夜空が剥がれていく。
内側の外装を貼り付けていた接着剤が粘着力を失って重さで下へ落ちるように、はらはらと剥がれて、零れた幕の端々が雨のように振り注ぐ。夜空の破片は落下の途中で擦り切れて影も残さないで消えていった。
欠けた場所には不自然な空白だけが残されている。
同時に地面が裂けていく。
上手に描かれた絵に大ぶりのカッターを走らせて切り刻むように、縦横無尽の亀裂がコンクリートやアスファルトのあちらこちらに入っている。
辛うじて残っていた建物は砂のお城のように崩れ、地面に投げ出されるとパラパラと風に乗って飛んでいく。
紫色の粒になったそれは触れる事もできないほどにか弱く見えた。
何もかもが残酷なまでにあっさりと壊れていった。
元からそうなる事が運命だったかのように、音も立てずに、とめどなく形を失っていく。
崩壊していく街の中央に立つのはシルクハットにテールコートを着込んだ少年。
指揮棒の如く、ステッキを振り上げる彼は音楽指揮者のようにも、手品師のようにも映った。
抽象画のような現実感の薄いその光景は私には恐怖と共に視界へと広がっている。
もしもこれが一枚の絵画なら、付けるタイトルはきっとそう……。
――崩壊の物語。
漠然とそんな考えが脳裏を過る。
「まどかっ! 早く、あいつから離れてほむらを見つけよう!」
さやかちゃんの声で私は我に返った。
そうだ。ママたちがもうこの結界内に居ないなら、ここに居ても仕方ない。
早くほむらちゃんを見つけて合流しないと……。
「う、うん」
「マミさん! 杏子連れたままこっちに!」
「え……美樹さん? 何をするつもりなの?」
さやかちゃんが背中に付けた白いマントを大きく広げる。
杏子ちゃんを抱えたマミさんは怪訝そうに彼女を見るけれど、質問には答えずに叫ぶ。
「私に任せてください! なぎさっ」
「マミ。さやかの事を信じてほしいのです!」
なぎさちゃんはそう言うとマミさんの手を引いて、ほとんど飛び付くようにさやかちゃんのマントの中へと入っていった。
すべてを思い出した私は彼女が何をしようとしているか手に取るように分かった。
空間転移。今のさやかちゃんには水のある場所なら、どこにでも移動できる能力を持っている。
私もまた同じように彼女のマントの中に足を踏み入れた。
白い暖簾のような布を
遠すぎて声は聞こえなかったけれど、その唇の動きから彼が何を言ったのか分かった。
――無駄だよ。
さやかちゃんのマントがふわりと揺れ、私の視界を覆い隠す。次に開いた時には周囲の様相は工業地帯の一角にある路地裏へと変わっていた。
配管が側面にびっしりとこびり付いた路地の壁は幾何学的な図形のように見えた。動くと足元でぴちゃりと水溜まりで水滴が跳ねる。
「ここ、路地裏? まさか、移動したの? どうやって!?」
「話は後なのです。杏子? 大丈夫なのですか?」
場所が急に変わった事に驚くマミさんに説明もせず、なぎさちゃんはマミさんの腕の中の杏子ちゃんへと声をかけた。
「うるせーな……大丈夫だよ。ただちょっと気分が悪いだけ」
絡み付いた黄色のリボンをマミさんに解除してもらいながら、杏子ちゃんは彼女の腕から出る。
声からも覇気は感じられないものの、自分の脚で立つくらいには元気がありそうでほっとした。
全員が一息吐いたところを見計らって私は彼女たちに言う。
「ゴンべえ君は私たちが想像しているよりもずっと手強い相手です。彼とどう戦うかは、ほむらちゃんを見つけ出してからにしましょう」
「暁美さんを見つけ出すって……そもそも彼女は無事なの? 考えたくない事だけど……」
言葉を濁しながらもマミさんはほむらちゃんが既にゴンべえ君に消滅させられているのではないか、そう尋ねてくる。
けれど、これは私の希望的観測から出た言葉じゃない。
この結界はほむらちゃんが作り出したもの。本当にほむらちゃんが死んでいるのなら、この結界はその瞬間になくなっているはずだ。
「大丈夫です、マミさん。ほむらちゃんは無事ですよ。だって、この場所はまだ彼女の結界の中ですから」
「結界……? そのあたりがよく解らないけれど、鹿目さんに確信があるのならいいわ。暁美さんを探しましょう!」
「ま。案外強かな奴っぽいからな、あいつ。そんな簡単にくたばってねーだろ」
「ありがとうございます!」
きっとマミさんや杏子ちゃんは私たちに聞きたい事で一杯だと思う。それでも疑問をぐっと堪えて、ほむらちゃんを探す事に納得してくれた。
本当に優しい人たちだ。ここで詳しく話せないのが心苦しいけど、今はそこまで悠長している時間はない。
「じゃあ、これから……」
「これから?」
どこに行くかを話し合おうと。そう言おうとした私の肩に後ろからポンと手が置かれた。
真っ白い、皮手袋で覆われた手。
さやかちゃんのものではない。だって、彼女は今、私の目の前に居る。
「どこに行こうというのかな? お・じょ・う・さん」
シルクハットの下で軽口と共に笑みが
驚愕で硬直した私たちの中で一番最初に動いたのはマミさんだった。
黄色のマスケット銃の銃口から魔力の光が放たれる。私のすぐ後ろに立っていたゴンべえ君の顔面に躊躇なく、飛んでいく黄色の弾丸。
けれど、弾丸が彼を傷付ける事はなかった。
頬に触れた刹那、弾丸は黄色の粒子状に変化して、跡形もなく散る。
その僅かな隙に、さやかちゃんがまたマントを広げて、私たちごと空間転移する。
言葉はなかった。必要なかったという意味じゃない。
言葉を発する余裕もなかったからだ。
次にマントが揺らいだ時には、私たち恐怖で硬直した私たちは、川沿いの歩道に移動していた。
「あいつ、なんで……?」
一番動揺しているのはさやかちゃんだった。
無理もない。少なくともすぐには追いかけて来れない距離は稼いだはずだった。二、三言話している間に傍まで来る事なんて想像も付かない。
「それはね、青髪さん。僕がお前よりも空間移動に長けていて、なおかつ、お前らの位置を特定できる
今度は低い位置から彼の声が聞こえた。
目線を下へと下げると、さやかちゃんの足元にシルクハットが逆さまに置いてある。
そこからするりと何事もないかのような顔でゴンべえ君は這い出てくると、落ちていたシルクハットを汚れを叩いて落としている。
のんびりとした、緩慢な動作でシルクハットを被り直し終えると、おや、と不思議そうに動けずにいた私たちを眺めた。
「あれ? どうしたの? もう攻撃しないの? また逃げないの?」
「……アンタ」
「最初に目で見て理解してほしくてね。逃げても無駄だって。ああ、ついでに言うとね。僕はその気になれば本当にどこにでも移動できるし、お前らの魔力の波長も覚えたからどこに隠れても見つけられる」
そう言って彼は、懐から親指ほどの無造作にちぎれた布切れを私たちに突き付けた。
それぞれ、布の色は赤、青、黄色。それはマミさんたちの衣服と同じ色だった。
「学校の屋上で戦った時に、一つまみ拝借してたんだ。お前らの衣装の切れ端さ。魔力の残滓さえ残っていれば、波長を辿って追いかけるなんて、簡単なんだ」
私たちにとって絶望的な事を平然と、まるで簡単な手品のタネでもばらすかのように語る彼。
魔法は効かない。逃げた先へ簡単に現れる。
彼が持つ力を知れば知るほど、抗う事さえ無意味に思えてくる。
「さて、これで取りあえず、こっちの手札は見せてあげられたかな? 忘れちゃったなら復唱してあげる。一つ、僕に魔法や魔力で生み出したものは消滅する。二つ、僕は空間移動でどこにでも行ける。三つ、お前らの居場所がどこに逃げても追跡できる。……ああ、それと四つ目」
彼はシルクハットを取り、その中に手を入れる。
同時に、さやかちゃんの目の前の空中に黒い穴が開いた。
そこから白い手袋で覆われた手が蛇の如く飛び出して、彼女を穴の中へ一瞬で引きずり込む。
「さやかちゃん!?」
その場から消えた私の親友の名前を叫ぶと、慌てないでとばかりに彼は手で私たちを制した。
「僕は場所が特定できるものなら手元へ引き寄せることができる。こんな風に、ね」
持っていたシルクハットから手を引き抜くと、無造作に彼に首を掴まれているさやかちゃんの姿がその場に
彼女が苦しそうにもがくと、ゴンべえ君は地面に放るように手を離した。
「ま。ざっとこんなものかな? どう参考になりそう?」
「アンタ……ふざけてるの!? そこまで教えても、私たち何もできやしないってそう思ってる訳?」
憎々し気に喉を押さえて、さやかちゃんは叫ぶ。
でも、それがただの強がりである事は一番さやかちゃん自身が分かっているだろう。
彼がその気なら、私たちに勝ち目などない。
こちらからは何も有効的な攻撃ができないのに、彼は好きな時に好きなようにいくらでも止めをさせる。
今までは彼の気まぐれで、助かっていたようなものだと思い知らされた。
マミさんも杏子ちゃんもなぎさちゃんもそれが分かるから動けない。
動かないのではなく、動けない。何が彼の引き金を引いてしまう切っ掛けになるか判断が付かないのだ。
「そうだね。何かできるなら是非見せてほしいけど……じゃあ、まずはお前からにしようか」
彼はそれだけ言うとさっと懐から黒い布を取り出して、地面に倒れたさやかちゃんへと振るう。
「させない! 美樹さん!」
今度もマミさんがリボンを生み出して、杏子ちゃんと同じようにさやかちゃんを引っ張ろうとするが、黒い布にリボンが触れると形を維持できないようで、リボンは半ばから断ち切られるように掻き消えた。
布はすとんと地面に落ちるとさやかちゃんの
ゴンべえ君が再び、布を持ち上げるとそこには何もない地面だけが残されていた。
「てっめえ、さやかを……!」
激昂する杏子ちゃんを小馬鹿にしたような苦笑を一つ作る。
「まだ消滅させてはいないよ。ちょっと移動させただけ。言うなれば……そう。個別面談ってとこだよ。それじゃあ、準備が来るまでお好きにどうぞ。ただし、この結界は少しずつ崩れていってるから足元には気を付けてね」
赤い槍をその場で生成した杏子ちゃんは彼目掛けて、投げ付けた。
しかし、黒い布が再び、振るわれると槍はもちろん、彼の姿もそこから消え失せていた。
ひらひらと布が地面へ落ちていくと、そのまま透過していき、最後には何も残らなかった。
誰も何も口を開かない。
開けば、情けない弱音か、自分への罵倒の言葉しか出て来ないだろうと分かっていた。
圧倒的な力の差を見せ付けられた私たちはただ貝のように口を
久しぶりの投稿です。