたけカカシは死んだ魚の目でこちらを見て、やる気なく片手を上げた。

 次の世代の子たちが、動き出していた。

 フウコが作り上げた、束の間の平和の中から。

 未来が、生まれた。

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