ペンがたてる音、そしてインクの匂いがその部屋には満ちていた。
仕事につく者達は総じて無口だ。
口を開いている暇があれば指を動かせ、目を見開け、と言わんばかりの仕事っぷりを披露している。
次々と運び込まれてくる白い紙束が窓際に積まれていた。
扉が開かれ、この部屋の頭であるつるの声と、もう一つ、聞き覚えのある声音に15名居る事務を主に業務とする海兵達が一斉に視線を向け、その場で歓声を上げる。
「つる中将!!」
「アンちゃん、待ってたよ!」
「やっと念願が叶ったね。この子が来たら鬼に金棒だよ」
歓声が本部のとある部屋から沸き上がる。
そう。
最後の年、アンはつるの部隊へ配属された。
義祖父は3年連続敗れ、それぞれの大将、中将達も肩を一様に落としている。
ちらりと見たサカズキは腕を組み真一文字に口を結んでいた。
「サカズキ大将?」
威圧感に振り向くと赤犬が不機嫌そうに眉を寄せていた。黄猿がその横で柔和な顔を向けている。
「この一年で毒をすぅっかり抜いてもらちゃったのにねぇ」
黄猿はまるで、他人事である。ボルサリーノの場合、両艦の休みが重なる度に食事を共にしている。だからこそ分かることもあるのだろう。両者の関係は付かず離れず、絶妙な距離感を保っていた。
アンが側にいることで憤怒の度合いが薄まっているのは十二分に理解している。周囲からの声しかり、戦い方然り以前を知る者が見たならば一目瞭然であった。
しかし、アンが一年に一度、所属を変えるのは海軍の都合である。
再び燃焼するであろう赤犬大将のそれに対し、しわ寄せが行くだろう人員への負担を考えないわけではない。
だがあえて、アンは知らぬ存ぜぬを押し通すことにした。
皆、大人なのである。無ければ無いなりに創意工夫すればいいだけの話だ。
アン的には是非そうしてもらいたい。子供に頼るな、と出来るならば声を大にして言いたいくらいであった。
精神年齢が幾ら体年齢の二倍以上とはいえ、頼りすぎなのだ。
もう一人の大将はなにをしているのかと見回すと、今年も抱き枕を逃した青雉が、貸し出し要請をおつるに行っているところである。
クザンもいい加減に諦めればいいのだ。人を抱き枕にしなければ眠れないというのであれば、眠れるような抱き枕を作ればいい、と思うのは間違いであろうか。
「アン、わしまた1年待たんといかんのか」
「今年で最後だよ。だめだよおじいちゃん。わたしは島に戻る。約束は守るためにあるんだからね? ……ほら、おじいちゃんの球、見つけてみようよ。何個あるのかな」
こういう時は話題を反らすに限る。
ぱかりと開け、中身をかき回してみた。
名立たる中将の名前が幾つも見てとれる。入れ物を用意し、初めて誰がアンを欲しがっていたかを手に取ってみる事が出来た。
大将の球はすぐに分かった。白では無く色付きだったからだ。赤、黄色、青、紫色。
紫色を関する名を持つ人物の名に心当たりが無く、誰のものだろうと見てみると、意外な人物の名だった。
「元帥?」
茶目っけを出し遊びで入れてみた、という。
「おのれセンゴク、お前のせいで今年もアンを取られてしもうただろう!!」
「文句は孫に言え、公平に球をいれておるだろうが」
元帥の言う通り、分母がプラス1されただけでそうそう確率が跳ねあがりはしない。
(それは八つ当たりね、おじいちゃん)
好物である角豚のビール煮を持っていけばかなり斜めっている機嫌をどうにかすることは出来るだろうと算段する。
既に胃袋を掴んでいるのである。
意識の向こう側から、こっちにも持ってきてくれ、との声が聞こえてきた。白飯との相性が抜群なこのビール煮は兄弟たちにも好評である。
アンはにらみ合いが始まった義祖父を無視して、名前を見始めた。
やっとのことで義祖父の名前を探し出し笑む。昨年までは細工をしていたと言っていたのだが、今年はなにもやっていなかったのだろうか。
工作、というか涙ぐましい努力はしてあった。
名前を太く大きく書いても、手触りで分からない。
ちなみにひとつめは握りつぶし、目印としたものは即刻廃棄され、別の球が用意されたという。
義祖父の人知れぬ苦労に、涙がほろりとこぼれそうになる。
「今年は世界会議が開催されるのだ。実動部隊よりこのマリージョアに居てくれた方が助かる」
目は睨みあったまま、センゴクがアンに向けて言った。
「世界会議、ですか」
聞いたことが無い行事名であった。
詳細はきっと目録にあるだろうと義祖父が案の定、置きっぱなしにしている冊子を手に取り、さっと流し読みする。
「階級もひとつ昇格しておる。ガープのように受け取らん、などと言ってくれるなよ」
読むほうに集中しており、一拍反応が遅れ、何のことかと首をかしげてから先手を打たれたと苦笑した。
既に先手発言されてしまっているのだ。「はい、元帥」と頷くしかない。
孫娘争奪戦に敗れた義祖父は立ち直れないくらい打ちひしがれているようである。
かける言葉が見つからない。つる中将の下へ配属されるのは決定事項である。
「あのねおじいちゃん、美味しいご飯持っていくから。だからね、」
「わし出来るだけ多くマリンフォードに戻って来るからな。おつるちゃんところじゃなくて、わしんとこで暮らせ」
義祖父の顔が青かった。今まで見た事が無いような、色をしている。
そんなにショックだったのかと、アンはこくんと、義祖父に頷いてから、ちらりと新たな上司へと視線を投げた。
「おじいちゃん……」
孫娘としては義祖父の言に沿いたい希望があるものの、2年間の慣例として上司の家へ下宿すること、と決められている。
赤犬の家から義祖父の家までは4区画ほど離れた位置にあった。再びの引っ越しはいいとしても、だ。
アンの心境を推し量ったのかは定かではないが、否定しなかった。おつるはどこに住もうと構わないよ、所属は渡さないけどね、そう言って笑む。長年の友人である義祖父の願いを聞き遂げつつも、仕事では妥協はしないと言い切った。
「アンおいで。早速で悪いんだけどね、仕事してくれるかい」
「はい、つる中将」
「おつるでいい、行くよ」
おじいちゃん、これボガード副長に渡しておくね。
振り向きながら義祖父にそう言い、出て来たが果たして伝わっているだろうか。
そんな事を思いながら、おつるの後を追う。部屋を出るとき義祖父の背しか見えなかったが、余り良い表情をしていなかったようにも思えた。
切羽詰った内心も聞こえなかったため、アンは小さくとも頼りになる上司に付き従う。途中義祖父の部屋に寄り道させてもらい、ボガードへ冊子を手渡し書類の森へと到達した。
喜び勇んでいた事務達は暫しの休憩、と棚の奥にしまいこんでいた玉露を入れ始める。
「じつは羊羹(ようかん)があるんですが中将」
「切っておいで。今日は慶福だ」
いつもは静かなこの参謀室も今この時だけは賑やかな声に満ちていた。
アンは早速書類の山の中に埋もれてゆく。コートは邪魔なので、畳んでおつるの机にひとまず置かせて貰っていた。
事務机は小一時間ほどで運ばれてくると言う。電伝虫を使い、庶務へ連絡したのだ。
お茶と羊羹の皿を感謝の言葉と引き換えに受け取り、床に座り込む。
アンが思うに事務たちが書類の束に四苦八苦しているのは理由があるのだ。
はっきり言って軍とはまこと金食い虫である。
だから申請書を多くし、がちがちに固め、一体何に金銭を使っているのか。明確にしているのである。
故に事務たちが確認すべき事柄が多く、おつるに判を押してもらう最期の一枚にたどり着くまでがまさしく困難な道のりを作り出していた。
いっそのこと、新しい方法を取り入れたほうが良いのではないか。
とアンは思うのだが、長年この方法を続けている弊害なのか、新たな定型(テキスト)を導入すればしたで、現場(船)が混乱するのだという。
せめて、急ぎか、そうでないかの区分をつけるべきだと進言していたのだが、この部屋の改造を手がけられる人員が居なかったのだ。日々残業であるのだ。そこまで手が届かないし、気も回らない。よって放置、となっていた。
しかしアンが今日ここに赴任してきた。
机が届くまでは時間がある。ならばやっつけてしまおう、と相成る。
作戦名をつけるならば『処理速度増加における、書類置き場の改造』とでもしようか。
執務室に至るまでの廊下で、おつるからは好きにしてよいと許可を既に貰っている。
以前からちょくちょくとお邪魔させて貰っていた実績が評価されているようで嬉しく思った。誰でもよくやった、と褒められると嬉しくなってしまうものだろう。それもご褒美付きとなれば、張り切ってしまう。
「前来た時も思ったんだけれど、これ、未処理と処理途中の書類が一括でここに置かれるから、ごっちゃになっちゃうんだよね」
艦隊の数だけ設置された木箱の中には、雑然と紙束が積まれている。しかも東西南北を取りまとめる司令部からの書類も分けられてはいない。
これをまずアンは立てた。横ではなく縦である。そして一艦隊につきひとつであった箱を、3段ある木棚とした。上から順に未処理、処理途中、処理済だ。そして未処理の棚を三分の二で縦に割り、急ぎとそうでないものの入れ場所とすれば、どれから処理をすればいいのか分かるだろう。
必要になる資材についてはおつるにもう一度庶務へ連絡して貰い、大量の棚を一緒に運搬、設置をお願いする。
アンはバケツリレーの如く届き続ける棚を軽々と積みあげ書類を鑑別に仕分けてゆく。
急ぎのものとそうでないもの、はとりあえず種類を分けずに同じ棚に入れるが、付箋を貼り見て分かるようにしておく。プラスティックの書類入れがあれば楽なのだが、こっちではまだ見た事が無い。
素材が明確であるし、製造方法は不明だったが、職人たちへ頼んでみるのも悪くないかもしれない。そんな事を考えながら、アンはてきぱきと書類を収納しなおしてゆく。
若手の新人、しかも期待の星がやって来た事で、いつもはピリピリとしている事務室の空気に花が浮いていた。
整理の仕方も、部屋の皆と会話をしながら進めている為、こうして欲しいという希望が出れば出来るだけ汲み採り、分別する。
書類を持って来た海兵がいつもと違う雰囲気にびくびくとしていたが、所属する艦隊指定の個所に用紙を入れるよう言われると、
「ああ、これは分かりやすい。これからここへ入れればいいんだな?」
と好印象を持って貰えたのがアンにとって活力の素となった。
この部屋の住人達は日々忙しい。ぽっかりと開く一日は、艦隊に所属している海兵達よりも貴重だ。書類を捌くだけで精一杯で、こんなにも簡単に済む分別する時間すらとれないくらい、追い立てられていた。
ささっとではあるが一時間かけず分別を終えたアンはぱくりと羊羹に齧りつく。
上品な甘さが口の中でじんわりと広がってゆく。ここに緑茶が入れば、さっぱりとした苦味を伴って喉の奥に流れていった。
至福のひと時である。
「そういえばアンちゃん、中佐に昇格したんだろ。階級札と新しいコート貰いに行かないと」
「あ、はい。でもどうしようかな、と」
運びこまれ始めた机と椅子を運搬する庶務の邪魔にならぬよう壁際で立っていれば、そう声がかかった。
この部屋にも年配者が多いが、実戦現場とは違い軍律もそこそこ緩くなっている。なぜならば上下を余り厳しく縛ってしまうと、仕事がしにくいと論じているおつるの言に賛同している者が多いからであった。
「来年には島に戻る予定なので、新調せずにこのままいこうかなって」
塩にやられて毛羽立ち始めているコートを揺らすアンに、多くが苦笑した。
すっかり辞める気になっている少女へ、様々な人物から心の中で突っ込みが入る。
上層部が手放すはずが無いのである。こんな優秀な人材を海軍から外へ出たらどうなるか、少し考えれば分かるだろう。幼くしてこれほどの実力を有しているのだ。上が期待している値と、出奔した時の脅威度はイコールで結ばれているだろう。
「うちにアンが来たからと言って、安心するじゃないよ。この子は引っ張りだこなんだ。本部にいるからとあちこちの任務に、元帥が持って行く気満々だからね。今までよりもきつくなるかもしれないよ。それに……」
おつるは茶に息を吹きかけながら部下たちを見回す。
聖地マリージョアにて"世界会議"が開催される旨を直接上司から聞いた事務達は揃って溜息をついた。参加国名簿を始め議事録その他、書類関係は参謀室が主に担当するからだ。
以前の会議より代替わりした王も多く、その確認作業も行わねばならない。
「こういう確認は海軍じゃ無くて中央政府の方でやって貰いたいんだがねぇ」
おつるは嘆息した。
政府の本部は聖地にあるが、出先機関はエニエス・ロビーに置かれている。
さすがお役所仕事だけあり、現場が幾ら困っているのだと急かしても、動きが緩慢でぎりぎりになるまで書類が下りてこない。俗に言うたらいまわしというヤツだ。
海軍が世界会議の予定を組むことになったのも、世界政府のずさんさからだった。
今で言う海軍議事文書、と呼ばれる世界会議議事録が作られる事となった事件だ。
世界政府にしてみれば、事件ではなかったのだろう。
つるは当時を思い出し失笑する。
政府の担当官と交渉したのがつるだった。今のように経験を積む前の、若かりし頃の記憶だ。
公文書管理を行っている、同政府内機関より問い合わせが入った。
政府から世界会議の詳細をまとめた文書がそちらに届いたか、という内容だ。
虚偽してもなんら良い事は無い。正直に当時の上司から言われたとおり、相手に返信した。
時は既に1年を経過していただろうか。
だが海軍内では議事録がひっそりではあるが、存在していた。
警備に参加していた海兵将校が非公式ではあったが、開かれて間もなくの頃、何かがあった時のために、とまとめていたものが保存されていたのである。
7日間の記録は膨大だ。
将校がひとりでまとめた書類には多くの不備が確認されていた。
しかしどこで情報を入手したのか、機関より仮として、海軍文書を納付して貰えないだろうか。
再度問い合わせが入った。
上司は文書に誤認があったとしても海兵を罪に問わないのであれば。
条件を付けて許可を出し、機関は承諾、正式文書が届くまでの間保管される事となった。
だがしかし世界政府の対応は驚くべきものであった。
海軍の方で既に出来ているならばそれを使えば良いだろう。不確かな部分については音貝(トーンダイアル)を送るのでそちらで補完してくれたまえ。その方がこちらとしても助かる。これからの名簿作りもそちらが受け持てば護衛をわざわざ申請する手間も省けるし、対応も早くに出来るだろう。同じ政府の機関なのだから、譲歩し合うのは当たり前だ。なのであとはよろしく頼むよ。
という意味の分からない難解な文章だけで解決とされた。
送って来られた方としては、大迷惑且(か)つ仕事の丸投げに開いた口が塞がらなかったのは言うまでも無いだろう。
「まあなんだね。あちらさんに文句を言う暇があるなら、こっちでやっちまったほうが早いのは確かだ」
おつるが湯呑みを置き、眼鏡をかける。
「アン、そっちの方は上手くいきそうかい」
「はーい」
元気の良い返答が戻る。ホッチキスで書類を止めながら、挙げられた掌がひらひらと揺れた。全て、ではなかったが今までアンが所属していた黄猿と赤犬の部隊に限り、必要最小限の申請書をまとめているようだった。他の隊のものも数日あればざっと目を通すだけで状況を確認出来る状態となるだろう。難しい顔をしながら、この書類はなんだろうと悩んでいる姿もまた、可愛らしいものだ。
戦闘させても良し、内勤として書類を触らせても良し。
本当にあの男の孫で相違ないかとおつるは疑いたくなってしまう。
元帥よりの命にて行なわせるよう言いつかっているそれを飲み込んだままには出来ず、意を決めたおつるはゆっくりと言葉を放った。
「来て早々悪いんだけどね。エニウス・ロビーに加盟国名簿を取りに行って来てくれるかい。対象支部に連絡を入れないといけないんだ」
本当に突然であった。
おつるの思いもよらない一言で、司法の島へ行くことになったアンは、翌日オニグモ中将の船に乗り不夜島へと向かうことになった。
彼の艦に乗るのははじめてであったが、なかなか統率が取れた良い部隊である。
「ふむ、中佐は初めてと聞いたが。中央では絶景を望めるだろう」
「はい、とても楽しみです。ただ、こういう場所に来る機会もなかなかあるようでなかったので、ほんの少し緊張しますね」
艦は出航の慌ただしさから脱し、乗った流れのまま目的地へ進む。
タライ海流は通常の流れとは違い、3つの門を開閉し生まれる渦潮だった。
政府、その中枢機関である3つの施設を結ぶ海軍専用の海流だ。それぞれの門が開かれぬ限り施設内には入れず、一度渦潮に乗ってしまうと脱出は困難だった。だから海賊船はこの渦を避け、遠回りに航路を取る。
オニグモ中将は赤犬の隊出身で、何度か顔を合わせた事があった。
手合わせも1度だけだが、相手をして貰った事もある。戦いの際にはその名の通り、蜘蛛のような姿に変わった。長く伸びた髪の下から、黒い自在に動く手足が左右に3本ずつ出現し8刀流となる。少々厳しい表情をする人物だが顔に似合わず、気の良い小父様だった。
しかし。いつもアンは思うのだが海軍の上役者ほど、いかつい顔つきをしている人物が多いのはなぜだろうと首を傾げる。
それだけ厳しい戦場を渡って来ているのだろうと想像するのだが、世界政府からの圧迫、柵(しがらみ)によってさらにしわを深く、させているのは間違いないだろう。
ただ海軍には美形がほとんどいないと断言出来た。言い訳になるだろうが、渋い御仁なら両手で足りないほど存在している。
顔立ちが整った、と限定すれば海賊達の方が、まだ多いような気もするのだ。
これから向かうエニエス・ロビーには絶世の美女が居ると聞いていた。そのほほ笑みに男達は見入ってしまうと言う。
美人を見ると頬が緩む。目の保養である。密かな楽しみを胸に青の先をアンは見つめた。
書類の受け取りが主たる任務だが、実は昼食時が待ち遠しかった。
赤犬の艦に乗っていた時、料理長が教えてくれたのだ。エニウス・ロビーにはオールブルーを探して、新世界に何度も赴いている人物がいると。オールブルー、とはなんと広々とした響なのだろう。料理人ではないが、アンも台所に立ち食を作る。見たことも無い、これは食べておいたほうが良いといわれる珍味に興味があった。ワインが飲める年齢になれば、つまみと共にくいっといきたいではないか。
(20歳の誕生日が散々だったものね。今度こそは盛大に、おなかいっぱい美味しいものを食べたいな)
とも決めている。
奮発して買おうと思っていたケーキを食べ損ねたのだ。18時から30個限定で出るチョコレートケーキである。それを狙って駅から走り出た。
しかし20の誕生日に始まりのゼロへ逆戻りしたわけだ。
同じ失敗は繰り返したくは無い。
「オニグモ中将はこのままインペルダウンに向かわれるのですよね」
問いに頷きが戻ってくる。
実はこの艦には比較的軽犯罪に分類される罪状を持つ、通称レベル1に投獄予定の囚人たちが詰め込まれていた。
怨嗟がとめどなく放たれ続けている。
船は一度門に入り海列車の到着駅で一旦停泊、アンを下ろした後に半周しながら簡易の裁判、司法の塔の屋上で11人の陪審員達が下す判決を受け、再び開かれた門から出て海底大監獄に向かう渦潮に乗る予定となっているという。
本来の手続きに則るならば、全て一旦囚人を下ろさねばならない。しかし今回は人数が多く、簡略で行われる、特例がとられているという。
「岸に着けて頂くと船足の戻りが悪そうなので、ここから向かうことにしますね。失礼します。送っていただいてありがとうございました」
アンは形通りの敬礼を行い、月歩を使って空へ駆け上がる。
「風舞い、か。気持ちよさそうに行くもんだ」
その姿を見上げたオニグモがまぶしそうに目を細めた。軍艦は悠々と波を切りながら地獄の一丁目に向け進んでいく。
司法の塔を横切る船から、アンは空を往く。荷物は無く、身ひとつだ。大きく開け放たれた滝つぼへ呑み込まれてゆく海水を眺めつつ塔へと足をつけた。
チャパパパパパ。
その場に降りてすぐ、声が聞こえ周囲を見回す。隠しきれていない気配をふたつ、見つけた。ただの人、海兵であれば彼らの姿を捕らえきれなかっただろう。しかしアンは見聞色に傾いた能力を持っている。そもそもが内なる声を拾う能力だ。座禅を組み、考えるという行為を捨て、ただ座すことのみに意識を集中する等をしなければ決して漏れ出ることを止められないそれを聞く。
ひとつは見知らぬはじめてのもの。
だがもうひとつは無条件に苛立つ人物のものであった。忘れて欲しいと懇願されたとしても、取られた行動の全てを忘れてやるほどアンも人間が出来てはいない。かさぶたをはがし、熱した鉄を押し当てても尚、怒りが収まらない相手------。
形容しがたい体格を持つ丸い物体と存在することさえ汚らわしいそれを冷ややかな目線で見下ろせば、宣戦布告とばかりに丸い物体が先手を取ってきた。
近づいてくる男は草色のおかっぱ頭をした、丸い体をしていた。しかも人体にあるまじき、チャックのようなものが唇に付いている。
世界にはまだまだ、アンの想像をはるかに超えたものがあるのだろう。兄弟たちが見れば、きっとアンには思いつかない遊び方をするに違いない。
黒で統一されたスーツの仕立ては良さそうではあるが、馬子にも衣装ということわざが浮かんでくるくらい、体型に合っていなかった。
紙絵で躱す。
なんとも雑な動きだった。
わざと、であろう。そう思い至ったのは目だ。何かを狙っている。そして余りにも無防備すぎた。
この地にいるのだ。世界政府関係者であろう。失敗を思い返し自戒する。手心を加えながらもかかとを振り切れば、破砕音と共に土煙が上がった。
「"六式"遊戯!手合わせっ」
丸いものがむくりと立ちあがると、目を瞑り、丸いものがなにやらつぶやいた。
「むむっ…測定不能!! お嬢さんもう一回殴ってくれー!!」
「嫌だ」
淡々とした声で否定の意を示す。
六式、と彼は言った。ならばアンの知らぬ技術だ。触らぬが良いと判断する。
嫌だ、と言ったにもかかわらず弾丸のように突っ込んでくる彼に対し、アンは首を傾げる。
あきらめるということを知らないのであろうか。それとも彼は殴られ蹴られて喜ぶM属性持ちであるのだろうか。思わずそんなことを考えてしまう。
にじり寄ってくるそれに、アンは距離をとる。
逃げるのではない。近づかれた分だけ間を取るのだ。
変態には近づかないが鉄則である。
鉄砲玉のように突っ込んでくれば、空に向かってよければいい。しかしながらこの丸い物体との接触は出来るだけ微細にしておきたい。
書類を取りに来ただけだというのに、随分と過分な運動をさせるものだとアンは首筋に手を当て、視野に入れたくは無い男を捉える。
びくり、と過激な反応を寄越すそれから再び視線を戻すのは丸いものだ。
普通ではない。と当てた今ならわかる。
何式使えるかはわからないが、アンと同じ体術の使い手であるのだろう。ぐん、と距離をつめてきた丸いものを回し蹴る。
「おかしいなー測定が出来ない。チャパパ」
言葉から判断するに、何かを測っているらしい。
メデューサの石化から解けたかのように、もう一人の男が唾液を飲み込む際に喉を鳴らし、カツリ、と革靴の底を鳴らす。
「…さすがは英雄候補といったところですな、お嬢さん」
言葉を必死に選んだのだろう。が、どんな言葉を投げかけられたとしても、不快であるのは変わりは無い。
かつてウォータセブンで会ったことのある男が顔面を引きつらせながら、必死に笑顔を浮かべている。
直接的ではないものの、大切な友の仇であり、トムを利用し成り上がろうとした不貞の輩である。
それ加え、なんとも目ざとい、耳ざといやっかいな男でもあった。
アンがデイハルドの目、であることを知っているのだ。天竜人の威を借るものなのである。海兵とはいえ丁重に扱わざるを得ないのであろう。
随分と顔面が変化していた。フランキーに受けた傷が原因であろう。頭蓋骨を支えるための皮製ギブスを嵌めている。
「お前こそ、良くその地位につけたものだ。……スパンダム長官」
海軍本部少佐。世界貴族の恩寵を受ける者。
英雄ガープの孫にして、新たな英雄候補とも名高い少女を目の前に、スパンダムは奥歯を噛み締める。
「ええ、おかげさまで。重責に耐えながら必死に業務を行なっておりますよ」
笑え。恐怖を見せるな。必死に表情を作る。
たかが小娘、たかが海兵だという考えを捨て去り、五老星との謁見時と同じ心境を保ちつつ、言葉を選ぶ。
あの日、祖父である中将と共に居たときには持ち得なかった威圧に、スパンダムは尻込みながらも己の矜持を保つため気丈に振る舞い続けた。