小波が立つ。
アンは香水の町ナノハナに来ていた。周辺諸国から集められる香料がそれぞれ独自の芳しい香りを放ち続けている。
ここは香料の中継地点。分かりやすく言えばハブである。もっと詳しく説明するならハブ空港、と言えばああなるほど、と思えるだろう。車輪の輪の中央部分に位置するナノハナの町には特色ある香りがいたるところから漂ってきていた。日ごろから香水など全くつけない、つけるような職ではないと思い込んでいるため疎遠であるものの、さっぱりとした柑橘系の香りが鼻をくすぐればちらりと視線がそちらを向く。
ただし、それを自分に使いたいかと言われたら首を傾げるだろう。特に島に戻る際などにつけていれば、旨そうなにおいがするとルフィに味見をされかねない。あの弟はどんなに密封した袋に入れたクッキーでも見つけ出してしまうのだ。おいしそうな匂いは特に厳禁である。アンは食べ物ではない。ノットイコールとしておかねば、今後、困る事態となるのは目に見えた。
さくさくと小気味良い音が立つ砂浜を歩く。町からほんの少し離れた海岸線だ。潮風に負けずその内に塩分を取り込んで白砂の上に肉厚の葉が重なりあっている緑があった。狭間から小さな白い花が空に向いて咲いている。
アンは海水の満ち引きにより濃淡を変えられた間際に座り、指先で命を育む水の先を探す。
続く青が伝えてくる映像はここでは無いどこかだった。
水がはねる音が波の中に飲み込まれてゆく。標的はいずれ、この地に至るだろう。けれどいつかは分からない。
目印になる島があればどこか、という目星になるはずだが見渡す限り青が続いている。
ここ"偉大なる航路(グランドライン)"は安定気候が続く海では無い。緩やかな雲の流れによる変化はわかるが、突如として発生する変動までは読めないのである。
「どうしようかなぁ」
休日もあと残り1日と終わりが迫ってきている。
一度本部に戻り、状態を把握しておきたい気持ちがむくむくと膨らんでくる。書類の溜まり具合が気になって仕方が無いのだ。それにやはり家でのんびりとしたい、とも思ってしまう。長々と旅行先で逗留し、新しいもの、見知らぬものの見聞を広めるのは確かに楽しい。もっと知りたくなるし、もっと見たくなる。だがもう年なのだろうか。休暇を切り上げて帰り、義祖父の家でゆっくりとごろごろしていたいと願ってしまう自分がいた。ごろごろするだけなら兄弟たちの元でもいい。
旅行から帰った足で直接、仕事場に向かうことだけは避けたかった。クザンの補助は他の大将たちとは比べ物にならないほど大変なのだと噂で聞いている。もしそれが本当だとするならば身が持たないだろう、という予想すら立てられた。きっちりと自己管理が出来るヒナであったからこそ、勤め上げられたのだろう。
「さて、どうしよう」
意識の向こう側では兄弟たちがなにやら大暴れしていた。居る場所は、とエースの視線を借りれば、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)であるらしい。
数年前、大火事が起され大部分が綺麗さっぱりと黒墨に変わった件の場所である。炎に巻かれたのはなにも、打ち捨てられたゴミだけではない。
町とは人と人が関わりあい生まれる形態である。どうしても人の輪の中に入れず、浮いてしまう存在も中にはあった。否定されはしないが、邪険にされ、それが対象となる人物をより明確に鬱屈させてゆく。そして行なえば人が迷惑をこうむるありとあらゆる手段に手を染め始めると、本格的に爪弾かれるようになっていく。
それでも人は生きる。生きる場所を探す。そうしてたどり着く場所が不確かな物の終着駅(グレイターミナル)であった。
町という器の中から零れ落ちてしまったゴミ。そのゴミがゴミの中で生きる場所を得ている。なんという汚らわしいゴミ溜めであるか。
と、語っていたのは誰だったか。
不確かな物の終着駅(グレイターミナル)は焼かれた。確かに焼かれ、多くが消し炭になった。
だが人は気付くまで同じ過ちを繰り返す。新しいものに買い換えた、汚れて使えなくなった、不必要になったゴミを再度積み重ねるようになるまであっという間だった。
この世は流れに沿って物が動く。かつての姿にどんどん近づいていっているという。
前置きが長くなったが、本題はここからだ。
アンの故郷、ドーン島は東の海のほぼ中央に位置している。海兵は支部ごとに300名程度が常駐しているものの、目を光らせなければならない巡回地は広大である。陸続きであればとって引き返すことも可能だが、路は全て海だ。アンのように空を走れる者など四方向の支部にはほとんど配置されてはいないのが現状である。よって出航した港に戻るのは至難といえた。
ある意味フーシャ村を領地に持つゴア王国が他の地域より平和であるのは、海兵であるアンが事在るごとに帰省しているから、という理由が強い。駐在してはいないが、アンとの直接的連絡手段を持っている人物は片手ほど居たからだ。
とはいえ全く脅威が来ないか、といえば否である。
ゴア王国は物量豊かな国だ。豊かであるからこそ明確に現れる貧富の差が目に見えて存在している。
特に不確かな物の終着駅(グレイターミナル)は、駆け出しの海賊たちにとって宝の山であった。人も資源も金もここで調達することが出来たからだ。以前はポルシェーミが拠点を構え商売していたため指を咥えて見ていることしか出来なかったが、火事の後、ぽっかりと空いた誰も支配していない空き地を多くの有象無象が見逃さなかったのである。
押し寄せてきた海賊と、手配書の顔が居ないかと群がってきた賞金稼ぎたちで一時は大混乱となった。
アンは賞金稼ぎたちがあまり好きではない。全てとは言わないが、アンが出会った多くが大きな顔をしていたからである。
そもそも賞金稼ぎたちは曖昧な、グレーゾーンの存在であった。
立場的にはただの一般市民にすぎない。警察のような所属国でのみ適応される法に則って侵した者を捕縛する権利も持たないし、海兵のように国の外で殺人や略奪等の法を犯した犯罪者を捕らえる権利も持ってはいなかった。それなのに、小物の海賊を捕まえたからと自慢する。もう少しこの海賊を泳がせていたほうが賞金があがると犯罪を見ぬ振りをする。
彼らは一体なんであるのか。
はっきり言ってしまえば、一般市民以上、海賊未満のちょっとした腕自慢たちなのである。
少しばかり小銭を稼ぐには良い副業であるが、本業にすればするほど赤が出る仕組みになっていた。
と、いうのも、この仕組みが出来た切っ掛けが『周知』であるからに他ならない。故に海軍基地に手配されているだれそれがいる、と通報すれば懸賞金が貰える立場となる。逃してしまった場合はゼロだが、もし海兵が手配犯を仕留められたならば、一部を手に出来るのだ。
海軍も馬鹿ではない。懸賞金を明確にし手配書を刷ってはいるが、刀ひとつ振れぬ一般人に討伐を行なえ、と唆したりなどするわけがないのだ。
一般市民が捕らえられたならば、もしくは駆除出来たならばそれはそれで良いことだ、手間が省けた。というくらいの意識しか持ってはいない。
昔、ルフィが人質に取られ一方的に暴力を受けた件を恥ずかしながら掘り返しても、村や町に住む一般人が賞金首に太刀打ちなどできはしないのだ。人間は拳銃を一発、体のどこかに撃ち込まれただけで死ぬのである。
ちなみに手配書の金額はだいたいこれくらい、という目安だ。
対応する海兵により違ってくるのが謎だが、個人の強さを主としてどれくらい大きな組織であるのか、または海軍に与えた損害の多さなどが加味される。
善良なる一般市民からの通報であれば、海兵が急いでその島に急行するが、もしもこれが一度でも懸賞金を受け取った賞金稼ぎであれば基地まで持って来るように申し付けられる。なぜなら賞金首に掛けられた金は現金渡しが基本であった。それに既に討伐が終わっているならばそこに人員を割くより、他の場所に回したほうが新たな犯罪を抑止出来るし、なにより支払う巨額の懸賞金を用意せねばならない手間もある。
当然ながら懸賞金は犯罪者には渡されない。
ここで定義される犯罪者とは『航海許可証』を持っていない全てである。
国から船を出すときは、所属する国が発行する許可証が必要であるのだ。賞金稼ぎたちもこの例に漏れない。必ず出身地の国から許可証を発行してもらわねばならなかった。当然、海軍基地内で賞金首の受け渡しがなされる際、この許可証の提示が求められる。もし違反していた場合、科料に処され前科が付いた。
また賞金稼ぎを本業とした場合、なぜ赤が出るか。簡単な話だ。海賊も馬鹿ではない。海賊狩りを行なう賞金稼ぎの情報をさまざまな方面から集めるのである。集団化している組織であれば尚更だ。海軍が来たなら逃げれば良が、賞金稼ぎが来た場合、多くの海賊は己の賞金額を上げる為に血祭りに上げることが多いように見受けられる。
無名であればかなり高額な首を取ることも出来るだろう。しかし名を上げてゆけば海賊から狙われる立場にも成り得るのだ。
なので賞金稼ぎたちはある一定の水準までたどり着くと、幾つかの選択肢の中からひとつを選ばなければならなくなる。ひとつ、海兵になり地位と名誉を高めるのか。ひとつ、金銀財宝を目指し海賊となるか。ひとつ、今まで稼いだ金銭を手に故郷に帰るか。
大概の場合は三者三様である。正義感の強いものは海兵となり、狡賢く世界の裏表を知ってしまったものや個人的に海に出なければ目的を果たせないものが海賊となり、ある程度世界を見れたからと納得したものが故郷へと帰るのだ。
海兵から賞金稼ぎになる者もたまに居るがほとんどの場合、海兵であった頃に身に染みてしまった、死に直面した際の恐怖が歓喜へと変わり果ててしまった可哀相なものたちである。生きているという実感を求めて、死の淵へ立つことを望む。それならば海兵に返り咲いて、新世界側へ配属してもらえばいいと心の底から思うのだ。あの場所なら飽きないだろうし、刺激的な体験を死んでも出来るに違いない。
(アン、本はジジイの家に置いておけば良かったか)
(うん、そうしておいてくれると…あー、いや、取りに行くよ)
今すぐに、とはいかないけれど。
そう短く返せば、分かった、との声が聞こえた。
先日、取り寄せをお願いしていた本をエースが取りに行ってくれていたのだ。
ダダンの家から王都までの途中に不確かな物の終着駅(グレイターミナル)が横たわっている。通過の最中、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)を根城にしようと企む海賊団同士の衝突に巻き込まれたのだと事実だけを淡々と教えてくれた。
(夜には戻ってくるんだろ)
(の、つもり。明日からまた連勤だから、鋭気を養うためにみんなでごろ寝したいな)
昼食はいつものところで食べるから来るなら早めに来いよ、と誘われつつ、それぞれの目的の為に意識を己だけに向ける。
宿はいつでも引き払えるようにしてある。荷物が多少増えはしたが、まだ許容範囲内だ。
今着ている服も本当ならばエースに買ったものである。アンが袖を通すと服に着られている感があるが致し方ない。大きいチョリしか売っていなかったのだ。七分丈であるはずの袖口は折り曲げねば指先が出ないし、アラジンパンツは何度折り返しただろう。ターバンだけは好きなように巻けたがこれもまた、半端な布がたらり、と肩口にかかっている。
今の姿であればたとえ見知っている海兵であってもアンだと気付きはしないだろう。
申し訳程度にも無いぺったんこな胸に手をあて、小さくため息を零す。エースが言うように、食べたり無いのが原因なのだろうか。発育不良も甚だしい。女として終わっているような気もする。そもそも女であると意識するなど……デイハルドの宮に行ったときくらいだろう。
アンは電伝虫を使おうと腰に手を伸ばし、空中を掠めた手に苦笑いを浮かべる。休暇中であったのだ。個人的な用件で義祖父に用事を思い出したが、明日でも良いだろう。海軍本部に居なければ、跳躍すればいいだけの話だ。
やるべきことはひとつ。青雉が首を長くして待っているだろう彼女のことだけは、しっかりと手土産にしなければならない。
オハラの子。オハラの悪魔。
そう呼称され追われ続けている人物との接触である。
するな、とは言われていない。
彼女の名を聞いたのは、クザンが初めてではない。何の因果かトムがまだウォータセブンに居た頃、見せて貰った手配書の顔が彼女であった。手配書が刷られた当時、彼女は8歳の少女だった。あれから15年、年齢も23歳になっているはずだ。容姿も大分変わっているだろう。
クザンから個人的に頼まれた用件は、所在地の確認である。
そうなれば報告する言葉はたったひとつ、現在"偉大なる航海(グランドライン)"内を航行中、としか言えない。
これから1年間、アンも青雉の副官として山のような仕事を捌いてゆくだろう。ニコ・ロビンがこの国へ到着するのを見届けるまで監視し続けるのは時間的にも物理的にも無理である。絶対忘れる自信すらあった。
仕事を引き継ぐにしても、どこら辺に居るのか目星が無ければCPでも追えない。委託するにしても青雉経由で依頼する事になるのだろうが、その作業も此方側に回って来そうな気がしないでもない。
「とりあえず…やってみよう」
目を閉じて感覚を広げてゆく。目標はこの星の半分を把握することである。視野の先へ風と水に誘われるまま、意識を伸ばしてゆく。どんどんと息が苦しくなってくる。脳の中心がずきりと痛んだ。その痛みがじわじわとその周囲に広がってくる。
居た。
ぎりぎり届いたらしい。ほっと息をつく。遠くに見えるのは双子岬だろう。偉大なる航路(グランドライン)方面から見るのは初めてではないから、合っているはずだ。
これだ、と思わしき船はキャラベルだった。
「へぇ、珍しい。レドンダだ」
思わず口をつく。
普通キャラベルはラテン帆を使って横風重視の構成となり三角形になっているものが多いが、レドンダは四角帆が使われ追い風の恩恵をも受けられるようになっている。船員はそんなに多くは無い。10名程度だろうか。旗は……黒、海賊船だった。
西の海から偉大なる航路(グランドライン)へ。知識を蓄えて潜伏をしつつ、歴史の本文(ボーネグリフ)に導かれるままアラバスタへと向かっているのだ。
なんと楽しげな未来に繋がっているのだろう。
ルフィの、弟が目指す夢に合流すればもっと豪華になるのではないだろうか、と思案する。
黒髪の、青が混じる瞳。ビビとはまた違った魅力的な女性だ。ビビは可愛らしいが、彼女は凛々しい女性である。
あっという間に気になる存在となった。友人になるためにはどうすればいいだろう。心の蔵が興奮で高鳴る。誰にも知られず、ふたりだけになる方法を探せば、師であるシャンクスから個別に意識を刈り取る精密な覇王色の使い方をそろそろ本気で覚えろと言われていたのを思い出した。次までに会得していない場合は強硬手段を取ると仰せだったはずだ。何をされるのかなど、考えたくも無い。
相手はどうせ海賊だ。
殺すことに呵責など全く感じない。
黒い旗を自ら掲げているのである。覚悟は既に終わっていると解釈出来た。そもそも許可証を持たぬまま海へ出た時点で、殺るか殺られるかの弱肉強食の世界へ飛び込んだと同義である。
機械的に判断しようとして、ふと気付く。
物言わぬただの肉塊にしてしまうと、彼女を運ぶ船が動かなくなってしまうではないか。なんという自己中心的な考え方だと、自分を皮肉る。
人間が持つありとあらゆる負の感情をその身を以って受け続け、殺気すらも簡単に受け流せるまでになった自身を否定する気はない。今更悔やんだところで取り戻せないからである。知ってしまった今を、知らなかった過去に戻すことなど出来ないのだ。
海に出る準備と思えば、何もかもが必要であるように思えた。甲板に上がっている時こそ、恐怖に身をすくめている暇などありはしない。すぐさまそれを高揚にすりかえる術を身につけた。でなければ後ろを付いてくる部下が死ぬからだ。
海兵としては上等の部類に入るアンであるが、まだまだ精神的には脆弱であった。ちょっとした場面で優しさが顔を出すのだ。情けをかけてはならぬ相手に隙を与え、危なげな場面にそっと助けの手を大将たちが出したのも一度や二度ではない。が、若すぎるアンにそこまで求められてもいなかった。
命に対する尊厳すら、最近は曖昧だ。
良い傾向とは思えないが、悪いと断じてしまうほど極めてもいない。周囲を取り囲むのは悪い大人ばかりである。
(エースさん。ちょっと補助お願い出来ますでしょうか)
アンが問いかければ満腹感からくる気だるさを引き連れて、同意が戻ってくる。
悪魔の実の能力とは違い、アンが世界から分けてもらったこの力には果てが無い。脳という器官が壊れない限り有用に使えそうであった。
目標物が明確でない場所への移動は能力の不発の終わるか、世界のどこかへと放り出されるかの二択だ。失敗に終わるならまだいい。以前の実験時、インペルダウンへ飛ばされてしまったのには涙が出た。しかもレベル6、最下層だ。監視用の電伝虫に発見して貰うまで、数多の視線に晒され続けたのは良い思い出だ。ハンニャバルに抱きかかえられ外に出たが、数時間は生きた心地がしなかった。
今ならば少しは対抗出来そうではある。当時、といっても2年前は覇気も弱く、針のむしろに真っ裸で跳び込んだような状態だった。出来れば二度と行きたく無い場所ではあったが、万が一があってもおかしくは無い。
呼吸を整え、瞼の裏に浮かぶ船の姿を思い出す。
たゆたう青の光が反射する海原、浮かぶ船。
掲げる黒い旗の海賊旗。
そして会いたいと願う人物の顔と名。
浮遊感が生まれる。上手くいったようだ。
風の匂いが変わった。柔らかな日だまりと潮の匂いがアンを包む。
目をゆっくりと開かれる。眼下に一隻の船が青の海を進んでいた。
上空から見る景色は下から見上げるのとはまた違った趣がある。心がとくんと楽しげに波打った。重力に従って落ちてゆく体を捻り、足を海へと向ければあとは蹴るだけだ。
次の島は…
月歩使い体を空に浮かせて遠くを見る。
「運命ほつる町、フォレミアか」
話には聞いた事があった。
道に迷い途方にくれたならその町を訪ねればいい、進むべき路を指し示してくれる誰かに会えるのだと言われている。立ち止まった場所からどうすべきなのかと問える場所でもあるらしい。腕の良い占い師たちが集まっている町、としても有名で様々な怪しい品を並べる店も軒を連ねていると聞いたことがある。
「定めに導かれる、か。我らが弟の周りはいろいろと賑やかしくなりそうね」
触れてきた未来に振り返る事無く、アンは空を舞う。
このまま進めば確実に、彼女は砂鰐と出会うだろう。そしてそれぞれの願いを形有るものに変えるため動き始める。
「止めるべきかしら」
問いに答えは返って来ない。半身もだんまりを決め込んでいた。
今から進む未来を悲観し、悪く考え過ぎているようにも思える。どうせなるようにしかならないのだ。方向を変えるにはそれだけの覚悟が必要となる。
友の国だ。
しかし中途半端に関わる方がもっと悪い。今から未来を掻き乱し、不安と絶望を予定よりも早く届けるなど言語道断である。
アンは世界の意志に触れ普通は知ることなど出来ない理を読む。いい事も悪い事も、お構いなしに景色が流れるがごとく与えられる。
全てを救えなど出来はしない。
人の身で全てを背負えるなどと思うのは傲慢だ。
例えば神様が居たとして、ひとつだけ願いを叶える力を持っている。その願いが今の悲惨な状態にな前に戻して欲しい、だとしても、全てを元に戻す事など出来はしない。いくら時を巻き戻したとしても、その人だけが同じ結果にならぬよう懸命に努力したとしても、周囲の意識が変わらぬ限り同じ事が起こり続ける。
必ずどこかに違いが出来るはずだが、誰にも気付かれずに忘れられる可能性もある。もし誰かが気付いたとしても、あれよあれよという間にいつもの流れが押し寄せても来る。些細であればあるほど顕著に、濁流に飲み込まれる様を見せ付けられるだろう。
あの日、サボがひとりで海に出た日、アンは思い知らされた。未来を知る術を与えられていても、それを完璧に捻じ曲げられる程の力は持ち得てはいないのだ、と。
サボの夢など見なかった。片鱗すらなかった。
だがサボの叫びは聞こえていたのだ。
サボ自身の問題であるからと、触れることに躊躇した。その結果、サボを見失っている。
さらに大火事の前ではアンの存在など塵芥も同然であった。運命を変えるなど思い上がりも甚だしい。たくさんの人が死に、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)は大量の煙を吐き燃えた。変えるにはそれなりの対価と、現状という殻を突き破る力が必要なのだ。シャンクスの件は上手くいったが、なにもかもが思い通りになるほど世界は柔らかくない。
だから同じ間違いはしないと自分に誓い、自らの能力が存分に発揮できる出来る範囲内で周囲に関わってきた。
指を銃の形にし、気配を探りながら目的の人物以外を狙い撃ちする。
広範囲、多人数を相手にする場合はなにも考えず力を放つだけでいい。けれど今回は的確に当てなければならなかった。以外に難しい。使いこなせるまで相当な時間がかかるだろう。シャンクスに会いに行くのが億劫だった。けれどそう思えば思うほど、行かねばならぬ用件が目の前に提示されるのである。
アンはとん、と甲板に降り立つ。
意中の人物は一体何事が起きたのだと、船内から出てきたところだった。
「こんにちは」
にこりとアンはほほ笑む。
覇王色は彼女が甲板に上がってくると同時に解いていた。
だが視線の先に立つ女性は驚きを露わにしている。
黒の瞳と髪はつややかで、長年逃亡生活を送っているようには思えない。黒曜石のような輝きには内に秘めた様々な覚悟の色が見える。
追い求める事、託されたもの、背負った苦痛、死の願い。
「そう警戒しないで…という方が無理だよね」
甲板に降り立ったアンは対峙する。青雉が唯一気をかけ感情を殺してまで守る為に追い続けている存在、オハラの子に。
「初めまして、ニコ・ロビン」
アンは親しみの感情を込めて女性の名を呼ぶ。
△▽△▽△▽△▽△▽△▽
その人物は音も無く現れた。
圧迫感が解放された後、見回せば誰もが意識を失っている。意識を刈り取られその場に倒れてしまった。
甲板に立つは、ただひとり。
まだ幼さを残すその面立ちには、思わず魅入ってしまうほほ笑みが浮かんでいる。
一歩、脚が引いた。恐怖が実感と共に吹き出してくる。背筋がピン、と伸び脈拍が倍に跳ね上がった。
「そう警戒しないで…という方が無理だよね」
溜息をひとつついた少女であるが、けれど己から視線は外れない。
「初めまして、ニコ・ロビン」
彼女の名を正確に紡ぐ。この船に乗り込む際に使った名ではない。
とうとう海兵が動いたのか。奥歯を噛み締める。
故郷を追われてから、ずっとひとりで生き延びてきた。一時は受け入れてくれた心やさしい人達も己に懸った懸賞金を知るや、ころりと態度を変え政府へと突き出そうとする密告者に変わ様を見続けてきた。
紛れ込み追われ、逃げてきた。
幾度も幾度も繰り返されて悟った。人を信じてはならない。信じられるものは自分だけだと。
この船にも偽名で乗り込んでいた。
身分証明が必要な商船には入り込めない。そう、今乗るこれは海賊船だった。
雑用でもなんでもする、と乗り込ませて貰ったのだ。
本当の自分を隠し、能力者であることも知られてはならない。ありとあらゆる事をやってきた。
「…あなたは」
「わたしはアン。ポートガス・D・アン」
名を聞き、鼓動が一瞬、止まった。
海軍本部において次世代の将と目されている、高名な人物の名であったからだ。
「わたしを…捕らえに来たのかしら」
答えはNO、という。問いを否定した。
「一度会ってみたかったの。ただそれだけ」
ニコ・ロビンはもう一歩、後方に下がる。それだけの為に、わざわざ海兵が足を運ぶ事など考えられなかったからだ。
「真の歴史の本文(リオ・ポーネグリフ)を追い求める人物に興味があったの」
本当よ?
そう続く言葉に、ニコ・ロビンは少女を睨みつける。
世界政府は歴史の本文(ポーネグリフ)の探索、および解読を死罪と定め禁止していた。
それは歴史の本文に世界を揺るがす情報が残されているからとして、世界を巡る考古学者を取り締まりし続けている。
少女の口から聞いた事の無い言葉が流れ出す。
微笑を崩さずチョークを手品のように瞬間的に手元へ出現させると、ニコ・ロビンにとっては最も親しみ深い文字を甲板に描く。
そして少女がもう一度、発音した。
「あなた、まさか。……どうして」
少女がはにかむ。
「あなたを始めとするオハラの賢者達が何処まで読み進めてたのかまでは分からない。けれど…このまま進めば、あなたが探し求める歴史の本文がある砂の国へ辿り着く。それを知れば残る石碑の続きも見えてくるはずだよ」
世界中に点在する歴史の石のありかは石碑を辿って来た、古代文字を解読出来る者にしか分からないはずの情報だった。しかも次、とはいうものの指し示す先は余りにも不明瞭で特定することはかなり困難であった。
それをこの少女は知っているかのように話している。
手に汗が滲んでいた。極度の緊張状態にあると、ロビンは己を冷静に分析する。
語られた言葉に疑問を投げかけようとし、己のうかつさを必死に押し隠すように唇を噛みしめる。
「わたしが誰かに話せば、あなたも重罪人よ」
「そうだね、そう言われてみれば。でも大丈夫、あなたは絶対に言わない」
確信めいた口調で、少女が言う。それに政府はこの世界の根本を成す秘密を知っていたとしても、手出しは出来ないと繋げた。
「…止めないの?」
「なにを、どうして?」
疑問を疑問で返されてしまい、ニコ・ロビンは答えに詰まる。
「知りたければ知ればいい。そして知った者の責として、手に入れた”それ”をどう扱うのか。選択して欲しい。わたしは止めないよ。止めたってあなたの真の歴史(リオ・ポーネグリフ)を知りたいという欲望は抑えられないでしょう?」
「あなた…一体…」
ロビンは引いていた足を前に出す。
「歴史を解読する事で、血が流れるのは知ってる。不必要な涙も流れる。けれど始まる為には終わりを知るべきだともわたしは思ってる」
たとえそれが世界政府が打ち出す方針から外れていたとしても、狂った世界がおかしいと声を上げ始めた一部のためにも。
全く関係ないと第三者であると関心を寄せては居ない人も全て一度、自分達が立つ、この世界がどうして今の形になったのかを知るべきなのだ。
知ってから、このままでいくのか変えるのか、議論すればいい。
「それにね、わたし個人的にはあなたの応援がしたいの」
絶望の中にあっても抗い、捨てられない望みを持ち続ける人の背を押したい。
そう、少女が語った。
偽りのない言葉、に聞こえた。
「生きて。あなたを守る仲間はわたしではないけれど。未来で待っている、誰かの手がある。その時が来たら決して放さないように…その手はアラバスタにある。あなたの中にある疑問も答えもその出会いが教えてくれるから」
「本当に?」
『この世に生れてひとりボッチなんて事は絶対にないんだで!!!』
生きることを否定したあの日、生きる事を望んでくれた声が蘇る。
無言は肯定だった。こぼれ落ちるようなほほ笑みに、闇に沈みかけていた心にほのかな明かりが灯る。
「…どうして、教えてくれるのかしら」
「理由が必要?」
「できれば」
少女が考え込む。
ロビンはこれほど待つのが、苦しいと思った事は無かった。
「あなたがわたしの大切な…宝物に続いているから、かな」
それに。
「わたしがあなたと友達になりたいの」と続ける。
ぽつりとつぶやかれた声は、誰に言ったものでも無かった。
「…裏切るかもしれないわ」
震える声で言っても説得力無いよ。と少女が眉を寄せた。
「…わたしは今まで」
「ああ、その点に関しては勝手にわたしがニコ・ロビンを信じるだけだから」
あなたがとった行動が、その、勝手に信じた人にとって都合がよく無いモノだったって言う理由でさ、裏切られた、なんて。被害者面するほうがどうかしてると思うよ。だから気にしないで。
言っている事がちぐはぐだった。
…涙。
目頭が熱くなる。
なぜかぽろぽろと流れてくる涙が止まらなかった。
閉ざした心に安易に入ってくる声が悔しい半面、安らぎをも感じてしまう。
「脈々と過去から未来へ繋がる意志全てが未来を紡ぐ。忘れないで。あなたの中には、何千人というオハラの願いが宿っているの」
ああ、そうなのか。アンもこの出会いに納得する。
わたしが例え、死んだとしても、あなたがわたしの意志を継ぐ。だから心が跳ねたのだと。
見上げてくる目は澄んでいた。汚れを知らないような、純粋な光が宿っている。
手が伸ばされた。
触れていいかと、遠慮がちな声がかかる。竦んでいた。果たして本当に伸ばしていいものか、今までの経験が躊躇させる。
温かな手がロビンの指に触れた。
引く事を許さない強引さで、指が絡め取られる。初めて触れた小さな手は、久しぶりに人の温もりを伝えるものだった。