縁側で光合成するのが最近の日課となっていた。
業務は全て取り上げられ自宅待機を命じられているため、何もすることが無い。
よって日がな一日、本を読み、飽きれば掃除や食事の準備を、何もなくなってしまえば縁側で茶をすする。
船上生活と比べると全く持って怠惰すぎるといわざるを得ない。だがこれが、平和というのだろう。何も起こらずただ日々を消化できる。
……戦いの無い世界、って貴重よね。
最近ほとほど、そう思えるようになった自分になぜか苦笑が漏れる。
島での生活は生きるか死ぬか、の2択だった。自給自足が主であり、ほんの少しでも気を抜くと足元を掬われる。あの森において、食物連鎖の頂点になったとして完全に身を守れるのか、と聞かれれば、そうでもない、とアンは答えるだろう。なぜなら絶対、はありえないからだ。どんなに強くとも熟睡時に襲われれば反撃など出来ないうえ、無抵抗で相手の腹に収まってしまう。
だから群れる。巣を作る。安全な場所を確保する。
病床の上でアンはかつて、を嫌というほど反芻した。
意識を取り戻すまでは悪夢の繰り返しだったような気がする。
今の自分と過去の自分が全く別物だ、という意識は無い。かつてがあるから今があるし、何が起こっても慌てふためかず問題を注視できる余裕がある。そして経験則から決断した選択に躊躇無く踏み込める利点がある。
そもそも過去に引っ張られて今を大切に出来ないのは、勿体無いと思うのだ。
だが自分が思っていた、してきたこと、が無くなるわけではない。2週目の人生を送っているアンにとって、1週目は本来なら思い出したくない暗黒領域だ。なぜならば、「似合わないこと言ったあの人のこと、わたしどうするよ!」「あれってどうなった? かくして無いよ?」「日記とか誰かに見られたりしたら、恥ずかしすぎて死ねる」という羞恥によりもだえたくなる事柄ばかりを残してきていたからだ。
特に少女時代が良くなかった。
肉親の死とは格好の現実逃避事情となる。
アンの場合、何も考えない日々がまず続いた。そしてあったはずの音が途絶え続けていることに気づく。両親がもう、居ないとじわじわと現実に心が追いついてくる。
魔法が使えていたら。この空を飛べたら。日々が単調すぎて、つまらない。時間が巻き戻れば良いのに。何か起こればい。例えばあの有名な預言書の中身とか。
そうして死ねば、魔法があれば、両親に会えるだろうか。こんなに辛い日々は終わるだろうか。
そしてあるわけが無い。どんなに願っても、漫画や小説に出てくる主人公のような特別にはなれないのだ、と気づく。どんなに辛い状況になっていたとしてもいつかは気づかなくてはならなくなる。逃避したままではいられない。
どんなに悲しく辛くとも、お腹もすくし体の変化も起きてくる。
幸いなことにアンには待っていてくれる人が居た。忍耐強く、丸めていた体を伸ばそうと思えるまで、ただひたすらに待ってくれた人がいた。
だから乗り越えられたのだろう。
のろのろと立ち上がり、日々に戻れば、どうしても聞こえてくる、見えてくる。逃げてばかりではいられない。
そして大人になって思うのだ。想像は想像のままであるほうがいい。なぜなら泰平であれば人間が人間らしく考え動かなくては物事が成り立たなくなる。言い訳を作り諦めてゆく。
ある意味アンは過去に囚われている。恥ずかしい思いを繰り返したくなくて、大人の思考を幼い頃から引っ張り出しこれが本当なのだと、これが世の中だと自分に言い聞かせて大きくなった。
だからほんの少し、勿体無くも思ってもいる。
本来ならば、将来はああしたい、こうしたいと夢を語る兄弟達が正常なのだ。馬鹿なことを繰り返して、出来る事とやってもいいことの区別をつけてゆく。だからアンは兄弟達がある意味羨ましかった。
海兵になる、と決めたのも打算が大きかっただろう、と振り返れば思う。並び立てる力が欲しかったのは本当だ。
しかしエースの言うとおり、力だけであれば、あの島でも十分に蓄えられる。
ならばなぜ外に出たのか。考えを巡らさずとも答えが出た。エースは将来、海へ出る。これは確定事項だ。
海へ出る許可を与えるのは国だが、伝手が無い場合これはかなり難しい。性格からしてどこかの商人へ弟子入りし、丁稚から始めるなども考えられない。となれば、手っ取りばやく漂流者を選ぶ。噛み砕けば海賊、である。
そうなれば周囲は敵だらけになるだろう。海軍はもちろんの事、賞金首を狙う者ら、そしてなにより補給のために立ち寄る村や町が中立とは限らないし、欲しいものは奪え、が基本である同業者である海賊に襲われる可能性も高い。
ならば知らねばならなかった。
海を、陸を。この世界を。
敵を知ればおのずとその隙間を垣間見ることが出来るようになる。
この思考はアンであるからこそ出来るものだ。エースやルフィは全く考えていないだろう。
可能性があるのはもうひとりの兄弟であるサボだ。サボは真っ白な状態から始まっている。アンのようにもうひとつの生、を持ってはいなかった。それなのにサボはアンと同様の知識を吸収し、その先を予想し展開、自由な発想の元、可能性を導き出していた。
羨ましくないわけがない。嫉妬していたのかもしれない。
自分に出来ないなにか、を出来る誰かをまぶしく思うのは、ある意味仕方が無いのだろう。
そこから自分も、と奮起できるか、あいつは特別だから仕方が無い、と諦めてしまうか。
アンが諦めなかったのは悔しかったからだ。サボに出来てわたしに出来ないわけがない。どうしてそう思ったのか、根掘り葉掘り聞いた。聞いても分からない部分もあった。だがサボは問題点をつまみ挙げるアンをすごいといつも言ってくれていた。自分だけでは疑問に思わない場所も、違う目線で見ればそんなにも違うのか、と新しい発見が出来る。ありがとう。
サボの言葉に何度救われているか、わからない。
海兵となった選択に後悔はしていない。がしかし。こうして手持ち無沙汰にしていると、頼ってくれるだろう、兄弟達に囲まれた、心地よい場所に戻りたくなってしまう。
「いかん、いかん」
アンは頭を振る。
誰かに頼られ、鼻を高く伸ばしたいわけではない。お前よりもわたしのほうが強いのだ、賢いのだと威張りたいのでもない。
結局のところ、「……寂しい」のである。
エースもルフィも戦闘民族だ。考えること、戦略はサボとアンが担当していた。兄弟の側であれば、安心できる場所がある。少なくとも力技でどうにもならなくなったとき、どうしたらいい!? と聞かれた回数は両手、両足では足りない。
広い家の中にひとりだけ。家の主は海の上に居り、なかなか戻っては来れない場所に居た。
訪問者も二度きり、どこかに出かけるとしても医療棟以外の出入りを禁じられていた。
抱える感情に行き着く。終着点にたどり着いて、瞼を伏せる。
兄弟達はいつでも戻ってきていい。そう言ってくれている。なのに戻れず、こうしてひとりで落ち込んでいるなど、自分勝手も良いところである。
「うう…船に戻りたい」
そうすればこういう思考に陥らずに済む。忙しさにかまけて、考えずに済むのに。
アンはひとりで落ち込みながら、そっとエースの意識にもぐりこむ。
兄弟達は相も変らず森へと出かけているようだ。
戦闘狂いではない、とは思うがそのきらいがあるのは否めないだろう。
昼飯の肉はでっかい亀だ! とかなんとか騒いでいる。亀の甲羅はいい値で売れる。是非町にもって行くといいと思うよ。
そんなことを考えながら、アンは軒下から空を見上げた。
柔らかく照る日差しに薄雲かかり、心地よい温かさを肌に落してくる。
ここ数日で消毒液の匂もだいぶ落ちてきた。巻かれた包帯もあと5つを残すばかりである。
目覚めたとき、身動き出来ぬほど固定されていた、言うなればミイラ状態だった。二度と経験したくない、体験だといえる。二度もあってたまるか、と思いつつも、またあるだろうな、という予感もあった。その有様からすれば、多少の引きつりは残るものの随分と動きやすくなったものである。
運ばれた当初、負っていた傷は医者がどうすればいいのか、どこから手をつければいいのか分からない、と嘆くほど酷い状態だったそうだ。海軍が誇る医師団だけでは手が足りないと、右往左往していたところへ、待ち構えていたかのように例の一団が加わったのも仕方が無いだろう。
最もアンの身体を繋げたのはベガバンクだ。砕かれた骨をパズルのようにはめ込み合わせ、断裂した靭帯を筋肉を繋ぎ合わせた、という。
話を聞いたとき、ベガバンクは科学者であり医者ではなかったはずだ。首をかしげてその疑問を伝えれば、科学者兼医者であるのだと、担当医が苦悶の表情で告げてきた。なんでも博士は医学の世界でも変人の烙印を押されているらしく、医師免許が交付される実力はあれど、発行されていない状態であるのだそうだ。
アンの術式もその一例であった。
筋肉の繊維を糸に見立て、次々と結んでゆく手さばきを披露し、骨と骨の狭間は医療用のホッチキスのようなもので止め、あっという間に縫合まで終わらせてしまった。その手腕は見習わなければならない。と医師団に感嘆されていたほどだ。だがしかし、多くの人が抱くだろう理解出来ぬそれらを、認めても良いものかという葛藤があるために表沙汰に出来ぬ処置となったらしい。
助手で入ったとみられる、とある人物が歓喜しながらアンの細胞を手を入れていたらしいが、意識を失っていたため全く覚えていない。海軍所属医師団の面子をかけ、怪しい部品を埋め込まれることは無かったが、その代わりとして多くの組織を持っていかれた、と聞いている。
と、一応。医師団から当時の状況報告を受けた。
血生臭く殺伐とした死と生の狭間で日々戦っている人々だ。
ちょっとやそっとの傷であれば、涼しい顔をしながら対処する一団ではあるが、今回は非常に危うかったのだろう。
アンは事が収束し終わってから、頭を抱えた。
なぜなら自分がしたこと、がどんなに周囲へ迷惑をかけたのか。見えてしまったからだ。
まだまだ配慮も熟考も足りない。意地を通したまでは良かったが、これから先が読めなくなってしまっている。
全くもって自業自得である。
意識混濁の上、致死量の血液を失っていた本人が目覚めるまでの間を覚えてはいないのは当たり前だ。
だが周囲は違う。
多くは語らないが、少なくともその日の出来事を指し示すだろう言葉を繋げれば大まかな状況くらいは見えてくるものだ。
天竜人に関して緘口令(かんこうれい)が敷かれているため、あれから聖がどうなったのかは分からない。
ただアンに対してだけならば、こうだ。
出血多量かつ筋肉断絶による重症のため早急に海軍本部へ移送。一命を取りとめ療養中である。
そして天竜人については久能山東照宮で有名な3匹の猿があらわす格言の通り実行されているようだ。
なんとも推測が多いとアンは苦笑をもらした。
聞きかじった、流れてきた会話を繋ぎ合わせているだけであるのだから、当たり前といえば当たり前だろう。
裸足で庭に下りた。
ぐちぐち悩むのもそろそろやめにしよう。気分転換に体を動かそうか。そう思って下りたのだ。
先日の診察で軽い運動であればしてもよい、と言質をとっている。海軍で教えられる体術の基本をゆっくりと繰り返す。
生死の境目をさまよったのにも関わらずに、たった1ヶ月でここまでの回復をみせたアンを医師団は『化け物』と称した。
笑えない冗談だ。と、最初はアンも思った。
だが自身の回復力を多くと比較してみると、確かに化け物と言われても当然か、とも考えるようになった。全てはベガバンクの処置がよかったからだろう、と思いきや明らかにそれだけでは無い要因が絡んでいた。
打ち抜かれた両手の傷が3日前後で表皮までもが再生、定着したのが意識を失っている7日間で。鞭によって骨が見えていたらしい筋肉も10日ほどで盛り上がり始めたという。
医師にあなたは熊か、とまで言わしめたくらいだ。
通常、断絶した筋肉や骨を含めた周囲には例外なく後遺症が残る。なぜならどちらも繋ぎあうまで安静にし、動かさないのが前提となるからだ。その間に筋肉の萎縮や関節の拘縮が起こる。患部の接合が終わったとしてもその周囲にある衰えた筋肉や関節の機能を回復させてやっと、日常生活が送れるか、の瀬戸際となるのが普通だ。
そしてどんなに苦しくとも長期間の運動機能回復訓練(リハビリ)を繰り返さなければ、日常すら戻ってこないし、取り戻せないのだ。アンの場合、運動機能回復訓練(リハビリ)を必要としなかった。獣並みの回復力、と言い表されたのも納得しようものだ。もしこれが自分の体でなければ、口にはしないだろうが同じことを思っただろう。
森で育った恩恵か。
真っ先に疑ったのはその線だ。生まれて間もなくの頃から森育ちで、少なくとも村や町という文化圏で育った人々とは違うだろう。
森では基本弱肉強食だ。弱ったモノから捕食される。怪我をする、イコール弱ると同意義の場所で暮らしてきた。人間に限らず生物には自己治癒力が備わっている。死を回避するため、細胞が活性化したのであれば、御の字であろう。
そこまで考え、しかしすぐにこれは、余りにもこじつけすぎだと却下した。
実はもうひとつ、化け物じみた回復力、を説明できそうな事案がある。それはエースとの同調だ。
双子として生まれたときから、なんとなくだがお互いがお互いの心が分かるつながりがあった。始めはは不満に思っていたり言いたいことが切り出せなかったりともやもやとした心が伝わってくる程度だったが、年齢を重ねるたびに遠く離れても会話できるようになり、今やお互いの体の一部、目や耳の感覚を共有できるまでになっている。
一卵性であったふたりだ。無い、とは言い切れないが、果たしてこれが普通なのか、と言われると、否、としか返答できないだろう。
アンには身に覚えが無いものの、入院中、お腹がすいた、とふらりと廊下を彷徨っていた事が数度あったらしい。
そういえば、とアンは思考にどっぷりと嵌りながら後方へ回し蹴りをひとつ、ふたつと左右に振り回す。
たぶん見間違えだったのだろう。前置きがあり、見舞いに来てくれたおつるが言うには、部下が本部内部でアンに似た姿を見た、のだと苦笑していた。3日目の徹夜に突入する海兵が目撃したらしい。その海兵は疲労蓄積が認められ、休みを振り替えられたという。
「だから見舞いに来たんだよ。その様子じゃ歩き回るのは無理だね。見間違えだったんだろう」
おつるは自らが持ってきた果物を剥きながら、アンにそう言った。
見間違えではなかったとしたら?
意識を失っている状態で、体を動かすことなど本来であれば出来はしない。
だがエースであれば。出来そうじゃ、なかろうか。
言葉が変だ。変だがそう表現するしかない。
これをエースに聞いても答えてはくれないだろう。なぜならアンもエースに秘密を持っているからだ。
互いに秘密を持たない、が原則ではあるが、持ってしまったときは同数保持しても良いことになっている。
「……別に、エースなら構わないんだけど」
アンは歯切れの悪い言葉を口にする。
エースが余りにも腹を減らしすぎたとき。アンが代わりに食べるときもある。
アンが睡眠不足に陥ったとき。エースが代わりに睡眠をとるときもある。
繋がっているからこそ出来る芸当だ。
しかし、しかしだ。己の中にあるこんな恥ずかしい記憶まで覗かれていたとしたら、叫ぶだけでは足りない。
恥ずかしすぎて、死ねるだろう。
そんなことで簡単に死を語るなといわれそうだが、それくらい、アンにとっては羞恥が過ぎた。
顔の熱さに動きを止め、両手で顔を覆う。
己に一番近しい、エースをちらりと覗く。
口の端が上がっていた。
ああ、もうだめだ。筒抜けだ。
あの日、デイハルドと友になるという約束したあの日、遮断したのは痛みだけではなかった。
エースが最も嫌うのはひとりになることだ。双子であるエースとアンは互いが互いを半分だと認識している。
繋いだ手があったから、ひとりでも平気だった。
だがアンが行なった切断は、エースからアンの鼓動までを奪っていた。
どんなにエースが荒れたか。
アンは病院のベッドから黄猿の家へ在宅療養を言い渡された数日後、呼び出されて聞いた。
目が覚め話しかけても普通であったし、普段の会話もあの日以前と全く変わりが無かったため、不意打ちだったと言ってもいいだろう。
普段は飛び跳ね一瞬たりともじっとしていない弟が静かに、あのな、エースが、ものすっごく、怖かったんだ。と、真面目な顔をして唇を真一文字に結ぶくらい、すさまじい殺気を放っていたらしい。ダダンに心配かけたと声をかければ、もう二度と無茶はするなと肩を掴まれ力説された。
そして当の本人は。
何も語らず、じっとアンを見ただけだった。
黒の瞳がアンを見据える。見据えて闇の中へ引きずりこむかのような引力を伝えてきていた。
感情が波打つわけではない。静かに、しずかにそこに在り続ける。だがその下には渦がいくつも巻かれていた。
渦に見えた。見えたがそれは揺らめく炎だ。人間の負を炎として現すならば、きっとこのような形をしているのだろう。そう思ってしまうほど、揺らめく感情は静かだった。
大声で怒られたほうが、どれだけよかったか。
「ごめん。もう二度としない」
そう言うが精一杯だった。それ以上何かを付け加えても、言い訳にしかならない。
エースが一歩、また一歩と近づいてくる。
身長差が出始めたふたつの姿がすれ違う。
「 」
アンの神経は総毛立った。
たった一言、その一言に身が固まった。
確かに、弟が怖い、と感じただけはあった。
息を整え振り向けば、エースもアンを見、笑んでいた。この会話はもう終わりだ。そう黒の目が語っている。
アンは一度、まぶたを伏せ同意を示す。
ふたりの間に言葉など必要なかったからだ。
アンは回想を終了させ、両手を顔からゆっくりと下ろす。
意識の向こう側では昼食が始まっていた。いつもながらの取り合いも今日は量ある得物が捕れたのか、随分と大人しい。
「わたしも、何か食べないと」
目を覚ました日から感覚が以前よりも強く繋がってしまったらしく、エースの食事が終わり満腹を感じてしまうと、アンにはもれなく食欲減退が待っている。怪我を治すにはしっかりと食べるようきつく言い渡されていた。
足裏についた砂利を払い、足拭きを探す。ちゃぶ台の上に置きっ放しであるのを視線をあちこちに投げた末に見つけた。
瞬間、足拭きのタオルが手のひらに出現する。
これは骨と骨の間を繋いだホッチキスを抜き取る際、ベガバンクに瞬間移動の要領で出来ないか、といわれ、やってみた結果の応用だ。
骨と骨の間にある芯は放っておいても時間が経てば、骨の一部として吸収される成分で構成されてはいるものの、微細な筋肉の動きを阻害する可能性がある。
医師ではないが、一般の医師よりも高い知識と技術をもつ博士に言われたとすれば、その通りにしたほうが良いような気が、しなくないわけでもないような気がしてくる。
応急治療は必要に迫られ学んだが、医学となるとどうも敷居を高く感じてしまい、敬遠していたのだ。サボが興味をもっていたので任せてしまった、という逃げもある。
骨を映し出す機材の前で博士にここを取ってみて、そう指示されるままにアンは体内にあった幾つかを取り出した。
ある意味能力開発とその情報収集だったのだろう。
しかしアンにとっても悪い開発ではなかった。
今までは自身ともうひとり、もしくは自分の重量+αの荷物を持って移動しかできなかったのだ。
半径のメートルが限られているとはいえ、練習し練度を高めていけば世界の裏側にあるものにも手が伸ばせるかもしれない。そう思いながら繰り返せば苦にならなかった。
パンにハムと野菜をはさみ、小腹を満たす。
エースが小さく舌打ちしたような気がした。
「ごめんね、最後のひとくち分、食べちゃった」
エースは一番美味しい、好物を最後までとっておくほうである。
互いに取り合わず、融通しあっていたため、急いで食べる必要が無かったのだ。
アンの食が細いのをダダンも知っている。だからアンの皿に残っているものは誰も狙わなかった。それが例えエースの分だったとしても、だ。なぜならいつの間にか上達していた、アンのナイフがぴたりと喉元に吸い付くのだけは遠慮したかったからだ。
(いいさ。それより暇ならこっち戻って来いよ)
「あー、うん。あのね、見張りが付いちゃってね。ちょっと行きにくいんだ」
じーっと見つめてくるふたつの目を見つめ返しながら、アンは苦笑する。こっそりと抜け出したはずの、脱出がばれていたらしい。情報室に繋がる監視が光っていた。
理由はそれだけじゃないだろうけどね。
アンは友人を思い浮かべながらちらり、と見張り虫を伺う。
黄猿邸に配置されたのはつい最近だ。入院時は必要ないと判断されていたとして、家にばら撒かれたのは退院してから随分経ってからだった。何らかの動きがあったらしい。推測は出来ても裏打ちできる情報を仕入れにいけないのが苦痛だ。
「あ、そうか」
アンはすっかり忘れていた見聞色の鍛錬へと入る。自身を中心に情報を拾う円の範囲を広げてゆくのだ。
まるでソナーのようだと思う。
だがこれが、意外と侮れない。多くの声が乱反響するのを我慢できれば、有用な情報が手に入る確立が高くなるのだ。
もっと効率的なやりかたがありそうではあるが、その仕方がわからない。
早急に師匠を探すべきではあったが、該当する人物がアンの中ではたったひとりしか存在しなかった。
その人は海賊をしており、現在位置がどこであるのか、全く持って分からない。海軍の情報網を使えば捕捉可能だろうが、双方の関係がばれてしまう可能性もある。
相手は気にしないだろう。それがどうした、と笑い飛ばすに違いない。
問題であるのはアン側だ。アンひとりの問題としてくれるならば安い授業料となるが、現在の立場を加えるとそこに義祖父が引っかかってくる。
軍は縦割り社会だ。アンの動き如何で義祖父にも影響が出る可能性があった。数々の勲功を打ち立てている英雄ではあるが、その行動が孫のせいで阻害されるのだけはしたくない。義祖父の良さはあの奔放さの中にあるのだ。自由人すぎて困る方が多いだろうが、義祖父からあの味を奪ってしまうと、なんともいえないムヅガユさを感じてしまう。
「……まだ本部までは無理か」
距離が足りない。
力不足に奥歯をかみながら、気分転換にと汗を洗い流した後、アンは様々な色が連なった石を首に巻く。
シャボンディ諸島で友人から手渡されたビーズアクセサリは、希少な天然石を使って作られた、高価な品だった。世界貴族である聖の印が刻まれたプラチナ片が鎖骨の上で揺れる。
そのままつけてしまうと胸下まできてしまう為、3重に首に巻いてある。鏡を見て、首輪みたいだと思ったのは内緒だ。
三日ほど前に、おつるから電伝虫にて先日の件については世界貴族及び政府からの咎めは条件付で一切無し、という電話を受けている。アンとしてはその条件について、が気になるところである。詳しい内容を尋ねてもおつるも知らないらしく、後日追って詳細が届くらしい。
なんとも仰々しく、使者がやってくるのだそうだ。そして書状を元帥であるセンゴクに手渡すという。
そのための準備で海軍本部はてんてこ舞いらしい。
友人は、デイハルドはアンを聖地へ招いてくれる、と言っていた。
そのために掌握する、とも笑んでいたはずだ。なにを、とは聞かなくとも分かる。
本当にあれで、弟と同じ年齢かと疑いたくなった。そうなのである。弟と同じ年なのだ。森でゴムの体を木に巻き付け、ぐるんぐるん回っている弟と同じなのである。
全く違うタイプであるのに、不思議にも目の色がなぜか重なるのだ。
俺様気質であるのは間違いない。世界はきっと彼中心に回っていると思っているだろう。
けれど見知らぬ世界の話に目を輝かせていた。聞き入り、その先を促した。
世界は広く、まだ見ぬ風景も多い。友となり自分の代わりに様々を見聞きし、こうして話してくれないか。
背中から聞こえてきた真摯な声に、アンは思わず諾、と答えていた。
後悔はない。どちらかといえば楽しみだと思っていた。
なぜならアンにとってもデイハルドが座す世界は未知であったからだ。
どちらかといえばアンは底辺に近い。下から上を見上げるのが、いつもだ。代わってデイハルドは上から下を見るのが常であろう。その格差が楽しみであるのだ。
かつて生きていた世界で暮らしていた国では国民総中流、を目指した社会であった。
それでも持ちえるものとそうでないものの差はあった。財や人はもちろん知識なども含められる。
かつてのアンはその中流だった、と思っていた。帰る家もあれば、両親や祖父が残してくれた貯蓄があったし、大学も奨学金を受けずに通っていた。そんなに多くは無かったが、アルバイトをして自由に使えるお金もあり、たまにだが美味しい贅沢もしていた。
だが雲の上だと思える、上流社会というもの、も確かに存在していた。
テレビで写る豪華なものが並ぶ部屋、生活、食の風景。
比べるのがバカらしくなってしまうくらい、想像できない豪華絢爛がそこにはあった。
貴族たち、とはそいうものだと思っていた。
同じ世界に住んではいるが、余り触れる機会の無い遠い世界の住人達。テレビの向こう側に広がる、芸能界という場所も似たような感覚だろうか。
馴染みがあるのは居酒屋とか、ファミレスとか、そう言う辺りで、接点などあろうはずもない。
意識の違いも顕著だろう。
この世界では最下層に生まれた。真ん中と一番下は身を以って経験しているが、一番上が何を考えているか、あまり良く分からない、が本音だ。
ただ想像は出来る。
支配者側であるのは確かだ。
しかし話を聞く限り世界を動かしている節は無さそうだった。政治的な判断は、別の組織が担っているらしい。
世界政府も組織的にピラミッド構造となっているのだという。
頂点が世界貴族であり、世界政府を統括している。
政府の下部組織として海軍、裁判所、刑務所が存在し、政府に所属する形で、それぞれの国が連なっていた。政府に従わない国も実は多い。非加盟国の末路は悲惨だ。既に国の形を成していない、慨形化された島も多く存在している。
加盟国は毎年決められた額の国税を支払う。払えない国は非加盟国へと転落し、世界政府公認の奴隷産出国となるのだ。
権力を振るう立場に立つ者を五老星という。たった5人でこの世界を動かしている男たちがいた。
過去から今に続く、流しこまれた偽りない、ただ淡々と事実だけを映したフィルムのような記録を読めば、世界貴族とは祭り上げられている、体のいい偶像だった。
どうやって選出されているのかは情報が少ないため断定出来ないが、世界貴族の中から選りすぐられた人員が五老星として選びだされ、手のひらの中で思うがまま世界を転がしているのか、もしくは世界貴族とは関係の無い、また別の集団があり、その中で教育を受けた人物達が職に付くのか。
解っているのは実権は世界貴族に在らず他所にあり、天竜人の殆どは聖地の中に隔離され血筋や文化などを守るためだけに存在しているっぽい、という事だけだ。
真っ先に思い浮かべたのは国家の象徴とされた一族だった。しかし彼らは、その人生をあの国の人々に捧げている。時間も命もその国に生きる人々が安らかであるように願い使っている。
デイハルドたちとは全く違っていた。
どちらがいいのか、アンには判断できない。出来ないが、たぶん、きっとかの国の象徴である方々が居てくれるだけで、頑張れる多くがあるのは確かだ。天竜人たちのように、ただ恨まれ、苦渋を飲まされた人々の怨嗟が向かうことはない。
アンは残っていた茶を飲み干す。そして立ち上がった。
と、同時に青い電伝虫がにょきっとつのを出した。
「どこにも行かないって」
そういいながらおいで、と手招きすれば目が斜めった。
どうやら首をかしげているらしい。
「お水かけてあげる」
アンは見張り虫を呼ぶ。毎日顔を合わせ続ければ愛着も沸こうものだ。
日に一度、こうしてじょうろに汲んだ水をかけてやれば、嬉しそうに笑む。
電伝虫は本当に不思議な生き物だ。
これで電話をかけたり、監視カメラの代わりに出来たりするのだから、存在自体が面白過ぎる。
機械では無い。ちゃんと生きているし触り心地もひんやりとしている。ルフィには負けるが、弾力性はかなりのもので殻の中が住処になっているのは確認済だ。
水浴びが好きなのはかたつむりだから当然としても、何を食べているのかが不明だった。
部屋にあげてもねとねととする液は出ないし、本当に不思議生物である。
ひとりぶんの食事を用意するほどむつかしいものは無い。食材を切りながら夕食の下準備をしながら、アンは西の空を見る。
「本屋さんにだけ……」
肉に塩胡椒が馴染むまでの間、縁側でまたぼーっとするのも良いが、最近購読している雑誌が出ているかもしれない。
アンは見張り虫に向かい、出かける旨を語りかける。
「本屋さんに行ってきます。30分くらいで帰ってきますね」
人差し指で見張り虫を撫でてから、草履を引っ掛けて外に出る。
荷物は布鞄と財布だけだ。
背を押す風に足をかけ、空を駆ける。
街並みが眼下に広がった。
着地の際多少の痛みを感じ、無理は禁物と地面を行くことにした。
向かうのは商店街にある本屋だ。夕方だからだろう。海兵達の家族が暮らす地区が隣接しているためか、賑やかだった。商業地区の向こう側には学校などが固まる教育施設がある。アンも本来なら、学校に通っている年齢だ。傷だらけになりながら、体を鍛えていると時々恋しくなる。
友達と黒板に落書きしたり、給食を食べていたこと。放課後のクラブ、中庭にある遊具で高オニやかくれんぼ、運動場でのドッチボール。
大学に通うようになってからは、学食で友達とお菓子をつまみながら音楽を聴きまわしたり、課題のレポートを数名で分散して楽にこなしたりと、楽しかった時間を思い出す。
あの頃は疑っていなかった。
幼い頃は明日が来るのは至極当然なことで、家に帰れば母がおかえり、と出迎えてくれる。誰かが居てくれる事が普通だと思っていた。テレビを見ながら宿題をして、父の帰宅を待ってご飯を食べ、お風呂に入って眠る。
懐かしい顔が脳裏に浮かんでは消えてゆく。
アンもすっかり、こちらに馴染んでしまっていた。
森で生活していた時は疑問に思わなかったが、母親と手を繋いで歩く同じくらいの年頃の子どもたちは、猛獣と戦った事も無ければ、人を殺めた事も無い、か弱い存在だ。
自分の手に視線を落とす。
アンの両手は間違いなく凶器である。生き続けるためにいくつもの命を消してきた。使い方を間違えれば、惨劇が起こるだろう。
ここに住む子供達は知らない。食べている肉も元を辿れば血が通う生きた命であったと。
それを殺し、血を抜いて熟成させたものが食卓に並んでいる。どちらかといえば工程を知らない者のほうが多いだろう。
だがそれを悪いもの、とはアンは思わない。知らなくてもよいのであれば、それでいいのだ。それぞれには生きる領分がある。
生まれた国から一歩も出ず、生涯を終える人々もいるだろう。
海兵となった人々や商人となった者たちのように、世界の海を行き来する職に就くこともあるだろう。
犯罪を犯し囚われの身に、短い生涯を終えることもあるかもしれない。
すれ違う人々個々に、ひとつづつ物語が用意されている。
だからアンも自身が歩く未来へ向かう。より良い明日であるように願い、そのための努力を惜しまず生きようと思える。
吹き抜ける風がふわりと髪を撫でた。
アンはかき乱される髪に笑みを浮かべる。
世界は広い。この手でなければ掴めない、何か、もあるだろう。
アンが本当に知りたいことに関しては、世界は全てを語らない。まるで自らの足で探しだし、その目で確かめろと囁いているようにも思える。
本の作者が読者に向けて放つ問いかけといっしょだ。
例えばAという主人公がいる。Bという親友がいる。Cというヒロインがいる。
物語的にはAとCがくっつき、Bという親友がAとCを応援する立場をとる文面で進んだとしても、読者の中にはAにはCなど似合わない。Dというキャラのほうがいい。またAとBがそのまま(友情的なもので)くっつくといいよ。などもありえる。
物語の指針は作者にあり、読み手はそれを追う立場にある。
こういう展開だったら。もし間に合っていたならどうなっていただろう。
先を読んで想像するのは楽しい。楽しいが、それは物語であるからだ。
現実問題、自分が辿るであろう数時間先を想像すればするほど、どんよりと重苦しい気持ちが満ちてくる。
「……ヒント、あればなあ」
夢に出てくる父は何でも知っていた。
だがそれをアンに教えてくれることはない。
煽ってくるだけだ。
そんなことも分からないのか、と。
あの日の夢は今でも明確に思い出せる。
夢は人間の深層心理を色濃く映すというが、これらは絶対に違う、と言い切れた。
なぜなら父が登場する夢は数多くみてきたが、今回は特に酷かったからだ。
人の夢の中に出てくるのは良しとしよう。父に会うのは嫌いではない。だが不遜な態度で特徴的なひげをつまみながら、早く来い、とせかしてくるのはやめて欲しい。目的地も告げず、どこに来いというのだ。
全く何様なのか。父親だと返されるとぐうの音も出ないが、手が出てしまいそうになる。拳を必死に押しとどめていれば、しまいにいつ持ったのか、「こういう岩礁があるところは面白いんだよ」などと笑いながら手にした枝で地図を描き始めもした。
「いったいそこが、どこであるか説明してからにしろ!」
ちゃぶ台があればひっくり返していたに違いない。夢の中でまで叫ぶのは疲れる。目覚めも最悪だ。
この人物を船長とし、成り立っていた船を仕切っていた人物は相当の切れ者だったのだろう。
そうでなければ、付き合えるのは娘であるアンくらいなものだろう。
「17歳まで待ってて。ちゃんと役目は、果たすから」
17を迎えるその日、きっとエースはアンの助力が無くとも身一つで海原へ漕ぎ出すだろう。
あの日誓った約束を胸に、海へと出る。鞄はひとつで十分だ。たくさんの感情とに目的を詰めて進めば怖いものなどないだろう。
今は旅立つための鞄を作る大切な刻だ。材料の吟味はしてもきりが無いだろう。
慌てなくてもいい。
きっとまだ間に合う。まだ猶予は十分とある。
本当に時間がないのであれば、もっと騒がしく、伝えようとする意思があるはずだ。
「それまでは力を蓄えなきゃ」
暮れなずむ夕日が鮮やかな暖色を残す空へ向かい、手のひらを伸ばした。
こんな所で迷ってなどいられない。
目指していた本屋はもう、目の前だ。