『00 これより艦隊の指揮をとります』
深い、深い水の底へと沈んでゆく感覚。
――疾うの昔に、肉体はその機能を終えているはずだというのに、肉体に宿るはずの意識は、“魂”はいまだに暗く侘しい海の存在を、体とも言えない感覚全体に告げていた。
死んだのだ、そう気がつくのにさほど時間は要さない。あっけない最期だったと今更ながら回想する。水に溺れて、みっともなくもがき抜いてそれでも助からず、溺死。正直、自分が情けないとも思ってしまう。
生きてやれることはごまんとあった。しかし、死んでできる事は何一つない。当たり前だ、体が動かなければ楽しむことも悲しむことも、味わうことも寝ることもできないのだから。
思うことは単純だ。死にたくない、もっと生きていたい。言葉が過去形にならないのは、きっとまだ自分が死を自覚しきれていないからだろう。
きっとこのまま死した己を恨めしく思って、やがてそれだけを怨念にこの海の底へ沈殿しきえてゆくのだろう。体が溶けてゆく感覚がそれを自分に告げるのだ。
やがて自分の感覚に、引きずられるような何かを感じた。潮の流れだろうか、宛もなく海に沈み続けるよりも、きっとそれに任せて行ったほうがよいのだろうとあやふやな思いでその流れに答える。
視界はまっくらだ。闇の中にいるから見えないのか、それとも視覚が用をなしていないために見ようと思っても見ることすら叶わないのか、水に目をやられたなど、笑えない。しかし、自分の最後は思い切り目を閉じていたことを思い出して、すぐにその考えを打ち消した。
これから先、死を自覚できない自分の感覚は、果たしてどこへ行くのだろう。もしも死後の世界があるのなら、このまま門戸は叩けまい。自分が死んだということはわかるのに、それを受け入れられない愚か者など地獄にすら居場所がないだろうことはよく分かる。
だとすれば、もしも、もしも天国でも地獄でもないもう一つの、死んだ人間がたどり着く先があるのだとすれば、そこへ行きたい。
生きて、もう一度生を受けて、新たな自分でそこへ行きたい。輪廻転生とでも言うべきなのか、その時己の記憶はどうなるだろうか、たとえ消えたとしてもこのままでいるよりは、ずっといい。
それでも、願うことができるのなら。
生きて、そして再び自分として――――“
そう思った時、自分は――満は白い何かを感じていた。
♪
最初はそれが、“光”であるとは気が付かなかった。眩すぎて、単なる背景の白としか思えなかった。なにせ先ほどまで自分は“死んで”いたのだ。それも暗く、深く、何も存在することの許されないような海の底に、はっきり沈んでいるとわかっていたのだから。
「――、」
誰かが満を呼んでいる。声はよく聞き取れなかったが、どうやらぼやけた視界の先で彼女が自分を覗き見ているようなのだ。
何度も目を閉じて、受け入れる光量を調整する。少しずつピントのあう視界。それが正確に周囲の状況を捉えるまでに、数秒を要した。
その頃には、満に呼びかけられていた、言葉の意味も理解できていた。
「――提督」
よくわからないが、なんとはなく重機臭い名前だと満は感じた。明らかに軍隊で使用される呼称であるのだが、知識の乏しい満にはそれがよく解らなかったのだ。
もとより、判断力が低下していたということもあるが。
なにせ彼はその時、覚醒の混乱と同時にいやというほど思考を支配する“それ”に襲われていたのだから。
“それ”は、一人の女性に対する感覚であった。
明らかに満の常識とはかけ離れたような、テレビの向こうか、ないしはある種部活的な特定の場所でしか見ることのできないような特殊な装い。
弓道着でいいのだろうか、知識のない満に判断はつかない。
「どうかなされましたか? 随分顔色が優れないようですが」
「あ、いや……えっと、大丈夫。君は?」
「……、私は――赤城といいます。正規空母赤城、貴方の秘書艦を勤めることになりました。以後お見知りおきを」
正規空母? その違和感を大いに覚えるような単語に、満の脳は急速に覚醒を始める。ぼんやりとしていた視界もまた、周囲の情報を取り込むべく、一挙に辺りを駆けまわり始めた。
「えっと、僕は……」
「南雲満提督ですね? 存じ上げております」
まず、どうやら自分は座っているらしい。多少簡素ではあるもののしっかりと作られた様式のデスクに、真正面には赤城と名乗った女性が佇んでいる。弓を携えた不思議な女性だが、自然と緊張の解かれる雰囲気だ。そして外はどうやら港であるらしい。高くあがった陽は、満のいる部屋にまで届いていた。
これまで自分が暮らしてきた場所とも、自分が沈んだ海の上とも違う、まったく不可思議な新天地。生きているということ以上に、気になる事が多すぎる。
観察するように赤城を覗きこむ。今の彼女は微笑んでいるものの、その彼女がどのように思考しているかは満にはよくわからない。もともと人の機敏を感じ取るのは得意ではない。しかしそれでも、なんとなく赤城の雰囲気を感じ取る事はできた。
続けて、確かめるように口を開く。意図して言葉を選ぶのはこれが初めてだ、慎重に吟味しながらいくつかの言葉を選んでいく。
「どこで僕の名を?」
「これから指揮を取る提督の名です、少し小耳に挟んだのを、記憶していました」
誰かから聞いたという具体的な名称を出さない、それはつまり自分で調べたということで違いはないだろう。無論、勝手にそう判断しているだけだが、スラスラとよどみのない言葉遣いは、彼女の知性を感じるには十分だ。
「提督、と言うことは僕は君の……“君たち”の司令ということになるのかな?」
“あえて”違和感を覚えるような言動だ。しかし、そのまま会話を続けようとすれば続けられなくもない、そんな言い様。赤城は何かを感じ取ったように目を細めると、少し間をとってから返答する。
「……えぇ、その通りです。よろしくおねがいしますね?」
「あぁ、こちらこそ」
大丈夫だろう。判断材料など無いに等しいが、満はそう決めつけて一つ頷く。会話はそれ以上続かなかった。お互い軽く握手を交わしてそれっきりだ。赤城は優しく微笑んだまま、まるで何かを待っているかのようにしている。
「――少し聞いてくれるかな?」
「はい? 何でしょう」
わかっているのだ。軽く会話を交わしただけで、赤城が理知的で、なおかつある程度信用に足る女性であることは理解できた。おそらくあちらも、満の言動にはいいえもしれない違和感を抱いたことだろう。まるで拒絶することなく、彼女は満の話に耳を傾けた。
♪
話にして、数分ほどだろう。
さして時間はかからなかった。要点だけを掻い摘んで、理解してもらえればそれでいい。聞き手である赤城は聡明だ。ある程度情報を省略しても十分に補完してくれるだろうことは想像に難くない。
「つまり、南雲提督は――いえ、その哀れな少年は気がつけば夢のなかとすら思える事態に直面していた、と」
「そもそも不可思議な話だろう? あって初対面で、こんなお伽話をするのは如何ともおもうけれどね」
状況の認識に圧倒的なまでに情報が足りていないのは、満自身理解しなくてはならないことだ。なにせいきなり世界そのものが変質したのである。
そして同時に、死者が生者に――それも、この世界で確かな立場にあるらしい存在に――転じたとなれば、頼れるものに頼るしか無いというのは至極アタリマエのことだ。
そしてその頼れる女性、赤城は少し考えこむと一つ頷いてから嘆息する。
「……俄に信じられませんね。そんなこと、非科学的すぎます」
「まぁ、そうだろうね」
ある程度、その答えは満の心情へストンと腑に落ちる部分もあった。実際に主観を持って観測したはずの満にですら、現在の状態は理解の範囲外にあるものだ。単に話の中で聞いただけでしか無い赤城に取ってしてみれば、これ以上ないほどの理不尽的不可思議であるに違いない。
「――ですが」
同時に――そこから先につながる赤城の言葉も、満は想定していたとおりのものだった。
赤城はあくまで平然とした様子で、淡々と事実を挙げていく。用意していた言葉を、引き出していくかのように。
「納得の行く点と、仮説はある程度立ちますね」
「そうか? できることなら、軽くでもいいから説明がほしいのだが」
思わず、と言った様子で軽く赤城に顔を近づける。目を見て解るほど感情を理解しているわけでは内にしろ、赤城の言葉に嘘のないということは、よく分かる。
「まず、私は貴方を新米の提督との説明を受けていました。――しかし、“それだけ”だったのです、私が個人で調べてみても貴方の“過去の経歴は一切無かった”。意味はお分かりですね?」
「いきなり現れたぽっと出の新人に、そんな過去があったと。まぁそれは素敵に非科学的だね」
「非現実的です。――が、貴方もお気づきでしょうが、この世界にはそういった非現実が実在いたします」
「……正規空母、赤城か」
詳しくは知らないがそれでも、空母という単語がいわゆる戦艦や何かのような“船”に与えられる呼称であることは、解る。
「この世界では、魂という概念が存在します。魂とは人そのもの、死した者も、生ける者もすべて、魂によって存在を確立させている。同時に、私たちの世界は、あらゆる世界の“魂”が、流れ着く場所でもあります」
「僕はここにたどり着く直前、何かに引き寄せられるのを感じた。“死して魂となった南雲満がこの世界にたどり着いた”というのが正解かい?」
「おそらくは。この世界は特に大いなる海に沈んだ魂の漂着場所です。もしかしたらそれ以外の死者は、もっと別の場所に行くのかもしれませんね」
「海だけが特別だった? と、そういうことになるかな?」
海とはすべての原点であるために、あらゆる存在とは切り離されて考えられる。人が住むことのできる場所が大地であり、海はそれを隔絶させるということでもあるのだろうが。
かくして海に隔絶されたこの世界には、本来生きている普通の人間――生前の満と何ら変わらない――者達の他に、魂を主体とする存在が生まれるに至った。
「そして、死した魂が流れ着く場所は、主に三つ。一つは――これは他にほとんど例を見ないのですが、この世界に“もとよりあった存在”として漂着する場合です」
つまり、この世界に最初から生きていた住人として、かつて死した時の姿そのままに蘇生するというのだ。余程のことが無い限り、人は死してすぐに魂が分解され、最期に抱いた一念のみでこの世界に訪れる事となるのだが――満はその中でほぼ唯一といっていい例外のようだ。
「この条件を満たすには、死後強烈なまでに、自己への執着というものがなければならないのです」
「……いや、多分僕はかなり速くにここに流れ着いたために、こんな形で漂着したんだろう。死んでから、ここに付くまで待ったのはほんの数時間程度だった気がするからね」
無論、覚醒の直前に思ったのは自己の確立であることを鑑みれば、より一層“奇跡的”であるということは間違いないのだろうが。
「そしてもう二つ。これはある種対となっているといってよいでしょう。この世界に流れ着いた時、たいていの場合は死の直前に抱いた執念だけをいだいて流れ着きます。生前の記憶など欠片も残らずにたどり着きます」
その執念の意味こそが、重要なのだと赤城は言う。
「その時抱いた感情が、恨みつらみ――負の感情であった場合、憎悪を背負った一つのバケモノとなる。その名を――
「深海……」
「妄執の行く先とでもいいましょうか、彼ら――正確には彼女ら、なのですが――は人を喰らい尽くすことがその存在意義です。私たちの敵であり、世界の敵ですらあります」
「もう一つはつまり、“生の感情”を持って生まれた魂、か」
「その通りです。彼女ら深海棲艦に対抗するべく生まれ活動する“少女”。名を――」
一拍、赤城はおいた。
すでに理解の及んだ部分ではある。しかし、それはある種赤城にとって、己の名乗りでもあった。自身がまたそうなのであるのだから、それは大仰を持って、語られてしかるべきだ。
「
そして、それを指揮し、運用するのが満の仕事――提督、というわけだ。
思わず満は唾を飲む。今、満の存在する世界は、大げさなほど大げさだ。現実味などまったくあったものではない。
しかし、
目の前にいる女性、赤城は間違い用もなく本物だ。もはや何一つ弁解の余地もなく、南雲満という一人の少年はそんな世界に放り出されたのだ。
「……ままならないものだね。僕はただ普通に生きて、そして普通に死ねなかっただけだというのに、こうして全く僕の知らない世界で戦争をしろと言われた。おかしなことだ」
しかし、やるしかないのは事実である。やるしかない、というよりもそれは“それ以外にやりようがない”と言うべきか。
この世界の存在として再誕し、この世界に生まれた“自分がそうなっていたかもしれない成れの果て”との戦いを強要される。
(望むところだ。僕は生きる、南雲満として生きていく。そのために必要なことは、なんであってもしてやるさ)
死して魂に恐怖が刻まれたからか、はたまたそれが南雲満と言う少年そのものであったのか、そんな思考は激しく自然と生まれでた。躊躇うことなく思い浮かべた。
「……だから、これからは提督としては、未熟な僕を支えてくれないかな」
至って真剣に満は語る。己が決めた決定を、何一つ躊躇うことなく語るのだ。
そんな満の物言いに、しかし赤城の見せた表情はどこか楽しげな微笑みであった。
「――提督は、とてもおもしろい人ですね」
あくまで単なる本音の一つとして飛び出たそれは、まさしく赤城自身の本来の笑みだった。それは満が目覚めたその時に、覗き込んでいた赤城の顔に自然と重なる。
浮かべた笑みは、自然で屈託のない、出会って間もない満ですら“彼女らしい”と思えるような、そんな優しい表情だった。
「……酷いな」
おかしげに肩をすくめてそれに答えて、お互い軽く笑いあう。ひとしきり、それを続けてそれから改めて澄ました真っ直ぐな顔で、赤城は満に向き直る。
「では、改めまして、報告させて頂きます」
――それは、水平線の向こう側、海に沈んだ魂が辿り着く、ひとつの世界の物語。
少年と、艦娘達と、海の敵。
「――提督が鎮守府に着任しました。これより艦隊の指揮を取ります」
――――願いを巡る、物語。
ヒトヒトマルマル。提督の皆さん、提督志望の皆さん、一般の皆さん、こんにちわ!
夏の終わりに祭りの終わり。艦これもイベントが終わったことで少し時間の流れがゆっくりになった気がします。
そんなこともありまして、本作を投稿する運びとなりました、よろしくお願いしマース!
という訳で次回更新は明日、8月30日、時間はヒトロクマルマルで更新させていただきます!
ところでタイトルが別の艦これ二次作品ともろかぶりしたので変更しました。……あわわわ、元タイトルって、この作品以降にも増えるであろう艦これ二次作品とも被るんじゃないでしょうか!