島風との話を終えて、それでも満は一人空を眺めていた。いつかこの曇天が晴れる気がして――今日は満月なのだ。できることなら、この月は眺めたい。空を見に外へ出たのに、それがこの曇天では、些か不満が募る。
ふと、気配がした。誰だろうこんな時間に、一応今は消灯時間だ。満もそうではあるのだが、こんな時間に外を出歩くのは関心しない。
「司令、こんな所にいたのですね」
一瞬瞳を細くした。この声は聞き覚えがある。ある艦娘の声だ。ただ彼女とその姉妹は思いの外声が似通っているので、判断を間違えてはいけない。
「……電、か?」
「そうですよ司令。電です!」
見れば、換装を解除した見知った少女。第六駆逐隊の制服に身を包んだ電がいた。何故、とは問いかけない。問いかけても、意味は無いような気がした。
「……電だな?」
「…………? 疑り深い司令ですねぇ。あ、そうなのですよ、電なのです」
「それは知っているさ。……電なのか、そうか」
満は感傷を持ってそれを受け入れた。もう彼は理解していた何故ここに“彼女”が姿を現したのか、その訳を。
「なのです」
すました顔で、彼女は繰り返し言った。あくまで自分の存在を誇示するように。
「……、」
げんなりした様子でそんな電を眺めながら、嘆息してその様子を吐き出す。もはや気に留めないことにした。今更、彼女のことなどどうでもいい。
「司令……ぁ、官さんはどういう方法で赤城さんを助けるおつもりですか?」
単刀直入。本題に入るのは早かった。満もそれに対して、即座に問い返す。
「……君はどう想う?」
「やはり、赤城さんの全武装解除が先決であるとおもいます。深海棲艦は単純ですから、戦闘が続行できなくなった場合、手持ち無沙汰が顔に出ますからね」
――つまるところ、その間、彼女たちは外からの言葉に耳を傾ける。実証をする者がいなかったために、仮説のまま終ってはいるが、それ自体は思いの外有力な仮説だ。
やることがなくなったために、思考回路が単純な彼女達は、他の言葉を聞くことしかやることがなくなる。他の艦がまだ生きていれば、その盾となるべく撹乱に動くのかもしれないが。
「全部の艦を沈めた上で、赤城さんの武装をすべて破壊します。空に飛ぶ艦載機は加賀さんに任せて、本体を中破に追い込むのは龍驤さんの仕事ですね」
「全体の殲滅は金剛、愛宕、北上に任せればいい。島風はそのサポートと龍驤の護衛だな。なるほど、うまく役割がまとまっている」
いえいえ、と電は謙遜するようにした。満は、改めてぶり返した嘆息を隠すことはなく、更には咳払いまでして、彼女に対して呆れを伝えた。
「なぁ……彼女を救うに必要なのは、やはりそういうことなのか?」
「そういうことなの、です。赤城さんは自身未練を一切無くし、この世界における特性を利用しました。守りたいという思いから、再び“赤城”として転生するつもりでした。そのために数年間を費やし、何度も何度も自分自身に言い聞かせ、そして海へと還った」
……はず、だった。
しかし実際にはそうはならなかった。なぜなら赤城には、言い聞かせても言い聞かせてもどうにもならない感情を抱いてしまっていたのだから。
それも最悪なことに、自分が沈む本当に少し前に。
「……そうかぁ」
すこしだけそっぽを向いて、暗がりとはいえ相手に伝わりかねない表情を満は押し隠した。押し隠さなくてはならなかった。
「未練があったから、ああいう形で赤城さんは転生しました。ですが、今の彼女は正確には提督と同様の存在、深海棲艦及び艦娘の特性を有した、“人間ではない人間”です」
だからこそ、そこに付け入る隙がある。付け入る、というのは少し妙な表現ではあるが、まさしくそうなのだ。赤城の感情に生まれた隙。それがあったからこそ、彼女は人間に近い形で生まれ変わった。
「今は深海棲艦に近い特性ではありますが、同時に彼女には人間としての部分もある。だからこそ――彼女に言葉さえ通じれば、彼女は深海棲艦としての部分を、彼女の“人という感情”が艦娘としての部分に変換できる」
「――そのためには、やはり武装を解除、戦闘能力を削ぎ落とす。そうすることで、“話を聞くしか無い状況”を作る必要がある、か」
「そうです、そしてそこからは……提督、貴方の出番、なのです」
だよなぁ――と、今度こそ浮ついた声音で、満は呟いた。直ぐに電の視線に気がついたが、即座に表情を引き締めて、話をそらすためにある質問を投げかける。
「……なぁ、あの人を止めることはできなかったのか?」
気がついていたのであれば、止めるチャンスはあったはずなのだ。それでも止めなかったのだとしたら、何故止めなかったのか、どうしても、その“仮定”――という建前で――問いかける必要があった。
「……必要がないのでは? 赤城さんの選択は、赤城さんのものです。それは絶対に否定しようがないでしょう。人の思いというものは、否定できるものではないですよ」
「……そうした選択を“否定したい”という気持ちも」
「同様です」
信念は、絶対に否定しようのない無敵の“芯”だ。もしもそれに相対するものがあるというのなら、それは結局全く別の信念である必要がある。
ようは正義の反対はまた別の正義、というやつだ。信念あるものは正義でもあり悪でもある。だからこそ、その反対に成り立つのは正義でもあるし悪でもある。絶対的な正義と呼べるものが、またその逆が――一体どれだけあるというだろう。
深海棲艦は世界の敵だ。世界は彼女たちを共通の悪として団結している。だが、そんな深海棲艦にも、決して悲哀というなの正義がないではない。同情というなの善がないではない。逆に、それに対する世界そのものは、無慈悲な悪とも捉えられる。
だからこそ、否定はできない。赤城の思いを、赤城の願いを、信念なきものが、否定することは絶対にできない。
「意外といえば――意外だな。“君”は、僕とよく似ていると思っていたのに」
「“私”はあなたとは確かに似たもの同士ですけれど、全く鏡合わせというわけではないです。信念の違いは絶対にある。例えば、貴方は自分の結果こそが第一です」
自身が考える結果を手に入れるためならば、犠牲すらもねじ伏せる。満の言葉に希望形はない。あるのはただその帰着へとたどり着く意思。
それが南雲満がたどり着いた信念だ。希望だけを抱き続けてきた少年が、それらを捨て去って選んだ結果だ。
だが、それがすべて正しいとは限らない。信念が似ているからこそ、“彼女”には解る。その違いが、近いようで正反対。言うなれば背中を合わせた者同士だからこそ解る、願いの違い。
「――けれども、それは基本的に短期的な、極力“希望”を排したもの。現実主義とも言えますが、貴方は超短期決戦向きなわけです。目的を簡略化することで、結果への到達を極限まで効率化する」
「もしも最終的な結果に辿り着いたら、燃え尽きる……ってことかな? まぁそれはそうだろうが、それなら次の目的がアレばいい。――目的がなくとも、生きていけるのが人間だ。むしろ、目的に情熱をかけるのは、人生に一瞬あればいい」
――つまらなくなるだろう。目的ばかりの人生では。人には、息抜きというものが必要なのだ。それは、まさしく道理ではある。
「そうです。そうですけれど、私の場合は違います。私は未来予測による次なる到達点への明確化が必要であるのだと考えています。要するに、常に次の目標を見据えるのです」
対する“彼女”は、目標をどのような形であれ持ち続ける必要があると言う。それもまた、道理だ。腑抜けた人間が行き着くところは破滅か、虚無か、どちらにせよ刺激的とは言いがたい。
――両者の意見はそこに平行線を敷いた。どちらに譲るでもなく、そこで決着がついたのである。相対する以上、必要であれば譲らない。そもそも、譲る必要すら感じられない。あくまで考えなのだから。――付きあわせて揺れ動く、それもまた信念であろうが、揺らがないことも、信念だ。
「結果のみが確定化されていればいい。そこへ行き着く経過はすべて曖昧で――流動的であるのが私です。ただ、波が個である以上、大きくその姿は変えないのですけれど」
たとえ波がどれだけ激しかれども、それが“波”であるという概念は、絶対に揺らぐことはないだろう。“彼女”はそこに行き着いたのだ。それが彼女の生き様であったのだ。
――満と彼女。両者は、互いに大きな溝を感じた。単純に、絶対に相容れない経験の違い。善し悪しではなく、ただただそこに溝があるのだという実感。
「は――はは」
「ふふ……ふふふ」
やがていつの間にか、満達は大いに笑い声をあげていた。楽しげに、あくまでひたすらに大笑いをした。コレ以上と無いほどで、これほどまでに無いことだった。
「ッハハハハ!! 本当に、楽しいな。こんなに笑ったことはいつ以来だろう。最近はずっと仕事にかかりきりだったからなぁ」
それから、二人は他愛もないことを延々と歓談し続けた。語ることはいくらでもあった。一度の会話では語り尽くせないくらい。
時間はどれほど経っただろう。長くも思えて、しかし短くも思えた。少なくとも、感覚と実際は一致していないのだろうと、満は思う。そういうものだ、と納得もしながら。
「なぁ――」
ふと、空を見上げてかれは問いかけた。別段真剣味を帯びるわけでもなく、ただ、決してただの軽口というわけではなく。
「……結局、空は晴れなかったな」
ずっと待っていたのに。言外にそう含ませて、未だ雲に覆われた空を眺めた。明かりのないこの鎮守府ならば、晴れていればどんな星だって望めるはずだというのに、結局星は雲に隠れたままであり、満に姿を見せてはくれない。
「不安ですか?」
「それが希望に直結するなら否と答える。直結しないのであれば、是と答えるだろうな」
強情ですね――と、彼女はあくまで楽しげに笑った。もはや満も意地である。結局のところ、不安なんてものは、絶対になくなりはしないというのに。
「誰だって不安です。私だって、すべてがうまくいくかはやってみないと解らない。いつだって胸がドキドキでいっぱいです」
たとえ自分の信念が、どれだけ正しいものだったとして、絶対に“穴”、つまり隙と呼べる部分はある。それがなければ、つまりその信念を持つものは、それこそ“神”ということになってしまう。
だから、いつだって人は不安でしょうがない。だから、人はいつだって前を向くのだ、不安から逃れるために。
「それでも、一つだけ言えることがありますよ」
「ほう……それは何だ?」
「司令だって知ってるくせに、そういうことを聞くんですね。いいですよ、教えて差し上げます」
電はその場から立ち上がり、満の後方へ回る。両手を広げ大にして、どこかの誰かに、どこかの空に宣言するようにする。
「私は、いろんな空を知っています。だから、この空の先も知っている。“七十年も”空を見上げ続けてきましたから。どんな空だって知っていますよ。――その上で、いいます」
満は、少しだけ何かを言いたげにして、それからやはり諦めて足を引き寄せて振り返る。波止場の崖に足をかけていたのだ。
「私達は生きています。生き続けています。だから、これから先の未来を、なんとなくであるから知っている。この空のことだって、私達は知っているんです」
それは、彼女の語る未来であった。理想であり、現実となる、彼女は理想主義者であった。だが、その理想は未来の予測であり、予測は、叶えられるためにある。
満は曇天の空と、それによって染められた黒の水平線に背を向けて、ただ目の前にいる電を見る。そして彼女は、満とその先にある暗闇を睨みつける。
自信たっぷりに、挑戦的な笑みを引き連れて。
「あの空は、絶対にいつか晴れるんですよ!」
それから、
「――どうです? なかなかロマンチックだったでしょう。司令の悩みの大部分は消え去ったのではないですか? 目の前に丁度いい手本というものがありますからね」
「……ハハ、どうだろうな」
そんな彼女の様子がおかしくて、満はまた笑った。今度は、彼女の方は笑わなかった。極大の自信があったのだろう。それに笑みを返されて、急に狼狽したようにして――ふと、あることを思い出す。
「……なのです」
そんな彼女の様子が、可笑しく、そして胸に淀んでいたわだかまりの幾つかが消えたのを自覚して、満はもう一度、楽しげに声を上げるのだった。