ブンシがフウコの元へ、拷問しに行ったほぼ同時刻。
イタチは家の玄関にいた。
午前中は、チームの子たちと演習を行った。任務をしなかったのは、任務の場合では自由に時間を確保できないからだ。演習は午前中だけ、と子供たちに伝えた時は全員不満そうに頬を膨らませたが、どうにか納得してもらった。次に演習をする時は、みたらし団子を用意するようにという条件を付けられたが、まあ、痛くも痒くもない約束事である。
いや正しくは。
痛みも痒みも感じれるほど、余裕がない、と言った方がいいかもしれない。
「イタチ」
シューズを履いているとミコトに声をかけられた。家には今、イタチとミコトの二人しかいない。サスケはアカデミーに行っている。平日だから当たり前だ。しかし、フガクが家にいないのは、特別な理由があるからだった。
振り返ると、ミコトはどこか疲れた笑みを浮かべている。両手に持っている包みを差し出された。
「これ……フウコに渡せたら、お願い。きっとあの子、お腹空かせてると思うから」
弱々しい声からは、小さな葛藤があることが伺えた。しかし、その葛藤の構成までは、イタチは判断できなかった。フウコを家族から除外する、という意志は既に家族全員の共通となっていた。ミコトの葛藤が、フウコへの家族としての愛情と、フガクの考えに賛同しなければならないという妻としての役割がぶつかっている、ということをイタチは小さく願う。
差し出された包みを受け取る。フウコがアカデミーの頃に使っていた弁当箱だ。
「あいつも、きっと喜ぶよ」
笑いながら返すと、ミコトは前髪を小さく掻きあげながら、ようやく歯を見せて笑った。
今日、フウコに会いに行くということを知っているのは、ミコトだけではない。フガクも含めて、昨日の夜に開かれた会合に出席した者は全員、知っている。昨夜の会合で、イタチに課せられた役目だった。
イタチは「いってきます」と呟き、家を出た。
晴れた天気の下のうちはの町は、表面上は普段と変わりない穏やかさを演出しているが、微かな薄暗さが見え隠れする。フウコが暗部に拘留されたという情報は、子供を除いて、誰もが知っているのだろう。薄暗さはつまり、焦りと不安が混ざったものだった。
人とすれ違うたび、瞬間的な視線を、イタチは感じ取った。どれも疑念に満ちたものばかりで、不愉快さはあったが、感情を荒げるほどではなかった。視線に気付いていないフリをしつつ、一定の速度で町を出る。向かう先は、暗部。しかし、暗部の拠点がどこにあるのかは、イタチは知らない。上忍の身分だとしても、火影の懐刀である暗部の活動は殆ど知ることはできないのだ。
故に、まず向かうべき所は、三代目火影・ヒルゼンの執務室だった。彼は、フウコを通じて、うちは一族の行動を知っている。そして、クーデターを阻止しようとする自分たちのこともだ。彼に会えば、フウコに会わせてもらえるだろう。
もっとも、会えるとは考えていない。もしかしたら、今は、火影は別件でいない可能性の方が高かった。
『うちはフウコをどうするつもりだ?』
昨日の会合は、終始、彼女を話題にされた。
うちは一族を統率するフガクの娘である、フウコの行動は、普段は泥の底のような静けさを保っていた彼ら彼女らに困惑の色を滲みださせるには十分だった。皆が皆、これはどういうことなのだ、と追究する。
フガクは一切、彼女の行動について知らなかったと主張した。元々、フウコの人格は奇異だったこと、家族としては接することはできなかったこと、養子であること。躊躇なく、彼は言ってのけた。
強引で無責任な言葉だったが、フウコの人格をある程度知っていたこと、そしてこの時期にフガクの信頼の失墜による一族の空中分解を恐れる集団的な心理のおかげで、それ以上の追究は無く、しばらくした沈黙を経て、先ほどの言葉が囁かれたのだ。
『まずは、情報を精査しなければならない』
と、フガクは呟いた。
『本当にフウコが、シスイくんを殺したのかを調べなければ、どうすることもできない。フウコがこちら側なのか、それとも火影側なのか判断するのは、それからだ』
『どうするんだ?』
別の誰かが尋ねると、フガクは頷き、応える。
『明日、火影と会談できるよう申請を出すつもりだ。できれば、会談そのものを行えるようにしたいのだが、これまでの会談の事を考えれば、明日には無理だろうが……』
『その会談で、うちはフウコの身柄を警務部隊に引き渡すようにするというのか?』
『里での案件は警務部隊が主導となるのが規則だ。いくら、前例のない暗部内におけるものであっても、強くは言えないはずだ』
『……もし、引き渡さない、ということになったらどうするんだ?』
会合場に張り詰めた空気が漂い始める。
うちは一族として、懸命に努めてきた役割を、公然と否定された時、どうなるのか。空気は、その場にいた者たちの思惑を明確に、けれど無言に、フガクと、そしてイタチに訴えかけていた。
瞼を閉じるフガク。そして、彼は決断した。
『そうなった時は、我々は木ノ葉と離別する。皆は、いつでも、その事態になった時の覚悟をしていてくれ』
もはや、クーデターは近い。
会合の終わり際に、フガクは全員の前でイタチに指示を出した。
『お前は明日、フウコに面会を申し込め。上忍で、兄妹のお前なら、出来るだろう。フウコから情報を引き出すんだ』
『……分かりました』
町を出ると、空気は一変する。飾り気のない、素直な賑やかさは、吸い込む空気すらクリアにしてくれるような気がした。火の匂いも、肉が焦げるもしない。
足を進める。しばらく歩くと、建物が見えてきた。顔岩の下に大きく立つ建造物は、おそらく、木ノ葉の忍で知らない者はいないだろう。出入り口を行き来する人の波に入り、中に入る。上階へ行き、カーブする廊下を進んでいく。
火影の執務室のドアに立ち、ノックすると「入れ」と、重い声が聞こえてきた。その声がヒルゼンのものだというのは、すぐに分かる。ドアを開けた。
「……イロミちゃん?」
大量の書類が積まれているデスクの前には、イロミが立っていた。イタチの声に、イロミは長いマフラーを揺らしながら振り返ると、絞りだすように声を出した。
「イタチくん……」
「どうして君が、ここに……」
彼女は、顔を逸らしながら呟いた。
「フウコちゃんのことで、ヒルゼンさんに話しを聞きに来てるの。昨日、フウコちゃんが暗部に連行されるところ……見たから」
巨大な巻物を背負う彼女の背中は、小さく、震えていた。
昨日、フウコが連行された時に、彼女がいたということは知らなかった。フガクは、知っていたのだろう。ただ、言う必要性がないと、彼は判断したに違いないと、イタチは考えた。そして、イロミが、シスイの死を知っているだろうことも……。
「ヒルゼンさん……どうして、私をフウコちゃんに会わせてくれないんですか?」
「……さっき言った通りじゃ」
デスクに腰掛けるヒルゼンは静かに言う。両肘をデスクに乗せ、顔の前で両手を組んだ姿勢のせいで、彼の表情はほとんど見えなかった。
「まだ、事情聴取の最中なのじゃ。フウコに情報を与えることは出来ぬ。容疑が晴れるまで、誰にも会わせることは許されないのじゃ」
「私はフウコちゃんがシスイくんを殺しただなんて……信じていません。だから、フウコちゃんに、そもそも変な事を伝えることはしません」
「ワシもそう信じておる。だが、他の者はそう思わん。ましてや、暗部内での案件。慎重を期さねばならないのじゃ。分かってくれ……」
「分かりませんッ!」
イロミはデスクの前まで立ち、力任せにデスクを叩いた。何枚かの書類が音もなく床に落ちるが、誰もそれに視線を送ることはしなかった。
「お願いします、フウコちゃんに会わせてください。フウコちゃんと、話しをさせてください」
「できぬ。諦めるのじゃ」
「勝手にフウコちゃんを犯人扱いしておいて……ッ!」
乱暴にイロミは振り返り、真っ直ぐイタチを見た。
「ねえ、イタチくん。イタチくんは、何か知ってるの?」
「……いや、何も。俺も、フウコに面会を申し込みに来たんだが」
ちらりと、ヒルゼンを見る。彼は、イタチの思惑を理解しているのだろう。火、と赤く書かれている笠が微かに上下するのを、話しを合わせてほしい、という意図なのだと判断した。
「無理みたいだな」
「……イタチくんは、それでいいの? ……家族…………なのに。駄目だって言われて、会うのを諦められるの?」
「イロミちゃん、一度、落ち着くんだ。フウコは大丈夫だ。シスイを手にかけてなんかいない。すぐに、容疑も晴れるはずだ」
「お願い、私の話しを聞いて。きっと、フウコちゃんは困ってる、苦しんでる。容疑が晴れるとか、そういうことじゃないの。ねえ、教えて。うちは一族で、何が起きてるの?」
「……大丈夫、うちは一族は変わってない」
イタチは、イロミが危うい立ち位置にいるということをすぐに察した。
うちは一族への疑念、それを抱いている。
しかし、その程度では何の問題は無かった。たとえ、イロミがうちは一族に「何を企んでいるんですか?」と、根拠もなしに問い詰めても、誰一人として真実を語りはしないだろう。
淡々と返したイタチの言葉に、イロミは両手の拳を震わせた。
「……もういいよッ!」
微かな水っぽさを含んだ大声。押し退けるようにイタチの横を通ったイロミは、乱暴な足取りで廊下へと姿を消していった。通り過ぎる瞬間、彼女の頬に小さな水滴が通ろうとしていたのが見えた。
胸をちくりと刺す感情のささくれを冷静に処理する。
彼女が培ってきた膨大な努力を過小評価するつもりはない。正しく評価しているからこそ、巻き込みたくはなかった。
開け放たれたままのドアからは静寂が立ち尽くしていたが、すぐさま、鈍い足音と床を叩く無機質な音が聞こえてきた。ダンゾウが無表情ながらも、イロミが歩いていった方向を眺めながら部屋に入ってくると「なるほど」と呟いた。
「少々、面倒な状況のようだな、ヒルゼン」
「フウコの友達じゃ、隠し通せることではないことは、十分予想できたことではあるがのう。念の為……あの子を通さないように指示を出してはくれぬか?」
「俺の部下はお前のように甘くはない。俺が許可した者以外は通しはしない」
ヒルゼンは安堵のため息を深く吐くと「さて」と、組んでいた両手を離し、背筋を伸ばしながらイタチに視線を向ける。
「お主も、フウコのことで来たのじゃろ?」
「はい」
イタチは頷く。
「ですが、その前に確認したいことがあります」
「なんじゃ?」
「うちは側から会談の申請はありましたか?」
「午前の内にの。会談は明日、行われることとなった。夕刻じゃ。フウコの引き渡しについては、既に、ワシらは引き渡すことで合致しておる」
その言葉を聞いて、ひとまずの安心を抱く。少なくとも、決定的な決裂は回避されるだろう。
「では、ヒルゼンさん。俺をフウコと、シスイの元に案内してください」
返事は、すぐにはなかった。
ヒルゼンが微かに俯く。笠のせいで、目元が見えなくなった。彼は、右手で白い顎鬚を撫でた。
「……イタチ、実はの………」
「何でしょうか?」
「お主に伝えなければならぬことが―――」
「ヒルゼン、それはお前が言うべきことではない」
後ろのダンゾウがピシャリとヒルゼンの言葉……そして、室内の空気にも、割り込んだ。不自然な沈黙に、イタチはダンゾウを見る。無表情を浮かべる彼からは、およそ顔の半分が包帯で隠れているせいもあるが、意図を汲み取ることができない。
ダンゾウは杖で床を叩いて、姿勢を整えた。
「ついてこい、案内してやろう」
☆ ☆ ☆
先導するダンゾウに付いていく。わざとなのか、元々そういう作りなのか、随分と入り組んだ手順で、廊下を進んだ。頭の中では、何度右を曲がり、何度左に曲がり、何段の階段を下りたのか、完璧に再生できたが、おそらく次に来る時に同じ手順で進んでも、辿り着くことは出来ないだろう。
廊下は徐々に光度を減少させていく。窓は大分前から姿を見ない。材質も、木製から石製になり、空気の温度も低くなった。
歩いている間、一度も二人の間に会話が生まれることはなかった。少なくとも、前を歩くダンゾウの背中からは、拒絶的な雰囲気を感じ取れた。しかし、イタチ自身も、ダンゾウから今回の事態について聞こうとは思っていない。フウコの口から、シスイの口から聞いて、初めて、情報は共有されるのだから。
そこは、牢獄が連なった廊下だった。
仄暗く、廊下の突き当りは見通せない。地獄のように静かで、不気味だった。ダンゾウは、やはり何も言わないまま、奥へと進んでいくのに、ついていく。両横を通り過ぎて行く牢獄には人の影は無いものの、暗闇の奥に隠れるような汚れが、壁や床にこびりついているのが見えた。
イタチは手に持っている弁当箱をちらりと見降ろす。こんな所で、渡しても、きっと美味しくはないだろう。
ようやく見えてくる廊下の奥。見るからに重厚な鉄の扉が佇む。その両脇には、案山子のように生気を感じない二人の暗部が立っていた。
ダンゾウの部下、根の者らだ。
「お前らはしばらく、外で待機しろ。誰も通すな」
「「了解」」
機械的な動作で、ダンゾウの後ろに立つイタチに視線を一切送ることなく、二人は姿を消した。ダンゾウが、扉を開ける。中は暗黒。しかし、開けた扉から入ってくる微かな光によって、中央に座るフウコの姿が確認できた。
両眼を覆い隠すマスクと、身体の自由を完全に奪う拘束衣に、イタチは息を呑んだ。
「フウコ……」
拘束衣の上には、六つの黒いベルトが回されている。彼女が座る椅子に固定するためだ。眠っていたのか、頭を垂れていたフウコは、声を頼りに顔をイタチに向ける。
「……イタチ?」
「ああ、俺だ」
部屋に明かりが点けられた。ドアの横のスイッチを、ダンゾウが押したのだ。天井にぶら下がる電球が、室内を真っ白に染めた。他の牢獄とは異なり、ここだけは壁も床も清潔だった。だから余計に、自由を奪われている彼女の姿が、悲しかった。
「ダンゾウさん、すぐにフウコの拘束を解いてくれ」
平坦な声、だったと思う。
イタチは静かに怒っていた。幾ら、周りの者の目を誤魔化す為とはいえ、密室の暗闇で自由を奪うのは、やりすぎだと思ったからだ。
「暗部には、うちは一族と通じている者がいる。万が一に備える必要がある」
「今は、俺とあんただけだ」
「いいの、イタチ。私は、大丈夫」
平坦で、それでも、綺麗な声質。
どういう訳か、とても、懐かしい感じがした。
「それに、拘束衣とマスクは、取り外しが手間取るから」
「……分かった」
「うちは一族は、どうなってるの?」
「かつてないほど不安定だ。誰もが、お前を疑っている」
それは、言葉のニュアンスのほとんどを濁したものだった。うちは一族では、もう、フウコはフガクの子として認めてもらっていない。クーデターを阻止できた暁には、シスイの別天神の力によって、その事実は無くなっているだろうと思い、伝えなかった。
「どれくらい持ちそう?」
「明日、木の葉とうちはの間で会談が行われる。お前を警務部隊に引き渡すかどうか、という会談だ。木の葉は、お前を引き渡すつもりでいる。そうなれば、しばらくは大丈夫だろう」
「そう」
室内が、数瞬、沈黙。
そこでイタチは気付く。フウコの姿を見た驚きで手放しそうになっていた考えを、イタチは口にした。
「フウコ、シスイはどこにいる。何故、シスイが死んだという情報を流した」
牢獄はそこまで広くなく、物はフウコが座っている椅子くらいだ。しかし、シスイの姿はどこにもない。
フウコが、顎を下げた。
悲しそうに、苦しそうに。
「……ごめん」
その言葉だけで、イタチの知性は、状況を理解できてしまった。
だがそれでも、感情が受け止めきれず、イタチは無意識に首を振っていた。
「俺は……怒っていない」
「何に、怒っていないの?」
「シスイが死んだ、という情報で暗部を動かしたことにだ」
「嘘を、付かないで。隠し事は、しないで。イタチなら、分かってるはず」
「シスイはどこだ。あいつは、どこにいる」
「……もう…………シスイは……いないの」
「…………何があった」
自分の声なのに、声は震えてしまっていた。
悲しんでいるのか、苦しんでいるのか、怒っているのか、自分の感情の判断も覚束ない。瞼を強く閉じて、大きく呼吸する。まだ手に持っている弁当箱が、カタカタと揺れた。
「ねえ、イタチ」
フウコの声は、不思議と、淡々としていた。
「うちはマダラが生きてるって言ったら、信じる?」
★ ★ ★
イロミは家に帰っても、フウコが連行されていく姿が頭から離れることはなかった。印を結ばせないように両手を覆う包帯と鎖、写輪眼を使わせないために付けられた目を覆うマスク。
まるで、罪人のような扱いだった。
けれどフウコ自身は、それらに異議を唱えることなく、むしろそれが当たり前なのだというように従い、両腕を拘束する鎖に引っ張られるまま連行された。遠ざかる背中に、言葉を投げかけることは出来なかった。
フウコが、彼女が、どんな言葉をも、受け付けないような気がしたからだ。
イロミは涙を拭い、フガクやミコトに尋ねた。何があったのか、どうしてこんなことになったのか、と。二人は口々に、こういったのだ。
「
まるで壁に話しかけると返ってくる反響音のようだった。他の顔馴染の人に聞いても、同じような文言が返ってくる。
薄気味悪い、異常さが鼻に付く。
けれど、これ以上うちはの町で聞いても、意味がないとイロミは判断した。町を出る時には、もう西の空は紅かった。
涙が出てしまうほどに、憎たらしい空だ。重い感情は、身体を疲れさせて、足取りを粘っこくさせる。一歩一歩、家に向かう足取りが、疲れた。
シスイが死んだ。
フウコが彼を殺した。
あの夜に出会った
衝撃的な情報のせいで、イロミのメンタルは摩耗され尽くされていた。どれか一つでも考えようとすると、鼻の奥が熱くなって、泣き叫んでしまいそうな予感が頭の隅にあり、町を出てからイロミは無心に自分の家に向かった。家に着く頃には、東の端は暗くなっていた。
部屋の灯りを点ける。何度か瞬いてから、部屋が明るくなった。狭い台所、その横にかけられた安っぽいカレンダーが目に止まった。今日の日付が、赤い線で丸く囲われている。
「……ああ、そうか…………今日…………」
今日は、お金を渡す日だった。朝からずっと、窓の鍵から始まって、すっかり忘れてしまっていた。イロミは箪笥の中の奥の方に隠していた、中身の分厚い封筒を懐に入れて、再び家を出た。
向かう先は、かつての自分の家だったところ。そう、あの男が住む……元・孤児院だった。懐に入れた封筒は、彼に渡す生活費である。孤児院が経営的に破綻し、育ての親としての養育費の権利もイロミが中忍になったことによって無くなった彼だったが、経済能力はほとんど成長することなく、今でも、イロミの収入を糧にして生きている。月に一度、彼に貯金しておいた金銭を渡す日、それが今日だったのだ。
ちらほらと、電灯に光が点き始める。眩しいとすら微かに思ってしまうほどの道を、しかしイロミはテンポを崩すことなく進んでいく。彼女にとって、汗水を賭して貯めた金銭を渡すのに、躊躇も、ネガティブな義務感も、何もなかった。
『イロリちゃんが、そんなことする必要なんて……ないと思う』
脈絡もなく、彼女の言葉が思い浮かぶ。
中忍になったばかりで、懐に入れていた封筒を、道のど真ん中ですっころんだ拍子に中身をばら撒いてしまった時に、たまたま近くにいた彼女にバレてしまった時のことだった。
彼女は無表情だったけど、平坦な声の向こう側には隠しきれていない怒気が込められている事には気付いていた。
『あはは……。でも、私が決めたことだから。それにほら、私ってさ、倹約上手なところあると思うし』
『ううん、イロリちゃんはそこまで上手じゃないよ』
『え、本当? ど、どこが!?』
『あんな男にお金渡しても、勿体無いよ』
勿体無い。
そうだろうか?
自分がやりたくて、そうしていることだ。物理的に無意味かもしれないけれど、自分自身にとっては価値のあることだと思っている。
彼女も、そうだったのだろうか?
フウコ。
彼女も、何か、価値があるものを見つけて、そうしたのだろうか?
何か別の価値観が生まれて、シスイを殺したのだろうか。
フウコが恋人のシスイを殺したとは、今でも思えない。うちは一族の男三人を前にした彼女と、暗部に連れていかれた彼女。前後で、連続していなかった。どのような会話が、男三人との間でされていたのかは想像できなかったが、シスイに関することだろう。それも、良くない話題に違いない。
なら、暗部に容疑をかけられた時にも、怒りを露わにしなければならないのに、彼女からは一片の怒りが感じ取られなかった。
どうしてだろう。しかし、そこまで考えて、鼻の奥で涙の匂いがしてきて、思考を停止させた。彼女は絶対に間違い犯さない、そういう思考の逃げ道を作って、歩を進める。
太陽が沈み、月すら夜空に浮かばない、湖の底のような夜。人も里も町も、眠りについて、彼女の足元を照らすのは街灯の重い光だけ。その光は蛍の光のように、間隔を置いて足元を照らし、そして暗闇になり、また街灯の光に……。頭の上から注がれる灰色の光は、汚かった。
家の前に到着する。
昔のあの頃から変わらない、いや、建物の骨格はなるほど変わってはいないが、外装は古臭い石造りの壁にはカビのように這い広がっている蔦にほとんどを覆われ、屋根は埃なのか何なのか、本来の色を失っている。
壁を切り取ったようにある、幾つかの四角い窓からは、内側の光が一切に溢れていなかった。周りにも街灯がまるでないせいで、廃墟のそのものだった。
しかし、これはいつものこと。毎月顔を出しに行っているイロミにとってはいつもの光景だ。違和感はない。
静かに、呼び鈴を鳴らした。
ジリリ、という虫が錆びた鳴き声を出した時のような呼び鈴音が、暗闇に溶けていった。施設からは、反応がなかった。
泥のように疲れた頭を惰性に傾けた。
―――………………あれ……?
いつもなら、すぐに反応がある。それが怒鳴り声なのかダルイ声なのかは、彼の気分次第なのだが、どちらにしても、彼は居留守をすることはなかった。金を持ってきた自分を無視することなんてなかった。
もう一度、呼び鈴を鳴らした。
しかし、しばらくしても、物音一つ聞こえてこない。
寝ているのだろうか。ドアを押してみると、ギィと音を立てて開いた。鍵がかかっていないのは、これまた、いつものことだ。
「あの……イロミです……いらっしゃいますか…………?」
何でも吸い込むような闇が、廊下の上を漂い、声を飲み込んでいく。反応はない。中に入って後ろ手に入り口を閉めると、気のせいか、足元に冷たい空気が漂い始めたような気がした。
あまり良い予感がしない。この家で良いことなんて起きないのだけど、それとはまた違った寒気である。
ギャシィ。
ギィヤシィ。
バカみたいな音が床から軋み聞こえる。
中忍であるイロミは、夜の任務の時でも十分に動けるように、夜目の訓練は受けている。足元に転がるゴミやら汚れなどを避けながら奥に進んでいく。
広間と廊下を隔てるドアを開ける。
そこに、彼はいた。
まるで城を築くかのように、積まれ並べられたゴミの山が、部屋の中央に座る椅子を囲んでいた。彼は椅子に座って、こちらに後頭部を見せている。
「……あの―――」
そう、声をかけた時だった。
反応を全く示そうとしない彼から、聞こえてこないことに気が付いた。
息の音、呼吸の音。
聞こえない。
背中から頭の天辺まで冷たい空気がひゅうと通り抜けた。同時に、お腹の中から熱いものがこみ上げて、それが首筋に伝道して顔にゆっくりと脂汗を浮かばせた。
慌てて、彼の前に立った。
静止。
顔を覗き込む必要もなかった。
彼の顔は、体ごと椅子の背もたれに預けているせいで、天井を見上げていた。
いや。
もはや、見上げることさえ、していなかった。
「……今まで、ありがとうございました」
驚きはしなかった。
来るべき時が、来ただけ。
兆候は見えていた。
不摂生な生活。怠惰な生き方。
才能を探している最中のイロミは、様々な知識を拙く身に着ける道中で、医療忍術というものもやはり、知識として身に着けていた。かつて三忍と呼ばれ、忍界大戦の際には新たなチームの提案をし多大な貢献を示した【綱手姫】に比べれば、それは海底と空ほどの距離と輝かしさの差はあれど、そんな彼女でも、彼の命がもう長くないことを察することができるほど、彼が患った病は深く濃かった。
何度か、治療をするべきだと言ったこともあった。
そのたびに彼は
―――ガキが俺に意見すんのかぁあ?!
―――テメエはただ金を持ってくりゃあいいんだッ!
―――今までテメエを育てたのは、誰だ、ぁあ? 言ってみろッ!
そう言って、相も変わらない暴言と暴力を浴びせてきた。
死んでしまえばいい。
子供の頃、何度も思った。
こんな奴に、育てられたくて、ここにいるわけじゃない。
好きでこんな時代に生まれて、好きで独りになったわけじゃない。
望んで、眼を失ったわけじゃない。
殴られるたび、蹴られるたび、血を流すたび……そう、思った。
「結局、何も、恩返しが……出来なかったな……」
涙なんて、こぼれるはずもなく……しかし、イロミの言葉にはどこか、憂いと悲しみ……そしてほんの少しだけ、喜びがあった。
喜びは、この男が、今こうして、まるで捨てられた猫のようにしていること。
憂いは……この男に、恩返しができなかったこと。
悲しみは……この男から、結局は、本心を教えてもらえなかったこと。
イロミはゆっくりと、頭を下げた。
「……今まで、何だかんだ言って…………私を育ててくれて……ありがとうございます……」
長い前髪が、ダラリと、額から離れて、床と垂直になるように垂れる。感謝の気持ちを込めて閉じた瞼。
そこには、大きな火傷の跡。その跡は瞼から上の額まで、大きく残っていた。
「私に……眼を与えてくれて……ありがとうございました…………」
彼の遺体は、イロミが自分の手で、家の裏に埋めた。彼が木ノ葉の里の忍ではないことは知っていた。だが、かといって、彼の生まれ里である、雲隠れの里に送り返すことは出来なかった。大戦が終わった今、しかし雲隠れの里は、まるで戦争の準備をするかのように、様々な忍術の収集、開発などを行っている。その活動が果たして、密かに戦争に備えるためのものなのか、それとも戦争を起こさせないための示威のものなのか。
どちらにしろ、他里で、少なからず、軍事兵器である忍の子供を養っていた行動をしていたことを、雲隠れの里は許しはしないだろう。
ましてや、本人も、里へは戻りたくない、と何度もぼやいていた。それが本心であることは、皮肉にもずっと傍にいたイロミがよく知っていた。
だから、この里に埋めたのだ。
もし万が一、彼の遺体を引き取りたいと申し出た人がいた場合を考慮して、遺体が腐らないように封印術を使用して、箱に詰めて。
涙は流さなかったが、気分は沈んでいた。どうして自分がそんな気分なのか、分からなかった。
その後は施設を掃除して、捨てるもの、家に持って帰るものを分けて、ついでに施設にいた子たちの住所を分かる限りメモをして、彼が死んだことを伝えようと思い立った。
掃除をして、すっからかんになった施設を後ろ目に見て、そこを発った。後ろ髪をひかれるなんてことは、なかった。
―――恩を仇で返すんじゃねえ。
最後に、そんな言葉が頭の中で再生された。
よくいつも言われた、言葉。
彼が言ったこの言葉の意味は、邪気を孕んで耳障りこの上なかった。
けど、言葉そのものの意味だけは、好きだった。
恩を返さないといけない。
こんな自分に、あんな楽しい日々を与えてくれた、フウコに。
「しっかりと、恩返しはします。あなたが、教えてくれた、唯一の教訓ですから」
友達だから。
そんな理由だけで、他人を受け入れることができる、ある意味で頭が足りない、ある意味で……純粋な彼女。
そんな彼女が、恋人であるシスイを殺すなんてことは、ありえない。
困ってる。
暗部に連行される彼女の背中。
その背中は、今思えば、苦しそうだったように思える。
助けないと、いけない。
いつも困っていた自分を助けてくれた彼女に、恩を返す時が、来たのだ。
☆ ☆ ☆
―――家に帰ったイロミは、布団に入って、眠った。その先には、懐かしい夢が待っていてくれた―――。
どうしていつも、前髪を垂らしているの?
フウコが中忍になって、未だアカデミーで底辺の成績を貫いていた自分に、彼女はそう尋ねた。
「前、しっかり見えてる? 見えてないから、私の動きを予測できないんじゃない?」
彼女に任務がない日、演習がない日。そんな日に、修行を付けてくれるように、イロミはフウコにお願いしていた。大抵は演習所で、こうして会話をする時は、修業が終わりを迎えた時だった。
あの時は、一度、フウコと忍術勝負をしたのだった。
ただ普通に勝負しても勝てないため、忍術使用禁止、写輪眼の使用禁止、両足で立つの禁止、左手使うの禁止、忍具使用の禁止などなど……。かなりなハンデを背負ってくれた。しかし、結局はイロミが負けてしまったのだ。
フウコからしたら、なぜこんなハンデを与えても、一発もまともに術や体術をぶつけることが出来ないのか不思議に思ったのだろう。真っ先に目についたのが、イロミの長い前髪だった。
イロミは悔しそうに涙声で言った。
「違うよぉ……フウコちゃんが凄すぎるんだってぇ」
「イタチなら、きっと勝てたと思うけど」
「イタチ君と私を一緒にしないで!」
フウコは小さくため息をつくと、勝負に負けて尻餅をついたままのイロミに近づいて、顔を近づけた。
「私の顔、しっかり見える?」
「見えるよ。当たり前だよぉ」
「前髪あげるね」
「えっ!? ま、待って! やめてっ!」
強引に前髪を上げようとするフウコの腕を掴んで抵抗するが、そんな抵抗も空しく、あっさりと前髪をあげられてしまった。
火傷の跡が、初めて、友人の前に晒されてしまった。
そして、左右、人見の色の違う眼も。
「うわぁあああああッ!」
あまりのショックに、尻餅をつきながらも後ろにバックするという荒業を披露して見せた。フウコもこれまで自分がしたことのなかった動きに、面をくらってしまった。
「み、見た?」
「凄い動きだったね」
「額のこれ……見た?」
「うん。それって、火傷の跡?」
イロミは、顔を真っ青にしながら頷いた。
見られてしまった。
これまで一度も―――施設に一緒にいた子と施設の主以外には―――見せたことがなかった、火傷の跡。
引かれた……絶対に、引かれた。
自分の顔にあるそれが、他人には拒絶的に受け入れられてしまうことは知っていた。だから、前髪を伸ばして、分からないようにしていた。いくら、変わった感性を持っているフウコでも、この跡を見たら、嫌われるかもしれない。
いや、確実に、嫌われた。
怖くて、フウコの顔が見れなかった。思い切り走って逃げたい。そんな切実な思いは、修行の疲れで笑ってしまっている膝がそうさせてくれない。
「イロリちゃん? 大丈夫? 顔、青いよ?」
「ご、ごめんね……、フウコちゃん。こんな、気持ちの悪い痕があって。」
「どうしたの? イロリちゃん、泣かないで」
「触っても……、病気みたいに、移らないから……えっと、ご、……ぐずっ…………ごべんね、ふうごぢゃん。変な、臭いとか、じないげど…………、ごれがらは、ぞの………、ぢがぐに、よっだり……うぅ………じない、がら…………」
でも、嫌わないで。
私、本当に、フウコちゃんが、大好きなの。
どんくさくて、今は、何もできないけど。
いつか、絶対、フウコちゃんの、役に立つから。
頭の中に浮かんでは沈む、悲鳴にも似た懇願。それを口にしようとするが、その言葉がどれほど卑しく、火傷の跡よりも気持ちの悪いものなのか、子供なイロミでも直感的に理解していた。涙をボロボロと零す体が痙攣して、喉を挙動させて苦しくさせる。そんな状態で出てくる言葉は、自分を自虐する言葉。
気持ち悪いよね。
ごめんね。
もっと、前髪、長くするから。
ごめんね。
こんなので……ごめんね。
ごめん、なさい……。
「……誰に、やられたの?」
―――え?
「その傷、誰にやられたの? 教えて」
イロミは、顔を上げた。
怒った顔。
いつも、自分が誰かに苛められると、見せる、顔。
「許せない。もしかして、あいつ? あいつが、こんな、酷いことをしたの?」
どうして、言ってくれなかったの。
やっぱりあいつ、痛い目にあわせないと。
安心して、イロリちゃん。
私が、敵を討ってあげる。
大丈夫だよ。
待っててね。
予想していた怖い言葉でもなく、願望していた嬉しい言葉でもなかった。
けれどそれは、自分がよく知っている友達の、友達らしい言葉だった。
「ど、ど……どうし……て?」
「なに?」
「気持ち悪い……とか、……嫌いになったりとか…………」
「ないよ」
「どうして……?」
さっきまで浮かべていた怒りの表情がゆっくりと無くなって、変わりに、やはりいつも通りの、不思議そうな表情を浮かべた。
「友達だからだよ?」
フウコは言った。
「えーっと、私……なんか、変なこと……言った? おかしかった?」
変なことだった。
そんな返事が来るなんて、思ってもいなかったから。
思ってもいなかったから、目が痛くなって、苦しくなった。
さっきよりも、さらに泣き始める自分に、フウコは戸惑いの表情を微かに浮かべて、そして、どういうわけか、頭を撫でてきた。
どうしようもないくらいに泣いた。
「覚えていないんだけど……この痕って、戦争の時に付いたものみたい。私を拾った忍の人が言ってたみたいなの。火傷の痕なんだって。その時に、眼が潰れちゃったみたいなんだけど、あの人が、私に眼をくれたの。だから、私はあの人に、恩返ししたいなって、思って、あの家にいるの」
「生まれて、すぐ?」
「うん。戦争で」
演習場の、どこにでもある木に背を預けて、二人は並んで座っていた。
「その時に、お父さんとお母さんが死んじゃったみたいで、顔も覚えていないの。……だから、この跡は、あの人が付けたものじゃないの」
言葉の裏を返せば、火傷の跡以外の傷は、彼につけられたと言っているようなものだったが、フウコはそのことに気が付きながらも、前髪を片手で抑えながら喋るイロミを見つめていた。
「フウコちゃんは、あの人が、嫌いみたいだけど……」
「好きな人っているの? あんな奴、死んだほうがいい」
「あ……はは、フウコちゃん、はっきり言うね」
「どうしてイロリちゃんは、あんな奴のところにいるの? 絶対に変。もし行く当てがないんだったら――」
「ううん、そうじゃないの。私は、好きで、あそこにいるの」
「……なんで?」
「さっきも言ったけど、恩返しをしたいから」
平然と、イロミは呟いた。
「あの家に入れられた最初はずっと、何も見えなかったの」
「………………」
「これが普通なんだって、思ってた。でも、一緒にいた家の子が、綺麗とか、暗くて怖いとか、そういうのを言ってて、ああ、私は違うんだって分かったの」
生まれて間もなく、眼を失ってからはっきりとした自我を持ち始めたイロミにとって、視覚で捉えることができることの表現は自分が獲得することができないものだった。
いくらどういうものか、と説明を求めても、全員が口を揃えていう言葉は、見れば分からない? だった。色を説明することは、誰にもできない。
「家ではずっと私が最後。ご飯の時も、寝る時も、お風呂に入る時も。ノロマで、よくあの人に怒られるの」
「イロリちゃんのせいじゃないよ」
「それで、しばらくしたら、あの人に部屋に来いって呼び出されたの」
おぃガキ、ちょっと来い。
お前だ、お前。
気色のワリィ髪の色してる、お前だ。
「その時に、あの人に……眼をもらったの」
そこらに転がってた奴らのだ。
うろうろすんじゃねえぞ。
今度、俺の生活の邪魔したら、殺すからな。
酷く打算的な発言。優しさなんて、本当に感じられない言葉だったことを、覚えている。
イロリちゃんの為じゃないよ、と鋭く呟いたフウコに、イロミは頷いた。
「私も、そう思う」
だけど、
「初めて見た色が、すごく、綺麗だったの」
埃まみれの彼の、狭い部屋。
汚いと、誰もが思うだろうその部屋を、初めて見たイロミにとっては、そんな言葉を思い浮かぶこともなく、むしろ逆の言葉を言ったのだ。
綺麗だ、と。
自然と、施設にいた子たちが言っていた言葉を。
埃が、窓の外から入ってくる光を乱反射して、輝いていた。
「別に、それであの人を許したり、尊敬したりとか、思ってないけど……。それでも、どういう理由があっても、私に眼をくれたことには、感謝してるの。だから、あの人には、恩返しをしないといけないんだ」
「そんなの……する必要ないと、思うよ?」
けれどイロミは、頭をゆるゆると、横に振った。
これまで、駄々のような否定ではなく、確かな意志を以てのもの。
「だって、これのおかげで、フウコちゃんの顔が見えるんだもん。それぐらいのことはしないと」
それに、イタチ君やシスイ君の顔も、見えるからね。
イロミは本心をはっきりと語った。あの家に残っている理由。いつも辛い日々を過ごしていても、あの人間を見離さない理由。
決して美談と呼べる程ではない、まるで呪いのような理由だった。
実のところ、フウコには、彼女の考えを理解するのが苦しかった。
感謝と恨みを天秤にかけることができるほど、心の中での次元は同じじゃないが、少なくとも人を判断するのは総合的なものがほとんどだ。
ほぼ毎日、暴力を受けているであろう彼女の、その判断が分からない。その感情がそのまま、無表情という顔になって表れていた。
フウコが、小さくため息をする。
「……でも、髪の毛は切ったほうがいいと思うよ?」
考えておくね。
イロミは笑って、そう言った。
―――そんな、懐かしい夢を見た―――
☆ ☆ ☆
午前中はずっと眠ってしまっていた。
心の疲れと、心地よい夢を見ていたせいだろう。昼頃に目を覚ましたイロミは昼食を食べないまま支度を済ませて、普段の姿で家を飛び出した。火影であり、書類上では父という関係である、猿飛ヒルゼンに会いに。
建物に入り、真っ先に火影の執務室へ向かった。
「―――火影様、滝隠れの里、及び七尾の人柱力の件について、岩隠れの里と雲隠れの里が不満を持っているようです」
ドアの前に立ち、今まさにノックをしようとした時だった。ドアの向こう側から、男の人の声が聞こえてきた。どうやら、ヒルゼンは中にいるようで、彼の声も聞こえてきた。
「仕方あるまい。どのような事情があるにせよ、里と人柱力を吸収するのだ。緊張が生まれるのは、当然のことじゃ」
「しかし、滝隠れの里の忍たちの総意による合意です。そのことは、他里にも既に伝えていることなのに……」
「滝隠れの里を襲撃した者の中には、大蛇丸がいたのじゃ。木ノ葉が意図的に行ったのではないか、と思われているかもしれぬな。それにじゃ、滝隠れの里の者たちの総意ではあるが、彼らには選択肢は限られておる。完全な総意ではない」
何の話しをしているのだろうか。しかし、イロミにとっては関係のない話しであることには変わりなく、彼女はノックをして「失礼します」と言った。途端に中の会話は途切れ「イロミか?」とヒルゼンが尋ねてきたのを合図に、ドアを開けた。中には一人の男と、デスクに座るヒルゼンがいた。
「……では、火影様、私は失礼します」
男は頭を下げると、イロミの横を通り抜けて部屋を出た。後ろでドアが閉まる音が聞こえると、ヒルゼンはイロミを見て柔らかな笑みを浮かべた。
「久しぶりじゃの、イロミ」
「お久しぶりです、ヒルゼンさん」
書類上、イロミはヒルゼンの娘ということになっているものの、一度として父と仰いだことはなかった。歳が離れすぎているせいもあるが、やはり血の繋がっていない彼を父と仰ぐことに若干の傲慢さを感じている部分が大きい。ヒルゼンも、それを悟ってか、嫌がる素振りも見せず、優しく頷いてみせた。
「最近はどうじゃ? 中忍の任務には慣れたかの?」
「ヒルゼンさん、お願いがあります」
「なんじゃ? できることなら、何でも力を貸そう」
「フウコちゃんに会わせてください」
ヒルゼンの表情が固まる。
「暗部に拘留されているはずです。お願いします、会わせてください」
次話は今月以内に行いたいと思います。