ローグタウン。
別名、始まりと終わりの町。かつて海賊王ゴールド・ロジャーが生まれ、そして処刑された終焉の地として数多くの書籍にも名が連なっている。そして東の海から
海賊王。
青の海で生存し続けるには、力を示し続けなければならない。あるいは幸運でもいい。
揺れ動き続ける船の上で、唯一の足場とし家とした船の上で、生きている事を主張しながら生き抜くだけの力を証明し続けなければならない。
アンは白い衣に身を包んでたくさんの船を見てきた。
幾つもの船を沈めてきた。
数えられないほどの命をこの手で
それは海兵だったからこそ許された事だ。
しかしこれから行う全ては、ただひとり、個人の所業となる。
ペルシアナで補給物資を積み込んだあと、アンはローが願った町へ飛んだ。フレバンスの跡地ではない。彼の父と文通を行なっていたという悪友が住む北のはずれだ。病が町を苛んでいた最中にも一家でこっちに移り住んで来い、手段はあると書き綴ってくれていたらしい。アンはその名を聞き、ふとおもいうかべた事柄があった。とある北の町には海軍内でもかなり有名な変人が住んでおり監視がつけてあった、とある報告書を見ていて知っていたからだ。報告書を入れる年度の箱が間違えていたのだろうか。なんとなくローの話を聞いているとまだ住んでいるらしい。どういうことだろうとおもいつつも深く考えずローと、指定されたその町から少し離れた場所に降り立った。エースは留守番である。唇を尖らせ一緒に行くと拗ねたが、なだめすかしエースのわがままを何でもひとつ聞くという約束をしてなんとか船に残ってもらえた。
船を泊めたペルシアナとは真逆の季節だった。
今、東は春と呼ばれる気候区域がゆっくりと、赤い土の大陸に添って進行中だ。ふたりの服装もそれに合わせて半袖だったり長袖に着替えたりする。ローを送り届けた町は丁度秋にさしかかろうとしていた。北の海は冬が長く夏が短い。これから厳しい冬がやってくる。幸運にも着ている衣服の違和感はなかった。夏の服装で冬に突っ込むのが一番厳しい。笑い話になるだろうが、水着のまま冬の地域にテレポートしてしまい散々な目にあった事もある。
別れの時、ふたりはローとひとつの約束をした。
「必ず会いに行く」
ローは挑戦的な視線を双子へ向け、自らの欲しているものを告げた。
普通は誰もが訳の分からない顔をしたり、笑い飛ばすが、ふたりは拳を目の前に突きだして言った。
「先に行って待ってる。高みで会おう」
3つの拳が打ち鳴らされる。目的地が一緒だったのだ。広い海のどこか出会おう、など幾千幾億の砂の中に隠されたたった一つの貝殻を見つけ出すようなものだ。しかしローはふたりに会いにゆく、と言った。新世界まで駆け上ってくると断言したようなものである。
ロー少年の求めているものはかなり難易度の高い希望だ。果たせるか否かはこれからの準備にかかってくるだろう。信じあえる仲間を集め、周囲の協力を仰ぐためにその手を汚さなくてはならない。そしてそんな己でも手を繋いでくれるという奇特な協力者や友も必要となってくる。
男の決意はそう簡単に覆せるものではない。だがロー少年が持つ力は、彼の能力を深めるのに適したものだった。誰よりも早く空間の把握さえできれば、もっと上手く立ち回われるようになるだろう。アンにしか出来ないとおもわれた無双も、ロー少年には可能であった。今はアンだけの十八番である生きている人間から心臓を部分転移させ潰す、という荒業もそのうちものにされてしまうにちがいない。出来るならば命を救う手段としてほしいが、手のひらを真っ赤に染め上げているアンが言える言葉ではないだろう。
そもそもローが医術をその手に習得したのは家が医者をしていたから、父の跡を継ぐためであったが紆余曲折を経て今の形に納まっている。運命の悪戯か、はたまた神の采配か。祈る神を持たぬアンではあるが、世界の意志がどこへ誰を連れて行きたいのかはだいたいわかっているつもりだ。
口出しをしないほうが、いいのだろう。
けれど、とおもい、迷い悩んで口を噤んだままため息をつく。
北の海にきてアンは理解した。違和感の正体に気付いてしまった。
と、いうことはエースも当然、おかしいなと少しはおもうわけで。もやもやとした感情が流れ込んできていることにさらなるため息をつきたくなる。
ロー、彼の意思を継いで、果たしたあと、どうするつもりなのかな。
アンは心の中でそうおもう。
ロー少年はきっと自力でこんがらがった糸を解ききるだろう。ルフィのような力技ではなく、ひとつずつ事実を照らし合わせパズルを組み合わせるように過去を知っていく。
今の段階で伝えられるものはなにひとつない。
Dという名の意味、そして彼の一族だけが持ち得るワーテルという強い意思が込められた祖先の願い。
まだ、早い。
言うだけなら簡単なのだ。しかし安易な発言はローという人物を壊しかねない。
年を得てたどり着いた土地にて彼は歴史の改ざんによって付けられた名の傷を知るだろう。けれどそうではないのだと本当は伝えたい。
けれど知るのはまだ、早い。
別れの挨拶を交わす。そしてゆびきりを、した。子供っぽいだろうか。そうおもいながらアンから小指を伸ばせば、ローは躊躇無く指を結んでくれる。
「ああそうだ、ロー」
アンは今おもいついた、とでもいう風にとある隠れ家の経度と緯度を口にする。機会があれば、否、アンがそう口にすれば必ずローはその場に行かざるを得なくなるだろう、との憶測を込める。
センゴクが誰とアンを重ねていたのか。それを知るために調べていたことがここに実った。だからローが彼の残したものを受け取るべきだとおもったのだ。
アンはその場にローだけを残し姿を消した。何かを尋ねられる前に消えなければ、質問攻めにあうのは必至だ。ローはきっとサボと気が合うだろう、そんな感じがする。本能で必要とするものに齧りつくルフィとエースとは違い、あのふたりはどちらかというと理詰めにしてくるタイプだ。議論は嫌いではないが、今は危険だ。知る必要の無い情報までぺろっと出しかねない。
次に会う時は敵か味方か、それとも盟友となり刃と酒を交わす間柄に、もしくは憎しみをぶつけ合う仇敵となるのか。それは再会してみないとわからない。
小指に残る感覚を握りしめる。必ずもう一度、出会うと、そう契った指を信じて前に進むのみだ。
ふたりへと戻った双子は昼食を近くの露天で買い、そしてとある場所に電話をかけ、すぐに海原へと出た。
海や空の色は変わらない。澄んだ青が続いている。けれども風が変わったのを確かに感じた。
優しく包むような柔らかさではなく、冷たく鋭利な人の悪意に色と形を与えたらそうなるだろうなという、尖ったような強風だった。ああ、現実に戻ってきたのだ、そうアンはとげとげしいそれらにほっとしてしまう。決して苛められて嬉しくおもう性癖など持ってはいないが、しかし幼少の頃から置かれていた環境のせいか、なぜか安心してしまうのだ。死に近ければ近いほど生きているという実を感じられるからかもしれない。
「なぁ、アン」
「ん?」
エースは舵をとるアンをじ、と見つめる。アンもわざと視線を合わせなかった。
「今の段階でおれが、知っておいたほうがいいことってあるのか」
質問の意図がわからず、息を詰める。するとエースは、あいつと会った、と捨てるように言った。
あいつ。それが誰を指すのか。アンは即座に理解した。
「聞きたいこと、ある?」
「ねぇな」
「ん、わかった」
ならば、いい。
それからふたりはただ静かに海を渡る。
ペルシアナからローグタウンへは風の恩恵を受け二日で到着することができた。危惧していた海軍の船ともかち合わず、順調な船旅であった。
さすがに大きな町、観光地であるため人の数が多い。ふたりは混雑する市街地へ直結している大型の船着場ではなく、中型や小型が集まる少しばかり離れた場所にある停泊所に入る。
都会なだけあり、少々離れていても不便が無いようにきっちりと配慮されていた。例えば人々が行き交いやすいように広く取られているし、商店が区画ごとに分かれて並んでいるらしく、あちこちに案内板が設置されている。身分制度があるドーン王国とはえらい違いだ。
この町は治外法権が認められている。完璧な民主主義とは言えないが、議会があり何年か一度に行なわれる選挙で決定権をもつ議員が選ばれていた。そのためこの町に住んでいる人たちの声が反映されやすいという利点がある。ただ何かが起きたばあい責任の擦り付け合いがおきる、これが弊害だろう。
ゆっくりと入った港で船舶料を払い、エースが岸にロープを繋ぐ。基本船乗りは半舷上陸が基本なのだが、ふたり旅をしているがゆえの不都合というのだろうか。小さな港であれば船着場を管理している人物に心づけをはずめば短時間であれば看視してくれるが、こういう大きな港だと盗難も頻発するため心づけ程度だと難しいのが現状だ。
しかしローグタウンにはアンの知り合いが少数であるが居る。こっそりと電話してみれば、いいよ、と引き受けてくれることになった。
「アーちゃん、お待たせ!」
「シリンちゃん! ありがとう、待ってたよ! その髪飾りなに、手作り? かわいいじゃない」
「新商品なのよ、アラタガ産の海浮石を使っているの。おひとつどお?」
おもわずエースは瞼を瞬かせた。アンが町の、若い女のようにはしゃいでいるのを見たからだ。
二度見、する。目を擦っても景色は変わらない。エースはそんなアンに苦笑してしまう。エースが知るアンは同世代と比べずいぶんと落ち着いていた。輪の中にも入るがそれよりも一歩外側に出て周囲を見回し、馬鹿騒ぎするエースやルフィに注意を促してくれる存在だ。どんなことでも出来るくせに器用貧乏だと言い、エースの方がこんなにも凄いと支えてくれる。海軍に居た時もそうだ。自分にできることを増やそうと背伸びをし、ほんの少し上を目指していた。
船番を頼んだ人物はこの町にあるとある商会の娘さんだという。時間通りにやって来た彼女とアンがひそひそと内緒話にはいる。
(お礼の品として要求しようとおもっていたマリーウェンレットのブラウンケーキは3時間待ちが普通になっちゃったので、他のものにしたいとおもいまっす)
(えっ、なんでそんな)
(無意識ですか、そうですか。アーちゃんはいつもそうよね。わかってた。なにも考えずに美味しかったと言っただけなんでしょうけど)
(えっ、いや、まあ、好きだし。食べられるし。お土産に丁度いい大きさだなぁって……まさか、)
(ええ、海兵さんたちにとぉーっても人気なんです。かくれんぼ中なんでしょ、現在進行形で)
(おういえー、そうなんだけどさぁ)
ちらりとシリンがアンの肩口からエースを伺い見る。
(で、あの三枚目が双子の?)
(うん、そうエースっていうの)
(意外と愛嬌ある顔してるのね、ふぅん)
なにがふうん、なのだろうか。アンは首をかしげながら大体の目測を告げた。
滞在予定はだいたい3時間ほどである。
「時間つぶしに本を持ってきているから大丈夫。エース、はじめましてシリンよ」
「アンが世話になってる」
「こちらこそ。じゃあ待ってるから、見つからないように楽しんできてね」
シリンはふわふわとした柔らかい雰囲気の少女だった。アンとはかれこれ二年ほどの付き合いになるという。
義祖父の部隊に居た際、知り合った。
「出会いはまあ、普通かな」
エースとアンは船着場から出、話をしながら路を歩く。持ち出した荷物はひとつだ。
シリンが言っていたかくれんぼもとい海軍主催の鬼ごっこはたぶん、まだ継続されているだろう。
ブランニューに電話をかけたとき、あまりにも激しい動揺っぷりに申し訳なさの方が先立った。海兵という職を辞したことに後悔はない。だが自分を慕ってくれている多くの人物を置き去りにした、と言われてしまうと罪悪感が顔を出した。
とはいえ戻るつもりはない。アンはエースと共に新世界へと至り、そしてラフテルへ往く。そして父がエースにだけ語った伝言の確認をするのだ。
しかし。この町にはやっかいな相手が居た。海軍本部から直々に送り込まれた
アンも彼を知っている。味方であれば頼もしいのだが、敵となればなかなかにやっかいであった。
そもそも海軍本部所属の海兵は、海と陸の区切りによって四つに分断されている海で採用される海兵より強い者たちが多い。資質や才能が認められれば本部に推挙されるのである意味、奪われているともいう。なのでこの町にいる海兵たちは今までとはちがい手ごわいぞ、と言いたいのである。
「あ、でも。そろそろ交代人事、かかっていたような気が」
日程までは覚えていなかったが、あるのは間違いない。面倒臭さが二倍になった。
なにを悩んでいるのかさっぱりわからないエースはアンのつむじを見る。なにがあろうともいつものように突破すれば言いだけの話だろう。なにをそんなに迷っているのかと考えれば、そうだ、こいつはつい最近まで海兵だったのだと思い出す。
「まずは飯だな」
考え事をするまえに栄養を取るべし。そうしなければ途中で眠くなってしまいかねない。
「その前に、換金。お金が無いとご飯も食べられないんだからね」
「ん、わかってる」
エースは素直に頷いた。
アン曰く、マキノの店が例外なのだという。それはそうだろう。食い逃げされ続けたら店などやっていられない。とはいえ弟とどこかの店に入ると、宝払いが基本となる。
人間の社会はこまごまとしていて面倒だ。生きるか死ぬかの森のほうがよほどシンプルだとおもう。しかしエースは人間として生まれた。海へ出てひとつ、わかったことがある。暗闇の中で舵をとりながら星を眺めていると、ひとりでなくてよかったと安心したのだ。死んでもいいと考えていた。誰にも必要とされない、生まれてこなければ良かった命だ。アンが居たからこそ生きていた。友が出来たからこそ目標ができた。弟ができたからこそ先にいこうとおもえた。
もしかしなくともエースは、ひとりであったとしても海に出ていただろう。
海が繋ぐ縁もあるのだ。それをエースはアンという存在を通して経験している。ひとりであったならばもっと波乱万丈だっただろう。大きな波ひとつでひっくり返る船に乗り、この海原を渡ろうとしていたに違いない。なぜならば自分自身の命に執着していないだろうな、とおもえたからだ。
エースが傷つくとアンがその痛みをもってゆく。それも自然とエースに気付かれることなくこっそりと抱き込んでしまう。だからエースは怪我ができなかった。エースさえ体を大事にすれば、アンは無茶をしないからだ。
小さな体だ。
ふたりで分け合ったはずの栄養を、エースがひとり取りしてしまったかのような気分になる。
子供のようだとはおもわないが、抱き上げるとかなり軽い。今やルフィよりも小さいのだ。本人はこれでも十分育っていると主張するが、実はダダンもあんな細腕でやっていけているのかと密かに心配していたくらいだ。
こっちだよ、とアンがエースの手を握り、引いた。
どうやら裏道へと入るらしい。海賊船から押収した物品を売る店に行くのだという。表の店は観光客向けで、煌びやかでひと目を引く商品が飾られているが、盗品関係の買い取りをしてくれる店舗は無い。例えあったとしても足元を見られ、二束三文で買い叩かれてしまうのだとか。海賊から頂いた物品であっても、元は誰かから奪った品であるのは変わりないからだ。そこそこ危ない品が紛れ込んでいる場合も多い。しかも持ち込んだ品がどこかの誰かさん所有の、おたずね品ともなればすぐさま海軍が押し寄せてくるらしい。
海兵視点の話は聞いていておもしろい。
エースを取り巻いていた環境とは全くの正反対であったからだ。
海軍には鑑定室という特殊な部署がある。
アンは主に先陣をきり海賊と戦う最前線が職場であったが、捕らえた海賊が住みかに溜め込んだ品々を鑑定する者たちもいた。本物のお宝などそうそう滅多にお目にかかることなどない。あるとしてもテレビの中だけとおもっていた時期が、アンにもあった。しかし海賊たちの船からわんさかと金銀財宝が発掘されるのを見て、認識を改めたほどだ。
目利きたちは天竜人の船から奪われた手配品を発掘すると、アンのもとに送ってきた。本来であれば元帥の名で世界政府の海軍窓口へ送られるのだが、ここ数年は煩雑な処理をすっ飛ばした返還がなされている。アンというマリージョア直通の手段があるのだ。使わない手はないと海軍のあちこちからお呼ばれされていた。
アンは歩き慣れた道を行くように薄暗い路地へと踏み込んでゆく。そこはレンガで造られた建物が両端に連なる細い道だ。来たことの無い場所であるのに、エースは妙な感覚を得ていた。歩いたことがあるような気がする路、だったのだ。
「なあ、アン」
「ん?」
「変だ、おれここ知ってるかも知れねェ」
端町と同じような匂いがしているのは確かだ。辻の端に座り込んだ、鋭い目つきをした男達がこちらを値踏みするように視線を絡めてくる。
しかしふたりはそれらを無視して歩く。しかもその様子は表の路を歩いている時と変わらない。予定していた道とは違ったが、行きたい場所を伝えるとエースは、それならこっちだ、とアンの手を引き歩き出す。
幾つかの辻を曲がり、あともう少しで目的地に到着しそうだという所で、背広を着た恰幅の良い男が真一文字に唇を結んで往く手を阻んだ。
「ここから先は私有地だ。立ち去れ」
一般人ならば威圧に負けて引きさがるだろう。だがアンにとっては、微風もいいところだった。男が阻むその先が、目的の場所だと暗に教えてくれているようなものでもある。
「わたしはこの先に用事があるの。Mr.ジョワイヨにお会いしたい」
男は表情を変えず、沈黙したままだ。
「ポートガス・D・アンが会いに来たと伝えなさい」
周囲から感情のざわつきが聞こえた。
しばしの沈黙後、こつこつと石畳を打つ靴音が響く。
男の後方からもうひとり、同じ服装をした浅黒い肌をした人物が姿を見せ、こちらへ、と手のひらを進みたい方向へ向けた。
「お前」
「まあ、それなりに知名度はあるんだ」
こういう時に使わねば損だと笑う。案内された場所はすぐ側だった。男に止められた通路をすぐに左に曲がったところにある扉だ。
促されエースが取っ手を握って押す。
「なんだ、ここ」
初っ端から見たことの無い装飾が目に入る。赤の中に散らばる様々な彩色のカーペットが敷かれ、路は続いていた。歩いてゆくと執事が立つひとつの扉へと行きつく。
恭しく
「ようこそ、英雄候補さん。お会いできて光栄だよ」
通路とはうって変わり、質素で使いこまれた家具が並ぶ部屋には、齢を重ねた老人が独り座っていた。
「初めまして」
にっこりと笑み、アンも挨拶を口にする。
「くどい挨拶や腹の探りあいはやめておこう。可愛らしいお嬢さんが一体このわしに何用かね」
わざわざ海兵として轟かした名を使い、半ば脅しのように道を開けさせた無謀さに敬意を表して老人は若者を招いた。どんな用件を持ってきたのか、聞いてやろう。下らないものであれば、退出して貰えばいいだけの話だ。
英雄の孫、という呼び名に胡坐をかき優遇されていても、裏の社会においてはなんら役に立たぬものなのだと知らしめるのもいい。
アンは息を吸う。策など練らなくてもいい。実をそのまま語ればいいだけだ。
「フォー・オブ・ア・カインド」
ジョワイヨは役の名にぴくりと眉を寄せる。それはポーカー・ハンドだった。
「あなたはハートの6とクローバーの3を捨てた。対してこちらは全てを変え、コインを残らずベット」
言っている意味が分からなかった。
だが、いつ行われたゲームなのか。思い付く節に、疑問符が生まれる。
「あなたはストレート」
だけれど、こちら側はフォー・オブ・ア・カインド。
「4種類のAと、抜いたはずのジョーカー。テーブルには確かに2枚のそれがあり、いかさまをした気配も無い」
すらすらと滑(なめ)らかに口を滑らせていた存在が口元に笑みを形作る。
「賭けたものは…」
「…どこでその話を聞いた」
静かな声だった。しかし場の空気はこれ以上ないほど、張り詰めている。
エースは黙って周囲を警戒していた。なんの考えも無しにここまで来る訳が無いからだ。双子として生まれたが、片一方だけが知る情報や記憶もある。見たことも聞いたことも無い何かがあるとは知っていた。
「直接本人から」
あり得ない。
ジョワイヨは頭から否定した。しなければならなかった。
彼はとうの昔に死んでいた。その死の瞬間を見ていた。
目の前に立つ人物の年齢からしてそれはあり得ない。
「嘘をつくのはやめなさい」
感情を抑え、努めて平穏を装うが声が震えているのは否めなかった。
「今度会うまでには考えておく。それが何十年先になっても有効だろ、ジョア」
老人は目を見開いた。
おれが死んだ後は…そうだな。カードの名を持つ奴等の言う事を聞いてやってくれ。
あの日の声がそのまま、耳元で聞こえたような気がした。
「まさか」
「母の姓名を名乗っています」
余りにも有名すぎる父の名は、口に出来ないからと少女が見上げたのは、横に立つもうひとりだった。
「…エースだ」
小突かれてようやく名乗ったその声を聞けば、老人は腹の底から笑い始める。
「そうか、船長の。いやいや、長生きはするもんだなぁ」
こんなびっくり箱をこの歳で受け取るとは思わなかったとひとしきり腹を抱えたあと、手を叩き茶の用意をするように伝え、ふたりへ席に着くよう促した。何事もハデに、戦いだけでなく、宴も遊びも、何もかもを面白おかしく、ひとときでも気を抜けばとんでも無い事を起こしていた男をジョワイヨは懐かしく思い出す。
「この爺は?」
ようやく場の緊張が解かれた後、エースがアンに訊ねる。
「ジョワイヨさん? お父さんの船に乗っていた人だよ。物資調達を一手に引き受けていた縁の下の力持ちなんだって聞いてる」
ふうん、とただそれだけ答えると、アンを見習い沈み込む椅子へ嫌な顔をしながら座った。
「まずは、用件を聞こうか」
ジョワイヨは用意させた紅茶に口を付けながら尋ねる。
ふたりが敬愛していた船長の落としだねだというならば、聞いてやらねばならなかった。
「あなたを含む全てを、わたしたちに下さい」
「は?」
何言ってんだお前、と反応したのはエースだった。
「けっこう有名な話なんだけどな。聞いたこと無い? ジョワイヨさんが持ってる情報網は裏の市場に対してかなりの影響力をもっているの。それにジョワイヨさんが抱える組織の支援があると金策のために海賊船を襲う手間も省けるし、情報も仕入れるの簡単になるし、一石二鳥なのよ」
「裏か」
「うん、裏のいろいろ」
「そっか」
双子のやり取りを見つつ、ジョワイヨはおもわず笑みをこぼす。こんなに笑ったのはいつ振りだろうかという位、腹を抱えた。
わしを手に入れてどうする、という問いをわざわざしなくても良くなった。実情をどうやら、分かっての発言だと把握したからだ。なんともわかりやすい真っ直ぐな、青臭い交渉ではないか。このところ面白くも無い取引が続いていた。乗ってやってもいいだろう。
「君たちのバックアップをすればいいということだね」
主に金銭関係と物資について、と言葉を付け加えれば、アンがこくりと頷く。
「最短の半年で新世界に入る予定なので、宝探しをしたり、敵対してきた海賊の処理をしている暇がないんですよね」
考えあぐね、どうしようか困っていた時に現れたのが父だった。
まるで見計らったように、今現在、困っている頃合なんじゃないかと、あの、いつもの憎たらしいまでに楽しげな顔をして語りかけてきたのだ。
(まさかエースにまで接触してくるとはおもわなかったのだけど)
エースが小さな声を拾い、なんのことかと考え、見当が付いて口元に笑みを浮かべた。
絶対にそうなると疑いもせず、話を勧めるその声がなぜかかつての日々を思い起こさせる。ここで断る、と言われるとは思っていない態度だ。
ふてぶてしいまでの自信は船長譲りなのだろうかと、ジョワイヨが笑顔の奥で考えた。
聞いていた話と随分と違う。
ゴール・D・ロジャーは魅力的な人物だった。この人にならば全てを預けられる。そう信じ、頼り、いつしか船長の夢がジョワイヨの果たすべき現実となった。
最後の日の事を今まで忘れたことなどない。船長の最後をしかと今は老いぼれた両眼に焼きつけた。
それと同じ、今からもっと育とうとしている存在が現れた。会ってしまえば惹かれざるを得ない。ふたつの違った輝きは、今まで手にしてきたどんな装飾品よりも気高く美しい。それをどうやって汚してやろうかと、手に入れた立場がもたらした安定により凪いでいた感情があわ立つ。
ものは試しとジョワイヨは跡を継ぐのかと尋ねてみた。そうればたぶん、とそうだ、が重なった。
「たぶん、ってなんだよ」
「だって。わたしはあの場所に何があるのか大体知ってるし、一応だけれど航路も知ってるし、別に名前なんかどうだっていいもん」
エースがその称号を取りに行くというならば止めないし、一緒に行くだけの話だと笑む。
聞けば生みの母も死去しているらしく、ガープが育ての親となってふたりを養っていたのだという。いやはやこんなところで海軍の、いくら叩いても埃の出なかったガープを穿つ情報が転がってくるとはおもいもしなかった。さすがに全ては語らぬか、と話題を差し向け、ほくそ笑みながらジョワイヨは後援を承諾した。
「手の者らには連絡を付けておく」
ついでに換金して欲しいと、先ほど席に着くと同時に渡した戦利品の話をしながらアンは紅茶に口を付けた。
奥の方でジョワイヨの部下が選別してくれている物品の現金化が終われば用件は終わりだ。
「ふうん、海賊ってもっと自由に出来るもんだと思ってた」
「自由だよ。少なくとも船長は誰よりも、なによりも自由だった」
あの人ほど自由を謳歌した人物は存在しないだろう。なにもかも他人任せだった。金の工面も物資の調達も。しかしあの人は誰もが大人になってゆく過程で捨ててゆく夢を握り締めていた。握り締めた夢を潰すことなく実行に移した。だから誰もが放っておけなく、独りで突き進む背に手を伸ばしてしまうのだ。止まれ、と。せめて、副船長を待てと。共にいきたいのだ、あなたと、あなたが望むその扉の向こう側へ。
ああ、懐かしい。
あの時がジョワイヨにとって人生の絶頂期だったと今なら言える。すべてが楽しかった、生きているという実感を確かに得ていた時間へと戻ってゆくかのようだ。
「終わったようだな」
ガチャリと奥の扉が開き、複数名の男達が入って来た。その中に毛色の違うひとりが紛れ込んでいるとふたりは気付く。薄い、桜のような髪色をした人物にエースは目を奪われた。珍しい、だけでは済まされない色だ。作られた色、と脳裏に走る。
ジョワイヨは耳元で報告を受け、ふたりへ語りかけてきた。
「色付け無しでこれだけの値がついた」
金額は1500万ベリーほどだった。それだけあれば当分はなんとかなりそうだ。
椅子からアンが立ちあがると、少年を紹介された。
「これを連れて行って欲しい。わしとのコネクションだと思ってくれて間違いは無い」
世界各地、そして"
名前はない、という。
「分かりました。それではこれで」
アンは少年へこっちにおいで、と呼ぶ。
エースが意味に気付く前にこの場を去りたかった。元、父の仲間だったからといって双子に好意的であるとは限らない。現に彼が持つ組織には冷徹な部分も多かった。まだ海賊の方がましだとおもえるほどに。この少年は言わば、組織の部品であり商品だ。生きているが、意志など必要なく、ただ言われた事をこなすだけの人形である。
人がゴミクズ同然として在るゴア王国の、
アンは現金を受け取り、エースと少年を連れ、入ってきた扉を出る。
人は変わる。変わってしまう。変わらざるを得ない。
分かってはいたが、分かっていなかったのだと、同じ思いを繰り返しながらアンは光満ちる場所へ跳んだ。父と旅していた頃のおもかげなど、彼から微塵も感じられなかったのがなんだか悲しかった。
そしてまず向かった店が食堂だ。裏通りから表へ。
座ったのはもちろん、カウンターだった。
メニューを見ることなくエースがおすすめ全部、とだけ指定する。さてどれだけの量が出てくるのか、とアンは追加注文した水を飲みながら小さく息をついた。肉類だけでも購入、ではなく狩猟したほうが懐には優しそうだ。
「腹減ったぁ」
頬をカウンターの上に乗せ、だらしなく背を丸めているエースにアンは笑む。エースはああいう交渉の場があまり好きではない。互いの思惑が絡み合う交渉の場であればまだ良かっただろう。だが今回の突撃訪問は交渉などではない。立派な押し売りだ。父が約束事を交わしてくれていたとはいえ、ただの口頭である。本人であるならまだしも、その子供を名乗るアンへ果たす義務などジョワイヨにはない。しかしアンはあそこへ行かねばならなかった。
どうしてもつけねばならない時限爆弾があったのだ。早まることはないはずだが、どかんとなる前に回収しなければならないだろう。
「好きものはある?」
ふたりの間に少年を座らせ、アンも肘をつく。あの場所に居たのはせいぜい三十分程度だ。懐中時計を開き確認する。腰を上げた時も別段引き留められはしなかった。
アンは彼を信用している訳ではない。使えるものは使う。ただそれだけだ。
改めて少年に名前を聞けば、本当にない、という。一度も名称らしきもので呼ばれた事が無く、おい、や、お前、で済まされていたようだった。
「じゃあさくら、って呼んでいい?」
男の名にさくら、は少々おかしいだろうかと思いつつも誰も否定しない。ちらりとエースがアンを見たが、口に頬張り過ぎたスパゲティを咀嚼している最中だ。
「あなたの名前はこれからさくら、ね。よろしく、さくら」
「はい、ご主人さま」
次いで届いた、肉がゴロゴロと入ったピラフを口に運んでいたエースの手がおもむろに止まる。
「ひゃんらっふぇ」
「ん、いいたいことはわかる。けど食べ終わってからにしようね」
こくこくとエースが頷くのを確認してから、アンはさくらへと微笑んだ。
「わたしのことはアン、エースの事は、エース、そう呼んでくれると嬉しいかな」
「…はい、エース様、アン様」
放たれた声は見事なボーイソプラノだ。できればその様付けも出来れば辞めて欲しい。しかしそれは言っても今は無駄なのだろう。要望は理解している。けれどそれを無表情の仮面をつけわからないふりをしていた。彼は人形である。しかしアンとエースは客なのだ。所有する主人がおり、さくらは一時的に双子へ貸し出されている備品にすぎないのだと理解しているのだ。
感情がないわけではない。ただ突起が限りなく少ないだけだ。
従順に躾けられた見目麗しい人形を所望するものたち。幾人の手に渡っているのか、そこまではわからないが、彼の心と体に刻み込まれている当たり前はかなりの強度を誇っている。
思い出すのはあの島だ。政府容認のもと暗殺者を養成している、とある施設に視察に行かされた際に感じた感覚と重なる。
白昼夢を、見た。
シスターの姿をした女と、幾人もの子供の姿を。
その中に、さくらが居た。そしてノイズが走り、どこかの城に座す大きな女を見た。
アンは目をしばたかせる。
子供の売買がどうどうと行われている現実にやるせなさを感じてしまう。海兵として己の正義を貫いたとしても、出来ることに限りがあるのだ。
さくらに関してもそうだ。あんないい笑顔で笑っていたのに。
もったいない。
アンは心のそこからそうおもう。どうしてこう、形を固定してしまうのだろう。
こうあるべき、とおもうのは個人の勝手だ。しかしすでに形を得ているものまで潰してしまうのは勿体なさ過ぎる。
彼の元で型をはめられてしまい面白くなくなっている状態であるが、まだ
(なあ、アン)
言葉無き声がエースから聞こえてくる。人の悪い笑みを浮かべていたのだろうか。思わず頬を揉み解しながらどうしたのかと聞けば、
(こいつ…)
(初めての仲間だね。船という家で暮らす初めての家族。ふふ、幸先いいねぇ)
マイナス要因などありはしない。付与されていたとしても、こねて引き剥がし丸めて消滅させればいいだけの話だ。
闇の深さならばアンが踏み込んだ泥沼に勝る場所などそうそうあってたまるものか。
エースからは少しばかり、照れたような迷っているような、そして動揺が伝わってくる。
さあ、少年とどう接していこう。
アンは食べるよう促し、様子を観察しながらおもう。
急激な環境の変化は毒にしかなりえない。まずはこちらの水に馴染ませるべきだろう。
長年培われてきた生活様式を急に変えるのは難しい。意識に変革を促すときはゆっくりと溶かしてすりかえてゆくに限る。仕草や表情の変化が見えれば、新しい段階へと入る合図となるだろう。まずはジョワイヨと自分達が全く違う生き物だと見てもらうところからはじめるべきだ。
アンはいくつかの皿を追加注文する。
お昼を過ぎていたためか店の中に居る客は両手で足りるほどだ。しかし厨房の中はランチタイムを凌ぐ忙しさとなっているだろう。伝票の数もかなりの枚数となっているにちがいない。もりもりと食べ物を胃に納め続けるエースと、淡々とスプーンを口に運ぶさくらを、アンは目を細め楽しそうに眺め続けた。
△▽△▽△▽△▽△▽△▽
「着替えおけ、水の手配は終わってる、保存食は……これでよし」
ごそごそと麻袋のなかに入れた乾物をアンは確認する。残るは生ものだ。野菜、果物、肉。生鮮食料品。
海上生活者にとって物資の有無は生命線ともいえる。特に命綱となるのは水と果物だろう。航海できる日数が違ってくる。船の大きさ、乗り込んでいる人の数によるが、貯えられる物資の量によって選べる海路がかわる。一日二日ならどうにでもなるが、十日も飲まず食わず海の上を彷徨えばあっというまに干からびた死体の出来上がりだ。瞬間移動が使えるアンが特別なのであって、普通の、一般の船には途中で買出しに出られる乗組員はいない。
ただし、この世界の船には冷蔵庫がついている。技術力の開示がちぐはぐとし、違和感があった。それはかつてあった文明の名残だ。アンがアンとして産まれる前に存在していた世界にあり、こちらにはないもの。そしてこちらにはあるのに、あちらにはないもの。その差異がこちらの世界の歪さを、他の世界を知っている者たちに訴えかけていた。
ステンレスの台所、食器乾燥機、冷蔵庫、ボイラーなどなど、いくら熱に強い木材が普通に、そこらに生えているとはいえこれはあまりにもどうなのだろう、そうアンは見るたびにおもうのだ。本来、木造船では考えられない。だがそれがこちらの普通であり常識だった。あちらの知識を持ち込み粋がって違う、と叫んだところでこいつ頭変なんじゃないかとおもわれるのがオチである。
なのでアンは弟に倣い、世界の不思議、として扱うことにしていた。七つでは到底足りないのは仕方が無い。それにそこまで厳密に区別したところで、いいことなんてひとつもないのだ。ならばそういうものだ、と受け入れてしまうほうが心情的にも楽である。
人々の喧騒にまぎれ、三人は大通りを歩いていた。木の葉を隠すなら森へ、とはよく言ったものだ。人間の目は見ているようで見ていない、不確かな器官だ。たくさんの情報が目、というひとつに集中するのである。意識をむけたものにたいしてだけしか記憶に留められない。
手を繋ぐのはいつものことだ。今日は真ん中にさくらが挟まっている。
もしこの場にルフィが居たならば、きっとエースの背中にでもしがみ付いているだろう。あの弟はお兄ちゃんが大好きなのだ。もしくは……この町の中を走り回っている。幼い頃の体験が元になっているのだろう。義祖父の家にたったひとりで暮らしていた。どこにも行かず、村の同い年の子供たちと遊ぶこともせず、義祖父が帰ってくるのをただ、マキノの店と家を往復しながら待っていた。その反動なのかはわからないが、ルフィはダダンの家に来てからはっちゃけた。それはもう、怒涛の勢いだったと覚えている。体がゴムになり、滅多なことでは怪我をしなくなった、という変化もある。そこらへんはちゃんと、エースが主になってサボと共に教え込んだつもりだ。刃物はだめ、打撃は大丈夫、と。そのきっかけになったのはポルシェーミの一件だっただろう。おもいだしてみれば確かに年をとったなぁと感慨深くなってしまう。しかしアンはまだ17だ。以前の年齢を足したとしても果たして自分は大人なのだと断言できるのかと、かなり苦しく感じるのもまた確かだった。海軍に居た彼らのような大人になりきれてはいない。
瞼の裏に弟がこの道を走る光景が浮かんだ。
きっとそれは未来だ。
よじ登る場所は、かの---------------。
目に飛び込んできたそれは奥まった広場に安置され、あった。
六角形の広場には面ごとに道が通り、人の往来が最も多い。さすが東の海一番の観光地だ。誰の目にも留まるよう高くそびえた台はゴールド・ロジャーへ死を与えた場所であった。見回す限りの人だ。ここにいるほとんどが見物客であろう。
周囲では飲み物を売る者、軽食を勧めて来る者、などが高々に声を上げながら商売をしていた。エースとアンもホットドックをひとつずつ買い、実の父が死んだ場所を横目で見ながら通過する。
アンは半分に分けたウインナーをさくらの口元に運ぶ。そうすればさくらはぱくりと口に含んだ。与えられたものを食べなさい、という命令を実行しているのだ。言われた事をする、という機械的な行動は変わらないが握った手のひらを不思議そうに見ている時、瞳が揺らめいたのを感じていた。
急がば回れ、である。小さな変化を見落とさないようにすれば感情を引っ張り出すこともそのうちできるだろう。
「……処刑台だけ、見てもな」
「まぁ、ねぇ」
晴れの日も雨の日も晒され続けている台は一体、何代目であるのだろうか。物はいつかは朽ちる。丈夫に、頑丈に作ったとしてもいつかは鉄が錆び木も脆くなってゆく。
始まりと終わりの町、とは誰が呼びはじめたのだろう。
終わりは次の始まりに続く、途中経過地点に過ぎない。父の死をきっかけにここから全てはじまってしまったのだ。誰も気づいていないのだろうか。もしくは気付きたくないのだろうか。それとも終わりを待ち望む誰かによって------。
(ルフィ?)
居るはずのない弟の姿を見た。まさかと思いながら、視線はその姿を追う。途中、エースと目が合った。
(今の、なんだ?)
どうやらエースにも見えてしまっているらしい。
『よし、いくか!』
風が吹き抜けるようにその声はふたりの間を通る。
麦わら帽子を頭上に乗せ、小さな背負い鞄をひとつ持ち、自信に満ちたまなざしを海に向けている。
『海賊王に、おれはなる!!』
聞き慣れた言葉だった。
白昼夢が目の前を駆け抜けてゆく。
ああ、やっぱり。
アンは思う。
海賊王の夢を語るのは、エースには申し訳ないけれども麦わら帽子を被るルフィのほうがよく似合う。
弟は深く考えないだろう。なぜシャンクスがあの麦わら帽子をくれたのか。そこにどんな意図が含まれていたのか。
弟は、きっと成すだろう。たくさんの切れてしまった縁を結び、世界に横たわったすべてを白日の下にさらすだろう。望むものと望まざる者たちの間を潜り抜けて。
弟贔屓といわれてもかまわない。アンにとってルフィはかけがえのないかわいい弟なのだ。
「さあて、航海者は航海者らしく、海に戻りましょうか」
懐中時計を開けばそろそろ約束の三時間が経とうとしている。
「その前にやっぱ、あそこからの景色見とかねェ?」
エースは周囲になぜか増えてきた海兵達の姿を確認しつつ、さくらを脇に抱える。あそこ、が指し示す場所には心辺りがあった。
「ま、追いかけられるのは変わらないもんね」
見やった互いの口元には笑みが浮かんでいる。視線を合わせれば思わず吹き出した。次の瞬間には人々が見上げる処刑台の上へふたりは降り立っていた。瞬間移動したのだ。
「さすがに絶景だな」
「そりゃ、観光地だもの」
そこのふたり、降りなさい!下の方から警備をしていた保安官が拳を振り上げて叫んでいる。エースはそんな叫びを無視し、テンガロンハットのつばを指で持ちながら、彼方を見た。町並みの屋根が続く平らを過ぎれば、青の海が広がっている。
さわざわと声が上空にも聞こえるほど高く響き始めれば、ふたりはそのまま空へと跳び出した。階段を伝って海兵が上がってきたからだ。
残念でした。
ひらひらとアンはもう少しで処刑台だという所まで登って来ていた人物へ、肩越しに手を振る。
「逃げるが勝ち。さあ、"
見知った顔を幾つも確認しつつ、アンは海兵達の声を拾いながら、逃亡順路を導き出し自信あり気に笑んだ。思ったよりも厳重な包囲網に、久々の都市脱出を想定した作戦を脳内で組み立ててゆく。かつて所属していた組織である。しかもその追い立て方を良く知る人物の捕り物だ。そう簡単に捕まってやるつもりはない。
これは訓練ではない。けれど訓練としてやったことがあった。
あの時はアンが追いかける側だった。
「甘い、たしぎさん。そこは行き止まりにさせてもらう」
ぱちん、と指を鳴らせば細い路地を表通りにあったはずのパラソルと椅子が塞ぐ。六式を修めた、もしくは訓練している海兵の数はまだ少ない。簡単には除けられないようパズル要素も盛り込んでいた。くすくすと悪い笑みを零すアンにエースはそっとため息を零す。アンは意外と悪戯好きなのだ。落ち着いているとみせかけておきながら、変なところで意固地になったりルフィよりも子供っぽくなる。
ケムリンはあそこ、大佐はああ、あんな場所に。さすがこの町をわかっている。船着場を見張るのは定石よね。でも残念。
右往左往し始める海兵を眺めるその様はまるで悪女のようだ。
「そうだ、エース。ケムリンともし鉢合わせたらお願いね」
「やるのかよ」
「ううん、能力者の隙をつくの。スモーカー中佐はモクモクの能力者だから」
「なるほど」
「炎とはとても相性がいいのよね。やってみたいことがあったんだ」
上機嫌にアンはさえずる。
遊び相手とされる海兵たちにとっては最悪の一日になるだろうが、絶対的な味方であるエースからしてみればこれ以上に心強いものはない。海軍で培われた経験と知識の手並み拝見、とばかりにアンの後へと続く。じ、とその様子を見続けているさくらに視線を落とし、少し考えたあと肩へ担ぎなおした。
戦うことはないだろう、が。
ガラス玉のような瞳に今はまだアンをあまり映さないほうがいい、そんなことをおもいながら。