ONE PIECE~Two one~   作:環 円

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54-うおんてっど

 情報管理室から慌ただしく駆ける足音が遠ざかってゆく。

 数日前に一度、そして今まさに現在進行形で、最もその所在を掴みたい人物から直通電話が入ってきたからである。

 情報管理室の面々が現在しなければならないのは、出来るだけ長くこの通話状態を維持しなければならない、という一点だった。そんな状況下にある海兵たちは口々に、部下おもいで有名な大佐に向けてお願いします、切らないで、と懇願の言葉を次々に放ち続けていた。

 

 

 数日前、東の海全域でとある作戦が実行された。それは掃討ローラー作戦である。海軍の船が海賊たちの船を数日かけてとある海域に追い込み一網打尽にするという任務であった。しかし多くの海賊たちは侮っていた。海軍が現れたらどこぞの島に上陸し、酒や女を囲んで楽しんでおけばいいのだと気楽に構えていたのだ。

 が、結果的には東の海を騒がせていた、積み重なり続けていた手配書の枚数がかなり激減したのである。

 なぜならば海軍はこの作戦を秘密裏にしなかった。大々的に公表したのだ。そして陸にある村や町に海賊かもしれない集団が押し寄せた場合、海軍に連絡さえしてもらえば必ず向かう、そう発布したのである。もしこれだけなら通報してくる村や町、国は少なかっただろう。そこで海軍が打った手はトトカルチョだった。どの海賊がどの勢力に囚われ、もしくは逃亡するのか、それを予想して当たれば配当金が得られる海軍公式博打を行なったのである。

 

 売れに売れたといっていい。

 

 討伐には無論のこと多くの賞金稼ぎたちも集ってきた。捕えた海賊の賞金プラス、博打の配当金を手にするため、名の知れた賞金稼ぎたちもやってきたくらいだ。

 東の海ではこの日、阿鼻叫喚が巻き起こった。

 手には賭けた金額と予想した紙が握られ、映される映像に固唾を飲み肩にまで力を入れていたほどだ。

最高額は8700万ベリーの大物であったが、最後の一撃を海兵のひとりが掻っ攫ったことにより多くの紙が舞った。配当金が最も低かった海軍に賭けていたのはごく一部だったのである。

 

 お祭り騒ぎとなった件の掃討作戦であるが、実は裏がある。

 海軍から単独出奔したとある人物を捕えるために行なわれたのだ。

 だがしかし、目的の人物は見つからなかった。どこに隠れていたのか誰も見つけられなかったのだ。

 ポートガス・D・アン大佐は東の海ではかなり有名な海兵である。このトトカルチョを海軍が告知した際、16才までの子供たちに限り彼女を見つけ、背中にタッチしたならば軍艦に乗ることができる、もしくは海軍本部への招待という企画が行なわれたのだ。これに多くの子供たちだけでなく、大人も飛びついた。豪華客船ではなかったが、かなり優遇された旅行プレゼントだったのだ。

 どこに大佐が訪れるのかは秘密である。見つからないように変装しているので、楽しみながら探して欲しい、と宣伝した。

 そして子供たちは当日、彼女を追いかけた。その多くは姿かたちが似ている海兵たちであったが各地に散らばった彼、彼女らは残念賞を渡してまわった。

 それは海軍の、子供達向けの制服レプリカTシャツであったり、帽子だったのだがかなり人気が出たという。

 

 そこまでして見つからなかった当の人物から連絡が入ったのだ。逃してたまるものかと情報管理室の兵が全力疾走するのもわからないではなかった。

 

 「だからそんな大事(おおごと)にしないでくださいって、聞いてる? ブランニュー」

 「大佐、お願いですからもうしばらくこのままで」

 

 数秒の沈黙の後、電波が途絶えた。

 逆探知するまでもなく現在地を口頭で言っていたものの、今すぐにそちらへ近場の船を向かわせた所で、きっと入れ違いになってしまうに違いない。

 彼女が、将来を約束され将の位まで目前と言われていた人物が突如出奔したと聞いたのは、つい数日前の事だった。

 表面的には長期休暇となっており、東の海で海賊船をひっ捕らえ、商船を助け、連絡してきた事実は全て、機密として伏せられている。

 「現状を報告せよ」

 「はっ」

 ブランニューは背後から聞こえた声に背筋を伸ばし、その場で敬礼する。通信室に足を踏み入れたのは、海軍本部の頂点に座す元帥だった。報を待たずわざわざ情報管理課までやってくるなど、通常であればありえない話だ。世界のどこかで天竜人がおこなった無体な行為により、暴動が起こりその鎮圧に海軍が動いたとしても、海軍本部の頂きにある部屋から頑として動かない元帥が、やってきてしまった。その顔をこっそり覗き見れば眉間にしわを寄せ、口髭を蓄えた唇を真横に結んだ表情は厳しい。

 「今しがたポートガス・D・アン大佐より連絡が入りました。現在位置は東の海(イーストブルー)、ローグタウンより南東に下ったペルシアナという町に滞在しているとのことです」

 元帥到着まであと一歩という所で切られてしまった電伝虫をちらりと見れば、我関せずと言わんばかりにそれは目を伏せ眠っていた。

 冷たい汗を背筋に感じながら、一気に文言を伝えきる。

 

 聞いたことが無い町の名だとセンゴクがつぶやけば、

 「東の海では有名な町なんじゃがのう」

 後方よりセンゴクとは真反対に楽しげな表情をしたガープが扉にもたれ室内を眺めていた。

 「なにをしている」

 「気にするな」

 「そうもいかん」

 「なら可愛い孫娘の声を聞きそこなった哀れなジジイが居るだけだとおもってくれ」

 

 ぐっと一瞬、言葉に詰まった後、そういう問題では無いとセンゴクはいつものようにガープを切り捨てる。

 今までにも海兵であった者が海賊に墜ちた実例は何十とあった。だが今回ばかりは政府からお達しが出るのを待たず、箝口(かんこう)を引き行方を追わせたが、なかなか捕まらないでいる。まるで網の目の隙間を知っているかのごとく、そう、ことごとくすり抜けていた。

 手塩にかけて育てた人材が流出した、だけではでは済まされない。

 彼女は英雄の孫である。その事実は大々的に世界中へ発信されていた。それが海賊となったとあらば、民衆は激しい動揺を見せ、精神的に脆い者たちは恐慌状態に陥る可能性もある。

 世界に与える危険度を示すならば、新世界に居座る四皇とその配下を省けば、現在進行形に置いて最も数値が高いといえるだろう。なぜなら彼女が持つ能力があまりにも万能であり、やろうと思えば世界をすぐにでもひっくり返せる力であるからだ。例えばあの転移能力で敵対する勢力同士を鉢合わせたならば。もしくは現在の技術では動かせないなにかを多くの人の目に晒される場所へ現したならば。考えられるありとあらゆる事案があまりにも膨大であり過ぎ、かつ及ぶ効果も計り知れない。

 胃の痛みなど構っていられなかった。なくなるならなくなればいい。溶けてしまった方が、いっそ楽であろうと思われたからだ。

 とある事情において下手に手配書を回すわけにもいかず、ここ1カ月内で最も頭が痛い事案だった。

 

 「ローグタウンには連隊が駐屯しとる。ペルシアナの近くには支部もあるんじゃ」

 そのうち姿くらいは捉えられるだろうとガープは事も無げに軽々しく、安易にそう言いきった。

 海賊となるものたちの目的は限られている。となればどうせ偉大なる航路(グランドライン)に入って来る筈だ。そうなれば張る区域も限定される。

 しかしセンゴクは焦っていた。こんなにも焦燥感に駆られるのはどれ程だろうかと振り返るほど、若かりし頃に感じた切迫を身近としていた。

 「悠長に待ってはおれん」

 デイハルド聖が解き放った獣は、政府の中枢、それが抱える闇も知っている。

 連れ戻せるならば出来るだけ早くに、もし出来ないのであれば、それ相当の被害を想定した部隊を送ることも検討しなければならない。

 世界の中心に座す老人達では無いが、そこに最も近い存在にせっつかれているのだ。遠まわしにだが、海軍への予算をちらつかせられていた。

 コングがなんとか世界貴族内の愚痴を引き受けてくれているお陰で、予算の件もうやむやと前年度と同じ金額が下りてくるとはされている。

 だがしかし、現状を鑑みれば結果は散々といえるだろう。

 全ての海で海賊を取り締まっても、被害は減少どころか増加の一歩を辿っている。

 その中でなんとか削減された人員の賄いや、物資運搬の見直し、海兵としての意識改革などが成されようやく軌道に乗ってきたところだったのだ。

 

 計画の中心人物が消えるなど、以ての外だった。

 幼いながらもその頭脳の中に秘めた機構を構築する力は、今現在の海軍に最も必要とされる素質とセンゴクは考えていたからだ。

 やむを得ないのか。

 

 真一文字に引かれた唇が動くことは無く、固い表情のままセンゴクは情報管理室からその姿を消した。

 

 

 

 アンが海軍本部に連絡をした時から少しばかり時間を巻き戻すこと二日ほど。

 今日も今日とてエースとローは飽きることなく食べ物をかけて口論を交わしている。

 

 「それはおれのだ」

 「…さっき丸ごと一匹食べただろ」

 何度目かのそんなやり取りを、アンは楽しげに眺めていた。

 取り合っているのは鳥の丸焼きだ。

 現在乗る船には、持っていた所持金以上の設備が乗せられている。

 先日助けた、エースが実を食べた船とは別の、海賊に襲われていた商人が快く譲ってくれたのだ。

 名前をようやく教えてくれた少年はエースの治療をしつつ、ふたりから基本的な戦闘のノウハウを学んでいた。空間把握だけを例に挙げてみても、ルフィより高い応用能力を持っているようにも思える。ただ相手を無効化し、戦闘能力を奪うという点では、やはり弟の方が勝っていた。前線で戦うより、中距離から仲間の支援をしつつ援護射撃をするのに適した能力であるようにおもわれる。

 

 風は良好、航海を邪魔するものは何もなく、大きすぎるからと遠慮した船であるが思いのほか役に立っている。波を切る速度も上がり、予想以上に早くローグタウンへ到着する見込みとなっていた。その前にペルシアナに寄って食べ物を補給せねばならない。

 ローグタウン、別名、始まりと終わりの町。東の海でなくとも、後者の方が町の名としては有名だろう。空白の100年を含めた、近代史の中で唯一、海賊王の称号を手に入れた男が生まれ、死んだ町の名称だ。

 海軍は海賊王を見せしめとして公開処刑した。だがそれは間違いだったと、言わざるを得ない。そう個人的にアンは思っている。

 なぜなら海の王位に就いた男にわざわざ舞台を整えてやった、と同義だからだ。

 しかも海賊王はその命と引き換えに、新しい時代の幕上げを宣言してしまった。義祖父も何か企んでいると、気付いても良かったはずなのだが、妙な所で気の合う関係だったらしいし、あえて、最後に打ち上げる特大の花火を邪魔しなかったとも思える。

 結果的に世界へ終わりを告げるはずの処断が、始まりを鳴らす鐘となった。

 しかも多くのものを魅了し、死んだ父は予定通りとほくそ笑んでいるに違いない。

 それからローグタウンは東の海の中で、一大観光地と化した。その様は某、夢と魔法の王国とそっくりだとアンは思う。

 

 海軍は一般的にも、そして海賊に対しても、本部直属の大隊をローグタウンという町に配置せざるを得なくなった。

 理由は指して推し量れるだろうが海賊王にあやかろうと、この町を訪れる無法者たちが溢れかえりかねなかったからだ。事実、海賊王の処刑時には今現在、新世界で名を轟かせる、または七武海として名を馳せる者達がそれを静かに見ていたという。

 いくらか他の海に比べて平和という二文字が似合う方角ではあったが、それでも海賊が居ない訳ではない。

 処刑が行われてから数年間は流れ者が多く蔓延り荒れたと言う。東の海に配置されている人員だけでは力不足だったのだ。

 当時の資料を漁れば、定期的にガープ中将が掃除に訪れていた事が解る。また偉大なる航路(グランドライン)内で鍛えられた大佐の位を持つ人物が代々、その町の守りに入ってからは表沙汰にはそう、大きな事件は起きてはいない、と明記されていた。

 

 アンはカモメの鳴き声を真上に聞き、視線を上げる。陸が近いのだ。

 波を良く切り、小舟(バルシャ)と比べれば揺れも少ない新たな住処となった、この船の名はまだない。

 船首にはエースの希望で取り付けられた馬の像が飾られている。

 アンは黒く染められた予備の帆に針を通していた。ある程度の事はなんでも自力でこなしてしまうエースだが、裁縫だけは苦手としている。布を通過した先にはなぜか指がいつもあり、何度赤い血で染めたのか数え切れないほどだ。

 (ああそうか、ロギアになったんだから怪我しても直ぐに治っちゃうし、練習して貰うっていうのも手だよね)

 アンはぼーっと思考を垂れ流す。

 ルフィの場合はそもそも炊事や家事、裁縫などをさせる方が間違いである、そう気付いてからは、その一切合切をマキノに頭を下げてお願いしていた。なぜなら結果が、どう表現していいのわからないくらい滅茶苦茶になるのである。どうしてこんなことになってしまったのだろうとおもうくらい結果と原因が結びつかないのだ。食べ物関係を挙げるなら炭化するならまだいい。火災を起すのもまだましなほうだろう。なぜ化学反応を起し猛毒と化すのだろうか。

 アンが忙しいからと洗濯をまかせることにする。布がボロになるのも被害が少ないといえる。ちょっと目を離した瞬間、なぜ網のようなものに変わっているのだろう。それ、Tシャツだったような気がするのだけれど。という具合だ。

 あの子に生活能力が無いのは、十分わかっていた。だからこそアンやエースが万能になったのだともいえる。本当ならばつれてきたかったのだ。島にひとりで置いておくのが恐ろしい。だがしかし女神が現れた。ルフィの世話をマキノが快諾してくれたのだ。ダダンたちはなんとかするだろうと勝手におもっている。だが弟はだめだ。ひとりで放っておくとろくなことにならない。構い過ぎだといわれるが、そうしないと危険が拡大するのである。こうしてエースと旅に出られるのもマキノのおかげだった。彼女はルフィが苦手とする全てに秀でている。そもそもマキノはアンの師匠だ。

 

 「焼いちまうぞ」

 「あー、うん。大丈夫、能力抑えるね」

 聞こえてくる声に緊張感のかけらもないのんびりとした返答が戻る。

 アンがエースの口に突っ込んだ悪魔の実は炎だった。確たる名称は図鑑を見なければ分からないが、自然系(ロギア)であることは間違いないだろう。体の感じは以前と変わりないらしいが、何かをしようとすると炎が生まれ、上手く実体を保っていられないような気がするらしい。

 アンは意識し、揺らぎ無い水面を思い浮かべる。

 訓練し始めた頃は直に触れていなければ効果が発動しなかったが、今ではある程度の範囲内であれば、力を御すことが出来るようになっていた。

 発火してみて、と言われ、エースは試しにと指先を振るう。

 「お?」

 「なんでだ?」

 エースとローの疑問符が重なった。

 「タネも仕掛けもありません」

 両手を空に掲げ、アンがにへらと笑う。ならばとローも発現できていた能力を使おうとするが、まったく反応しないことに唖然としていた。

 

 「これはねぇ、たぶん血の影響だよね」

 眉を寄せる男達をよそに笑いながら、これからの事をアンは考える。

 

 悪魔の実の力をエースが得たことで、ふたりは狙われやすくなった。爆発的なまでの攻撃力を有する、海軍式に言えば要注意人物となったわけだ。

 元々アンが同行している時点で目をつけられていると同意義なのだが、エースまで悪魔の実を食べたと知れば義祖父はどんな顔をするのだろうか。予想は難しくない。しかも海賊の旗揚げをしていないものの、絶賛偉大なる航路(グランドライン)に向けて航行中であると知ったならば、なんと言うだろうか。

 

 「絶対に…」

 「腹捻らせて笑い終わった後に拳骨だな」

 ふたりの意見が重なる。

 愛ある拳と語る義祖父の拳骨(げんこつ)は脳しんとうを起こしてしまうほど、痛い。痛いというより気が遠くなる。あの拳を受けて、平気でいられる生命は、この地上のどこを探してもいないだろう。それくらい痛い。想像するだけで痛みをひりひりと感じるほどに、ふたりの体には刻みこまれていた。思い出したエースがぞくりと体を震わせている。

 

 戦い方もこれから変化するだろう。

 否、変えざるを得なかった。

 今までと同じであれば、いつかは自分の癖を良く知る大将達に拿捕されてしまう。

 安定した力を放棄するのは決断が必要だ。

 一度捨て、新たに構築した土台の上に今まで培ってきた技術や知識を組みなおせばいいのだ。

 これもひとつのパズルである。

 その欠片をエースは手にした。

 ならばアンも取り急ぎ、ばらさなくてはならないだろう。

 だが力技を中心に組む訳にもいかない。体格や腕力、敏捷性など基礎から誰かに師事出来る訳もなく、方向性を変えながらも技巧を中核に組むしかなかった。ふと浮かんだ顔が笑む。しかし頼れないとアンはかき消した。

 

 針を羊の毛を丸めて作った針山に刺し、立ち上がる。

 空模様は変わらないが、風が微妙に向きを変化させたのだ。

 アンが水平線の向こう側に視線を泳がせる。

 「ペルシアナまではこの航路で大丈夫そうだね。エース、少しだけフォアコース動かしてくる。舵見ていて」

 地図を見ることもせず、甲板からマストへと飛ぶ。その姿はまさしく空を自由に羽ばたく鳥のようだ。

 海兵が使う体術のひとつだと、ローは聞いた。

 

 「ところでロー、次の島に着いたら帰るんだろ」

 「ああ。あんたの傷もほぼ完治しているし、な」

 ロギアだから、ではなく、エースという存在そのものの治癒力が半端無く高かった結果、効果的な医術を施した事により予想していたよりも早く治癒したのだ。

 とはいっても撃たれた銃創は、悪魔の実を食べた直後だったため、深い傷になってはおらず、どちらかと言えば顎の部分に出来た打撲のほうが傷らしいといえた。

 医者の卵としての視点から見ても異様な回復力を見せたエースの体は、完治と言っていいほど整っている。

 

 ありがとうという声に上空を仰ぎ見れば、ニュース・クーから新聞を受け取ったアンがマストを支える支柱の上で手を振っていた。

 すとん、と下にくだり舵の向きを固定してから新聞を広げれば、その中からふわりと数枚の紙が舞い落ちる。

 

 

 それは一見、手配書だった。

 だが踊る文字は"DEAD OR ALIVE"ではない。"ALIVE"のみ印字され、桁が描かれている場所には"LIKE HOPE"とある。

 写真は横顔が写るものだが、特徴は分かった。

 「生け捕りが絶対条件だとよ」

 「7年近く海軍に居たけど、こういうのは初めてだよ」

 ローは驚愕の事実を知る。新聞は必ず目を通していたはずだ。なのに知らない。

 一見、この脳みそに花が咲いたような緊張感の欠片も無い人物が実は、過去何度か新聞をにぎわせていたらしい風舞いその人であるという。海兵にこんな目立つ人物がいればわからないはずが無い。だが現実には気付けなかったのだ。自分のフシアナに絶句する。

 

 望みのままって、豪華だなぁ。予算はどこから出すつもりなんだろう。

 まるで他人事のように言うアンに、本当に大丈夫かとローは思わず口に出しそうになった。

 そしてなんでおれがヤツの事など心配してやらねばならん。

 気が付き急いで胸中に沸いた不安をかき消したが、いつの間にか顔を覗きこんできていたアンにふい、と顔を背けて背を向ける。

 出会ってからまだ10日も経っていなかった。だがパーソナルスペース、人が他者との間に保とうとする一定距離の空間にするりと彼女は入り込んできた。

 違う。

 踏み込まれても緊迫しない、微妙な線を計らいながら、どんどんと心許せる場所に手を引かれたような感じだ。

 エースはある程度の距離を、持っていたように思う。付かず離れず、様子を伺うような感じだった。しかしアンは違う。踏み込んで来るのではなく最初に己の懐へローを招き入れたのだ。否定なく手を引っ張った。それは許容、の意志だと気付いたのは親のように怒られた日の事だ。

 どんなにローが交わりを受け付けず、口も利かなくても拒まなかった。

 ありのままを受け入れ、ありのまま変わらなかったのだ。

 

 乗っていた船の事も、どうして漂流していたのかも、ふたりは聞かなかった。

 会話するようになってから、疑問符をつけて問えば、

 「話したかったら勝手にお前から口を開くだろ」だった。

 

 言いたくないことを無理矢理聞くつもりも、吐かせるつもりもない。

 そう言いながらもふたりは巧みにローから言葉を引き出していった。

 ローが北の海出身者であることや、いくつかの固有名詞を彼から得て、居住する場所と町を探し出してしまったのには驚いた。そしてその町がどうなったのかも知っているらしい。

 聞いたことがある海域だったのだとアンが照れたようにはにかめば、医療、特に外傷系の外科医術においては、有名だったとエースが言葉を続ける。

 

 「医術の基ってすごく残酷だよね。体の仕組みを知るために、かつて人は人の体を切り刻み、なにがどこにあるか、見たことの無い部位を開きながら描き留めていったらしいし」

 命の価値が今よりもずっと軽かった頃、今であっても重さが平等では無い、争いが断続的に続く場所で、医者と呼ばれる人達は息絶えた死体を、息があっても敵側の肉体を蹂躙した。

 

 「命を救うのが医者の使命と言われるけれど、ある意味、命を絶つのも立派な責務だよね」

 

 どこか遠く、違う場所の何かを見つめるようにアンがこぼした一言にローは惹かれた。

 人々は口々に助けてくれと強請る。

 腕の良い医師のもとには連日、患者が溢れ、口々に望む願いを吐き出してゆく。

 死にたくないともがく。

 死と生の境目で必死に、救いあげようと手を尽くしても落ちてゆく命もあった。

 そうすれば腕が悪い、何かミスをしたのではないか。あり得ないと糾弾する。

 

 死ぬのは誰だって怖い。

 エースのようにいつ死んだっていいと強がりを言っていても、その間際にはやっぱり、生き様に後悔は無くても、心残りは出ると思うんだよね。

 アンが親指で例を示すように言えば、

 「悔いの無いように、日々生きてなにが悪い。お前だってそうだろ」

 「そうだよ」

 違うとでも返ってくると思ったのだろうか。エースは勢いを削がれたように、柔らかく笑むアンに、なら文句はねェ、そう言って足を組みそっぽを向いた。

 

 「いやまあ、なにが言いたいかと言えば」

 生きる事、老いる事、病となる事、死ぬ事、はどんなに足掻いても、人間として生まれてきた限り避けることが出来ないんだよ、ってこと。

 

 アンは言葉を選びながらローの瞳をまっすぐに見た。

 「生きたいと願う者には生を、苦しみの中で楽を得たいと願う者には終わりを渡す事が出来るのは、お医者様、だけなんだってことを言いたかったの」

 

 医者ではなく、軍人だった自分が対峙した相手に下してきた命を絶つ行為は、どう繕っても渡すものではなく奪うものでしかないのだ。

 死神ですら首に鎌をあてたあと、しばらくのあいだ足掻く猶予を与えるというのに、アンは生命の収奪をただ機械的にこなしてきた。いくら刈り取った命を背負うと決めていても、不本意な終わりをもたらすのだ。

 相手にとって不服でない訳がない。

 

 ローは思わず手を伸ばす。

 だがそれよりも先にエースがその頭に手を添え、柔らかなほほ笑みをこぼしていた。

 言葉など必要の無い、絆の存在を感じるその視線に拳を握りしめる。

 「ロー」

 名が呼ばれる。

 細い指が握ったそれに伸び、両の手が包み込んだ。

 「この手はわたしに差し出してくれたもの、だよね」

 貰う前に引っ込めるなんて男じゃないぞう。そう唇の両端を上げ、笑みを浮かべる。

 「必要ない、なんて、ないよ」

 口に出す前に言われてしまった言葉に視線を逸らせ、小さく舌打ちした。

 

 素直では無い弟とよく似た年頃の少年を思わずアンは抱きついた。

 驚いたのは男達だ。

 「可愛いなぁ」

 言葉を詰まらせていたふたりは、同時に叫ぶ。

 「離れろ!!」

 

 3人だけが乗る船はふたつの意味を含んだ叫び声を放ちながら、道しるべがある始まりと終わりの町へと近づいていた。

 


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