ONE PIECE~Two one~   作:環 円

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46-異邦人

 コーヒーの香りが漂う。

 店は静かに、開店の時間を待っていた。

 床から上げられた椅子はひっくり返されテーブルの上に並べられている。

 

 店主がひとり、湯を沸かし、黒の液体が落ちるのを待ちながら香を楽しんでいた。

 そして聞こえる足音に視線を階段へと向ける。

 「シノブ。良く眠れたかい」

 「マスター。おはようございます。ええ、お陰さまで」

 

 古びた木がきしみを上げる。ゆっくりと姿を現した女性に、この酒場を経営している男がカウンターに誘った。

 畑に揺れるような黄金の麦と同じ色をした長髪の女が、その声が指し示す席へと座る。

 

 「良い香り」

 女は瞼を閉じ、笑う。

 人懐っこい笑みに店主もつられ唇を弧にした。

 

 シノブがこの島にやってきたのは数日前だ。

 その日もこうやって、男がコーヒーを入れ、ひとりの時間を満喫している時に姿を見せた。

 この辺りを巡る定期船でこの島を訪れたのだと、店主が聞きもしない内に、勝手に話し出した。

 もし頂けるなら、とコーヒーを指さし席に座る。

 砂糖もミルクも無い、ただ入れただけを白のカップに入れ、男は出した。

 それを嬉しそうに飲みながら、女は店主に訊ねる。

 「ねえ、マスター。私、旅の演奏者なの。場所を貸して頂けないかしら」

 

 男は片眉を密かに持ち上げた。

 娯楽が多くない町だ。人口も他の島と比べれば、少ない。

 以前も音楽家たちが立ち寄った際、広場で演奏会を開いていた。

 雇って貰いたいのであれば、町長のところにいけばいい、店主は”旅の演奏者”にそう教えるが、あてが違ったようで言い方が悪かったと言い直す。

 「そういうのではないの」

 女はそう言い、少し考えたそぶりをしてからこう云った。

 「お金はそんなに必要なくて。ピアノを弾きながら、唄を歌いたいの。設えられた場所で、ではなく、酒場(ここ)で」

 

 店主は首を横に振る。店としては雇う余裕がないのだと女に伝えた。

 海賊がログを得て走る航路から離れた、"偉大なる航海(グランドライン)"内でも辺境と言われるこの列島では、確かに安定した生活はあれど、景気の良い話はなかなか流れてはこない。

 やはり多少の危険と引き換えに、盛況を呼び込む主だった線上中継島のほうから聞こえてくる話のほうが繁華だった。

 

 島内で酒類の需要が無いわけではない。

 ただどんなに質が良くても、変わり映えの少ない生活を送る人々はこの島に見切りを付け、他に移住する者も少なくはなかったのだ。

 このような田舎で育った若者は特に、賑やかしい都会に憧れる。ある一定の年齢になれば、穏やかな時間が流れるこの島こそが余生を送るのに適していると気付くのだが、夢や希望、そして輝かしい未来を渇望する若者にどんなに諭したとて聞き入れてはもらえない話である。

 そうしてこの島からどんどんと人が流出し、閑散、とまではいかないが以前と比べれば寂しくなっていた。

 

 しかも最近では港の方に出来た混ぜ物をした安い酒を提供する店に客が流れ、たまにやってくる常連たちと言葉少なく語るのみだ。

 言葉少なく、拒否を示した店主にきょとんとした瞳を向けた。

 「じゃあ、私がお客を呼ぶわ」

 客が少ない事、がこの場所で弾き、歌うことが出来ない理由ならばそれを覆せばいいだけの話だ。

 自信あり気に女は立ち上がると、荷物をカウンターに置き、宣言する。

 「もし客寄せが出来たならば、寝る場所と食事、下さいな」

 女はそう言い、町の中心にある広場で踊り歌い、その夜にはこの店の椅子を全て埋めてみせた。

 

 かつての姿だった。

 流れていた、疎遠となっていた知人たちも久しぶりに顔を見せ、店主は女、シノブが求めたふたつを用立てざるを得なくなる。

 そして今を迎えていた。

 連日、この歌い手が居なくなるまでだろうが、賑わいは途絶えてはいない。

 

 

 「あら…なんだか賑やか、ですね」

 通りに面した窓の外に、シノブが視線を投げると道往く人の数が、いつもよりも多い気がして疑問を店主に投げる。

 「ああ、軍艦が立ち寄っているからな。物資の補給がてら、海兵が町に繰り出して来てるのさ」

 

 ふうん。

 シノブ、は相槌を打ち、店主が作ったブランチに手を付ける。

 厚切りのパンにバターをたっぷり塗り、焼いたものと近場の農家から朝届けられた新鮮な野菜と卵焼きで、飲み物は淹れたてのコーヒーだった。

 

 時計を見れば、13時を回っている。

 「随分と寝ちゃったなぁ」

 シノブはひとりごちた。

 昨日は良い額のおひねりが出て、張り切ってしまったのだ。

 

 (だりぃ。

 リクエストに応え過ぎて喉も痛ぇ……)

 

 高音ばかりの曲を立て続けに歌ったのがいけなかったと、シノブはパンに齧りつきながら思う。

 この地方で歌われている農耕の唄や、子供たちが歌う遊び歌を多少アレンジしたそれがかなり受けたのだ。

 所変われば品変わる通り、調べや詩なども変化する。

 留学先を卒業したならば、一定額を貯めて世界を旅しようと決めていた。

 それが図らずも、別世界で果たされているのだから、夢がどう叶うかなど実現するまで分からないものだ。

 

 「マスター、ところでその軍艦というのはどなたが乗っているのかご存知?」

 「さあな。興味あるなら通りを歩いてる海兵にでも聞けばいい」

 つっけんどんな言い方に、シノブはそれもそうかと野菜を口に入れる。

 

 この島は"偉大なる航路(グランドライン)"内にあるとは言っても、凪地帯を挟めば東の海という立地にある。しかも岬から突きあたりに至るまでのログには示されない島なのだと言う。

 

 しかも近くに支部があり、海賊被害が少ない土地柄もあってか外部に対して閉鎖的だった。

 被害に喘ぐ島に住む住人からすれば、恵まれた環境なのだろう。

 だがこの町では海兵に余り良い感情を持ってはいない。どちらかと言えば否定的だ。

 用が無いなら、さっさと出て行ってくれ。もし町に入るなら金を落として行ってくれ。そういった冷めた感情が大部分を占めている。

 

 それもそのはずだ。

 この辺りの海兵は質が悪すぎるのだ。

 近辺の島を1週間ほど、長ければ10日前後の期間を滞在し渡り歩いているが、この近辺の島々では基本的に海兵へ好意を持ってはいない。

 

 今までも何度か、海軍の船と鉢合わせになってはいた。だが聞いた事のない名前だったり、海賊かと見間違えんばかりの傲慢な人物であったりと、本当にここは該当するその世界なのかと、いぶかしんだりもした事もある。

 身一つで助けられた場所で何とか会話は学んだが、文字まで至れず、まだ解読に難航していた。だからニュース・クーが運ぶ新聞を読むのも一苦労し、情報収集はもっぱら、こうして会話から得る。

 

 からり、とドアベルと蝶番が鳴る。

 「こんにちは。こちらレアヒ・ムデルさんのお店で間違いないでしょうか」

 丁寧な言葉遣いで入ってきたのは、海兵だった。歳の頃は15か16程、幼さを残す少女が会釈しながら入店する。

 「ああ、それなら私だが」

 「ユード町長からの紹介で参りました。ポートガスと申します」

 

 会釈をし笑顔を咲かせる少女に視線をちらりと向ける。

 へぇ。

 シノブは今まで出会った事のないタイプの海兵を本格的に両の目で見た。

 コートを纏っているならば階級が少尉以上のはずだ。しかもポートガス、この名前は忘れようがない。良くある名前なのかもしれないが、思い浮かぶ続きの名前は、D・エース。

 

 シナリオ通り進むのならば、白ひげ海賊団の2番隊隊長となる人物の名だった。

 それとも何かが原因で、目の前の人物が実はそうなのだろうかと考える。男では無く女として生まれ、ガープが無理矢理海軍に押し入れた、とか。

 まさかそれはあり得ないだろう。

 シノブは自身の考えを否定する。今からそれを見に行くのだ。介入はまだ考えてはいない。

 出来るならばもっと早くにこっち側に来ていて、幼少の頃、に間に合っていたのならば絶対に助けていただろう人物がいる。

 それはシルクハットの少年、サボだ。

 もし彼が生き残り、後日作者が描いた扉絵のように3名が揃って青年となって海へ出られるならば、必死になったかもしれないと思った。

 だが実際には既に終わってしまった出来事だ。

 世界はおおよそ、作者が描いている通りに進行しているようだった。そうなれば主人公の旅立ちまであと4年、その兄であるエースであれば1年、時間があったはずだ。こちらに来てからというもの必死に状況を把握した。無為に時間を過ごしているつもりもなく、期間までに目的地には至れる予定だ。

 

 注意深く少女をシノブは見る。

 

 「…っ」

 

 視線が合う。

 黒い瞳がこちらを覗きこんでくるような感覚に陥る。そう、黒い渦に引っ張られ飲みこまれるような、そんな気さえした。思わずきつく瞼を閉じ、目元を抑える。

 

 「ええ、こちらでは質の良い果実酒を取り扱っていらっしゃると教えて頂きました。お願いすれば多少は分けて貰えるかも、とお聞きして、参った次第です」

 

 ゆっくりと逸らされた目が主人へと向かう。

 シノブは動悸を悟られぬよう、ゆっくりと息を吐いた。手のひらを額に当て目を瞼の上から触れる。

 

 「…ありがとうございます。ではそれはこちらで交渉させて頂きますね。樽は後ほど、数名に取りに来させます。手付けとして半額、お納めください」

 

 ほんの数秒目を閉じていただけのつもりだった。しかし実際に聞こえてきた言葉は終わりを告げる文脈で、いつの間にか時間が飛んだのだと認識する。果実酒を分けて貰いたいという話はいつの間にか終わっていたようだ。小さなカタツムリをポケットから取り出すと、部下に店に何名か来てくれるように話しかけていた。

 そして靴音が向かってくるのは、こちら、だと気付いたシノブは慌てて顔を上げる。そして手元にあったフォークに突き刺さっているパンを口の中に放りこんで咀嚼し、コーヒーで流し込んだ。

 

 初めまして。お隣よろしいですか。

 笑顔で問われた言葉に、シノブはどうぞ、と応えるしかない。

 少女は店主にコーヒーを牛乳入りで注文する。

 本当はそのまま飲めるのが、味や香りを楽しむには良いとは知っている。けれども少し色を濁してもらえないだろうか。

 

 少女が海軍で飲むコーヒーが余りにも苦くて、苦手になってしまったのだと、ため息交じりに語る。

 店主が薄く笑みを浮かべたかと思えば、なにも入れずに、そのまま飲んでみる事を勧めた。

 「…頑張ってみます」

 

 人の字を書いて、飲み込む。

 それは緊張した時にするんじゃなかったかと、シノブもくすくすと笑みを漏らした。

 

 「あ。美味しい」

 苦味もあるが、程良い酸味やすっきりとした後味にすっと喉を通ると言葉する。

 「うわぁ。これなら飲める。香りが美味しい」

 驚きの声はそのまま、店主への褒め言葉となった。

 店主のコーヒー談議が始まる。シノブも二日目の朝に聞かされた話だ。

 そうしている内に扉が開き、海兵が入って来た。

 「大佐、荷車と4名、到着しました」

 「お疲れ様です。では船への運び込み、宜しくお願いします」

 

 敬礼を返し少女が笑む。

 果実酒は裏の樽に保存されているという。店主を伴い、海兵達がそちらへ向かった。

 

 「あなたは行かなくていいの?」

 「はい、わたしが居なくても、みんな優秀ですから」

 

 冷たくならないうちに、少女はコーヒーを飲み干す。

 ごちそうさまでした。

 手を合わせて言う礼儀に目を奪われる。

 こちらの世界では、余り目にしない所作だったからだ。

 

 「お話というのは、軍艦で歌って頂けないかというお願いだったのですが、いかがでしょう」

 少女が上目づかいでシノブを見上げる。

 この世界の人間は、基本的に背が長身である者が多い。先ほど出て行った店主や海兵達も170センチ台だ。シノブですら彼らと並べるくらいの高さを持っている。以前と比べれば数センチ低かったが、特に不便に思った事は無かった。

 変わって少女だが、小さかった。160も無い。157、8前後といったところだろうか。

 手のひらひとつ分くらいはしっかりと拡げられる差だった。男達と並んで歩けばすっぽりとその姿が隠れてしまうほどだ。

 「ごめんなさいね。私、ここが気に入っていて当分はここに居るつもりなの」

 値段交渉に入ろうとしていた会話を切る。だからすぐに出発する軍艦には乗ることが出来ないと断る算段だった。

 が、しかし、そう簡単に問屋が卸してはくれなかった。

 「そうでしたか」

 にっこりと笑う少女は、それならば丁度良いと言ったふうに、

 「本艦は本日一日、こちらに停泊する予定なのです」

 と、続けた。

 

 こいつ天下の海軍に楯突くなと言わんばかりだな。

 シノブはなぜか、不自然なほどに親しげに話しかけてくる少女にきつめの視線を流す。

 しばらく続けてみても全く効果は無かった。

 「昨日、喉を痛めてしまったようでお断りさせて頂きたいの。ごめんなさいね」

 と言えば、ピアノだけでも構わないから弾いて貰えないだろうかと食い付いてくる。

 

 こいつなんなの。

 はっきりと海軍とは関わりたくないと言ってやろうかと考え、実際に添う口に出そうとする前に、新たなカードを切ったのは少女だった。

 「果実酒を買いに来たのは本当。艦内に娯楽の提供が必要で、町長さんに歌い手が居ると聞いてお誘いに来たのも本当」

 

 まとう雰囲気はそのままに、爆弾を投下した。

 「初めまして、異邦人(エトランジェ)」

 

 がたりとシノブは席を立つ。

 久々に聞いた言語、日本語だったのだ。なぜそれを知っている。

 口から心臓が飛び出てもおかしくは無い、衝撃が走った。

 この人物は何を言っているのかと、錯乱し真っ白になった思考の中で必死に考える。

 「心配しないでください。政府の役人に告げたり、あなたをあなただと認識して監視下に置きに来たわけじゃない」

 ついでに言えばあちこちで歌っている歌の意味も知っているし、内容が"歴史の本文(ポーネグリフ)"にかかっているのも分かっている。

 少女は席を立たず。丁度視線が合うその席をくるりと回した。

 「ようこそこちらの世界へ」

 

 何者だとシノブが少女に問えば、いとも簡単に口を滑らせた。

 「あなたと同じ外来者…といってもわたしはこちらでも生まれているから、違うともいえるのだけれど。少しお話がしたくて」

 両手の指を絡めながら、恥ずかしそうに視線を泳がせる。

 もしシノブが誰かにこの少女が異世界からやってきた、と告げ口するとは思わないのだろうか。そんな事を思う。

 「あ、でも。船で歌って貰いたいっていうのは本当。喉を痛めているならば、ピアノだけでもというのも本音。中将にも了承を貰っているし、訓練ばかりで娯楽が少ないから兵たちの気晴らしにもなるだろうって」

 

 表情がくるくるとかわる。

 きっとあちらの世界でも、こんなに豊かな感情を表に出す、この年頃は少ないだろう。

 習い事に、塾、宿題、学校での悩み、家族とのすれ違い。受験や進路、就職まで。

 挙げればきりがない。

 どうやって笑えばいいのか、思い出せない時期がシノブにもあった。

 

 「で、会ってみた感想は?」

 「意外と緊張する。ていうか、してる。ジェネレーションギャップが無い程度だと嬉しいな、とか。もし会えたら話したい事、考えていたはずなのに」

 

 両頬に手を当て、アンは火照りを隠す。

 「これが例の、真っ白になるって言うあれ!!」

 拳を握りしめはしゃいでいる姿は、容姿よりも幼い感じがした。

 

 (その真っ白思考、今さっきあんたが俺にやったことだろうが。なに言ってるんだか)

 

 忍は思わず慣れ親しんだ口調のままを思考にのせた。

 裏から海兵たちの掛け声が聞こえる。木樽を荷台にのせているのだろう。

 少女がスツールから降り、シノブを見上げる。

 「よければ、なんですけれど歩きながらお話出来ませんか」

 

 ああ…

 そう答えてしまってから、シノブはしまった、と口を抑える。

 いつの間にか引き込まれてしまっていた。話術が巧みだったわけではない。

 驚愕の事実を突きつけてきただけだ。

 ここが異世界である、と心のどこかで認めたくなかった否定を破り捨てた。

 

 しかし同じ境遇の人物が、すでに此方側に居て生きている姿を見ると、孤独感がなぜか和らいだ。

 話したかった、そういう気持ちも分かる。

 言葉が分からず、意味も理解できず、年甲斐もなく泣き叫んだ日もあったからだ。

 

 「話はまとまったかね」

 「はい、詳しくは船に至る道ですることになりました。ね、シノブさん」

 飲んでいたコーヒーをシノブは噴き出しそうになった。

 しかもいつそういう話になったのか、説明して貰おうかと聞こうとした最中、この世界の共通語が少女の口から発せられ、驚きのあまり気管に入った痛みに咳を連発する。

 言語の切り替えが早い。シノブは思わず、日本語を口にしそうになった。

 しかもまだ名前を教えてもいないのに、少女が名を呼んだ違和感にも疑問が生まれる。

 ああそうか。町長に会ったって言ってたな。そこで名前を聞いたか。

 自己解決しつつ、口に手を上げ涙目になりながらカウンターの木目に肘をついた。

 「おいおい、大丈夫か」

 「ええ、軍艦へお呼ばれだなんて初めでだったから」

 必死に本来の言葉遣いになりそうな自分を戒め、シノブは表情を取り繕う。

 

 食べ終えるまで待って貰えるかと聞けば、了承の言葉が戻ってきた。

 海兵達に先に帰るよう指示する少女を横目で見る。

 ちゃっかり主人からおかわりのコーヒーを貰い、椅子へ座りなおし嬉しそうな顔をして飲んでいた。

 

 

 先ほどのやりとりで、今までの海兵とは違う、そう思ったのだろうか。

 この店の店主は、気難しくて有名らしい。シノブ自身はそんなにとっつきにくいと思わなかったが、昨日の夜、来ていた客が言っていた。それにしても初対面でここまで愛想良くなるとは、町の者が見ればなんと言うだろう。

 世間話をしながら、主人と少女は歓談していた。その横で必死にシノブは食物を口に入れ胃に押し入れる。

 

 カラン、とフォークが空になった皿の上で音を立てた時には、すっかり打ち解けて会話する両者の姿があった。出会って、ものの30分ほどしか経っていない。

 少女を傍から見ていて思った感想は、聞き上手である、ことだろうか。

 話を引きだし、語らせる。

 どこぞの接待を彷彿させるような、感覚を得る。

 

 …こいつも見た目通りじゃねぇな?

 

 シノブはコップに残ったジュースを飲み干すと、手を合わせた。

 「ごちそうさま、マスターじゃあ少し外に出てきます」

 「ああ」

 海兵も身軽に椅子から降り、シノブから半歩ほど遅れて歩きだす。

 美味しいコーヒーをありがとうございました。そう笑顔で会釈するのも忘れない。

 

 扉の外は光で満たされていた。

 港よりも高い位置にある町からは、軍艦が良く見えた。犬を船首に据えた大きな船だ。

 少女は時折すれ違う海兵と親しげに会話し、手を振って別れる。

 

 見た事がある船だと、シノブは記憶を手繰る。

 確か、たしか…ウォーターセブンで出て来ていたはずだ。

 そう、ガープ、初めて原作キャラと遭遇かと胸を高鳴らす。

 

 となればまさか。悪い予感を振り切るように数回頭を振った。

 (会ってみたくて東の海に向かっちゃいるが、まさか、な。本当にエースが女で生まれてるっていうのはごめんだ)

 

 ちらりと見た海兵姿の少女と視線が合う。

 「ふぅん、原作、ね。わたしが居た世界ともちょっと違うのか。多重螺旋世界っていう話を、何かの本で見た事はあったけれど。それかな」

 涼しい顔をして横を歩いていた少女らしきものに笑みが浮かぶ。

 見上げてくる視線は猫のような、悪戯心を宿したような光があった。

 「それが、あなたの素?」

 「一面、と言って欲しいな。言葉遣いもそのままでどうぞ。日本語が話しやすいのだったら、そっちでも構わないよ」

 

 このやろう。

 店では猫被ってやがったな。

 

 あえて言葉では発しない。

 相手もそれがわかっていたのか、済ました顔のまま楽しそうな色をのせた黒の目だけを向けてくる。

 

 

 「…じゃ、遠慮なく日本語で話させてもらおうか」

 シノブは肩をすくめながら小声で以前の口ぶりを披露した。

 「えへへ」

 照れたように、少女が笑う。久し振りのその言葉が、くすぐったくて懐かしいと聞いてもいないのに少女が勝手に語りだす。

 褒めてないと言っても、この手のタイプは無視するだろう。こちらの言葉を都合の良いように解釈し、話を聞かない。苦手とするタイプだった。

 

 「そんな事ありませんよ。ちゃんと人の意見も聞くし、無理なお願いは出来るだけしない主義です」

 きりっと、今さらされても仕方が無い。人間同士、初対面の印象は大切だ。

 「ちょっとまて。もしかして、見聞色使えるのか」

 「ええ。しっかりと意識を締めてくださいね。丸聞こえです」

 

 基本的に人間は感情を垂れ流してしまう生き物だから、出来るだけ聞かぬよう、気にしないようにはしているけれど、横に居ればどうしても聞こえてしまう訳で。

 説明を受け、シノブはため息をつく。

 「…それを最初に言っておいてくれないか」

 

 え。だって。

 少女が困ったような顔をする。

 「あなたの世界では、この世界そのものが漫画という手段で現されていたわけでしょう?」

 知ってるものかと。

 

 ちょっとまてやああああああああ。

 シノブは音声として絶叫する事だけはなんとか、懸命に押しとどめ、横を歩く少女に視線を落とし睨みつける。

 「そこまで分かってて、何様だ。こっちの思考、勝手に読みやがって、神にでもなった気分なのか? 実際のところは俺を笑いに来たってのが本音だろうが!」

 

 シノブの感情が言葉となり放たれる。少女はそれが止まるまで待った。

 そしてあなたは重大な見当違いをしていると前置きし、ゆっくりとした口調で思いを告げる。

 「残念ながらこちらには”神”という存在を奉った思想や考え方が薄くてね。どちらかと言えば自然崇拝がそれぞれの島で好き勝手に信じられているんだ。神道の八百万(やおろず)の神のような感じかな。

 神さまなんて居ないよ。助けてと祈っても奇跡なんか起こらないし、そんな時間あるなら海賊船のひとつでも沈める方が世のためだし。

 神さまになるなんて、考えたことも無い。そんな力があったら、とっくの昔に世界をひっくり返してるよ」

 

 世界を違えたとしてもこの世には理不尽な事ばかりが起こる。支配するものとされるもの。至る所で戦争が行われ、利権をかけて醜い争いが続けられている。

 力の弱いものは……金銭を労働で稼ぐものたちは、労働力を使い儲けを得る一部の階級たちに生きる糧を得るための手段を握られていた。金がなければ食べ物だけでなく住む場所も手に入れられない。法の外に逃げても同じだ。生態系を現す三角はどこに在ろうとも付きまとってくる。

 

 「思考を意識して読んだのは、ごめんなさい」

 

 少女は視線を、シノブから逸らさない。その瞳には感情が含まれてはいなかった。

 「ただ笑いに来たというのは訂正して」

 

 冗談じゃない。と目を伏せて続く言葉は。

 

 「わざわざそんな、人を貶めるために裂く時間なんてわたしは持ってない。時間の無駄だわ」

 

 挑発が含まれている気がした。いや、違う。少女は普通に、ただ現状を語っているだけに過ぎない。

 しかし感情が収まらなかった。

 「…お前に、なにが分かる!! 気付けばここに居た、俺の苦しみが!!」

 

 「同情、されたいの?」

 その言葉に、シノブは歯を食いしばる。唖然とした。少女の一言が胸に刺さる。

 違う、と言いたかった。だが心の内にある感情は。

 

 気まずい沈黙がその場を支配する。のどかに吹きゆく風でも流せない。

 何かを言い返したくとも、言葉が出てこなかった。なんと言えばいいのかすら浮かんではこない。

 耐えた。

 

 瞬間、かくんと膝が折れた。地面へ皿があたる。硬いものが顔面にあたる。痛かった。

 なんであるか思い当たれば、もう少しふくよかなほうが良かったと思わず思考にのせた。窒息するほどの大きさはいらないが、掌に収まる形の良い膨らみであればなお良い。

 

 「っ、洗濯板でごめんなさいねっ」

 「……いや、これはこれで至福だ」

 

 羞恥に顔を真っ赤にしているのだろうか。鼓動が心持ち、早くなっているようだった。

 耳に心地よいそれに耳を澄ませる。

 いいにおいがした。女が出す芳しさではない。

 そっと小さな手が髪を梳きはじめる。それは男が女にしてやる慰めの定番だろう、と苦いものを飲み込みながら、忍は口元をほころばせた。嫌ではなかったのだ。

 

 不安だった。

 たったひとりで言葉も習慣も違う、今まで暮らしていた場所とは違う異質な空間へ放り出され混乱した。

 運が良かったのだろう。ありがたくも忍が出会った人の多くは優しい人たちであった。

 だが共通の話題が無く、知りたいいずれも触れていい話であるのかすらわからなかった。

 

 気を張っていた。

 この世界で忍は性別を変えられ、望んでもいない能力まで与えられていた。

 空想世界の様々にありがちな転生やら転がり落ちやら、性転換やら、可能性をあれこれ考えても事態が巻き戻ることなどなく、忍はシノブとして生きていかねばならなかった。少女が言うようになんでも、好き勝手の望みを叶えてくれる便利な神など存在しないのだ。死んだほうがましだとナイフを手首につきたてようとしたこともある。だが出来なかった。怖かったのだ。死ぬのは、怖い。そうして泣けばよかった。だが忍は耐えた。

 それが普通になってしまうほど、表情に笑みだけをのせた仮面を被ってもしかして、を巡り始めた。

 

 そして、今。

 

 「…もういい、落ちついた」

 数分後、そう言って密着していた体をほんの少し離す。そして膝立ちのまま、少女を見上げた。微笑を浮かべて目を細めた少女がいる。本質的に優しい存在なのだろう。思いのほか柔らかな匂いに落ちつかされてしまった。

 どんなにこの少女に取り繕ったところで、心を読まれてしまうのだ。隠すだけ無駄であろう。

 

 「それにしても、薄いな。揉んでやろうか」

 

 息を飲む音がすぐ側から聞こえる。

 男の手が愛情込めて舐めて吸って揉めば、大きくなるんだぜ。

 

 「馬鹿っ、ひ、ひとこっ、おお!」

 

 ただ思っただけだ。

 

 シノブの肩に置いていた手で少女が突き放そうとするが、忍ががっちりと腰にまわしていた手によりそれを拒む。

 言葉には出してはいない。内心で思っただけだ。

 見聞色をただ便利な技能だと思っていた忍は、意外な欠点に気付きほくそ笑む。

 

 「なるほど。気にしてたのか、そりゃ悪かった」

 シノブは豊かな胸を見せつけながら視線を再び上げた。

 「破廉恥です! わたしだって!その内に、きっと出てくるんだからっ!」

 

 涙目になった少女を見上げれば、自然に笑みが浮かんでいる。

 不思議だった。

 わだかまりが、一瞬で消えたような気がする。

 あれだけ胸の内で苛んでいた何かがすっかりそげ落ちた感じだ。

 

 「唄だっけ、歌ってやるよ。その代りと言っちゃなんだが、連れて行って欲しい所があるんだ」

 「何処? 航海上の拠点であれば、わたしの権限でも乗せられるとは思うけれど」

 

 両手で胸を隠し、ゆっくりと立ち上がったシノブを少女が見上げる。

 行き先を尋ねられた。だから忍はその島の名を声にした。

 

 「それなら問題ない。今から帰るところだったの。兄弟たちと」

 

 今から向かう方向だという。

 船の責任者である中将に聞いてみると少女が笑った。

 名を聞けば、やはりその通りである。ならばこの少女が、と思ったところで否定が入った。

 

 「エースはわたしの、双子の兄? 弟? まあ、どちらでもいいんだけれど。ルフィも居るよ」

 

 サボは居ない、けど。

 一拍の後にそっと吐き出された言葉をただ、忍は受け入れる。

 

 「なぁ、言わなくてもわかるだろうが」

 「うん。原作とか、知識、とかそういうの秘密なんでしょ。頭、疑われるよね。言ったらさ」

 

 父からラフテルへの行きかたを教えられた日を境目に、過去から現在、そして未来の軌跡が読めるようになったことすら、他人に知られたら大変な騒ぎになるに違いなかった。

 なぜならアンにとっては使いどころがわからない『なにか』であっても、解る誰かにとっては貴重な情報であろう。

 だから知られてはいけないし、自分から得意げに出来る、知ってるなど口が裂けても言ってはならない。

 

 ふたりはふたりだけが解る言語で、テレビやラジオ、音楽の話をしながら丘を下る。

 したかったのだ、と言った。

 いつか、会えたらって思ってたの。仲のいい友達や、義祖父や、兄弟にも出来ない話ができるだろうって、思ったから。

 そう言いながら黒の双眸が見上げてくる。

 

 「ああそうだ。エースも使えるから。知っておいたほうがいいよね。思考を抑える、流さない感覚ってね、膜を張るっていうか、わかるかな、こう…」

 

 急遽、少女に垂れ流し防止策を学びながら、忍はまた違う同じ雑誌に連載されていたものを思い浮かべる。

 主人公に憧れていた少年から現実を知らしめさせられる大人となり、心躍る冒険譚より堅実に給料を得ながら楽に生きられる方法を模索し始めていた。放り出されてホッとしていた事柄も、ある。だが考える余裕を持たなかった。

 

 主人公ではない。

 だからこそ、良いのかもしれないと初めて思えた。忍は少女と共に往く決心をつける。

 名を聞くだけの行為が、こんなにも緊張するものかと鼓動を早くさせながら、忍は唇を開く。

 横を歩く少女がその名を、紡ぐ。


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