「マミさん! 杏子ちゃん! しっかりして」
一刻も早く、倒れたままの二人を起こなきゃいけない。さやかちゃんを取り戻すどころか、なぎさちゃんまでゴンべえ君に連れ去られてしまった。
マミさんたちの手にそれぞれソウルジェムを握らせて、彼女たちのその手のひらを包む。
私は焦る心を抑えて、意識が戻るまで声を掛けながら懸命に二人の身体を揺さぶった。
「ん……鹿目、さん」
「マミさん!」
薄っすらと目を開き、私の顔を見つめる。
よかった。意識は戻ったんだ。ゴンべえ君が言っていたように一時的にソウルジェムとの繋がりを断ち切っただけで、命には別状はないようだった。
「! なぎさちゃんは……?」
目を覚ましてすぐになぎさちゃんの安否を聞いてきたが、私はそれに答えられずにいると、すべてを察したように唇を噛みしめた。
「……また、負けたのか。アタシらは」
悔しそうにするマミさんに続き、杏子さんも目を覚ましてそう呟いた。
彼女は仰向けに倒れた体勢で、握りしめた拳を地面に振り下ろす。
「ちくしょう! また打ちのめされて、仲間を奪われて、それで呑気に伸びてたのかよ! 何にもできねてねえじゃねえか」
「佐倉さん。気持ちは分かるわ。でもここは……」
「分かってる! 愚痴ったって何にもならねえ事ぐらい! だけど、アタシらに何ができる!? 魔法は効かねえ! 触れば気絶! その上どこにでも現れたり消えたりしやがる! そんな奴に何ができるってんだよ!」
寝転んだまま、杏子ちゃんはマミさんに怒鳴り付ける。
私はそれに何も言えない。杏子ちゃんの気持ちが痛いほど分かるからだ。
怯えてる。誰かに当たらないと耐えられないほどに。
怖いんだ。ゴンべえ君が、自分の力ではどうしようもない相手が。
私だって同じだ。
圧倒的な力を持ち、明確な悪意を向け、それを以って私たち魔法少女を弄んでいる。
何よりも魔女とは違う、思考して行動する敵。
ただ、特別な力を持つだけなら、それを無力化する方法を試す事だってできるだろうけど、彼はきっとそんなこちらの考えさえ読んで動く。
現状、どうやっても勝ち目が見えない。こうして、私たちがまだ生きている事さえ、彼の気まぐれでしかない。
さっきだって、わざわざ一人ずつ攫って行かなくても、残っていた私たちをあの魔法で消す事だってできた。
「おい! 何とか言えよ、マミ! まどかも!」
「杏子ちゃん。それでも騒いでいたって変わらないよ。とにかく、皆と合流する事を考えなきゃ。そうですよね? マミさん」
「……そうね。けれど、今すぐここから離れましょう。あれを見て」
マミさんが神妙な面持ちで指を指す。
言われるがままに、そちらへ顔を向けて、私は目を
穴。大穴がそこかしこに出来ていた。
この街を覆う背景だけではなく、地面までも崩れ、地盤ごと下へと落ちていっている。
地下へではなく、中さえ見えない真黒な奈落の底のような――真下に。
きっとこの下には何もない。地中も、地下もなく、虚無だけが広がっている闇。
ここがほむらちゃんのソウルジェムの内側にできた魔女の結界なら、ここが崩れた時に私は外へ出るのか、それとも……。
「この結界は完全に綻び始めている。もしも結界が崩壊してしまったら、私たちがどうなってしまうのか見当もつかないわ」
「そうですね。じゃあ、早く……あ」
そこまで言いかけて、自分の足元ががくんと沈む感覚に襲われた。
反射的に下を見ると塗り潰された黒い色が視界に広がる。地面が溶けたように無くなり、落下していく。
もう崩れたの!? 呼吸も忘れて上へと手を伸ばすが、何も掴めず下へと引っ張られる。
隣にはマミさんや杏子ちゃんも同じように落下していた。リボンや鎖を伸ばして、上にある瓦礫を絡め取ろうとするが、その端から崩れて消えていくため、何も掴めない。
だめだ!? 私たちは落ちていくしかない。
その時、背中にふわりと何か柔らかい布のようなものが触れた様な気がした。その瞬間、自分の身体が何かに包まれる。これは……具現化した感情エネルギーだ。
魔法を許さない。奇跡を認めない。そんなものは存在させない。そういった感情が私の肌を刺すように纏わりつく。
平衡感覚や重力さえもが方向を失う。上も下も、右も左も分からない。浮上しているのか、落下しているのか、留まっているのか、それすら教えてくれない得体の知れない空間。
首を捻って周りを見ようとした時には、私の身体は硬い地面へ寝そべっていた。
「あ、れ?」
身体を起こせば、周囲には焦げたような地面と燃え尽きた様な残骸が散乱している。
近くには私と同じようにマミさんと杏子ちゃんが困惑と警戒の入り混じった表情で起き上がっていた。
そして――。
「まどかっ!」
名前を呼ばれた先を見るとほむらちゃんがさやかちゃんに背負われて、こっちに向かっている光景が目に入ってきた。
「さやかちゃん!ほむらちゃん! 二人とも無事だったんだ」
「うん。ゴンべえに連れて行かれた後、ほむらのとこまで飛ばされたみたいでね。って、他人の背中で暴れないでよ、ほむら!」
さやかちゃんが私のすぐ傍まで来ると、背中に負ぶわれたほむらちゃんが私の方へ無我夢中といった様子で手を伸ばしてくる。
「まどかっ。まどかぁ!」
ゴンべえ君によっぽど怖い目に合わされたのか、ほとんど半狂乱になっている彼女の姿が痛ましかった。
ここまで冷静さを欠いた彼女は、私が魔法少女になった時以来だ。
「大丈夫だよ、ほむらちゃん。私はここに居る」
伸ばしたその手を握り締めてあげると、安心したように微笑みを浮かべてくれた。彼女の目にはじわりと涙が滲み出す。
「まどかぁ……よかったぁ。本物のまどかだぁ」
ほむらちゃんは一人で立つ事もできないほどに弱っていて、私とマミさんたちの三人がかりでさやかちゃんの背中から降ろした。
私の身体にしがみ付いて辛うじて立っているほむらちゃんを支えてあげると、彼女は自分の身に起きた事をとつとつと語り出した。
自分が魔女になってしまった事。そして、ゴンべえ君に負けて魔力のほぼすべてを消されてしまった事。
「そっか。でも、ほむらちゃんが生きていてくれてよかったよ」
「うん……まどかも」
「おいおい、アタシらには何にもなしかよ」
場を解すためか、杏子ちゃんが少し不満げに言うと、ほむらちゃんも少しだけ落ち着いたようで笑みを作った。
「ごめんなさい。皆も無事でよかった」
和やかな雰囲気が私たちの間で広がる。
しかし、それは一つの足音の到来と共に掻き消された。
皆が警戒心を露わにして、この場へと姿を現した男の子へと向き直る。
「やあやあ。魔法少女の皆さん、お揃いで何より」
足音など立てる必要もなく、どこにでも現れる事ができる彼はあえて地面を歩き、私たちの前までやって来た。
片手には、ぐったりと気を失ったように脱力しているなぎさちゃんを襟首を掴むように持ち上げている。
「なぎさちゃん!」
「ああ。これ? いいよ。欲しいなら、返すよ」
彼女を掴んだ手を乱雑に振って、物でも扱うように放り投げてくる。
慌ててマミさんがそれを受け取って抱き留めた。なぎさちゃんの顔を覗き込むと目を
「あなた、彼女に何を!」
「ちょっとお話してたらプンスカしちゃってね。ちょっとお灸を据えてあげただけ。とりあえずは無事さ。僕が本気で何かしてたら魔力の塊であるコレなんか跡形も残らないよ。でも、まあ……これからは全員無事じゃ済まないと思うけど」
「どういう意味?」
「うん? そのままの意味だよ」
彼の笑みが激しさを増した。
――
「僕がお前たちをここに集めてたのは纏めて処理するためだよ」
彼は白手袋に包まれた手でパン、と柏手を打った。
それだけで私の魔法は完全に消え失せた。
纏っていた魔法少女の衣装は、見滝原中の制服になり、握っていた弓は影も形も残っていなかった。
いや、私だけじゃない。
杏子ちゃんを覗いて、全員が見滝原中の制服へ。杏子ちゃんだけがパーカーとホットパンツへと変わっていた。皆、私が知っている彼女たちの服装に戻っていた。
「魔法が……」
「嘘だろ……触られてもないのに……」
服装だけじゃなく、身体を巡る魔力の感覚さえ今はほとんど感じない。
試すまでもなく、分かる。
魔法を封じられたんだ……。
「触れば魔力そのもの流れを消せるのは前に見せたと思うけど、完全に消し切らない程度に減らすだけなら触らなくてもできるんだよ。これでお前たちは魔法を使えないし、身体能力も人間だった頃まで戻ってる。つまりは、ただの女の子。所謂、どこにでも居る普通の女子中学生だ」
ゴンべえ君の姿もまた見滝原市の男子制服に変化していた。
上から下まで黒かった手品師の衣装から、真っ白い学生服。
この世界では初めて見る格好。そして、『私』じゃない『まどか』がいつも見ていた姿。
「じゃあ、始めようか。ああ、安心して。流石に僕だけ強化された身体能力を振るうのもなんだし、ごく平均的な男子中学生レベルまで落としているから」
言うが早いか彼は駆け出して距離を詰める。
杏子ちゃんは呆然と立ち尽くしている。
マミさんは抱えていたなぎさちゃんの重さから重心を崩し、私もほむらちゃんを庇う事しかできない。
私は首を竦め、次に来る彼の攻撃に身を竦めた。
ゴッ、と鈍い音がした。
打撃音。人が、人を素手で殴る音が聞こえた。
けれど、殴られたのは私ではなかった。
「……確か、アンタも弱くなってるんだったよね? どう普通の女の子に殴られる気分は」
私の前に躍り出ていたさやかちゃんが、ゴンべえ君の頬を殴りつけていた。
殴った彼女の手は震えていた。表情は気丈に取り繕っているが、明らかな怯えの色が見て取れた。
当のゴンべえ君はそれを淡々とした様子で眺めている。
「腰が入ってない。拳の握り方も甘い。肘も伸びていなければ、振り抜いてもいない。それじゃ殴った手の方が痛いだろう?」
彼はお返しとばかりにさやかちゃんのお腹へ拳が下から突き刺さる。
肺の中の空気がまるごと吐き出されたように多く咳き込む彼女は、身体をくの字型に丸める。
「げほッ……あがッ」
「さやかちゃん!?」
「ソウルジェムの痛覚軽減がないとみぞおちを殴られた時、人間はこんな風に痛がるんだよ。どう? 少しは人間だった頃を思い出せた?」
お腹を押さえて前のめりになったさやかちゃんの頭に、彼は間髪入れずに思い切り肘を落とす。
それだけであれほど勇敢で頼りになる彼女は膝を着き、地面に座り込んでしまう。
ゴンべえ君はそれさえも許さず、髪を引っ張って自分の方へ無理やり顔を向かせた。
「人間は脆い。肉体も精神も。だから、加減が、配慮が必要なんだ。それが分からない奴は人間に関わる資格なんてない」
前に居るさやかちゃんの顔の陰から見える彼の顔は、明確な怒気に満ちていた。
「だが、お前はこの世界に取り込まれた人間を放置したな? ここの魔女は人を喰わないから安全だとぬかして。自分が平気だからと言って、彼らに何の異常が出るかも考えもしなかった。……それはお前が忘れたからだ。人間だった頃、自分が如何に弱い存在だったかを」
「止めろ! さやかを放せ! ……ッ?」
杏子ちゃんがとっさに前に出て、蹴りかかるがそれも彼にいなされる。
彼女の動きがぎこちない……? いや、違う。身体を動かす感覚がズレているんだ。
私たち魔法少女はキュゥべえと契約した時、性格にはソウルジェムを生み出した時に身体を魔力で動かすようになる。
それによって、身体能力も飛躍的に上昇する。
だけど、今は身体能力は元のただの女の子だった頃に戻っているせいで、自分の身体が想像以上に動いてくれない。
その感覚のズレが杏子ちゃんの動きに現れていた。
「赤髪。お前は随分昔から魔法少女やってたみたいだね。身体能力が平均レベルになったくらいで、蹴り一つ満足に出せないなんて重症だ」
さやかちゃんの髪を掴んだまま、彼は杏子ちゃんの脚を払って横転させるとその背中を容赦なく踏み付けた。
「うぐッ」
「杏子! アンタ、杏子にまで」
「痛いだけじゃなく、怖いだろう? 苦しいだろう? でも、その痛みや恐怖は本来なら当たり前のものなんだよ。魔法だの、奇跡だのに頼ってない人間は当たり前に感じるものなんだ。これで少しは他人の痛みって奴を思い出してくれたかな? ねえ、魔法少女さん」
体重を掛けて杏子ちゃんの背中を踏みしめながら、さやかちゃんの髪を掴み上げる。
くぐもった悲鳴が私の耳に届いたが、それでも彼の行動には一切の容赦も滲まない。
「お前たち、魔法少女に足りないものを教えてやろう。それは『分別』だ。自分が触れていいものとそうでないものの切り分けができてない。だから、無関係な人間を巻き込んでも厚顔かましてられるんだよ。そして、なんで分別が付いていないかといえば『自覚』が足りないからだ。自分が人間ではないものになってしまったことへの『自覚』、自分の感覚がただの人間の範疇から逸脱してしまったという『自覚』がない。——なあ」
――魔法少女っていう存在はそんなに偉いのか?
――ただの人間にそれほど興味がないのか?
怒りの籠った眼差しを私たち、魔法少女全員に配りながらゴンべえ君は言った。
「それなら僕がこれからお前らがどれだけちっぽけで無力な存在だったか、その身を以って教えてやるよ」
直後、彼による一方的な蹂躙が始まった。