朝の学校。担任の早乙女先生はまだ着いておらず、
そこで僕はガラス張りの壁に寄り掛かり、一人のクラスメイトを待っている。
いつもの待ち合わせ場所には行かずに先に学校へ来たために、まどかさんたちはまだ教室にはいない。代わりと言っては何だが、珍しいことにいつもホームルームの時間ぎりぎりに登校するスターリン君が教室に入ってきた。
彼は僕の姿を見つけるなり、安堵したように肩の力を抜き、ほっと溜め息を吐いた。
「おお、夕田。よかった~。そうだよな。やっぱ、そんな事あるはずないもんな」
「おはよう、スターリン君。でも、いきなり、意味不明なこと口走られても対応できないんだけど……」
挨拶をする僕の前に来ると、ぽんぽんと両手で肩を叩いてにこやかな顔をするスターリン君。一体全体どうしたというのだろうか。いつも以上に気安い彼に僕は戸惑いを見せる。
「いや、何。ちょっと嫌な予感がして、お前の身に何か起きたんじゃないかと心配してたんだよ。いや、マジ安心したわ」
「それは、ありがとうね」
いまいち要領が掴めなかったが、スターリン君は僕を心配してくれれいたらしい。彼らしくない気遣いだが、それはちょっとだけ嬉しく思えた。
何だかんだ言っても、それなりに交流のある彼は僕のことを友達だと思ってくれていた。
少々、お調子者で空気が読めないところのあるスターリン君だが、今ではそれほど嫌いじゃなかった。彼の中学生らしい純真な部分は考えがちな僕には少し羨ましく見える時がある。真似したいとは欠片も思わないが。
「そうそう。今書いてる『最強無敵チート・リンタロウ列伝』の事なんだけどさ、リンタロウが登場する前にサブキャラのサマオをどう動かすかについて相談したいんだけど……」
スターリン君が自作二次小説のことを話そうとした時、教室に上条君が現れる。
彼もまた、僕の姿を見るとすぐさま近くに駆け寄ってきた。
「夕田君、よかった……」
「上条君、やっと杖なしで歩けるようになったばかりなんだから走っちゃ駄目だよ。で、その『よかった』っていうのは……」
「何だか、夕田君に良くない事が起きたような予感がして」
「お前もか、上条」
話を聞くと上条君もスターリン君のように、僕に何か不吉な予感を感じて心配してくれていたのだという。
もしも、これが何もなければ心配してくれた二人に気にしすぎだと笑ってあげられたのだが、生憎とその予感は見事に的中していた。
僕はもう、そう長くは生きられない。ニュゥべえの見立てでは明後日には確実にソウルジェムは消滅する。
はっきり言ってしまえば、今の僕はサッカーでいうところのロスタイムを享受しているに過ぎない。本来ならば、昨日暁美に胸を銃弾で貫かれ、命を絶っていたのだ。
言わば、ズルをして僅かな時間だけ寿命を延ばしているようなもの。
僕を心配してくれた目の前の二人には決して教えられないが、もう僕は人間としての人生は昨日の時点で終わっている。
それでもいい。ワルプルギスの夜には辛うじて間に合う。
「二人とも、僕のこと、そこまで心配してくれてありがとう」
そして、ごめん。僕は君らに本当のことを言う訳にはいかない。
「でも、ほら。こうしてピンピンしてるから安心して」
僕のことを気にかけてくれた彼らを、僕は騙す。何でもない顔をして、彼らの好意を
でも、大丈夫。二人とも僕のことなど綺麗さっぱり忘れたくなるだろう。
これから、僕がする行為を見て、嫌悪と軽蔑を持つことになるはずだ。
そうなれば、僕の死に悲しむ必要なんかない。
ガラス張りの壁の向こうから歩いてくる暁美の姿を視界の端で捉え、静かにそう思った。
*
教室に居たクラスメイトは暁美の姿を見て、唖然となり、皆言葉を失ったように黙り込んだ。
おずおずとした所作で教室にやって来た暁美には長く艶やかだった髪は見る影もなくなっていた。彼女の髪は、美樹よりもさらに短い髪型になっており、さらにその切り口も
暁美の表情も暗く、僅かに俯いていて、目元には泣き腫らした形跡がまざまざと残っていた。もはや、かつての美しい長髪の凛とした彼女の姿からは、想像もできないほど惨めな面持ちをぶら下げている。
他ならない僕がやったことだ。
外側も内側も傷付け、痛め付け、正面を向いて歩けないほど心を圧し折った。
本来なら学校に来ることさえできなかっただろうと思わせるくらいに暁美は
そんな彼女がわざわざ、一人で登校して来た理由は一つだ。
「……ちゃんとメールに書いた通りに登校してくれたようだね。ほむらさん」
僕が明日必ず学校に来るように書いたメールを彼女の携帯電話に送ったからだ。
暁美は僕に負い目を持っている以上は来ないなどという選択肢は彼女の中には存在しない。どれだけ辛かろうともそこだけは絶対に曲げられないだろう。
「……政夫、昨日はごめ……」
「誰が喋っていいって言った?」
謝罪の言葉を口にしようとした暁美を高圧的に遮り、黙らせる。
ゴミを見るような蔑みに満ちた目で睨みつけると、彼女はただでさえも俯きがちだった顔はさらに下を向く。
傍に居たスターリン君は困惑した表情で僕らのやり取りを止めた方がいいのかと迷っている様子だった。上条君も同様の表情をしていたが、こちらは積極的に僕に事情を尋ねてくる。
「あのさ、夕田君。暁美さんと喧嘩でもしたの? よかったら何があったのか教えてもらえる?」
「ああ。こいつが何かと僕に付き纏って来るのが、鬱陶しくてね。もう近付かないで言ってるのに……同じように転校生だからたまたま優しくしてやってただけなのに、彼女にでもなったつもりで居るみたいなんだ」
――気持ち悪くてしょうがないよ。
心底不快そうに僕はそう吐き捨てた。
上条君はまるで僕が何を言っているのか分からないといった顔で目を見開き、愕然としている。
彼の中の『夕田政夫』の人物像と今の台詞はそれほどまでに
けれど、これでいい。僕の望む状況になるまで、あともう一押しだ。
僕は顔を彼から暁美に戻すと、彼女は泣いていた。
拒絶され、嫌悪され、頬から涙を流す暁美は昨日のような妖艶で底知れなさを放っていたとはとても思えないほど弱々しく見える。
髪と一緒にその怪しげな精神の強さを削ぎ落とされたかのように、今の暁美は脆弱で矮小だった。
そんな彼女の胸倉を掴み上げて、俯く顔を無理やり覗き込む。
「何、被害者面してるの? 本当に汚らしいね、君は。同情でも誘いたいの?」
「ち、違う。違う、わ ……悪いのは、悪いのは私の方、だから」
しゃっくりあげるせいで暁美の台詞は途切れ途切れに聞こえる。
内気で卑屈な、今まで見せたことのない普通の少女としての一面を露わにしていた。
僕は怒声をあげて殊更弱った彼女を追い詰める。クラスメイトの前で、いや、上条君の目の前で。
「当たり前だろう!? 君が悪いんだから。だったら、見っともなく泣かないでよ!」
「ご、ごめん。ごめ、なさ……」
「やめなよ……夕田君」
彼女の胸倉を掴んだ手とは逆の腕で、殴り付けようと振り上げる。上条君が低い声で制止を訴えるが、僕はそれに耳を貸さない。
暁美は目を瞑って、僕の拳が来るのを受け入れていた。これが単なる暴力であれば、彼女は痛みなど恐れはしない。目を瞑ったのは、僕に糾弾されているのが辛いからだろう。
だが、次の瞬間。
「やめろっ!!」
鋭い声が僕の鼓膜に飛び込んだ。
それと同時に誰かの左拳が僕の右頬を殴り付ける。
即座に僕は暁美の胸倉を手放し、頬に走る痛みと共に床に無様に倒れた。
暁美はそれを驚いた顔で見つめている。
「夕田君……僕は君に幻滅したよ」
はっきりとした声が転がった僕に届く。歪めた顔で僕を見下ろしている上条君。隣に並んでいるスターリン君はおろおろと僕と上条君を交互に見つめている。
僕を殴り飛ばしたのは上条君のようだった。
彼は暁美を庇うようにして前へ出ると、僕に低い声で言う。
「君たちに何があったのかは知らない。でも、女の子に暴力を振るおうとするのは最低の行為だよ」
殴られた頬をそっと押さえ、彼らを睨みながら、内心で苦笑する。
上条君。やっぱり君はまっすぐで誠実な男だよ。僕が見込んだ通りの人間だ。
これなら、暁美のことを安心して任せられる。
「何だよ……君はそいつの味方をするの? 振られたくせにまだ未練がある訳?」
挑発に見せかけた彼の覚悟を問う。
ここで揺らがずに、「そうだ」と暁美の味方をしてくれるなら、暁美もまた彼に惹かれるはずだ。
暁美は止まり木を必要としている。心を預けて寄り添える存在を求めているのだ。
生半可な気持ちではそれを支えることはできない。彼女は誰かに依存しなければ生きていけないほどに弱い人間なのだから。
「好きだよ。振られた今でも僕は彼女に好意を抱いてる」
「そうだろうね、何せほむらさんは見た目『だけ』はいいから」
「違う! 最初は確かに見た目や雰囲気に惹かれてた。でも、ちゃんと話をして彼女の内面が好きになったんだ!」
「暁美さんは正直で、繊細で、優しさを持ってるそんな女の子だって知ったから、もっと彼女に惹かれたんだ!」
教室の中だと言うことさえ、気にも留めず、暁美への想いを大きな声で吐露した。
暁美はその言葉を聞いて、自分が彼を振ったことを思い出したのか、申し訳なさそうに視線を伏せる。
「それは、上条君がほむらさんの嫌なところや嫌いなところを見てないから言えるんだよ! 嫉妬深くて、しつこくて、重たい自分勝手な女なんだよ、そいつは!? それでも好きで居られるの?」
起き上がりながら、暁美を指さして僕は最後の質問をする。
彼ならこれに答えてくれることを信じて、さも激昂した振りをして叫ぶ。
暁美の都合のいい部分だけではなく、駄目な部分を受け入れてくれるのかと。
彼女の闇まで愛してやれるのかと。
「ああ、もちろん平気だよ! だってそれが――人を好きになるって事だろう!?」
最高だ。最高の答えだ。
期待していたよりも、ずっと詩的で、温かく、誠実で上条君らしい答え。
これなら、もう心配する必要はない。きっと彼なら暁美を支え、導いてあげることができるだろう。
静まり返った、しかし視線だけが僕らを注視している教室の中で、僕は暁美の顔をそっと一瞥する。
彼女の目はしっかりと上条君を見据えていた。戸惑いの色はまだ残っているが、それでも彼を映している。
昨日までは、まるで世界に僕しかないかのような考えに囚われて、他の誰かへ関心を向けていなかった彼女が、だ。
僕よりも上条君の方を見つめていた。狭まっていた視界はようやく開けたようだ。
それを見届けた僕は言い負かされた惨めな敗者として、その場から退場する。
これで懸念事項はなくなった。暁美はもう大丈夫だろう。
「あ……ゆ、夕……」
去り行く僕の背中にスターリンの中途半端な呟きがかかって、消えた。
僕に何か言おうとして、言葉が思いつかず、諦めたのだろう。それでいいと思う。無理に僕の味方をする必要などない。教室内での立場が悪くなるだけだ。
入り口のドアまで行くと、その脇にはまどかさん、美樹、志筑さんが立っていた。
どこから見ていたのか分からないが、少なくとも僕の最後の問いとそれに対する上条君の答えくらいは確実に聞いていたはずだ。
まどかさんや美樹は何も言わない。昨日の一件を知っている彼女たちは、僕を責めることができなかった。
だが、志筑さんは違う。彼女はそんなものは知らないし、暁美の味方として僕を糾弾する権利がある。
志筑さんは怒りのこもった瞳で僕を見据え、強く頬を叩いた。
「本当に……本当に見損ないました」
その言葉を投げ付けると、もう僕には見向きもせず、暁美へと駆け寄った。美樹も一瞬だけ僕を気にしたように目配せをしたが、すぐに志筑さんに続いて暁美の下へ行く。
それを無視して僕は教室を逃げるように出て、階段の方に向かった。
階段を降る途中、早乙女先生に出会い、どこへ行くのかと問われたが、それに応答せずに無言で横切る。後ろから呼び止める声が聞こえた気がしたが、反応しないで足だけを動かした。
*
学校を出て少し歩いた場所に着いた時、急激な痛みが全身を襲った。
呻き声すら上げることもできずに、僕は傍にあった壁にもたれかかる。
手のひらの中に、指輪から宝石の形状に戻したソウルジェムを出現させる。透明感のある黒い宝石は昨日の夜よりもさらに小さく磨り減っていた。
痛みだけではなく、視界にもノイズのようなものが走り、耳鳴りまでもが鳴り響く。
壁に寄り掛かって居なければ、立っていることさえできそうにない。
「政夫……」
上着の内側から這い出たニュゥべえが僕を心配げに覗き込む。
激痛で引きつる顔を何とか、笑顔の形に整え、ニュゥべえの頭を撫でた。
「大、丈……夫。平気、だよ」
「平気な訳ないよ。ソウルジェムが……政夫の魂が削れていってるんだよ? 身体の機能だって徐々に衰えているはずだ」
ニュゥべえの言うとおり、激痛だけはそのままなのに時折、感触が消えたり、目に映る景色がチカチカ点滅を繰り返している。
肉体とソウルジェムの繋がりが危うくなっている証拠だ。味覚に至ってはもう完全になくなっていた。嗅覚も大分怪しくなり始めている。恐らくは、明日には視力か、聴覚のどちらか、あるいは両方失っているかもしれない。
「どうせ、明後日には……死ぬ身だ。今更気に、したって……しょうがないよ……」
「……何で政夫は残り少ない時間をほむらのためなんかに費やしたんだい? 元はと言えば、彼女のせいで政夫が今こうして苦しんでいるっていうのに……」
「…………」
それに対する合理的な説明はできなかった。
ただ、もう見捨てるには近くに居すぎたというだけだ。
あったばかりの頃は嫌いで仕方のなかった暁美は、今では手の掛かる妹のように思っていた。
だから、好意に応えることはできなかったし、これだけの仕打ちをされても不思議と恨みは湧いて来なかった。
「僕の命は、もう……残り僅か、だ。その間に……やれることを、やった、だけだ……よ」
その言葉を言った直後、どさりと何かを落とすような音が聞こえた。
音がした方を振り向くと、そこには知らぬ間にまどかさんが立っていた。足元には僕の学生鞄が転がっている。
さっと自分の顔から血の気が引いて行くのが感じ取れた。
――しまった。今の言葉を聞かれた……。それも一番黙っておきたかったまどかさんに。
恐らくは、僕が鞄を教室に置いて来てしまったから、渡すために追いかけてきたのだ。
学校で発作を起こさないために早々に帰ったのが裏目に出た。
「い、今の話、本当なの……? 政夫くんの命があと僅かって……」
「本当だよ。もう政夫は明後日までの命だ。助かる方法は……ない」
ニュゥべえは僕と違って慌てることもなく、彼女に返答する。最初からまどかさんが近くに来ていたことを知っていた様子だった。
「ニュゥ、べえ……まさか」
聞かせるつもりでわざわざここで話し出したのか。
言葉にしないで目だけで問い詰める。
すると、ニュゥべえは当たり前のように頷いた。
「そうだよ」
「何で……聞かれたら!」
「まどかには知る権利がある。恋人がもうすぐ死ぬという事実を隠すのは彼女に対して不誠実だよ。……かつて
ニュゥべえのその台詞に僕は何も言えなくなる。
代わりにまどかさんが僕に言う。
「知ったら、政夫くんを助けるために私がキュゥべえと契約しちゃう……そう思ったんだね?」
「…………」
黙り込んで、無言の肯定をする僕にまどかさんは詰め寄って声を荒げた。
「馬鹿にしないでよ! 私だって……何も考えてない訳じゃないよ。ずっと奇跡や魔法に政夫くんのために何ができるか考えてきたよ! それなのに、それなのにどうして政夫くんは私のこと信頼してくれないの!?」
切なく悲しげに響く彼女の声は僕の心を引っ掻いた。
魂が削れていく痛みなどこれに比べれば
「ごめん……本当に、ごめん」
まどかさんの手が僕の頬に労わるように触れる。その際にさっき、上条君に殴られた頬が少し腫れていることにようやく気付いた。
彼女は目を瞑り、薄ピンクの柔らかい唇が僕のそれを重ねる。痛みで鈍った感覚の中、ほんの少しだけ癒された心地になった。
「決めたよ。政夫くんが自分の味方をしないで他人のために尽くすなら、私は政夫くんだけの味方になる」
「どう、いうこと……?」
尋ねる僕に向けてまどかさんは決意に満ちた、けれど柔らかくて優しい笑顔でこう続けた。
「政夫くん。私と――駆け落ちしよっか」
上ほむはジャスティス。異論は認めなくもないです。
大学のサークルでの小説を優先するため、これから少し更新が滞ります。
もしかしたら、暇を見つけて投稿するかもしれませんが、期待しないで下さい。