Black Cat
ロウが居なくなって一ヶ月が経った。
俺たちは適当な住居を見つけて、そこで暮らし始めていた。金はロウから与えられたのを使ったが、収入の無い身としては仕方ないのだ。
トレーニングは続けているが、それもロウと一緒にいた頃ほどではない。
「なんだかなあ……」
今の俺は間違いなく幸せなのだが、なんだかその幸福が怖い。トレーニングを欠かせないのはそのせいかもしれない。
「このまま何事もなければいいんだが」
『残念ながらそれは難しいだろうな』
俺のささやかな願いは一瞬で否定された。
「ドライグ……たとえそうだとしてももう何事も無いって思わせてくれよ」
『俺にとって昔から因縁のある存在がまだ出てきてないからな』
その言葉を聞いて、俺は前にドライグから聞いた名前を思い出す。
「白龍皇……アルビオンって奴か?」
『ああ。奴との因縁は体を滅ぼされ、
「俺からしたら迷惑な話だよ」
こんな力は要らなかった。可愛い嫁さんを貰えればそれでよかったのに……どうしてこうなった?
○ ● ○
「アーシア、今日は何を買うんだ?」
アーシアを一人にするのが不安なイッセーは、日々の買い出しに同行していた。
荷物持ちは筋トレ代わりになると言っているイッセーだが、それが建前なのは言わずもがなである。
「今晩の夕食の食材と、そろそろお米がなくなって来たのでそれも買おうかと」
「荷物持ちについて来てよかったな」
すっかり所帯染みている二人ではあるが、資金源がロウだと考えると少し微妙な気分になる。
よって、それを理解している二人は娯楽用品を一切買わない。
仲睦まじい様子で並んで歩く二人。それを遠くから見ている影があった。
「ふふーん、あれが今の赤龍帝なのね。なんだか隣の金髪ちゃんと親しげな様子だし? ちょっとちょっかいかけてみようかしらん?」
建物が並んでいることでできた路地から二人を覗く影は、そう呟くと路地の奥に姿を消した。
○ ● ○
「丁度卵のタイムセールに間に合ってよかったですね」
「タイムセール時の主婦が強すぎる……」
なんであそこまで鬼気迫る必要があるんだろうか。そこまでして半額の卵お一人様ワンパックが欲しいのだろうか。
疲れた体に米の重みがズッシリとかかる。
(今日は早く風呂に入って寝たい……)
ある意味での戦場にため息を吐いたとき、突如不思議な感覚に襲われた。
(これは結界か!?)
ひと月ぶりだが体は覚えていたようで、直ぐに辺りを見回すが、敵らしい影は見当たらない。
いや、それどころか人っ子一人見当たらなかった。
異常事態だと思った俺は荷物を下ろして
「そこかッ!」
何と無く違和感を感じた場所に向かって、落ちていた石を投げつける。
「にゃうッ!? いきなり何するにゃ!」
砕けた建物の陰から出てきたのは和服を着崩した猫耳がついた黒髪巨乳のお姉さんだった。
それを見て、俺は警戒心を強めて身構える。
「先手必勝ぉぉぉ!」
『
そして倍化を一度止めると、猫耳お姉さんに向かって殴りかかる。
「みぎゃぁぁぁぁぁぁッ!?」
しかし、振りかぶられた拳は惜しい所で空を切った。
「い、いきなり殴りかかるなんて何考えてるにゃ!」
「黒髪巨乳人外は俺の敵だ!」
「黒髪巨乳になんの恨みがあるにゃ!?」
殺された恨みがあるんだなこれが。
「ちょっと待つにゃ! 私は赤龍帝ちんと戦うつもりはないにゃ!」
「俺を赤龍帝って呼んで戦わなかった奴はいない!」
「なら私がその一人目にゃ。――……それに、私が手を出すとあいつに怒られるしねー」
「何か言ったか?」
「何でもないにゃん♪」
小声でぼそっと呟いた一言が気になったが、笑って誤魔化された。死ぬ前ならさぞ嬉しかっただろう。
「じゃあ、お前は何しに俺に会いに来たんだよ」
「知らないの? 二天龍って各勢力から注目の的なのよん? 迷惑的な意味で」
(おいドライグ。お前今まで何してきた?)
『ドラゴンなんてそんなものだ。――大体そんな奴らは討伐されるのが常だが』
三大勢力に喧嘩売って
「だったらもう用は済んだろ? 早く結界を――いや、様子を見るだけだったら結界を張る必要なんて無いだろ」
「あ、バレちゃった?」
その言葉を聞いて、即座に
「実はねん。私、強いドラゴンの子供が欲しいのよ。それで、君みたいな人型のドラゴンは珍しいから」
「か、から?」
美女に押し倒されるという男としては魅力的な状況なのだが、彼女の瞳の剣呑な輝きが興奮を妨げる。
「あなたの子胤が欲しいんだにゃん」
どうしよう、子供が欲しいと言われた。男なら一も二もなく頷くべきなのだろうが、相手が自分を殺した奴と同じ黒髪巨乳だと思うと背筋が凍る。
「それじゃあ早速……」
「さ、させませんー!」
その時、俺の上に乗っていた女性が誰かに突き飛ばされた。
「イッセーさんは渡しません!」
俺の上から黒猫のお姉さんを突き飛ばしたのはアーシアだった。
「結界張ったのにどうして入って来られたにゃん!?」
「通りすがりのロウさんに助けてもらいました」
……勝手にいなくなったはずの人間と簡単に遭遇したという話を聞くと、どうしてこうも腹が立つのだろう。
「あー彼女さん来ちゃったにゃー」
「いや、俺はアーシアの彼氏じゃ――」
「イッセーさんに手をだすなら私を倒してからにしてください!」
一応否定しようとしたが、それは途中でアーシアの大声で妨げられる。……別にいいんだけどさ。
「はっはー。彼女さんが怖いから私はトンズラするにゃー」
「あ、待てよお前!」
別に要件もなかったが、逃げる相手は引き止めたくなるのが人間なので、思わず声をかけてしまった。
「黒歌――それが私の名前だにゃん。次会うときはそう呼んでちょ、赤龍帝ちん」
黒髪猫耳の女性――黒歌と名乗った彼女は着崩した和服の袂から紫色の煙を出すと、それに紛れて消えてしまった。それと同時に、俺たちの周りに人が現れた。
「イッセーさん、大丈夫ですか? 何もされませんでしたか?」
通行人の邪魔にならないように落とした荷物を拾って立ち上がった俺にアーシアが心配そうにして声をかけてくる。
「ああ、大丈夫だ。アーシアのおかげで何もされないで済んだよ。ありがとう」
不安そうにするアーシアの頭を優しく撫でる。
「良かったです……それじゃあ、帰りましょうイッセーさん」
「ああ」
○ ● ○
「当代の赤龍帝は中々良い男ねー。女慣れしてそうになかったし、ヴァーリよりも期待が持てそうね。味見できなかったのは残念だけど、それはまたにするとするにゃん」
黒歌は会ってきた赤龍帝の事を思い出して舌なめずりする。
彼女の種族は猫魈と呼ばれる猫又の上位種族であり、強力な力を持つが、それ故に数は少ない。だから彼女は強い子が欲しいと繁殖相手にドラゴンを望んでいるわけだ。
まあそんな事は今はどうでもいいだろう。彼女の心情は私にとっては毛ほども考慮する必要のないことだ。
「――黒歌」
「にゃッ!?」
背後から声をかけると、黒歌は飛び上がるほど驚いた。どうやら気配を紛らわせていたのが効いていたらしい。
「あんたかにゃ……いきなり後ろから話しかけないでくれる?」
「わざわざ前に回ってから話しかけろと?」
これは皮肉ではなく本心を口にしたのだが、黒歌は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……まあいいにゃ。それよりも、なんであんたが邪魔したにゃ? 自分に関係ないことは不干渉があんたのスタンスじゃなかったかにゃ?」
それは確かに黒歌の言う通りです。
「――そも、お前が赤龍帝の所に行くことになった原因は私でしょう。ならば私が責任を取るのは当然ではないか?」
「あっそ。直接邪魔しに来なかっただけありがたいと思うべきかしら?」
「私に向けての感謝など不要。これ以上ちょっかいをかけるなと釘は刺しておくけど」
私としては彼には彼女がお似合いだろうと思う。
「感謝なんかしてないわよ」
どうやら発現の意図を読み取り間違えて発したらしい私の言葉を律儀に訂正しつつ、黒歌ははだけた和服から露出している肩を竦めた。
「……相変わらず、和服が似合わないな。体に凹凸が多いと和服は似合わないと聞く。どう? 望むならその体の前面についた余分な脂肪を切り落として差し上げましょうか?」
「サラッと怖いこと言うんじゃないわよ!」
親切心から出た言葉だったのだが、どうやら気に障ってしまったらしい。
「そもそも、あなたはなんで和服を着ているのですか? 最初に会った時は着てなかったはずだが?」
ふと疑問に思ったので訊ねてみたところ、黒歌は何故だか突然がっくりと肩を落とした。
「ふふ……こいつがこういう奴だってわかってた事にゃ。だから落ち込む必要なんて全くない……」
なんだろう。黒歌と会話するとどうしてこう意思疎通ができないのだろう。
「話を変えていい?」
「その方が精神的に良さそうだにゃ……」
よろめきながら立ち上がる黒歌を少し心配に思いながら、黒歌に声をかけた本題を切り出した。
「白龍皇の奴はいつ頃あいつに仕掛けるつもり?」
「数日中には戦いを挑むと思うわ」
「はぁ……当代の白龍皇が戦闘狂っていうのは本当なのね」
黒歌の返答を聞いて嘆息する。
「なんで戦闘なんていう非生産的なことが好きなんだか」
「ヴァーリは――今の白龍皇の名前ね――最強に成りたいのよ」
それを聞いて、俺は哂わずにはいられなかった。
「最強――ハッ! んなもん
「ヴァーリはそれを覆したい人種なのよね」
ああ、革命者という奴か。なら気持ちは少しはわからんでもない。
「さて、ヴァーリは果たして最強になれる器の持ち主か。黒歌、お前から見てどう?」
個人的には強さになんて興味はないが、自分の目的からすると少々気にかけておいた方がいいだろう。
「才能は十二分にあると思うにゃ。なんたってルシファーの末裔だし?」
「才能なんぞ犬にでも食わせておけ。そんなの幾らか命を切り売りすればどうとでもなる」
「その発想が怖いにゃ」
まあ常識的発想ではないのは認めよう。
「だったら、あんたが最強になるのに必要な要素って何よ」
私の中では最強は不動と決まっていると言っただろう。だが、次点を争うだとするなら……
「絶望だな」
「絶望?」
私の言葉を復唱する黒歌に向かってそうだと頷く。
「そう。絶望。または不幸。または挫折。順風満帆な人生からは強さは生まれない。踏んで蹴られて転がされて叩きのめされて。そこから這い上がり立ち上がって来た奴だけが強さというものを掴める」
「この世には生まれながらの強者っていうのもいると思うけど? たとえば、今の最強みたいに」
「そう。確かにそういうのは居る。だから最強を競うのは無意味だって言ってるの。どんなに頑張っても生物に肉体という器がある以上、そこには成長限界ってものが存在しているんだから。レベル1の魔王にレベル999のスライムは勝てるかもしれないけど、レベル999の魔王にレベル999のスライムは勝てないでしょう? むしろ勝てたら駄目だろう」
「なんで龍探検で例えるにゃ」
理由は特にない。強いて言うなら龍繋がり。
「んん? なんで私は最強談義なんてしてるんだっけ?」
「いや、あんたがヴァーリは最強になれるのかって聞いたんでしょうが」
ああ、そうだっけ。でもそれはもういいや。
「ところで、妹との仲は回復した? って、聞くのは野暮ね。この前気絶させた私が言うことじゃねーや」
グレモリーの眷属悪魔になっているとは知らなかったので少し驚いた。尤も、向こうは私のことは覚えてなかったみたいだが。一回顔合わせただけだから無理もないか。
「……白音、どうだったにゃ?」
白音というのが妹の名前だったか。
「元気そうだったよ。まあ、このまま世界が
姉と違って、あれはそこまで強くない。
「そっか……」
のっぴきならない理由から姉妹離れ離れとなった彼女たち。その結末に一枚噛んでいる私としては思うところが無いわけではないが、それについては何も言うまい。
私が口出しすると悪化する公算の方が高いし。
「心配なら手元から離さなければ良かったのに。あの時なら私も手を貸したよ?」
「あの子をあんたみたいな奴と一緒にいさせられるはずないでしょうが」
随分と嫌われたものだ。慣れてはいるが。
「それじゃ、私はもう行くわ」
「×××!」
立ち去ろうとした背中にかけられる言葉。今ではもう呼ぶ者はすっかり居なくなった、俺の本当の名前。
「その名は捨てた。今の私はロウ。二度とその名前で呼ばないでくれ」
振り返らずに発したその言葉を黒歌はどう受け取ったかはわからないが、黒歌はしばらく黙った後、私に再び声をかけた。
「またねにゃん、×××」
二度目の訂正はせず、私は黙って黒歌の前から立ち去った。