ONE PIECE~Two one~   作:環 円

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56-双子岬

 ローグタウンを出発した船は一路、灯台の光が指す一点を目指して進む。

 "導きの灯"と言われているが所詮(しょせん)は灯台の()、最後まで方向を示してくれるわけではない。

 アンは地図とコンパスを取り出し、"赤い土の大陸(レッドライン)"への突入角度を正確に測る。この線引きは間違えられない。なぜなら生死に直結する作業だからだ。気象を把握し、潮流の状況を考慮しながら船という巨大な塊を動かすのが航海士の仕事だ。青雉の船に居た際、副長としての仕事として航海士が提示した航海計画のチェックがあった。わかりません、では通らない。睡眠時間を削って平穏時の航路状態を覚え、立案された海図を見て意見できるようにした。

 海兵になるための寄宿舎に入る、測量室に希望を出している面々が日々、涙を流しながら扱かれていたのを思い出す。

 

 始まりと終わりの町から"赤い土の大陸(レッドライン)"に掛けての海域は海流と気流の関係で、特に天候が安定しない地域だ。海軍時代、幾度も"凪地帯(カームベルト)"を抜けて東西南北の海へ出入りしていたが、共通して言えるのは、"偉大なる航路(グランドライン)"から凪地帯へと吹く風の流れが少ないのに対し、それぞれの方向を冠した海から、凪や偉大なる航路へと吹く、そして流れ込もうとする海流が数多く存在している、ということだ。

 

 人々は凪地帯を恐れる。

 第一の理由としては風が吹かぬ海域であることが挙げられるだろう。この世界の移動手段は船だ。空飛ぶ船など夢物語だといわれているし、飛行機など考えもつかないだろう。入り込んでしまったが最後、動けない。船は風を受けてこそ進む。だが凪に入ればただ海に浮かぶだけの木の塊と化すのだ。凪地帯から脱出するにはかなり大変な作業となる。風の恩恵を受けられないため帆は使えない。大型であればあるほど人力では動かしづらい。こういうとき駆動系を装備していれば楽と言えば楽なのだが、海王類はエンジン音を嫌っている。なんでも突然太鼓を耳元で叩かれたように聞こえるらしい。

 

 普通の船が抜けるには祈るしかないのが現状だ。羽根を生やすことが出来る船ならば別だが。

 ああ、ひとつだけ、あった。父の自称友人が持つ能力だ。あればかなり希少(レア)だろう。能力を封じ込めるというさらに希少(レア)な父だからこそ持てた交友(なぐりあい)だ。

 そういえば最近、浮き島で篭もり、なにやら企んでいるらしい。大人しくしてくれている事にたいして文句は無い。このままじっとしていてくれたほうが楽できる。できればアンが生きている間は浮き島で隠居しておいてほしいと心底おもう。あの人物はややこしいのだ。『東の海』に対し、並々ならぬ執着をもっている。誰彼構わず東の海出身者に呂律が回らぬ威嚇をぶつけてくるのを生きがいにしているのだ。ぶっちゃけ面倒くさい。自分勝手に育んだ友情を歪なまでに歪ませてしまった男だ。父が死んだ海の出身者であるだけで、因縁をつけてくるためかかわりたく無いというのが本音だ。そんなに好きすぎるなら、告白でもなんでもすればよかったものを。

 

 話題がとんだ。

 

 もうひとつの理由としてはその凪地帯に海王類が集中して棲んでいること、だろう。

 海面が静かであっても海中には潮流がある。だがしかし、凪の真下はとても穏やかなのだ。とある魚人に誘われて潜ったことがあるのだが、ほんとに凄かった。なにがすごいって、気性の激しい海王類で有名な角竜魚(だつぎょ)が縄張り意識をまったく感じさせずゆらゆらと泳いでいたのだ。尖ったくちばしのような長い口の中にみっしりと集まったぎざぎざの歯。その殺傷能力は凄まじいのひとことである。船を見るや一刺しせずにはいられないとまで言われるあの凶暴な角竜魚が、普通に他の海王類とすれ違い泳いでいるのである。あれは吃驚した。顎が外れるかとおもった。

 

 そんな海王類たちは凪地帯を産卵や子育て、休日を満喫する旅行客のようなゆったりとした時間を過ごす場所として利用しているようにおもえた。そんな場所に押し入ってきた船といううるさい音をたてるものを粉砕するのは、海王類たちにとって間違いではないのだろう。

 

 アンは肌に感じる、今までの経験と勘を頼りにエースとさくらのふたりに指示を出して舵と帆の調整を行う。

 本来ならば最低でも10名前後の乗組員で動かす大きさの船を、たった3名で操っているのだ。それぞれの負担が大きくなるのは仕方が無い。

 船に乗るのが初めてだというさくらにも過大な労働を課していた。

 行きはよいよい、帰りは怖い。

 まさしくその言葉の通り、命をかけた航海の始まりは初っ端から目まぐるしかった。

 

 始まりの町からリヴァース・マウンテンにかけてはとくに気圧の変化が起りやすい海域だ。諸説あるが、アンが最も気に入っているのは海流が風を呼び込んでいるという説である。世界の不思議のひとつ、リヴァース・マウンテンに待ち構えているのは世にも珍しい遡る海流だ。どこからあの激流を生んでいるのか摩訶不思議以外のなにものでもない。

 しかし今日は、どこまでも晴れ渡る快晴だった。ほとんどが嵐。どんなに恵まれた天候でも曇りがいいところだと聞いていたのだが、見渡す限り青ばかりが広がっている。遠方に黒い雲が見えるものの、風の向きからしてこちら側に寄ってくるのはまだ先だ。きっとこの体験を誰かに話せば羨ましがられるだろう。多くの旅人たちは雨や曇りであの山を駆け上る。そして無事に偉大なる航路へ入れた海賊たちはいうのだ。始まりの山はまるで混沌とした先行きの見えない未来を示すような門出である、と。しかしアンやエースはこんなに晴れたよき日に、あの赤い山を見上げ駆け上り、そして偉大なる航路に入ることができる。なんという僥倖だろう。

 

 「このまま進めば、運河の入り口にまっすぐ入れるはずだよ」

 朝日が昇り始め輝きだした海上を眺めながら、アンはぐったりと甲板上で大の字になるエースへココアを入れたコップを差し出した。ついさきほどまで入り組んだ海流の終着点を探すのに四苦八苦していたのだ。くるん、と船首の向きが百八十度変わったときはどうしようかとおもった。まだ偉大なる航路に入っていないのにもかかわらず、変化する海流の向きにアンは全神経を尖らせ見ていた。落ち着いたのはついさきほどだ。本流が気まぐれを起さなければ、このままの路で大丈夫だろう。さくらにはちみつを溶かし込んだミルクを両手に握らせる。

 「運河に突入できるのはお昼前くらいかな」

 懐中時計で予想時間を告げる。そして自身も薄めのコーヒーに牛乳を多く入れたものを飲みながら、ぺたりと木目の上に座った。

 リヴァース・マウンテンは標高3000メートル級の山脈だ。正確には3848メートル、数年前に世界政府の依頼を受けた登山調査隊が正確な標高を測ったばかりだった。たまにおもうのだが、なぜ長さや重さの単位がインチやフィートではないのかと不思議におもう。アンが生まれ変わりという特殊な環境に身を置いているためなのだろうか。それともまた別な理由があるのだろうか。どんなに考えても正解にはたどり着けないだろうが、たまに、おもいだしてしまう。

 さて、そのリヴァース・マウンテンは冬島に分類され、万年雪が積もるこの山には合計4つの運河が通っている。

 その全ては各海からひとつずつ、"偉大なる航路"へ注ぎ込む流れを生みだしていた。ぶつかり合った海流がそのまま、唯一の出口へ向かって下ってゆく。

 

 エースがシャンクスから、このリヴァース・マウンテンの頂きから見る景色が絶景だと聞きさえしなければ、凪地帯を越えてさっさと偉大なる航路へ入るつもりであったのだ。しかし、そんなに急がなきゃいけない旅なのか、とエースに目尻を下げられ言われては、だめ、とは言えなかった。

 そうだ、アンはもう、海兵じゃない。なのになにに追い立てられていたのだろう。そうおもいなおし世界各地の、とはいっても偉大なる航路内ではあるが景色を見ていこうとなった。

 

 船が逃れられない流れに乗った。

 なんと表現すればいいのだろう。ジェットコースターではない。くるくる回るやつでもない。そう、清流下りだ。丸太型の乗り物にのって最後に水がばしゃー! と掛かる夏の定番である。

 ラインにはきっちりと乗っているのがわかった。これは長年、波に揺られ続けた体の感覚だ。あとは運河にまっすぐ入れる事を願うしかない。

 

 リヴァース・マウンテンは別名、船喰い山とも呼ばれている。

 「ひとつ目の難関だ、って確か言ってたな、前に」

 被っていたテンガロンハットを首に掛け、エースが飲みほしたコップを床に置く。

 「うん。東の海に限った事じゃないんだけどね。山に向かう海流っていうのが3つほどあって、その中の本命に上手く乗せなきゃダメなのよ」

 偉大なる航路の流れはそれぞれ四方の海の海流と違って複雑怪奇に入り組んでいる。慣れれば一定の法則があると気付けるのだが、よほどカンの良い航海士でない限り、入った直後は戸惑ってしまうだろう。かくいうアンもそうだった。

 入口はまさしく航海士の腕と質が問われる。たった3つしかないこれら海流の終着点も読めないのであれば、偉大なる航路によしんば入れたとしても次に待ち構えている、くるくると同じ場所を回り続ける渦に捉まって終わる可能性もある。

 

 そもそもある一定以上の力量を保持していないものたちは、自然に"偉大なる航路(グランドライン)"から淘汰される。それはまるで、資格ある者をふるい分けているかのようにも見えた。船の形状や職業は関係無い。

 四方の海で力をつけた海賊たちはそれぞれの海から細く駆け上がる逆流の瀧を越え、両端を凪地帯に囲まれた"偉大なる航路"前半の海、楽園への戸口へと立つ。そこから指し示される航路は三つだ。記録指針(ログポース)が無ければ偉大なる航路の入り口から動けない。なぜなら普通の、四方の海で一般的に使われている方位磁石が使えなくなるからだ。原因はひとつ。偉大なる航路内にあり続ける磁気だ。

 

 記録指針という道具持っていなければ彼らの旅はそこで終わる。

 RPGによくある、このキーアイテムを持っていなければ、もしくはシナリオをまだクリアしていないので通れませんよ、という難易度の区切りだ。とはいえ偉大なる航路にはいると方位磁石が使えないのは世界の常識である。ちゃんと事前に情報収集しておけば東の海の田舎町で暮らしていても、記録指針が必要だとわかるはずだ。

 覇に至る海に入るための準備を整え幸運に恵まれた者たちだけが偉大なる航路を往く権利が与えられる。

 そしてログによってたどり着く島々からさらに分岐してゆく、蓄積された情報を持ってたどり着くのは赤い土の大陸(レッドライン)である。

 世界をふたつに分ける赤の大地。それを海底に空いた穴を通り抜け、海賊王の称号を手渡す為に待つ存在の元へ繋がる後半の海、新世界へと続く路。

 立ち塞がるのは自然の猛威だけではない。目的をもち偉大なる航路へ入ってくる多くの海賊たちもまた共食いの相手だ。

 

 海兵がわざわざ駆逐しなくとも、全世界で確認されている海賊の半分が偉大なる航路へ入るまでに死を迎え、運よく航路に入れたとしても、またその半分が前半で脱落する。海賊をやめるのだ。その辞めたほとんどが都落ちした島で悪事を働き駆逐されてゆく。

 そしてたどり着く赤い土の大陸。海底洞窟を抜け、そして新世界に運良く入れたとしても、前半の海を渡れる実力を5とするならば後半は10以上という生半可な実力では到底生き残れない場所だ。帰りたいと願い引き返そうとしても、全周囲に死亡フラグが立つ、そんな海だった。だから"偉大なる航路"前半が楽園と呼ばれているのはちゃんとした理由がある。

 

 「おれが淹れて来てやるよ」

 飲み終わったコップをじぃと見つめていた紅の瞳に気付いたエースが、さくらが持つコップを上から掴み上げ、キッチンがある船室の扉へと向かう。自分のおかわりを入れるついでだ。

 「舵見てろよ」

 固定化してあるとはいえ、いつなんどき、暴れ波の影響を受けて海流から外れるか分からない。

 「らじ、せんちょー」

 アンがひらひらと手を振る。

 「…らじ?」

 さくらが真似をし、無表情で手を振る姿を横目で見ながら、エースは扉を押した。

 

 キッチンは綺麗に整理されている。アンの手にかかれば、どんなに散らかっていたとしても丸一日かけて、元の姿を取り戻す。その技術はダダンの家で培われたのだと断言できた。海賊船のイメージからして、雑に荷物を積みあげ蜘蛛の巣やネズミが走っている位が丁度いいのではないだろうかとも思うのだが、整理整頓がなによりの好物である方割れがいる限り、らしからぬ倉庫の姿になりそうだった。

 瓶分けされたココアをコップの中に入れ、少しぬるくなった鉄のやかんを両手で持つ。

 手のひらを炎に変えれば、ぽこぽこと湯が沸いた。

 それを注ぐ。

 ミルクにはちみつをいれ、少しだけ湯を注いでからミルクを投入する。

 はちみつをすくったスプーンはエースの口の中だ。それくらいは入れに来た特権だろう。

 

 エースは体を形作る炎の制御方法を模索していた。

 普段の生活をする分には何も変わりがない。弟と同じく海に嫌われてしまったくらいだ。本当に泳げなくなったのかと試してみれば、海水が体に絡みつくように、それこそ全身に鎖を取り付けられくいぐいと底へ引っ張られるような感覚だった。これはかなり気持ち悪い、とエースはルフィが泣いて嫌がるだけの理由に頷けた。

 これからはエースも気を付けなければならない。

 海中から空の青を見上げるのが好きだったのに、二度と見られないのかと思うと残念でならなかった。食べてしまったモノは仕方が無いのだ。直接の原因となったアンをどれだけ罵っても、生身に戻れる訳でもない。そんな事をするよりも、体と力のコントロールの仕方を早く身につけた方がいいと思うのだ。

 

 炎、という目に見える現象は気体が燃え光と熱を発生させるもの、であるという。気体というのは普段吸っている空気らしく、目では見えない物質だとアンが言っていた。変わって火、とは物質が燃焼する時に発生する現象、平たく言えば、何かが燃える時に見えるものと考えれば分かりやすい。何が燃焼するかによって温度が変わってくるらしいのだが、説明が難し過ぎてエースは途中で考えるのを止めた。

 ようはエース自身の質を高めればいいのだと結論したからだ。高温になるにつれ色が変わるらしいし、まずは赤の上である橙と黄色を目標に据えている。

 光のエネルギーならば、可視光の波長により赤、橙、黄色、緑、青、藍、紫らしく、この順に登っていけば良い、らしい。そこで問題なのはどうやって高めるかだ。

 技の種類は幾つか考えている。まだ試作段階で、実際に形にしてみないことには使えるかどうかの判断は出来ないが、これは何とかなりそうな気がしていた。

 

 「どうすっかなぁ」

 両手にコップを持ち、ブーツを履いた足で器用にノブを回しドアを開く。

 芝生が敷かれた甲板の上で寝転がるふたりの姿があった。空よりも低い場所をアンが指さす。視線を投げれば薄い雲に隠れるように、赤が広がっていた。

 「でけェ!!」

 目を見開き、宝物を見つけた時のように心躍った。ここにルフィが居たならば、ふたり同時に叫んでいただろう。それくらい圧倒的な壁だった。

 正確には山ではあるのだが、こんなに切り立った山など見るまであるとは思えない。

 カップのひとつをさくらに渡した後、エースは一気飲み出来るくらいには温くなったココアを飲みほし、アンへカップを放り、舵を握る。

 「いい流れだ」

 荒波に揺れる船体に足を踏ん張りながらエースは赤の大陸を見た。潮が渦を巻き、大陸へと当たって下へ潜り込む海流が読み難い流れを生む。だがエースは恐れてはいなかった。どんなに手慣れた航海士であろうとも、船一隻がようやく入れる、運河の入り口を見れば身をすくめる。目視できる運河は凄まじい勢いで斜面を登っていた。

 「吸い込まれてるみてェだな」

 「うん…昇り口がねぇジェットコースターみたいなのよ、あれ」

 苦手なんだけどなぁ。アンがつぶやく。

 たまにアンはエースの知らない言葉を使う。ジェットコースターというのもそうだし、上空から地上まで急降下する乗り物とか、意味不明なことばかりを言う。海兵の時はいつも斥候時に上空へ瞬間移動し、落下しているではないか。それが怖くなくて、どうしてその、安全に遊ぶために作られた遊具が怖ろしいのかエースにはよくわからない。体験してみればいいのよ、という助言に従い、その乗り物はどこにあるのかと聞いても教えてくれないところがまた怪しい。アンの頭の中にはいったい、どんな世界があるのだろうといつもおもう。だからこそ側にいて楽しいのだが。

 それにその、ジェットコースターというものに近い経験はしている。

 アンの瞬間移動だ。以前はとくに酷かった。今では地上にほど近い場所へ瞬間移動できるようになってはいるが、最初の頃はほんとうに酷かった。月歩が使えるようになってからは多少、上に放り出されても着地出来るようになったが、何度、海へどぼんと落とされた事かわからない。それこそ両手では数え切れないくらいだ。だからやっぱり上空から命綱無しで落下するのは大丈夫で、船に乗り水路を駆け登るのが怖いという感覚があまりわからない。両手を握り、怖くない怖くない怖くない、と繰り返している様がなんだか逆に可笑しくて笑ってしまう。

 そんなに怖いなら先に壁を側面から渡るかと尋ねながらエースはぎちぎち鳴る、今にも折れそうなほど軋む舵を握っていた。

 「いい、このまま乗ってる。エースと、さくらをお、置いて、なんかい、いけないもん」

 気丈に振る舞ってはいるが、声が震えていた。

 それに比べ意外と肝が据わっているのがさくらだ。上下左右に揺れる船体に逆らわず、手にしていたコップから器用にミルクを飲み終われば、アンが受け取っていたコップも回収し、キッチンへと置きに行っていた。

 戻ってくればちょこんとアンの横に座り、空を眺めている。

 ぐん、と身に感じる加速が増す。アンが航路を計算した突入角度はどんぴしゃだった。海での生活が長いとはいえ、ここまで見事に合わせられる航海士は少ないだろう。

 どうやって作られたのか、10本の入り口を示す門を潜り抜ける。

 波が駆け上がる独特な水音に、エースは笑みを濃くした。

 「行くぞ! "偉大なる航路(グランドライン)"!!」

 

 登りはあっという間だった。出来るだけ右舷ぎりぎりで水路に入るよう調整はしていたものの船にかかる水圧はかなり高い。波飛沫を立て、船は四つの海流が合流する頂上部分で魚のように飛びあがる。舵は打ち合わせどおり真っ直ぐにしていた。ここで大切なのはどれだけ面舵方面に船体を振れるか、である。

 

 アン曰くリーヴァス・マウンテンの怖ろしいところは、この水流がうち合わさった頂きだ。東と南から入るのが最も難しいといわれている。なぜなら九十度以上の鋭角に船を回転させなければ下りに入れないのだ。しかもそれぞれの海から登ってくる激流は暴れ馬以上にひどい。やたら滅多らな流れであるために、予想などつけられないという。だから一発で決めなければ、頂の、ありとあらゆる方向に突き出した岩に激突してしまう。そうなれば木の船など一撃で粉砕されて終わりだ。

 この時のためだけに取り付けた布をエースは紐を引っ張り展開させた。風を受け大きく膨らむ。が、負荷を受けて破けてしまった。

 

 

 だがそれでいい。

 膨らんだ帆のおかげでわずかに船体が斜めになり、どこにも打ち付けることなくくだりの流れへと落ちた。多くの船がここで舵をやられてしまうという。

 

 

 そこさえ無事に通り抜けてしまえば急降下を楽しめばいい。ふわりと体が浮いているような感じがした。

 アンが絶叫しているが、それはどうでもいい。眼下に見える景色にエースは大きく目を開いた。青々とした水面がただ、一面に広がっている。それだけならアンに何度も上空へ連れて行ってもらっており、見慣れていた。しかし偉大なる航路(グランドライン)は違った。確かな(ライン)が見えたのだ。青の海に引かれた目に見えぬはずの太い線が。水平線の向こうには七色の光が見えた。そこへ、その先へと必ず至る。

 

 ここから始まる。決意を新たにしながら、左手に入れた文字のひとつに触れた。長い月日、待ちに待った偉大なる航路に、今まさに入るのだ。

 水しぶきを上げ、加速する船は水面に滑り降りる。

 「エース、とりあえず双子岬に寄ろう。航路の選定もしなきゃだし、お腹すいたでしょ」

 昇りの海流では震えていたアンが、下りになるとけろりとして船内を歩きはじめていた。上昇する短い空白が嫌なだけで、あの尻がかゆくなるような浮遊感は気にならないらしい。

 「灯台守をしているクロッカス医師にも会ってみたいし」

 誰かの紹介かと聞いてみると、違う、という答えが返ってきた。ただ容姿は知っており、花弁のような独特な髪型をした人物なのだという。

 情報源がどこであるのかを何となく想像でき、エースは唯一帆を張っていたミズンマストを閉じに登るアンに目で合図しつつ、海原に飛び出した。舵を左、とりかじに切る。

 

 「ここが双子、岬」

 エースは両岸に立つふたつの灯台を見ながら、がらりと変わった風の匂いに目を細める。

 "偉大なる航海(グランドライン)"の始まりであり、終わりでもあるこの灯台にいまのところ戻ってきた存在はただひとりだ。

 停泊できる岩場を見つけ、錨を下ろすのはアンだ。船の各所を器用に渡り歩き、準備を着々と行う。この手際はさすが海兵だった、と言うべきだろう。

 陸地の方からなにやら複数の声が聞こえてきていた。それをアンも分かっているのだろう。直ぐには動かせないように滑車(ジアー)を固定し、ロープの結び目も知っていなければ解き方が分からない特殊な形にしている。

 「いいよー、固定化したからみんなで上がろう」

 「ああ」

 エースはひょいとさくらを肩に担ぐと、膝を屈め、デッキから跳び上がった。そのまま月歩を使い、鉄梯子が下ろされているその上へ向かう。

 そこには幾つかのテントが張られ、木で出来た円卓と丸太をただ並べただけの簡素な椅子が幾つか見えた。

 「こんな辺鄙(へんぴ)場所でなにを?」

 疑問にはすぐ答えが得られた。本人達から直接聞くまでも無い。なにがあったのか、周囲を見まわし、残る声を拾えばいい。

 木っ端微塵。

 そう形容するしかない惨状がつい6日ほど前に起きた。船員は運河に投げ出され、命からがら生き残った者達が潮目に漂う物資を拾い集め、なんとか陸に上げたようだ。

 

 「ようこそ海賊の墓場へ」

 出迎えてくれたのは話しで聞いていた通りの人物だった。

 灯台守のクロッカス、そう名乗り偏屈そうな眼光を若者らに向ける。

 「わたしはアン、エースにさくら。ここでお昼ご飯、食べさせて貰ってもいいですか」

 「ああ構わん。その代わりわしの分も作ってくれ」

 いいですよ。

 そうアンが応えようとした瞬間、エースは海へと視線を向ける。

 何かが深い海の下から、上ってくる気配がしたのだ。とてつもなく大きな何か、はどんどんと水面へと近づいてくる。

 「その前にやることが出来た」

 クロッカスは座っていた丸太から立ち上がり、海へと向かう。

 その背を見つつ、アンは事情を察したようだった。そして首をかくん、とエースに向かって傾げるともの言いたげにじっと見つめてくる。

 「…わかった。行って来い」

 「ありがとう」

 どうせ何かの声を拾ったのだろう。嬉しそうに崖を飛びおりるアンに気を付けろと声をかけながら盛大な溜息をついた。

 エースはさくらを地面に下ろし、がしがしと髪を掻く。海に入れるならば飛びこむのは自分でありたかったと思いながら、灯台へ流れ着いていた者達が近づいてくる様子を見ていた。男のひとりが声をかける。

 「あの船、あんた達のだよな」

 「……そうだ」

 エースは海へ飛び込んだアンの様子を伺いながら、ぎゅっとハーフパンツを握りしめてくるさくらの頭に手のひらを軽く乗せる。

 「頼む!!」

 勢いよく頭をさげたその男に倣い続いて男たちが頭を地面にこすり付ける。エースは余りの光景に、思わず後ろへ一歩引いた。

 「俺たちゃ東の海でちょっとは名の知れた海賊だった。船は航路の入り口に入ったまでは良かったが、激流に耐えきれず大破した」

 男は続ける。

 「頼む!! 次の島まででいい。おれ達を乗せて貰えないだろうか。何でもする!!」

 

 男たちの懇願もそこまで、だった。

 大きな黒の塊が海から突き上げてきたのだ。

 そして咆哮する。耳をつんざくような叫びが空へと放たれた。否、空にでは無い。この山の向こう側へ、向けられているようだった。

 さくらは目を丸くし耳を両手で必死に塞ぐ。その顔は以前アンに見せて貰った、ムンクの叫びという絵にそっくりでおもわず爆笑してしまったのだ。そういうエースも人差し指を耳に突っ込んで、空気を震わせるそれが終わるのを待つ。

 

 クジラという種は主だって温厚な生きものだ。仲間と交信する際に海の中に放つ音波はあれど、ここまでもの悲しい声をあげる例はないだろう。

 ざぶんと大きなしぶきを上げるクジラの中へ入った花の老人と、眼元の上に乗ったアンに注意しつつ、耳を押さえていた男達がぽつぽつと話し始めたそれを聞く。

 

 彼らは運よく生き延びたものたちだった。船長をはじめ航海士は死んでしまったが、雑用数名がこの岬へ辿り着いた。

 故郷に帰ることも考えたが、クロッカスよりこの海の法則を聞き、脱出が困難だと判断したという。偉大なる航路の両端には凪地帯が広がり、そこを越えない限り故郷には帰りつけない。

 基本的に偉大なる航路へ一度入ってしまった者は、1周巡らねば元の故郷には戻れない作りになっているのだ。だから花のジジイが言った『海賊の墓場』という言葉はあながち間違いではない。しかしながら海軍の船やその他物資を運ぶ蒸気船など例外がいくつかある。次の島にもし、東の海へ向かう物資船が停泊していれば、故郷に戻ることも可能だ。

 「どうするかな、別にかまわねェとはおもうけど、アンに聞いてからだな」

 念のため、エースは頭を下げている人物達に釘を刺す。

 「考えてもらえるだけ、ありがてぇ」

 

 そしてクジラが再度出現する。初っ端よりも大きな叫びを上げていた。

 さくらが耳を押さえ、その場にうずくまった。ゼロ距離で音の波を受けたであろうアンが、ちゃぽりと海へと落ちたように見えた。

 思わず海へと飛び込みそうになり、エースはつんのめる。

 (いや、大丈夫。耳鳴りはしてるけど)

 アンは黒光りする肌になんとかしがみついていた。超音波により脳が揺れているような気はするものの、その他はきっとたぶん大丈夫だろう。

 (必ずその想いは叶うから。だからあまり、ね?)

 

 ぶくぶくと泡が弾けた滴がじゃばじゃばとアンに降り注ぐ。どうやらクジラはまだご立腹のようである。

 クジラにはとても大切にしている存在たちがいた。音楽を愛し楽しげに、そして高らかに音を鳴り響かせる人間達だ。幼い頃に出会い、この双子岬までいっしょにやってきた。けれども彼らはくじらをこの岬に置いて行ってしまった。ここから先はとても危ないから、と。かならず戻ってくると約束して彼らは旅立っていった。そしていく数年が経ち、くじらは成体になった。けれど彼らは戻ってこない。

 

 クジラは海に住む哺乳類のなかで最も知能が高い生き物だ。人間の感情も読み解くほど感受性が豊かであるという。

 クジラは鳴いていた。細く、長く、泣いていた。

 

 (あんまりいじめてやるなよ)

 (え……あ、っと、その)

 

 理想や夢を追いかける男とは違い、女は現実主義者が多い。生きていくために必要なものを知っているからだ。夢を追いかけるのならば衣食住が乏しくなっても、そして睡眠時間を削っても構わないとおもう男は多い。だが女は時としてそんな夢見る男を容赦なく奈落のそこへと突き落とし現実をつきつける。

 きっとあのクジラは雄だったのだろう。なにがアンの癪に障ったのかはわからない。だが結果的にぐじぐじと女々しく泣いていたクジラに喝をいれたのだ。

 

 ちょっとした未来をみせただけとアンは言うが、見せられる方としてはたまったものでは無いのだ。弟があのクジラをなんとかするらしいが、この双子岬に来るまであと三年は固い。

 なにを見せたのかはあえて聞かなかった。

 懇願された男たちについて聞いてみるとしばらくの沈黙ののち、エースの判断にゆだねると返答があった。

 紛れもなく確認のために読んだのだろう。そして問題ないと判断した。

 

 仲間が増えるならば食べ物を獲ってくると声が聞こえる。

 火の準備はお手のものだ。

 数分後、エースの頭上に放り投げられたのは赤くてのっぺりとした顔面をもつクレナイオオフダイだった。

 

 賑やかな食卓が、もうすぐ始まる。

 




 * クレナイオオフダイ 滅多につれない大型の超高級魚。希少な魚なので出会った時はすべて旬である。

7/20 誤字の指摘ありがとうございます。




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