碧を帯びた紅蓮が青の空を
放たれたのは矢、だった。しかもご丁寧に木製ではない。見た目、鉄のようではあるのだが、それらは溶けずに焔を突きぬけてきた。見ただけで素材がなんであるかピンときたエースは最善であるだろう回避行動に専念することにする。
エースは確たる足場の位置を目で留め、射出地点を探しながら跳んだ。
一方ツヴァイにはアンが補助に入り、矢から身を守っている。矢の軌道を読み絶対的な安全県に誘導する。
エースはなかなか一進一退と繰り返していた。うまい具合に矢が着地しようとしている地点に撃ち込まれてくるのだ。テンガロンハットが空島特有の突風に煽られ、胸元に垂れていた紐にひっかかり背に落ちた。エースは戦略的撤退とアンの元へと戻る。
「…もしかしなくてもこれ、海楼石入りだよなあ」
疑問形なのは、見慣れない光沢があったからだ。
エースは小さく舌打ちする。飛んでくる矢の一本を掴んでみたのだ。アンのお陰なのか能力者となっても海楼石に対しては抵抗力があり、急激に脱力する事は無いものじんわりと触れた場所から倦怠感が浸食してくる。
海楼石は唯一、
「あんな所から飛ばしてんのか」
やっとのことで見つけた隠された細い撃ち出し口に目を細め、どうやってあそこへ至るかを考える。
一番良いのはアンに跳躍して貰う方法だ。
目に見える場所であれば、そのものに触れられる接点に出られる。だがエースはいくら探しても見えない、感じない、聞こえてこない意識の違和感を覚えていた。
矢は休む事無く一定のテンポを、時折緩急をつけて放たれ続けている。
前方に見える大きな樹は島雲を根に包み込み浮いていた。
海雲に何本も下ろされた大きな錨は小さな島雲に突き刺さり、まるで水面に揺れる海草のようだ。
根は抱いた白に絡みつくようにあり、目を凝らせば茶色い土壌も所々に見えていた。
「あれはなんであるのか、聞いても」
いいですか、とツヴァイが口にしようとすれば、肩を押された瞬間矢が目の前を通過する。
「……その前に。先に安全圏内に入っちゃおうか」
エース、行くよー。
全く動揺せず叫ぶアンに、ツヴァイは言葉を詰まらせる。
「なんだよ、知ってんなら先に教えろよな」
「だって。ここまで広くなってるとは思わなかったんだもん。防衛範囲が予想より拡充されてた。この前来た時より」
アンはふたりを連れて大樹の元へと像を結ぶ。
あの場所に出たのは両名に、空に浮かぶ一本の大樹が支える町の姿を見せたかったからだ、と言う。アンも初めてあの大樹を見た時、青い巨大な宝石はどこにあるのだろうかと雲の迷路内を探検したくらいだ。
ふたりは歩き慣れた勝手知ったる道のように、奥へと進んでゆく小さな背について行く。横幅が広くない、人がやっとひとり通れるかといった通路を越えれば雲を加工したのだろうか。手触り的には固いがふわりとした白のそれを基盤とした家が建てられ、こじんまりとしてはいるが集落が形成されていた。
通路を誰かが通ると鈴が鳴るように仕掛けられているらしく、来訪者に人々の目が向く。
ぱっと把握出来るだけで、20名くらいだろうか。
エースは目に見える何かに違和感を感じ、見聞色で気配を探りながらアンの後へ続く。
「アッシュさん、へそ!」
「いらっしゃい、あぶあぶ、へそ!」
ちょっとまて、その会話は。
エースががす、っとアンの頭蓋骨を掴んだ。ひらひらと挨拶をするように手を振りながら発する言葉に、疑問という名の突っ込みが入った。
そうすればあぶあぶとは久しぶり、へそとはこんにちは、であるとアッシュがにこやかに隻腕を挙げて近づいて来た。白のもしゃもしゃした髭が特徴的な男の目元には深い皺が刻まれている。とある文化圏のように親愛のあいさつをするときに髭を触りあう、という風習はない。
「青海からわざわざ、いらっしゃい」
3人はアッシュに連れられ、町の一角にある庭園へと通された。
そこには色とりどりの花が咲き乱れている。椅子やテーブルをはじめとする家具は、町を守る大樹の裏側にある雲切り場から切りだし加工すると言う。
ちなみにエース達を迎撃してきたそのものは、仕組みとしては簡単な発射装置だった。
赤外線探知技術を応用して作られており、熱源に対し設定温度以上の物体に自動掃射されるように出来ている対悪魔の実兵器のひとつだとアンから説明を受けた。
「エースがさっき、集中して狙われていたのは一番熱い物体だったからだね」
しかしエースにはいまいち意味が判らず、とりあえず思考を棚上げしたのは秘密だ。
ここにある機械類は、下よりもうんと技術的に進んでいるのだという。そもそも空にある雲の島では科学という名の魔法が独自の進化を遂げていた。実際のところ海軍で様々を生みだしているベガバンクをこの空島に招待すればかなり面白いことになりそうだとおもっている。青海より数歩先んじている科学力はあちらの世界にも引けを取らないのではないだろうか。楽しげに話すアンの声を聞くのはやぶさかではない。だがしかしこの手の会話はサボが担当だった。理論やら理屈やらで捏ね繰り返すむつかしい話は昔から苦手であるエースは自然と瞼が閉じてゆき……訪れた睡魔に意識を放棄しようとしたころ、小さな足音が近づいてきた。
「…へそ」
白髪の少女が人数分のコップと、細長い実を盆にのせている。
年の頃は10、くらいだろうか。弟よりも幼い。
出迎えた少女の姿を見て、ツヴァイが思わず立ち上がる。なぜなら姿そのものが異質だったからだ。
頭部をふくめた体全体を包帯で巻いていた。わずかに露出する肌には
視線に晒され、少女は後から来ていた老女の後ろへと隠れた。
「取って食ったりなんかしねえからこっち来いよ。それよか暑くねェのか。ぐるぐる巻きで」
緩慢な動作でこっちこいと手招きする。寝起き染みた動きをしつつも、エースの明瞭な言葉にアンは一瞬、意識を刈り取られてしまうかのような眠気を感じた。
少女は目をぱちくりとさせ、自分の姿に異を見せなかった数少ない人物にゆっくりと頷く。
「大丈夫、怖くないよ。ふたりとも優しいお兄ちゃんだから。女の子には特にこっちが優しい。ちょっとびっくりしちゃったんだね」
投げつけられた睡魔に負けるものかと気合を入れたアンは、再度エースに熨斗をつけて返礼した。そしてにんまりと悪戯っ子のように上目で副船長を見る。
指名を受けたツヴァイは、「なっ、なんの話ですか」と多少上ずった声を出しながら、咳払いをする。
「だなあ。女性の扱いは、誰よりうまいな」
残念ながらアンが投げ戻した渾身の一撃は受け取られることなくかわされてしまったようだ。
エースはここにきて、いよいよ違和感が正体を見せはじめたのを知る。全体的にこの村は高齢の住人が多いのだ。
どんなに小さな村であっても、老若男女、多少偏っていたとしても平均的に在しているはずだ。
「正解。ここは生き残った人達が懸命に生きている場所なんだ」
かつてここは、ビルカと呼ばれる空島の中でも有数の都市だった。人口も1000人を超える大きな都だったという。
「だった?」
ツヴァイが疑問形を返せば、ビルカという国は、一度滅んだのだとアンは口をつぐむ。
詳しい経緯は省かれたが、掻い摘んだ話を聞けば、数年前ビルカと呼ばれていた島雲は一度、散り散りになるまで壊滅したのだという。
しかも崩壊に至らせたのは、ここ、ビルカという光の科学都市に生まれた、たったひとりの青年だった。
遥か空に浮かぶ"限りない大地
「…その彼とは」
「ええ。ええ、そうです。良く知っておりますとも。こんなにも小さな頃から」
過去の良き記憶を思い出し、皺を作りながらアッシュは続ける。
彼の両親はビルカの中でも著名な家の出で、それぞれが切磋琢磨しつつ常に新しい発見を競う研究者だった。そんなふたりが伴侶になったときはすべての住民が祝福したのだという。天才同士、優秀な血が交わり子をなせば、もっとこのビルカが発展する子供が生まれると誰もが疑わなかったくらいだ。しかし結果は
推して知るべし。愛情を断たれて育てられた子供はおどおどと大人の顔色を窺い体を丸めて生きる自己主張のない人格に育った。
月日を重ねるほどに彼の生みの親たちは栄光を積み上げていく。その陰で彼はひとり広くて静かな家で放置され続けた。そして利用価値を見出した者たちの手により心を消耗され続けたという。
彼は両親に抱きしめられたこともなければ、微笑まれたこともない。しかし彼はその他大勢から聞かされ続けた。有益な発見をする両親を誰も彼もが恭しく語り、いかに己がその功績を手助けできるのかを演説して取り入ろうと必死だった。時に子供を経由し、なんとか自身をねじ込もうとした輩もいた。
だがその両親にしてみれば、彼、という存在は研究を続けにくくなる障害として疎ましく、邪魔なものでしかなかった。なぜならだれもが皆、彼が凡人でしかないと判断してしまったからだ。
彼の両親は、彼の面倒を見ている暇があるならば今現在取りかかっている研究を完成させる方が有意義だと言いきっていたし、教わらなくとも見ていたら理解できるはずなのにできないのは無能だと同僚に話していたことが広まっていたからだ。 彼は生まれた時からなにもかもが出来て当たり前とされていた。なぜなら彼の両親は、それだけの頭脳を持っていたからだ。しかし親が持ち得るからと言って、子供に親と同じ能力があるとは限らない。彼も必死に努力はしたのだ。
けれども周囲は彼を認めることはなく彼自身の声を無視し、周囲は騒ぎたてた。
秀でた両親から生まれたのだから、当然と言わんばかりの期待に応えるように、彼自身を無視して全てが推し進められてゆく。だから結果は散々だった。
かくして両親は子に見せていた一欠片の興味も無くし、放置してしまったのだ。
近隣の者達は彼、を腫れ物に触るかのように接し、同世代はせせら笑った。
そして彼、は荒れた。
成人後、なんとか立ち直った彼は両親も務める、最も権威があった研究室の下請け職務につくことになった。彼はもともと人としては優し過ぎるくらいの部類で、手柄を持ち逃げされ末端から上がれない、万年使い走りにされていたという。
だからではないが幼いころは研究室に勤める両親を待つために待合室の椅子に腰かけ、寂しそうに絵本を読む幼い彼の姿をよく目にしていた事もあり、アッシュは会えば話しかけ、次第に親交を深めていった。
そして時に食事を共にし、時に彼が持ちかえった課題を共に解いた。
彼は彼を無いものとしないアッシュに、懐いてくれていた、と思う。
言葉を濁しながら先を語る。
ある時、彼が少しでも興味のあるものをと、偶然に手に入れた青海の本を手渡し、ビルカの歴史を語って聞かせた。
彼はその話に夢中になった。
「かつて我らは別の大地にあった。限り無い程の土壌と豊かさはあったが、眼前にある青の秘密を知りたくなり旅立った。青は我らを捉えてしまった。二度と戻れない故郷を見上げる。我らは浮足立ちすぎてしまった。価値がないと置いてきてしまったものこそが、本当の宝であったのだと気づいたときにはもう、遅かった」
物語は所詮、物語でしかない。だが彼は夢想してしまった。ある意味、彼自身の境遇に当てはまってしまったのだろう。それが彼にとって良かったのか、悪かったのか。
アッシュは首を振る。
しかし彼はいつしか空を見上げ、彼を照らすふたつの大地への妄執に取りつかれてしまった。神の身であれば大地に至れると、漂流してきた青海がもたらした悪魔の実を口にしてしまう。
歴を伝える者達は必死に彼を止めようとした。あの地にはもう、なにも残っていないのだと。生きてゆく場所はここであり、多くを欲してはならない、と。
だがその声は終ぞ、彼には届かなかった。
それはそうだろう。
今までこの都市の者達は、彼をぞんざいに扱ってきたのだ。今更はなしを聞いて下さいと声を大にした所で、聞く耳を持っては貰えなかった。
そして夢を語る彼は、彼が望む力を手に入れてしまった。満を期して、彼は予言をした。
そしてその予言は、結果として成就される。
彼は巨大な漆黒、|雷≪いかずち≫の塊を彼自身を否定した存在が籠る島の中心へと放った。その瞬間、島を形成していた物質は組み上げられた電子構造を破壊され、脆くも霧散し崩れ落ちるしかなかったという。
歴史が深く刻まれていた島雲そのものを崩壊させた力は圧倒的で、あっという間の出来事だった。
「確かにその力は神の御技のようにも思えるものでした」
かつての先祖が残し伝えていた遺物を再起動させ、彼、は様々を知った。
月に至れる方法を手に入れたのだと。
今は遠くスカイピアと呼ばれる、雲島の中でも広大な雲と大地を保持しつづけている島で、持てる力を遺憾なく使い"神"として君臨している。
「己を無力だと嘆くつもりはありません」
償いではないなにかをしようと志したものと、己たちが負うべき罪を背負い戦おうとする者達だけがこの地に留まり、いい訳を見つけてなにをやっても無駄だと、恐れにより何もしたくない、忘れたいと願った者達はいずこかへ去った。
アッシュは口元を弧にし、多くの犠牲をエンジェル島の人々に敷いている彼を止めようと細々ではあるが準備を整えていると薄く笑んだ。彼は化け物になってしまった。だが彼を化け物にしてしまったのは、このビルカの民の行いだった。時は戻せない。ならば彼の非道を止めるしかない。
元々ここ、ビルカが有していた知識の多くは、光に関するものだ。
光、とは視覚器官を保持する動物の感応を刺激して明るさを感じさせるものを指す。一般的に可視光線、とされているがビルカでは電磁波のひとつとして解明され、今なお研究が続けられている。
皮肉なもので、彼が得た悪魔の実の力は雷だった。それはこの国にとって利用されていた電の力であり、性質も利用する術もここには存在していた。
それはもはや運命としか言いようが無い。
「老骨に鞭を打って、どこまで出来るかはやってみなければわからないことですが」
エース達は細長い実から採れた、さっぱりとしながらも程良い甘みがあるへナッシュをごちそうになってから広場へ移動した。
「…ついて来なくても良かったのに」
広い場所の方がいいと、アンが向かったのは入ってくる時に通った通路にほど近い場所に位置する、円形の、少し落ちくぼんだ場所だった。
「普段はここで土を撒き、植物を開花させるのに使うのですよ」
いつもはかぼちゃやにんじん、ほうれんそう、そして季節の花など、アンが持ちこんだ種が撒かれる菜園だ。
「アッシュさん、ちょっと離れておいてくださいね」
アンは息を吐き、集中を始める。つい最近になってやっと安定してきた力を使うためだ。
「よし、じゃあ始めます」
アンが両手を前に出し、目を閉じる。
物に触れず、何かをこの場に移動させるには、自分が支点となってどこかに跳ぶのとはまた違った感覚が必要だった。基本的には移動させる物質の像を結ぶ。それだけでいい。だが移動させる無機物に誰かが触っていた場合、その有機物を始点に周辺を巻き込み、移動させるために通る通路のような空間で凄まじい惨劇を生出して像を結んでしまう危険な力でもあった。
例えば目の前に箱があるとする。追加情報として中身もある、としよう。
それをAという現在地からBへ移動させるとする。移動させるアン自身ははこの箱の外側しか知らない為、箱だけをイメージして転送する。そうなると、B地点に現れた箱の中身は、空っぽ、となってしまう現象が起きる。中身だけがAからBに至るどこかで迷子状態になってしまうのだ。しかも中身が触れていた底が抜けるというおまけつきで。
もし中身を覚えてからの場合、果物が大量に入っているするならば、多少潰れて跡形も無くなっているものはあれど、殆どが形を留めて到着する。
また反対にここでは無いBという離れた地点からここ、Aという現在地にものを転移させるとする。アンが覚えたイメージは固定化されている為、もしA地点で形が変わっていた場合、B地点に出現するのは、そのイメージを具現化した、形に近いなにか、が現れた。
以前、実験的にこの力の使い勝手を調べるため、様々なものを飛ばした。
その中には刑期の短縮のために立候補した有機物も居たのだが。結果、彼らはインペルダウンから無事に出ることは叶った。体だけは。
何が起こったのかはわからない。彼らが絶叫した内容をつぎはぎしたところ、この世界とは似ても似つかない地獄を通ってきたのだという。正気を失った彼らは数時間後、精神を失い生きる屍と化した。アンにも知らせず詰め込まれた罪人たちが飛ばされたときも、怪物に食い散らかされたような血痕が残った内部だけが到着地点にぽつんと残されたこともある。
この力は使い方を間違えれば諸刃の力となる、とアンは確信した。
物質転移は存在自体を消してしまう可能性が大であると。
アンは素材置き場において、ロープ内に絶対に立ち入らないでとお願いしてきていた。そして到着地点であるこちら側でも絶対にみんな、この周辺に入ってこないでと、そうお願いして下で覚えた物資の記憶を思い浮かべる。そしてぽん、と何かの合図であるように両手を打ち鳴らせば。
その瞬間、金属が落下する重低音と金属同士が鳴りびびく甲高い音が周囲に響いた。
巻き込まれた人間はいなかったようだが、何かが追加されていたらしい。
前衛的な形の、らせん状にくるりと綺麗にねじり巻かれた鉄材が視界に写ったが、見なかった事にした。すげえ、とエースの声も聞こえるが、全く何も、聞こえない。
「お土産にその地ならではの物、って言うリクエストです。アッシュさん、なにかしらを宜しく」
物の経緯をアッシュに説明すれば、承諾の返事が戻ってきた。
「ああそうだ、次来られる時で構わないから、肥料を持って来てくれないかい」
「いいですよ」
アンは掛けられた声に、快く応じる。
空の上には基本土が存在しない。
地上の道具やらなにやらは時々、世界各地に数ヶ所ある突き上げる激流の恩恵によってもたらされるが、大地に関するものは打ち上げられなかった。
だから彼が神として君臨するかの地では、かつて地上からもたらされた陸地そのものの支配権をめぐって、血みどろの収奪が続いているという。
確かに雲島に住む人々にとって、地上にあるもの全ては恵みだった。
と同時に、麻薬でもあるといえるだろう。
なぜなら得てしまったが最後、もうそれなしでは生きていけなくなってしまうからだ。
植物も空島に自生するモノ以外は、空では育てられなかった。ごく稀にアンが持ちこんだマングローブなど島雲に根を張り、成長し続ける例外もあるが、基本的には地上にあるものは地上にある環境でのみ育成が可能となる。
ここビルカでは偶然にもアンが飛びこんできた幸いにより、海に生息するマングローブの苗木を入手出来たり、少量とはいえ希少な金属類を得ていた。植物を循環させる土もそうだ。かつては科学の力で水耕栽培されていた食物も今は土頼りになっている。
だが土さえあれば光の科学を研究するこの町で、植物を成長させるなど造作も無い。アッシュをはじめとするこの空島に残った者たちは一年をかけ、散りじりとなったビルカのかけらを集め、どうにかこうにか再出発できる足場を作り上げた。
アンが飛んできたのはそのころだ。
「となればダイアルだね」
廃材とはいえ、大量の金属と木材の礼となるものはと考えたアッシュがそう言った。
新しいものは加工中であったり、既に貰い手が決まっていたりしている為渡す事は出来ないが、個人的に予備で持っているダイアルならばと、自宅へ取りに背を向けた。
貴重な金属を譲ってくれたのだから、とアッシュは手持ちのダイアルを吟味したが結局、決めかねて全部持ってきてしまった。好きなものをもってお帰り、とずりずりと大きな籐のかごを引きずってきたのである。
「呼んでくれたらおうちまで行ったのに」
「いいんだ、久しぶりに楽しかったからね」
嬉しそうに目じりを下げ、頬が上がった顔を見ればアンも引かざるを得ない。
遠慮なく好きな物を、という行為に甘えて、アンが選んだのは2種の貝だった。
そのふたつとは音貝
前者は音声を録音し再生できる物、後者は映像を記憶する物で、ビデオカメラの部品として使われていた。ツヴァイは興味深い、そう言いながら幾つかの貝を分けて貰っている。ベルトサップの中身は万が一の医療品だったようで、物々交換をしていた。ビデオカメラは高価な品物で、殆ど出回っていない品物だった。写真を撮る、カメラもどちらかと言えば高いが、そこそこ所持者も居る。
例えば海軍の広報部とか、新聞記者とか。アン的には余り良い思い出は無いが。
それとは別にアッシュから風貝
「今までのお礼、として受け取って貰えればうれしい。風貝(ブレスダイアル)では無くて、噴風貝
絶滅種と言われている
彼による大破壊後は白海に出られる人員も無く、入手は困難になっているという。
貴重品ではあるが大切に保管しておくべき物品でもない。使える者が使えばいい。そう言ってアッシュはアンへと手渡す。
年老いた住人たちでは、そのダイアルが装着された小舟に乗っても上手く乗れないのだと、珍しい空の幸を振る舞ってくれていた老夫人が笑む。
冬は雪山のスキーや、スノーボード、夏になればスケートボードを海辺に近い整地された広場で遊んでいたアンにとっては慣れ親しんだ形の遊具だった。
「ね、エースも乗ってみる?」
海に落ちたらちゃんと引きあげるから。
ツヴァイは広場でアッシュから、ダイアルの特性について解説を受けけている。
どういう乗り物なのか、エースはアンより大体のコツを聞きながら町の入り口へと足を向けた。するとその背を包帯の少女がもじもじと、時折振り返るふたりにびくりとしながらついて来る。
この町には子供と言える年頃の姿は、彼女一人だ。
アンが定期的訪れるようになり、ゆっくりとではあるが、良い変化も起きていると聞いていた。
人見知りは相変わらずだが、「手、繋ぐ?」そう手を差し出せば、嬉しそうな心の音を響かせながらそっと触れてくる。
さくらとはまた違う。
けれど触れた手の柔らかさに、アンは笑みをこぼした。
「来る…」
ぶるりと包帯の少女が体を震わせた。
最初は何事だと訝しんでいたが、アンは展開した見聞色に眉をひそめた。
「エマはわたしより、かなり見聞色の範囲が広いの」
空島では見聞色、ではなく、心網(マントラ)と称される。
アンは試し乗りは後にしても構わないかとエースに言い、広場へと戻った。
15分後、アンの網にもビルカへ向かってくる幾つもの声が聞こえる。
「性懲りも無く…」
アンはビルカの大樹に向かってくるいくつもの気配に、視線を向けた。
「ったく、あの男。わたしが来るの先読みしてるのかしら」
直接は相対した事は無かった。会いたいとも思った事もない。アンにとって雷男の心はぞわぞわとしていて余り好きではなかったからだ。触れるとざらりとしてぬるっとした、そういう感覚がする。意図的に狂わされ、不安感や焦燥感を掻きたてられるような不快感があった。根本的にウマが合わない、そういう存在だった。
高い音は緊張感を煽り、低い音は不安感を煽る。そういう言葉を聞いた事がある。まさしく彼はこのビルカにとって良からぬものでしかない。
包帯の少女が小さく、お姉ちゃん、と不安げな声を発した。
「大丈夫だよ。エマはあいつより強い」
だから不安におもうことはない。そうアンは言い切る。
雷男の目的はエマだ。ビルカの破壊などついでである。しかもいやらしくアンへの嫌がらせを絡めてきていた。
スカイピアの王は遊んでいる。
アンは小さく舌打ちした。男を理解したくてしたのではない。男に同情も憐れみも感じないが、まるでこの世界が遊戯盤であるがごとく、現実感を一切切り捨て己の目的のためだけに生きていた彼のことが、わかってしまった。アンもある意味、腐ったバットエンドに抗い覆すために生きている。同族嫌悪とでもいうのだろうか。
雷男はビルカが気に入らないのではない。
意識的にあと一歩先、その先にある掴めない幻が欲しくてほしくて仕方ないだけなのだ。己より神の船をうまく動かすことのできるエマが欲しい。ただそれだけ。
瞬間ちらり、とかの地に住まう存在の影が脳裏をかすめる。太陽の船がかのものを思い出させたのだ。
アンは頭を振り雑念を払う。
「ツヴァイ、あと30分以内に、いい感じの作戦組み上げられる?」
主戦力は45歳以上の片一方の足を棺桶に突っ込んでいる住人が37名、プラス年端のいかない少女がひとり。そして外部戦力として3があるのみだ。
だがこの大樹まで相手を引き寄せるつもりはない。
言葉の意図を汲んだツヴァイが一体誰に言っているのですか、と自信に満ちた視線をアンに返せば、階段に座っていたエースが立ちあがり、町の入り口に向けててくてくと歩いてゆく。
「…お兄ちゃん、だめ」
エマが必死に制止する。
あれは、もう人じゃないの。
人の形をしたなにかなの。なにかにしてしまったのはみんななの。
青の空にエマ達が居ちゃいけないんだって。
不自然なんだって。
生きてるのに。みんなここで、生きてるのに。
水珠が吸い込まれる包帯にエースは手を伸ばす。
泣き虫は嫌いだった。
何事があっても泣けば済むと、泣く事が子供の特権であるかのように、大声をあげて泣く姿を見るのが嫌だった。物心が付き、心無い言葉や不条理を投げつけられた時、泣きたい時もあった。だが泣ける環境でもなかった。泣いて事が好転するなどありはしなかった。唇を噛んで、泣いてなんかやるものかと嘲笑ってきた大人を睨みつけた。こんな奴らのために、人でなしたちの前で涙を流す自分が嫌いだったからだ。奥歯をかみしめ眉を寄せて、耐えた。
「泣くな。そんな奴の為に泣いてやる事なんか、ねェんだ。今からその原因をぶっ潰して来てやるからさ」
「違うのお兄ちゃん、あの人は可哀想なの」
不得手とはいえ、エースもその力を有しているから分かる。
聞こえてしまったのだろう。
なにひとつ自分の欲しているものは手に入れられない。その心の内を、覗かされてしまった。物心つき、感受性の高い年頃にそんなものを見せられて、影響されない訳が無いのだ。
雷男がエマにわざと見せたのだと、エースは気づいて小さく舌打ちする。
エマが見せられた全てが真実では無い。だが作られた巧妙な嘘も含まれているのだろう。
彼につき従う者達は彼が持つ力に畏怖し、または心酔し、数多くの者らは自他を守るためにの信念を曲げて屈辱に甘んじている。彼には逆らってはいけない。隣人を守るためには、言われたとおりの事を行うしかない。
エースはくしゃりと少女の髪を撫でる。
「気にすんな。お前は奴じゃねェ。奴と同じ感情を持たなくてもいいんだ」
静かな声音が降る。それはどこか安心をもたらす気配をまとわせていた。
「…お兄ちゃん?」
生きる事そのものが苦である時間をエースとアンは辿ってきた。物心ついた時、自分たちが山賊を仮親として預けられていた理由を知ったとき、一番最初に己に問うたのは『おれたちは生まれてきてよかったのだろうか』という疑問だった。
死んだほうが世のためになる理由は数あれど、生きなければならない理由はこれっぽっちも双子に与えられていなかったのだ。それでもふたりは生きてきた。生きていればそのうちわかるだろうと言ったガープの言葉もあったからだ。
親が居るからといって、幸せではない場合もある。逆に親が居ないからと言って、不幸せだという訳でもないのだ。周りがどんなに可哀そうだと、彼らの価値観で判断をしてもそれは本人達に関係の無い話で、押し付けられるものでもない。
実際に故郷では、様々な感情に左右されてきた。
だから負の感情に関しては、誰よりもよく解る。
幼心にあの雷男は憎悪の種を植えつけたのだ。己もされたことだと。
それもいつ芽吹くかと、楽しみにしながら今も待ち構えている。
己が苦に感じた感情を、誰かに向けていいはずが無い。やればやるほど負の連鎖を生み、自分自身をがんじがらめにしてしまう。
気付けたのは、弟が教えてくれたからだ。難しいことはわからないけど、おれとエースはお揃いだ。親はいねェけど、アンがいてくれるだろう。
ロジャーへの憤りを打ち切れたのも、弟となってくれたルフィが居てくれたからだ。いつも笑ってそばにいてくれた弟が。居てくれないと生きていけないと言ってくれたルフィが居たから、エースは生きる理由ができた。
かけがえのない心の友もできた。何の関係も持たなかった第三者の肯定がこんなにも価値観をかえてくれるものかと驚いたくらいだ。
とある事情により歩む方向を変えてしまった友ではあるが、最終目的が全くぶれずに変わっていないためその内、道を交える予定なのだそうだ。生きていてくれる。それだけで前を向いて生きていけるし、その時が本当に楽しみになった。
そして本人はいたって平気そうにしているが、そんなこともなかっただろうと今であれば理解できる。大人たちが向けてくる感情の全てを、どうという事も無いと、いつも笑って受け流していた、受けてしまって心をズタズタにされたエースの手をどれだけ振り払っても離さずそばにいて癒してくれたアンが居たからだ。
「ちょっとばかし、待っててくれな。そんでおれ達を見てろ。道標を立ててくる」
そう言いながらエースは、テンガロンハットの中で笑みを唇に結ぶ。