ONE PIECE~Two one~   作:環 円

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58-皓月(こうげつ)の戯れ

 黄昏月が輝いている。

 海の底をおもわせる深い群青に浮かぶのは細長い月だ。形によって呼び名を変えるなど、教えられた時は面倒でかつ煩わしとさえおもっていた。しかし何気なく月を見上げ続けてみると、住まう館の中でも隠されたあの書庫以外では得られなかった安心感が、どことなく沸いてくるような気がした。月の満ち欠けが時を教えてくれる。ふと気づけば月を見上げる行為を繰り返していた。

 

 かの人物がやってくるのは満月である。

 そうデイハルドが決めた。なにが何でも来るように、首輪を付け、先だっては追加の目印も加えた。あれだけ誇示していれば、少なくとも天竜人を畏怖する者たちから手をだされることはないだろう。

 

 人づてに聞くところによると彼の目でもある自由奔放な(あれ)はつい先日、海軍から出奔しなかなか有意義な毎日を送っているらしい。

 世界政府が長い年月をかけて作り上げてきたこの世界には、ありとあらゆる場所にその手足が息づいている。人か獣かはたまた奇怪な形をしたもものまで、世界政府は指先につけた糸でようようと世界を操り続けていた。上手くいかなくともそれはそれで重畳とあの老獪たちは悠然と構えている。

 

 黄昏月は月が満ちようとしているはじまりに見ることが出来た。日々、満たされてゆく空の器に、今では知らずと笑みが口元に浮かぶことも少なくは無い。

 デイハルドは先触れによりもたらされた報により、早めの湯浴みをし、食事を終えていた。

 あれがわざわざ伝書バットを使い手紙を寄越してきたのだ。いつもであれば手紙だけを執務室の机の上に転移させてくるくせに、なにやら企んでいるのか、きっちりと書簡の体を成したものを届けてきた。

 

 聖地に用事がある、という。

 あれに関することのほとんどを天竜人としての特権を用い把握しているものの、その頭の中の隅々まで理解しているわけではない。

 デイハルドは時間を確認し、書斎へと歩き出した。毛足の長いビロードの絨毯を踏みしめる。

 このところ夜会が続き、就きたくもない政府内の名誉職に無理矢理座らされたおかげで、出さねばならない書類が積み上がっていたのだ。世界貴族は神と同位である。大地に住まうもの、海に住まうものに秩序を与えるために天から降り立ったのだと。ゆえに青海人に傅かれるべき高貴な血を継ぐ者などと流布されているが、現実にはその、天竜人にも弱みがある。

 あれが魑魅魍魎というものかと、老獪たちをそう呼びぐちぐちと文句を垂れ流す狗のせいでその呼び名をデイハルドも覚えてしまった。狗が魑魅魍魎と呼ぶのは世界政府の中枢に立つ五人の人物たちだ。さらにその五名を操るかの人がいる、という噂もあり事実は霧の中にあり続けているが、そんなことはどうでもいい。裏があろうとなかろうと、彼らとその彼らを操っている誰かと会う必要が迫ったときは、己の持ちえるすべてを使ってその前に立つだけだ。その折は遠慮などするつもりはない。

 

 デイハルは忠狗の進言を取り入れ、多くの目と耳を確保しつつある。情報も過多すぎると混乱をもたらすが、うまく処理すればこれほど有用な戦はないだろう。

 口惜しいことに天竜人が天竜人として勝手気ままに振舞えるのは、青海を支配し続ける世界政府(かれら)あってこそだ、とわかってしまっていた。

 そして世界政府が天竜人を井の中の蛙にしてきた過去のいきさつも、だ。だからこそ彼らに対して天竜人は物言えぬ小物となってしまい世界に対して傲慢でかつ尊大にあり続けなければならなくなった。虚を張っていなければ己を保てないほどの弱者となってしまったのだ。それを世代は踏襲した。親の背中を見て子は育つというが、まったくもってその通りであった。

 デイハルドは自分が養子でよかったと心の底から思えるようになっているくらいだ。もし、あの家で、偏った思想を詰め込まれていたなどと想像もしたくない。よくぞ養父は、義母は、自分を放っておいてくれたものだと。今頃になって感謝するとは思いもしなかった。

 

 天竜人は天竜人のために用意されたこの世界政府の、唯一の出先機関に誰も座りたがらない。知りたくも無い、というのが本音だろう。天竜人たる己たちが、世界からどう扱われているのか。どうおもわれているのか。事実から必死に目をそらし続けている。だから知らない。青海に、本当の意味で降りたらどうなるのかを。

 だから天竜人の末端であるデイハルドにお鉢が回ってきた。理由は簡単だ。怖い、のである。

 天竜人は聖地と散歩が許されたシャボンディ以外に出るときは、年単位の申請が必要なのだ。世界政府の要望で諸国に訪問する時はひと月ほどしか準備期間が無いらしいが。

 

 デイハルドに言わせれば、天竜人は聖地に飼われた生贄の羊である。

 そうである確信が持てたのは、彼の目となったあれやあれの子飼いたちが持ち帰った多くの情報からも読み取れた。

 

 今までその役目を担ってきた歴代の天竜人はその特権を使い、すべて『よきに計らえ』と側付きを担った事務官に命じてすべてを終えていた。

 知るのが怖いから、である。

 この聖地にさえいれば、今の生活が未来永劫保障されていると思い込んでいるのだ。

 あながち、間違ってはいない。九百年に渡って体制が維持されてきているからだ。しかしデイハルドはこの作り上げられた箱庭が千年(ミレニアム)を迎えるとはおもっていない。もう少し、というところで盛大に崩壊すると予想している。

 

 世界政府は青海に住まうすべての頂に、かつてこの世界を統べた20の創造主を置いた。

 当時の真意はどうであれ、今現在において天竜人という存在は青海の民からしてみれば、やんごとなき天上人と思い込まされているにすぎない。事情を知る一部からはやっかいな目の上のたんこぶという扱いになっている。デイハルドからしてみればさもありなん、であろう。

 だが世界は、世界政府によってこの世の支配者である、と喧伝(けんでん)されていた。そう、長い年月をかけて青海の民が思い込むように情報を与えられ操作されてきている。

 

 この偽りを世界政府がいつまで続けるつもりなのかはわからない。100年に一度の大掃除も近いとみているし、その後始末もなかなか骨が折れそうである。

 この事実を青海の民たちがいつ知るのか。剥ぎ取られた嘘が露見したとき、民たちの怒りは間違いなくまっすぐ天竜人に向かうだろう。

 まったく気の長い話だ。

 九百年前にこの道筋を誰かが作ったというならば、その人物は未来を確実に知っていた、と(うそぶ)かれても信じてしまうだろう。現実に未来を確実に読み、周到している狗がいるのだ。過去に似たような能力をもった人間がいてもおかしくは無い。

 

 結局のところ、この現実をいつ、誰がどのような方法で終わらせるのか予想しか立てられない。デイハルドは狗がもたらした情報の中にある人物たちの全員が手にしている引き金が音を立てるまで何もできないのだ。

 

 すでに色あせてしまっている栄光がいまだに光り輝いているのだと疑っていない天竜人が、地に落ちるのはそう遠い未来ではないだろう。

 世界政府の、空白の百年にまつわる事実を知るものたちに嘲笑われているともしらず、傅かれ頭を垂れているからと自らが神であるかのように振舞うことの滑稽さは道化よりも醜く哀れだ。

 そしてそれを理解していながら演じなければならないデイハルド自身にため息が漏れる。

 なぜならばこのままの状態が続けば血を残さねばならぬからだ。あさましい血を、その血脈を残さねばならない。この聖地でもごくわずかな数しか知らされていない、あれを護るために。

 

 

 彼は。

 デイハルドは歩みを止め、窓の外の月を見上げる。

 『彼は怖いのよ。知らなければならなかった。長となったときに。けれど彼は知りたくなかった。なぜだかわかる?』

 しばしの沈黙ののち、デイハルドの愛する狗は言った。

 『世界の全てが手に入るとおもった。なにもかもおもいのままに出来るとおもった。だって何をしても許される天竜人に生まれたのだもの。しかもその長。笑いが止まらなかったでしょうねぇ』

 けれどその思惑はすべて夢幻と知った。そして彼は聖地の己の庭から一歩も出ることができなくなったのだ。

 『悔いたの、かな。彼が好敵手としていたドンキホーテ・ホーミング聖が長の候補から脱落し、青海に去った後に。…違う、かな。でも思惑と違っていたのは確かなはず。だって本当の支配者にはなれなかったから』

 

 ドフィのお父上なら聖地の闇ともいえるこの事実を噛み砕き、しっかりと抱えられたのだろうけれど、彼には出来なかった。違うわね。出来ないと放り投げたのよ。そうして五老星のあの魑魅もうりょ……ジジイたちの抑止力が、っていうかそもそもが棺桶に入ってなきゃいけない人たちなのに、生きてるのが本当に迷惑。たったひとつの妄執に、振り回されるなんて!

 

 彼の狗がそう、淡々と言葉を並べていった。

 

 天竜人の長たる男は確かに、あの宮から一歩も出てこない。世界会議の席でも己の領域から出ては来なかった。

 そしてデイハルドに己が抱えるべき責の一部をそっと横流し続けている。本来ならば憤慨ものだろうが、狗はにこりと笑って言った。

 『貰えるならもらっておくといいとおもうよ。わたしがディを信じるから。わたしひとりじゃ足りないなら、一億人分でも、世界人口分でも信じるし。間違えたならちゃんと叱ってあげるよ。わたしは鍵になる。過去の偉人変人狂人たちが辿った軌跡の、ありとあらゆる英知を開く鍵に』

 

 「ならば僕はこの宿命を受け入れ続けよう、そして来る日には」

 

 デイハルドは小さくつぶやく。彼の狗は彼のために在る。迷い立ち止まっても、その先を照らしてくれる大切なものだ。それがもうすぐやって来る。

 心が高揚するのがわかった。

 

 だからこそどんな厄介ごとであろうとも立ち向かえる。だからこそ永遠に続かないとわかっている砂の城の主も勤めていられた。

 腹心のランもそうだ。彼の周りには最強の布陣が敷かれつつある。その手配はすべて狗が取り仕切っていた。

 権力など怖くない。手に余るものでもない。扱い方さえわかってしまえば、たとえ時間がかかったとしても動かすことも可能だ。

 

 

 

 「旦那様」

 執務室まであと数歩というところで、眼鏡をかけた男が恭しく頭を垂れている。

 用ある時にしか姿を現さない執事長だ。

 宛名のみが書かれている手紙をまず、手渡される。

 内容をあらためろ、という無言の提示だ。

 父の代より変わらずこの屋敷で役目を滞りなく行うこの男には何度も、デイハルドも世話になっている。

 「老人たちからか」

 なにかと思えば籠絡の指示が遠回しに書かれているご機嫌伺いだった。

 世界政府内で世界の指針を決める役目を負っているのが、5人の老人たちだ。彼らは武力の統率、例えば七武海や海軍の人事にも直接指示出来、表裏の経済すらそのしわの寄った手で操っていた。

 

 その下に10名の補佐的役割をもたされた円卓がある。その卓に歴史上、最年少で座したのがデイハルドだ。

 基本的には世界政府という組織の中で代々役人を務める由緒正しい家系から抜擢される円卓の人員だが、その採決には老人たちだけではなく、そのさらに上座にある天竜人の承認が必要、とされている。今までは委任された老人たちの息がかかった人物が成していたが、デイハルドはおもしろそうだ、と赴くことにした。

 

 円卓のものたちは五老星が下した決定を分野ごとに割り当てられ、采配を振るっている。デイハルドが主だってする仕事は、よきに計らえ、とGOサインを出すだけだ。しかしこの円卓は使えた。情報の宝庫であったのだ。狗がもたらす外の情報と円卓の報告書を重ねると、かなり確実な知見となる。それを今までいらないものとして天竜人は捨ててきていた。

  

 デイハルドは記憶を手繰る。報告書にはなにも問題はなかったはずだ。

 とあるひとつの案件を除いては。

 「…対応する。暫く待て」

 

 その報は既に受け取っていた。

 海軍が危惧した通り、その力はたった3カ月で大将でなければ対応できないほど大きな危険度を示すまでになっている。最初、その手配書が出回った時、誤植ではないのかと賞金稼ぎから問い合わせがはいったらしい。

 海軍が今まで発行してきたものとは少々形式が違っていたからだ。

 手配書の写真はそのままだったが、死の文字は省かれ、生存捕獲のみが賞金の対象となる。しかも報償限度がない。

 多くの賞金稼ぎが淘汰されたと、円卓のひとりが嘆いていたのを聞いたことがある。デイハルドは内心、ほくそ笑みながら退席した。

 海軍にそうするよう、刷らせたのは、自分自身だったからだ。出される報奨金も、デイハルドの個人資産から出る為、何ら問題はない。

 

 来たる狗の武勇伝は余すことなく全て仕入れていた。

 乗り込んだ船の名前、乗組員達の詳細情報など、いくらでも裏から手を回せば手に入れることが出来る。

 ふがいないのは、たったひとり、その人物を欠いただけで足元をぐらつかせた海軍だ。緘口令を引いたとしても、表舞台に双肩を並べて出てきたふたりの類似を、いつまでも隠しとおせる訳もない。

 

 最近の情報ではとある事件に関わり、そのリベンジに向かった少将をものともせず突破し、この聖地がある赤い土の大陸に怒涛の勢いで迫ってきているとも聞いていた。

 

 がちゃりとドアを開け、見慣れた両壁に本棚が並ぶ部屋に入る。

 すれば淡く橙が残る海と空の狭間が見える窓辺に立つ影を見つけた。

 ゆっくりと歩みを進め、いつの間にか見上げる事の無くなっていたその視線を受ける。

 「……アン」

 「久しぶり、デイハルド」

 かつて見ていた笑顔と寸分たがわない、ほわほわとした表情に眼元が自然と緩んだ。

 満月の約束は、野に放たれてから一度も違わず果たされていた。

 

 言葉無く腕を広げれば大人しく身を預けてくる。船に乗っているというのに、潮の匂いはしなかった。柔らかな体臭がデイハルドの理性を犯す。

 「ん」

 額に受ける口づけにくすぐったそうに身をよじるが、腰に回した腕を解くまでには至らない。

 唇に軽く触れた後、割り込んできた人差し指をぺろりと舐める。

 「ディ。婚約者(フィアンセ)に妬かれるのはわたしなんだから。それ以上はだめ」

 「僕は別に必要ないんだけどね、お高くまとまったお姫様は」

 寸止めされ、デイハルドはやれやれと腰を縫い止めていた手を離す。

 「本当のところは、どうだろうねぇ」

 やけに楽しげなのは気のせいか。

 「いつもより早いな」

 「ああ、うん、今日は星の島に着いたから」

 

 ウォータセブンから東に下ったところにある、高級リゾートを有する島の名がほろりと出、デイハルドは疑問符を浮かべる。

 「ああ、なるほど。ジョワイヨの手引きか」

 「…うん、そのとおり。さすがだね」

 「ふふん、甘いな。お前の陰が匂う場所は調べ尽くすに決まっているだろう」

 

 ジョワイヨは裏の市場ではその名を知らぬものは無いと言われている。暗がりに眼光だけを浮かび上がらせる、うつろな存在感の人物だ。

 今でこそ名が知られるようになったが、20年ほど前から勢力を伸ばし始めた彼、に興味本位で関わった全てには"呪い"と言わんばかりの不幸が襲ったという。

 それは真実ではないかもしれない。

 近づく者を牽制するためにわざわざ流した噂、である可能性も高い、そうデイハルドは考え一応調べさせてみたのだ。

 しかし真実は流れている噂以上に得体の知れない不可思議であった。付近の闇は濃く、安易に触れれば死が這い寄るとまでわざわざ流されている事自体が良心と言っても良かった。

 

 「僕としては、彼との関係が知りたいな」

 アンはデイハルドが何を考えているのかが思い当たり、ころころと笑う。

 「足長おじさん」

 それ以外の何者でもないよ。

 優しげな声がデイハルドの耳朶近くで囁かれた。背筋がぞくりとするような声音にも聞こえ、飲んでしまった息をゆっくりと吐き出す。

 

 「それで?」

 デイハルドは月光が差し込む部屋の椅子に座り、重厚な執務机に腰を下ろしたアンに続きを問うた。

 足長おじさんの続きでは無い。

 急ぎの手紙に書かれていた用件は、黒の獣の行方に関してだった。

 結論は既に出ているはずだ。だが迷いがある。聞いて欲しいことがある。

 そうでなければわざわざ、コングを待っていたらしい席からこちらへ来る訳が無い。

 

 「もしかして、ばれてる、とか」

 「ふん、侮るな。同じ聖地内だからな。通達も早い」

 アンを抱きしめる前に机に置いた紙へ視線をすいとやれば、意味を察して文字を追う。

 月光が反射する青白に溜息を落とし、実は、と口を開いた内容はデイハルドが予想していた範囲内だった。

 だがそれでは老人達に隙間を突かれ、その前にコングにしてやられるだろう。

 「だからディ。お願いがあるの」

 やはりそう来るか。

 くつくつと喉を震わせてデイハルドが笑う。

 「僕を窓口にするつもりだろう」

 「何が楽しくて、覇者気取りの世界政府に下らなきゃいけないのか教えてほしいくらい。どうせ血を浴びるなら、ディや家族のためがいいもん」

 それに、と続く言葉は信頼されている証となるものだった。

 「そこまで言われては、断れないじゃないか」

 純情を弄ぶ小悪魔のような笑みに呆れつつも、デイハルドは了承する。

 

 「あのね、あと…」

 「わかった。夕餉(ゆうげ)を用意させておく」

 風呂も必要ならばつけるが、と言われれば嬉しそうにこくりと頷き机から降りた。この家の風呂はどうやって引き上げているのか不明なのだが源泉かけ流しなのだ。

 嬉しげにスキップを踏むその背をデイハルドは見送る。行動だけで判断するとどちらが年下なのか分からない。

 だがデイハルドは空を自在に飛び回るアンの姿が好きだった。その姿は太陽に匹敵するほどにまぶしいものだ。自分には無いものを持ち、叶える力を手の中に有しているからだろう。

 それに首輪を嵌め、飼うという、自分にしか出来ない優越感を思いながら、椅子へ深く背を預ける。

 

 「行ってきます」

 「ああ、待っている」

 その言葉を言い終わらないうちに、目の前にあった姿は闇の中に溶けた。

 

 

 

 視線を上げた先にあったもの、それは月だった。

 世界の中心に建つとある美麗な城のとある白を基調とした部屋の中には5人の人物が座し、突然現れた人物にも驚きの声を上げない。まるで現れると、知っていたかのようだ。

 「ご機嫌様でございます」

 煌びやかとは言えないが、清楚なワンピースの両裾を広げ、すい、と影が会釈する。

 幾つかのランプが暖色を拡げているが、大部分を支配しているのは白の静寂と、それぞれの所定位置に存在する人物達だった。

 部屋を見回す事が出来るならば、品の良い、この聖地でなければ見ることが出来ないような調度品が置かれているのを知るだろう。

 だが青海に住む人々は、空に近いこの地へ至る事は無い。この部屋へ通される人物達の目からすれば、それらは見慣れた品でしか無かった。

 

 いつもならば既に、この部屋は閉ざされ無人になっているはずの時間だ。

 「どうやらお待たせしてしまったようで」

 影が一歩前に進む。月光がその姿をゆっくりと明らかに照らし出した。

 黒の目、髪はこの世界で珍しい色では無い。だが老人のひとりはその色を気に入っていた。意志の強い目の奥に揺らめき潜む、狂気がたまらなく興味深い。

 

 「返答を持ってきた、という認識で構わんな」

 口元に浮かべるのは微笑、沈黙は肯定の証だ。

 「ならば聞かせて貰おうか」

 

 老人達にしては性急な物言いだと思いつつも、アンは声帯を震わせ言葉を放つ。

 「ポートガス・D・エース並びにアンは、世界政府の要請を拒否します」

 王下七武海への要請に対し、エースは速攻でいらねェ、と一蹴した。

 分かっていた答えだが、一応、聞いてみたのだ。自分に対し正直に、悔いの無いように生きる事がエースの生き様だ。所属する事で旨みがあると懇切丁寧に説明されたとしても、わざわざ世界政府に首根っこを押さえつけられる選択を選ぶ訳が無い。しかもすでに、似たようなことはアンになされているのだ。

 

 「…だろうな」

 拒絶されると予想していたひとりが薄く笑みながら、鋭い眼光を幼い顔立ちを残す女へ向ける。ただそれだけを言う為だけに、ここへ来たわけではないだろうからだ。

 「何を欲しているのかね」

 交渉の席において己の希望や主張を先に述べれば、応対する側につけいる隙を与える。

 沈黙は叶える側に譲歩させる手段のひとつだ。

 老人たちはそれを十分に理解した上で、会話を進めるためにあえて先を促した。

 「なにも」

 月光の中で瞳を閉じていた女が眼をしっかりと開き、老人達を見る。

 「ではわざわざここまで来た理由を聞こうか」

 火拳がこの要請に応えることはまず無いだろうと話しあっていた。なにせモンキー・D・ガープの血縁なのだ。そうそう簡単に、ひよっことはいえ折れぬだろう。

 だが元々海兵だった身である女にとってみれば、政府の管理下に入るとはいえ、悪い話では無いはずだ。

 七武海の要請に応えれば己の身にかかった懸賞金を破棄出来る上、政府公認の私掠も可能だ。青海に海賊として在りながらも、政府側として立てる。海兵としての知名度も高く、今まで築いてきた経歴や経験などを損なわずに使うことも可能だった。

 「わたしは、世界の成り立ちを知っています。けれど今の世界をどうこうしようという気はありません」

 その語りは静かだった。

 「実際のところ革命軍のように世界政府が絶対的に間違っているとも思っていないのです。それよりも、よくもまあ、ここまでゆがんだこの世界の均衡を保っていられるなあ、とあなた方に脱帽し感心するばかりです」

 

 ポートガス・D・アン。

 Dの名を持つ者が今の世界を肯定するとは。

 いくつもの双眸が喜色を浮かべる。その中のひとつ、眼鏡をかけた老人の眼光が鋭くアンを射抜く。

 

 「懸賞金もそのままで構いません。七武海をお断りしたのは、面倒だからです」

 あっけらかんとした物言いに、とある老人の眉が上がる。

 決められた座席は7つ、誰かを退かしその席に着くのは遠慮したい。

 「ですがわたしにしか出来ない、任せたいとある事情、がある事も知っています」

 だから世界政府がアンに受け持たせたい仕事を受けても構わない、と明言した。

 

 「その代償はなにかな、お嬢さん」

 「特には望まないのだけれど。お願いした方がいいならば、何かを考えます」

 老人のひとりが声を上げて笑う。

 「興をそそるもの言いだ」

 Dの血族が中枢に抱かれる事を良しとするなど、今までであればあり得なかった。必ず反発するものであったからだ。今までは、否、今でも、だ。内にあるからと言って安心させてはくれない存在なのがDの血族なのである。今では無いいつか、必ず対合いする側に陣取り、危険因子となる道こそが運命であると言わんばかりに牙を剥く。それがDの血族である。

 「御依頼の際は是非、デイハルド聖を介して頂けるならば」

 

 柔らかな口調で語られる口元の笑みは変わらず湛えられている。

 それは交渉でも勧誘や籠絡の類ではなかった。

 ただ、この場にいる誰もが知る事実に基づいて、相手側が望む願いを叶えても構わない。けれどもそれに付随する利権や優遇、対価すら要らないと言いきっている。

 要は鎖を掛けさせないつもりなのだ。

 五老星が握る手綱の先には虚空のみが在する。実を持つのは、この力を振るう際に必要となるのは、若き世界貴族のひとりであるデイハルド聖と示していた。

 名が挙がった少年は、確かに現、19ある天竜人の頂点に座している。

 それを動かすには体面的にではあるが、五老星であろうとも世界政府としては、膝を折って願い伏せなければならなかった。脅して言う事を聞かせる、などはご法度という訳だ。きちんと理由と目的を説明し、デイハルド聖が諾と言わなければ、ポートガス・D・アンは動かない。

 

 良く考えたものだと、老人のひとりが立ちあがる。

 「小賢しいのう」

 こつこつと杖で床を叩き、ほうほうと笑んだ。

 「褒め言葉として頂きます」

 アンは芝居がかった動きで、ワンピースの裾を上げ礼をとる。

 「返答は急ぎません。ごゆるりと再思三考、下さいませ」

 それでは今宵はこの辺りで。

 現れた時と同じく、会釈をした影はあっという間に姿をかき消した。立っていたであろう場所には、その人物が居た証はない。月光が映しだした虚ろいのような、不確かな言葉だけが老人たちへ残される。

 

 「さてさて、どう料理しましょうかなぁ」

 光が届かぬ闇の中で楽しげな声音が、響く。

 

 

 

 「あのね、デイハルド」

 「なんだ」

 「……婚約者さんに悪いとおもうんだ、やっぱり」

 

 ぺったんこの体をどれだけ見られようが、減るものもないのだが。彼の所有物にされているアンであるが、やはりひくべき一線はあるとおもうのだ。

 そろそろデイハルドもお年頃である。そのデイハルドが来るべき場所ではない、とおもうわけで。

 困った顔をしつつアンは浴槽の淵に座すその人を見た。

 

 夕餉だと用意されていた食事で腹を満たし、献上品だと、いくら要らないと伝えてあったとしても寄こされて増えたという奴隷たちの紹介を受け、そして湯浴みにと案内された場所で香りを落とした湯に浸かっていた所に現れた人物を見上げる。服を着ていることだけが救いというべきか。

 

 「ここは僕の邸宅だ。僕を阻む者など誰もいない。そんなの当たり前だろう」

 おろおろとするアンに、にんまりと両端を釣り上げた口元が告げる。

 「そんな寸胴の胸無しに欲情するほど飢えていない、安心しろ」

 それとも相手をしてほしいのか? とささやくようにつぶやけば、アンの肌がみるみると赤く染まった。冗談だ、といえば頬を膨らませ湯をかけてきたが、そんなたわいの無いやりとりこそが心の潤いを生んだ。「他の場所では老獪(ろうかい)どもが放っている耳がうろちょろとしているんだ。おちおち秘密の内緒話もできない」

 だがここは違う。出口はひとつ、反響する音がある。そう言いながらデイハルドは、そっぽを向きながらもちらりとこちらを見やるアンにさて、何から話そうかと笑んだ。

 

 湯のぼせする前に上がりたいデス。上目遣いで訴える狗に、さあどうだろうな、飲み物は用意しているから大丈夫だろう。そう答えながらデイハルドは杯を手に取った。

 

 以後、色気の無い叫びが何度が湯殿で木霊することになる。

 茹った所有物を主人が楽しそうにバスタオルに包んで出てきたのはどれほどだったのか。ランが時計で確認したのは2時間までだ。

 主人の悪戯も最近は堂に入ってきている。その毒牙にかかることが多い友人にランは同情しながらも、数日間はご機嫌な状態が続く主人を得るための献身に感謝するのであった。

 




大変長らくお待たせいたしておりマス。誤字脱字は明日以降に。

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