空は青く澄み渡っていた。陽の光は青に染まって白にすり替わり、照りつけるようでその本質を逸している。晴天は青、だが空は白。艦載機を飛ばすには――良い空だ。
その日、満の鎮守府に一台の車がやってきた。高級感のあるスポーツカー。おそらくは個人の所有物だろう、その後部座席が開き一人の女性が姿を見せる。
意思のある瞳はまさしく人を射抜くかのようそれは強さであると同時に、頑なさであるようにも思えた。しかしその表情は薄いながらどこか柔らかく、暖かな春にふさわしいかのように思えた。
春、鎮守府においてその意味するところは配置転換だ。満の鎮守府は南雲機動部隊が完成を見てから久しくその戦力を入れ替えてはいないが、あちこちで戦力が入れ替わり、新たな連携に四苦八苦している艦隊も少なくはない。
このたびは、それは南雲機動部隊にも言えた。しかし、満達の場合、少し状況が違う。新たに配属される艦娘との連携がうまく行かないというわけがないだろう。
鎮守府にやってきた新たな艦娘、降り立った女性の名は――加賀。かつてかの正規空母とともに一航戦と呼ばれ、日本の正規空母のエースと言っても良い存在。
正規空母を喪失してから三年。ついに南雲機動部隊は、再びかつての姿を取り戻そうとしていた――
♪
「正規空母、加賀です。機動部隊の主力として全力を尽くさせていただきます。短い付き合いにはなるでしょうけれど、よろしくお願いするわ」
加賀。加賀型の一番艦であり、もとは戦艦であった物を空母として改装した改装空母の一種である。この世界においては最初から空母として建造されているが、そもそも史実においても彼女の活躍は空母としてのそれだ。
「ワーオ……」
思わず、と言った様子で金剛が嘆息した。現在ここは鎮守府司令室。南雲機動部隊に所属する全ての艦娘が集合していた。なお、第二艦隊は含まれない。
「ほんとに、来るんだ……」
島風も、それには同意といった様子で唖然としている。空母といえば日本に六隻、現在は五隻しか存在しない希少な艦種。しかも、その中でも現役で前線を駆け抜けているのは五航戦と二航戦の蒼龍系三隻。
ただでさえ出し惜しみされる正規空母を、ひとつの艦隊が所有するなど前代未聞。それも、満の鎮守府となればそもそもありえない話だ。
「まぁ、彼女は割りと特殊な経緯でこの鎮守府に配属されることになった。詳しくは軍機に関わるので詳細は明かせないが、まぁ短い付き合いなのは確かだ」
「短い付き合いって、短期的に貸し出されたってこと?」
島風が最もな質問をする。詳細が明かせないならそこを突くつもりはないが、短い付き合いというのは些か疑問だ。
「実際に短期的かはともかく、僕自身はさほど長い時間ではないだろうと考えている。北か、はたまた西か、彼女の目的が今戦闘を展開している海域でヒットすればそれで終了だ」
「もしも、南に進出することになれば数年はお世話になるかも知れませんが」
「南って……そんな所まで、私達が出張るの?」
のんきな口調で、北上は辟易したように言う。南ともなれば現在深海棲艦の主力が展開する海域の中でも、特にそれが集中している場所の一つだ。
太平洋日本海側で言えばここが最大の戦闘が予想される場所だ。因みにアメリカ側はハワイである。
「まぁ実際、都会の真ん中で草の根をかき分けるのは大変な作業でしょうし、どうにもこうにもねぇー」
「そない大変な作業を……まぁ、それやったら加賀はんが来るのも道理、かいな」
おおよそ事情を理解しているらしい愛宕の言葉に嘆息するのは龍驤だ。この場で何かを理解しているのは、おそらく愛宕と、もしかしたら金剛くらいか。
金剛は驚きはしたものの、正規空母が来ること事態には興味がなさそうにしているが。
「愛宕、喋りすぎだ。まぁそういう訳でな、よろしく頼む――加賀」
「はい。よろしくおねがいしますね、提督」
最後に二人はそうして握手をして、そのときの会話は終了となった。
♪
廊下、かつて南雲機動部隊には同じ正規空母がいたとはいえ、なかなか日本海軍の重鎮に話しかけるのは勇気がいるというもの、加賀の隣に立つは金剛、同じく日本の主力である戦艦金剛のみが彼女とともに廊下を歩いていた。
「噂には聞いていましたが、まさか本当にこんな所に来るなんて、久ぶりデース、加賀」
「こちらこそ、お久しぶりですね、金剛さん」
加賀は建造から十年ほどの艦娘、金剛は十五年は艦娘をしているベテランだ。
「そもさん、すでに前線から退いていた加賀が、またもバトルフィールドで本格的にスタンバイする日が来るとは、この金剛、感激で胸いっぱいデース」
「いえ、別に私はあの娘と違って、本格的に提督としての地位に付いたわけではないですから。本所属は日本海軍第一艦隊よ」
「第一艦隊はご隠居の集まりデス。確かに有事となれば皆も全力を尽くすでしょうが、基本的に暇なことには変わりないネー?」
「それを言えば、艦娘最年長の金剛さんこそ、そろそろ隠居の時期では?」
「またそんなこと言うー! 加賀のポイズンは健在ネー!」
ケラケラと楽しげに笑いながら、久方ぶりの邂逅を金剛は喜んでいるようだった。加賀もまんざらではない、相手は敬愛すべき最古参の艦娘だ。ともに在る時の安心感は、かつての相棒と背中を合わせた時に劣るものではないだろう。
「それに――」
そうして金剛は、ふと歩を緩めて恥ずかしげにうつむく。どこか上ずったようであり、寂しさを隠そうとするようであり、アンニュイ、と言うのがきっと正しいのだろう。
「私は――戦艦金剛は、南雲機動部隊最期の日まで、提督とともに在ると心に決めていマス。いつの日か、私達が終わりを迎えるその日まで」
「……金剛さん」
「提督は、すごい人ネ。折れない、曲がらない、ただひたすらに前を見る。……加賀も知っているでショウ? 提督は、そういう人デス」
少しずつ、気恥ずかしさが勝ってきたのであろう、うつむき顔を、今度は困ったように頬を掻くものへと変えた。少し遠慮がちではあるが、前を向いて金剛はそう言った。
「あら……確か、提督と貴方の馴れ初めは、“提督らしくない”提督を、面白く思ったからでは?」
「それも在るネー。エイジ重ねると、やっぱり艦娘はウィークが多くなるデス。だから私は提督にやられた訳だけどー。でも、今も一緒にいたいと思うのは、提督を知ったからデスよー?」
金剛の百面相は止まらない。とてもとても悲しそうな笑みで、精一杯のつよがりで、それでも歳を重ねた艦娘は、人として、精一杯の“強み”を見せる。
「あの時、提督ヴェリーヴェリーサドンリィデス。金剛もとってもバッドでした。でも、気がつけば提督はいつもの提督で、いつも以上の提督でした」
「……“あの時”、ね」
加賀にも覚えがある。それは――加賀と提督、南雲満が始めて顔を合わせた時であり、“彼女”が沈んだ時でもあった。
「できることなら、提督を悪く言わないで下さい。無理な話とは思うけれど、それでも一人の恋する乙女の願い、加賀は聞いてくれまセンカ?」
――恋する乙女って。そんな感傷染みた言葉は飲み込んだ。それは金剛に向けるにはあまりに不的確であり、不適切であった。
提督の原動力を、今彼が在る姿の原点を金剛は知っているはずだというのに、金剛は――そんな原点の彼を好きになってしまったのだ。
――何が戦艦だ。何が最古参の艦娘だ。彼女は、単なる齢十五ほどの少女である。だが、同時に艦娘として気高い精神を持つ、一人の女性でもある。
結局、罪なのはあの女性だ。あの艦娘だ。彼女が全てを動かしている。まるで黒幕ではないか、――勝手に沈んで、勝手に思い想われて、本当に……
「勝手な人……」
「……パードゥン?」
「いえ、なんでもないわ」
加賀は、居直るようにそう言った。そうして改めて、すまし顔で金剛に返す。
「――今更、です。私と提督の付き合いは、もう三年以上、そろそろ四年になるのです。今更、そんなことを言われても、はいそうですねとしか言えません」
「……サンキュウ、ヴェリーマッチです」
堅苦しい礼でもって金剛は返した。深々と礼をして、顔を一度覆い隠して――それから彼女が顔を上げた時、そこには晴れやかで、まっすぐで、けれどもとても見てはいられない――寂しげな笑顔が浮かんでいた。
♪
一目見た時から、惹かれる物は多くあった。だが、その時は突然放り出された世界に適応することに手一杯で、彼女を意識し続けることはできなかった。
――ある日、ある時、ある世界。一人の少年が誰かを救って海に身を投げ出した。正確に言えば、少年は誰かを救い、救った後に襲った衝撃に、一人海へ突き飛ばされたのである。誰もが助かったと思った瞬間、それを奪うように災厄は襲いかかった。
その少年の名は南雲満と言った。
南雲満という少年は、普通とは言いがたい程度に大人びてはいるが、大人とは言い切れない何処にでもいる少年であった。何も不可思議なことではない、満はそれ相応にまっすぐで、それ相応に純白であった。
言い方を変えれば純朴で、言い方を悪くすれば単純なお人好し。だが、それでも日本人らしからぬ胆力と、直線的な芯の強さが彼には在った。
適応力、と言い換えてもいい。環境変化への柔軟性は彼の非凡と言って良い。
かくして彼は新たな世界に転生し、提督という地位に付いた。運命のいたずらか、はたまた誰かの願い故か。
そうしてその世界で初めてであったのが一人の女性であった。最初は自分を導いてくれる恩師、親身になってくれる存在として、――やがて、心惹かれる一人の女性として、満は彼女を想うようになった。
気がつけば、と言って良いだろう。本当にいつの間にか、何か大きな転機があるわけでもなく、心に留められたワンシーンがあるわけでもなく、いつの間にか愛するようになっていた。
最初は、彼女の隣にいる資格を求めようとした。彼女の言う一人前に満はなろうとしたのだ。
だってそうだろう? 愛しているのだから、愛してしまったのだから。釣り合いが取れないのでは、それでは自分に納得ができないではないか。
誰かに褒めて欲しかったわけではない。誰かに認めて欲しかったわけではない。それはエゴ、少年らしい彼のエゴ。ちっぽけで、貧弱で、乏しい思いから生まれた、それでも絶対的で、無敵で素敵な彼の心だ。
そんな心で、彼は前に進もうとした。青臭くて、けれども決して嫌味ったらしくはなくて。きっとそれを、青春と人は呼ぶのだろう。
――――だが、
そうはならなかった。
愛する女性を彼は失った。その女性の最後の言葉は、満が聞いた。ごめんなさいと、そんな言葉で謝って、勝手にこの世界からいなくなってしまった。
彼の中から失われてしまった感覚はもはや言葉では選べなかった。想像を絶する――人の死によって生まれる喪失は、その一瞬でなければわからないのだ。一瞬である、刹那でしか無い、人は忘れてしまうのだから、その喪失感すらやがては記憶に埋もれて消えてしまう。
嫌だ。
それだけは絶対に。
絶対に嫌なのだ、南雲満は。
満が彼女を喪って初めて覚えた感情は、喪失感を“忘れたくない”という執念であった。忘れてしまえば全て“終わってしまう”過去は“終わってしまったこと”。そうなれば、人は過去を思い出す他にない。
だから、彼は“喪わない”ことを選んだ。彼は、全てを取り戻すことにした。
♪
その日、南雲満は夢を見た。
大切な一人の女性の夢。となりにいる彼女の顔はぼやけていた。どれだけ近づこうとしても近づけず、ただただぼんやりと、その姿をにじませて満から遠ざかっていこうとしていた。
彼女は何かを言おうとしているように思えた。しかし、開かれた口から声音が響くことはなかった。どれだけ思い出そうとしても、満はその声を思い出せなかった。
どうしても。
――どうしても。
――――どうしてもどうしてもどうしてもどうしてもどうしてもどうしてもどうしてもどうしてもどうしてもどうしてもどうしてもどうしても。
思い出すことが、できなかったのだ。
――だから、