CP9(サイファーポール・ナイン)。それは世界政府諜報機関に属し、0(ゼロ)から10(テン)まで存在する、諜報活動を主に行なう、それらの中で唯一、殺しという手段を用いることが許された『闇の正義』を施行する権限を持つグループの名称だ。
構成員は最大で10名、現在は8名が所属しているという。スパンダムはこの2年の間に、彼が得意とする手法で長官の地位にまで登りつめていた。
3年ほど前。とある件で失態を犯したとはいえ、そこは姑息な手段をものともしない人物だ。
でっち上げた様々な犠牲を用い父親が望んだ後継者の地位を手に入れ、前途有望であるらしい。中にはCP9でなければ出来ない、鮮やかともいえる妙技、手際もあるのだが、アン個人として目の前の男に賞賛する言葉を掛けるつもりはさらさらなかった。
トムの件については特に気持ちの整理がついておらず、かつ許すつもりなどこれっぽっちも無いからである。子供っぽい、いい加減に水に流せといわれたとしても、これだけは譲れなかった。
(怒り続けるのがしんどいっていうお前でも、あるんだなそういうの)
(もちろん。わたしにだって嫌いなものくらいあるんだよ)
遠く離れた場所で聞こえてくる、へぇ、という疑いに、アンは心外を伝える。
より分けていけば手放せる物が多いだけで、これは絶対に離さないとしている固執もあるのだ。その際たるが意識で繋がる相手だ。サボのように取りこぼしてはたまらない。もし兄弟たちを無くした場合、自身がどうなるか。考えようとするだけで恐ろしい。
とてつもなく極端な例だが今まさに海賊によって首をはねられようとしている誰かが居るとして、もしエースが崖から落ちて命を失いそうな瞬間が重なった場合、アンは迷うことなく後者を取るだろう。海兵として見捨てるのかと糾弾されたとしても別段構わない。給与分くらいしっかりと働けとなじられても同様だ。確かに人間の命の重さは同じである。が、もし選べるのであれば見知らぬ誰かを助けるより家族を選ぶだけの話だ。ないがしろにしてしまう、とはまた違うだろう。ここら辺の主張は、各々によって違うと考える。
一般的な思考から離れ壊れている、とは思うがこればかりは仕方が無い。優先順位は海兵としてその場に立ち、助けを呼んでいる相手ではなく、遠くで危機に陥っているエースであった。弟の場合は兄が近くに居り何とかなるだろうが、それを成すエースが危機となっても弟に出来る事は非常に少ない。自分自身も子供だと思う事柄が最近多いのに、それに輪をかけているのがルフィである。
選べることこそが、まこと贅沢であろう。なぜならアンはどこへでもいけるからだ。
この世界で一瞬で存在位置を変えることの出来る能力者は、今のところアン一人である。どこかに飛ばす、や飛んでゆくことの出来る翼を持つ悪魔の実の能力者は存在している。だが瞬時に地点を変えることの出来る存在としては唯一だった。
だからアンは選ぶという贅沢が出来るのである。
多くは選べない。目の前で起こる現象にしか手を出すことが出来ないからだ。
だから多くを助ける仕事に就く人々は、手を差し伸べることの出来る場所へと急ぐのである。そして己の出来る事を行なう。
それが例え、その場に暮らす人々から心無い言葉を投げつけられてもだ。
海兵は世界政府の方針に従う国々に住まう多くを助ける仕事である。
海賊という海に溢れ出した、弱きを襲い強きにへつらう賊を倒すことが主な任務であった。
故に海兵は陸よりも青の海の上に在することが多い。ただ末端に行けばいくほど、民と官と支配階級の軋轢の狭間に立たされることが多くなっていた。
しかし海軍は志願制だ。
己が欲し決めた目的を達成するために、海兵となった者たちはじっと耐え、尽力を尽くすのである。
だがここに在する者たちは官だ。
世界政府直下の組織である。海軍もまた同様ではあるものの、巨大すぎる体であることから元帥という責任者を置くことによって、ある意味世界政府から離れた別組織という形が取られていた。
サイファーポール。
そう呼ばれる機関に属する者たちが集う場がここ、司法の島(エニエス・ロビー)である。
出会った頃の彼はCP5という収集された情報を最終確認する業務を受け持つ課であった。
しかし今は「闇の正義」という作られた信条により、己と同列に並ばない下位をすべてゴミくずと称し、そのゴミくずを処分することになぜ呵責を持たねばならぬのかという思考を持つ集団の長になっていた。
それはまだいい。組織内できっちりとした成果を挙げ昇進したとあらば喜ばしいことである。
アン個人的には闇の正義などという薄っぺらい信義にへばりつくただの兇徒集団だと思っている----その長かアンが慕う大切な人を陥れ、己の虚栄を誇るために画策(かくさく)したという過去をどうしても許せなかったのである。
表沙汰にお前は嫌いだ、とは言わない。心の中ではある意味、赤犬が憤怒したときと同じ温度のマグマが渦を巻いているが、だからといってそれを表に出すのは子供の行いだ。同じ土俵の上にわざわざ降り立ち、同じ程度に合わせて争うなど体力だけでなく気力もがりがりと削れてしまう。
ただ、アンの堪忍袋の緒が切れやすくなっているのは、過去の仕打ちにより仕方の無いことなのである。
「その丸いのは、貴殿の部下か」
正義のコートが海水の落下により生まれる強風に大きく揺れる。
「そうだ。これはフクロウ、という。六式を習得していると聞いたものでね。その実力を調べさせて貰おうかと思ったんだが……」
この役立たずがっ、とスパンダムが紹介してきたフクロウという丸い物体を足蹴りにしようとすれば、チャパパパパパ~ というどこか力の抜けるような声を出ながらそれが彼の攻撃をことごとく回避し始める。
サイファーポールに所属するには、ある程度の体術を納めなければならなかったはずだ。
動きは悪くは無いが、遅い。
フクロウという丸いものも苦労せず、頭のねじが飛んでしまったらしい長官のお遊びに付き合っているようである。
その様は床を逃げ回る黒の甲殻類を追いかけ潰そうとしているようにも見えるが、アンは視線を青の空に投げる。
待っているだろうことは分かる。とめて欲しいのだ。しかしそうしてやるほどアンはスパンダムに対して優しくはない。
しかし両者のやりとりは何時まで経っても終わらない。開いた懐中時計で確認すれば、少なくとも10分はこのやり取りが続行されている。
アンはこのふたりのコントを見に来たのではない。
つる中将の命により、世界会議に必要な書類を取りに来たのである。
上司からは正面入り口から入るように言われていたが、月歩により着地したのが屋上である。
しかもそれを予想していたかのように、かの男が待機していたのが気に入らない。
海軍本部より連絡が入っているのだろうが、行動の先を読まれたようで良い気分はしなかった。
よってアンは男ふたりに足払いをかける。八つ当たりではない。角度を調整し、同時に床へむけ熱烈な抱擁が出来るようにしむけた。結果両者はカエルがつぶれた時のようなくぐもった声を出し、その場に突っ伏す。丸いものも打ち所が悪かったらしく、しばらく動けないようであった。
「痛みが引いたら案内してください」
数秒後、くぐもった声で了承の声が聞こえてくる。
随分高圧的な物言いを続けているが、その傲慢も今だけだと内心で中指を立てながらあざ笑った。
立ち上がったスパンダムは片手で顔を覆い、ちらりと少女を見やる。その口元はこれから伝えられる事、に驚き、すぐに私が悪うございましたと涙目になるだろう期待に歪んでいる。
天竜人のお気に入りであり、巷で騒がれている英雄の再来であっても、そうならざるを得ないからだ。
自らの高姿勢を変えることなく、サイファーポールの長官は立ち上がる。
そもそもここは、世界政府という組織の中でも特殊な部類に入る機関だ。
陪審員とは名ばかりの元海賊、それも死刑囚達がうろつき、侵入者を圧倒的な力でねじ伏せられる場所でもある。
海兵の姿をしていればほぼ安全ではあるだろうが、女は別だと言い加えた。なぜか、は実際に見た方が早いだろうと、スパンダムは説明をわざと省く。
「ですがご心配には及びません。お帰りになるまで、我々が護衛をするよういい遣っておりますからねェ」
海軍本部から丁重にアンの身柄を扱うよう、連絡が入ったとスパンダムは唇を弧にする。
そして囁かれた言葉は、デイハルドが海軍本部へと入ったらしい、という不確定極まりない情報だった。
来てみたい、とは聞いていた。
だが警備上の問題により先送りされたはずである。そもそも天竜人が海軍本部というむさくるしい場所に来ることなど想定されてはいない。
知的好奇心の強い少年である。頭の回りが早いとはいえ、まだ齢一桁なのだ。
そそのかされて、がもっとも確率が高い。では誰が、誰がどういう目的で、聖を連れてきたのだろうか。
幾つか思い当たる節に沿い、目的と手段を付け加えて思考し始めた。
デイハルドが海軍本部に来た、という情報は本物であろう。根拠は無かったが、嘘偽りをアンに伝えたとして何の得があるのか、と疑問に思うからである。動揺を誘うのが目的であるならば、達せられていた。おめでとう、と祝福を送っても良い。しかし手段とするには余りにも度が過ぎている。扱うネタが世界貴族である天竜人なのだ。不敬罪として首が飛んでも文句は言えない。もしかして事実を確認しにマリンフォードへ取って返させたいのではないか、と考え否定した。
スパンダムが発した言を反芻する。
そういえばこの男はアンに対し、護衛するよう云い遣っている、と言った。がそもそも海兵である己に護衛など必要ない。
女は別だと含んだ言い方をしたが、これもまたアンに対して効果は薄いだろう。なぜならば見聞色が使えるからだ。害を及ぼしにやってくるその意志をだだもれにしている相手に対し、わざわざ待ってやらねばならない義理など無いからだ。
結論的に言えば、なんら心配ない。アンの留守時にわざわざご足労痛み入る、であった。
とはいえ、天竜人であるデイハルド聖ならばいろいろとごり押し出来、実際にしたとしても全くおかしくはない。
アンの驚く顔が見たかった、ともし、万が一、聖が言うならば、是非こめかみをぐりぐりと指圧させてもらわねばならぬだろう。
(センゴク元帥はじめ、おつるさん、クザンやボル小父さんも居るし。なんとでもなるよね、デイハルドひとりくらいなら)
と。
割り切った。
もし大切な用件がありアンに会いに来たのだとしても、海兵という職についているのだ。予定をしっかり確認してもらわねば、出かけていることもあっておかしくは無い。天竜人であっても思い通りにならぬ事がある、と学ぶには良い機会であろう。
「ごゆっくりなさっていってください。大層お強いともお聞きしておりますので、我らCP9のメンバーに稽古を付けていただきたく。ええ、ご心配なく。元帥には許可を既にとっております。お疑いなら書類を持ち帰ったその足でお尋ねになればよろしいかと」
畳み掛けるようにスパンダムは全てを言い終えると、鼻息を荒く吐き出しなぜか勝ち誇ったような満面の笑みを浮かべていた。
そもそもなぜ、いち海兵であるアンが諜報機関という特殊な任務に付く官へ稽古をつけねばならないのか。
もしそれが命令であるならば、どんなに遅くとも出発までに何らかの申し送りがあるはずである。
ほころびを見つけ、表情を変えず笑う。
彼はひとつ、勘違いをしていた。
世界貴族である天竜人の印象は? との質問に多くが答えるだろう『それ』は決して間違いではない。
多くが彼、が思い描いている想像図であるだろう。だがデイハルドを含む一部に関しては全く当てはまらない。
大勢が口にする『それ』はいわゆる世界政府が長い時間をかけ、積み上げてきた情報操作の結果である。事実、スパンダムを始めとした若手はこの事実を知らない。かなりの年長者であっても、申し送りされている人物はかなり少ないはずだ。なぜなら知らなくてもよいからである。いっそのこと、忘れられ、あったことすら無に帰してしまっているほうが、世界の中心で人の世を回している存在たちにとっては都合がいいからだ。
よからぬ何かを企んでいるらしい。
アンは目を細め、ほんの少しだけ警戒レベルを上げた。
そうすれば、心の声がじゃばじゃばと出てくる。こんなにもいらないというくらい、出てきて止まらなかった。
要は足止めである。
海軍への嫌がらせ、ともいう。
最近、世界政府の中で海軍の株が急上昇しているのだ。底辺を這いづる溝(どぶ)洗いが、と見下していた相手がなんと、官だけが入れる特別な建物に入ることを許されたとなれば、優越感に浸っていた、元からの利用者達にとってみれば入って来れないようにしたいのだろう。
はっきり言って迷惑以外の何者でもない。
が、高いプライドを持たなければやっていけないのが官職でもある。
お互いが触れ合わず、程よい距離感で付かず離れずの関係が最もであるが、そうも行かぬ事情があるようだった。
(……面倒臭い)
(そう言うなよ。けっこう面白そうじゃねェか?)
(ならエースが担当してみる?)
(バッカ、お前、こういうのは見てるから楽しんだろ)
高みの見物としゃれ込んでいるエースは気楽な物言いだ。
なのでアンは稽古、と強く言われた部分に関し答えを返さず歩き出す。
ここに来たそもそもは世界会議の資料を取りに来ただけなのである。用意されたお遊びに付き合う必要は全くない。
世界政府の出先機関の場所も、スパンダムから流れ出てきた情報の中にあった。場所さえ分かればひとりでも行けるのである。
わざわざ案内されるがまま、密閉された場所の同じ空気を吸ったり、廊下を歩くなどしたくない。
急に歩き始めたアンにスパンダムは慌て始める。想定していた行動ではなかったからだ。脳内で何度も繰り返し動かしていたままの動きをしてもらわないと困るのである。
「良いのですか、聖がいらしているのですよ? 本部で鉢合わせると、中佐が困ってしまうのではないですかねぇ? 時間つぶしに良い余興と思っていただければ。などとあつかましく言うつもりは無いんですよ、本当に、ええ。CP9最強の男がお相手に! って話聞けよ! いえ、……お急ぎですか、そうですか。どうぞどうぞ、今、すぐにご案内しますから、そんなに慌てなくっ!」
盛大な打撃音が聞こえた。
CP9の長官が盛大にこけた、のである。
アンは何もしていない。自らの足につまづいて、べちゃりと潰れたのだ。
残念な何かに向けるような視線がふたつ、落ちる。
チャック口の男と視線が合った。どうやらいつものこと、であるらしい。
残念な長官様として定着してしまっているようである。
その中でひとつ、アンがさらに気になったのは聖との関係が曖昧に残念長官に伝わっているらしいという事だ。
内通者がいるのか。それともまた別の手段で情報を得ているのか。
(女性のおしゃべり、かな)
こればかりは世界か違ったとしても変わらない万国共通の娯楽である。マリージョア、天竜人が住まう町は世界政府の本館に程近い。アンとデイハルドとの付き合いも3年目に入る。故に噂話として世界政府本館にある程度、伝わっていたとしてもおかしくはないだろう。
しかも最近は聖の私生活にまでアンが食い込み始めている。月夜の晩にはふたりきりになるのだ。面白おかしく広めている誰かがいる、と疑いたくないが子供同士のお遊び、ないしじゃれあいと取られなくなるのも時間の問題であった。
情報を扱う機関だ。仕入れていたとしてもおかしくはない。
アンは足首を持たれ、ずりずりと引きずられてゆくかわいそうな長官を引くチャック口の男の後に付きながら、小さく息を吐いた。
残念な彼が言っていた、CP9の最強と言えばひとりしか思い浮かばない。アンの脳内情報が正しいのであれば、彼、は13歳の時点で既にこの暗躍部隊に在席していたという。そしてその初任務がもっとも彼を語るに適当である逸話となっていた。彼が送り込まれたのは今は無きとある王国である。どこにでもありそうな話だが、力を増し海兵の手に負えなくなった海賊により襲われ、統治権を奪われ壊滅の危機に陥ったのである。その際、世界政府より鎮圧のため送り込まれたのが彼だ。
殺戮兵器という異名を持っていた彼は、その王国に存在していた全てを刈り取った。女子供の区別はなかった、と記されている。
その王国に残った命は彼だけであった。言い換えるならば、その王国の大地に最期まで立っていたのが彼であった。
詳しい真相は海軍本部の資料室にも残っていない。世間に対して詳しい情報など語られるわけも無く、政府によってしっかりと隠蔽され、犠牲者数の大きさに反比例した記事の大きさとなっていた、と言えば聡い人物であればピンと来るだろう。
ロブ・ルッチ。それが彼の名、である。
アンも海軍が保持する情報のみに於いては、名前を知るに止められていた。
流れてくる噂話、にもこの人物に関して、余りいい話を聞いたことが無い。というより、CP9に良い話、などあり得ない。所属している人間も了承して事に当たっている…というが、どう足掻いても最終的には後味の悪くなる物事ばかりを扱うためか、性格破綻者も多いと聞く。
元から裏方の仕事を主に引き受ける機関だけあり、行っている事全てが極めて表現するのが億劫になるほどの任務だった。長官であるスパンダムも世界政府にとって、波はあるものの役に立つからこそ、その地位につけたのだろう。父親のコネを自らのものとし、自尊心だけは人一倍大きく、権力に物云わせるのが当たり前であり、世界が定める正義に則り仕事をしている。
彼を長官として慕っている構成員はひとりもいないらしいが、世界政府を牛耳っている五老星にとっては動かしやすい手駒であるのは確かだろう。
正義が正義であるが為の闇を背負うCP9は、幼少の頃からCPの構成員となるため教育を受け、体技を仕込まれているという。
出来るだけ偏見の目で見ないようにはしたいものの、一昔前に繰り返し報道で流れていた文句がなぜか重なる。
正義の為に、政府の為に。洗脳に近い気さえした。
繰り返し繰り返し、繰り返される言葉が次第に刷り込まれてゆく。
所属している当人たちにとっては至極当たり前の環境なのだろうが、認知できないほど多くの情報が溢れる場所で暮らしていた経験のあるアンにとっては閉鎖され、制限された情報しか与えられない違和感がどうしてもあった。
分かってはいる。
情報とは価値ある言葉の繋がりであり、あちらのようにただで、ネットを調べれば手に入るもののほうがおかしい、と。
各国間では機密事項の奪い合いも行われていたが、それだけ世界が平和であったのだ。
屋上から階段を使い階下へとたどり着く。長官の頭が階段を下るたび渇いた音を立てるが全く気にした様子は無い。
思いの外司法の塔の内部は広かった。重要な情報を握る囚人たちへの拷問部屋もあるという。場所は教えて貰えなかったが、大体の空間把握であそこら辺だろうなぁとアンは目星がついた。あと地下になにやら広い空間が広がっている。何処に繋がり何に使われるのかは分からなかったが、面白い構造をしているのは確かだ。
「セクハラです」
考え事をして歩いていたアンは、フクロウの背にぶつかる。
「はう」
顔面激突だ。鼻を押さえつつ、ちらりと前方を伺い見る。すれば壁に手をつき、ようやく起き上がった残念男が表情を歪めていた。
覗き込む方向を変えれば真正面には黒の装いをし、網目のインナーとタイツを纏った女性が立ちはだかっていた。
「オレまだ何もしていないんだが……」
しかし美人がスパンダムの先手を取り、言い放つ。
「長官は存在自体がセクハラですので」
セクハラというより、有害物質なんじゃあ。と、ここに居ると普段は垂れ流さない毒がぽろぽろと零れる驚きに自分自身を苦く思う。
毒くらい吐かなければ、この男と一緒にやってられないのだろう。
セクハラと存在を否定する女性に同意しつつ、アンに向いた視線ににこりとほほ笑みを返す。幾分か女性の表情が柔らかくなった気がした。
出るところはしっかりと出、見事なくびれが見て取れる。これが噂に聞いていた美人、かと思いきや実はCP9に所属するひとりで、カリファという名であるとチャックの男、フクロウが教えてくれた。
かの噂美人はまだ別にいるという。
丸いのは会話が好きらしい。アンが探す”美人”は食堂に居ると教えてくれた。
ならば絶対に行かねばならないだろう。オールブルーの話も、聞きたかった。
そう言えば、と懐かしくも遠い記憶を掘り出せば学生の頃もファミレスで弾丸トークを続けていた人が居たなぁ、と笑みが浮かぶ。
ドリンクバーだけで何時間話し続けていたのだろう。
レポート提出まで数時間と迫り、学友達は必至の形相で仕上げていたはずだ。
かくいうアンも必死になっていたひとりの中に入っていた。
話し続けていた人は既に書き終えストレス発散中だったのは言わずもがな、だ。
丸いのを改めて良く見れば愛嬌のある顔をしていなくもない。大きさ的にアンなどぱくっと食べられて終わりそうな感じだが、いざとなったら跳べば済む。
「そちらが件の?」
「そうだー。可愛いお客さんだーチャパパパ」
「道力は?」
「不明のままチャパパー」
あちゃー、と可愛く振舞うがカリファは無慈悲にも眼中にその動きを入れない。計らせてはもらえなかった、という一点のみで説明も全くせず行き当たりばったりであったと検討を付けた彼女から、アンは簡単であるが今後についてを聞いた。
フクロウが出合った初っ端に測ろうとしていたのは道力というCP9独自の強さ番付という。
武器を持ったこの島の、衛兵の実力を10とした際、CP9ひとり頭、幾らであるかを換算する数字だ。よく一騎当千、と呼ばれる働きをするつわものを指す言葉があるが、それを単純に数字化したものらしい。
ちなみにカリファは520、フクロウが640だと教えてもらえた。
それぞれひとりで52人分と、64人分の戦力、とみる。
「ルッチは2800だからなー。あんまり差があると一発で終わるんだー」
ひとりで280人分。まだまだ1000人には程遠い。
ちゃんとした説明を受ければ計っても良いかと興味も沸くが、アンからやって欲しいと言うのもなぜだか気が引ける。
測定の意味を知れただけでもよしとせねばならぬだろう。
「ルッチは?」
「随分と前に配置済みです」
その当人、ロブ・ルッチはと言うと、長官命令で相手をしろ、と命じられているらしく庭園の間で待っているという。嫌なのであれば断ってくれても構わないのに。そんな事をアンが思えば、長官という座につくスパンダムと彼ら、との間にはいろいろな感情が横たわっているのだと知る。
彼もある意味不幸なのだ。父親から今のようになるよう、育てられてしまったのである。もし彼にほんの少し何らかの切っ掛けがあれば、もしかすれば、もっと他の感想を言える存在になっていたのかもしれない。もし同じ職に着くにしても、彼らともっと、親しく、職務柄慣れ合いは難しいだろうが、笑いあえていた可能性だってあるのだ。
アンは流れ込んでくる意識に目を閉じ、切なさを閉じ込めた。
「以上です」
報告を終えた美人、カリファはそのまま踵を返し、どこかへと向かう。
スパンダムはその背を歯ぎしりしながら見送っていた。彼は彼女に、全く上司として見られていないのだ。外部からやってきたアンですら分かる。
政府から任命されているから、一応は長官様として見てやっている、節がありありと見てとれた。
「ねえちなみにスパンダムの道力は幾つなの?」
「驚くなー、なんと6だ!チャパパパパ」
一般兵より弱いんだね、とアンは苦笑する。いうなれば普通なのだ。ほんの少し、悪だくみに長けた、ただの人、なのである。
しかしスパンダムは以前、バトルフランキーの弾を直接身に受け立ちあがっている。鉄塊を使っているようにも見えなかった。3年前に比べ、なくとも外見、内面共々、余り変わっていないように思えた。
差異が見受けられるのだとすれば、以前よりも増した欲望、だろうか。
生命的ではない。どちらかと言えば金銭や名誉など、一般的には我欲と呼ばれるものだ。自分一人の利益、満足だけを求める気持ちといえば分かりやすいだろう。
しかし人間とはひとつの感情だけで構成されてはいない。
いくつもの気持ちが複雑に絡み合って、その人を構成している。今のままであれば、誰ひとり、スパンダムの事を助けてやろう、だとか、仕方が無いから言う事を聞いてやろう、などという優しさをくれる人は現れない。膨れ上がりすぎているのだ。
アンは身を引いた。
入るべきではない、と判断したのだ。彼は彼自身で変わらなければならない。
それに体質的にも、内外ともに打たれ強いのかもしれないと、ひっそりと思う。
隊を率いる将に智も力もあれば言う事無しだが、実際にはどちらかに傾く。
目の前の人物は悪知恵が働く辺りで、智に含まれそうでもない。我こそは智将である、そう明言している人達からは苦情がきそうだが、一応そちらに寄せてもよいだろう。悪い意味で、という但し書きがつくだろうが。
味方側であったなら、確かにその存在はセクハラではあれど、汚れ仕事を率先して片付けてくれる便利屋ではある。敵側であれば、虫唾が走るほど嫌な相手だが、それもまた適材適所に振り分けられた結果、なのだろう。
「言うな!! オレは指揮官だからいいんだ!前線には立たんだろうが!!」
いや、それ上司として、指揮官としてどうなの。
アンは聞こえてきた会話に思わず、内心で突いた。
将はどっしりと構え戦線で戦う兵卒達を見守るのも大切な責務だが、余り後ろに下がりすぎるのもどうかとは思わなくもない。実際、黄猿も赤犬も、そして義祖父も、前線に立つ指揮官だった。内勤とはいえおつるも率先して修羅場に身を置いている。
折角心持ち上げた評価をハンマーでたたき割りたくなるのを押さえつつ、聞き流していたフクロウの声に意識を向けた。
諜報機関の、しかも一番質が高くなくてはならない権限を持たされた部署の頭がこれであれば、その下に付くものたちが胃痛を患ってもおかしくは無い。しかも、それでも任務がきっちり持ち回り出来ているこの状況が凄いと言えよう。長官の元で働くCP9のメンバーがどれだけ優秀であるかを如実に表しているようだ。
おつるが貰えるものを貰ってさっさと戻ってこい、と言っていた意味を今更ながらに痛感させられる。
先ほどから追加されているフクロウからの道力の説明をかいつまめば、六式という体技を極めた時点で常人の域を超えているという。500あれば十分超人と言われる域なのだそうだ。
自分の値がどれくらいなのか、再度知りたいという思うがそこはぐっと我慢の子である。
サカズキと前線で戦っていた日々を思い出しても、六式で大概は何とかなっていた。覇気も覇王色を使う事は至って稀だ。ある程度は使いこなせるようになっているものの、頻繁に放って良い力でも無い。3つ目の覇気は自身を傷つける諸刃でもあるのだ。その訓練は想像していた以上に精神を痛め付けた。エースとアンはシャンクスを師と仰ぎ、きっかけを得、無理矢理引き出したため、ぶり返しの余波が大きかったのもある。
本当ならば3つ目のそれは無理矢理起こす力では無い。自然と力量を増してゆく過程で、開花させてゆくのが一番だ。双子のように段階を踏まず叩き起こす方法は荒治療で、切羽詰まった状況で取られる最終手段だった。
ちなみにルフィも片鱗をみせている、という。
さすが、Dの名を持つ血筋だけはある。
100万人に1人、と言われる覇王色の持ち主が、3名も同じ場所に固まっているのだから偏りが顕著だ。穿った見方をすれば、時代をうねらす点はここにある、と言ってしまってもいい。
アンは常時、覇気を纏っている。纏うように教えられていた、と言うのが本当のところだ。そう、シャンクスからの提言だ。
武装色を多少苦手とするものの、見聞色を紙絵などと並行利用し使いこなせば、攻撃を身に受けずに回避し続けるのも難しくなかった。
しかしCP9は覇気を使わない。
もしかして無意識に纏っている武装色がフクロウの数値測定を邪魔しているのではないだろうか、とも考え解こうとしてやめた。
強さは隠していて損は無いのだ。
わざわざ露呈し見せびらかすものでもない。
「ルッチが断トツなんだけどなージャブラも結構強いんだー」
情報の泉と言わんばかりに、ぺらぺらと話す丸い存在のお陰で段々とCP9内の力関係が分かって来ていた。
元よりCP9は基本的に全員が六式を修め、並外れた身体能力を持ち合わせている。
全員の相手をアン一人が行おうものなら、厳しいだろう。どんなに強くとも、手数が多い方が有利になるからだ。ひとりひとりなら各個撃破していけば何とかなりそうだが、体力の消耗が著しいと予想できた。
ただ仲間内は余り仲が良いわけではない、という。さすが仲間という競争者達だ。
スパンダムに至っては、やはり長官の椅子にただ座っているだけ、であった。
露ほども人望が無い。
だがここまで露骨に嫌われた上司も珍しいとアンは思ったのは確かだ。誰からも嫌われるというのも、ある意味才能かもしれない。
それぞれが皆、これは飾りだ、と割り切っているだけかも知らないが。
そうしているうちに到着した、出先機関の扉をアンはくぐる。
スパンダムはじゃ、オレはここで。と通路を行き、ロブ・ルッチが待つ場所までの案内役として、まるいのが待っていてくれる事になった。
「失礼します。海軍参謀室から参りました、ポートガス・D・アンです。書類を受け取りに…」
中に入って愕然とする。
件の部屋には、職員がたったひとりしか在席していなかった。
しかも、だ。
「あ~あ~御苦労さまっす~。書類?適当にはいってるんでぇ~取っていってくれたら俺助かるっす~」
余りのだらけ具合に、場所を間違えてしまったのかと思ってしまうほどだった。
なんでもこの出先は本部勤めからしてみれば左遷と同様らしく、呼びもどされる可能性も絶望的なのだとかで、やる気がトンと起きなくなってしまうのだそうだ。
アンはそこら辺と言われた棚から、年度を確認し、枚数の零れが無いよう見てゆく。備品として置いてあった書類入れも見つけ、埃を払って使用することにした。
書類にはパンチで穴を開け黒紐を通し、紙袋、キャリングケースへと入れ持ち出し印を押して部屋を出る。確認などない。
アンが出先機関で作業していた時間はものの10分ほどであるが、その間、男は全くアンを見ようともしなかった。まるで、既に死語になっている、窓際族、のようだと思う。
「あなたはそうやって自分自身に報われないと、可哀想なそぶりをしながら、朽ちてゆけばいい」
小さなつぶやきもきっと、彼の耳には届かないだろう。
そして待っていてくれたフクロウと向かうのは庭園の間だ。
扉をくぐると、まんま、日本庭園が室内に広がっていた。どれだけ和が好きなのだろうかと言いたくなるくらい、和風が広がっている。
しかも諜報部隊の中で最も秘匿されなければならない、構成員全員が顔を出しているらしい事実に顎が外れそうになった。
顔を隠すなり、こっそり見るなり方法はいくらでもある。
だが素顔をそのまま見せ、思い思いの場所でくつろぎながら、ドアをくぐったアンを見ていた。その面々には、スパンダムも混ざっている。
「ほう」
シルクハットをかぶった黒服の男が唇を釣り上げた。
口髭を長く伸ばした男と、腕を組み待っていたロブ・ルッチを除く全員が白眼を剥いて倒れたからだ。
「失礼、手練(てだ)れが多数と聞いておりましたので…少々威嚇を」
少女の声音に冷たいものを男達は認識する。
空気が微震して鳥肌立った。
少しでも気を抜くと、意識を持っていかれそうな、体の中から精神を抜きとられるような、今まで感じたことのない畏れを、ジャブラ---口髭の男も感じていた。
ロブ・ルッチもそれは感じていた。しかし耐える、という部類ではない。
笑みを深くすれば、肩に乗っていた鳩がポトリと落ちる。
少女は穏やかな表情をたたえていた。
瞳は不動の自信、とでも言うべき輝きが満ちている。
「貴方がロブ・ルッチ殿、そして貴方がジャブラ殿ですね。初めまして、強き方々。わたしは海軍本部つる中将直下、ポートガス・D・アン中佐です。お見知りおきを」
久々に最大範囲で覇王色を展開した。部屋の外、階上階下でもバタバタと人が倒れているが意に介さない。この場所に面と向かって、宣戦布告する人物達が現れた時、露呈するだろう慢心に警告を発しただけだ。なぜならば未来、そういう事が起こり得るからだ。簡単に突破されては世界政府の面目も潰れるだろうし、なにより、この島に居る者達に、進み来るその存在の礎となって貰わなければならない。
そしてもうひとつ。
道力2000、それを超えていると自分自身の覇気が耐えられる事実を知る。
良い目印だった。今の実力を語ってくれているかのようにも思える。
シャンクスからそれだけ出来れば大概は一発で意識を落とせるだろう。
そう言われたお墨付きではある。
さすがに赤髪本人や副長、主だった面々の意識を奪えはしなかったものの、十分な出来という。
各方向の猛者と言われていた乗組員の大人数は耐えきれずに倒れたままだったからだ。
しかし今、あの船では分からなかった程度が知れた事で、それより上を目指せる、目標が設定された。
肉体的な優劣をつけるなら、アンはどうしてもエースやルフィ、耐えた二人に負けるだろう。
しかしその分、技と質を磨き続けている。
CP9はその技を特化した集団だ。何処まで通じるか、試したい気持ちがもたげた。
コートを脱ぎ、アンは畳んで書類が入ったケースを重ね、扉の近くにある石の上に置く。
「どうします?」
わたしはやってもやらなくても、どちらでも構いませんが。
年下である少女からの挑発をどう取るか。アンとしてはとてつもなく楽しみであった。
異様に通る無邪気な声にジャブラは後ずさる。
海軍本部から書類を取りに来る将校の時間つぶしに少しばかり付き合ってやればいい。なあに、たかがガキひとりだ。お前らが負けるはず無いがな。世界貴族が面白い事に、そのガキに万が一勝てたら、何らかの外交特権をオレ様にくれるという。
まあせいぜい、遊んでやればいい。
そしてオレに外交特権を持ちかえれ。
不遜な態度をとっていた長官に、悪態をつきつつ、はあそうですか、と返答したジャブラは小さく舌打ちを打つ。
何処が遊ぶ、の域なんだよ。
真っ先に気を失い泡を吹いた長官を睨みつける。
ジャブラは乾いた口内に焦りを覚えた。圧迫感は収まるどころか、重圧を増している。少女の皮をかぶった悪魔のように、見えた。悪魔の実を食べ、能力者と畏怖される自身がただその姿を見ているだけで根負けしている。
「面白い経験だ」
ロブ・ルッチは肌に伝わって来る緊迫感に組んでいた腕を解き拳を握りしめる。
「それでは暫くの間、宜しくお願いします」
戦いは合図の音なく始まった。