ONE PIECE~Two one~   作:環 円

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29-休日

 時には口から魂がこんにちはーと出てくるくらい、なにもせずぼーっとしていたい一日もある。

 状況が許すなら、是非ともそうしていたいのはやまやまであったが、陸上に戻って来、休日だからといってゆっくり休めるとは限らない。

 幾つもの戦果を上げ帰って来たマリンフォードで、引っ越し作業が急ピッチで進められていた。誰の、と問われたならば自分の、とアンは答えるしかない。

 黄猿の艦は残念ながら任務のため出払っており、合鍵を使って荷物を数キロ離れたサカズキの家に運んでいたある休日の午後。

 トラックがあれば一気に運べるのだが、細い路地のその向こうにある新たな居候先には入れる幅の道がなかったため、荷車を使い手作業で少量ずつ行なっていた。作業をひと段落させ、縁側で茶をすすりながら頬を緩ませる。

 

 「美味しい…」

 アンはふう、とほっこりとした吐息をつく。こんなにもゆったりとした時間を、ひとときであろうとも得られる幸せに、顔面の筋肉が緩む。

 赤犬艦に乗りこんでからの日々は怒涛と表現する他なかった。

 

 戦いののろしが上がれば、有無を問われる事無く、前線で指揮を執りながらの戦闘が始まる。

 1カ月半の航海の内、ほぼ3分の2は戦闘を行っている状態と言っても良かった。それらは勿論、訓練では無い、実戦だ。

 だがそれだけならまだ良しとしよう。所属に振り分けられたのは、上司が存在する分隊だったからだ。取りまとめをする頭には据えられていたが、基本的に上から下りてくる命令に従っていればよかった。

 

 しかし、赤犬の艦内では配置換えも頻繁に行われていた。入れ替わりが激しい赤犬艦である。

 分隊の長に据えられる人物は年齢や所属年数よりも実績が何よりも優先され、例えその年に入ったばかりの新兵であろうとも実力が伴うならば、幾つかの跳び昇格を大将の申告により行われた。

 

 実力があるものから昇給してゆくのである。

 アンは即座に分隊に所属するひとり、からその長へ格上げされた。

 黄猿艦で集団戦闘を叩き込まれ、その実を如何なく赤犬艦で発揮したその身を、大将が放っておくわけが無いのだ。

 

 知らぬ間にころころと転がされ、気付いたときには副長の座に収まっていたのである。

 海軍本部内の階級はそのままだ。しかし艦内では副長、と呼ばれる立場になってしまっていた。

 元からこの艦には2名の副長しか在席していない。故に3つ用意されている副長という職務に、適任者がいれば就けるは当然のなりゆきであった。

 

 かつてからの副長達は主に、新しい副長に抜擢されたアンが仕事に慣れるまでの間、後方支援に回るよう大将より言いつけられている。戦闘時、大将が真横についてくれるとはいえ、初めは自分の耳を疑ったほどだ。

 だがしかし。

 「それくらい出来んのか。黄猿は甘やかしちょったんだのう」

 赤犬からの売り言葉に、アンはカチンときて買ってしまう。

 ボルサリーノからは基本的な指揮のやり方を1年で仕込んで貰っていたからだ。1年間とはいえ面倒を見てくれた小父に対して、悪口を言われるのは癪だった。

 あとで嵌められたと気付き後悔したとしても、一度口に出した言葉を無かった事には出来ない。

 

 「そこまで言うなら、やらせて頂きましょう」

 その代わり、どんなことになっても尻拭いは大将が行なうこと、と言い切ったアンに赤犬はにやりと笑んだ。

 口車に乗せられていた、と本格的に気がついたのは、同室の副長が戦いごとのデータを整理していたのを見た時だ。

 「あなたの成長には目を見張るものがありますね。叩きがいがある、そう大将も思っておられるのではないでしょうか」

 そう言って提示された資料には、事細かなデータが載せられていた。

 その全て、赤犬が副長ふたりに言いつけてとらせていたアンの成長記録に他ならない。

 

 顎が外れるかと思った。

 かつての年齢を足せば30を超える年月を生きているとはいえ、幼い時分の繰り返しでは、海千山千のツワモノには及ばないと分かってしまったのである。

 大人ぶれるのは同年代まで。

 それ以上の人物には、手も足もまだ届かないヒヨッコであった。

 

 百面相の如く悶える新たな副長に、同室の男は笑みを浮かべる。

 壁に頭を衝突させ、反省は終わりだと叫んだのには驚いたが、悩みの種が吹っ切れたのならば僥倖だと見なかったことにした。

 

 内心で打倒赤犬を掲げるアンを余所に、大将による仕込みは順調に行われていった。

 このまま海軍に所属し続けるなら、次世代の幹部にもなれるだろう、という現上層部の判断もあったからだ。

 ガープもあと数年奮闘し、この孫に跡を継がせるか、とも思案しているという。そう言う話も回り回って聞こえてきていた。

 気付かない振りをしているのは、当の本人だけである。

 

 ならば逃げ道を塞ぐのは出来るだけ早いほうが良い、と多くの人物が囲い始めるのも当然であっただろう。

 

 また悪魔の実の力を無効化したという話は、幹部内で話題になっていた。

 世界を破滅に導く、いくつかの悪魔の実の力も抑えられるのか。

 もし出来るなら脅威の危険度を格段に減らす事も出来るのではないか。

 例えば白ひげが所有する、グラグラの実の能力をも無効化出来るのかと期待がかかっていたからだ。

 

 センゴク元帥立会いの下、実験が行われたが発動条件は曖昧だった。

 ただアン自身の身に危害を加えようと試みた際、悪魔の実の能力を使用した場合に限り非発動が確認された。

 「多分ですけれど、青雉大将や赤犬大将が、氷や溶岩の力をわたしを対象とした場合に非発動になるんじゃないかなぁと」

 

 肉弾戦のみを両大将と行なった際には、ダメージが直接通った。

 結論を述べればアンに死をもたらそうとするなら、直接攻撃のみ、が有効手段となる。

 

 センゴク達が期待した能力の範囲攻撃についてだが、この効果が働くか、と問われても現段階では不明としか言いようが無かった。

 試すならば大がかりな用意が必要となるからだ。現状試験的な実験を行うのは厳しかった。白ひげが表に何らかの形で姿を現した時に一発勝負するのが無謀ではあるが妥当か、とも考えられる。 

 大海賊と呼ばれる白ひげと対峙するとなれば、海軍とて無傷ではいられない。多大な害をお互いに被るだろう。それだけ新世界に君臨する四皇は手出ししにくい勢力といえた。

 だからこそこの稀有な能力を使いこなせられるなら、とセンゴクは思案する。

 今まで厄介事しか持ちこまなかったガープが、ここへきて今までの負債を全て回収したような感じだ。

 

 

 ひなたぼっこしながらお茶を飲み終えたアンは与えられた部屋を振り返る。

 縁側の廊下続き、居間の隣にある十畳ほどの部屋だ。

 木の箪笥に、座布団、机。この家も純和風で落ちついた雰囲気であった。

 思いの他、荷物が増えていたのは想定外だった。抑えたつもりであったが、書籍類の重なりが最も重厚となっている。

 ドーン島では手に入れにくい多くが本屋に並んでいるのがいけないのである。しかも注文すれば、必ず入荷する本屋の看板娘の手腕が凄すぎでもあった。

 「今度、島に戻るとき持って帰ろう」

 アンはつぶやきながら、いっそのこと、義祖父の家を貸し本屋にしようかとも考えた。現実逃避である。

 庭にはサカズキが手入れをしている盆栽が幾つか置かれていた。庭にある池には鯉が泳いでいる。

 逃げたとしても現実は何も変わらない。アンはゆっくりと立ち上がり、書籍の整理に取り掛かった。

 

 赤犬自身は休日返上で本部に詰めていた。

 大将ともなると出撃以外に会議や事務処理など、雑多な用務が積み増しされる。その補助を担う役目が、副長達だ。アンを除くふたりも本日、大将に付従い本部で仕事をしているはずだった。

 

 片付けばかりしていては飽きてしまう。気分転換に差し入れでも作り、持っていこうかと思案する。

 アンは積み重なった段ボールの箱を腕まくりしやっつけ始めた。

 全てが終わった後すっきりと片付いた室内でごろりと転がれば知らない天井が目に映る。その後、くすくすと笑んだ。

 とある漫画を思い出したからだ。目を覚ませば知らない天井が映り、ここはどこかと身をよじる。だがその体は固定されており、次いでその目に当てられたのは強烈な光だった。そう、彼はとある組織に捕まり、肉体改造手術を受けるまさにそのときだったのだ。

 

 アンの身に漫画のような急展開はそうそうやってこない。

 来ていたと認識出来るのは、過ぎ去った後だ。その最中に身をおいている時は必死に目の前を片付けるたけで精一杯なのである。

 最近はドーン島の全てを回り終えたエースが暇を持て余し、手助けをしてくれるようになった為、多少は余裕を持てるようになりつつあった。

 

 (……さて、と)

 

 台所にはみずみずしい香りを放つリンゴが籠に入れられ置かれている。

 休日初日にサカズキを連れ、商店街で購入したのだ。

 当分の食材を買い込み冷蔵庫に収納している。だからいつボルサリーノが訪ねて来ても、お酒とつまみを出す用意は出来ていた。

 把握済みの台所で戸棚の中から小麦粉やチョコレート、アーモンド、冷蔵庫からは卵と牛乳を取り出し慣れた手つきで下準備し始める。

 オーブンを温めておきさっくりと生地を混ぜ合わせた。鍋もフル稼働だ。

 次第に甘い香りが室内に漂う。

 焼き上がりを待ちつつ適当な大きさの手下げかごを探し出し、チェックのナプキンを敷く。その上に皿を置けば準備は完了だ。

 

 お茶を入れ直し縁側で本を開いた。

 座布団を二つに折って胸の下に置き、うつ伏せに寝転がる。

 艦ではなかなか読む時間が無く、積んだままになっていた書籍だ。

 主に植物図鑑だが、中には医学の本も混ざっている。

 読み始めてすぐに柔らかな日差しに眠気が誘われた。ぽかぽかとした陽気に思わず頬が緩む。

 そう、ここマリンフォードは春島である。

 

 (このままうとうととするのも気持ちいいよねぇ)

 

 そんな事を思っているとオーブンが出来上がりを知らせる音を鳴らした。ぱたりと読みかけの本を閉じ身を起こす。大きなあくびを我慢せずに放ち、目をこすりながら台所へと向かった。

 

 出来上がりは上々だった。

 甘さ控えめのアップルパイと、ロッククッキーの2種だ。

 パイは皿の上に移し、クッキーはいくつか袋に詰めてつっかけを履いた。

 

 普段着はこのマリンフォードに来てから定着した作務衣だ。本部に行く場合、本来なら着替えて行かねばならないのだが、暫し考えた後でずぼらする事にした。どうせ届けるだけだ。

 鍵を閉め、道に出る。

 時計は丁度、おやつ時を指していた。

 出来るだけかごを水平に保ちながら、近道を走る。そう、家と家の間の塀の上や屋根など、障害物に阻まれない路、である。途中、顔見知りの猫と出会い、並行走行しながら進んだ。

 

 本部にも真正面からではなく、横から侵入する。

 基本海兵とその家族、そして入島を許された一部の住人しか存在しないこのマリンフォードでは、抜け道が多く存在している。

 一時的に囚人を捕縛し、捕らえる堅牢周辺の警備は厳重だが、その他は案外、網目が大きい。その分人の目での確認がされていた。ふたつの目も数多く集まれば、侵入があってもすぐに目視される。その他、覇気使いが特に重要な部分を警護している為、見回りに就く海兵達に気負った様子は無い。自然体で役目に当たっている。

 

 (かくれんぼみたいで、たまにはこういうのも楽しいよね)

 

 アンは気配を様々なものに紛れさせつつ、まずはとある中将の執務室へと入り込む。

 そう、義祖父の部屋だ。

 鍵はかかっていない。アンが浸入してもガープは難しい顔をして書類に向かっている。

 「おじいちゃん、ここ、訂正すれば計算合うと思うよ」

 「おおそうか。そろばんそろばん…ん、アンか。よう来た。茶ァ入れてくれ」

 

 はあい。

 そう返事し茶葉を急須に入れる。

 「ところでのう、よくここまでそのなりで入って来れたもんじゃ」

 「いろいろあるの」

 香り立つ緑茶を淹れた湯呑みを机に置くと、義祖父からほれ、となにかが手渡された。

 これに通ってきた道を書き込め、ということらしい。よくよく広げて見て見れば、海軍本部の詳細が記された地図だ。

 「お前にかかればすぐに新しい経路なんぞ見つかるじゃろう」

 それに、どの場所へも飛びこめる能力があるのだからと言われてしまう。

 「あのね、おじいちゃん。瞬間移動は便利だけど疲れるんだよ」

 

 アンがその能力を使う時、心の中に思い描く風景や形象が絶対的に必要だった。

 最も楽に飛べる方法は人物だ。

 その人を具体的に思い描いた像さえあれば、確実にその場へ飛べた。

 乱暴ではあるが、写真があれば行こうと思えば至れる。

 

 「おじいちゃん赤ペン」

 ひょいと投げられた太いペンを受け取り、幾つか侵入しやすい入り口を書き込む。

 「出やすいところは?」

 「全部書きこんどけ」

 「適当に」

 記憶していたばれても構わない死角にバツ印をつけた。

 

 アンは一度見た物は絶対に忘れない、絶対記憶の持ち主では無い。

 適度に物忘れもすれば、うっかり忘れてしまう事柄もある。

 この絶対記憶、一部ではあるが実はサヴァン症候群という疾病の可能性が高いとされている。

 原因は特定されていない。脳にまつわる、多くの部位に関してまだまだ不明な未知の領域が存在しているのだ。

 能力の例としては書籍や円周率などの暗唱。有名なのは読んだ本を瞬時に記憶する、という人物だろうか。

 映画でも取り上げられた事のある題材だ。

 映像記憶や絶対音感もこの類に入る。

 

 アンの記憶能力の高さは、多くの事柄を覚えられる訓練を、やっているが故だ。

 一番簡単なのは言葉と映像を結びつけて記憶する方法である。異なる言語を覚える場合に使われる方法だが、案外これが色々なものに使えるのだ。

 アンはこれを場所と物を結びつけ記憶していた。いわゆる目印、である。

 

 「はい、おじいちゃん」

 孫から受け取った地図をガープは面白そうに眺める。

 「こりゃあ大規模改装が必要になるな」

 

 長年この本部を仕事場としてきた祖父だから分かる事情もあるのだろう。

 

 ふとアンは義祖父の机にある手配書を手に取った。

 新しく刷られたものなのだろう。しかし見た事がある顔が載っていた。

 「おじいちゃーん」

 「何も言うな。わしは知らん、知ってても言わん」

 

 うん。とアンも頷く。

 手配書の枚数は3枚だ。そのどれもが見知った顔だった。

 『革命家ドラゴン』、『カマバッカ王国の女王エンポリオ・イワンコフ』『暴君バーソロミュー・くま』

 揃いも揃って革命軍の顔が並んでいる。

 

 最近の革命軍は怒涛の勢いで幾つもの国に活動域を広げていた。

 世界地図で言えばほんの一部でしかない。だがこの一部を全てにしようとしているのが革命軍だ。海軍もようやく、重い世界政府の腰が上がると同時に、動きだしはじめたのだろう。アンは貰っていいかと確認した後、それらを折り曲げてポケットの中にしまう。

 また会う約束をしているのだ。そのときに驚かせようと思ったのだ。

 

 先日になるが、イワンコフとアンは接触していた。

 何処で知ったのか、アンが丁度ウォータセブンを訪れていた際に待ち伏せされていたのだ。

 用件は個人的なもの、だった。

 あの顔だ。目立つかと思いきや、雰囲気を変えて女性の姿で現れ、驚愕と驚嘆が一気にやってきたのを覚えている。

 

 話し方も独特だった。

 

 お友達になった記念にイワちゃん、と呼んでも良いとくねられたのだ。

 どこのツンデレだとアンは冷たいまなざしで見た。

 すれば顔を赤らめ、その場に倒れ込んだのである。呼んでくれなければ、いやらしいことをされたと絶叫すると……一応、脅されたのだと言うべきか。

 場所が人通りのほとんど無い裏路地でなければ、一騒ぎくらいは起きていただろう。

 

 名の呼び方くらい指定された位でどうということは無い。

 アンは請われるままにその名を呼んだ。すれば呼ぶたびに悶え始めたのである。

 いやん、やいい、とか、文字で書けば伏字になる羅列をいくつも連ねたのだ。

 

 耳元で囁けば悶絶し、数秒ほどの硬直を経た後なかなかの口撃ッチャブルね! という褒め言葉を貰うに至るのだが、これはこれで困った性癖ではなかろうか、と心配になるアンがいた。

 なにがどうイワンコフの琴線に触れたのかは謎であるが、気に入られること自体は嬉しいと思えた。しかしながらアンの中で不思議生物に認定された存在が王国の責任者であり女王様と王様を兼任してるっていうのだから、世の中、奇奇怪怪だらけだとアンはそんな事を思い出しながら、甘さ控えめのクッキーを義祖父の机に置いて、窓を開け放った。

 

 「どこへいくつもりじゃ。よもやそこから行くつもりか…」

 「モチロン。サカズキおじさんの部屋、この真上だし」

 「階段を使って行け」

 「えー、だってこの格好だし」

 

 アンに対し好意的な人物たちだけと会うならば廊下を行っても構わないが、この海軍本部にはそうでない者たちも多い。

 良くある愛され系の物語であれば誰と会ってもよいよいと素通りさせてくれるだろうが、現実はそう甘くないのである。

 ぶーぶーと文句を言う孫に育て方をダダンが間違えたのかとぶつくさとつぶやき、思わぬところで野生児っぷりを発揮する少女へガープは嘆息した。

 「ついでにこれをおつるちゃんに届けてこい。わしからの用事だと言えばその格好で歩いても構わんじゃろ」

 

 義祖父の提案に口を尖らせて反抗する。休日に本部へ来るのは間違ってはいるが、折角の隠密作戦かくれんぼ実行中であるのに、それをやめろ言うのか、と不平をこぼすがしかし。

 新茶の袋を駄賃に貰ってしまっては仕方が無い。

 服装の件を何名かに冷やかされながらも、ガープに書かせた『わしの用事中』という紙を背中に張り付け足止めの口実を与えないようにしながら、おつるへ書類とクッキーの差し入れを渡し、階段を昇って赤犬大将の部屋へと入る。

 

 中は修羅場っていた。

 もくもくと仕事を続ける真正面のサカズキへ、ふたりの副官が懸命に書類を送り続けている。飲み物も既に空になっており、カップの底が乾いている様子だった。

 入室してきた瞬間だけ赤犬の視線が上へ向いたが、すぐに元の位置へと落ち戻る。

 アンは作業の邪魔をしないようカップを3つ回収し隣の部屋に入った。洗ってコーヒーの用意をする。粉と水を入れれば、自動的に黒い液体がたまってくれる。その間に小皿へと切ったパイを乗せ、立ち上る湯気の香りに目を閉じた。

 

 開け放たれた窓からは海原が見える。めまいを感じ壁へもたれかかった。

 「…そう。なるほどね。次の目的地はそこか」

 目を細めて青の向こう側をアンは見た。世界が運んできたいくつかの内緒話は生々しい死の匂いを含み、新たな種が確かにばら撒かれ始めている。

 その中にひとつだけ、ようやく結実した知らせが混ざっていた。"偉大なる航路(グランドライン)"内にあるクライガナ島で長年続いていた戦乱が終わった、という報だ。両勢力共々、生き残りなく息絶えたのだという。

 両者がどうして戦乱を始めたのか、当事者でもあるクライガナの住人達も、時代を重ね過ぎて知るべくもなかったのだろう。もしその術があれば、もっと早くに和解し、犠牲にならなくても良かった命もあったかもしれない。

 

 だがそんな感想を述べられるのは、あらましが分かるからだ。

 世界的に見れば、ようやく終わった内乱の報に、そんなものもあったと少しばかりの意識が向くだけに過ぎない。いや、向けられずにさらりと、そうなんだ、と次の話題に視線をただ移す程のものでしかない、が大多数を占めるだろう。

 自身が関わっていない出来事など、そんなものだ。

 どこかの誰かによって引き起こされた、気まぐれなゲームだと知るのは、これから配当が配られる、参加者だった者達の子孫だけだが、彼らにしても事の始まりに興味を向けるなどはしないだろうとアンは思う。

 彼らが向けるもっぱらの関心事は、これから起こる事、に尽きるからだ。

 

 天竜人の遊びは、ことごとく気分が悪くなる。

 さらにそこへ輪を掛けた、胸糞悪くなる報にアンは眉をしかめた。

 

 「……本当にやっかいな人に目を付けられた」

 

 心中に浮かぶのは、ピンク色の男だ。

 名をドンキホーテ・ドフラミンゴという。「天夜叉」の異名を持つ、つい先月、王下七武海に名を連ねたばかりの新参者である。

 しかしこの男を侮ってはいけない。

 なにせ世界政府を相手に大博打し、勝ったのだ。そして手に入れたのは、世界政府公認の略奪免許ととある王国である。

 デイハルドに関わりがなければ、二度と会いたくは無い部類の人間だ。が、彼にとってドンキホーテ・ドフラミンゴは血縁であった。

 5親等も向こう側であれば他人としてもおかしくはない。しかも廃嫡した家系だ。

 

 「……そこが、あの小父の小癪なところだ。もうひとりの大小父のほうがまだ、会話を成立できるから僕は好きなんだが」

 

 彼は天竜人の弱みを良く知り、己が叶えたい願いを成就させるため、世界中にくまなく網を張っているのだ。

 王下七武海の立場を手に入れ、再三、アンに面会の要請を送ってもきている。

 全て丁重にお断りしているが、世界政府の弱みを握る彼の機嫌が悪くなってはいけないと、一部の役人がセンゴクへ圧力をかけてもいるらしい。天竜人の血族とはいえ、海賊に堕ちたドフラミンゴに両手でごまを擦っている役人が阿呆だろう。

 デイハルドも苦々しくしていた。天竜人である友人は青海に対しうかつに手を出せない。世界をチェス板に見立て、遊ぶ際にも世界政府の手が入る。

 

 だがどんな組織や上手くできている仕組みにも僅かな隙間がある。精巧に作られた建築物であったとしても、年数を経れば隙間風がどこかしらか吹くように。

 天夜叉は隙間を見つけるのが上手い。わずかなそれを用い、ドフラミンゴは我が物顔で天竜人が暮らす都へと入ってくるのだ。

 天竜人を眼前に見据え、己の中の怨嗟を絶やさないために。

 

 アンはピンク色の男の中にあるヘドロに捕まるつもりは全くない。

 とはいえあの男の周囲を固める者たちは、アンの目から見ても精鋭ぞろいである。真正面からぶつかり、勝てると断言できる数は片手で足りた。

 

 こぽこぽと良い香りとともに黒の液体がガラスの中に落ち始める。

 ポケットの中から取り出したのは三枚の手配書だ。それぞれの勇士に唇の口角が上がる。特にイワンコフの姿は、どこから隠し取ったものだと突っ込みたくなるほど斜め角度が効いていた。手配書が作られた、という事実に基づいた過程から、いよいよ海軍に革命軍の討伐命令が出されるのも時間の問題であろう。

 

 世界がゆっくりとうねり始めていた。

 未来に続く布石が、形を持ち始めている。その全ての場所に弟の姿がちらつくのが非常に気になるところだが、今からああだこうだと工作しても忘れてしまう確立が高い。

 

 (それぞれの手並みを拝見、って第三者ぶれない、か)

 世界貴族の中では、革命軍が次にどこを落とすのか、が賭けの対象になっているという。

 窓の外、広がる青の世界。

 問いかけに応える声は、……なかった。

 


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