新編・第一話 黒い卵と記憶喪失
――さようなら。どこかの世界の■■■。
誰かとの別れの挨拶。酷く愛しくて切ない声。
私はこの人の事を知っている。とても強くて、優しい男の子……。
誰だっけ、ちゃんと呼んでいたはずなのに何故か思い出せない。
名前は……。彼の名前は……。
「何やってるの、まどか!」
急に前に居るさやかちゃんの声が響き、意識が唐突に引き戻される。
はっとして周りを見回すと、傍で魔法少女姿のさやかちゃんが少し怒ったような顔で私を見つめていた。
「鹿目さん、どうしたの? ナイトメアを追っている最中に急にぼうっとしたりして」
隣で心配そうな声でマミさんも私に聞いてくる。
そうだ。私たちは今、『ナイトメア』を追っていたんだった。
駄目だ、私。しっかりしないと。
首を思い切り強く左右に振って、頭をしっかりと覚醒させる。
私たちは魔法少女。人を悪夢へと追い込む存在……ナイトメアを退治して、誰にも知られず、この見滝原市を守っている。
夜の街でビルとビルの隙間を縫うように建物の外壁を蹴って跳び上がり、遥か前方で宙を飛んで逃げようとするナイトメアを追っているところだった。
「大丈夫かよ? 疲れてるなら、今日はアタシらに任せて帰った方がいいんじゃねーの?」
私の後ろでビルの壁を蹴って跳ぶ杏子ちゃんも、口調はぶっきら棒だけれど心配して私に帰るように勧めてくれる。
私は首を振って答える。
「大丈夫だよ。ちょっとぼうっとしちゃっただけ」
「まどかは結構そういうとこあるよねー」
「さやかちゃん!」
「ごめんごめん」
あははと笑うさやかちゃんにつられて私も思わず顔が綻ぶ。
和やかな空気になったおかげで返って、考えを纏められた。今はナイトメアを追う事に集中しなきゃいけない。
マミさんも微笑んだ後、表情を引き締めてマスケット銃を構え、ビルの合い間を駆け抜けながら引き金を引いた。
前を飛ぶナイトメアはその黒くて丸い大きな卵のような巨体を器用に動かしてそれを避ける。
黒い卵から手足が生えてテールコートを着たような姿のナイトメアは、マザーグースの童話に出てきた「ハンプティダンプティ」という登場キャラクターに似ていた。
でも、童話の中のハンプティダンプティと違って、そのナイトメアの顔には目も鼻も口もなく、のっぺりとした黒い部分だけが広がっている。
代わりに大きなシルクハットが乗っていて、古い映画に出てくるような手品師のような格好をしていた。
卵のナイトメアは私たちからずっと逃げるように飛び去って行く。
時折、私やマミさんが遠距離から魔法を撃って、攻撃を当てようとするけれど、まるでその行動を読んでいたように最小限の動きでかわして飛んで行ってしまう。
「そろそろ川の方に出るわね。高いビルもなくなるし、追うのが難しくなりそうだわ」
「ちっ、めんどくせーナイトメアだな。ずっと逃げ続けやがって……このままだと撒かれちまうぞ!」
マミさんも杏子ちゃんも卵のナイトメアを追い続けて少し疲れを見せていた。
このままだと本当に逃がしてしまうかもしれない。追跡してからだいぶ時間が経っているのにまだ一回も魔法を当てられてさえいない。
「あーもう! どうにかならないかな、まどか」
もどかしそうに言うさやかちゃんに私は覚悟を決めて、一度追うのを止めて跳ねるのを止める。
「マミさん!」
私は下へ落下しながらマミさんを呼んだ。
それだけで私のやろうとしていることを理解してくれた様子で力強く頷いてくれた。
「分かったわ」
マスケット銃を空中にいくつも作り出したマミさんはわざと弾丸を卵のナイトメアに向けて出鱈目に撃つ。
卵のナイトメアはそれを平然とかわす。だからこそ、かわす時の方向は弾丸のない隙間に限定される。
私は弓を構えて地面へ落ちながら、空中で魔法の矢を放った。
狙ったのは卵のナイトメアが避けた先に行くだろう、まだ何もない空間。
卵のナイトメアはマスケット銃を正確に避けて逃げる。でも、だから。避けた先はある程度予想できた。
桃色に輝く矢が当たらないなら、ナイトメアの方に当たる場所に行ってもらえばいい。
思った通り、弾丸を完全に避け切った卵のナイトメアは私の矢の放たれた場所に動いた。
『………………』
卵のナイトメアはその迫る矢にも途中で気付いたみたいで避けようとする。
けれど、それは滑らかに飛んでいたその動きを止めるのには十分だった。
その僅かな隙にさやかちゃんと杏子ちゃんは建物の側面を思いきり蹴って距離を詰めていた。
「ナーイス、まどか! マミさん!」
「美味しいとこはいただきっ、てね!」
卵のナイトメアに大きく振りかぶったさやかちゃんと杏子ちゃんの剣と槍が突き刺さる。
刃が当たった黒い身体は本物の卵のように罅を入れて、衝撃によって吹き飛ばされ、離れていく。
川の方へ飛んでいった卵のナイトメアは罅の隙間から黒い煙を噴き出しながら、激しい水音を立てて沈んでいった。
「あ」
「やり過ぎだ! 馬鹿さやか! べべに喰ってもらう前にどこまで飛ばしてんだ!」
地面に叩き付けられる前に身体のバランスを取って着地した私は二人の喧嘩しながら降りて来る二人に苦笑いする。
「まあまあ、力を合わせて退治できたんだからそんな喧嘩しないで。それよりも落ちたナイトメアを探しましょう」
降りて来たマミさんが仲裁し、二人を宥めると私たちは川の傍へと走っていく。
川沿いは整備されていて、街灯なども付いている上に、何より街からそれほど離れていないせいでビルの明かりが届いていて、暗くはなかった。
さやかちゃんたちの魔法を受けて、身体に罅まで入れていた卵のナイトメアなら弱っているはず。
そう思って私たちは四手に別れて川の方に隈なく探してみるが、あの大きな丸いシルエットは見つからなかった。
「……おかしいな。絶対にこの辺りに落ちたはずなのに」
明かりが反射して輝いて見える水面に動くものがないか目を凝らすが、ナイトメアの姿はどこにもなかった。
「ん。あれ……?」
代わりに水面に浮いているものが私の視界に入った。二、三メートルはあったナイトメアに比べれば随分小さいけれど、それでも私の身長よりも大きなもの。
それは……人だった。
仰向けで目を瞑ったまま、川の中で辛うじて浮いている中学生くらいの男の子の身体。
顔は濡れた黒い髪がぺったりと貼り付いていてよく見えなかったけれど、背格好からみて間違いなく男性だということは見て取れた。
「え……え!? たっ、助けないと!」
何かを考えるよりも早く、私は慌てて川に飛び込んでいた。
魔法少女の私には自分よりも大きな男の子を抱えて泳ぐ事はそれほど難しくなかったけれど、ずっと水に浸かっていたせいなのか、触れた彼の身体が思ったよりも冷たくて思わず泣きそうになる。
……死んじゃってるの? 何で、川に? もしかして、自殺?
頭の中でそんな言葉がぐるぐる回りながら、男の子を川から引きずり出して岸に上げる。
他の場所を探していた皆を呼ぶ事さえ忘れて、横に寝かせた彼の口元に手を当てた。
「息、してない……」
ナイトメアと戦うよりも遥かに恐怖を感じながら、濡れた服の上から男の子の胸に耳を押し付けた。
すると、トクントクンと小さいけれど確かに心臓の音が聞こえてくる。
その音を聞いて崩れ落ちそうなほど安心を感じて、胸を撫で下ろしそうになった自分を叱咤した。
ダメ。息をしてないなら早く何とかしないと。
すぐに私は彼の唇に自分の唇を押し当てた。息の止まった人には人工呼吸が必要だと水泳の授業で習ったことを思い出しながら拙い人工呼吸を続ける。
薄く開いた冷えた唇から私の息を流し込む。
その時、不思議な感覚が芽生えた。
キスなんてした事ないのに、どこかで私はこの感触を知っている。
難しい言葉でいえば、『既視感』だったかな? 覚えていないのに、同じような事をしたような奇妙な感覚。
――いけない。余計な事考えている場合じゃないのに。
彼の鼻を摘まんで何度も何度も自分の息を入れ続けると、数回目で彼の身体が動き、口から水を吐き出しながら咳き込み出した。
「げほっがふっ……」
「だ、大丈夫ですか?」
身体を折り曲げてむせ込んでいた男の子だったけれど、彼は呼吸のペースを取り戻すと上体を起こして私を見た。
思わず顔を覗き込むように見つめる。元々人工呼吸をするために近くにいたせいで、顔がくっ付きそうなほど近くに寄ってしまった。
「え? 誰ですか、あなたは……。まあ、取りあえずは大丈夫です……何とか。なぜか身体中びしょびしょで、肌寒いですけど」
顔に貼り付いていた髪を拭うように前髪を掻き上げた。こちらを安心させるために男の子は少しおどけた様な口調で笑ってみせた。
「あ!」
彼の顔を見た瞬間。既視感が再び、頭の中を埋め尽くす。
その墨のように黒い髪と瞳も。他人を気遣うような眼差しも。心の底から安心させてくれるような柔らかい微笑みも。
私は全部見え覚えがあった。
知っている! 私はこの男の子を絶対に知っている!
そうだ。夢の中で見た。あの、男の子にそっくりなんだ。
気づけば、次第に胸が苦しくなってくる。顔が熱い。頬も火照ってきた。
「どうかされたんですか? 顔、真っ赤ですよ?」
すぐ近くに顔を寄せた顔がある。ますます体温が上がっていく。身体まで熱い。頭の中が纏まらない。
えっと、うーんと……何か言わなくちゃ。
「ゆ、夢で」
「はい? ……夢?」
「夢で会いませんでしたか!? 私と……!」
口に出してから自分でも何を言っているのか分からなくなり、頭を抱えたくなる。
これじゃ変な人だよ! 夢で会ったっていきなり言われても困らせるだけなのに!
恥ずかしさで今すぐに消えたくなる。口の中がカラカラに乾いて、砂漠の真ん中にいるみたいな暑さを感じて、意識が遠退きそう。
顔を合わせていられなくなり、視線を逸らして、横を見るとそこに少し離れたところで皆が面白そうに眺めて立っている姿が見えた。
三人とも既に魔法少女の衣装から、見滝原中学の制服に戻している。
「あ、気付かれた」
「さやかちゃん!? マミさんたちも! ……い、いつから見てたの?」
恐る恐る聞くと、杏子ちゃんが悪戯っぽく笑って言った。
「まどかがそこの坊やを逆ナンしてたとこから」
「鹿目さん。なんて言えばいいのか分からないけど……程々にね」
「ちがっ……そう言うのじゃないんです!」
完全に誤解されてる!
助けを求めてさやかちゃんの方を見る。一番付き合いの長いさやかちゃんなら、きっと解ってくれているはずっ!
期待を込めて見つめるとさやかちゃんは妙に感激したような顔で何度も私に頷いた。
解ってくれたんだ……!
「さやかちゃん……」
「うんうん。あの奥手のまどかが……ここまで積極的になろうとは。お母さん、嬉しい……」
「さやかちゃん!?」
少しも解ってくれてなかった。多分、一番酷く誤解してる……。
確かに私の言い方は変だったけれど、それでもナンパだなんて考えが飛び過ぎだよ。
「あのー、すみません。ちょっとよろしいですか? いくつか、お聞きしたい事があるのですが」
しばらく、黙り込んでいた男の子は片手を挙げて、私たちにそう言った。
いけない。皆の方に気を取られ過ぎて、ついそっちのけで話し込んでしまった。
「はっ、はい。なんですか!」
「ここはどこでしょうか? とりあえず、言葉は通じてますし、日本……ですよね? 皆さん、随分とカラフルなご様子ですけど」
何故か彼は私たちの頭を見上げて急に自信なさそうになる。
それよりもここがどこだか分からないってどういう意味なんだろう。もしかして、流されて見滝原市に着いた……なんてあり得ないと思うし。
疑問に感じながらも、県と地名を教えると彼は「そうですか」と呟いて顎に指を添えて考え込む素振りをした。
「アンタ、一体どこから来たんだよ?」
「それが……覚えてないんです」
杏子ちゃんの質問に男の子は困った様子で答えた。
「覚えてないって、ひょっとしてあなたは記憶喪失なの? 自分の名前は分かるかしら?」
「名前も思い出せません。何一つ自分に関する事柄が思い出せない以上、記憶喪失なのかもしれないですね」
マミさんも彼に聞くけれど、彼は申し訳なさそうにそう言った。
どうしよう。もう川に落ちたナイトメアを探すどころじゃない。この人を放っては置けない。
何より、私はこの男の子の事をもっと知りたかった。
「仕方ないわね。もう夜も遅いし、そんなずぶ濡れの格好でいたら風邪引いちゃうわ。行く場所がないなら私の家に来ない?」
「だ、ダメですよ! マミさん、一人暮らしじゃないですか!? 男の子を連れ込むなんて絶対ダメです!」
マミさんが彼を自宅に招待しようとするを必死で止める。
「べべも居るから一人じゃないわよ」
「それでもダメですって! ねえ、さやかちゃん」
味方をしてくれるようにさやかちゃんに話を振ってみる。
「うーん。それなら間を取って、私の家で引き取るよ。杏子もそれでいいよね?」
「まあ、アタシは構わないけど。そこの坊やも草食系っぽいしね」
さやかちゃんは味方をしてくれるどころか、何を勘違いしたのか勝手に自分の家に彼を連れて行こうとする。一緒に暮らしている杏子ちゃんもそれを変然と受け入れていて、私は背中から斬り付けられたような気分になる。
「あの、僕、一言も口を挟めないまま、処遇が決められている気がするんですが……」
男の子は困ったように眉根を寄せて、立ち上がる。川から引っ張り上げた時にも思ったけれど、背が高く私はもちろん、この中で身長が一番高いマミさんよりも大きい。
濡れたモスグリーンの長袖のシャツとジーンズパンツを着ている彼は派手さはないものの、それなりに纏まった印象を受けた。
「まあまあ。アンタとしても他に行く当てがある訳でもないんでしょ? なら、素直に提案を呑んだ方がいいんじゃない。それにこんな美少女二人と一つ屋根の下で寝られるんだよ。嬉しくない?」
いつものようにお調子者のような笑みを浮かべて誘うさやかちゃんの提案に、男の子は少し考えた後に頷いた。
「……嬉しいかどうかは置いておいて、身体を濡らしたまま交番に向かうよりはありがたいですね。じゃあ、お言葉に甘えて……」
「だ、ダメー! 泊まる場所がないなら家に来てください! パパとママにも事情を話して説得しますから!」
自分の中の名前を付けられない複雑な感情に支配された私は思わず彼の腕を浮かんでそう叫んでしまう。
さやかちゃんはそれに対して文句を言う訳でもなく、にんまりと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「まどかがそこまで言うなら、譲るしかないなー。うんうん」
絶対に私がこういう発言をするだろうと見越した上で焚き付けられたのだと気付いたのはもう既に手遅れだった。
明らかに面白がっているさやかちゃんと杏子ちゃんと、少し驚いたような様子のマミさん。
それに困惑気味で私を見つめる記憶喪失の男の子。
私はそんな皆に囲まれて、何も言えなくなり、ただただ頬をより一層赤く染め上げる事しかできなかった。
久しぶりに書いたのでかなり雑です。