「空には何かあるのか?」
子供の頃に、そんなことを尋ねたことがあった。特に理由はなかったと思う。目の前に広がる光景は夕方で、微かに星が見えている。忍術勝負の後で、アカデミーの校庭だった。辺りには人の声も人影もない。熱を持った体を気休め程度に冷ます風が吹いている。
「雲と、太陽と、時々カラスとか」
「見ていて、楽しいか?」
「変なこと聞くよね、イタチって」
「お前が変わってるんだ」
短い髪の毛を風に任せて、空を見上げるフウコの声は幼く、声や言葉遣いも極端に平坦だった。
「空って、いつも同じだと思う?」
小さく、妹の声。
「ずっと空って、続いてると思う? 私は、そう思わない。寝てる間に、きっと空って入れ替わってる。いつも何回も見てるのに、同じ模様がないから、きっとそう」
「急にどうした?」
「イタチは、怖くない? 自分が寝ている間に空が入れ替わってることが」
私はすごく怖い。
寝ている間に、入れ替わってるなんて。
何かが大きく変化してるなんて。
楽しい夜が過ぎて、目を覚まして朝を見上げると、変わってるなんて。
当時のイタチには、彼女の言葉は分かっても、共感することはできなかった。
空は空だ。たとえ入れ替わっていたとしても、自分に影響は無い。雨が降ることも、雷が落ちて空が轟いても、たしかに怖いと思う時はあるが、フウコの言葉はそれらとはニュアンスが異なっているように思えた。
空が入れ替わることが怖い。
その意味、本当の意味で理解するようになったのは、中忍選抜試験を経て、自分が中忍になった時だった。
父であるフガクから聞かされた、うちは一族の思惑。
たった数分の話し。それだけで、今まで当たり前だと思っていたことが全然違ったことなのだと、打ちのめされた。
当たり前だと思っていたこと。
うちは一族への敬意だ。
個人や集団を、血統や名字で括り評価するつもりはないのだけれど、事実として、自分はうちは一族の一人であり、自分を育ててくれた両親、自分よりも遥かに優秀な妹、愛しい弟、忍として尊敬できる友人、彼ら彼女らは総じてうちは一族で、つまり一族という繋がりが多くの貴重で大切なものを与えてくれたということ。
そして、うちは一族が担っている役割のこと。
それらを評価して、敬意を持っていた。
うちは一族が崇高である、という間抜けな考えではない。
純粋な客観に立った評価。
しかし、その評価があっさりと覆されたのだ。
怖い、と思った。
当たり前だと思っていたものが、気が付けば、そうではなかったことが。
当たり前だと思ってしまっていた自分が、いたことが。
「肩に力入れるなよ、イタチ。いつもみたいに、一歩引いて、親みたいに見守るくらいがちょうどいいんだよ」
上忍になった頃に、シスイにそう言われたことを覚えている。
彼は、自分たちが立てた計画を独断で変更し、暗部に入隊していた。フウコは彼の行動にあまり受容的ではなかったが、イタチは強く否定することはしなかった。シスイが何も考えていない訳ではないだろうという信頼があったこともあるが、フウコをサポートしてくれるだろうと思ったからだ。
「お前は、俺達の中で一番頭が良いんだ。それなのに、お前がそうやって、しかめっ面してると、俺は不安だ」
「……俺は一番、頭が悪いと思っている」
互いに任務を終えて、うちはの町へと帰る夜道だった。
これから、うちは一族の会合が行われ、自分たちはそれに出席しなければならなかった。いや、会合という言葉は相応しくない。ただ自分たちの行動が正しいという小さな価値観を共有し、強固にするだけの顔合わせだ。誰もが真剣な面持ちで出席し、真剣に議論を交わしているが、イタチから見れば、彼ら彼女らの内心は取るに足らない高揚感で満たされ喜んでいるようにしか見えなかった。
我らは、崇高なうちは一族なのだと。
主観的で偏りに偏った思想の集い。だが、その会合をくだらないと判断している傍らで、小さな恐怖を抱いていた。
また、入れ替わっているのではないかと。
自分たちが、クーデターを阻止しようとしていることが気付かれているのではないかと。
あるいは、誰かが突発的に、今すぐ木の葉隠れの里を乗っ取ろう、と騒いだ途端に会合中の者たちが一斉にクーデターを起こしてしまうのではないかと。
それらに付属してやってくる、最悪の未来。
頭に一瞬でも過るだけで、無意識に表情は固くなってしまう。
謙虚だなあ、とシスイは笑った。
「でも、俺はそう思ってる。俺達の中で、お前が一番、周りを見えてるし、きっと冷静だ。頭が良いって言うのは、そういう所を言ってるんだよ。どんな事態が起きても、お前だけは正しく考えてくれる」
単純に性格の違いだと、イタチは思った。それに、冷静さ、という部分ではフウコの方があるように思えるし、冷静になるように強く心掛けるようになったのは中忍の頃にシスイと共に任務を行った際、彼の研ぎ澄まされた集中力を目の当たりにしてから。
シスイが冷静だと言ってくれた側面は、そもそも、原点が彼なのだ。
「買い被りすぎだ。俺はそこまで冷静じゃない」
「アカデミーの頃、覚えてるか? イロミの敵討ちをした時、俺もフウコも真っ先に暴れて、遅れてイロミが箒とかバケツとかブンブン振り回してる中で、お前だけは落ち着いてたよな。窓ガラス割らないように立ちまわってくれたり、フウコが火遁使おうとした時とかは止めてくれたりとか」
幾度か、イロミがイジメの対象になったことがある。内気で引っ込み思案な彼女の交友関係が、フウコ、イタチ、シスイだけだったということもあるが、何より授業の成績が悪かったのが原因だった。同じクラスメイト、時には、どういう訳か上級生にイジメられる。
そうなったとき、真っ先にシスイは言うのだ。
『敵討ちだッ!』
と。弓の弦に押し出されたように走り出し、フウコがイロミの手を握りながら「みんなでやっつけよう」と言って追いかける。毎回、イタチが一番後ろで彼らの後を追いかけるのだが、決して友達がイジメられていることに腹を立てていないというわけではない。
ただ、他に方法があるんじゃないかと考えようと思っている隙に、シスイたちが行ってしまうのだ。それに、シスイとフウコのテンションのせいで、逆に自分が気を使わなければいけないと思ってしまうだけ。
やはり、冷静、というわけではないと思う。
「……何度か、お前たちを止める事ができなかったがな。窓ガラスが割れたこともあるし、軽いボヤ騒ぎになったこともある。おかげで、ブンシ先生に拳骨をもらって」
「フウコは避けようとして頭突きを受けてたよな」
一頻り小さく笑うと、シスイは「だからさ」と、少しだけ声のトーンを下げて呟いた。
「あの頃みたいに、俺はさ、あるいはフウコは、意外と冷静じゃないんだよ。特に、身内に対してはさ。だからイタチ、もしそうなったら、お前だけは冷静でいてくれよな。期待してんだぜ? 本当に」
☆ ☆ ☆
フウコが、シスイの殺害容疑で拘留された。
そのことを知ったのは、家に帰ってきてからだった。
「……今、何て…………?」
夕食の匂いが、フガクの部屋に入ってきていた。遠くから虫の鳴き声が聞こえる。静まり返った室内―――いや、家そのものが静寂に包まれている―――に、イタチの震える声が弱々しく溶けていった。
無意識に大きく開いた瞼。双眸が捉えているフガクは、ゆったりと首肯した。
「フウコが……暗部に拘留された。シスイくんを殺したという容疑が、かけられているらしい」
一瞬、聞き間違いなのではないかと思った。
絶対にありえないことだからだ。
フウコが、シスイを殺すなんてことは、絶対に。
そして何よりも、暗部がフウコを拘留したことも。
暗部は、こちら側だ。
かつてフウコも、そしてシスイも語っていたこと。
なのに、どうして……。
「イタチ、何か知らないか?」
「何も……知りません……。フウコからは、何も聞かされては……」
呟いて、迂闊な発言だったと思った。
クーデターを阻止する、その計画の為に、三人で決まり事を幾つか作っていた。その中の一つに【個別で何か妙手を思いついた時は、必ず全員で共有して、判断する。却下されれば、いつも通りに振舞う】というものがあった。
暗部に拘留されるという、本来の計画には全くないアクションを、フウコから聞かされていない。
言葉に出してしまったのは、こちらを意味していた。
フガクの問いに対して微かに不適切な返し。
慎重に彼の表情を伺うが「そうか」と、重いため息と共に肩を下げるのを見て、違和感を抱かれていないと判断した。
―――落ち着け。
心の中で呟く。だが、呼吸は慎重に。
まだ、状況が不鮮明だ。
判断できることは、何か、計画に問題が発生した、ということ。その問題を回避しようと、フウコとシスイが動いたのだろう。なら、自分の役割は、二人の意図を読み取り最適に行動すること。
「イタチ。今夜、会合が行われることになった。内容は……フウコのことだろう」
頷きながら、思考は先に進めていく。
二人から、何かしらのヒントは与えられていない。
与える暇が無かったのか、与える必要が無いと判断したのか……。
「お前は事実だけを話してくれ。それ以外は何も喋るな。他は、俺が全て応える」
「分かったよ、父上」
「それとだ、イタチ―――」
……おそらく、後者なのだろうと、フガクの言葉を横にイタチは判断する。ヒントを与える余裕くらい、あるはずだ。
つまり自分に求められているのは、うちは一族としてのイタチ、という役割なのだろう。問題は、いつ、二人と明確に情報を共有するかだ。
うちは一族はこれまで以上に不安定になるだろう。
今日の会合で分かるだろう、その度合いを伝えなければならない。
フガクは、言う。
「フウコのことを、もはや家族だと思うな」
落ち着きを取り戻し始めた感情が、思考が、寒気と共に、ざわついた。
「……どういうことですか」
「元々、フウコと俺たちとでは、血の繋がりは無い。あの子は、別の家の子だ」
何を言っているんだ。
どうして、そんな言葉が思い付くのか、理解できなかった。
血液が熱湯のように熱くなり、ガンガンと痛くなってくる頭の中でも、ある一つの答えが浮かび上がる。
フウコがシスイを殺したという情報。
うちは一族を統制しているフガクの発言力を急激に失墜させるのには十分な破壊力がある。ハト派よりもさらに、うちは一族から孤立するだろう未来は、もはや確定的だと言ってもいいだろう。
それを防ぐことができるかもしれない、唯一の策。
―――フウコを……切り捨てるつもりか…………ッ。
全ての責任を、彼女に押し付ける。
自分たちは何も知らない。
フウコは本当の家族ではない。
そして、その考えは、自分だけではなく、家族で共有していたのだと、言うつもりだ。
自分にそう言ってきたのは、その下地作り。
「いいかイタチ。会合で何があっても、そう思い続けろ。何があっても、勝手に発言することは許さん」
「父上、貴方はそこまでして、うちは一族が大事ですか……」
「一族の為ではない、お前たちを思ってのことだ」
あまりにも白々しい言葉に、感情が爆発しそうだった。
今すぐにでも叫んでやりたい。
ありとあらゆる言葉を尽くして、うちは一族の思惑がどれほどくだらないものかを。
フウコがどんな思いで、これまで動いてきたのかを。
我慢しろ、我慢しろ、と自分に言い聞かせる。今、感情で動いたら、全てが台無しになってしまうかもしれない。心臓が五月蠅いくらいに後頭部に響いてくる。シスイは言った。最後まで、冷静でいろと。止まれ。止まれ、止まれ。言うんだ、分かったと。たった一言。
言え。
言うんだッ!
「……なんだよ、それ…………」
声は、後ろからだった。
振り返る。
閉まっていたはずの襖が、微かに開いていた。
その隙間から、サスケの顔が。
「姉さんが家族じゃないって、どういう事だよ」
黒い瞳には、力が無かった。
襖を開けてサスケは入ってくる。
「姉さんは……俺の、姉さんだろ? 血が繋がっていなくても、姉さんは…………」
「サスケ、落ち着け。居間にいるんだ」
イタチは諌めるが、サスケは足を止めない。横を通り抜けようとする彼の腕を掴んで、ようやく止まったが、彼の頬には小さく涙が零れていた。
その様子を見ても尚、フガクは、厳格な表情を以てサスケを睨んだ。
「いいかサスケ、お前も同じだ。もうフウコのことを姉と呼ぶことは許さん」
「姉さんが何したって言うんだよッ! 姉さんがシスイさんを殺す訳ないだろッ!?」
「事実であろうとなかろうと、疑われたということが問題なのだ」
「どうしてだよッ! 意味分かんねえよッ!」
「サスケ! 親に向かってなんだその口の訊き方はッ! お前はまだ子供なんだ、黙って俺の言うことに従えッ!」
「ふ……。ッ! ふざけんなぁッ!」
飛びかかろうとするのを、イタチは腕を引き込んで押さえ付けた。
先ほどまで、苦しいくらいに熱かった思考は、気が付けば、冷却されている。暴れるサスケを抑え込みながら、呟く。
「サスケ、落ち着け」
「離せよ………兄さんッ!」
「父上、失礼させていただきます。フウコのことは、分かりました」
無言で頷くフガクに小さく頭を下げて、サスケを引っ張って部屋を出た。そのまま真っ直ぐ、サスケの部屋に行く。きっと居間に行っても、食事どころではないからだ。投げ捨てるようにサスケをベッドに座らせると、彼はそのまま力無く涙を流し続けた。
「……どうしてだよ…………」
サスケの涙声が、イタチの鼓膜を揺さぶった。
「姉さんが……、シスイさんを殺すわけないのに…………、何かの、間違いだ……」
もう、家族としてフウコを見るな。
残酷な言葉を、聞かせてしまったことに、イタチは強い後悔を抱いた。普段の自分なら、間違いなくサスケが近づいてきていたことは察知できたはずなのに。
感情的になるな、とイタチは心の中で強くその言葉を置く。
笑ったり、泣いたりするのは、全てが終わってからだ。
無表情を装いながら、イタチはしゃがみ、サスケと同じ目線に立つ。
「いいか、サスケ。父上の言葉に従うんだ」
「……兄さんは、姉さんのことが…………嫌いなのかよ……」
「そうじゃない。表向きだけでも、従えということだ。忍なら、誰しもがやっていることだ。いずれ、フウコが無実だと分かった後、父上が考えを改める。それまで耐えろ。いいな?」
「………………」
「父上も、本当にフウコのことを見捨てたわけじゃない。ただ、父上は公平でなければいけない立場だ。しばらくの間は、我慢しろ」
都合のいい、嘘だった。
フガクは心の底でも、フウコを既に見捨てている。
一族という小さな器に拘るがあまりに、あっさりと。
それを、当然、サスケに言う必要は無い。クーデターのことも知らない、そしてうちは一族に誇りを持っているのに、そんな残酷な現実を知らせる訳にはいかなかった。
サスケは瞼を赤く腫らしながら、顔をゆっくりと上げて、小さく頷いた。
「……分かった」
「よし」
頭を撫でる。子供らしい、柔らかな髪は抵抗なく指を滑らせた。
嘘が、子供を守ることもある。
残酷な現実から逃避させていると判断する者もいるが、決して甘やかしている訳ではない。
大人が足首を痛めても、治った後に歩くことを恐れることはない。けれど子供は、治った後でも、歩くことを怖がってしまう。
心も同じだ。
残酷な現実に、まだ心が成長しきっていない子供が耐えられるわけがない。心が成長して、現実を乗り越える術を学ぶまで、どんな方法でも守ってやらなければいけないのだ。
現実というものが、怖くならないように。
イタチは立ち上がる。
「もう夕ご飯ができた頃だろう、居間に行くぞ。父上には、謝るんだぞ」
「……なあ? 兄さん」
「なんだ?」
「じゃあさ、やっぱりシスイさんは、生きてるんだよな?」
元気を取り戻し始めたサスケの弾んだ声に、イタチの思考は打ち抜かれた。
そうだ。
どうして、気が付かなかった。
計画に問題が発生した、それは理解できる。
自分に何のヒントも残せなかったのも、分かる。
だが、どうして―――シスイが死んだという情報を創り上げなければいけなかったのか。他の情報では、どうして、いけなかったのか。
☆ ☆ ☆
「授業も起きて受けることができねえのかガキ共ッ!」
教壇の前に立つブンシの怒声が教室に余すことなく響き渡ると、居眠りをしていた、秋道チョウジ、奈良シカマル、うずまきナルトは顔を青くしながら、全力で上体を預けていた机から離れて背筋を伸ばした。
さっきまで間抜け面で居眠りをして、今尚口端に涎の痕を残している顔を上げたからと言って、ブンシの怒りは全くと言っていいほど治まることはなく、むしろさらに怒りが生まれてしまい、額に青い筋を生み出した。怒りのあまり、はっきりと舌打ちをしてしまう。
この三人は、授業で居眠りをする常習犯だった。時には、犬塚キバが寝ることもあるが、彼の場合はどちらかと言うと授業をサボる比率の方が圧倒的に大きく、今回は眠らなかった、というだけだ。
これまで何度も拳骨をお見舞いしているが、改善しようという様子は全くなかった。
正直、怒りは溢れんばかりだが、こいつらに何を言っても意味がないのではないかという諦観もあったりする。
それでも、教師という立場にいる以上、何も言わないわけにはいかない。
とりあえず煙草を取り出して火を付ける。窓を開けるのも億劫だ。どうせ他の教師は来ないだろう。生徒たちは一斉にハンカチを取り出して口に当てるのが見えた。たちまち、紫煙が教室に漂い始める。嫌そうにこちらを睨むサスケの顔がムカつくが、視線を問題児に向けた。
「おい、チョウジ。てめえ、授業前にまたポテチ食っただろ? だから眠くなんだよッ!」
「だって……、お腹空いたから」
「この授業が終わったら昼飯だろうが、ちったぁ我慢しろッ! おいシカマル、そもそもお前は何で寝てんだ?」
「……授業がつまんねえんすよ」
「言葉を選べッ! 面倒くさがってんじゃねえぞおいッ! んでナルト、お前も何で寝てんだ?」
すると、教室の何人かの生徒が、馬鹿にするような視線をナルトに送るのが見えた。ニタニタとした笑みを浮かべながら、ハンカチの奥で息を強く吐き出さないように我慢している。
―――何だクソガキ共、その目はよ……。ナルトを怒ってんのは、あたしだってのに。
怒りとは別の、苛立ち。
気に食わなかった。
ガキの癖に、汚い視線をするんじゃねえと、ブンシは思った。
思い切り、後ろの黒板をぶん殴ると、生徒たちの視線がこちらに集まる。ブンシが一通り視線を巡らせると、先ほどナルトに向けていた厭らしい視線を自分たちの机へと向けた。
煙草の煙を吸う。嗅ぎ慣れた好きな香りだが、一向に心が落ち着かない。真っ赤っかに熱せられた鉄の気分だ。
ナルトが九尾の人柱力だということを、正確に理解している生徒はいないだろう。そんな知識は無いだろうし、大人たちも、そんなことを教えている訳ではない。ただ彼ら彼女らは、大人たちがナルトに向ける視線に含まれる粘着質な意図をぼんやりと理解しながらも、所謂、子供心で真似ているだけ。
心の底で、ナルトを嫌っているやつなんて、この教室の中には誰一人として、いないのだ。
ぼんやりとした、何となくの、悪意。
唇に貼りつく油のようで、気持ち悪い。この空気感はこれまで、ナルトが居眠りや授業をサボろうとした時に何度か見ている。その度に黒板を殴ったり、教壇を蹴り飛ばしたりしているのだが、誰もこの意図を汲み取ってはくれなかった。
ある意味、居眠り常習犯の三人よりも、性質が悪い。
長くなった灰を床にあっさりと落とした。
「その……悪かったってばよ」
ナルトの小さな声に「あ?」とブンシは眉を顰めた。
「なんだ、今日はやけに素直じゃねえか」
「授業は真面目に受けようと思ったんだ。嘘じゃねえってばよ。ただ……」
「ただ、何だよ。あ?」
「ちょっと、修行し過ぎたせいで……」
ほう、とブンシは思った。思わず口笛でも吹いてしまいそうになるほど、感心したのだ。
これまでのナルトだったら、叱られると分かったら、教室から逃げ出そうとしたり、あるいは下手くそな嘘を並べたりするのだが、今回は違った。本当にすまなそうに俯いて、唇を尖らせている。
これまでの自分の【教育】が、本当にようやく実を結び始めたのか、単純にナルトの気分が元々低かったのかは定かではなかったが、悪いことをしたのだと理解してくれただけでも、ブンシの不機嫌は微かに冷却される。
だがかといって、じゃあ「次から気を付けろ」と言って終わらせるというのはあり得ない。そうなったら、他の生徒が、怒られた時はナルトみたいにすればいいのだと思いかねない。
そうではないのだ。
規則や掟を破ったら、何があっても、必ず罰が下される。
誰であろうと、平等にだ。
これから下忍、中忍、上忍、あるいは暗部であったり、もしかしたら火影であったり、それらの地位に就くであろう生徒たちには、それを理解させなければいけない。
決められたこと―――ルールは、守らなければいけないということ。
そして、ルールを守るということの大変さと、その偉大さを。
ブンシは短くなった煙草を拳で握り消した。
「どんな理由があろうとだ、お前ら。授業で寝るなと、毎回言ってるよな? 罰として、いつも通り、ぶん殴ってやる。目の前まで来い」
居眠り常習犯三人が嫌そうに口をへの字にした時と、教室のドアが開けられたのはほぼ同時だった。ブンシも含め、教室内の全員がドアを見る。
茶色の髪、鼻の上を経由して一筋の傷痕。うみのイルカはドアから顔を出すと、教室に立ち込める煙草の香りに顔を歪めた。
「ブンシ先生! 授業中に煙草を吸わないでくださいッ!」
「うるせえイルカ。後輩があたしに文句垂れてんじゃねえ」
「いや、ですが……」
「あの馬鹿三人があたしの授業を受ける気がねえようだからな、だったらあたしは煙草を吸うだけだ。文句あんのか?」
チョウジ、シカマル、ナルトの三人を指差す。すぐさま状況を理解したのか、イルカは痛そうに片手で頭を抱えた。この三人にはイルカも世話になっていることは、休憩中の職員室などで愚痴として聞いたことがある。しかし彼は、一度として彼らに手を出したことはなく、説教だけしかしない。
わざわざ頭を抱えるくらいなら、二度と問題を起こさないようにぶん殴ればいいのに、と思いながら、尋ねる。
「何の用だ?」
基本的に、余程の用事が無ければ教師が他の教師の授業に入ってくることはない。当たり前のことだが、たとえ忍でも、教師というのはあまり危険がない職業だ。緊急性のある用事と言っても、上忍らに比べれば些末なもの。奥さんが陣痛を起こした、というのが、教師らの中では最も緊急性のある事柄になってしまうほどである。
独身であるブンシには子供の誕生というのはあり得ないが、どうせくだらない用事だろう、とは思った。イルカは近づき、耳打ちする。
「暗部が、ブンシ先生を呼んでいます」
「……あぁあ?」
不愉快そうにブンシは返す。ええ、とイルカは頷いた。彼の目は冗談ではなく、真剣なものだった。
「何でも、緊急の用件だそうです」
少し、考える。暗部が尋ねてくるほどの何かが、自分はしただろうか? と。しかし、特に思い当たらない。教師ほど、平坦な仕事は無いだろう。
気分が悪くなる。
幼い頃の、あの夕焼け空の下に立つ自分が蘇る。
人生で一番、胸騒ぎがしたあの頃の。
鼻の奥が熱くなって、どういう訳か、涙が出そうになった時のように。
「……分かった。お前、今授業あるか?」
「え? いや……、ない、ですけど……」
「ならお前があたしの授業を引き継げ。面倒だったら自習にしてもいい」
頷くイルカを横目に握りつぶしていた煙草を、灰を落とした床の上に投げ捨てる。
「チョウジ! シカマル! ナルト! おめえらはこれを掃除してろッ! この後はイルカが授業を受け持つ」
途端に、生徒全員が喜びの笑みを隠すことなく浮かべた。ひそひそと口開くと「やった、イルカ先生だ」「今日は運が良い」「なんで授業中に煙草吸うんだよ」と各々に好き勝手なことを話し始める。
青筋を額に浮かべるのには、十分な子供心だった。
「イルカだからって舐めた態度とったら、後でぶん殴ってやるから覚悟しとけッ! この、クソガキ共ッ!」
手ぶらに教室を出る時、力一杯にドアを閉めてやった。金具か何かが壊れたような音がしたが、気にせず教員室へと向かう。廊下を歩き、近づくにつれて、どんどんと気分が悪くなる。さっきの生徒たちの言葉もそうだったが、この先に暗部がいるのだと思うと、最悪だ。歩幅も、廊下を叩く音も、大きくなり、煙草を吸いたくなった。
我慢して教員室に着くと、三人の男が立っていた。息を呑む。三人の内、二人は模範的な暗部の姿をしている。背に刀を背負い、面を付けて顔を隠し、手甲を付けている。だが、息を呑んだのは、残り一人の姿を見た時だった。
大柄の体型をかたどる黒のロングコート。がっちりとした顎と、頭には黒いバンダナ。男は、ブンシが職員室に部屋に入ってきた音を聞くや、振り返る。
「久しぶりだな、ブンシ」
「……イビキ」
木ノ葉暗部の拷問・尋問部隊隊長、森乃イビキは、傷だらけの顔で皮肉るような笑みを浮かべた。それに対して、ブンシは彼を睨み付けた。
「なんでてめえがここにいんだよ」
「相変わらず口が悪いな、お前は。その調子で生徒たちに授業を教えてるのか?」
「文句あんのか? ガキどもをどんな風に世話しようが、てめえには関係ないだろうが。んなくだらねえこと言いに来たんなら、さっさと帰れ、ハゲ野郎」
「最初から喧嘩腰か」
と、イビキは肩を透かせて見せる。デスクに座る他の教師たちは、書類の整理や授業ノートを書き込みながらも、チラチラと二人に視線を送っていた。
拷問・尋問部隊とアカデミーの教師が、まるで旧友かのように会話をしていることに、不安を覚えたからだろう。それらをイビキは一瞥すると、口端を吊り上げて言ってのける。
「まあ、お前らしいといえばお前らしいな。元、
教師たちの表情が一変する。驚きと困惑、それらが入り混じった視線で、イビキとブンシの間を右往左往とすると、室内の雰囲気は生温く煩わしい物へと変わっていった。ブンシはそれらの視線を真っ直ぐに受け止め、睨み返す。
「んだてめえら。拷問・尋問部隊の奴が教師になっちゃ悪いってのか?」
慌てて彼ら彼女らは視線を下げる。さっきまでの生徒たちと同レベルだ。
相変わらず、嫌らしい立ち回りをする。
けれど、大きく心を揺さぶられることはない。彼がそういう手法を用いてくるのは知っていたし、別段、自分の過去の経歴を卑下するほど繊細な人格ではない。
「訊きたいことがあんだろ? もったいぶらずに言え。こちとら、おめえらの顔見ただけで込み上げてくる吐き気を我慢してんだ」
「どこか、空いてる部屋はあるかな?」
イビキがすぐ近くの女性教師に尋ねると「今なら、生活指導室が空いてます」と震えながらに応えた。ブンシを含め、四人はそこへ向かう。
教師が暗部に連れられて入る部屋が、生活指導室というのは気に食わなかったが、教員室で長く話す方が嫌だったため、素直に付いていく。簡素な部屋には、テーブルが一つとパイプ椅子が二つ、中央に置かれている。ブンシは無言で奥の方に、ドカリと座ると、暗部の忍がさっさと出入り口のカギを、大きく音を立てながら閉めた。
定石だ、とブンシは判断する。カギを閉める音を大きくするのは、アドバンテージがこちらにあるのだと主張することを相手に暗に伝える為の手法だ。拷問・尋問部隊の頃に学んだ、基礎の基礎だった。
「……わりいが、煙草吸うぞ?」
対面に座るイビキは不敵に笑いながら、
「ご自由に。ここは、アカデミーだからな」
と手のひらを見せてくる。
立ち上がり、後ろにある窓を小さく開け、マッチで煙草に火を付ける。大きく吸い、紫煙を吐き出して、マッチの火を消して外に投げ捨てた。そういえば、灰皿を持ってくるのを忘れた、と無駄に考える。なるべく、心に余裕を持たなければいけないからだ。
久々の、張り詰めた空気。
拷問・尋問部隊にいた頃の、空気だった。
そういえば、あの頃からだろう、煙草を吸い始めたのは。無表情で、捕らえた他里の忍たちの体重を減らす日々。憂さ晴らしと、自分が規則を守る側に立つという優越感を満足に味わえるようにと、手に取った逃げ道が、煙草だった。針で作られた椅子に座る相手と、それを丹念に削り絶命させないように機械的に道具を扱う自分。煙草を吸うようになって頭が馬鹿になったのか、どちらも人間には思えなかった。その頃の自分が、すぐ目の前に亡霊のように立っている。
遠くの方で、生徒たちの声が聞こえる。野外授業をしているのだろう。はしゃぎ方からして、遊び半分の実習と言ったところか。喧しい、とは思わなかった。野外授業なのだ、楽しくて当たり前だ。これで窓ガラスでも割ろうものなら、怒り心頭だが、問題行動をしなければ、それでいい。
「……くだらねえ冗談はいらねえ、くだらねえ駆け引きもいらねえ。要件だけ話せ」
再び椅子に座る。身体を横に向けて、右ひじを机に置くと、手で顎を支える姿勢を取った。煙草は咥えたまま、足を組む。
「何でも答えてやる。あたしの歯の数からうなじのホクロの数まで、何でもだ」
「いつ結婚するつもりだ?」
「おいハゲ、次またくそつまらねえ冗談言ってみろ? 殺すぞ」
「分かった分かった。なら、本題を話そう」
「さっさとしろ」
「うちはシスイが死んだ」
ブンシは冷静に怒り、顎を支えていた右手を机に振り降ろした。
鈍く重い音は数秒、室内の空気を震わせ、熱気のような静けさを生み出す。
黒縁眼鏡の奥の瞳が、隠そうともしない殺気を放ち、無表情のイビキを睨み付ける。
「さっきも言ったはずだ、冗談はやめろってよ。そんなに死にてえのか?」
「事実だ。遺体も既に発見されている。今は、暗部で検証を行っているところだ」
「お前、あいつのことあんま知らねえだろ。ちょうどいい、あいつの成績表を見せてやる」
「彼とは何度か話したことがある。ほんの少しだけだったが、実に聡明で快活な子だった。優秀だということは、暗部の者なら誰もが知っている」
「黙れよ、殺すぞ。もう喋んな」
「受け入れられないという気持ちは分かる。お前は優しい奴だ。だが、事実だ。認めてもらえなければ、次の話しに進めない」
「あたしは授業があるんだ。教師だからな。カワイーカワイークソガキ共の為に、授業しなきゃいけねんだよ。だから……さっさとアカデミーから出てけッ!」
煙草が口から落ち、床に着地する。乱暴に踏みにじりながらも、首筋から汗が滲み出てくるのが悔しかった。机を叩いた右手が、遅れて痛みを訴えてくる。冷静になってしまったのだ。
わざわざ、そんなつまらない冗談を言う為に、イビキがここに来るわけがない。
分かってる、そんなことは、分かってる。
それでも、処理しきれないのだ。
教え子が死んでしまった、という言葉を。
言葉だからなのか。ただの言葉だから、処理できないのか。
忍としてアカデミーを卒業しているのだから、任務で命を亡くすというのは十分に覚悟はしていた。だけれど、やはり、難しかった。込み上げてくる涙を、ブンシは俯くことで抑え込んだ。
「……本当なのか?」
これ以上、口を動かしてしまうと、涙が零れそうだった。だが、ああ、と返事をするイビキの言葉が目頭を熱する。
そうか、と心の中で、ようやく納得してしまう。
『ブンシ先生、お久しぶりです!』
いつだったか、町中でシスイに会った時のことを思い出してしまった。アカデミーを卒業した頃に比べて格段に背を高くし、骨格が大人に近づいた彼の笑顔は、しかし悪戯っぽさを十分に残していた。暗部の恰好をした彼に、ブンシは眉間に皺を寄せる。
『なんだおめえ、暗部に入ったのか? ガキの癖に、背伸びしてんじゃねえよ』
『いや、喜んでくださいよ。この年で暗部に認められたんですよ?』
『あたしが認めてねえよ。身の丈に合った任務を選べ』
『でもほら、アカデミーでの成績、良かったじゃないですか』
『あんなもん役に立つわけねえだろうが。紙の字を誇らしくすんじゃなくて、てめえらがやった問題行動を反省しろ』
『相変わらず、手厳しいなあ』
アカデミーの頃は散々ため口を使っていた問題児は、笑いながらも、自然な敬語を使えていた。もうそんなに、時間が経ったのか、と思った。
『イタチとフウコ、あとイロミの馬鹿は上手くやってんのか?』
『問題なくって感じですよ。あ、そうだブンシ先生、報告があるんですよ』
『んだ?』
『ここだけの話しですけど、実は俺、フウコと付き合うことになったんですよ』
『ああ、そう。じゃあな』
『ちょっとちょっとッ! 待ってくださいよッ!』
『うっせえなあ、てめえがどこの誰と付き合おうがあたしには関係ねえんだよ。まだ昼飯何食うか考えた方がマシだっての』
『え、教え子の幸せを祝福してくれないんですか?』
『祝ってほしいなら煙草買って来い。小銭ぐらい持ってんだろうが。ほれ、ジャンプしてみろ』
『あんた本当に教師なのか?』
馬鹿みたいに長々と、フウコとどういう経緯で恋人関係になったのか、彼女のどこが好きなのか、挙句に将来は仲人などと、鬱陶しく語られた。ああ、とか、ふーん、とか、ブンシはどうでも良さそうに返事をしていた。
生徒と教師の関係など、アカデミーの中だけだ。ブンシはそう考えていた。どうでも良さそうに振舞った。だが、内心では、喜んでいた。暗部に入ったこと、恋人ができたということ。教え子が無事に健康に成長してくれて、今尚、教師と呼んでくれること。
「それで? あたしに、何を訊きたいんだ?」
鼻先を撫でながら、尋ねる。実はな、とイビキは呟いた。
「容疑者は、既に確保している。確たる証拠は調査しているが、状況からして、ほぼ間違いないと考えてもいいという人物をだ」
「……ちょっと待て、容疑者だと? 任務で失敗した訳じゃないのか?」
「うちはシスイは、里の内部で、遺体として発見されたと報告を受けている。つまり、殺人事件だ。俺がお前の所に来たのは、お前を尋問しに来たわけではない。依頼をしに来たのだ」
「……拷問しろって訳か」
「察しが良くて助かる。拷問に関しては、今でもお前が木の葉随一だと俺は思っている。お前に、容疑者の自白を頼みたい」
生徒たちの声が遠く聞こえる。代わって、かつての自分が肩を叩いて、のしかかってくる。ブンシは、そのかつての自分を受け入れようとしていた。
よくも、あたしの可愛い生徒を、殺してくれたな。
忍として死んだのなら、まだ納得はできた。だが、ただ殺されたというのは、消化しきれない。その容疑者に与えれる苦痛を与えてやろう、そう思った。
「分かった。あたしに任せろ。これから行くんだろ?」
ブンシの頭の中ではプランが出来上がっていた。つまり、どのような手段を使用して、シスイを殺したであろう人物を痛めつけるかという算段だ。情報を聞き出すということは考えていない。ただただ、痛めつける。
だが、イビキは小さく首を横に振ると、後ろに立つ二人に指示を出した。
「悪いが、これから少し込み入った話しをする。出て行ってくれないか?」
「それは許されない。今は、時間が無いことは知っているだろう」
片方の男が、平坦に言うと、イビキは男を睨んだ。
「今は俺がお前たちの上司だ。指示に従え」
室内には、ブンシとイビキだけになった。ドアが完全に閉まると、イビキは一番の真剣な表情を浮かべながら、上体を乗り出して顔を近づけてくる。
どういうつもりだ? とブンシは思った。胸の奥では、今や今やと、拷問のことしか考えていない。今更、何を話すつもりなんだと、八つ当たりに近い怒りが込み上げてくる。
「……実はな、ここからが本題だ、ブンシ。心して聞いてほしい」
声を潜めるイビキ。まるで、部屋の外で待機しているであろう暗部の二人に聞かれたくないような考えを感じ取る。
同時に、嫌な予感が。
―――怒らなくていいんだ、ブンシちゃん。俺が……悪かったんだ。
頭にちらつく、彼の姿。
白い髪と、優しい声。
振り返り、儚い笑顔を浮かべる彼に、幼い頃の自分は馬鹿みたいな言葉を投げかけた。
―――大丈夫だよ先生! ぜってぇあたしが守ってやるから! どんな時だって、あたしは先生の味方だ! だから、安心しなよ!
かつて先生と仰ぎ、そして、初恋の相手。
木の葉の白い牙と謳われた人物だ。
「……なんだよ」
声が震えそうになるのを、必死に真っ直ぐに整える。
「いいか? ブンシ。うちはシスイを殺したであろう容疑者は―――うちはフウコだ」
☆ ☆ ☆
後ろで、鉄製の扉が閉められた音が、その狭い室内に響き渡った。直方体の部屋。右手の壁には、マジックミラーが嵌めこまれ、天井に付けられている蛍光灯が粗末に点滅する度に反射して目に痛かった。
「……だれ?」
久しぶりの声に、ブンシの記憶は刺激される。平坦で無機質な、綺麗な声。これまで見てきた生徒の中で一番聞き取りやすく、覚えやすい声は無いだろう。アカデミーの頃の彼女の姿が、思い出された。
無表情で、何を考えているか分からない、出来のいい子。それが第一印象だった。けれど本当は、何も知らない子なのだと、印象は後々になって更新された。
頭でっかちで、不器用で、素直で、優秀な子。
けれど、今、目の前に座らされているフウコの姿は、目を覆いたくなる衝動に駆られてしまうほど、惨めなものだった。
両目を覆うマスクと、肩から足先までの動きを縛る拘束衣。まるで、罪人のように、自由を奪われた姿だった。
「あたしだ、フウコ」
「……ブンシ、先生ですか?」
「そうだ」
室内にはブンシとフウコだけしかいない。イビキや他の暗部は、マジックミラーの向こう側でこちらの様子を伺っている。ブンシが本当に拷問をやるのかを監視しているのだ。
「どうして、先生が、こちらに?」
「おめえを拷問しに来たんだよ。あたしは、これでも元拷問・尋問部隊だったからな」
「ああ……、だから先生の拳骨は、いつも痛かったんですね」
「お前、シスイを殺したのか?」
「殺していません。私は、シスイを愛しています」
「本当のことを言え。あたしはな、フウコ。お前を苦しめたくねえんだ。……昨日、何をしてた? 誰もお前のことを見てねえって聞いたぞ」
フウコの頭を右手で掴む。首に力を入れていないからなのか、重さをあまり感じなかった。チャクラを集中させる。
「応えろ、フウコ。今回は、拳骨で済ませねえぞ。お前は、掟を破ったのか?」
「私は―――」
二度目の公言をものの見事に破ってしまいました。申し訳ございません。
次の話は、前例同様に、五日以内(できれば三日以内)に投稿します。